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平成年25年月5月1日更新
 平成25年の記録

1 第186回春例会 平成25年4月21日(日) 松山市道後公園内 市立子規記念博物館会議室に於いて
第186回(春)例会が開催された。総会に引き続き下記の講演があった。

『若者は漱石から何を学んでいるか』 
       愛光高等学校 和田隆一氏
 
一 初めに
 長年、中学・高校の現場にいて感じているのは、「漱石」ほど若者たちがその成長と共に作品を順番に読むことができる作家はいないということです。全集にまとめられた分量で言うなら、漱石以上の作家はたくさんいますが、中高校生たちが学年が進むにつれて、その作品を成立年代順に読破していくことができるという点では、他に類を見ない作家です。
 愛光学園の生徒を例にとるなら、入学前の小学校高学年段階から中学二年生まででだいたい『坊っちゃん』『吾輩は猫である』(これは読了ではなく一部分ですが)に出会っている、中学三年から高校一年生くらいで『夢十夜』を学習、それと関連して『現代日本の開化』『三四郎』『それから』を授業で扱う、または読むように教員が勧める、そして高校二年生で教科書の定番教材となっている『こころ』を学習、そして仕上げは、将来、いつの日か『門』『明暗』を自分の問題として身につまされながら読む日が必ず来るから、その時には読書体験と現実との虚実皮膜を重ねて欲しいと言って卒業後の課題とする――これが我々、国語科の教員が十代の若者に期待する『漱石体験』の軌跡です。
二 『坊っちゃん』のおかしさの底には……
 文学作品としての評価は別にして、『坊っちゃん』くらい愛読されている作品はないと思います。その魅力はなんと言っても「文体」から来るものです。「それぞれの一文がきわめて短い。一文の構造も内容も単純で平易である。条件節があってもいずれも順接で、複雑な屈折はない。接続詞の使用も少ない。文末は『居る』『ある』『ない』『である』『だ』といったふうに断定的な言い切りで、歯切れがよい。」(相原和邦『漱石文学の研究』)という指摘はよく言われていることです。そのために中学生にとってはもっとも親しみやすい作品ということになります。
 まず子供たちは冒頭の「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている」に反応します。そして次から次と繰り出される「無鉄砲」な悪戯に驚嘆の声を上げますが、それは一人称的語りの文体のわかりやすさ故に、直接自分だけに語りかけられているような錯覚に陥るからでもあります。正確に言うと、知らず知らずのうちに「坊っちゃん」の「無鉄砲」を聞かされる「聞く人の立場に自分が置かれている」〈小森陽一〉ということです。この点について、授業では小森氏の論文(『構造としての語り』)を参考にしながら分析を試みます。
 @親類のものから西洋製のナイフを貰つて奇麗な刃を日に翳して、友達に見せて居たら、A一人が光る事は光るが切れさうもないと云つた。B切れぬ事があるか、何でも切つて見せると受け合つた。Cそんなら君の指を切つて見ろと注文したから、D何だ指くらい此の通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。E幸いナイフが小さいのと、親指の骨が硬かつたので、今だに親指は手に付いて居る。F然し傷痕は死ぬまで消えぬ。
 確かに我々大人は、小森氏が言われるように〈常識〉の側に立って、坊っちゃんがくり返す「無鉄砲」な言動を笑い飛ばします。が、子供の世界では@→A→Bまでのやりとりは当たり前のことなのです。問題はB→Cですが、そもそもCを要求すること自体が理不尽なことなのです。つまり、この手の要求は〈子供〉の世界ではよく起こることとして無視するのが常識的であるのに、言葉を額面通り受け取り、Dのようにそのまま実行してしまったことが異例なのです。要求した側は、唖然として、立ちすくんだに違いありません。言われた言葉を何のためらいもなく実行するというのは、たとえ子供の世界とはいえ、ルール破りのことですから。
 『坊っちゃん』を初めて読む中学生は、大人と子供の中間にいますから、Dを前にして、悲鳴を上げるべきか、笑っていいのかわからず、どっちつかずの状態に置かれるようです。Eを聞いてひとまず安堵しますが、最初に覚えた驚きは違和感として心の底に残っています。従ってFについても、坊っちゃんは、大人のように常識的立場に立って後悔しているに違いないと読むか、子どもの側に立って平然と答えていると考えるかは、中学生それぞれ精神年齢によって判断が分かれるところです。つまり、坊っちゃんの言動は、喩えを喩えとして受け取らず、言葉を額面通りの意味で受け取ってしまう〈子供っぽさ〉が露呈していることになります。『坊っちゃん』という作品の滑稽さの底には、実はこういう言葉の意味の周辺に張り付いているが、言語化されていない情緒を「常識的」にくみ取ることができない坊っちゃんの〈発達障害〉があることは注意しておかねばなりません。
 更に中学生の精神状態をかいま見ることができる次のような感想があります。
・まず赤シャツは数々の悪事をはたらいている大変な奸物だと坊っちゃんは言うが、本当にそうだろうか。赤シャツが仕掛け人だという証拠のある事件は全然ない。(もっとも証拠を残さないから奸物と言えるかものかもしれないが……)実は「赤シャツ」とは江戸っ子特有の早合点ばかりしている坊っちゃんの生んだ虚像ではないだろうか。(中一 W・K君)
 中学生が「赤シャツ」に興味を示すのは、「赤シャツ」こそ「坊っちゃん」を相対化する存在であり、一人称的語りの構造を根底から覆すことのできる視点を提供してくれるからでもあります。坊っちゃんの語りにつきあわされる中学生たちは、どこかで坊っちゃんに危うさを感じているのも確かです。この人の言っていることはどこまで正しいのであろうか、またどこまで本気で語っているのだろうかという相対的な視点を持ち始めることは、それだけ彼らが大人になりかかっている証拠でもあるのです。
三 十五歳の心を騒がせる『夢十夜』
 『夢十夜』は高校用の教科書教材として割合多く採用されていますが、本校では先取りして中学三年で学習するのが通例です。また「十夜」と言っても、どの教科書でも共通して採られているのは「第一夜」「第六夜」だけで、つけ加えられるにしてもせいぜい「第四夜」「第七夜」くらいで、全体を通して読むことはまずありません。従って『夢十夜』の教材化と言っても「第一夜」「第四夜」のような〈幻想系〉と「第六夜」「第七夜」のような「反近代」の〈思想系〉の二つに分けて授業は進められます。
 前者〈幻想系〉の代表として採録されている「第一夜」ですが、これは、正直言って授業者泣かせの教材です。教案を作る段階で、何をどう作っていけば授業が立体的に構築されるのか、全く足場が見つからないのです。「もう死にます」を繰り返す女に対して、「死にさうには見えない」「確かに是は死ぬな」「どうしても死ぬのかな」と外側から刻々と変化する女の状態を冷静に眺めている男、しかしこの男、「百年」待つように女から哀願されたという点では、「女」から選ばれた相手であることはまちがいないと思うのですが、何とも当事者意識が稀薄なのです。「女」の化身と思われる百合に接吻をするところで大団円を迎えるのですが、男のつぶやきは「百年はもう来てゐたんだな」であって、失った恋人への哀悼の思いや再生の喜びなどはみじんも表現されていません。
 これについて中学三年生は、初読の感想の中で次のようなことを書きます。
・男が腕組みをしているのが気になる。何か考え込んでいるように思える。それは女についてではないと思う。もっと違う何かについて、男はずっと意識がいっているように思う。(中三 Y・Aさん)
 初読とはいえ、中学生たちはこの話を「死んでいく女」と「残された男」の〈悲恋〉というような単純なものとは考えていないのがわかります。しかし、ではその底に何が潜んでいるのかということになると、何時間、授業をしても何も見えては来ないのです。困った授業者は、「第一夜」の前には『虞美人草』『坑夫』、後には『それから』が置かれていると言うことを逃げ口上とするしかないのです。つまりここには漱石が作品化する以前の種子の数々、原石がちりばめられていると言って締めくくるのです。漱石自身が『作品』として表現する以前の状態が「夢」という形で提示されたものと考えればよいのではと言うことで、中学生は、次の段階に進んでいきます。
 それに対して「反近代」をテーマとする〈思想系〉の代表が「第六夜」「第七夜」ですが、こちらも他の作品への序奏と位置づける点では〈幻想系〉と同様ですが、こちらは日本の近代化自体が内包している歪みというテーマの体現化されたものと考えます。その延長上に『現代日本の開化』『三四郎』『道草』などを想定し、引いては漱石の思想の根底に流れているものとの関連を指摘することになります。例えば「遂に明治の木には到底仁王は埋まつてゐないものだと悟つた。それで運慶が今日まで生きてゐる理由もほゞわかつた」という「第六夜」の終わり方については、「明治という時代を漱石の言う『開化』の矛盾と皮相を諷して、その寓意は明らかである」(佐藤泰正『文学そのうちなる神』)という読み方を提示します。漱石自身が生きていく上でどうしても抱え込まざるを得なかった、「涙をのんで上滑りに滑っていかなければならない」(現代日本の開化)近代人の苦痛、それはロンドンへの留学体験によって意識上で顕在化されてきたものであり、その留学体験をもとに描いた「第七夜」は「無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちていつた」と結ばれているのですから悲惨なものです。「開化」を謳歌する人々の中にあって、漱石一人が目覚めている苦悩、それは言い換えれば日本の近代化に対する批判ということになります。
四 『こころ』から学ぶ感情と行動の関係
 高校用の国語の教科書には定番教材と言われて久しい『羅生門』(芥川龍之介)・『山月記』(中島敦)・『こころ』(夏目漱石)・『舞姫』(森鴎外)と繋がっていく近代文学の流れがありますが、中でも『こころ』は他を圧して教科書採用率が高く、ここ何十年にも渡って『こころ』を学習しない高校生は日本には存在しないと言ってもよい状態が続いています。これらの定番教材に共通しているのは、主人公が他者と関わることで自己を発見していく(または自己を喪失していく)お話であると言えるかと思います。そのためか、高校生はこれらの作品の読解として、主人公と相手との関係性のみに注目してしまいがちなのですが、そんな中で社会学者、作田啓一の指摘は、高校の現場にいる者に衝撃を与えました。
 「先生」のお嬢さんに対する独占の情熱は、Kがライヴァルとしてあらわれたから燃え上がったのです。「先生」は内的媒介者であるKのお嬢さんに対する欲望を模倣したのです。この内的媒介者がいなくなれば、「先生」の情熱が鎮静するのは当然の成り行きでした。(『個人主義の運命』)
 先生がKを下宿に招きさえしなければ悲劇は起こらず、先生と奥さんは幸せな結婚生活を送っていたはずだというふうに『こころ』を読んでいた高校生に、作田氏は逆の解釈をしてみせたのです。「Kがいなければ悲劇どころか、先生の恋すら始まりはしなかったのだと……。」恋は純白の無垢なる心から生まれてくる欲動ではなく、他者への模倣というねじ曲げられた行為から生まれる感情だという指摘は、高校生にコペルニクス的転回とも言うべき刺激的な読み方を提示しました。
 言いかえれば、感情によって行為が促されるのではなく、行為することによって後から感情が生まれてくるという指摘は、『こころ』以外の他の定番教材とも通底しているのです。飢餓状態に追いつめられた若者が、たじろぐことなく残酷な行為をする老婆に出会うことで〈強盗〉に変貌していく『羅生門』、外見は虎になってしまった男が内面まで次第に虎になりつつある、その焦燥の中で、かつての旧友に過去を語ることで自己を分析していく『山月記』、恋人を見捨てて故国へ逃げかえる留学生が明日は故国に入るというその地点で、己の弱い心と向き合うことになる『舞姫』――このように大胆に括ってしまうと、四つの作品がなぜ高校の現場で支持されているかがわかってきます。、事を起こしてしまった後で、その罪の重さに苦しむというテーマは、これから若者たちの人生で起こるであろう未来を先取りして、彼らにシュミレーションしてみせていることになるのです。
 かって『舞姫』を教室で取り上げるとき、必ず使われたキーワード「近代的自我」は、今や死語として見向きもされませんが、その言葉が指示しているのは、現代では行為の後から後悔と共に心の中から湧いてくる感情であり、挫折、悔しさという形で現代の若者の共感を得るのです。漱石の作品は、その間の事情をくり返し巻き返し、「三角関係」をめぐる互いの感情のズレとして描いています。『三四郎』では三四郎を翻弄してきた罪に戦きながらも行為だけが先走ってしまった美禰子、『それから』では友情という倫理に惑わされながら最後は友だちの妻を奪うという不義で決着を付けてしまう代助というように、その後の『漱石』作品はどこを切っても必ずこの図式で解釈できるのです。十代後半の若者は、これから自分の人生で体験するであろう現実を前もって作品を通して見せられることで心の準備をするのです。小説を読むという体験は、将来体験することの先取りと言われますが、『漱石』体験はまさに文字通り未来の先取りなのです。
五 最後に
 若者にとっての「漱石体験」を、最初は「言葉」との出会い、次は社会との関わり、最後は自己の内なる感情への恐れとでも総括すると、ここには次第に精神的に成長をしていく若者の成熟過程と軌を一にしているのがわかります。ではどうして近代文学者の中で、漱石作品だけがこのように若者に影響を与えられたのかということですが、それに対する解答は次のように言えるかと思います。
 彼が作家として活動を始めたのが明治も三十年代の後半に入ってからであること、つまり「近代文学」の成熟過程が即、漱石の執筆活動と重なると言うことです。それは「言文一致体」の模索の時期を終えて、その延長上で新しい「文体」の確立の時期に入っていたこと、留学という体験による西洋文学との出会いによって「小説」というジャンルの可能性を彼自身がよく知っていたことなどが考えられますが、何と言っても決定的な要因は、彼が旧制中学や旧制高等学校の教壇に立った経験があったことだと思います。それは彼が読者をイメージするとき、必ずその視野の中に「若者たち」が見えていたのであろうということです。教壇を降りて職業作家になってからは、「新聞連載」という形をとりますが、その時にも漱石山房には作家になる以前の「若者たち」が彼の周りに集まっていたことを考えれば更に納得がいく話です。漱石の時代から百年以上が過ぎた平成の時代にあっても、若者たちは尻ポケットに漱石の文庫本をさりげなくしのばせています。
 
            




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187回
夏例会

平成25年7月21日()第187回(夏)例会 子規記念博物館会議室 13時30分〜16時

俳人漱石と明治時代の「蕪村調」について 
                   愛媛大学教育学部准教授 青木亮人氏

  はじめに
 これから記すのは学術論文の体裁である。文体、展開、いずれもエッセイと異なることを諒とされたい。
 小説家になる以前、夏目漱石は俳人であった。特に教鞭を取った松山、熊本時代は俳句に熱中している。従来、「俳人漱石」は小説家漱石の余技として注目された。かたや漱石を歴とした俳人と見なす論者もいる。正岡子規が彼を賞賛したためである。
 明治三十年前後、子規は俳句革新を行っていた(とされる)。それは次のように説明される。当時の俳壇は「旧派」が「月並」を詠み続けたが、子規達は「写生」を唱え、埋もれた蕪村を称賛することで「旧派」打倒を目指した。子規達は蕪村を「写生」の先達とし、蕪村句を「新派=写生」としたという。つまり、子規は「写生+蕪村発見=反「旧派」→俳句革新」を推進した近代俳句の創始者というのである。
 漱石に戻ると、明治三十年前後の「俳人漱石」は子規の影響を受け、しかも子規に俳句革新の担い手と評された俳人であったでは、漱石は「写生+蕪村=反「旧派」」を体現したのだろうか。本稿では子規達の蕪村発見を再検討し、併せて「俳人漱石」の可能性を見てみよう。

1 漱石と蕪村

 まず、漱石句における蕪村句の影響は次の通りである。
   寂として縁に鋏と牡丹哉     漱 石 (明治三一)
蕪村句の「寂として客の絶間の牡丹哉」「牡丹剪つて気の衰えし夕哉」を借りた句である。次は『草枕』の一節である。 しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。午に逼る太陽は、まともに暖かい光線を、山一面にあびせて、眼に余る蜜柑の葉は、葉裏まで、蒸し返されて耀やいている
 「余」と「女」の前に広がる景色(傍線部)を、漱石は「三井寺や日は午にせまる若楓」(『蕪村句集』)を換骨奪胎して描いた。これらから、漱石は蕪村句に「写生」を学んだかに見える。同時に、「俳人漱石」には「写生」らしからぬ句が多い。
 木瓜咲くや漱石拙を守るべく
  (明治三一)
 大手より源氏寄せたり青嵐
    (明治三一)
 これらは「蕪村受容=写生」と異質に感じられるため、従来の研究では漱石独特の魅力と見なされる傾向にあった。しかし、「俳人漱石」をそのように評する前に、まず通説自体を検討してみよう。
  2 明治俳句界の蕪村発見、その特徴
 漱石から離れ、当時の蕪村発見の経緯を概観することにする。従来、子規達は明治二六年頃に誰よりも早く蕪村句の価値を発見したとされる。しかし、蕪村を知る俳人は子規以前にも存在した。たとえば、三森幹雄という当時の有名宗匠は明治二三年に蕪村を称賛している。幹雄以外にも「旧派」俳書・俳誌類には蕪村言及記事が散見され、蕪村は子規以前に知られたことがうかがえる。次の作品も一例といえよう。
   木枯や鐘を離れし鐘のこゑ     雪 蓬 (明治二四)
   ※涼しさや鐘をはなるゝかねの声(蕪村)
 このように蕪村は子規以前に知られており、それも「写生」と異なる価値観で受容されていた。従って、子規達が最初の蕪村発見者という通説は誤謬であり、発見は「旧派」の方が早い。
 しかし、重要なのは「旧派」と子規達はいかに蕪村を受容したか、その内実の吟味にあろう。「俳人漱石」に戻ると、通説では彼は「写生=蕪村発見」に留まらない俳人とされたが、そもそも子規達は蕪村句から「写生」以外の着想も得ていたと推定される。漱石の蕪村摂取を考察する前に、「写生=蕪村発見」という通説も再検討してみよう。

  3 子規派の「蕪村調」
 子規達の蕪村受容を知るには、彼らの同時代評を見ると分かりやすい。
 正岡子規が(略)「蕪村調」なりとの品定は、万口一斉に出しところなりき。(略)賞美の意あり、嘲弄の意あり
岡野知十、明治二八子規派は「蕪村調」と評され、「嘲弄の意」も含まれたという。では、どの点が批判されたの か。
 @ 強て漢字を用ゐ、徒らに字数を長くするが如き、以て其如何に音調の奇を喜ぶかを知るべし。
  新酒のみて酔ふべく我に頭痛あり  虚 子  

 (略)既に俳句にあらずして、散文の一句たるなり。(無署名記事、明治二九

 この批評は虚子句を「蕪村調」と批判したわけではない。しかし、実際は子規派特有の「蕪村調」だったため「奇」と見なしたと推定される。この経緯を考察するため、虚子句と当時の一般的な「新酒」句を比較してみよう。次は「旧派」系の作品である。
  A誉ながらくつと飲ほす新酒哉      和 秀 (明治二五)
  B添へて来た手紙も匂ふ新酒哉     壽 登 (明治二九)
 「新酒」は新米の醸造酒で、一年の豊穣を祝う季語である。Aは「新酒」の出来栄えを「誉めながら」「飲ほす」という仕草で実りの秋を迎えた喜びを示し、Bは添状とともに届けてくれた「新酒」、そのかぐわしさは「手紙」にまで薫るというのである。
 一方、虚子句は「頭痛」を紛らわすため「新酒」を呷る(二日酔いの迎え酒にも解せる)という。ABの「新酒」観からすると不謹慎に近い内容で、また「酔ふべく」は「散文の一句」(@)に近い。一例のみ挙げたが、@の同時代評が「俳句にあらず」と判断したのは、評者がABの「旧派」的価値観を指針にしたためと推定される。
 当時の俳句観からすると、AB句がむしろ標準的で、虚子句の方が例外であった(詳細は省くが、明治三十年前後の俳句界は「旧派」宗匠の指導下で句作を嗜む俳人が大多数を占め、東京の子規達はごく少数だった可能性が高い)。
 ところで、同時代評で「奇を喜ぶ」とされたのは虚子句のみでなく、子規派全体に向けられた評でもあった。
 近年、蕪村を崇拝するもの二種あり。一はその句体の奇なるを愛で、自ら蕪門と唱へ、狂漢の囈言にひとしき句を吐くものとす。(『蕪村句文集』、明治二九、序文)

 これは名指しされていないが、子規派への批判と推定される。注目されるのは、「蕪村を崇拝」する子規派は「奇」を好むとされた点であろう。子規派は「写生=蕪村崇拝」のため批判されたのでなく、「奇=蕪村調」ゆえに難じられたのである。
 では、子規達の「奇=蕪村調」はどのような作品なのか。再び@の「新酒飲みて酔ふべく我に頭痛あり 虚子」に戻ろう。子規達は虚子以外にも「べく」を多用した作品を詠んでおり、それが「蕪村調」と目され、批判されたようである。   鮓の石狐の跡と判ずべく       碧梧桐  (明治二九)
   薄野や出づべくとして川に出でず   虚 子  (明治三十)

 このように子規達がなぜ「べく」を多用したかというと、蕪村句に「べく」が多く使われていたために他ならない。    梅遠近南すべく北すべく  (『蕪村句集』所収)
 待ちわびた梅の開花が近隣や遠方からも届き、そのため南と北のどちらの梅に行こうかと喜びの逡巡を示す句で、漢詩文を換骨奪胎した句である。
 この「べく」は、子規達が生きた明治三十年前後には俳句でまず使われない措辞だった(同時代「旧派」の俳書や俳誌に掲載された約二十万句を調べたが、見当たない)。それほど珍しい、しかも漢文調の耳障りな「べく」を多用した子規達の句は「奇」と批判されかねない作品だったのである。
 このように当時の「べく」の位相を踏まえると、子規派の「蕪村調」の内実がうかがえよう。「蕪村調」とは単に蕪村句に倣った作品ではなく、「旧派」系が使用しない措辞や趣向を蕪村句から取り出し、それを誇示した句群を指すのである。それは一般の句作感覚(つまり「旧派」)を無視することにもなり、そのため周囲は「奇=蕪村調」と批判したのだった。
 漱石句に戻ろう。従来、漱石は子規の「蕪村発見=写生」に収まらない資質を有し、そのため彼の蕪村受容は物語的、耽美的ロマンの雰囲気があると評された。しかし、そうなのだろうか。これまでの検討も踏まえつつ、「俳人漱石」の作品を考察してみよう。
  4 漱石の「蕪村調」
 たとえば、漱石の「べく」句は次の通りである。
  木瓜咲くや漱石拙を守るべく (1章掲出、明治三一) 
  憂あり新酒の酔に托すべく  (明治三二)
 ともに熊本時代の句で、「己の身の処し方生くべき方途をめぐって煩悶のうちにあった」(秋山公男、平成十九)と解されることが多い。しかし、ともに当時珍しい「べく」を使用し、また陶淵明の漢詩文を漂わせるなど、子規派としての漱石流「蕪村調」だったといえる。従来、これらの句は漱石の「煩悶」を吐露した句とのみ解されたが、当時の「旧派」系俳人たちが眉をしかめる種類の作風だったのである。
 この漱石句や先述の虚子句の「新酒」は、豊年の象徴と詠まれることが多かった(3章参照)。
  若うなるかほや新酒のゑひ心    臼 左 (明治二八)
 実りの秋を迎えた「新酒」を飲むと身も心も若返る、という右の「旧派」系作品に対し、虚子や漱石は「頭痛」(二日酔いか)を抑える迎え酒、また煩悶を紛らわせるために呷るという詠みぶりである。
 当時、俳句界の大部分を占めた「旧派」にとって、「新酒」は一身上の「憂・頭痛」を晴らす存在ではなかった。従って、虚子や漱石句は「旧派」から批判されかねない作品だったといえる。そして漱石達は、それゆえに「べく」句を詠んだのではないか。当時の句作基準だった「旧派」的からすると不粋に感じられる行いをあえて詠み、一般の「新酒」観を意に介さないことを興がるともに、さりげなく自身の感慨を吐露したのである。
 このように漱石の「べく」句は子規派に流行した「蕪村調」の一端であり、「旧派」と異なる作品でもあった。この点、次の句も漱石流「蕪村調」といえよう。
  大手より源氏寄せたり青嵐 (1章掲出、明治三一)
 軍記物語に世界を借りた句である。彼独特の「空想的なもの、小説的物語的なもの、そういったいわば創作的な主題」(村山古郷)とされ、子規達と異なる蕪村摂取例として挙げられるが、実際は子規達も多々詠んでいる。
  使者一騎大手はいるや春の風     子 規 (明治二九)
  五六騎のかくれし寺や棕櫚の花    虚 子 (明治二九)
 「騎・数字」を詠みこんだ戦場句である。句意はそれぞれ異なるが、彼らがいずれも「騎・数字」を使用したのは、「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分哉 蕪村」に憧れたためである。子規達はこの蕪村句の世界を詠みたいと願い、「騎・数字」の戦場句を詠んだと推定される。先の漱石句もこれら子規派に流行した軍記等の面影を思わせる作風であり、当時の「蕪村調」といえる句であった。
 漱石句や子規達の戦場句は、当時の「旧派」にほぼ存在しない種類の作風である。あえていえば、「遠騎のたてがみふくや春の風 青宜」(明治二七)等の例があるのみである。しかし、「遠騎(遠乗り)のたてがみ」を撫でる春風を詠んだこの句は平和時の「遠乗」であり、合戦場を駆ける馬ではない。この点、子規派の戦場句は「旧派」がまず詠まない趣向であり、批判されかねない作品であった。しかも漱石の「青嵐」句は彼独自の「創作的な主題」(村山古郷)というより、子規派全体に見られる「蕪村調」の一端であり、そして当時一般の俳句のあり方とおよそ異なる、「奇」(前掲@の同時代評)と批判されがちな作品である。またそれゆえに、当時俳句革新を進めていた正岡子規は、漱石句を「俳人漱石」として称賛したのではないか。

  おわりに
 「俳人漱石」の作品を後の小説家漱石から遡及的に見出した時、その作風は子規たちの「写生」に留まらない「小説的物語的なもの」(村山古郷評)が顕著にある、と評したくなる。しかし、それは当時の俳句界の句作感覚や子規派の間で流行した「蕪村調」――「写生」と異質の、むしろ「小説的物語的」と称すべき作風――を知らない現代人の感覚であり、当時の漱石は子規派の「蕪村調」に負うところ大だったのである。

 「俳人漱石」を評する際、従来は漱石や子規の同時代の感覚に照らし、彼らが何を感じながら句作をし、何をもって評価し、否定したかを踏まえつつ、当時の「俳人漱石」が論じられたことはなかった。漱石が生きた時代の感覚を抜きにして彼の句だけを取り出し、現在の価値観から見て魅力的か否かを語るのみで、同時代の句作基準だった「旧派」系の作品と比較した「俳人漱石」を分析する視点はなかった。特に俳句でいえば、子規が宗匠たちを「旧派」と否定したため、研究する価値がないと見なされてきた。しかし、子規や「俳人漱石」が当時新しかったとすれば、古いと批判された宗匠たちの膨大な句群と比較しなければ、当時の彼らが持ちえた新鮮さが見えないのではないか(もし真面目に研究するのであれば、という話だが)。 
 本稿で扱った「べく」句や「新酒」句は、現在では取るに足らない作品かもしれない。しかし、当時はそれらの句群が「蕪村調」だったのであり、またそこに松山・熊本時代の「俳人漱石」の可能性があったのではないか。

  

 平成24年の記録

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182回
春例会

第182回春の例会は4月22日(日)午後1時30分より松山市道後公園の子規記念博物館において開催された。
この日は定期総会で平成23年度行事報告、決算報告に続いて平成24年度予算案・行事予定案、50周年記念行事案などが審議され承認された。また50周年行事実施に伴う寄付お願いが会長からあった。またこの日は千葉県柏市在住の会員田辺安以子氏がはるばる初参加された。
講演―「道草」原稿のルビから―  漱石と漢字のヨミ   
                        
顧問 愛媛大学教育学部教授 佐藤栄作氏
はじめに
 漱石の原稿に書かれた漢字はどう読むべきか、漱石自身はどう読んでもらいたかったのか。このことに関わることがらとして、原稿に振られたルビ(振り仮名)に焦点を当てる。今回も、一七七回の例会で取り上げた「道草」(以下、作品名を「 」で、書名を『 』で示す)を中心に見ていく。
ルビとは ルビとは何か。日本語における漢字(漢字表記)は、複数の読みの可能性を持つものが大多数である。漢字が本来有していた中国語原音に基づく「音(オン)」も、日本語においては一つとは限らず、漢音、呉音、唐宋音など複数の「音」を持つ漢字も多い。その漢字に対応する和語が固定した「訓(クン)」も、中国語と日本語の対応が一対一ではないことから、ある漢字の「訓」が複数存在しても不思議はない。ルビの本来の機能とは、こうした漢字表記の読み=語形を一つに限定して示すことである。特別なケースとして、読みではなく、語義をルビによって示した例もあるが、ここでは言及しない。 ルビの機能が、仮名による漢字表記の読み=語形の表示であるとするなら、それは、当然、読み手への配慮であるはずである。書いている者は、その漢字表記をどう読むのかはわかっているのだから、ルビは、書き手の読み手への配慮である。より詳しくいうなら、書き手が読み手に読んでほしい読み=語形が、書き手の期待したとおりに読まれない可能性がある場合、その齟齬が生じることを回避するために、書き手が前もって読んでほしい読み=語形を明らかにしておくのがルビである。ところが、漱石に限ってのことではないが、漱石の作品の多くは、この当たり前のことがそのようになっていない状況があったと思われる。まず、この点を確認しておく必要がある。作品が発表される場によって事情が異なるのである。
ルビを振るのは誰か 「吾輩は猫である」、「坊っちやん」の場合、初出の雑誌『ホトヽギス』はパラルビである。パラルビというのは、必要な語だけにルビを振る方式のことで、先述したことからすれば、これが本来のルビのあり方だといえる。たとえば「坊っちやん」の場合、初出の本文には、ルビがかなり少ない。漱石が必要だと感じた箇所は多くなかったとわかる。しかし、そのために、たとえば相当数使用されている「居る」一つとっても、それが「ゐる」なのか「をる」なのか確定できない。「温泉」に「ゆ」とルビが振られた箇所があるが、「温泉」はすべて「ゆ」なのか、「ゆ」と振られた箇所のみ「ゆ」で、他は「おんせん」と読むのか。「報知」は「ほうち」か「しらせ」か、「資本」は「しほん」か「もとで」か。こういう例を挙げたら切りがない。どちらの読みでも、意味は通じる。何が書かれているかはわかるから、それで大きな問題にはならないが、書き手がルビが必要だと感じる語と、読み手がルビを振ってほしいと思う語とは一致しないだろうし、読み手が必要だと感じていない語でも、書き手が読んでほしい語形と異なっているケースが相当あると予想できる。その相違・齟齬が重大であるかどうかは、いろいろだろうが。
 このような事情は、小説に限ることではない。こうしたことを未然に防ぐ手段として、すべての漢字にルビを振ってしまうというやり方がある。これを「総ルビ」と称する。公刊されたもの(文章)は、多くの人の目に触れる。一般市民・大衆に広く読んでもらおうとするなら、様々な国語力・漢字力の人々がいることを見越してすべてにルビを振っておく「総ルビ」という方式は有効なものだといえる。現在のような公的文書における漢字制限(読みの制限)が実行されていない明治には必要なあり方だともいえよう。と同時に、江戸後期の滑稽本など庶民の読み物は、ほぼ総ルビであったという前例もある。
 漱石の場合、『ホトヽギス』はパラルビであったが、「草枕」を発表した『新小説』は総ルビだった。「草枕」の自筆原稿を見ると、漢字のほとんどにルビが振られているが、よく見ると漱石の手ではないことがわかる。出版した春陽堂の方で印刷所に出すときに振ったと考えられる。自筆原稿のごく一部しか見られていないのではっきりしたことは言えないが、漱石自身が原稿に振ったルビは、時期的にも、「坊っちやん」同様、そう大した数ではなかったと思われる。ここまでで言えることは、文学作品のルビは、そのすべてを書き手が振ったものではないということである。しかし、そうなると、先のルビの機能の定義も変更しなくてはならない。「書き手(作者)の読み手(読者)への配慮」では不十分であり、それに加え、「出版社等の読者への配慮」が加わる。
 「坊っちやん」と「草枕」とは、「野分」と合わせて単行本『鶉籠』として出版される(春陽堂)が、その際ルビはどうなっているのかというと、『鶉籠』はパラルビである。『鶉籠』の「坊っちやん」のルビは、ほぼ初出と同じ(一部、異同あり)で、「草枕」は、初出の総ルビからルビがかなりカットされている。後者については、漱石が必要と考えたものだけになったともいえるが、その作業の詳細が記録されていないので、断定はできない。
 「道草」の場合はどうか。実は、「道草」に限らず、当時、朝日新聞は、東京も大阪も総ルビを採用している。「虞美人草」に始まる朝日新聞に書いた漱石の作品もすべて総ルビによって世に出ているのである。ならば、事情は「草枕」と同じということになる―原稿に漱石が少しルビを振り、朝日新聞がルビを加えて総ルビにして刊行する―。ところが、残された自筆原稿を見ると、「草枕」と「道草」とでは少し様子が違っている。「道草」の前作の「心 先生の遺書」もそうなのだが、原稿に振られたルビの数が、「坊っちやん」「草枕」に比べ、「心」「道草」は各段に多い。自筆原稿をたどると、朝日新聞に書くようになってから、ルビが徐々に増えているようである(田島優二〇〇九『漱石と近代日本語』翰林書房参照)。「道草」の場合、ルビの振られた漢字の割合(「施ルビ率」と呼ぶことにする)は、四割程度あるのでは。つまり、同じ総ルビで世に出る作品ではあるが、「草枕」(初出)の場合は、ルビの大半が漱石の振ったものではなかったが、「道草」では、かなりの分量、漱石自身がルビを振っているのである。「道草」など後期の作品は、漱石自身のルビに朝日新聞のルビが加わって、総ルビのかたちで世に出たという言い方がぴったりくる。
誰のために振ったルビなのか 一つ確認しておくと、総ルビという方式は、すべての漢字にルビが振られるのではなく、漢数字(数量を表す漢字)には、原則としてルビがない。朝日新聞の総ルビはそのような方式である。改めて「道草」のルビについてまとめると、次のようになろう。これは、朝日新聞で発表された漱石の後期の小説についてはほぼ同じである。まず、漱石は「道草」の原稿を執筆する。その際、必要だと思われる漢字表記に自らルビを振る。その原稿は、朝日新聞に送られ、総ルビという方式に従って、ルビが加えられる。問題は、この漱石が自ら振ったルビが、誰のために振ったルビかという点である。 パラルビの『ホトヽギス』に書いた「坊っちやん」の場合、漱石が必要だと思って箇所にのみルビを振った。あるいは、必要箇所のすべてに振っていなかったかもしれないほど少数の施ルビ率である。それに対して、朝日新聞に書いた後期の作品は、施ルビ率が高くなっている。これは、漱石がルビが必要だと感じた箇所が格段に多かったということなのだろうか。必要だとの基準が、初期と後期とで、変わってしまったということだろうか。田島二〇〇九も指摘するように、この施ルビ率の変化(増加)は、総ルビという方式への対応、さらにいえば対策だといえるのではないか。総ルビというあり方は、誰が読んでも一通りにしか読まれない漢字表記にまでルビを振る。選択の余地はなく、読みの難易度の問題ではない。漢数字以外はすべて振られるのである。つまり、書き手がルビなど不要だと思う箇所にも機械的に振られるのである。ABどちらで読んでも意味は通るというような場合、ルビ無しなら、ルビがないため書き手と読み手とが異なる語形であったとしても、何事もなく過ぎてしまう。ところが、すべてにルビが振られるとなると、書き手としては、自分の思ってとおりに出版社等がルビを振ってくれていないなら、それは許せないだろう。読者が内心において違った読みをすることは、作者にまでは届かない。しかし、作品が初めて世に出る際に、作者本人の想定している読みとすでに異なる読みを指定するルビが振られてしまっているのだから。まだ作者の側であるはずの初出の段階で、自らの読みと違っているのでは話にならない。漱石は、そうしたことを、朝日入社以前から経験しており、朝日入社以降は、新聞で自らの作品を読む度に、繰り返し感じてきた(後掲するが、ルビの誤植はかなり多い)。そうしたことが、漱石の施ルビ率を高くしたと考えて間違いないだろう。つまり、漱石が原稿に書いたルビは、一部は、読み手(新聞を購入する一般市民)への配慮であるが、多くは、総ルビを採用し、原稿を総ルビにして世に出す朝日新聞に対して振ったもの、朝日新聞の文選工(活字を選ぶ者)、植字工(活字を組む者)へのルビなのである。もちろん、その担当者も「読み手」であることには違いないが。
漱石作品の誤植とルビ
 誤植とは、活字を用いて印刷物を作製する際に生じる活字を組む際のミスを言う。文選と植字とは一連の流れの中での作業ではあるが、厳密には別の行為である。つまり、文選のミスと、植字のミスとがあるはずである。しかし、我々は合わせて誤植と呼んでいる。一般には、活字の選択ミスが原因であると考えられている。誤植は、本文にも、ルビにも生じる。総ルビの場合、ルビの数の多さとルビ用の文字の小ささから、かなり高い確率でミスが生じてしまうように思われる。実際には、文選工・植字工の熟練の度合で決まるはすであるが。誤植を含めミスという視点で、漱石のルビを再度見直すと、まず、「漱石自身がルビを振った漢字」と「漱石自身がルビを振っていない漢字」とがあり、前者は、いわゆる「一般読者のためのルビ」と「活字を組むためのルビ」とに分かれる。後者の中には、「漱石自身のルビの振り忘れ」も含まれるだろう。これがそのまま新聞の紙面の「道草」になるかというとそうではなく、そこに誤植が入り込む。漱石の振ったルビと異なるルビになってしまったものである。また、漱石が振らなかった漢字に朝日新聞が振ったルビの中に、漱石が想定している読みと異なるものが出現する。そこには、担当者が正しいと思って振ったものもあれば、うっかり振り間違えたものもあろう。総ルビでは原則漢数字にルビを振らないことから、漱石が漢数字に振ったルビが、朝日新聞では消えているケースもある。具体的にどのようなものがあるか、「道草」の前の作品である「心 先生の遺書」の例を挙げる。
 @原稿のルビと朝日新聞のルビとが異なる場合(朝日新聞は東京版、□は本文漢字でルビなし。以下も同じ)
 各語彙について、前部は原稿ルビ 後部は新聞ルビ  いろ しき 日数 ひかず  びかぞ  かず  かぞ 己惚れ おのぼれ うぬぼ 
 手数
 □かず  てかぞ 落した おと  おち 御為 おし みし 何んな ど か 二人 ふたり ふたにん を はなし はな 
  あな けつ ない ちがひ たがひ  さい つま
 A原稿ルビ無し、新聞のルビが間違っている場合
 本文語彙  前部原稿ルビ 後部新聞ルビ 二軒 □□ のき した □ で 
 先生 □□ さきせい
 苦笑 □□ くるせう 菓子 □□ くわこ  臆劫 □□  おくこふ 御蔭 □□ ごかげ 明治 □□  あかぢ
 す □ で いた □  とゞけ  めて □  きめ  じ □  どう 養家 □□  やうや

 どうしてこのような誤りが生じるのか。それは、一に文選工・植字工の未熟さ・不注意によるといえるが、それにしても大きなミス・考えられない誤植が存在する。それはどうしてか。実は、明治四〇年ごろから、新聞では、漢字とルビとが一体となった「ルビ付き活字」が使用されるようになり、朝日新聞も使っていることがわかっている。つまり、明らかなルビの誤りの多くは、ルビ付き活字を選ぶ際に、当該箇所にふさわしくないルビの付いた活字の方を選んで組んでしまったことによる。「かず」とルビがあるべき「数」に「かぞ」とあるのは、動詞「数える」に用いる「かぞ」とルビの付いた活字を用いてしまったのである。誤読しようのない誤りは、ルビ付き活字の選択ミスから生じている。ルビ付き活字にももちろんプラス面がある。漱石は次のように書いている。「朝日新聞には仮名つきの活字あり音と訓と間違て振つてなければ悉く正しきものと御思ひ凡て切抜原稿の通に願候」(明治四五年七月二六日、岡田耕三宛書簡、『彼岸過迄』の単行本のための校正に際して)実際には、複数の音・訓が存在する場合も多いことから、ここでの書きぶりは楽観的すぎるが、仮名遣いの煩わしさから解放される点については、他の書簡でも触れている。漱石は、仮名遣いは語形であると考えていなかったことがわかる。大正三年四月二九日の志賀直哉宛書簡には、次のようにある。
「(略)漢字のかなは訓読音読どちらにしていゝか他のものに分らない事が多いからつけて下さい夫でないと却つてあなたの神経にさわる事が出来ます尤も社にはルビ付の活字があるからワウオフだとか普通の人に区別の出来にくいものはいゝ加減につけて置くと活版が天然に直してくれます」
 これらから、漱石自らが振ったルビと新聞のルビとが違っていても、それが仮名遣いに関わるものなら、誤植とはとらえなかったとわかる。むしろ正してくれたと喜んだに違いない。しかし、語形の違い、語の違いについては、当然のことながら、そうはいかない。
 なぜ、「道草」を対象とするといいながら、具体例として、前作「心」の誤植を挙げたのかというと、漱石が「道草」を書く際に、どのようなミスを経験してきたかについて、不十分ながら追体験しておきたかったからである。先に掲げたようなルビの誤りを犯されつつ、それでも、朝日新聞に書く限りは、総ルビという方式に従わざるを得ない。繰り返すが、漱石は、朝日新聞に書き始めたころから、そうしたミスを繰り返されながら、執筆してきたのである。そういう経験が、漱石の施ルビ率を向上させてきたのである。
 しかし、だからといって、原稿執筆の際に、すべての漢字にルビを振るということができるだろうか。漱石は、それはしていない。すべての漢字に一々ルビを振りながら書くことは、書くリズムを崩してしまうからではあるまいか。誤読は回避したい。加えて、ルビ付き活字の選択ミスも減らしたい。そのためには、注意喚起のためにも、やはりルビを振っておいた方がベターだろう。しかし、振るにも限界がある。また、すべてに振ったとしても、誤植は皆無にはならないだろう。そうした積み重ねというか、あるいはバランスというべきか、何年も朝日新聞に執筆していく中で四割程度の施ルビ率にたどり着いたのだろう。
 「道草」のルビの実際
 「道草』の自筆原稿(書き潰し原稿も含む)のルビの実際を確認してみたい。以下は、「道草」冒頭部(第一回)のルビの実態(すべてではなく抄出)である。(改行部分を括弧で示した。※は濁点、反濁点が確認しづらいもの)
本文語彙 前部は原稿ルビ  後部は新聞ルビ 世帯  しよたい  しよたい 何年目 なんねん」□ なんねんめ 故郷  こ□  こきやう
淋し味 □ み  さび み 身体  からだ  からだ 一日  いちにち  □にち  つた も  も 裏門  うらもの うらもん
先方  □ぽう  せんはう※ 真正面 ませうめん ましやうめん 一度も  いちど  □ど 山高帽 やまたか□ やまたかばう
服装  なり  なり 洋傘  かふもり  かふもり 無事 ぶじ  ぶじ 何人 □ぴと  なんひと※ んでも よ  よ
媒介  なかだち  なかだち 書棚  □だな  しよだな 仕事 □ごと  しこと※   あらの  あらの 仕方 しかた  しかた
手前 てまへ  てまへ 年中  ねんぢう  ねんぢう 見出した みいだ  みいだ 無花果 □□□  いちじく 矢つ張り □ ぱ  やつぱ(本文「つ」無) 十一 とう □□ とう □□ 掛物  □もの  かけもの 姉弟  きやうだい  きやうだい 今夜中 □□ぢう  こんやぢう
釜 かま  かま 御屋敷 □□」しき  やしき(「お」仮名) 座敷  □」しき  ざしき 石燈籠 □□ろう  いしだうろう 
薬王寺 やかう」□ やかうじ 用事  □じ  ようじ
 「世帯」を「しょたい」と読んでもらうためには、ルビが必要だろう。「服装(なり)」(「坊っちやん」でもルビあり)、「洋傘(かふもり)」「媒介(なかだち)」などもその類だろう。しかし、他に読みようのないものにも漱石自身がルビを振っているケースがある。詳細については別稿に譲るが、書き潰し原稿との比較によって、同じ箇所のルビが、振ったり振らなかったりして揺れている場合もある。そうしたルビは、気紛れというか、その時の気分で振ったものだろう。注目されるのは、一語全体ではなく一部分にだけルビを振っている「部分ルビ」の存在である。。朝日新聞の方は、当然、部分ルビは漢数字を含む語に限られる(漢数字には、ルビ付き活字がなかった)。漱石の部分ルビはどうして生じたのだろう。
 例えば、「□ぽう」「□ぴと」「□だな」「□ごと」などは、いわゆる連濁によって生じた濁音、半濁音についての注意喚起であろう。濁点、半濁点のないルビ付き活字が、多く準備されているはずだから。
 このように、漱石には、活字を取り間違えられないようにという配慮、すなわち総ルビ対策、ルビ付き活字対策が見て取れるが、そうした理屈ですべてのルビの状況を説明し尽くすことは難しい。なぜ「淋し」「無花果」にはルビがないのか、「読んでも」には「よ」とあるのに。

まとめにかえて
 今回のテーマを考えるため、東京飯田橋の印刷博物館を訪ねた。そこで実際にルビ付き活字を組んだ経験のある方にお話しをうかがうことができた。文選は、一人に畳何畳分にもなる活字の壁のようなものから、活字を抜き取っていく作業である。天井まで届くような本棚六〜七つに活字がびっしり並んでいるといったら想像できるだろう。かなり熟練していないと、限られた時間内で終わる仕事ではない。ルビを確認しながら選ぶ、準備していない読みの場合は、ルビ部分を別に組んで、漢字と合わせる。そうした熟練した文選工、植字工が行ったはずなのに、朝日新聞の誤植の質・量はお粗末だ。よほど短時間で行っていたか、政治面や社会面と、小説の漢字の読みが違っていて戸惑ったか。総ルビで出された漱石全集があるが、そのルビは、そしてその体裁は、果たして漱石の思い通りになっているのだろうか。
朝日新聞は以下によった。山下浩監修1999『漱石新聞小説復刻全集8 先生の遺書「こゝろ」原題』、『漱石新聞小説復刻全集9 道草』
・参考文献 林原耕三一九七四『漱石山房回顧・その他』桜楓社 佐藤栄作二〇〇七「『道草』の書き潰し原稿と最終原稿の文字・表記」『国語文字史の研究十』和泉書院 佐藤栄作二〇一一「漱石自筆原稿のルビ再考―『道草』のルビから―」『論集Z』



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183回
夏例会

平成24年7月29日()第183回例会 子規記念博物館会議室 13時30分〜16時  

  講演  漱石が愛した落語家          会員 光石連太郎 悦子夫妻

今日は、漱石を含めた明治の文豪・作家が落語から影響を受けていた、という観点から、はずすことのできない落語家、三遊亭円朝という人を中心に、当時の最新の技術である速記などを含めて、その後漱石が言及した二人の落語家、初代三遊亭円遊と三代目柳家小さんを取り上げます。
 夏目漱石「三四郎」は落語家やファンにとって、大変大きな意味を持つものです。同じ伝統芸能の中でも歌舞伎、文楽、能、狂言、また文芸、絵画、音楽などの表現芸能は格調高いもので、落語は一段低く見られている、と、これは落語ファンにとって一種のコンプレックスです。この漱石の文は、落語家やファンが「どうだ、あの日本一の文豪、漱石も落語ファンだったのだ」と、自慢、から威張りができる文。しかも漱石は、ただ「落語ファン」というだけでなく、落語の芸風を見事に描写しています。現代でも通用する落語分析です。

 落語の世界に幕末あらわれたスーパースターが、三遊亭円朝。1839年(天保9年)−1900年(明治33年)。60年の人生の内、30年を江戸、30年を明治に生きた、まさに時代をまたいで活躍した芸人でした。
 円朝を襲名し真打になった21歳のときに、師匠の円生との確執がありました。円朝が寄席でトリを取るとき、円生は円朝が持ち込んだ芝居噺の背景や道具を見て、円朝がやるであろう話を先に素噺でやってしまいました。困った円朝は、持ってきた背景や道具を使える話を急ごしらえでやってお茶を濁しました。これは円生師匠の単なるいじわるか、あるいは弟子を育てるための荒療治か。円生という人は芸は確かだったようですが、人格は疑り深く、若くして売れた弟子に嫉妬していたという話もあります。それが3日も続いたとき、円朝は「既にある話をするから師匠に先にやられてしまうんだ。新しい噺を作ればいい」と考えました。単なる落語家ではなく作家としての円朝の始まりです。
 それから円朝は作品を作り続けます。怪談では「怪談牡丹灯籠」「怪談乳房榎」「鏡ヶ池操松影(江島屋騒動)」「真景累ヶ淵」。芝居噺「緑林門松竹」「双蝶々」。伝記「塩原多助一代記」「指物師名人長二」「名人くらべ」「英国女王イリザベス伝」。一席物「鰍沢」「黄金餅」「死神」「心眼」「大仏餅」「文七元結」「芝浜」。翻案物「英国孝子之伝」(ジョージ・スミス)「黄薔薇」(フランス小説「毒婦ジュリアの物語」)。これが作家と言ってもいい円朝の原点です。
 ここで、またターニングポイントが訪れます。「速記」です。田鎖綱紀という青年が、グラハム式速記法を参考に、日本傍聴記録法を1882年に発表、田鎖式速記の講習会を開きました。それには、1881年に「国会を開設する詔勅」が出され、近代国家として記録を残すことの必要性があったからです。その後東京稗史出版社が、速記で円朝の落語を出版したい、と持ちかけ、この申し出を円朝は快諾。そしてできたのが日本で第一号の速記本、「怪談牡丹灯籠」でした。
 円朝には先見の明がありました。古い考えなら、「私の話は寄席に来て聞いてもらうもので、活字にするつもりはない」と言ってもおかしくないところですが、円朝は新しい物にも積極的にかかわろうとしたのです。
 速記者若林は「怪談牡丹灯籠」の序文の中で誇らしげにこう記しています。

「所謂言語の写真法をもって記したるがゆえ この冊子を読む者はまた寄席において圓朝氏が人情話を親聴するが如き快楽あるべきを信ず もって我が速記法の効用の著大なるを知りたもうべし」
 続いて出した85年(明治18年)若林速記「塩原多助一代記」は、全18冊で12万部という驚異的なヒット。「一代記」は元々怪談として作ろうと円朝が、上州、今の群馬県に実際に取材に行き、立身出世物語に仕立てたのです。井上馨邸で、明治天皇の前で御前講演したという説もあります。当時の「殖産興業」「富国強兵」に沿ったものだったのでしょう。尋常小学校の教科書に使われました。速記は正式に1890年第一回帝国議会から採用されました。先進国の中で第1回議会から記録が残っているのは日本だけだそうです。話し言葉に近い文体で書かれた速記本は大衆に広く親しまれ、言文一致運動の大きな推進力となりました。速記と言う形態を取って、「文学作品」としての地位を獲得した落語。作家たちは、大きな影響を受けたのにちがいありません。
 明治前半の文学界では、「言文一致」が大きなテーマでした。二葉亭四迷「余が言文一致の由来」によると、円朝の速記本を参考にしたようです。明治10年ごろ、弟子を中心に、珍芸がはやります。俗に初代三遊亭円遊の「ステテコ踊り」、三遊亭萬橘の「ヘラヘラ踊り」、4代目立川談志の「郭巨の釜堀」、4代目橘家円太郎の「ラッパの円太郎」。これが爆発的に人気が出ました。「ステテコ」は円遊が、噺をした後に尻っぱしょりをし、半股引を見せて「すててこてこてこ」と変な歌を歌いながら珍妙な踊りを踊る。人気を得ました。この人気によって半股引のことを「すててこ」と呼ぶようになりました。このような珍芸が流行ったのは、人口の流入、嗜好の変化があったからです。落語を始めとした芸能も、大きな変化の渦に巻き込まれました。それまで落語は、江戸町民にむかって話していたので、言葉遣い、文化、価値観、感覚を共有していました。落語もいわゆる「江戸落語」でよかったのです。しかし東京新住民は、言葉も違う、文化も感覚も違います。落語も、長い人情話よりも、手っ取り早く笑わせてくれる芸を求めたのです。四天王が現れたのも必然でした。
 この、「江戸町民のひがみ」は、漱石文学にも流れている、と言う研究者もいます。特に「坊っちゃん」では、江戸っ子である坊っちゃん+会津ッポであるヤマアラシ対、地方の識者。実際には坊っちゃんは松山での抗争に負けて東京に逃げ帰るのですから。松山は官軍ではありませんが、「地方対東京」という図式がありました。漱石が評価した落語家が、四天王の一人円遊。彼は他の四天王とは違い、落語史上にもその名前を残しています。彼が単なる珍芸の人ではなかったからです。漱石への影響も与えていたでしょう。特に漱石の前半の作品に、円遊の影響を指摘する人もいます。たとえば、「野だいこ」は円遊の落語から取った、という人や、「猫」の中に「心臓が肋骨の下でステテコを踊りだす」というくだりがあったりします。
 円遊のライバル、漱石が「名人」と絶賛した三代目柳家小さんについて、漱石が弟子の森田草平に語った言葉が森田の「続夏目漱石」に書かれています。「小さんの好い所は客と一緒になって笑はないで、自分一人は糞面白くもないといふような、始終苦虫でも噛んだやうな面をして、小言でも云ふように、ぶつくさ口の中で云っている。それでいて落語の中の人物は綺麗に話し分けて、持って行くべき所へは、ちゃんと手際よく持っていく。あれこそ真の芸術家だ」
1905年、明治38年第一次落語研究会が開かれました。これは円朝の弟子の円左が言い出し、作家の鬼岡太郎、石橋思案、速記者の今村次郎(酒井昇造弟子)らが後援者。漱石も観客の一員でした。出演者は基本的に三遊派から選ばれました。円喬、円右など。怱々たる三遊派にまじって、柳派から唯一、三代目小さんが加わっています。派閥を超えて出演しているのは、小さんの実力が広く認められていた事、三遊派からも一目置かれていたこと、人間性も優れていたであろうことがうかがえます。正岡子規の三代目小さん評は「小さんの書生を語り、神田の兄いを話するところ、人をして真物(ほんもの)よりも巧(たくみ)なりといわしむ」(「筆まか勢」の落語連相撲)
 ここで、円遊と小さんを現代によみがえらせるという、無謀な試みをしたいと思います。私の独断と偏見で、円遊は昨年11月に無くなった、5代目立川談志、小さんは現在の柳家小三治に当てはめてます。円遊=談志は、師匠の5代目小さんが会長だった落語協会を脱退し、自ら「立川流」を創設し家元に。口跡のよさ、流れ、そしてなんといってもそれぞれの落語に新しい解釈を持ち込み、変えて行きました。このあたりは円遊に似ています。談志の言っていたのが初めは「伝統を現代へ」。早くから「落語はこのままでは歌舞伎や能・狂言のような道をたどる」と警鐘を鳴らし、積極的に売り出しました。後に「落語は業の肯定である」と言い、さらに解釈を深めていきました。
 小さん=10代目柳家小三治。現在落語協会の会長で、小さん6代目を継ぐのはこの人だと衆目の一致するところでしたが、最後まで拒み、とうとう6代目は5代目小さんの実子が継ぎました。この二人は5代目の兄弟弟子、入門時期も近く、お互い相当意識していたと思います。談志は師匠の小さんに「小三治をくれ」と言ったそうです。こんな事を弟子が師匠に言うのも前代未聞ですが、さすがに小さんは「だめだ」と断った。小三治は自分も小さんになる前に名乗っていた名前で、四代目も三代目も同じ。つまり小三治は小さんの前の出世名。小三治になるということは小さんになるという事にも等しい。今の小三治は違いましたが。五代目小さんは談志が柳派落語継承者ではないこと、そういう枠には収まらないことをよく知っていたのでしょう。小三治はその弟弟子、当時さん治だった今の小三治に継がせます。柳家の芸風を守り、小さんを継ぐことを期待していたのでしょう。
 ここで、2人の落語をご覧いただきます。まず談志は「芝浜」。談志の晩年のライフワーク落語でもあり、毎年暮の独演会でやってました。今回は2008年の暮れのものです。この「芝浜」は、先ほどの円朝が、三題噺で作ったものだと言います。昭和の名人と言われた桂三木助が得意としており、今でもほとんどの落語家がそのスタイルを踏襲しています。談志も昔はほぼ同じにしていたのですが、晩年は夫婦関係をかなり変えました。まずは聞いていただきます。
 江戸末期の長屋の魚屋、ぼて振りの勝五郎。酒に弱く、飲んだくれると仕事を休む。今日も飲みすぎて愚痴を言う勝五郎に、「働いてくれないと釜の蓋が開かない」と女房が無理やり起こして魚河岸にやる。ところが時間を間違えて起こしたためまだ河岸が開いてない。時間つぶしに海に下りた勝五郎。浜で皮財布を拾って中を見ると・・・
 談志が大きく変えた点は、三木助が女房はあくまで冷静な頭のいい女で、勝五郎が手のひらで踊っているように、さらっと演じてますが、談志は、女房もそれほど賢くない、似たもの夫婦を描いた。談志のポリシーである「落語は業の肯定である」というのは、一般の人は、飲んだくれるし、だますし、うそも言う。怠け者だし、浮気者だし、長いものには巻かれる。そういう聖人君子ではない普通の人の「業」を肯定するところから落語はスタートする、というもの。「芝浜」は談志が年々変化させていきました。彼はほかの話も、自分の解釈でどんどん変化させていきました。
 続けて小三治の「うどんや」。これは三代目小さんが上方からもってきた噺で、これも途中から。寒い冬、これも荷を担いで売るうどんやが、酔っ払いに絡まれたりしながら苦労してうどんを売るというもの。小三治はギャグを入れることも無く、大げさなしぐさもせず、本人も苦虫を噛み潰したように表情を変えずに話す。
 いろいろお話してきました。漱石はどのような芸を好んでいたのか。ここまでいろいろ調べてきて、これは私のまったくの漠然とした個人的意見ですが、漱石は初めは円遊のような新解釈の話、世の中の変化に合わせた噺を好んだけれど、その後、江戸時代への回帰心が起こり、小さんの渋さを好むようになったのではないか、と勝手に考えます。それは、漱石の年齢と落語家の活躍時期とも関係があるでしょう。円遊が「ステテコ」で人気が出たのが漱石が10代のころ。円遊はその後も新時代に合わせた落語の改作に取り組み、落語界の第一人者でした。漱石の若い時に重なります。相当影響を受けたでしょう。しかし時が進み、漱石も年を取ってくると、好みも変わっていったのでしょう。
 漱石が「猫」を書いた1905年、第一次落語研究会が開かれました。この時漱石38歳、円遊55歳死の2年前、小さん48歳。研究会を通じて評価が高まっていった小さんと漱石の「江戸回帰」がダブっているように思います。そこで漱石は「三四郎」で、自らの好みの変化、円遊と小さんのことについて触れたのではないでしょうか。今後もさらに調べて、漱石の落語感について考えてみたいと思います。ご清聴ありがとうございました。(了)(みついし れんたろう)時事通信松山支局長
なお、講演に関連して光石悦子氏の『三四郎』他の朗読があった。
終了後17時30分より全日空ホテルにて懇親会開催。
 

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184回
秋例会

   本会結成50周年記念講演会  松山市道後 にぎたつ会館 午後2時〜3時

     漱石と結婚
              元愛媛大学教授  渥見秀夫氏

 五十周年、おめでとうございます。記念の会で話すには役者不足で申し訳ないのですが、当地で二十八歳の時に教職に就いた漱石の出身大学のはるか後輩で、二十七歳の時に当地で教員生活をスタートさせた者として、また、「坊っちやん」の山嵐(会津っぽ)と同じ福島県(原発事故のフクシマ!)出身の者として、ささやかなゆかり相応のささやかな話をさせていただきます。
 山嵐の会津なまりがどの程度のものであったかは分かりませんが、彼がマドンナを「かの不貞無節なる御転婆」と決めつけたのが、風評に基づく速断だったのと同じ程度には、私の話にも浅慮・偏見があることでしょう。随所に疑問符を付けながらお聴きください。
「坊っちゃん会」ですので、「坊っちやん」を軸にして話を進めさせていただきます。

一「坊っちやん」
(一)職業決定における非主体性
 語り手の「おれ」はまず、学校卒業時に校長から就職の斡旋をされた時、「実を云ふと教師になる気も、田舎へ行く考へも何もなかつた」のに、「教師以外に何をしやうと云ふあてもなかつた」ので、「行きませうと即席に返事をし」てしまいます。
その職を捨てて東京に戻った「おれ」は、今度も「ある人の周旋で」街鉄の技手になりました。話をしている現在、在職中かどうかは不明です。
(二)女性との距離
 温泉行きの汽車の停車場で母娘と思しき二人連れを見て、「おれ」は若い方を「マドンナぢやないかと思」うのですが、うらなりがその二人と交わす軽い挨拶は「
遠いから何を云つてるのか分」りません。
うらなりの送別会の宴席に芸者たちが入ってくると赤シャツが急に退席しようとします。「一番若くて一番奇麗な」芸者(小鈴)が笑って挨拶したのですが、この時も「おれ」には「
遠くで聞え」ません。
マドンナと思しき美人を見た「おれ」は、その夜、赤シャツと女の二人連れに出会うのですが、女(マドンナではなく、小鈴?)の方は「影法師」でしかありませんでした。

(三)水光る地
 赤シャツと女の二人連れを目撃する直前の「おれ」の目に「川の流れは浅いけれども早いから、
神経質の水の様にやたら光る」と映っていました。温泉の「赤い灯」が輝き、遊郭の大鼓の音がする時のことで、その数刻前には、「おれ」はマドンナと思しき美人に生涯で初めて女性の魅力を感じた(「何だか水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握つて見た様な心持ちがした」)ばかりでした。
思えば「おれ」が汽船でこの田舎に初めて近づいた時、海は「日が強いので
水がやに光る」状態で、それは「見詰めて居ても眼がくらむ」ほどでした。女性との距離を隔てたまま老婆・の懐ろに帰る時、「おれ」はこの田舎を「不浄な地」と唾棄したのですが、彼に自覚されないところで、この地は彼にとって「水光る地」でもあったのです。彼の内部では女性への距離が乱反射状態を兆し始めていたのです。
右の三点のみならず、後架(「一」と最後の「十一」)にしろ一本の木(「一」の栗と「十」
の蜜柑)にしろ、さりげなく、しかし効果的に、繰り返されています。漱石は《反復が生む実感的刻印》を強く意識していたようです。(なお、「坊っちやん」の「一」「二」への着眼については、拙著『こどもの目大人の目』をご参照いただけたら幸いです。)
二 それまでの漱石――二つの反復
(一)女性との距離
 生後まもなく夏目家から養子に出された漱石(金之助)は、後に養家の塩原家で、養父の
後妻となる日根野かつ・その子れんと同居生活をすることがありました。れんは漱石より一歳年長。向学心に富み、漱石好みの美形だったようです(れんに関しては石川悌二『夏目漱石――その実像と虚像――』に拠る)。れんは明治二十年中に長女を出産しているので、十九年に平岡周造と結婚したかと思われます。この年、漱石は十九歳です。れんが四十一年六月二日に死亡すると、漱石は同月十三日から「文鳥」を連載しました。
 昔し美しい女を知つて居た。此の女が机に凭れて何か考へてゐる所を、後ろから、そつと行つて、紫の帯上げの房になつた先を(略)。文鳥が自分を見た時、自分は不図此の女の事を思ひ出した。此の女は今嫁に行つた。自分が紫の帯上でいたづらをしたのは縁談の極つた二三日後である。」
 同月三十日には松根東洋城に悼亡の句を書いています。――「青梅や空しき籠に雨の糸」

 漱石は自身の死の前年(大正四年)に「道草」で、れんを御縫さんとして書きました。「御
縫さんて人はよつぽど容色が好いんですか」「何故」「だつて貴夫の御嫁にするつて話があつたんださうぢやありませんか」「丸で問題にやならない。そんな料簡は島田(塩原がモデル――渥見注)にあつた丈なんだから。それに己はまだ子供だつたしね。」漱石はれんとの距離を自分の方から主体的に縮めようとはしませんでした。れんが結婚し、自分が夏目家に復籍した後、兄・直矩が再婚した兄嫁登世が二十四年に死去した際に、漱石は子規に「まことに敬服すべき婦人に候ひし」と書き、悼亡の句(その一つは「聖人の生れ代りか桐の花」)を添えました。かつて江藤淳氏がこの兄嫁を漱石にとっての決定的な女性と見る説を唱えましたが、私渥見は、漱石はこの兄嫁との同居生活で、女性に対する自分の距離のとり方に、れんの時の《反復》を実感したのではないかと想像します。この《反復》の実感(「また、こうか。自分は女性に対しては、こうでしかありえないのか……」)の刻印こそが、漱石にとって《決定的》だったのではないでしょうか。この《反復が生む実感的刻印》は、さらに数年後の大塚保治夫人楠緒への距離のとり方にも見られます。四十三年に楠緒が死去した時も、漱石は、登世の時のように、れんの時のように、悼亡の句を捧げています。――「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」
(二)職業決定における非主体性
 明治二十六年に帝国大学文科大学を卒業後、漱石は二度、就職に失敗しています。
まず、二十六年八月、立花銑三郎に依頼した学習院就職に失敗。就職者・重見周吉(愛媛県今治出身)にはアメリカ留学の経歴がありました。次いで、二十八年一月、菅虎雄が仲介してくれたThe Japan Mail就職にも失敗。ここでもまた、《反復の実感》(「また、こうか。」の思い)を深く刻印したことでしょう。この時漱石は禅に関する英文の論文を提出していました。前年の暮れに円覚寺帰源院で参禅していたのです。二つの悩みは確かにあったのでしょう。そして、二十八年三月、菅虎雄がまた仲介してくれた愛媛県尋常中学校への就職を承諾しました。職業の《形》は決めました。同年の暮れ、中根鏡と見合いをして結婚も決めたのですが、その直前に子規にあてて「小生家族と折合あしき為外に女があるのに夫が貰へぬ故夫ですねて居る抔と勘違をされては甚だ困る今迄も小生の沈黙し居たる為め友人抔に誤解された事も多からんと思ふ家族につかはしたる手紙にも少々存意あつて心になき事迄も書た事あり今となつては少々困却して居るなり」と書いています。確かに悩んでいたのです。就職失敗の反復後に決定した愛媛県尋常中学校就職は、菅虎雄の重ねての仲介によるものとはいえ、漱石にとってもう一つの大きな懸案だった女性との距離のとり方を結婚という形で自ら決定する契機ともなりました。当地松山は、二十八歳の独身青年漱石には「水光る地」として(「坊っちやん」の「おれ」は無自覚だったのですが)、彼に大きな決断をさせた場所なのです。鏡を妻に決めた漱石は、同時に、女性との「結婚」という《形》の選択を決断していたのです。三十九年三月に「坊っちゃん」を書いた漱石は、七月に「吾輩は猫である」の「十一」を脱稿したのですが、長いその章の前半ではヴァイオリンを弾こうとして遂に弾けなかった水島寒月の《非決定》ぶりが延々と語られた後に、話題を結婚に転じて、多々良三平の結婚《決定》ぶりが軽々と語られます。
 四十一年に「文鳥」を書くまでの諸作品は、『漾虚集』『鶉籠』中の作品も、『文学論』も、
『虞美人草』『坑夫』も、乱暴に言ってしまうと、「結婚」を延々と書けるまでの文体模索の作品群ということになります。この間に官を辞して朝日新聞社入社を決断した漱石は、同時に、終の職業を「非職業」にする選択を決断しました。職業の上では《形》を超えることができたのです。職業の外に身を置き、模索を閲して身につけた文体で、漱石はようやく《漱石的テーマ》を露出させていきます。

三 それからの漱石――結婚との格闘
(一)「文鳥」・「夢十夜」・「三四郎」・「永日小品」中の「心」
 先に触れた「文鳥」では、文鳥の表情・しぐさがれんのそれに重ねられていたのですが、結びの糸は鈴木三重吉経由の「結婚」話でした。「三重吉から
例の件で某所迄来て呉れと云ふ手紙を受取つた。」「翌日眼が覚めるや否や、すぐ例の件を思ひだした。いくら当人が承知だつて、そんな所へ嫁に遣るのは行末よくあるまい。まだ子供だから何処へでも行けと云はれる所へ行く気になるんだらう。一旦行けば無暗に出られるものぢやない。世の中には満足しながら不幸に陥つて行く者が沢山ある。抔と考へて(略)又例の件を片附けに出掛けて行つた。」
「夢十夜」の「第一夜」は「こんな夢を見た。」で始まり、死後百年の後の再会まで待つと自分に約束させた女を、言われるまま待った話が語られます。
「三四郎」では、自分からは踏み出すことのできない三四郎(や野々宮)をおいて美禰子がさっさと結婚を決めてしまいます。中で、広田先生が「昔し」の女の話をします。「(略)面白い夢を見た。(略)僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再会したと云ふ小説染みた御話だが(略)」「十二三の奇麗な女だ」「廿年許前」「二十年前に遭つたと云ふのは夢ぢやない、本当の事実なんですか」「本当の事実なんだから面白い」。広田は語ります。「(略)人間には生れ付いて、結婚の出来ない不具もあるし、其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐるものがある。」
「永日小品」の中に、「金」に続いて「心」があります。「自分」は一羽の美しい小鳥と出会い、「此の鳥は……」と思い、「(略)此の鳥はどんな心持で自分を見てゐるだらうかと考へ」ます。「やがて散歩に出た」自分は、一人の女に出会います。「其の顔は(略)たつた一つ自分の為に作り上げられた顔である。百年の昔から此処に立つて、(略)自分を待つてゐた顔である。百年の後迄自分を従へて何処迄も行く顔である。黙つて物を云ふ顔である。(略)黙つてゐる。けれども自分に後を跟けて来いと云ふ。(略)其の時自分の頭は突然先刻の鳥の心持に変化した。(略)自分は女の黙つて思惟する儘に、(略)鳥の様にどこ迄も跟いて行つた。」
(二)「それから」(明治四十二年)四十二歳
 いよいよ《漱石的テーマ》が
延々と展開されます。「結婚」との格闘が始まります。
主人公は代助。漱石の
理人物? 恋敵は平岡。れんの結婚相手が平岡周造でした。ヒロインは三千代。「文鳥」で、重吉の文鳥は千代々々と鳴くと言うのに、自分の文鳥は、「昔し」の女を思わせながら、ついに自分の顔を見て千代々々と鳴くことをしないまま死んでしまいます。
 互いに惹かれながら再会後も決断の躊躇を反復する代助に、三千代の方が、「仕様がない。覚悟を極めませう」と断を下します。三千代を選択することに決めた代助は、同時に、「職業を探し」に「世の中」「へ飛び出し」、その「火の粉」を浴びなければならなくなります。「代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。」

 四十二年の満州朝鮮旅行、四十三年のいわゆる修善寺の大患を経て、《漱石的テーマ》「結婚との格闘」は深まります。四十四年の講演「現代日本の開化」でのキーワードは「内発」「外発」でした。

(三)「行人」(大正元〜二年)
長野家の長男一郎・次男二郎は、ともに「結婚」に躓きます。

 一郎は、見合い結婚という形の中で妻となったお直に、男性に対する女性の内発性を求め、求めても得られないお直の内発性は弟の二郎に向かっているのではないかと苦悩します。二郎はお直への気持ちを形に表せないまま、兄の苦悩を助長することになります。
漱石は、二郎を兄への優位者の位置には置きません。二郎は兄の友人Hに「君兄さんを旅行させるの、快活にするのつて心配するより、自分で早く結婚した方が好かないか」と言われます。しかし二郎は、見合い結婚を勧める友人三沢にも「(略)物足りなかつた。自分はもう少し何とかして貰ひたかつた」と感じ、「自分はあれ以上、女を目掛けて進んで行く考へはなかつた」と足を止めてしまいます。彼は自分の内発性をつかめず、結婚を決断できません。漱石は、一郎を特異な例外者の位置には置きません。人間の内発性を厳格に求めすぎるがゆえに「内発性」という観念に呪縛されて生への展望を失う一郎に、漱石は日常的な所作を生きさせます。長編の最後の会話は、語り手Hと一郎の旅先でのそれです。 (略)私は飯櫃を向ふへ押して遣りました。兄さんは自分でしやも子を取つて、飯をてんこ盛にもり上げました。それから其茶碗を膳の上に置いた儘、箸も執らずに私に問ひ掛けるのです。「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思つてゐるのか」斯うなると私にはおいそれと返事が出来なくなります。平生そんな事を考へて見ないからでもありませうが。今度は私の方が飯を二口三口立て続けに頬張つて、兄さんの説明を待ちました。(略)何んな人の所へ行かうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ、さういふ僕が既に僕の妻を何の位悪くしたか分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押が強過るぢやないか。幸福は嫁に行つて天真が損はれた女からは要求出来るものぢやないよ」兄さんはさういふや否や、茶碗を取り上げて、むしゃてこ盛の飯を平らげました深刻な一郎に、それでも日常を超えては生きられない滑稽さを見る漱石は、救いの途が閉ざされているかに見えるこの作品中に、岡田とお兼さん夫婦の平凡平穏な日常をきちんと描きこんでいます。「おいお兼とうとう絞りのが咲き出したぜ。一寸来て御覧」 自分(二郎――渥見注)は時計を見て、腹這になつた。さうして燐寸を擦て、敷島へ火を点けながら、暗にお兼さんの返事を待ち構へた。けれどもお兼さんの声は丸で聞こえなかつた。岡田は「おい」「おいお兼」を又二三度繰返した。やがて、「せわしない方ね、貴方は。今、朝顔どころぢやないわ、台所が忙しくつて」といふ言葉が手に取るやうに聞こえた。お兼さんは勝手から出て来て座敷の縁側に立つてゐるらしい。「それでも綺麗ね。咲いて見ると。――金魚はどうして」「門」冒頭の宗助・御米夫婦の日常風景をそのまま反復しているような場面です。
(四)「こゝろ(心)」(大正三年)
 女性(お嬢さん)との結婚に向かう先生とKの内発性が相互に規制し合う現実の中での決断が生んだ悲劇を、「私」が超えて行けるかどうか。「行人」のテーマ(内発的な恋愛感情と「結婚という形」との距離)に一つの観念的な決着を下した先生は、自分(たち)の観念性を自覚してはいましたが、その先へは進めませんでした。「私」は自殺する先生から奥さん(かつてのお嬢さん)を託され、瀕死の床にある父からは母を託されます。「私」と奥さんの間には親愛の情が通っていました。しかし、「私」が最後に聞いた肉声は、父が「はつきり」言った「有難う」の言葉でした。「私」は、どんな「結婚という形」を選ぶのでしょうか。
(「こゝろ」についても、前記の拙著をご参照いただけたらと存じます。)
(五)「道草」(大正四年)
 漱石自身が選んだ「結婚という形」が、実態報告のように語られています。

一つには、夫婦という、それぞれの人格を有する肉体の接近と反発の反復があります。

健三は床に伏す細君の額の上に右手を載せて「水で頭でも冷して遣らうか」「大丈夫かい」
「本当に大丈夫かい」と言い、妊娠中の細君は健三の手を握って自分の腹の上に載せて「是は誰の子?」と聞いたりもします。二人は、同じような反発も反復します。「執拗だ」「執拗だ」二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合つた。(略)「是で沢山だ」「己も是で沢山だ」また同じ言葉が双方の胸のうちで屡繰り返された一つには、健三の御縫さんへの感情があります。漱石のれんへの感情、と言ってよいでしょう。健三は初めて彼女に会った時のことを克明に記憶していて、「よし事実に棒を引いたつて、感情を打ち殺す訳には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ」と言います。細君は「貴夫何うして其御縫さんて人を御貰ひにならなかつたの」「どうせ私は始めつから御気に入らないんだから……」と言うのですが、健三の今の感情は「結婚という形」を超えています。彼は「其人の面影は」「人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼から唆り得る点に於て」尊いものとして、「死なうとしてゐる其人の姿を、同情の眼を開いて遠くに眺めた」のです。作品最後の健三の言葉はこうでした。「世の中に片付くなんてものは殆んどありやしない。一遍起つた事は何時迄も続くのさ。たゞ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるの事さ。」
(六)「明暗」(大正五年)四十九歳 絶筆
 夫(津田)の内発性を妻(延子)が疑います。津田には清子への感情があったのですが、清子には「結婚という形」の外の感情に見えたようです。津田と延子の二人はそれぞれに「結婚という形」の囚われ人でした。
津田に再会した清子は「でも私の見た貴方はさういふ方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの」「心理作用なんて六づかしいものは私にも解らないわ。たゞ昨夕はあゝで、今朝は斯うなの。それ丈よ」と言います。清子には津田の内発性の内実も「結婚という形」が《形》であることも見えているようです。この形を超えられない津田たちとの対比で清子の超え方を描き切れたかどうか――漱石の筆は中途で折れてしまいました。しかし、漱石はこの作品に二人の小林を登場させていました。医者の小林と非職業者の小林、です。同姓の、人間の中に生きる自然の観察者と人間がその中で生きる社会の観察者。個々人の内発性と個々人の関係性との切り離せない劇が、漱石には、「仕方がない」「それ丈」のもの、反復するしかないもの、として見えていたのでしょう。「結婚という形」のはらむ人間の内発性とその関係性を、漱石は、《性とお金》を超えられない人間の劇として実感的に刻印できるまで繰り返して、小説化したのでした。

 ――ここまでにさせていただきます。時間の制約があったとは言え、先を急ぐ乱暴な話になってしまいましたことをお詫び申し上げます。ご清聴ありがとうございました。

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185回
冬例会

第185回冬例会 平成24年12月9日 市立坂の上の雲ミュージアム会議室
講演
   『ひとりごと:「言葉」への思い』  会員 松浦淳子氏
   当日はプロジェクター利用の「純文学のコスプレ:漱石作品も変容か?!」と題する講演であったが、掲載に当り
  松浦氏のご希望で題名を変更した。

 これから語る「つぶやき」は、実際の講演内容とは多少異なっていることを御容赦願いたい。
 さて、昔は確かに存在していた「大人」と「子供」の社会的「境界線」が次第に色褪せ、今ではその「線」も消え失せてしまっている。その「境界線」とは実年齢、社会的類別や法的区分を指しているのではなく、「言語・言葉」における「線」なのである。ここでわたくしが注視するのは「大人」側の問題である。「言語的知性」において以前は社会を構成していたと思われる大人、「言葉」に対する感受性や思慮深さを持ち合わせる「マジョリティ」がその感度が鈍い「マイノリティ」と入れ替わってしまった現状に関し、昭和時代の教育を受けたわたくしは次のように認識せざるをえないのである。

 
昔は、「大人」には大人として成立するための「言語能力」や「読字読解力」というものが暗示的ではあるが社会に存在していたはずである。社会に存在する暗黙の「言語ルールの束」を的確に理解し「言葉を操る術」を習得した者が「大人」であったはずである。「大人」間での対話において、相手の話が理解できない場合は、「話し手」側ではなく「聞き手」側の責任となり、聞き手として理解力の低さを恥じ、もっと「本を読め」などと周囲の大人に叱咤激励されたものである。高次レベルの文献やメタ言語満載の書物を難なく読めるようになりたい、文学言葉で綴られた文学作品のテクストを理解できるようになりたいと努力する、それが言語的知性において「大人」になるということではなかったのか。それがいつからなのか、聞き手が理解できないのは話し手の説明が解り難いのが原因だとばかりに話し手側の説明能力が批判され責任が追及される。この状況は個人レベルだけではなく、メディア媒体等、産学官民全体にも生じているのではないだろうか。「子供」は「大人」が愛読する新聞内容をいち早く読み解くことができるようになりたいと辞書を引きつつ努力したはずなのに、いつからなのか大人自身が新聞の記事内容をマンガ化やイラスト化し「解り易く解説」してもらうことが常となり、いつからなのか大人自身がその違和感を覚えなくなっている。『一億総ガキ社会』というフレーズがネット上を賑わせて久しいが、最近の大人達の幼児化傾向は日本国内だけの現象ではないにしろ、この冷笑的フレーズにもどかしさや憤りを感じる大人が現在では「マイノリティ」となっているのである。
 「大人」レベルの「言語的知性」とは一体どういうものなのか。それは、「語義」には二つの側面が存在することを熟知しているかどうかである。「発信者」が伝えたい内容を「コード化(言語に変換)」し送り出す。そして「受信者」は「コード解読(言語の伝達内容を理解)」する。フランスの哲学者ロラン・バルトの記号論・意味作用によれば、その際のコミュニケーションが成立するには「コードの共有」が前提ではなく、「コンテクスト」を解釈する能力が必須だとする。つまり、語義には「ディノテーションdenotation(外示・明示的意味))」と「コノテーションconnotation(共示・副次的意味)」が存在し、この両側面を同時に察知し理解する能力のことを指す。一般的にはその「場・状況」の「行間を読む」ということになるのだろうが、「語義」がこのような2つの意味領域を有することを常に意識化し、ある言葉の文字通りの「一義的」な意味だけではなく、その言葉が喚起する個人的・情感的・状況的、そして「多義的」な意味をどれだけ瞬時に把握し深く解することができるのかが「大人」と「子供」を異化するための重要な要素であったはずである。しかし、現状ではその差異を明示化する「境界線」は消去されている。
「ボーダレス」とか「バリアフリー」とかいう言葉がメディア媒体を通して一般化されて久しい。あらゆる事物の境界線を「取っ払う」ことが過度にもてはやされ、「脱境界化」が各分野に受容され現在もなお神格化のごとく肥大しているように感じるのは「わたくし」だけであろうか。しかも「脱境界化」が「テクスト」の世界をも侵蝕しているのである。この「ボーダレス」的概念を重視することでポジティブ効果を発揮するのはやはり社会福祉分野であろう。建築物の境界線を無くせば「バリアフリー居住空間」。この快適空間は高齢者や障害者にとってはプラス評価となる。また、対人関係や社会的コミュニティにおいて心理的障壁を除去すれば「バリアフリーコミュニケーション」。心や意識のバリアフリー化は人間関係に起因する偏見や差別、相互理解の不足や誤解等を軽減し、豊かでごく自然な対等の人間関係形成を促進する。このように「脱境界化」はポジティブ評価が高い。しかし、あらゆる「モノ」「コト」に付随する「境界線」を手当たり次第に消去してしまうことが果たして好結果をもたらすものなのか。このまま「ボーダレス化」が「テクスト」の世界をも侵蝕し続けていけば、水村美苗の識見通り「文学」の言葉としての日本語が今後書かれることも読まれることもなく、日本語としての言語体が消滅していくのではないか。

 この懸念が的中したかのように、現代ではこの「脱境界化」が言語体系にも顕著に現れている。その一例として、『若者言葉』も然ることながら最近の「子供」の「大人」に対する「言葉づかい」には丁寧さのかけらもない。子供は大人にため口をきき、大人は子供に不自然な「ベビー・トーク(簡略化言語の一種)」を用いる。このように「日本語が乱れている」と巷で騒がれて久しく時が経つ。いや、言葉の乱れは今に始まったことではないと、古くは清少納言の『枕草子』にも当時の言葉の乱れに関する記述があるなどとTVバラエティ番組で取り上げられ、「日本語の乱れ」が低俗な雑学ネタとして持て囃されている。しかし、現代における言葉の世界は「乱れ」の状態で留まっているとは思えないのである。辞書・辞典の類には、「乱れ」という語の第一定義は「整っていたものがバラバラになる」とある。とすれば、現状を「乱れ」と言表するのは適切ではないような気がするのである。ただ単に「バラバラ」になっているだけならジグゾーパズルのように各ピースを合わせ直せば元に戻る。だが、ここ十数年の間に、言葉の短縮化や単純化が助長され、「言葉」よりも「絵・イラスト化」が先行されるなど変化変容を遂げ異質な言語体となってしまった現状は「時すでに遅し」ではないのか。そして、我々大人はこの現状をただ傍観し続けていてもいいのだろうか。

 日本語における「脱境界化」の典型的な事例をもう一つ挙げるとすれば、『位相語』や『待遇表現』があらゆる対人関係にとって「不都合だ」とばかりに「バリア」を消去したことである。その結果『マニュアル敬語』というものが生まれた。これは接客場面における言語表現をマニュアル化し、各業種の人間が同じ「セリフ」を喋るという「ロボット化」現象である。このように対話の発信者と受信者が常に同じ「コードを共有」することを前提とする奇妙な動向が起こって久しいのである。言語学者チャールズ・フィルモアの「フレーム意味論」によれば、このような言語表現のマニュアル化は、他者である全ての聞き手に誤解が生じないよう、語の意味作用を限定し、一義的な意味、特定概念のみに「焦点化(前景化)」し認識させ、話者と聞き手としての他者とが同じ「フレーム」を共有するように構築されたものだと云える。そもそも対人関係には多様性がある。その多層多面的に存在する「境界線」を全て消去し、店員と顧客という二者間にのみ画一化していけば、人間はプリインストールされた言語を発する「ロボット」となる。これは各業界の「トップ」と称される支配者にはかなり「好都合」な状況ではないのか。かつて、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、『人間は言葉をもつ生物である』そして『有節言語は人間だけがもつもの』と定義した。言語こそが人間を人間たらしめる指標であるならば、我々大人は人間の本質を無くしつつあるのだろうか。
 「文学」という言語の世界にも「ボーダレス化」が加速している。「言葉・言語」よりも「絵・イラスト」が表現上最優先されている現状は、「テクスト」の「ボーダレス化」現象と云える。その顕著な事例が「文字」表現の「イメージ化(画像化)」である。本来「文字」で表現すべきところを「何でもかんでも」「マンガ化」してしまうというもの。官公庁の公文書をはじめ、教育書や学術書等の専門書、政治経済関係書籍に至るまで、あるとあらゆる「テクスト」が「マンガ化」されていく。更には、「カノン(canon/正典)」と称される文学作品までもがマンガ化されていくのである。これは難解な内容をただ単に解り易くするためだけに生じている動向ではない。「受信者主体」ではなく「発信者」が自主的に後々「解り難い」と責任を追及されないよう事前に回避した発信者側の謀ではないのか。巷で話題騒然の『わかりやすい〇〇解説』という風潮は、制作側が視聴者である大人の「言語的知性」を故意に過小評価し、一義的な意味概念のみを喚起し自動化させる、そしてその後の「思考」を停止させようという発信者側の策略としか思えないのである。この「言葉」の罠にはまっている大人が「マジョリティ」化しているのが現状である。
 わたくしがここで問題視する「マンガ化」や「イメージ化(画像化)」は、絵画等の『芸術作品』の類を指すものではない。つまり『芸術・アート』の域に属するマンガ作品自体を評しているのではない。ただここでは「芸術・アートとは何たるか」という議論は避けておくことにする。昔は、「エクリチュール(書かれたもの)」においては、そもそも「図」や「絵・イラスト」は、文字化されたものへの補助的役割を果たしていたはずである。その「文字」の世界と「画像」の世界との境界線が消去されてしまったのがまさに現状なのである。絵やイラスト等の「静画像」は、識字力のない者や読字力の低い者への理解補助材として効果を発揮するものではないのか。文字を習得する前の幼児に先ずは手始めに「絵本」を与えるのはその明らかな一例である。また、日本語を目標言語として学習している者、特に初級レベルの学習者にとっては「絵カード」等の視覚教材は言語習得過程において非常に効果的である。このように、本来は読字読解の補助的役割を担っていた「イラストや絵」が、日本語をしかも「母語」とする者、特に「言語的知性」が高いとされるべき「大人」に対して積極的に用いられ、世間で持て囃されている現状にある意味危機感はないのだろうか。

 日本近代文学の文豪と称される作家が小説を執筆する際には恐らくその当時の「読者」を想定していたはずである。夏目漱石も芥川龍之介も、そして三島由紀夫も大江健三郎も皆、その「読者」、特に「エリート読者・選ばれた精読者」の言語的知性に挑戦するかのように、高次レベルの比喩や語彙を多彩に駆使し語っていく。三島由紀夫は生前「自分の小説は観念的文学であるが故に映像化は困難である」と言明したことは周知の事実である。そもそも「文学」とは「日常言語」を異化する技法で産出されていくもの。それ故、純文学作品の表現描写に難解なものが多いのは当然である。一方巷では文学作品は「堅苦しくて難しい」と文句を並べる者も多いが、そのせいなのか純文学離れを止めるためなのか、出版界では奇妙な「トレンド」が生まれ著しく進行している。それが「マンガ化」である。高度な知的レベルに達した「読者」を意図的に想定し産出された作品をわざわざ「消費者読者・大衆的読者」向けに「マンガ化」してしまう。文学「テクスト」を「マンガ化」するということは「文学言葉」のもつ語感や文意、多義性を完全に消去し、マンガ作家や編集者の解釈のみが一義化され表出されること。「この部分のテクスト解釈はこんな感じの絵・イラスト、即ちマンガになるよ」とばかりに有無を言わさず読み手に一瞬にして受容させる。そもそも「文学言葉」が如何なる意味概念を想起するかは読み手の恣意的解釈に任されているはずである。つまりはその思考過程を邪魔しているのである。その恣意的「思考」を停止させるような「マンガ化」は先述の文豪達にとっては想定外の動向であろう。
 ある有識者がこう呈している。「純文学作品をマンガ化することは『二次創作』としての芸術作品である。今後も二次創作としての自由度は益々高まる」と。しかしここで疑問が一つ出てくる。もし「二次創作」であることを強調するならば、そしてそれが原作全く異質の産出物であると説くならば、敢えて原作名や原作者名を付記する必要はないのではないか。しかも、「二次創作」と称される作品には「物語や設定は大幅に変更・脚色されており、必ずしも原作小説に忠実な内容ではない」と但し書きが付けられる。それにも拘らず「原作名や原作者名」は必ず付記される。この「原作」というものに拘る理由は何なのか。これには制作側の隠された意図があるのではないのか。その作意とは「原作名や原作者名」が含有する暗示的付加価値にある。即ち「カノン(canon/正典)」としての不動で普遍的な高価値に便乗し波及効果を狙うこと。「カノン」という印籠を示し、その権威・象徴を顕在化させ利用するのである。しかしそもそも原作を読まぬ者に「カノン」の威力が「バリアフリー」的に伝わるのか。このマンガ化された異質な産出物を盲目的に受容する大人が「マジョリティ」化する現状を確かに意識化している大人は今となっては希少価値なのである。
 今や「テクスト」の「マンガ化」が歯止めなく増殖し社会全体の「脱境界化」が総なめ状態であるが、ここで改めて「大人」は「言葉・言語」に対し真摯に向き合い再考察する必要がある。「言葉」は「言葉」を以ってのみ対象化でき言語的実践が可能になるということを再認識すべきである。小森陽一が説くように『あらかじめ存在する世界を言葉で捉えるのではない。言葉こそが世界を創り意識や主体を創るのだ』とすれば、「大人」とは「言葉」によって形成されていくもの。また『言葉の意味とは、とりもなおさず言葉を別の言葉でパラフレーズすることによって明示的になるものだ』とすれば、「言葉」は「言葉」でしか翻訳することはできない。つまり「絵・イラスト」は「言葉」の代役にはなれない。「言葉・言語」は「マンガ・画像」と一線をおき、その「境界線」を還元し守り抜くべきではないだろうか。
最後に、わたくしが記述した内容に関する「参考・引用文献リスト」は文字数の関係上省略することを御容赦願いたい。
(当日は講演に先立ち夏目漱石第97回忌法要が、正宗寺住職田中義晃師代理田中義雲師により営まれた)

(漱石研究会)平成23年の記録

1 第178回春例会 平成23年4月24日(日) 松山市道後公園内 市立子規記念博物館会議室に於いて第178回春例会が開催された。総会に引き続き以下の講演があった。

「漱石の『僕の昔』と『二百十日』の碌さんのモデル」
            会員 尾崎正亮氏(広島県廿日市市 )

私の母方の祖父鈴木禄三郎は明治十年(一八七七年)頃、新宿牛込界隈において漱石の遊び仲間として少年時代を過ごし、漱石の談話「僕の昔」(『趣味』二巻二号、明治四十年二月一日)に登場している。このたび平成版漱石新全集の注解に、「鈴木の家の息子」が新たに加えられたので、注解として掲載されるに至った経緯を述べてみたい。

岩波書店創業八十年記念出版の漱石新全集は、平成五年(一九九三年)十二月から平成十一年(一九九九年)三月までの足掛け七年をかけて出版され、全二十八巻・別巻一がすべて出揃った。岩波書店は、漱石没後ただちに本格的な漱石全集として刊行した大正版を皮切りに、以来数次にわたってその改訂と補完を続けてきた。このたびの平成版漱石新全集は、「できるだけ原稿に忠実に!」をモットーとして、岩波書店漱石全集編集部の秋山豊、中村寛夫氏が監修したものであるが、各巻の注解は漱石研究家三十氏に委ねられている。漱石生誕百年・没後五十年(昭和四十二年、一九六七年)を記念した昭和四十年版漱石全集は、古川久氏の監修のもとで注解が付されたが、このたびの平成版漱石新全集により実に三十年ぶりに本文と注解が一新されたことになる。

昭和四十年版漱石全集第十六巻に掲載されている談話「僕の昔」の注解は、私の知る事実と異なる内容となっているため、将来、編集されるであろう生誕百五十年・没後百年(平成二十九年、二〇一七年)を記念した漱石全集には、事実を反映した内容の注解となることを願っていたところ、平成版漱石新全集によりチャンスが早く到来したわけである。私は平成七年、岩波書店へ祖父の小伝と私の小文「漱石の相撲相手」を、新宿牛込界隈の江戸切り絵図にある住居位置や幕府瓦解後の家族書などの資料とともに提出したところ、平成版漱石新全集第二十五巻の注解へ反映された。談話「僕の昔」は漱石の伝記資料として度々引用されており、江戸の名残を引きずった夏目家の人々の様子や、小説「坊ちやん」に登場する婆やの清のことなどが語られており興味深い内容となっている。

漱石は腕白時代のことを振り返って、次のように述べている。「小供の時分には腕白者で喧嘩がすきでよくアバレ者と叱かられた、あの穴八幡の坂をのぼってずっと行くと源兵衛村の方へ通ふ分岐道(わかれみち)があるだろうあすこをもっと行くと諏訪の森の近くに越後様といふ殿様のお邸があった、あのお邸の中に桑木厳翼さんの阿母(おっか)さんのお里があって鈴木とかいった、その鈴木の家の息子が折々僕の家へあそびに来たことがあった。」(棒線は筆者)

「鈴木の家の息子」には、次の注解が付されている。「電気技術者・実業家鈴木禄三郎のこと。文久二(一八六二)―昭和二十一(一九四六)年。『桑木厳翼さんの阿母さん』は禄三郎の姉『はる』で、禄三郎は十五、六歳のとき、年下の漱石と相撲をとって、漱石の額に歯をぶつけて前歯を折り、漱石を傷つけたことがあったという(山本勇編『電気と社会』一九六九年)。なお、鈴木正夫(禄三郎の子)と尾崎正亮(禄三郎の孫)の調査によれば、当時の鈴木家の住居は『越後様』でなく元清水家邸内(現、甘泉園)にあったという。現在新宿区西早稲田にある甘泉園は面影橋に近く、この談話における『越後様』を『甘泉園』に読みかえるとその位置関係が『源兵衛村』その他とは符合するが、『諏訪の森』との関係はよく説明できない。」

平成版漱石新全集においては、「鈴木の家の息子」に注解が新たに加えられたほか、幕府瓦解後の住居である「越後様といふ殿様のお邸」の注解が「甘泉園」へ置き換えられた。昭和四十年版漱石全集における「越後様」の注解は、当時の月報に掲載された「越後様を調べる」と題した江戸川柳研究家千葉治氏による論文の結論である「現在の戸塚警察署辺り」となっているが、これは誤りである。これらの事情は、漱石新全集第二十五巻の注解を担当された大野淳一氏の論文「『越後様』と『諏訪の森』―『漱石全集』の注釈から―」(武蔵大学総合研究所紀要No・6一九九六年(平成八年)十二月)に詳細に説明されており、私が岩波書店へ新情報を提出した経緯も述べられている。長い間注解者を悩ませた「越後様」の問題は、「鈴木の家の息子」の線からみていくことにより解決したが、「諏訪の森」の件は問題が決着したとは扱われていない。この点について私自身は、寺田寅彦宛の書簡に、「子供を連れて高田の馬場の諏訪の森を散歩した」とあり、漱石が「高田の馬場」、「甘泉園」、「諏訪の森」を一体の地域として捉えていると推察できるため、「諏訪の森」の件も問題は決着したと考えている。

平成八年(一九九六年)、熊本県は漱石来熊百年を記念して一連の行事を企画した。私が熊本を訪問した際の歓談の場において、漱石の義理の孫に当たる作家半藤一利氏(漱石の長女筆子の娘婿)に、「熊本阿蘇を舞台とした小説『二百十日』の『碌(ろく)さん』は『僕の昔』に登場する『鈴木禄(ろく)三郎』とも読めますよ!」と申し上げたところ、「これは面白い。同じ作品を読むとすれば、そのような読み方をしないと損だよ!」と述べられた。半藤氏から熊本日日新聞社の記者に紹介され、記者の求めに応じて作成した拙文は、「読者のひろば」(一九九六・十・二十、熊本日日新聞)に掲載された。「―漱石探訪の旅 熊本で考える―夏目漱石来熊百年を記念した行事のひとつである『草枕』全国俳句大会に参加した。私は小説『二百十日』に愛着をもっているので、『漱石博』開催中の熊本へ行くことが目的だった。―中略―私が『二百十日』に愛着をもつ理由は、登場人物『碌(ろく)さん』が、母方の祖父鈴木禄三郎の分身ではなかろうかと思われるからである。―中略―江戸切り絵図の雰囲気が残っている明治十年ごろ、漱石・金ちゃんと私の祖父禄三郎・禄ちゃんが遊び回っているうちに築かれた友情が、『二百十日』における『圭さん』と『碌さん』の間にも反映されているかもしれないと、一人ひそかに考えている次第である。」(初出 広島日独協会会報四十七 平成十二年三月)
(追記)「越後様」の注解のゆくえ 漱石全集には、「越後」が二十回以上、「越後様」が二回出て来る。「越後の笹飴」は有名だが「越後の高岡」というのもある。漱石は越後に住んでいないが、なぜか「越後」好きである。

 「越後様」の注解は三通り付されている。「喜久井町辺り」(第二十巻)、「現在の戸塚警察署辺り」および「甘泉園」(第二十五巻)である。

 漱石誕生の地である「馬場下」とは、もともと「高田の馬場」の下にあるという意味である(「硝子戸の中」)。「甘泉園」に隣接している「高田の馬場」の「高田」とは、越後高田城主であった家康六男松平忠輝生母お茶阿の方が遊園の地として過したことが地名の起こりであるとも伝えられている。

 「甘泉園」が「清水様」のお邸であることは間違いないとしても、漱石が「越後様といふ殿様のお邸」とした理由も何となく窺えそうだ。 「野分」の最後の場面で、「越後の高田」(全集では従来の全集に従っている)が出ている。実は漱石の原稿は「越後の高岡」であったが、初出の「ホトトギス」では「越中の高岡」とされた。単行本では「越後の高岡」に戻された。単行本の読者から指摘された漱石は、「越後の長岡をわざと高岡と致し候」と記している(明治四十年 式場益平宛書簡)。何ともいじわるな表現である。

 「僕の昔」の「越後様といふ殿様のお邸」の「越後様」を「清水様」すなわち「甘泉園」と読み替えることは正しいが、「越後様」を軽々に「清水様」とおき替えることは慎しみたい。漱石の遺した言葉は重く、注解者の悩みは深い。「越後様を調べ直す」課題は残されている。(おざき せいりょう)※当日の資料として付表1〜3が添付されていたが、当サイトにおいては便宜上省略したことをお断りする。

第179回夏例会 平成23年7月24日(日) 第179回夏例会 午後1時30分〜午後3時
於市立坂の上の雲ミュージアム会議室

漱石における家族論の課題          会員 岡崎和夫 氏(東京都)

要旨〉本論は、文学作品における家族論的な課題をあらたな観点から認定することを目的とし、作品資料の語彙的なdataを分析する。特定の作家についての使用語彙の計量的な調査は、いくつかの客観的な論の可能性を推測させる。その伝記的な事実にしたがうとき、一般に、漱石すなわち夏目金之助は、二親(両親)、とくに母に縁の薄かった作家として説かれ、いっぽう、?外すなわち森林太郎の実生活における父母との関りは極めて濃厚といい得ると思われる。しかしながら、漱石の、家族に関する語の出現の動向は、たとえば「父」、「母」についてそれぞれ900例ほどであり、いっぽうの?外の、「父」、「母」は、それぞれ200例にも満たないありようであり、漱石と比べた場合格段に少量であることが知られる。この稿は、そうした事実をあらたに指摘しながら、家族論的な論点を具体化し、それを、作家、また作品の理解に活用するみちすじを探る目的に立ち、紙幅にあわせて、とくに、『虞美人草』の実母・実娘のありように焦点をあわせて論じた。(青山学院女子短期大学教授おかざき かずお)※本稿はhttp://www.agulin.aoyama.ac.jp/metadb/up/tadmin/N18U0117_135.pdfより転載した
第180回秋例会 平成23年10月1日(日) 第180回秋例会 午後1時30分〜午後3時
於愛媛県立松山東高等学校視聴覚室

  漱石の「黄色い顔」               会員  木村 澄子 氏(藤沢市)

   一 緒言

 文豪 夏目漱石の言行は、様々な所で引用され、よく人口に膾炙しています。有名人の言葉は広く伝わっていますが、孫引き・曾孫引きなどで変化してしまうこともよくあります。漱石が、黄色い顔にコンプレックスを持っていた、というのも、そのひとつではないか、という疑問を持ちました。
 ちなみに、真嶋が引用したのは『三四郎』(明治四一年)の、西洋人を見て、「どうも西洋人は美くしいですね」〜「御互は憐れだなあ」と言ひだした。「こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戦争に勝つて一等国になつてもだめですね」というあたりでした。この引用自体不適当な気がするのですが、ここで引っかかってしまうと先に行けないので、とばします。
 漱石の著作を丹念にたどった荒正人の『漱石研究年表』に「服装・背丈・容貌に劣等感を抱く」という記述がありますが、 「黄色い顔=黄色人種であること」に劣等感を持っていたか、には言及がありません。そこで、漱石がどういう文脈で書いたものからの考察か?断片的な引用でなく漱石の真意をさぐるために本研究を行いました。
皆様御存知の『漱石研究年表』(以下『年表』と記す)は、菊判九百頁・厚み五aにもなる大作、文学者の年表としては型破りに詳細綿密なもので、年
表形式による一種の漱石伝というべきものです。『年表』本文 明治三四年四月五日に今述べた「服装・背丈・容貌に劣等感を抱く」があります。

 漱石の留学期間は明治三三(一九〇〇)年十月〜三五年十二月でした。漱石が倫敦到着後、約半年過ぎた、復活祭の前の聖金曜日に盛装して外出する人々を見ての感想を、荒正人はこのようにまとめたわけですが、模倣を何より嫌った漱石が劣等感? と感じたので、漱石自身の文章にあたってみることにしたのです
 二 方法
 まず、漱石全集の「総索引」(第二八巻)から「黄色」に関する用例を抜き出し、漱石の黄色に対する特別な好悪の感情の有無 黄色がとくに嫌いだというようなことはなかったか、確認をしました。色には好き嫌いがありますから。
 「総索引」は、紙数の都合で取捨選択がされていて、「黄色」は二九例です。
(ちなみに、「劣等」は二、「劣敗者」が一ありましたが、荒が用いた「劣等感」インフェリオリティコンプレックスは、少なくとも索引にはありませんでした。Ex E巻24頁8行(以下、巻頁行は略す)『それから』「麺麭に関係した経験は切実かもしれないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験(音楽会など)をしなくつちや人間の甲斐はない。」黄」色の用例は、索引以外に三例で、合計三二例、顔色のほかに自然・植物・光線や人為・服装の色などに使われています。肯定的なもの=○は六、否定的なもの=×は八で、服装・花の色などを美しいとしています。「黄色い声」などは否定的な用例ですが、慣用的な表現であり、個人的な好悪の感情とは別物です。つまり、黄色という色・言葉自体に好悪の偏りはなく、黄色と聞くと「キィーッ」となるとか、特別な好き嫌いはないことがわかります。
 次に顔意識・外見等についての記述、洋行中の日記・書簡を中心に、「黄色い顔」「黄色人」等の語句を抜き出し、漱石の顔意識・外見等にふれた部分に注意して、軽重・好悪を比較しました。三〇例(同趣旨は割愛)ですが、「人間色」二例に注意して下さい。肯定的表現と結びついているものは六、否定的表現と結びついているものは七、評価が空欄なのは、いずれとも言い難い・簡単には判別不能のものなどです。

 日記や書簡の例として、松山市立子規博物館の第五二回特別企画展「坊っちゃん百年―漱石のあしあと―」の自筆の「滞英日記」と絵はがきを御覧下さい。絵はがきは皆様御存知の、正岡子規あて、初体験のクリスマス、明治三三年十二月二六日。「柊を幸多かれと飾りけり」、日本に着くのは新年になってからなので「屠蘇無くて酔はざる春やおぼつかな」の句を書き添えています。子規の幸を祈り、自分の不足を述べるこの姿勢を心にとめておいてください。
 さて、問題の日記です。「明治三四年四月五日・金 今日ハGood Fridayニテ市中一般休業ナリ終日在宿Kidnappedヲ読ム五時半ヨリBrixtonニ至リテ帰ル、往来ノモノイヅレモ外出行ノ着物ヲ着テ得々タリ吾輩ノセビロハ少々色ガ変ツテ居ル外套ハ今時ノ仕立デナイ顔ハ黄色イ脊ハ低ヒ数ヘ来ルト余リ得意ニナレナイ」
復活祭の前の聖金曜日、つまりお祭りの初日なので、道行く人々はみな「外出行」を着ています。それに対して漱石は、とくに着替える必要があるとも思わず普段の服装で出掛けたようです。その服装は、出発時に新調して来たものと覚しく、明治三三年十月二二日付けの妻宛書簡203で「小生洋服ハ東京ニテ作リ来リ好都合ニ候是ナラバ「ガラ」モ仕立モ別ニ恥カシキコトナク用ラレ候」つまり「東京で新調してきて良かった」と巴里から書き送ったものが、半年ほどで、着古されてしまったのか、ここでは一転、色は褪せ・型も古い云々です。出発時から着続けていたのか、背広はくたびれて、型くずれしてきているのでしょう。ウールは染まりにくい反面、褪せにくいのですが、毛羽だって白っぽく変色して見えたのかも知れません。手紙では、細君を安心させるために、少し誇張して書いて、日記には正直なところを書いたのでしょうか。「背広・外套・顔・背」と数えてくると「余り得意になれない」と書いています。
 さて、その日の日記の後半「宿ヘ帰ツテ例ノ如ク茶ヲ飲ム今日ハ吾輩一人ダ誰モイナイソコデパンヲ一斤余慶食ツタ是ハ少々下品ダツタ」。他の下宿人がいないので、ついいつもよりパンをよけいに食べてしまったことを、反省しています。別のところで、しかし品行や思想では負けていない、至って上品だ、金を出して地獄(娼婦)などとは遊ばない、という趣旨を何度か述べています。そういう自負を持っているからこそ、日記の後半で、食い意地を出したのを下品だった、と反省もしているわけで、おかしいというかほほえましいですね。六十過ぎの私からみると漱石も、この時は三十代半ばの若僧、もとい五高教授といえどもまだ若い金之助クンなのでございます。
 自分の顔の黄色いのを意識したのは、洋行の船中の事だったと思われますが、記録で残っている一番古いのは、この手紙(明治三三年十月二三日 書簡203)です。「〜当地ニ来テ観レバ男女共色白ク服装モ立派ニテ日本人ハ成程黄色ニ観エ候女ナドハクダラヌ下女ノ如キ者デモ中々別嬪有之候小生如キアバタ面ハ一人モ無之候」 英国にはナポリで上陸、フランス経由。巴里ではエッフェル塔や万博を見て、この手紙を妻あてに書きました。日記も含め「黄色」の出てくる最も早い日付の記述です。「女中のような者でも器量の良い別嬪がいる 自分のようなアバタのある顔は一人もいない」と書いていますが、目新しい珍しいものは良く見える もしくは初めての外国(まだ巴里だが)で、良いものがまず目に入った、ということでしょうか。遊郭へでも行けば白く化粧してきれいな女性もいたでしょうが、悪所通いをしなかったと覚しい晩熟の漱石には、化粧した巴里の女性は「別嬪」に見えたのでしょうか。が、翌年の日記には反対の記述があります。服装モ立派←→一月十七日「倫敦デハsilk  hatfrock coatガ流行ル中ニハ屑屋カラ貰タ様ナ者ヲ被ツテ歩行テ居ルノモアル思フニ英国ノ浪人ナルベシ」別嬪有之←→二月十八日「往来ヲ歩クトイ ヅレモ小憎ラシイ顔バカリダ愛嬌ノアル 顔ヲシテ居ルモノハ一人モ居ラヌ」アバタ面ハ一人モ無之←→三月三十日「帰 リニbusニ乗ツタラ「アバタ」ノアル人 ガ三人乗ツテ居タ」
 次に、自分の姿の表現の変化を見ます。「往来ニ向フカラ脊ノ低キキタナキ奴ガ来タナト思フト我姿ノ鏡ニウツリシナリ」明治三四年一月五日の日記「此度は向ふから妙な顔色をした一寸法師が来たなと思ふと是即ち乃公自身の影が姿見に写つたのである。不得巳苦笑ひをすると向ふでも苦笑ひをする是は理の当然だ。」同年四月二十日の手紙(書簡223「今度は変に不愉快な血色をした一寸法師が来たなと思ふと、それは自分の影が店先の姿見に映つたのである。僕は醜い自分の姿を自分の正面に見て何返苦笑したか分らない。或時は僕と共に苦笑する自分の影迄見守つて居た。」大正四年版『倫敦消息』 留学当初の日記には「我々の黄なるは 当地に来て始めて成るほど、と合点するなり」と、前述の妻あて書簡と同じ程度なのに、のち(大正四年九月新潮社から出版の文集「色鳥」所収)には、「醜い自分の姿」と書き改めています。「汚い・醜い」が顔色のみか外見全体かは判別できませんが、ただ、この比較だけでも、同じ事柄の描写・表現が、変化、否定的にエスカレートしているのがわかります。
 前述例中の、その他の表現を見ますと、「彼(苦沙弥先生)は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわして居る。」「主人が黄色い顔をして坐つて居る。」(『吾輩は猫である』)苦沙弥先生は、漱石自身を戯画化・モデルにしたものと言われています。日本人の中でも胃弱で黄色い。次の「あくまで紅な彼女の顔色を見た。」「無邪気なペンは〜赤い頬にえくぼを湧かした。」(『倫敦消息』明治三四年四月二十日)は、唇の端に唾をためてコックニーで猛烈に喋るペンの顔で「紅・赤い」です。
 それから明治三五(一九〇二)年秋の『自転車日記』では、自転車の乗り方を練習する様子が描かれ、「黄色い顔」が何度も繰り返され、「余は実に彼らに取つて黄色な活動晴雨計であつた」、つまり「黄色な活動晴雨計」という比喩にまでなって、滑稽味を出すのに使われています。あの自転車練習の悪戦苦闘ぶりは、まことに滑稽ですよね。自転車にはよく乗れない私は滑稽より痛みを感じそうでしたが、漱石はどうしてあんなに熱心に練習したのでしょうか? 下宿の老婦人たちが生きた晴雨計がわりにしていたと自ら書くほど、晴れれば必ず練習に励んでいます。自転車に面白いところがなければ、あんなに熱心に練習するはずがない、そして黄色い顔を気にしていたとしたら、その顔をさらして、無様に転びまくりはするまいと思えます。どうしても自転車に乗れるようになる必要はないのに。
 三 結果
「黄」色は、顔色の他に自然・植物・光線や人為・服装の色などに使われていたが、黄色という色・言葉自体に好悪の偏りは認められませんでした。黄色に好き嫌いはなかったが、外見等にふれた部分には、服装・容貌・身長など、西洋人に比して否定的な表現が多出し、確かに「黄色い顔」を意識した表現が存在し、「汚い・醜い」等の否定的な形容とともに使われていました。
 あげた用例を時間順に並べてみると、はじめ、妻への手紙では「みんな色白で立派な服装・下女にも別嬪がいる」、それが日記では「愛嬌のある顔は一人もおらぬ、みな小憎らしい顔ばかり」となり、友人への手紙=『倫敦消息』では「下女の赤い頬」や「労働者の汚い何日も風呂に入っていない顔」等、否定的な観察例が表れ、アバタのある顔もいることがわかってきました。
 荒正人が取り上げた日記の記述は、復活祭のお祭りでみなが盛装して「得々タリ」=得意な様子でいたのに対して、普段着の自分は「余り得意になれない」、言い換えると「得意になって歩く人々と同じにはいかなかった」にすぎません。「気が引ける」と書いていますから引け目くらいは感じたですかねえ。どうでしょうか。
『倫敦消息』には惨めな様子が描かれていますが、闘病中の正岡子規を意識して、「君も病気で苦しいだろうが、吾輩もこんなにひどい思いをしているんだよ」と、面白く誇張した、いわばサービス精神に彩られた表現になっているのではないかと思われます。例の落第事件のときの手紙のように、「妾」と「郎君」の関係に仮託して、「妾は郎君が面白可笑しく暮らしていると思っているかもしれないが、郎君も苦労しているのだよ」とまでは書かないものの、気持は変わらなかったのではないでしょうか。面白く誇張して書いた証拠は、漱石自身の手紙の書き出しにあり、内容・文体ともに滑稽に書いているので、よくわかります。
「其後は頓と御無沙汰をして済まん 君は病人だから固より長い手紙をよこす訳はなし 虚子君も編輯多忙で「ほととぎす」丈を送つて呉れる位が精々だらうとは〜此方は倫敦といふ世界の勧工場の様な馬市の様な処へ来たのだから時々は見た事聞た事を君等に報告する義務がある 此は単に君の病気を慰める許でなく虚子君に何でもよいからかいて送つて呉れろと二三度頼れた時にへいへいよろしう御座いますと大楊に受合つたのだから手紙をかくのは僕の義務さ 以下略」
 さらに帰国後(明治三九年)の作品「文学論」序では「一寸法師」は「むく犬」=「狼群に伍するむく犬の如く」となっています。
ヨーロッパに着いて、初めはいわば乗り物からながめた全体の印象で、暮らし始めてからは徒歩で歩いた観察、また『倫敦消息』には唾がかかるほど間近に見た日常が書かれているといえます。 異性にはあまい人が多いのですが、漱石は、一等船室に乗るような中流以上の婦人達とのつきあいはほとんどせず、お金で女性と遊ぶこともムダと思っているので、芝居以外で美しいと感心する記述はほとんどありません。歯並びの悪い・髪の毛の薄い・「お多角顔」の細君を恋しがっています。「おれの様な不人情なものでも頻りに御前が恋しい」明治三四年二月二十日の妻あて書簡218「我妹子を夢見る春の夜となりぬ」明治三四年二月二三日の高浜虚子あて書簡219
 では、倫敦にいる間に自分が外国人であることを意識させられたか、というと、「倫敦は世界の勧工場だからあまり珍しそうに外国人を玩弄しない。〜頭の中が金の事で充満して居るから日本人などを冷やかして居る暇がないといふ様な訳で、我々黄色人―黄色人とは甘くつけたものだ。全く黄色い。日本に居る時は余り白い方ではないが先づ一通りの人間色といふ色に近いと心得て居たが、此国では遂に人間を去る三舎色と言はざるを得ないと悟つた。―其黄色人がポクポク人込みの中を歩行いたり芝居や興行物などを見に行かれるのである。」(『倫敦消息』「ホトトギス」所収)「人間色」=いわゆる「肌色意識」ですね。ナポリでは、「みなキョロキョロして余が顔を見る」と、明治三三年十月二十日の日記にありますが、「此国(英国)では衣服では人の高下が分らない。牛肉配達などが日曜になるとシルク、ハットでフロックコートなどを着て澄まして居る。然し一般に人気が善い。我輩などを捕へて悪口をついたり罵つたりするものは一人も居らん。」
 ナポリに着いたときや英国までの車中などで不快な思いをしたのと対照的に、英国人は振り向いたり指さしたりジロジロ人の顔を見たりしないので、日常生活では、自分が外国人であることを意識させられるようなことはなかったようです。但し、着る物・食べる物・寝具などは、「国へ帰れば普通の人間の着る物を着て普通の人間の食う物を食つて普通の人の寝る処へ寝られる、少しの我慢だ我慢しろ我慢しろと独り言をいつて寝てしまふ」などと書いていましたから、衣食住すべてに異国を意識してはいたでしょう。とくに、出発の船中から腹をこわして下痢したりしていましたから、胃腸の弱い漱石には、辛い留学生活だったにちがいありません。「然し時々は我輩に聞こえぬ様に我輩の国元を気にして評する奴がある。」(ホトトギス所収『倫敦消息』)と、手紙に書くようなことはありました。次の四つは、街中で漱石が言われた言葉です。
 ある店の前で、後ろを通りすがりに二人の女が「Least poor Chinese」と言ったのを「ものぐさい形容詞だ。」と書いています。また公園で、男女二人が「あれは支那人だいや日本人だ」。向こうから来た二人の職工じみたような者が「a handsome Jap」というので「有難いんだか失敬なんだか分らない」と感想を記し、芝居のガレリーで立ち見していたら傍の者の「あすこに居る二人は葡萄牙人だらう」と言うのを記録しています。色鳥所収の大正四年版には、同じ Least poor Chineseを「怒るよりも甚だ珍らしく聞いた」、「a handsome Japと冷嘲して行つた」、と改めています。
 四 考察
 さて、実はこれからが本論で、漱石が外見について劣等感を持っていた、と言えるか、について考えてみます。
漱石は、「黄色人とは甘くつけたものだ」「なるほど黄色い」と、自分の顔色を意識しています。しかし同時に、「日本人の中にいても白い方ではないが」とし、英国人女性ペンを「紅な顔色」「赤い頬」と表現していました。後の作品『我輩は猫である』では、苦沙弥を「胃弱で淡黄色い皮膚」「黄色い顔をして」と書いています。また、航海中に見た、日本人より肌の色の濃い人々(マレー・アフリカの「土人」)を「雅である」、中国人に間違われて怒る日本人に対して「むしろ名誉と思ふべき」と書き、洋行中の漱石には、日本人以外のアジアやアフリカ人に対する人種的偏見は見られず、同様に、英国人に対しても人種的偏見は見られません。学問・教養等劣っていないことを日々確認していたからでしょう。「英国人ナレバトテ文学上ノ知識ニ於テ必ズシモ我ヨリ上ナリト思フナカレ」(日記明治三四年一月十二日)、同十八日には英国人もaccentpronunciationを間違う、とあり、違いは意識しても是々非々で、優越や劣等の意識はなかったと言えましょう。 そして前述した通り、顔色を気にしていたことは事実ですが、身近な人々については、「白い」より「赤い」、赤ら顔と認識していること、色鳥所収の『倫敦消息』には「そうしてそのたんびに黄色人とはいかにも好く命けた名だと感心しないことはなかつた」と書いてはいますが、「人間色」がいわば本音の意識であり、「何こんな生活も只二三年の間だ。国へ帰れば普通の人間の着る物を着て普通の人間の食ふ物を食つて普通の人の寝る処へ寝られる、少しの我慢だ我慢しろ我慢しろと独り言をいつて寝て仕舞ふ」(K15)のように、「普通の人間」云々という表現が注意に値すると考えられます。劣等感があれば、真似をしてなるべく同化しようと思うのではないか? しかし、「我慢」というのは、同化を拒否する意識の表現でありましょう。
 では、何も直さずに平気でいたかというと、友人に借金して洋服を新調しています。それから、妻の歯並びは真剣に直したかったらしく、洋行の船中から「歯を抜いて入れ歯にせよ」という手紙を出しています。「其許ハ歯ヲ抜キテ入歯ヲナサルベク候 只今ノ儘ニテハ余リ見苦シク候」(書簡200)。そのあとも何度も。 前述の子規博資料にある自筆の「漱石の鏡子あて書簡(書簡215)には、「入歯」の文字があります。
また、伸ばせるものなら「背が高くなりたい」という記述もあります。私も小さいので同感です。さらに、「麻疹は命定め、痘瘡は器量定め」と言われた痘瘡の痘痕=アバタは相当気にしていたらしく、写真は修整させたそうです。写真屋が勝手に直したのかもしれませんが。実際残された写真に痘痕はありません。古いし、何度も引き写されたものばかりですから、鮮明さに欠けているせいかもしれませんが。(cfペンネーム=平の凸凹 あだ名=七つ夏目の鬼瓦 遠目華族の近アバタ)ちなみに美男子であった兄について、his forehead was rather pale,〜his cheekssoft and rosyと書いたものが残っています。
 英国人の中で、自分の顔色を「悪い・汚い」と意識していたのは事実ですが、下宿に立てこもって猛勉強に励み、後には「夏目狂せり」という電報を打たれたほどの生活状況からして、健康的であったはずはなかったでしょう。当時の漱石は、留学費用年千八百円で、決して安いとは言えず、普通の留学生よりは高級な下宿に住んでいましたが、妻子があり、一家を構えていた日本での生活よりはずっと不自由・不如意なものでした。トイレ、バス等皆窮屈云々の記述もあります。知的にも高いレベルの人々との交際を望んだが、経済的・時間的理由で断念。他者との交際を断って下宿にこもり、猛勉強をしていました。書物にお金をかけるので、食べ物にお金をかけられず、不健康な生活になり、顔色も悪く「不愉快な血色」になったと思われます。
 身長については、「むやみに背が高い。背の高さに税金をかけたらどうか」とか、食べ物や生活習慣の影響と考えたらしく、英吉利に十年も住めば背が高くなるかもしれないが、これからでは無理だ、と書いています。帰国後書いた作品では、「坊っちゃん」という小柄な主人公を活躍させています。『三四郎』には色の黒い「九州色の女」が出てきますね。
芥川龍之介は、漱石を小柄、と評しています(別巻)が、漱石の身長は、夏目漱石生誕百四十年記念「漱石房秋冬」〜漱石をめぐる人々〜(平成十年十月新宿区発行)によれば、五尺二寸四分=158.8p(明治二三年三月=二十三才当時 体重は十四貫二百匁=53.3s)だそうです。当時としては中肉中背だったのではないか、と私は思っていますけれども、皆様の方がお詳しいのではないでしょうか。なお、当時の漱石の顔、留学記念写真を見ると、鼻の頭と頬にアバタがあったそうですが、写真からはうかがえず、なかなか立派な顔に思えます。もっとも、劣等感に客観評価は関係しませんが。「余り得意になれない」という日記の記述から、「背の低いきたなき奴」や「一寸法師」という『倫敦消息』の表現までみてきて、総合的に考えてみますと、一方では、時間が経つにつれて、また相手があるものなら相手によって、印象の変わる書き方をしていて、筆がすべるというか、誇張があるというか、エスカレートしている様を見ることができました。また他方では、経済的に苦しみ、健康を害しながらも「人間」「普通の人間」として、自分の立てた計画を実行しつつある誇りを保っているといえ、「劣等感を抱く」というのにはあたらない。もしそれが正しいなら、学問や見識については「優越感を抱く」といわねばならぬ箇所がたくさんあります。「一般の英国人よりも我々(狩野亨吉、大塚保治、菅虎雄、山川信次郎)が学者であつて多くの書物を読んで居つて且つ英国の事情(ある事情 昔存在して今なき様な事情)には明かであると申して差し支え無し」(明治三四年二月九日書簡217)等々。
 結論 
漱石には「黄色い顔」についての劣等感はなかったものと推察できます。
ではなぜ、荒正人は、「黄色い顔」にはともかく、「服装・背丈・容貌に劣等感を抱く」と書いてしまったのか?『年表』の初めは一九四九年に書かれました。第二次世界大戦に負けて、米軍が進駐軍(実は占領軍)としていた時の記憶から、敗戦国の国民としての劣等意識があったからではないか、と推測できます。 漱石の時代は、不平等条約に苦しめられながらも、強い自負心を持っていました。漱石は、公平な目で、イギリスと日本との違いを観察し、それぞれに是々非々の判断をくだしています。ですが、留学費用を倹約して、書物を買って帰るために、生活を切り詰めていた漱石の苦しみが、荒にとっては、自分たちが戦後に嘗めた苦しみと重なってしまったのではなかったか、それで、「劣等感を抱く」と書いてしまったのではないか、と思われます。
 五 参考文献 (1)夏目漱石『漱石全集』一九九三年より刊行 全二八巻 別巻1 岩波書店 
(2)荒正人『増補改訂 漱石研究年表』一九八四(昭和五九)年刊 集英社
 漱石の留学以前、鴎外の『舞姫』にあるように堂々とヨーロッパで過ごした人々がいました。明治十年に私費留学した、男爵イモで有名な川田男爵もしかりです。以後も劣等感と無縁の人々はいました。ちょっと紹介しておきます。薩摩次郎八は、漱石が留学していたころ生まれた人で、一九二〇(大正九)年から約三〇年間をパリで過ごし、現在に換算すると六〇〇億円も蕩尽して欧州社交界の度肝を抜き、最後の「グラン・セニョール(大殿様)」とまで言われました。言葉とお金に不自由しなかったから、とも言えばそれまでか、とも思いますが・・・。日支事変の頃仕事でロンドンに行く夫に同行した伴野徳子は、ロンドンからからパリに行き、「パリジェンヌはきれいでしょう?」と問われ、自分たち夫婦のことは「おへちゃマダムと黄色んぼじゃしかたがないわ」と笑いながらも、「それほどでもない、きれいにしてるからきれいに見えるだけ」と、切り捨てています。言葉もお金も十分ではないながら、生き生きしたロンドンでの暮らし。なかでも、欲のない正直で働き者の英国人のメイドとの交流が胸を打ちます。自分たちが英国を去った後、孤独な彼女がどうしているか、案じているのです。 以上でございます。 御静聴 多謝
(本稿は編集者の責任において本論に影響のない範囲で前後を少々省略した) 

第181回冬例会

平成23年12月4日第181回例会 松山市立坂の上の雲ミュージアム会議室
(当日は漱石第96回忌法要が開会に先立ち営まれた )

  鉄鉢の旅を詠む ─子規・漱石─               会長 頼 本 冨 夫

一はじめに    子規漢詩 行脚僧 (明治二十九年)について

 看山尋水去 /山水有清気  /鉄鉢飛疎霰 /衲衣生白雲

 行蹤何杳杳 /世上任紛紛 /独宿孤峰月 /夜深天樂聞 (講談社版子規全集第八巻 漢詩 新体詩)609

 右の漢詩について(飯田利行(いいだ りぎょう)著「子規漢詩と漱石─海棠花」柏美術出版一九九三年刊)には書き下し文で「山を看、水を尋ねて去()けば、山水に精気あり、鉄鉢に疎霰飛び衲衣(たふい)に白雲生ず、行蹤何ぞ杳杳たる、世上任 (ほしいまま)に紛々たり、独り孤峰の月に宿せば、夜深くして天樂聞こゆ」(同書)とあり、訳として「行雲流水のように一所不在の行脚をつづけてゆくと、山水のうちに人間のあるべきようが感得できて心が香しくなってくる。旅ゆけば鉄製の応量器(はちのこ)の中に、白米ならぬ冷たい霰が舞い込み、つづれ合わせの破衣に白雲が去来する。行脚僧は、足跡をくらまし止めないのが仁義である。それに比べて俗世の人たちは、あれやこれやと紛らわしい行跡をとどめようとしてあくせくしている。行脚僧は、黙々として孤峰の頂上で月が出れば月を眺めあかす。また夜が更けてゆくにつれ、天来の音楽が聞こえてくるような心境が味わえる」とある。そして、「この詩は、行脚に明けた愚庵の人生を詠ったものであるが、旅好きであった子規の悟境も二重写しとなっていることは見逃すことができない。なおこの詩の題名には、固有名詞愚庵を冠せていないが、父母妹の恩愛にほだされ、その行方さがしに一生を賭けた愚庵の一途さが詠まれている。今ブームを呼んでいる尾崎放哉や種田山頭火に愚庵の行脚物語を聞かせてあげたい。旅をこよなく愛した子規にとって愚庵の姿は羨望の的でもあった。」と解説。
 ここでこの子規漢詩がなぜ天田愚庵を詠んだものと断定できるのか。子規全集にも具体的にその説明はない。子規と天田愚庵の関係については多くの資料・論文もあるが、私見ではこの『行脚僧』が天田愚庵を詠んだとするのは飯田氏以外にないようである。そこで、あらためて右の問題について考察した。

二子規の行脚へのあこがれ
T「我が俳句」(世界之日本 第三号 明治二十九年八月二十五日二) (子規全集第四巻 俳論俳話一)には「明治二十三年の頃なりけん一種無常的観念(ママ)流行し好んで旅僧、髑髏、薄、秋暮等の句をつくれり。是れ前の柔弱繊細なるものをのみ好みし感情に一の変化を与へたり。明治二十四年頃より稍俳句に熱心し之を研究せんと思ひ起したり。此頃少しく実景を写し出さんと企てたれども毫も成功せず猶前日の柔弱孱弱の風を免れざりき。此年冬始めて七部集三傑集を読み大に感ずる所あり。漫遊の念熾なり。僅に三日の糧を裏みて武蔵野を踏んで帰る。往復得る所十数句に過ぎずといへども復前日の孱弱なる音調、繊細なる意匠にあらず()
 右によると明治二十三年頃から子規はそれまでの柔弱繊細の題材から離れて一種の「無常的観念」の題材へと移行し、二十四年には単に想像の作ではなく実景を見て自然の中に直接入ることによって柔弱ではない句を得ようと努力していることがわかる。
2「行脚俳人芭蕉」明治三十年(講談社 子規全集第四巻)抱負ありて世に用ゐられず才学ありて人に知られざる者、世を捨て人を厭ひ、或は跡を山林にくらまし或は興を塵埃の外に求む。しかも彼猶枯木寒巌の如く無情なる能はず、懐を風月に寄せ情を吟詠に発す。歌人西行俳人芭蕉の如き是なり。()まことや行脚は芭蕉の命にして俳句は行脚の魂なるべし」
ここでは旅の中に題材を求めた西行や芭蕉にあこがれ、行脚は芭蕉の命であり、俳句は行脚の魂であるといっている。旅即ち行脚であり、行脚を棄てては芭蕉の人生はあり得ないし、芭蕉の俳諧は成り立たないということである。子規自身心の中にも西行・芭蕉の行脚にあこがれるものがあったはずである。『行脚僧』には跡を山林にくらまし、興を塵埃の外に求めたり、懐を風月に寄せ情を吟詠に発すという脱俗の境地は確かに詠まれている。しかしそれだけで前掲の子規漢詩が天田愚庵を詠んだものと断定できるものであろうか。
三、天田愚庵
そこで愚庵について略歴を見る。(筑摩書房昭四三年刊 明治文学全集第六四巻明治歌人集 天田愚庵年譜による)安政元年一八五四~一九〇四明治三十七年。本名甘田久五郎 後に五郎、出家後鉄眉、鉄眼(てつげん)、愚庵。現福島県平城下に生。明治元年十五歳。戊辰戦争、父母妹行方不明となり探索。十八歳改姓名。上京し落合直亮(なおあき)(歌人・国文学者、直文の養父、幕臣、神職)に国学・和歌を学び山岡鉄舟に禅を問う。明治十一年二十五歳、静岡にて鉄舟に会い軽挙を戒められ山本長五郎(清水次郎長)に預けられる。その手ずるにより東海道一円を父母探索。写真術を学び旅回りの写真師となる。二十八歳清水次郎長の養子となる。成島柳北閲、山本鉄眉著として「東海遊侠伝」(與論社)を出版。明治十八年三十二歳大阪内外新聞記者、鉄舟の紹介で京都林丘寺滴水禅師につき二十五年まで参禅。同年清水産寧坂に庵を営み愚庵と称する。二十五年十一月十二日、正岡子規が愚庵居訪問。十五日は虚子も同行。(四、参照)二十六年四十歳。西国巡礼。この「巡礼日記」を新聞日本に連載。二十九年四十三歳。一月子規の病床を訪問。三十三年、伏見桃山に新庵、転居。三十七年五十一歳一月十七日寂。没後「愚庵遺稿」「愚庵全集」他が刊行された。
四 子規と天田愚庵の交流
1二人の交流の始まり
「天田愚庵の歌─愚庵居のころ─」(子規会誌四九号平成三年 越智通敏(元愛媛県立図書館長)によると「愚庵が國分青崖(落合直亮の仙台の学塾での友人で漢詩人・日本新聞社員)から青崖と共に司法省学校に学んだという縁で子規の叔父加藤拓川や陸羯南をを紹介されたのが明治十年。その拓川が子規を東京に呼び寄せたのが明治十六年六月、その後不明ながらおそらく(愚庵は)羯南の紹介で子規を知ったのであろう」と推測している。
2子規の天田愚庵訪問(以下講談社版子規全集第十一巻随筆・二十二巻年譜 資料による)
○明治二十五年十一月十二日、天田愚庵を清水産寧坂の庵に訪ねる。宿で紅葉をハンケチに叩き写す。(手拭に紅葉打ち出す砧かな 松蘿玉液)
同十一月十三日、母八重、妹律東京移転のため、松山を出発、十四日神戸着。子規の宿に来る。子規は神戸まで出迎えに来ていた。京都見物。
○十一月十五日 人力車で各地遊覧の後虚子と共に寺町で求めた柚味噌を手土産に天田愚庵を訪ね深夜まで語る。()天此日雨。虚子来。共訪鉄眼和尚。閑談于夜深。浄林の釜に昔をしぐれけり(獺祭書屋日記)(※「浄林の釜」は「千家十職」の大西家初代浄林、寛文三年一六六三没)の作と伝えられる名品)この時の様子を子規はその随筆「松蘿玉液」(明治二十九年十二月二十三日)の中に次のように記している。「愚庵は東山清水のほとりにあり。ある夜虚子を携えて門をたたきしに庵主折節内に居たまひてねもころにもてなさる。庵は方丈に過ぎず片隅に仏壇を設け片側に二畳をしきりて炉をきりたり炉は絶壁に倚りたれば窓下直ちに谷を臨み()主客三人僅かに膝を入るるにすぎざれど境、静かに人、俗を離れたればただ此世の外の心地して気高き香ひの室内に満ちたるを覚ゆ。三人炉を囲んで話興に入る時茶を煎て一服を分たる。携え来たりし柚味噌を出せば庵主手を打って善哉と叫ぶ。  老僧や掌に柚味噌の味噌を点す
この時子規は庵の宝ともいうべき菊と桐の紋の入った古い立派な茶釜を見て感心した。和尚はそれを句に詠むよう勧めた。
3愚庵の子規庵訪問
 子規の愚庵訪問から三年あまりの後、明治二十九年春、愚庵和尚は子規庵を訪れた。「高き鼻長き眉、羅漢をうつしたらんが如き秀でた容顔は昔にも変らじと見しものから東山の廬は常に吾が夢をはなれず。月の朝、しぐるる夕、ものにつけて思ひ出づるは彼の釜になん。」凩の浄林の釜恙なきや
(松蘿玉液)と詠んだ。
 その後愚庵和尚は庵の庭十二景を選び「愚庵十二勝」という漢詩を作ったが、子規宛の書に「老少不定なり。子が病亦重きを加ふと。願はくは十二勝を和してわがための紀念(ママ)とせよ。或は知らず我却って子に先だつて逝くを。云々。」と。(松蘿玉液)そこで子規は「吾詩を善くせず。推日を移さば或は終に高嘱に負かん。因りて同人と共に俳句十二首を作りて以って責を塞ぐ。只俳句は詩に比してに傾くの嫌あり。然れども暴露却て是れ禅家の真面目ナリと信ず。伏して厳斧を請ふ。」(同右)として碧梧桐、虚子、把栗、子規の四人で愚庵十二の勝を詠んだ俳句四十八句を作り送ったのである。その中の「嘯月壇」と題して(以下も松蘿玉液明治二十九年十二月二十三日)
物干しに月一痕の夜半かな 碧梧桐
犢鼻褌(筆者注ふんどし)を干す物干しの月見かな  虚子
松はしぐれ月山角に出でんとす  把栗  
嘯けば月あらはるる山の上    子規
(※把栗は子規門、福田世耕(一八六五〜一九四四) 僧侶・漢詩人・俳人)
ここからは子規・愚庵の遠慮のない交流が読み取れる。
愚庵の柿の短歌と子規の俳句
 明治三十年十月十日、子規庵に桂湖村が愚庵に託された柿(つりがね)十五個と松蕈を携えて来訪と「病床日記」に記載がある。(※桂湖村、本名五十郎、漢学者、漢詩人、和歌は記紀・万葉の造詣も深い。明治元年越後の生まれ、後に早稲田大学教授、愚庵に漢詩・和歌を指導、新聞「日本」の客員、社友、日本近代文学大事典 講談社 昭和五九刊)子規はその礼状をどうしたものか未だ出してなかった。十月二十九日、湖村が来訪、湖村宛愚庵の手紙を見せた。その中の和歌六首の一つに、
 「まさおかはまさきくてあるかかきのみのあまきともいはずしぶきともいはず」というものがあった。愚庵にとっては贈りものとしては庭の柿しかない。子規の好物ということでその柿を贈ったのだが、どうしたことか礼状が来ない。その心中をユーモアを交えた短歌に託しているところが面白く、友情が感じられる。この手紙に対し、礼状を忘れていた事を思い出した子規は、十月二十八日天田愚庵宛に、「拝啓御起居如何に御座候 先日ハ湖村氏帰京の節佳菓御恵投にあつかり奉万謝候 多年の思ひ今日果し申し候 右御礼旁 敬白 十月二十八日 愚庵禅師 御もと
 御仏に供へあまりの柿十五  
 柿熟す愚庵に猿も弟子もなし
 釣鐘といふ柿の名もをかしく聞捨てかたくて
 つりかねの蔕(へた)のところが渋かりき
 出たらめ御叱正可被下候」とある。また別に、十月二十九日短歌に熱中している愚庵のことを考えて、短歌六首()を贈っている。なお、「天田愚庵の歌」(子規会誌四十九号平成三年四月越智通敏)によれば明治三十二年頃の作と推定し次の二首を紹介している)    
 贈子規歌
如何にして君はますらむ荒金の地さけて照る今日のあつさを
如何ならむ神の恵みか我はしも今年ばかりは夏痩せもせず
 夏の暑さの中病床の子規を思い遣り、自分は健康であることを知らせている。

五 子規短歌の万葉調への転換
 「正岡子規・その初期短歌について─(突然変異)のこと─」久保田正文(岩波「文学」一九八四年九月号)は「私のかんがえたいと思っていることは、明治三十年を境として、それ以前とそれ以後との、子規の短歌における断絶、あるいは連続の問題である。なぜ、明治三十年が境になるかといえば、その年に例の「柿の歌」六首がつくられたからである。「世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る」その他、「愚庵和尚よりその庭になりたる柿なりとて十五ばかりおくられけるに」と詞書のある五首である.ちなみに、その前年明治二十九年には、まつたく短歌作品なく、明治三十年にもこれら六首のみである。そして明治二十八年以前の作品の主要傾向が、明らかに『古今集』以後の平安朝和歌様式の糟粕を嘗めているものとみられるのに対し、一挙に『万葉集』歌風を示す奈良調和歌様式に転じたとみられるからである」としているが、この『万葉調』に関し、斉藤茂吉は「感じは俳人的で、それに万葉調を加味したものである。この万葉調は余程以前からちょいちょい見えて居るが、まだ思い切って云ひ得ないところがあった。このあたり(筆者注「御仏にそなへし柿ののこれるを我にぞたびし十あまりいつつ」を指す)でも亦さうであつて、純万葉調になり切れずに居る」と「正岡子規短歌合評」(昭和二十三年青磁社刊)の中で言っているとしている。以上から見て子規の『万葉調』そのものに対しては種々の問題があるとしても、明治三十年頃からその傾向が強くなったと考えてよいだろう。
 た、子規と万葉調との結びつきに関しては山崎敏夫は「筑摩書房昭四三年刊 明治文学全集第六四巻明治歌人集解題天田愚庵」において、愚庵の歌には明らかに万葉の格調が見られる。愚庵は心から万葉を愛した。そのことと、正岡子規が万葉調に傾いて行ったことと、深い直接の結びつきがあることは疑えない」と述べている。愚庵の子規への影響を示すものである。
六 子規の歌論「再び歌よみに與ふる書」と天田愚庵の意見
 子規の歌論「再び歌よみに與ふる書」
「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に氣の知れぬことなどと申すものゝ実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味合は能く存申候。崇拝して居る間は誠に歌といふものは優美にて古今集は殊に其粋を抜きたる者とのみ存候ひしも三年の恋一朝にさめて見ればあんな意気地のない女に今迄ばかにされて居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候。先ず古今集といふ書を取りて第一枚を開くと直に「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候」()(日本附録週報明治三一・二・一四)(講談社版子規全集第七巻歌論 選歌)子規自身つい先ほどまで崇拝していた『古今集』を「くだらぬ集」とこきおろしている。
2 天田愚庵の意見
陸羯南宛 天田愚庵書簡 明治三十一年三月二十四日付
 「此頃正岡寄書歌論頗ル得意ノ様子故我不服の廉両三件申遣候彼の論新紙上掲ル以上は老兄にも御同意と奉察候得共余り言過ぎては所謂口業ヲ作ル者ニシテ其徳ヲ損する事多からんを恐るる也貫之躬恒の歌ト彼百中十首ト比へ候へば論ずる迄もなき事歟ト存候併し今ノ世中ニハ如何か不存候共過きたるは及ばざる如く却て従来博し得たる彼れか盛名を累(わざわい)する事になりはせぬかと心配致候現在の人を論するさへ易き事なれば古人を論するは死人に口なし反駁の恐もなく頗る安心ノモノナルヘケレトモ君子ハ聊か慎ミタキものと存候御意見承度候()(講談社版子規全集第七巻歌論 選歌)
 当時は万葉調歌人よりも古今調歌人の数が多かったであろうが、こうした一方的古今集非難はかえって子規の名声を傷つけることになりはせぬかと愚庵は心配し、また子規の古今集批判に対する不満も併せて述べている。七 夏目漱石俳句
「一東の韻に時雨るる愚庵かな」明治三十年(岩波漱石全集第十七巻 俳句・詩歌)岩波全集脚注「一東の韻」は漢詩の韻目の一つ」()この句は愚庵が漢詩を作っているさまを想像したもの。」歌僧天田愚庵「巡礼日記」を読む松尾心空 鈴木出版二〇〇四年 まえがきに「この句は時雨る如く湧き出る愚庵の詩才を讃えたもの」とある。
筆者(頼本)は「に」は時を示す格助詞。諸国行脚の途中、懸命に詩作にふけっているとき時雨に降られた愚庵の姿を想像したと考えたい。漱石は子規から愚庵の事を聞いた可能性も否定できないが、以下に示すごとく長尾雨山から聞いていたと考える方が妥当と思われる。長尾雨山は本名甲、元治元年(一八六四)生、讃岐高松の人。明治二十一年東京帝国大学文科大学古典講習科卒業。同三十年熊本第五高等学校教授。三十二年東京高等師範教授、東京帝国大学文科大学講師。同三十六年、上海に移住,商務印書館入社。帰国後昭和十七年没七十九歳(略歴は「中国書画話」長尾雨山 筑摩叢書二七昭和四〇年による)
雨山は幼少より漢詩文に造詣深く、五高時代、夏目漱石と親交があり、詩の添削をした。「その頃愚庵とも親交があり、共に竹生島を訪れている。愚庵の雨山に寄せた二つの漢詩が残されている。漱石はおそらく愚庵のことを雨山からきいたのであろう。」(前掲松尾心空)漱石句は初五「一東の韻」と、ことさら取り立てていう所に韻目に詳しい雨山を連想させるところがある。
九 おわりに
1『行脚僧』には旅の好きな子規の行脚への憧れと愚庵の行脚する姿とが二重写し(飯田利行)とも考えられるが、歌僧愚庵の人生を詠んだものと特定する語句はなく、全体的に通俗的・観念的な気もする。しかし「獺祭書屋日記」「松蘿玉液」書簡などから、単に短歌上の問題や往来にとどまらない二人の心の交流を考えると、この詩には特に子規の西行・芭蕉・愚庵の脱俗の生活への憧憬が織り込められているとも想像できる。しかし、そうなると類似の詩が他にもあってよい気がする。
2漱石の俳句は、禅僧愚庵の漢詩を作りながらの行脚の姿に、心惹かれるものがあったから生まれたものであろうと考えられる。
本稿は第一八一回例会講演を若干修正したものである。(よりもと とみお)

平成二十三年十二月四日第一八一回例会  松山市立坂の上の雲ミュージアム
                   鉄鉢の旅を詠む ─山頭火─    副会長 高村 昌雄

  このテーマは、正岡子規が明治二十九年に発表した

行脚僧
 看山尋水去 /山水有清氛 /鉄鉢飛疎霰 /衲衣生白雲
 行蹤何杳杳 /世上任紛紛 /獨宿孤峰月 /夜深天樂聞  (訳文・書下し文は子規・漱石参照)

という漢詩に頼本会長が目を留めて、「これはまさしく山頭火の世界ではないか」ということから始まったというわけです。この漢詩は「愚庵」という人のことをうたったものだそうですが、それについては後ほど会長から詳しく話があると思います。「行脚」とは国語辞典によると「僧が諸国を巡り歩いて修行すること。転じて方々を(徒歩で)旅行すること」とあります。諸国を巡り歩いて修行した僧といえばまず弘法大師でしょう。そのほかに西行、一遍上人、良寛なども有名ですが、松尾芭蕉や小林一茶等と共に「放浪の俳人」とか「漂泊の俳人」とかいわれることの多い「種田山頭火」がいます。
 「放浪」とか「漂泊」とかいうとただあてもなくさまよい歩いているように感じますが、山頭火の旅は、行き先や日程などもあらかじめ決めてあり、俳友などを尋ねるときは何日に行くと連絡をしておき、旅費なども行き先の郵便局に局留めで送ってもらって、その土地に着くと郵便局で受け取るのを楽しみにしていたという「用意周到な旅」でした。 禅の修行に「座禅」がありますが、歩くことで修行する「歩行禅」もあります。山頭火はこの「歩行禅」を実践していました。常に目の前に「死」を見据えながら、山頭火が十一歳のときに自殺した母の菩提を弔って歩く厳しい修行の旅でもありました。そしてその中で感性豊かな俳句を詠み続けて来ました.
 山頭火は、大正十三年の暮、酒に酔って熊本の市電の前に飛び出して危うく轢かれそうになりましたが、その場から木庭徳治という人に連れ出されて報恩寺(曹洞宗)に預けられて、僧侶の修行を始めます。翌十四年二月、望月義庵師によって出家得度「耕畝」という僧名をもらい、三月に熊本市に近い植木町にある「瑞泉寺」通称「味取観音」の堂守となります。翌十五年四月十日、解くすべもない惑いを背負って、最初の行乞流転の旅に出ます。このとき、霧島から高千穂へ抜ける途中で、もっとも良く知られている句

分け入っても分け入っても青い山を詠みました。

昭和二年から三年にかけて、四国遍路をしています。三年の正月に徳島にいたという自分の記録と、二月二十七日に足摺岬の三十八番札所金剛福寺をお参りしたという友人への手紙、七月二十二日に小豆島の尾崎放哉の墓を詣でたという記録以外に、その足どりは不明です。四国遍路に七カ月余というのはあまりにも時間がかかり過ぎていますから、当然どこかで滞在していたものと推測されますが、全くその痕跡が見いだせません。研究者の大きな課題の一つです。小豆島のあと、山陰地方を廻って熊本に帰っているようですが、その足跡も不詳です。
 昭和五年九月九日、九州一周の旅に出ますが、この直前にそれまで丹念につけていた日記の全てを焼き捨ててしまいました。この時の旅の途中、鹿児島県で唯一立ち寄った志布志で十月十日から二泊し、その間に四十六句の俳句を詠んでいますが、そのことを記念・顕彰して九基の句碑が建てられています。このことを当会の会員で、山頭火も大好きな吉留照平氏から是非皆さんに紹介しておいてほしいとのご希望がありましたので付け加えておきます。
 昭和七年一月八日、福岡県の芦屋町を行乞しているときに、沛然と霰が降って来ました。このときに詠んだ句がこれもよく知られている
 鐡鉢の中へも霰です。まさに子規の漢詩鉄鉢飛疎霰」の世界ですが、「疎霰」どころではなかったようです。この句は、最初そのときの気持ちが表しきれていないということで、あれこれと推敲していたようですが、結局、このままでおちついて一代句集「草木塔」に収められています。
 松山市御幸一丁目にある山頭火終焉の地「一草庵」の前にこの句を刻んだ句碑が立っていますが、この句碑は山頭火が亡くなった翌年の昭和十六年に建てられたもので、山頭火にとっては二番目の句碑になります。また、この句碑は山頭火の顎鬚を収めた「髭塚」でもあります。
 昭和七年、山頭火は故郷防府の隣町小郡町(現・山口市)に「其中庵」と名づけた庵を結び、昭和十三年まで定住生活を送りますが、その間、昭和九年には、長野県まで行って、急性肺炎になって帰ってきます。昭和十一年には、近畿・関東・信越から平泉の中尊寺まで足を延ばし、福井で永平寺に参籠するなどの大旅行をします。
 昭和十三年十一月、山口市の湯田温泉に移ります。昭和十四年三月から一か月半ばかり東海・近畿を巡ってきています。十月一日に松山へやってきますが、六日から四国遍路に旅立ちます。香川・徳島と巡って高知市まで来て、遍路行を中断して十一月二十一日に松山に帰って来ます。十一月二十七日から十二月十四日まで、道後の遍路宿「ちくぜんや」に滞在、十五日に絶大な支援者だった高橋一洵等の計らいで、御幸寺の納屋として使われていたところを改修して入居、「一草庵」と名づけて、行乞をすることもなく、支援者と句友に囲まれ、山頭火にとっては、もっとも平安の日々を送り、十五年十月十一日未明、心臓麻痺で、望みどおりのコロリ往生で数奇な生涯をとじました。享年五十九歳でした。
 「鐡鉢の中へも霰」の「鐡鉢」は修行僧が家の前に立って「行乞」をする際に喜捨を受ける容器で、「鉢の子」ともいいます。山頭火が松山に来る前に使っていた「鐡鉢」は、「サハリ」と呼ばれる銅が主材で鈴・鉛・少量の銀の合金で、黄白色、直径一六八・八ミリ、高さ八〇・一ミリ、重さは一〇グラムですから「鐡鉢」という語感からすると意外に軽いですね。
 この鉄鉢はいつごろから使っていたのか判然としませんが、松山に来る直前に、徳山市にいた最も古くからの俳友久保白船に託していました。山頭火の没後久保白船から高橋一洵に託され、その後、一草庵を松山市が管理することとなってから、松山市の所有品となりましたが、山頭火の支援者の一人大山澄太が長らく借り出したままになっていました。さる平成六年に市に返還され、同年十一月から毎年の「一草庵公開日」に一草庵で展示するようになりました。しかし、平成二十一年四月、一草庵がリニューアルされて毎土・日・祝日に一般公開するようになってからは、特別の行事でもないと子規博物館の収納庫から出てくることがないのが残念です。
 正岡子規もよく旅をしており、いろいろな紀行文を残しています。
 松山市末広町の正宗寺の子規堂の前にある「旅立ち」の像は明治二十五年に箱根から伊豆へ旅したときの姿を模したものです。明治二十四年には、木曽路を回って松山に帰郷しています。このとき、東海道線「木曽川駅」の近くの茶店で出会った店の少女にいたく心惹かれたようです。これに因んで木曽川駅の横にある公園に「俳聖正岡子規見染塚」が立っています。
 明治二十六年には、芭蕉の「奥の細道」をたどってみたいと
 
みちのくへ涼みにゆかん下駄はいて
としゃれのめして、下駄履き、着物姿で上野駅を出て、宇都宮・福島・仙台などの俳人を訪ねてまわり、山形県、秋田県から岩手県を経て一か月の長旅をしています。
 明治二十八年、従軍記者として中国へ渡ったのも大変な旅でした。その帰途に大喀血、須磨で療養した後、松山へ帰って夏目漱石の「愚陀仏庵」に寄宿、十月東京に帰りますが、このとき奈良へ立ち寄って、有名な

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
を詠みます。十月二十六日から二十八日まで、東大寺の近くの「對山棲・角定」に滞在して、市内の寺社を見物、二十九日に「法隆寺」を見物しています。「對山棲・角定」に宿泊しているときに、夕食後「御所柿」を所望すると、接待に出た「下女」が柿を山のように持ってきて剥いてくれました。このとき、子規はこの「下女」に大変興味を示し、出身地まで訊ねて、「月ヶ瀬」と知ると「柿の精霊でもあるまいかと思うた」と「くだもの ― 御所柿を食ひし事」と題して「ホトトギス」に発表しています。先の「木曽川の茶店の少女」とこの「下女」の話は、子規の数少ない艶話として興味があります。
 ここで柿を食べているとき、鐘の音が聞こえ、下女が「東大寺の鐘」であると答えます。
時折、「柿くへば鐘が鳴るなり」の鐘は、法隆寺ではなくて「東大寺」の鐘だったというようなことをいう人がいますが、それはこの話から出ているのではないでしょうか。今でこそ「法隆寺の鐘」も「東大寺の鐘」も滅多に聞く事は出来ませんが、当時はしばしば鳴っていたのでしょう。
 時間がきましたので私の話はここまでといたします。(たかむら まさお)

(漱石研究会)平成22年の記録

1

174回春例会

子規博物館 平成二十二年四月二十五日(日) 第174例会

漱石を癒したまち松山       愛媛県立農業大学 会員   田鶴谷 茂雄

 1 まえおき 
(1)平成年十七年9月、坊っちゃん会会報創刊の新聞記事を見て、以前から関心のあった本会に入会した。翌年平成十八年2006年は「坊っちゃん」発表百年の年に当たり、松山市をあげた関連行事があり、次の催しに参加できたのは幸運であった。坊っちゃんシンポジウム(愛媛大学三月十九日)NHKの100人で読む「坊っちゃん」、後日FMで放送(道後温泉四月二十三日)漱石坊っちゃんの碑建立式(道後温泉裏手四月二十九日)坊っちゃん同窓会山嵐に扮して出演、佐藤栄作氏の漱石役が出色(子規博物館八月1日)第七回お城下ウォークに山嵐の扮装で参加し市内を練り歩く(十月二十八日)
(2)坊っちゃん会は四季の例会と読書会を主な活動で、第一五七回冬例会(平成十七年十二月三日愚陀仏庵)に初めて出席して以来、今回第一七四回春例会まで十八回連続で出席している。また、愛媛大での第1回読書会「坊っちゃん」(平成十七年十二月十七日)に参加して以後「夢十夜」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こころ」と読み続け現在五十四回を数える。
2 観光ボランティアガイドについて
(1)「松山観光ボランティアガイドの会」の発足(平成19年4月)の年、松山大で「ふるさとふれあい塾」を受講(平成十九年九月〜十二月)して、「松山観光文化コンシェルジェ」(中級)の資格を得て、平成二十年四月にこの会に入会、三年目を迎えている。ガイド人数は三月末まで一〇一人であったが「坂の上の雲」のテレビドラマ化による観光客の増加に対応するため、大幅な増員を図り四月に新人八十三名が入会して、発足当初の目標二百名体制に近づいた。このため五月より松山城の土日ガイド人数が2人から五人に増やせた。
(2)ガイドの活動は、道後と松山城のガイドを毎月各1回している。ガイドは半日単位で、九〜十二時、十三〜十六時各三時間受け持つ。このほか、温泉祭りの協力や旅行業者ツアー客もガイドしている。漱石に関しては、「子規と漱石コース」があり、次のルートでゆかりの地を案内している。@愚陀仏庵跡A城戸屋旅館跡B松風会発祥の地C松山中学校跡D愛松亭跡碑E萬翠荘F愚陀仏庵(復元)G坂の上の雲ミュージアムまで
3 漱石が好んだ道後温泉
(1)温泉の泉質はアルカリ性単純温泉で、別府温泉のような火山性温泉に対し、付近に火山がない非火山性温泉という。約48℃の高温泉を毎分1.5トンくみ上げられるエネルギーは非火山性温泉にあって出色といわれる。
(2)道後温泉の湯はすべて、17本の源泉からくみ上げたもので日量約二千tになる。源泉は本館から五百m以内が十本で、たもほとんど千m以内にある。湯の温度は高温(五十五度)から低温(20℃)まで幅があり、これを混合して四十三度の適温にして四個所の分湯場(椿の湯敷地内・冠山・道後温泉駅前・子規記念博物館の裏)から各施設に分湯している。
4 伊佐爾波神社
(1)日本三大八幡の一つの現在の社殿は、松山藩三代藩主松平定長が江戸城での流鏑馬(やぶさめ)の必中祈願が成就できたお礼に建て替もの。本殿は大分の宇佐八幡、京都の石清水八幡とならぶ。
(2)絵馬として、赤穂浪士や日露戦争旅順攻防の図が有名だが、他方江戸時代に発達した和算の問題や回答を奉納した算額も多い。江戸から昭和までの二十二枚があり、貴重な文化遺産である。建築家志望で理系得意の漱石が関心を持って眺めたかもしれない。
5 松山の漱石 
(1)松山赴任の理由には、「自分の本領」の不透明感へのいら立ち、失恋や家族関係悪化による心身衰弱の転地療養の面、友人の斡旋と高い給料があげられるが、親友子規の故郷であり3年前に来訪歴があることが一番の決めてと思われる。
(2)弓をたしなんだ漱石。弓は松山赴任(明治二十八年四月)の一〜二年前から始めた。漱石が下宿した愛松亭内には矢場がありよく弓を引いており、その姿は美しく巧みであったと虚子が回想している。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」といわれるように心身の安定状態がうかがえる。弓を題に「弦音にほたりと落ちる椿かな」「弦音になれて来て鳴く小鳥かな」と詠む。続く下宿の愚陀仏庵でも裏の空き地に弓の稽古場があったという。熊本への転勤でも鬱金木綿の袋に入った大弓を携えて汽船に乗った話が残る。
(3)吟行と小旅行。十月六日漱石は子規と鷺谷から宝厳寺へ吟行し、その帰りに大街道の入り口にあった新栄座で当時人気の照葉狂言を観劇している。後に漱石の弟子になる安倍能成氏が中学生の頃で二人を目にしたという。宝厳寺の句碑「色里や十歩下がって秋の風」はあまりにも有名。11月3日漱石は三内村河之内を訪れ、雨の中白猪と唐岬の滝を観て詠む。「瀑五段一段ごとの紅葉かな」「山鳴るや滝とうとうと秋の風」道中で一句「鎌倉堂野分の中に傾けり」明治29年3月1日、前年夏に愚陀仏庵で会い意気投合した今出の企業家で俳人の村上齊月宅を虚子と訪ね、神仙体の句を作る。四月熊本へ転勤のおり、齊月に宛て「逢わで去る花に涙をそそげかし」と惜別の句を贈っている。
(4)愚見数則(明治二十八年11月25日松山中学保恵会雑誌)
  松山に残る漱石の唯一の文章といわれる。愚見とへりくだりつつも先生と生徒の関係を、昔と今を比較して痛烈に批判している。昔の書生は敬える師について学び、師もわが子のように弟子に接した。今の学生は学校を宿屋のように考え、金を出して逗留し、いやになったら宿を変える。校長は宿屋の主人で、教師は番頭か丁稚のようなもの。校長、教師が生徒の機嫌をとるようでは、立派な人間を作るどころか生徒が増長し、教師の値打ちが下落すると現代にも通じる意見を展開している。後年の「木曜会」にみる師と弟子の濃密な交わりを理想としたようだ。
6 漱石の松山の俳句
(1)「漱石松山百句」から、「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」は子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」に先立つこと二ヶ月前に詠んでいる。「時雨るるや泥猫眠る経の上」の猫に対する寛容な態度は、後年の「我が輩は猫である」を想起させる。「叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな」はユーモラスな表現で、落語好きの漱石ならではの一句である。「お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花」は柔らかな方言を上手く取り入れている。「永き日やあくびうつして分かれ行く」は松山の暮らしが心身の屈託をぬぐい去った感がする。
(2)なじみ集は子規の直筆で、自分に馴染みのある人々の句を集めたもので、平成21年11月末、松山市が三千九百九十万円で京都の古書店から購入した。この中に漱石の初期の句が載る。「秋にやせて薄の原になく鶉」凸凹24才凸凹は漱石の雅号。先日のテレ番組「漱石の五七五」の中で坪内稔典氏が、秋・薄・鶉を季重なりと指摘する。「姫百合や月を力に岩の角」凸凹27才 子規の類句に「うつぶけに白百合咲けり岩の鼻」がある。
7 「坊っちゃん」こぼれ話
(1)高等師範学校の嘉納校長と漱石の間柄。嘉納校長は25年もの間高等師範の校長を務めたが、漱石を採用した明治二十六年は校長になった年で、張り切って教育の理想を漱石に垂れたのであろう。この場面が「坊っちゃん」で松山中学赴任時の狸校長とのやりとりに生かされている。
(2)山嵐と西郷四郎について。山嵐は坊っちゃんに出てくる数学教師堀田のあだ名であり、堀田の出身は会津である。一方山嵐は柔道の投げ技の一つで、講道館四天王の一人西郷四郎が得意としていた技である。西郷の出身が会津であり、講道館創設者で教育者の嘉納治五郎と漱石の関係から、あだ名や出身地を考えだしたと思われる。嘉納治五郎は柔術諸派を統合する形で明治14年に柔道を作り上げ、翌年に講道館を創設した。明治19年警視庁武術大会で柔道は柔術諸派を打ち破り、柔道が広く普及する契機となった。これらは漱石の青年期の出来事で、強く印象に残っていたと思われる。
8 漱石の妻
(1)漱石の結婚について。漱石は松山での暮らしを、田舎に来ればすることもなく、嫁をもらうか放蕩か読書しかないと揶揄し、「近頃女房を貰いたくなり田舎者を一匹生けどるつもり」と書簡に記しているのは、心身ともに安定したことを示す証拠であろう。この後「淋しいな妻ありてこそ冬籠」と詠み、12月末帰京して、鏡子夫人とお見合いをする。帰りが遅くなり翌年1月10日に休暇届が出ている。6月子規宛の手紙の中に「衣更へて京より嫁を貰いけり」の句がある。
(2)悪妻説について。鏡子夫人は一般に悪妻といわれるが、現在の基準では夫人の言動はむしろよき妻、よき母であることを示すものが多く、悪妻説は中傷に近い。取り巻きの若者連中が、若者特有の反発心や金を借りることに対するバツの悪さを感じたことから悪妻説が出てきたとみられる。また取り巻きは漱石を崇拝するあまり、夫人の漱石に対する態度を嫌悪したふしもある。漱石夫妻は、一面で近代的思考のカップルで、他方いかにも明治時代の男尊女卑の色合いの濃厚な不思議な取り合わせだった。
(3)鏡子夫人の性格。誰に対しても公平で言葉に裏表がない、策略をめぐらすことはできないそういうところを漱石が愛したのであろう。「坊っちゃん」の清も表裏のない人として描かれており、坊っちゃんを無条件に愛している。清のモデルは虚子との説もあるが、実は「きよ」は鏡子夫人の本名であり、「坊っちゃん」は漱石から鏡子夫人へのラブレターという部分もあるという説に軍配をあげたい。   

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175回夏例会

第175回 夏例会  於 愛媛大学校友会館

写生(文)、言文一致体と子規・漱石
           
         (大阪大学大学院文学研究科・教授)金水 敏

 言語(およびその要素である音韻、文法、語彙、文字・表記、スタイル等)は、一種の資源と見ることができます。それを得る(学習する、輸入する、開発する等)ためになにがしかのコストをかける必要がありますし、また手に入れた言語によってなにがしかの利益(経済的、知的・文化的、社会的、宗教的、安全保障的、等)を得ることができるでしょう(クルマス 一九九三、井上 二〇〇〇、水村 二〇〇八参照)。このような考え方を「言語資源論」と呼ぶこととし、この言語資源論の観点から、正岡子規や夏目漱石が目指した文学、特に写生文の果たした役割について考えてみたいと思います。
 言語資源について考える場合、音声言語と書記言語(文字言語)の違いについては十分留意する必要があります(cf.金水 二〇〇七、金水・乾・渋谷 二〇〇八第一章)。人間は生まれてまず音声言語=母語を獲得するのであり、例外はあり得ません(手話は、音声言語の亜種と考えておきます)。話すことは人間の〈本能〉(ピンカー 一九九五)ですが、書くことはそうではありません。音声言語は、同時性、対面性という時間的・空間的・身体的な制約に縛られています(むろん、通信装置や音声・映像メディアによってその制約は弱まっていますが、本質は不変です)。書記言語は、その制約から離れることを目的として使用されます。書記言語は教育・学習によって伝承される文化です。書記言語は音声言語への何らかの回路を持つ(何らかの形で読める)ことを前提としますが、書記言語と音声言語の関係性・緊密さの在り方は、書記体・文体によってさまざまです。
 さて、漱石や子規が幼少から親しんだ書記言語とはどのようなものだったでしょうか。日常的な書簡等では、漱石も子規も後年までいわゆる(そうろう)文を用いています。またよく知られているように、漱石も子規も漢詩・漢文に深くなじんでおり、また俳句をよくしました。もちろん子規は、近代俳句の祖として、『ホトトギス』派を打ち建てていきます。候文もそうですが、漢詩・漢文は「訓読」ということをすることによって、初めて日本語として読むことができます。また訓読文もいわゆる文語であって、話し言葉とはかけ離れています。俳句も、俗語を多く用いますが、文法的な骨格は文語文です。明治時代の実用文(法律、行政、学術、報道等)でも、正式なものであればあるほど、漢文訓読文、欧文訓読文調の文語文が主流となります。一方で口語的な文章も無いわけではありません(例『鳩翁道話』などの心学道話の筆録や人情本など)が、これらは純然たる書記言語というよりは、そこから声が聞こえてくるような、音声談話の文字化とでもいうようなテキストであり、当時の書記言語の総体の中では、あくまで周縁的な位置づけに留まります。
 幼少期に身につける音声言語=母語はいわば「本能」であり、コストがゼロに等しいとするならば、成長するにつれて身につける言語のヴァリエーション(音声・書記とも)は、母語に近ければ近いほど学習・教育のコストが減少するはずです。事実、言文一致運動とはそのような合理化をめざした、欧化政策の一環として、明治初年から政治主導で始まりました。しかし一旦言文一致運動は表面的には下火を迎え、明治三〇年代以降から再び言文一致が息を吹き返すように見える現象については、単に学習・教育あるいは政治的な観点を見るだけでなく、その文体で何が書けるか、どのような世界が開かれるかという、より知的・文化的な価値の側面を見る必要があります。たとえば、言文一致について批判的だった子規は、『筆まかせ』第一編で次のように書いています。
……はじめ文字といふ符牒のできし時は言葉通りを写せしなるべけれど 少し発達するに従つては文字を利用して 口ならば精密に長々しくいふ処も短く文章に現はし、対話ならば礼儀を守つて丁寧にいふ処も文字ならば多少略することあるに至るべし。然るに「なり」といふ言葉をやめて「です」「あります」若しくは「ございます」抔の言葉を何故に使ふや。何故に簡単なる語をすてゝ冗長なる語を用ゆるや 「ございます」といふ言も口でいゝ耳できく時は むつかしくも聞きぐるしくも思はねど 目で見、手でかく時は見にきく書きぐるし〔き〕にあらずや(後略)(「言文一致の利害」『新日本古典文学大系 明治編 正岡子規集』一六七頁)
 つまり、従来の書記言語で簡潔に書けていたことを、音声言語にそって書き直すだけでは、冗長になるだけで何ら利点がないと考えたわけです。
 しかし直ちに言文一致に向かうかどうかはともかくとして、漱石も子規も日本語の改良ということに関しては生涯をかけて取り組んでいるには違いありません。ここで論の補助線として、齋藤希史氏の『
漢文脈と近代―もう一つのことばの世界』から引用したいと思います。
 ……そもそも中国古典文は、特定の地域の特定の階層の人々によって担われた書きことばとして始まりました。逆に言えば、その書きことばによって構成される世界に参入することが、すなわちその階層(=士大夫。引用者注)に属することになるわけです。(二五頁)
 ……つまり明治初期では、現代かそうでないかの境界は、文語と口語の間にあったのではなく、漢文と訓読文との間にあったのです。訓読文を今文体と呼ぶ時に想定されている古体とは、つまり漢文なのです。漢文は不自由である。旧来の桎梏に縛られている。訓読文は有用で自由な文体である。文明開化の世にふさわしい文体である。そういうわけなのです。(一〇〇頁)
 ……言文一致の特徴である口語性は、目の前にある事物や心を、ことばの集積とは無関係であるかのようにそのまま表現するという志向を促進するために採用されているのであって、その志向自体は、漢文から訓読文への転換によって始まったものなのです。そして、さらなる離脱のために、古典文の要素をいっそう払拭するために、より透明なことばへと向かうために、口語への接近が図られたのだと言ってよいのです。訓読文は、『佳人之奇遇』のような漢文脈に大きく依拠した小説を書くことも可能にしてしまいます。そうした反動を阻止するためにも、言文一致体は必要でした。簡単に言うと、訓読文が脱=漢文だとするなら、言文一致体は、反=漢文として成立しているものなのです。(二〇七〜二〇八頁) つまり、漢文脈でものを書くということは、「士大夫」の思想世界に参入することとイコールである、そのことから自由になるために文体を変えることが必要だった、という説明です。文体と内容とは自由な関係になく、互いに依存しあっているという認識です。面白いのは「目の前にある事物や心を、ことばの集積とは無関係であるかのようにそのまま表現するという志向」という部分で、これを「口語性」という文脈から外すと、そのまま「写生」の説明になります。子規の場合、「ことばの集積」とは「月次」の世界です。月次をいかに脱却するか、そのことの手がかりとして「写実」あるいは「写生」という概念があったのでしょう。またその概念は、子規が大学で学んだ、自然科学に起源を持つようです。勝原晴希「江戸の身体、明治の精神」から引用します。
 このような
Ideaの追放に役立ったのは、江戸の水流を引き継ぐ合理主義と、西洋に由来する自然科学的態度との結びつきであったと思われる。(中略)子規の二重性は後年、「吾の美とする所は理想にもあり、写実にもあり、理想的写実、写実的理想にもあり、而して吾の不美とする所も亦此等の内に在り」(「我が俳句」三号、明治二十九年)、「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず」(『俳諧大概』明治三十二年)という位置へと結実して行くことになる。
やがて「写生」へと繋がることになる子規の二重性は、「古池の吟」(一〇八頁)にも現れている。芭蕉のこの句は「深意に至ては我々の窺ふべきにあらず」とされていたが、スペンサーの文体論の「一部をあげて全体を現はし」云々に思わず机を打ったと、子規は記している。「悟りて後に考へて見れば、格別むずかしき意味でもなく、たゞ地(「池」の誤りか)の閑静なる処を閑の字も静もなくして現はしたるまで也」と。(四八一〜四八二頁)

 さて、ここで
Ideaと引かれているのは、『筆まかせ』にも収められている、若き漱石が子規に送った書簡によっています。要約すると、漱石は、子規の書くものにidea itselfあるいはoriginal ideaがないと非難し、子規はrhetoricがあればそれで十分だ、と答えています。漱石のideaはおそらく西洋文学から受け継いだものでしょうが(亀井 二〇一〇)、当時の漱石が何を意図したかはおいて、それをたとえば「近代的自我(の探求)」と置き換えてみるならば、漱石と子規の肌合いの違いもかなり明瞭になるかもしれません。ここで、柄谷行人(一九八〇)『日本近代文学の起源』から引用します。
 ……日本の近代文学は、いろんな言い方はあっても、要するに「近代的自我」の深化として語られるのがつねである。しかし、「近代的自我」が頭の中にあるかのようにいうのは滑稽である。それはある物質性によって、こういってよければ、“制度”によってはじめて可能なのだ。つまり制度に対抗する「内面」なるものの制度性が問題なのである。
 したがって、私は「内面」から「言文一致」運動をみるのではなく、その逆に、「言文一致」という制度の確立に「内面の発見」をみようとしてきた。そうでなければ、われわれは「内面」とその「表現」という、いまや自明且つ自然にみえる形而上学をますます強化するだけであり、そのこと自体の歴史性をみることはできない。たとえば、『浮雲』や『舞姫』における「内的格闘」を云云するとき、ひとはそれらの文学表現(エクリチュール)を等閑に付している。まるで、「内面」がエクリチュールの問題と切りはなされて存在するかのように。重要なのは、「内面」がそれ自体として存在するかのような幻想こそ「言文一致」によって確立したということである。(六七頁)
 子規が煩わしいと感じた、音声言語には必須であった敬語要素等をそぎ落とし、より「透明なことば」(齋藤・前掲)によってあたかも「内面」が露出しているかのような表現が可能になった時、言文一致は完成したと言えるでしょう。それは音声言語と緊密に連携を保ちながら、しかし音声言語そのものではなく、新しい書記言語の文体として生み出されたのであり、それによって漢文、漢文訓読文、和文等の伝統的文体が持ち得ない近代的価値がもたらされたのです。そのことが周知の事実となったとき、言文一致体がはじめて市民権を得たのだと考えられます。
 
参考文献
勝原晴希(二〇〇三)「江戸の身体、明治の精神」『正岡子規集』新日本古典文学大系 明治編、四七一〜四八五頁、岩波書店
亀井俊介(二〇一〇)「帝大英文科学生 夏目漱石」『文学』第一一巻第二号、二〇六〜二二四頁、岩波書店
柄谷行人(一九八〇)『日本近代文学の起源』 講談社
金水 敏(二〇〇三)『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店
金水 敏・乾 善彦・渋谷勝己(共編著)(二〇〇八)『日本語史のインタフェース』シリーズ日本語史、四、岩波書店
齊籐希史(二〇〇七)『漢文脈と近代―もう一つのことばの世界』日本放送出版協会
井上史雄(二〇〇〇)『日本語の値段』大修館書店
金水 敏・乾 善彦・渋谷勝己(共編著)(二〇〇八) 『日本語史のインタフェース』シリーズ日本語史, 4岩波書店、(特に金水担当の第1章「日本語史のインタフェースとは何か」)

クルマス、フロリアン(著)諏訪功・菊池雅子・大谷弘道(訳)(一九九三)『ことばの経済学』大修館書店
ピンカー、S.(著)椋田直子(訳)(一九九五)『言語を生みだす本能(上)・(下)』日本放送協会 (原著)Pinker, S. (1994) The Language Instinct, William Morrow and Company, New York.
水村美苗(二〇〇八)『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で―』筑摩書房
※本稿は、平成二二年七月二五日、第三回愛媛大学写生文研究会(松山坊ちゃん会と合同開催、於愛媛大学校友会館2F)での筆者の口頭発表「写生文、漱石、(そして役割語)」に基づき、新たに書き下ろしたものです。「役割語」に関する内容は紙幅の都合上割愛しました。

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176回秋例会

第176回秋例会 県立松山東高 視聴覚教室
「坊っちゃん」をつらぬく戦争   愛媛大学教育学部准教授 会員 若松伸哉

 「坊っちゃん」が発表されたのは雑誌『ホトトギス』の一九〇六年四月の別冊付録。発表の前年には日露戦争が終わっている。日露戦争は国の浮沈をかけた戦いだったわけだが、この日露戦争の痕跡が小さいながらも「坊っちゃん」のなかにも見出せる。

 たとえば第三章では「一時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れちらかすんだろう」と書かれており、天麩羅を四杯食べたことについて生徒に囃し立てられた坊っちゃんはそれを「日露戦争」の報道になぞらえているのである。日露戦争報道の過熱はメディアの発達と再編成を促す大きな契機となったわけだが、そのような日露戦争についての報道を比喩とする描写は、当時の読者にとってまだ新しい日露戦争の記憶を当然ながら喚起させるだろう。「日露戦争」の語の持つ当時の喚起力の大きさはやはり注意されて良い。
 そして坊っちゃんが四国を去る遠因にもなる「祝勝会」当日の乱闘の場面では「田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨い位である」と、日露戦争時のロシア満州軍総司令官である「クロパトキン」の名を出している。この「祝勝会」は日露戦争の祝勝を想像させるもので、そこに実際の新聞でも頻繁に名前が登場しているクロパトキンの名を小説のなかに登場させているのである。坊っちゃんの転機にかかわる場面において、このようにさりげないかたちではあるが日露戦争の断片が記されているのである。

 また、うらなりの送別会の場面で、野だいこが「日清談判破裂して……」と歌っているが、これは日清戦争時に流行した歌であり、「坊っちゃん」には日露戦争だけでなく、日清・日露といった日本近代における二つの大きな対外戦争の記憶が刻印されているのである。

 もちろん、日露戦争が及ぼした文芸への影響はなにも「坊っちゃん」に限ったことではない。例えば「坊っちゃん」の掲載誌である俳句雑誌『ホトトギス』においても、日露戦争交戦中には、戦争に関連した「雑信」や戦争を題材とした写生文が掲載されている。松山中学出身で日露戦争に出征した桜井忠温が、その戦争体験を小説にした「肉弾」(一九〇六)を書き、大ベストセラーになったことなどを象徴的な例として、「坊っちゃん」に限らず当時の文芸分野における戦争の影響は大きいのだが、ひとまず「坊っちゃん」における戦争の断片を先のように確認しておきたい。

 さて、では主人公の坊っちゃんについて見ていこう。坊っちゃんは常に差異を産出する人物として描かれている。「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」ではじまる冒頭は有名だが、この後に続く少年時代のエピソードでは質屋の息子「勘太郎」との喧嘩が語られ、さらにその乱暴ゆえに母は「兄ばかり贔負」にし、父には「人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖の様に云」われ、兄とは「元来女の様な性分で、ずるいから、仲がよくなかった」とある。坊っちゃんは家族のなかでも浮いた存在として自らを語っているのだが、彼がそのような差異をもって語るのは家族だけではない。

 唯一の理解者とも言うべき清と別れて四国に降り立つ第二章冒頭では、「船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている」のを見て、「野蛮な所だ」と言い、「磯に立っていた鼻たれ小僧」に対しては、「気の利かぬ田舎ものだ。猫の額程な町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか」と罵る。その後も田舎に対する差別的な表現は小説の随所に見られ、坊っちゃんはその差別的感情を隠そうともしない。

 そして、そうした差別の感情は勤務地である中学校に行っても変わることはない。はじめて会う中学校の同僚に対しても、一人一人への文句を小説のなかに書き付け、それぞれに渾名を付けている。生徒についてはもっとひどく、初日から授業を「敵地」と呼び、「こんな田舎者に弱身を見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった」と、けんか腰である。結局、この後も生徒との関係は改善することもなく、宿直のときにはイナゴを蚊帳のなかに入れられる悪戯に端を発し、生徒と大騒動を起こし、祝勝会当日の夜には生徒の乱闘に巻き込まれることになる。

 家族・同僚・生徒など通常親しくするべき人間に対しても差異を強調し、なじもうとしない坊っちゃんの心性がこれらから分かる。そしてそれは、表向きは頑固で正直だとする〈江戸っ子〉という坊っちゃん独自のアイデンティティへと一見回収されるようにできている。しかし、小説「坊っちゃん」は、こうした主人公の言動によって様々な対立の構造を露呈させていく。

 坊っちゃんに〈東京と地方〉という差別の枠組があることは明らかだが、宿直のときに生徒と争う場面では次のように坊っちゃんは言っている。

江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけ様がなくって、仕方がないから泣き寐入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。只智慧のないところが惜しいだけだ。

ここでも「江戸っ子」の語を出している坊っちゃんだが、それ以上にこの引用部分では自分が武士階級で生徒が百姓だという〈武士と百姓〉の枠組が強調されている。坊っちゃんは明治時代以前から日本にある階層差を持ち出しているのである。

坊っちゃんに見られるこれらの対立の構造は、彼と山嵐との共闘の関係にも結びつくものである。赤シャツとの共闘に際して、お互いの出身地について「江戸っ子」と「会津」であることを確認する場面は、例えば早くに平岡敏夫が指摘したように戊辰戦争の敗北者を想像させる(*1)。戊辰戦争は尊皇派と佐幕派の争いであり、江戸から明治に変わるときにあらわれた主に武士階級による国内の大きな対立であり亀裂である。常に差異を産出する存在である坊っちゃんを主人公とした小説「坊っちゃん」は、主人公の言動に付随して様々な差異を明らかにしていく物語であり、さらに皆で祝うべき「祝勝会」の日においても、中学校と師範学校の生徒が乱闘するという差異であり亀裂をこの小説は記している。このように「坊っちゃん」の作品世界は現実の日本にたしかにある(あった)亀裂を明らかにしているのである。

先に「坊っちゃん」における日露戦争の痕跡を述べた。日清・日露の二つの対外戦争が、一つの共同体であり近代国家としての日本の誕生に大きく寄与していることはよく言われるが、そうした時代にあって、「坊っちゃん」は統一体としての日本に亀裂を走らせるように、国内における差異をあらわにしていく。

そして主人公・坊っちゃんが四国の中学を辞め、東京に戻った後に就職したのが「街鉄の技手」であることも興味深い。芳川泰久は、漱石が「坊っちゃん」を執筆する直前の一九〇六年三月十五日、日比谷公園で「電車値上反対を標榜せる東京市民大会」が開催され、街鉄の電車が焼打ちされる事件があり、それが当時の新聞で報道されていたことを指摘している(*2)。

歴史学者の成田龍一も日露前後の時期を国家に奉仕する「「国民」創出の時代」と捉えているが、統一共同体としての「帝国」を担う統合的な〈国民〉意識の誕生とともに、一方で〈国民〉の名のもとに、日本政府に対して社会構造の改革等を望む運動を引き起こす主体の誕生を見ている(*3)。その象徴的な事件が、日露戦争の講和に不満を持った民衆が起こした、一九〇五年九月五日の日比谷焼打事件であり、前述した「坊っちゃん」執筆直前に起こった街鉄電車の焼打事件は、日比谷焼打事件後に増加していく社会の構造改革を望む民衆騒擾事件の一つなのである。このような社会に対する民衆の運動は、言うまでもなく国内に亀裂を走らせるものであり、日露戦争による〈国民〉創出はこうした統合と亀裂という両義的な状況も招いていた。街鉄電車焼打事件はそこに位置付けることができるのである。

均質な共同体を突き崩していく坊っちゃんは、日本が一体となって戦っている日露戦争の時期にあっては、その国民統合の意識のなかでたしかに異質な存在であるはずだ。そうした性格を持つ坊っちゃんが就職したのが「街鉄」であり、当時の「街鉄」は国民意識にかかわる問題から見ても重要な場であったのは今述べたとおりである。「街鉄」をめぐる闘争は〈国民(市民)〉という民衆の連帯感・統合感を軸としたものでもあり、一方で国内における差異も同時に顕現させてしまうという両義的なものでもある。今度はその闘争の場所に坊っちゃんはいる。

*1 平岡敏夫「「坊つちやん」試論―小日向の養源寺」(『文学』一九七一・一→『   「坊つちやん」の世界』一九九二・一、塙書房)。
*2 芳川泰久「〈戦争=報道〉小説としての『坊っちゃん』」(『漱石研究』一九九   九・十)。
*3 成田龍一「「国民」の跛行的形成」(小森陽一・成田龍一編著『日露戦争スタデ   ィーズ』、二〇〇四・二、紀伊國屋書店)。   

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177回冬例会

第177冬例会 平成22年12月5日(日)市立坂の上の雲ミュージアム会議室
 漱石95回忌法要    正宗寺副住職 田中義雲師
 
講演 本会顧問 愛媛大学教育学部教授 佐藤栄作   

 書き潰し原稿から読む『道草』            

一 漱石の書き潰し原稿(反故、反古)
 漱石の作品には、『坊っちやん』をはじめ、自筆原稿が残っているものがいくつもあります。ただし、現物を見るのは大変です。ご存じの通り、私が報告している『坊っちやん』の原稿は一九七〇年に番町書房から出された複製です。それ以外にも、『心』、『それから』の複製が、一九九四年、二〇〇五年に岩波書店から、『道草』もカラー写真が二〇〇四年に二玄社から出ています。高価ですが、手に入れようと思えば入手可能です。
 これら自筆原稿を、私は「最終原稿」と呼んでいます。原稿には最終原稿とそうでない原稿とがあります。最終原稿とは、漱石がこれでよいとして、出版社や新聞社に渡した原稿です。最終原稿でない原稿とは、書きかけて捨てられた原稿です。これを私は「書き潰し原稿」と呼んでいます。
 書き潰し原稿とは、捨てられた原稿ですから、「ほご(反故、反古)」です。われわれも手紙などを書くとき、書き損じを丸めて捨てたりしますが、あれに当たります。『坊っちやん』など初期の作品にはなかったと言われていますが、後期の作品には、多くの書き潰し原稿があったようです。岩波書店『漱石全集第二十六巻』(二〇〇四年)によれば、現在、『道草』には二二七枚、『明暗』には四四三枚の書き潰し原稿が確認されています。漱石は、朝日新聞の一回分に当たる「漱石山房」の原稿用紙で九枚分程度を、一日分のノルマとして書いていたようですが、後期作品は、前期のようにすいすいと書いたものではなかったことが、鏡子夫人の述懐からも知られています。
これら書き潰し原稿は、漱石自身が作品を書く際、納得のいく本文の前段階ですから、「草稿」と呼ぶことができます。所蔵する図書館なども「書き潰し」と呼ばず「草稿」としています。『漱石全集
第二十六巻』でも「草稿」として活字化されています。今回は、『道草』の書き潰し原稿を取り上げますが、私はこれらを「草稿」と呼びません。これは私自身の好みの問題でもありますが、「草稿」というと、「下書き」のようなイメージが生じるからです。後で述べるように、『道草』には「下書き」原稿はありません。『道草』だけでなく、漱石の作品には「下書き」原稿はないようです。
なぜ、この捨てられたはずの「ほご」が、何百枚も残っているのか。書き損じた原稿は脇に重ねられていたらしいのですが、それを弟子が譲ってもらったことによります。弟子にもらわれた書き潰し原稿は、そこで保管され、あるいは何らかの事情によって世の中に出、現在の所有者のところへ行き着いたのです。

二 推敲と書き潰し
 小説を執筆する際、作品の構想のためのメモなどが書かれます。漱石のメモも残されています。しかし、漱石は、原稿用紙に一通り下書きするということはなかったようです。現在残されている書き潰し原稿は、清書原稿の前段階の下書き原稿ではありません。どれも最終原稿にするつもりで書き始め、書いている途中で何らかの捨てる理由が生じたために捨てられた原稿です。どの書き潰し原稿も「最終原稿」になる可能性があったと思われます。
 不満があってそのままではダメだと判断した場合、すべてが書き潰し原稿として捨てられる訳ではありません。原稿用紙を変えずに、削除したり、追補したりして済ます場合が、数の上では圧倒的でしょう。この加除訂正が推敲です。即座に直したものもあれば、後で原稿を読み直して直したものもあるでしょう。漱石の後期の作品の場合、一箇所も訂正のない原稿用紙など、皆無といっていいでしょう。原稿用紙を変えて書き直すことにした瞬間、そこに書き潰し原稿が産まれるのです。

『道草』には、二二七枚もの書き潰し原稿が確認されています(そのうち私は二〇四枚見ることができました)。その中には、同じ箇所の書き潰し原稿が複数枚存在している場合があります。つまり、何度も書き直しているということです。

例えば、後で例に挙げる二七回一枚目には、五枚もの書き潰し原稿が残っています。最初に書かれた書き潰し原稿をAとするなら、書き潰し原稿がA〜Eまであるわけです。今、この他に書き潰し原稿がないとするなら、二六回を書き終え、二七回を書き始めた漱石は、まず、Aを書き始めます。そしてAを捨てB、BでもだめでC、Cも気に入らずD、Dも捨てE、Eも結局やめてその次に書いたものが、二七回の一枚目の最終原稿Fとなりました。実は、Eは一枚分書き終え、二七回の二枚目も書きかけました。しかし、その二枚をやめて冒頭から書き直したものが最終原稿Fです。

 このように見ると、最終原稿は、n枚目とn+1枚目が続けて書かれたとは限らないということがわかります。n枚目とn+1枚目との間に、書き潰し原稿が書かれた場合があるからです。普通、下書き原稿とは一通り続けて書かれるものでしょうから、『道草』に下書き原稿はありません。「清書」とは下書きに対していうものでしょうから、『道草』には清書原稿もまたありません。『道草』(漱石)の場合、原稿用紙に作品を書いていく中で、最終原稿になったりならなかったりしたということです。

三 書き潰し原稿と合わせて『道草』を読み直す
 最も書き潰しの多い二七回一枚目、すなわち二七回の冒頭部分を見ていきましょう。

 まず、次に挙げるのが、初出である朝日新聞(これは東京版)です(略)。ゆまに書房の『漱石新聞小説復刻全集第九巻道草』(一九九九年)によりました。『道草』の二七回が世に出た最初の姿です。朝日新聞は、漱石から届いた原稿(最終原稿)を活字に組んだのですが、今触れたように、二七回一枚目の最終原稿が、最終原稿として確定するまでに、五枚の原稿用紙が書き潰し原稿となりました。五枚の書き潰し原稿A〜E(新宿区歴史博物館所蔵)と最終原稿F(二玄社『夏目漱石原稿「道草」』二〇〇二年による)とを活字にしたものを以下に挙げます。松澤和宏二〇〇三『生成論の探求』(名古屋大学出版)を参考にし、削除部分を[ ]、追加部分を〈 〉で示します。◆は不明な字。
A  [長太郎が席に着い]
   三人はすぐ用談に取り掛かつた。

   比田は

B  三人〈が〉[]すぐ用談に取り掛つた〈時、〉[]比田は最初に口を開いた。
C  三人が用談に取り掛つた時、最初に口を開いたのは比田であつた。
D  三人はすぐ用談に取り掛つた。比田が最初に口を開いた。
  「〈時に〉長さん何うしたもんだら〈う〉ね」

  「さう」

   比田は此男によく見る左も仔細らしい〈調子〉
[態度[]と口調を用いた]
E  三人はすぐ用談に取り掛つた。比田が最初に口を開いた。
   「時に長さん何うしたもんだらうね」

   「さう」

   一寸した相談事にも〈比田〉
[]は仔細振る癖を有つてゐた。さうして[]仔細振       []らなければ、自分の存〈在〉[]が強く認められないと考へてゐるらしかつた。
  「比田さん/\と立てゝ

F  三人はすぐ用談に取り掛つた。比田が最初に口を開いた。
  
[「時に長さん、何うしたもんだらうね」]
  彼は一寸した相談事にも仔細ぶる男であつた。さうして仔細ぶる男であつた。さう  して仔
細ぶればぶる程、自分の存在が周囲から強く認められる [譯だ]と考へてゐ  るらしかつた。「比田さん/\つて、立てゝ置きさへすりや好いんだ」と皆なが蔭  で笑つてゐた。
 二六回の最後とのつながりから、漱石は二七回の冒頭を書き始めたはずです。まず、「長太郎が席に着い」と書いて消しています。遅れてきた長太郎が席に着くことからでなく、「三人」で用談を始めることから書くことに決めたようです。問題は、最初に口を開く比田をどのように登場させるかです。Aでは、改行して「比田は」としましたが、やめます。原稿用紙を取り替え、「三人はすぐ用談に取り掛つた。比田が最初に口を開いた。」と書いたのですが、「三人がすぐ用談に取り掛つた時、比田は最初に口を開いた。」とつなげています(B)。しかし、一文で書くなら、もっと自然なものがと考えたのか、また、原稿用紙を替え、「三人が用談に取り掛つた時、最初に口を開いたのは比田であつた。」と書き直しています(C)。ところが、次のDを見ると、また、これを二文に分けています。結果から見ると、比田の説明を書いてから会話を始めるのか、いきなり会話から始めるのか、漱石は迷っていたのではないでしょうか。この時点では、すぐに会話を始める方に傾いたのでしょう。漱石は、捨てたはずのAと同じにDを書き始めます。冒頭を短い二文に分け、「比田が最初に口を開いた。」として、会話を書きます。「長さん何うしたもんだらうね」の前に「時に」を付け加えたのはどの段階か不明ですが、これを受けての長太郎の「さう」を入れて、その後、この時の比田の口調を説明しようとしています。「態度を」と書いて、「態度と口調」に直し、さらにそれらを「調子」にしたところでボツにしました。
 Eでは、冒頭部分はもう確定したから、すいすいと書き、「さう」と長太郎が応じた後、比田の人物像、性格の説明を入れています。ここを変えるために、Dを捨てたのだとわかります。このEは、一枚目を書き終え、実は二枚目まで進んでいます。しかし、そこまで書き進みながら、漱石は、これをも反古にしました。なぜか。一つの可能性としては、長太郎の「さう」の後に比田の説明をすることに不満感じたのかもしれません。
 次に、いよいよ結果として最終原稿となるFを書き始めます。おそらく、この時点では、「時に長さん何うしたもんだらうね」の後に比田の人物・性格の説明を入れることに決めたのでしょう。そしてその通り進んだのですが、比田の人物紹介を書き終えてみて、「時に長さん何うしたもんだらうね」もカットして後回しにした方がいいと気づいたのでしょう。「時に長さん何うしたもんだらう」「さう」、このやりとりは、後(二枚目)へ移動させています。
 もし、書き潰し原稿が残っておらず、最終原稿しか見られなかったなら、「時に長さん何うしたもんだらうね」を後ろに回したという推敲だけが、二七回の冒頭部で行われたことになります。書き出し部分の迷いや、長太郎の「さう」が比田の説明より前に書かれていたことなど、知るよしもありません。比田の説明部分も、推敲を経て今のかたちになったことはわかりません。
 つまり、最終原稿の推敲(加除訂正)は、実は、まさに最終段階での推敲だといえます。最終原稿で訂正なしに書かれている部分も、もしかすると散逸した書き潰し原稿段階で推敲があったかもしれません。もちろん、各回の二枚目以降は、前後のペンの色や書きぶりから、連続して書かれていたかどうか(間に未知の書き潰し原稿があったかなかったか)は、ほぼ分かるはずです。しかし、各回の一枚目は、ひょっとすると、

 最終原稿も残っていなければどうでしょう。漱石はかなりの原稿が残っていますが、他の作家はこれほどは残っていません。初出(朝日新聞)以上にさかのぼれないとしたら、最終原稿の推敲さえ分からない訳です。作品がどのように生成していくか、これは原稿があって初めて可能になります。しかし、今回のことで明らかなように、書き潰し原稿がすべて残っていなければ、真の解明は不可能です。つまりは、際限がない作業かもしれません。(二八回の冒頭の一枚目、二枚目については省略)

 書き潰し原稿から最終原稿へ
 ある書き潰し原稿とその次に書かれた原稿とは、当然どこかが違っています。その違いのうちの何かが、否定された原因です。しかし、書き潰し原稿に書かれたことのすべてが否定されたわけではありません。先の二七回一枚目でも、冒頭の二文は、DからFまで、三回書かれています。その部分は、否定されているのではなく、すでに確定しています。では、漢字が変わっていたり、ルビ(振り仮名)が有ったりなかったりするのはどうでしょう。違いがあった場合、後で書いたものの方が「よりよい」、最終原稿が「最善」と、つい考えがちです。
ここでは、詳細には述べませんが、実は、文字・表記のレベルは、書き潰し原稿の原因にはなっていないようです。例えば、五九回一枚目、「あつらえた」を書き潰し原稿では「誂らえた」と書いてありましたが、最終原稿では「眺えた」となっています。これは言ベンを目ヘンで書き間違えたものでしょう。このように、最終原稿で明らかな誤字を書いた例が『道草』にはあります。この例もそうですが、送り仮名にも揺れがあります。漢字の書体は書くたびに揺れています。ルビ(振り仮名)はどうでしょう。書き直す度に、ルビが振られたり、消えたりしている箇所があります。ルビを振るかどうかで漱石が迷っていたとは私には到底思えません。朝日新聞に載る段階では、総ルビ(数字以外すべてルビ)になります。ルビ付き活字を間違えられないようにという意図も見られますが、振る振らないが気まぐれにしか見えない箇所がいくらでもあります。そうなると、用字についても(例えば、五一回六枚目、書き潰し「睡り」→最終「眠り」)も、最終原稿による積極的な訂正とどこまでいえるか。つまり、文字・表記のレベルにおいては、最終原稿が最善とはいいにくいのです。何でもかんでも最終原稿を神聖視してはいけないと私は考えます。
 四 書き潰し原稿から読むことの意味
 書き潰し原稿、最終原稿の存在によって、漱石が『道草』を「書くこと」を擬似体験できます。しかし、すべての書き潰し原稿が残されているわけではありません。実は、四の最後で述べた「最終原稿を神聖視しすぎるな」ということこそ、文字・表記を研究する私にとっては、書き潰し原稿から読むことから得られた一番の収穫かもしれません。

(漱石研究会)平成21年の記録

1 第170回春例会 平成21年4月26日(日) 松山市道後公園内 市立子規記念博物館会議室に於いて第170回春例会が開催された。
総会に引き続き会員 ヒューマンアカデミー校講師 松浦淳子氏による「私とアメリカそして漱石」と題する講演があった。

平成21年4月26日(日)『第170回・春例会』松山市立子規博物館

回顧録『私とアメリカそして漱石』

 私も当初はそうだったのです。その実体が掴めるまでは。「え?!アメリカの大学にJapanese literature(日本文学)という専門分野があるんだ!」「国文学とは何か違うの?」「日本での日本文学研究との相違点は?」「漱石専門の研究者っているの?」「文学作品や文献は日本語?論文は英語?」等々、現在では多少時代遅れとも感じられるような疑問ですが、90年代初頭はこのような疑問が生まれてきても不思議はないほど、アメリカにおける日本文学の研究は日本では一般にあまり周知されていないような時代だったのではないでしょうか。当時の学術界のトレンドは、所謂伝統的な文学研究である「作品論」や「作家論」ではなく、文学批評や文学理論においてはテクストそのものが何を意味しているのかを研究し、「文学」という概念が何を意味しているのかを思考する等、方法論として現代思想を応用すると共に、哲学、心理学、社会学、言語学などの観点から、科学的・理論的に研究し論説を語るというような多面性・多義性をもったものだったと記憶しています。ただし、「作品論」や「作家論」を全面的に否定していたわけではないのです。「何々の専門家」(例えば、漱石の専門家)と形容されるような本質究明的な文学研究を行なう学者というよりは、その学者の得意とする研究領野はあるが、非常に広範囲に渡る研究を行なう学者が多かったこと。換言すれば、「microscopic perspective」(微視的見地)ではなく、「macroscopic perspective」(巨視的見地)からの分析や「脱構築批評」が主流だったと記憶しています。90年代のアメリカ、私が関わっていた大学や学術界では、日本文学はまだまだマイナーな分野でした。ただ、この90年代は80年代から始まった日本語ブームと共に、日本文学等「Asian Studies」の研究が盛んになりつつあった時代でもありました。従って、私が経験した日本文学に対する、ある意味カルチャーショック的な体験談を語るには、読者の方々にも時間のベクトルを少しだけ過去に戻し、私の回想にお付き合い頂ければと思います。それでは私の苦労話を交えながら当時の大学院事情から物語ってみたいと思います。

南カリフォルニアにある総合大学「University of California, Irvine」通称「UCI」という大学で私が所属していた学部は「School of Humanities」下の「Department of East Asian Languages & Literature」通称「EALL」。その学科のjunior yearに編入した私は、母語が日本語だということもあったのか、いきなりgraduate courseseminarに参加しながら学士号を取得するように言われ、その当時のEALL Chair に全ての受講するコースをカスタマイズしてもらい学業に励むことになりました。その学士号を取得した後もそのままEALLの博士課程への進学が承認され、その前期を修了した時点で修士号の取得を認可され、その後もそのままresearch assistantとして、またlecturer として、二足の草鞋を穿きEALLに属し続けたというわけです。その当時、日本文学専攻の博士課程の学院生は10名ほどで、その学院生の殆どがすでに4、5年もEALLで研究している優秀な文学博士のタマゴ達ばかり。彼らの学歴や経歴は様々でしたが、何かしら日本文学に魅せられてEALLに辿り着いていたことは確かでした。

EALLgraduate seminar で学び始めた頃、「文学とは?」「語る主体って?」「歴史の非連続性とは?」「言説とは?」等、哲学的概念の議論がなされ、その間「メタ言語」が終始飛び交うという状況でしたが必死に理解しようと努めていた私。抽象的な事項を論理的に思考することは困難極まり、私の頭の中は当然パニック状態!「なぜ文学評論に西洋哲学思想が必要なのか?」という疑問から様々な考察が始まり、「なぜ?」という問いに正解のない探究が始まり無我夢中。そのうちに構造主義の思想家「Michel Foucault(ミシェル・フーコー)」の書に出会いました。フーコーは『知の考古学』で「自己の同一性(identity)というのは慣習や法や制度や規則が要求するものである。<中略>主体とは一個の自己になることだが、正確には、知と権力がある一定の戦略によって内側から誘導し、要求してくる《自己》の規格(norm)に従属すること(内田隆三『ミシェル・フーコー』)」だというのです。この論説を枠組みとして文学テクストをどのように批判し解体することができるのか、人間の「主体性」とは何なのか、当時の私には意味不明でしたし、その後も困惑状況のまま迷走的思索は続きました。seminarでは傍観者のごとき私は、ただただ先輩学院生達の文言を羨望の眼差しで見聞きし、教授陣の意見に真剣に耳を傾けていくうち、文学や言葉そのものに対する私の様々な概念が徐々に根底から覆されていきました。今思えば、30代前半まで私は文学というものには無縁の人間でした。興味のあるテーマといえば、政治経済や社会問題というようなノンフィクションばかり。文学なんて「虚構」の世界だとばかりに自ら文学書を手に取ることは殆どなかったのです。ましてや文学・文芸評論にはかなりの無知無学者。その「文学オンチ」の私が、何年も日本文学を研究し続けていた大学院生達と共に非常に興味深い講義を受けることになったことは、私自身も驚きだったのです。

さて、Asian Studies 学術界の日本文学は大きく2つの分野に分かれています。それは「premodern」と「modern」。日本文学を専攻する学院生は必ずどちらかを最終的には選択し、研究分野を絞りその専門家となりますが、博士課程で学んでいる間は、両方の分野のseminarを自由に選び、それを受講し単位をとることになっていました。従って膨大で広範囲な知識を身につけていくという、それほど長期的なプロジェクトだったのです。また博士論文の執筆が認可されるまでの過程で、自分の研究テーマを変更や修正することになれば、博士号を取得するまで最高8年から10年かかった者もいます。当時の私は先輩学院生達の苦労が他人事ではなく、博士号への道程は難関であり艱難だと実感するばかりでした。一方、当時のEALLの教授陣では、日本文学の学者は4名で、modern premodern で2名ずつ。この4名の教授達は各々の専門的研究領野の境界を越えた研究をしていたのですが、その代表的領野は「cultural studies」で、とにかく多才な学者達だったと記憶しています。その当時の私は芥川龍之介や太宰治等に興味があり、特に明治後期から大正にかけての文壇の動向や芥川と漱石との師弟関係などを考察していました。そこで様々な文献を通し驚嘆したことは、その議論の場に必ずといっていいほど漱石関連の分析や引用が言及されていたことでした。極言すれば、日本近代文学を研究するには漱石を抜きにして語ることはできない!それほど漱石は日本近代文学の礎を築き発展させた文豪なのだと。

 ちょうどその頃です。「前田愛(本名:よしみ)」という文芸評論家のテクストに出会ったのは。そして結果的には『前田愛・英語版出版プロジェクト』に携わることになったのですが。その前田氏の評論の中でも『音読から黙読へ:近代読者の成立』や『大正後期通俗小説の展開:婦人雑誌の読者層』における分析には大いに啓発されたことを記憶しています。その一方で、私は当時課題とされた様々な現代思想論を読めば理解不能。それではと日本語訳を読めば余計に理解できず、結局英語版で格闘していた私には、この前田氏の記号論、テクスト論や読者論等は、文学の新参者の私にも少しだけ理解可能なものでした。ただその評論内容には他文献の引用や参照が多く、その情報量には目を見張るものがあり、とにかく私にとっては未知の文献名が次々と言及されていて精読すること自体大変でした。それを一件ずつ辿れば、その情報網がWorldwide Webのように構築されていく、それは驚きでした。とかく学術書というものは難しい内容をメタ言語で表現し知識人を対象に書かれたものが多いのですが、前田氏の書はたとえ知識人対象だとはいえ幾分違っていたように印象を受けました。難解な論説を分かり易く説明すること、一般の読者にも理解できるように平易な言葉で言述することこそ、より高度な能力と技術が必要であり、そのような研究者こそが「わかる」から「できる」というレベルに達しているのではないかと。このような点で前田氏はそれを実践した学者なのだと感じました。

 その後も前田氏の論説を色々分析するうちに、あるテーマが議論されました。それは「文学テクストの中の空間・都市空間」や「言文一致(運動)」。「テクストの中に、空間が存在するとは?」、また前田氏が言述する「言文一致とは、話す通りに書くのではなくて、話すように書く、それが言文一致の文体の原理(前田愛『文学テクスト入門』」とはどういうことなのか、当時の私は暗中模索状態。国木田独歩『武蔵野』や樋口一葉『たけくらべ』、二葉亭四迷『浮雲』等に関する前田氏の評論と共に各作品の解読を進めましたが、その概念を理解するにはかなりの時間がかかったことを記憶しています。文学作品のテクストが造りだす「virtual」な世界。鳥瞰図的な視点からではなく、読者がまるで「地図の中」を散策しているかのように、その「空間」を可視化させ再構築する。前田氏はそのようなテクスト構造を詳細に「炙り出す」分析を実践したパイオニアということになるのでしょうか。そして、文学テクストの「科学的」分析を遂行した先駆者だったのではないでしょうか。

 前述した疑問「文学とは何か?」に対し、イーグルトンの定義は「literature is practice」(Terry EagletonLiterary Theory』)。その逐語的な訳は「文学とは実践である」となるのですが、その「実践」とは、文学という「自分の活動領域、専門領域における分析を通じて発言し行動する」ことであり、「様々な慣習や規則、思考や行動の様式をもう一度問い直し再問題化する作業(内田『フーコー』)」を遂行することなのでしょうか。ある研究者は文学とは権力が決める「モノ」であり政治活動であると提言していますが。回顧すれば、江藤氏は漱石もまた1世紀以上も前に「文学」の正体を見極めようと探究した一人だと言及しています(江藤淳『夏目漱石』)。また漱石は英国留学に因り「文学」と「literature」が必ずしも同一ではなく「文学」という言葉の「両義性」を認識することになったとも述べています。漱石はこの「言葉の間に横たわる断層」、言葉の意味概念の恣意性に翻弄され、明治期の社会の運命を見つめつつ近代文明を批判し続けた知識人だったのかもしれません。同様に、「日本近代文学」と「modern Japanese literature」の間に同一性がないのなら、その研究方法に「差異」が存在することも理解可能かもしれません。                 Junko Joyce Matsuura

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171回
夏例会

平成21年7月19日(土)第171回夏例会 愛媛大学教育学部
小説『坊つちゃんの』の「高知のぴかぴか踊り」

                         高知大学教授 塩崎俊彦

高知県内にふるくからある民俗芸能のひとつに、花取踊り(「花鳥踊り」とも)がある。その淵源はとおく中世にまで遡るというが、漱石の小説『坊つちゃん』に登場する「高知のぴかぴか踊り」は、この踊りのことであるといわれている。

 坊っちゃんの勤める中学校と師範学校の生徒たちによる乱闘事件は、小説『坊つちゃん』のなかで重要な転回点となる挿話であるが、この乱闘がはじまる直前に、坊ちゃんと山嵐はのん気に「高知のぴかぴか踊り」を見物していた。そこに騒動が起こり、仲裁に入ろうとして巻き込まれた二人のうち、山嵐にだけに一方的な処分が下されることになる。

君とおれは、一所に、祝勝会へ出てさ、一所に高知のぴかぴか踊りを見てさ、一所に喧嘩をとめに這入つたんぢやないか。辞表を出せといふなら公平に両方へ出せと云ふがいゝ。

その日の午前中、坊っちゃんは祝勝会のために生徒を引率して練兵場に向かっている。午後には、その余興としてくだんの「ぴかぴか踊り」が演じられていた。しかし、なぜ「高知のぴかぴか踊り」なのだろうか。小説『坊つちゃん』には次のようにある。

踊といふから藤間か何ぞのやる踊かと早合点して居たが、是は大間違であつた。

  いかめしい後鉢巻をして、立つ付け袴を穿いた男が十人許りずつ、舞台の上に三列に並んで、其三十人が悉く抜き身を携げて居るには魂消た。…(中略)夫れも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険もないが、三十人が一度に足踏をして横を向く時がある。隣のものが一秒でも早すぎるか、遅すぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣の頭はそがれるかも知れない。抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた。

東京で見知った「汐酌」やら「関の戸」やらが踊りだと思っていた坊ちゃんの目に、この踊りは奇異なものと映った。三十人ばかりの男が真剣を振り回して踊るのも物騒だが、これを統率するのが、太鼓を敲きながら、「夏分の水飴の様に、だらしない」歌を歌う「ぼこぼん先生」だというのだから不思議なものだと、坊ちゃんの感想は続く。

 明治二十八年(一八九五)七月二十八日のこと、松山城内の練兵場では、日清戦争従軍兵士の帰還歓迎会が、愛媛県と高知県の有志によってとり行われた。当時、松山にあった歩兵二十二連隊は、愛媛と高知両県の出身者によって編成されており、こうしたこともあって高知県の代表一行は、はるばる山を越えてこの歓迎会にやってきたものと思われる。坊っちゃんが生徒を連れて行く「祝勝会」の設定は、松山中学の教師であった漱石の、この日の記憶によるものであろう。

実際に『坊つちゃん』が執筆されたのは、明治三十九年のことで、当時の読者たちにとって、「祝勝会」といえば日露戦争のそれが身近なものであった。漱石自身もそのあたりに混乱があると見えて、生徒の乱闘が散り散りになる場面では、

田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨い位である。

と、ロシアの敵将の名をうっかり出していたりもする。小説の時代背景を朧化しようという意図であるのかもしれないが、この「祝勝会」の挿話の直前、うらなりの送別会で、早くに帰ろうとする坊っちゃんたちに対して、

「や御主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せない」と箒を横にして行く手を塞いだ。

と野太が立ちふさがるのは、やはり作品の時代設定を、日清戦争のころと示唆するものであると考えられる。事実はさて置き、漱石にはこの小説の時代背景を、日清戦争後とする必要があったとも思われる。

地元の海南新聞(八月二日付)は、戦勝気分に沸き立つ歓迎式典の模様と、仮装行列やニワカ、撃剣、相撲など、多くの出し物が用意された余興のありあさまを伝えている。
 呉海軍軍楽隊の音楽、河原町西堀端町仮装楽隊の音楽は、海軍軍隊の面白き勇壮なること勿論にして、其他の二者も日一日と熟練して、割合に面白かりき。‥・(中略)紙屋町の若者より成れる紫の上着に白の野袴を穿ち、白鉢巻にて日本刀を横たへる一隊、魚町二丁目の若者より成れる「祝凱旋」と染め抜きし揃の浴衣の一隊、同町の少女より成れる「日本大勝利、支那大負」と大書したる帽子に揃の浴衣を着けたる一隊、松山花山舎の紅裙連より成れる異様に扮装せる婀娜たる一隊、松前町旭座の土佐俳優より成れる赤の紋の揃を着けて山車を曳く一隊、皆勇壮なる頭を唄ひ舞ひ囃し踊る。

その記事のなかに、たしかに高知の花取踊りのことが出てくる。

而して土佐より態々来演したる花取踊りは、一般の目に珍しかりしと活発なりしとにて、これまた世評頗るよろし。

 隣国とはいいながら、見たこともない踊りの所作に、松山人士の好奇のまなざしが注がれた。七月二十七日の同紙には、歓迎式の予告としてその案内図が載せられており、そこには花取踊りの舞台とともに、松山市内各学校の生徒たちのために用意された席も示されている。漱石自身も松山中学の生徒を練兵場に引率してこの会場におり、花取踊りを目にしていたと考えてよい。

  「高知のぴかぴか踊り」の挿話は、小説『坊つちゃん』の細部に過ぎない。とりたててストーリーの展開に大きな役割を果たすわけでもなく、漱石が松山で遭遇した、もの珍しい踊りの印象を作品に盛り込んだだけだということもできる。だが、小説『坊つちゃん』が『ホトトギス』に発表されたのは、それから十年あまりのちのことである。この間、熊本転任を経て英国留学を果たした漱石は、帰国して東京帝国大学に職を得ることになる。松山で見た奇異な踊りのことなど、あわただしい日々のなかで忘れ去られてもよい記憶の断片に過ぎなかった。

兵士たちの歓迎式によって、国威発揚の機運は四国の田舎街にまでゆきわたった。その余韻もさめやらぬ八月二十五日、須磨で療養していた子規が松山に戻ってくる。従軍記者として戦地に赴きながらも、志なかばで病を得たための帰郷であった。
 二日後、何を思ったか子規は漱石の下宿である愚陀仏庵に転がり込み、起居をともにすることになる。同年十月十九日、子規はふたたび東京に向かうのだが、それからの短くも果敢な子規の文学的活動の軌跡を思い返してみると、ひとつ屋根の下に漱石とともに暮らしたこの愚陀仏庵での五十四日間は、失意の子規に大きな力をあたえたと思われる。それは漱石も同じで、文学研究に精魂を傾けながらも、『ホトトギス』誌上で本格的に創作活動をはじめたことを思いあわせてみると、子規とともにあったこの五十四日間が、漱石にとっても貴重な時間であったことがわかる。愚陀仏庵で、ふたりがお互いの文学について語り合ったことは想像にかたくない。だが、それだけではあるまい。日清戦争を契機として次第にその姿をあらわしてきた近代国家の相貌を、二十八歳の青年たちは目のあたりにしていた。ひとりは従軍記者として勇躍戦地に乗り込み、ひとりは田舎の中学教師として、兵士の凱旋に立ち会っている。このことがふたりの間で話題にならなかったとは考えにくい。漱石も子規も、この時代の風潮のなかで文学を志し、それぞれに歩を進めていた。
 愚陀仏庵でのふたりの会話の一コマを空想してみたい。子規は漱石に、戦地での出来事を土産話として語ったであろう。それに対して漱石は、ついひと月まえの歓迎式のことを、おもしろおかしく子規に話して聞かせたのではないだろうか。その内容は、『坊つちゃん』にある「高知のぴかぴか踊り」の挿話と大差ないものであったか。花取り踊りを見たことのない子規は話に耳を傾けながら、複雑な想いを抱いていたのではあるまいか。
 御一新のおり、佐幕派であった松山藩は、勤王派の土佐藩によって占領された経験がある。子規が生まれた翌年のことであった。それがいまでは、松山と高知の人々が手をとりあって凱旋兵士を迎え、戦勝気分に浸っている。
 漱石が語る土佐の花取踊りの回想を介して、子規は時勢の変転を感じていた。それはひとえに、日本が清国に勝ったという未曽有の事件に由来するものであった。
 これらはあくまでも空想にすぎない。しかし、漱石の側からこのことを考えれば、小説『坊つちゃん』に「高知のぴかぴか踊り」が登場する意味が、ある程度わかってくる。
 戦勝に沸く松山で目にした土佐の花取踊りは、日清戦争の記憶として漱石の脳裡に刻まれた。それは、かの地で得た病が宿となって亡くなった子規の思い出と分かちがたくむすびついたものであった。
「漱石は『坊つちゃん』のなかで、舞台となる松山のことを旧弊な田舎街であると揶揄している」とはよく言われることである。果たしてそうであろうか。この作品は、雑誌『ホトトギス』に掲載されたものである。『ホトトギス』といえば、子規の指導のもと松山で創刊されたものであった。『坊つちゃん』が連載されるころには、編集は東京の虚子の手にゆだねられているものの、やはりこの雑誌は、子規および松山の地とは切り離せないものであった。そのような雑誌に、漱石が松山を茶化し貶めるような内容の作品を発表したとは考えにくい。
 『坊つちゃん』の舞台が松山を思わせるのは、作者がこの地での体験をもとにしたからであったことは言うまでもない。しかしながら、これまで見てきたように、漱石にとって、松山滞在中、もっとも印象に残る出来事は、子規とともに過ごした愚陀仏庵での五十四日間であったと思われる。小説『坊つちゃん』に「高知のぴかぴか踊り」が登場するのは、この時の子規の記憶へのオマージュだったのではあるまいか。こればかりではなく、漱石は作品のそこここに子規の記憶を封じ込めたのではないだろうか。
 『ホトトギス』という子規がはじめた雑誌に、子規の生まれ故郷である松山での体験をもとに執筆された小説『坊つちゃん』を掲載するということは、漱石にとって特別の意味があったというべきであろう。
  愛媛県境に近い、高知県仁淀町長者地区の花取踊りを見る機会があった。頭に美しい鳥の羽をつけ、はなやかな赤い衣装に身をつつんだ地元の高校生たちによって演じられたものであった。山あいに残る花取踊りは、このように古態をとどめているという。
  山鳥の尾羽根を中心とした冠りものや念仏の詠唱・踊りの場の様相(周囲に注連縄を張り柴を挿すなど結界を作る)等、古態と考えられる要素を比較的よく保存しているのは山間部のものであり、おおむね海岸部へ移るにつれ、衣装も華やかな色物の着物や裁着袴から法被様のものに変るなど、古風を失い簡略化し、近世・近代化する傾向がみられる。こうした中でも、「花取踊り」の一貫性を保証するのは採り物としての長刀式の太刀(通常の刀よりも柄の部分が長い)であったが、これも平野部・海岸部では普通の刀に変り、名称も「太刀踊り」と呼ばれるようになっていく。(井出幸男「土佐「花取踊り」の生成と流転」『芸能民俗研究』四二号 民俗芸能学会)
 漱石の近くにあった高知県出身の寺田寅彦も、随筆の中で花取踊りに触れている。
 土佐の田舎に「花取り」と称する踊がある。大勢の踊手が密集した方陣形に整列して白刃を舞わし、音楽に合せて白刃と紙の采配とを打合わせる。その度ごとに采配が切断されてその白い紙片が吹雪のように散乱する。音頭取が一つ拍子を狂わせるとたちまち怪我人が出来るそうである。(「雑記帳より」)
  こちらは山間部のものが海沿いの地域に伝わるにしたがって様子を変えていったものだそうである。『坊つちゃん』に紙吹雪のことは描かれていないが、すこしでもタイミングをはずせば、危ういことになるというのは、『坊つちゃん』の記述と似ている。漱石が見た「高知のぴかぴか踊り」はこれに近いものだったのだろう。
 花取踊りは、高知県の各地に伝承されているが、いずれの地でも伝承の担い手がいないという、深刻な問題をかかえている。

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172回
夏例会

第一七二回秋例会平成二十一年十月三日(土)松山東高校視聴覚教室
『三四郎』まのあたり精霊来たり筆の先:─   会員川野純江
はじめに精霊 
 漱石は『三四郎』の起稿に際し、「まのあたり精霊来たり筆の先」(明四一・七・二七付村上霽月宛書簡)の句を詠み、『三四郎』予告では「卒業」と「新しい空気」という節目を語った。「卒業」した過去への愛惜、迎える「新しい」世界への夢が、霊的な筆で創作された作品性がうかがわれる。明治四十一年九月一日から連載開始だが、同日に『正岡子規』(七回忌追懐談)掲載の『ホトトギス』も発行された。明治二十二年九月、漱石の房総漢詩文紀行『木屑録(ぼくせつろく)』を読んだ子規が「千万人中の一人なり」と絶賛したと、漱石は追想した。人気作家となり『三四郎』に山場をおく漱石は、この作で子規の友情に応えているのではないか。『三四郎』は『吾輩は猫である』『坊っちやん』『草枕』を発表した漱石が、作家としての転換点を迎えた際の記念碑的作品として読まれる。

二『三四郎』―三つの世界
 漱石は三四郎の青春を、「母」「学問」「美しい女性(によしやう)」の「三つの世界」として創造した。「平凡」という趣意から『三四郎』と命名されている特色を、作品の一節で読むと「此(しづか)な書斎の主人(野々宮君)は、あの批評家(広田先生)と(おなじ)く無事で幸福であると思つた」である。『三四郎』には女の轢死など時世の反映があるが、本来平凡、無事で幸福な小説である。人生に対する慰めや励ましをもつ。三四郎は美禰子と一緒に美しい「秋の空」を見た。二年後の『思ひ出す事など』の、「悪戦苦闘」にかわる病中の「幸福」「閑適」「風流」、「人よりも空」の懐かしい境界は、先んじて『三四郎』にある。    

三『三四郎』― 前期三部作
 講演『現代日本の開化』(明四四)で漱石は、西洋の開化は内発的で日本の開化は外発的な上滑りの開化であると論じたが、前期三部作で漱石は「内発的」開花(『三四郎』)、「外発的」開化(『それから』)、「上滑り」(『門』)と日露戦後の明治「現代日本の開化」に正面から対峙した。「御嬢さん」美禰子との恋愛と別れ、「他人の細君」三千代との愛、「他人の細君」御米との結婚というその緊迫感のある〈恋愛〉の様相は、「三つの世界を()き混ぜて」いる三四郎にならって、掻き混ぜてみると、「美しい細君」を夢見た、「趣味の審判者」たる代助が、「わが情調にしつくり合ふ対象として」、「真心ある」「まめやかな細君」を結果として得たというものになる。漱石は明治「現代日本の開化」時下の東京を舞台とする『三四郎』に「美しい女性」の夢とその「迷羊(ストレイ シープ)」性を提示した上で、『それから』『門』と死力を尽くし、それから先の「わが安住の地」を見出していったのである。

四『三四郎』― 東京帝国大学
 近代的な教育制度における「学問の最高府たる大学」であるが、西洋文明が圧倒的優位を誇る明治「現代日本の開化」にあって、『三四郎』の第二の「学問」の世界の内にいるのは、「世外の趣」のある広田先生や野々宮さんである。『三四郎』には近代文明の際限のなさ、遣り切れなさへの批評があるが、それは『吾輩は猫である』『坊っちやん』から『明暗』にいたるまでの漱石の〈近代〉洞察である。また漱石は『三四郎』でその文学の見通しを披歴した。広田先生の「熊本(『草枕』)より東京(『三四郎』)は広い。東京より日本(『それから』)は広い」「日本より頭の中(『明暗』)の方が広いでしせう」がそれである。序にその文学の源泉を尋ねると、漱石が明治二十九年四月、松山を離れるにあたって松風会会員近藤我観に贈った、「わかるゝや一鳥啼て雲に入る」「永き日やあくびうつして分れ行く」の双幅がある。前年の十月、子規と別れた後の漱石の深い孤独は、この二句に絶唱となって響いている。その文学的結実が、のちの『坊っちやん』『草枕』である。

 さて『三四郎』は広田先生の「僕がさつき昼寝をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再会したと云ふ小説染みた御話だが、其方が、新聞の記事より聞いてゐても愉快だよ」という話から小説内部に入っていける。広田先生を大学教授にする「運動」「偽はりの記事」〈女の夢〉に『三四郎』の筋、構造はある。ちなみに、『坊っちやん』は坊っちゃんの「正直」の永続の決心から入っていける。似た筋、構造をもつ『坊っちやん』と『三四郎』を比較すると、「辞令」「会議」の物語『坊っちやん』では終極、「虚偽の記事」が掲載され「赤シヤツ退治」が断行される。「虚偽の記事」だが、「会議」の虚偽の変奏である。ところで朝日入社まえの小説『坊っちやん』と職業作家漱石の文学はおのずから異なる。『三四郎』はいわば「辞令」「入学」の物語だが、「会議」「偽はりの記事」は問題にされず、〈女の夢〉が語られる。明治「現代日本の開化」の暗闇を「偉大なる暗闇」広田先生の「太平」をとおして語り、その「太平」をまた〈女の夢〉として語る、重複ある魅力的な作品が『三四郎』である。
 漱石は『三四郎』に関して「無意識(アンコンシアス)()偽善家(ヒポクリツト)」(談話『文学雑話』)の話をしている。一般的に美禰子の媚態、巧言令色、女の謎などと解されている。この構想だが、「三つの世界」の重複、重層という『三四郎』の魅力そのものではないか。「(ひと)本位」の偽善家としての広田先生と「自己本位」の露悪家である青年男女の重複にその味わいはある。のん気でなつかしい広田先生だが、その孤独は深い。

五『三四郎』― 美禰子とよし子
 ヒロイン美禰子は、『坊っちやん』の清につぐ漱石女性像である。第三の「美しい女性」の世界は、「左手の岡の上に女が二人立つてゐる」という場面からはじまる。美禰子と看護婦という「二人の女」は、あとでは美禰子とよし子になる。
「何故東西で美の標準がこれ程違ふかと思ふ」という審美眼のもとに、「両方共に画になる」といわれる美禰子とよし子には、英文学者漱石の理想の日本淑女像が託されている。

「官能の骨を(とほ)して髄に徹する」「眼付」、「真白な歯」の魅惑的な美禰子が「迷へる子(ストレイ シープ)――解つて?」と謎めいた問いを発する。演芸会後に謎を残したまま美禰子は結婚し小説は終わるのであるが、もう一人のヒロインよし子も不可解である。「美禰子に関する不思議」は、実は「「よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい」という、よし子と「美禰子に関する不思議」である。重複、重層の物語で、「二人の女」美禰子とよし子も重複しているのである。漱石は「無意識な偽善家」について「自ら()らざる間に別の人(ヽヽヽ)になつて行動するといふ意味だね」(森田草平『漱石先生と私』下巻)とも話している。展覧され喝采を博する美禰子の肖像画「森の女」は、じつは別人よし子の肖像でもあり、そのよし子に「母の影が閃め」く、三四郎の母の肖像でもあるということである。

『三四郎』は「掻き混ぜて」いる小説であり、「森の女」にもその物語は及んでいる。というより、「三つの世界」を最終楽章の大作「森の女」に重複、重層させるという最後の目的のために、『三四郎』は最初から物語られているのである。
 美禰子は「乱暴」といわれるが、何か聡明な感じがある。東京帝国大学が舞台の『三四郎』の「三つの世界」では、第二の「学問」の世界が中心になっている。第三の「美しい女性」の世界の聡明な「池の女」美禰子が、広田先生の人格の感化をうけ「森の女」になる。美禰子は三四郎との別れに際し、「我が(とが)」「我が罪」をつぶやくが、それは「真正の学者」広田先生の「愆」「罪」であり、また学者作家漱石の「愆」「罪」である。
六『三四郎』―死と万歳
 「西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰返してゐる」苛烈な明治「現代日本の開化」だが、『三四郎』創作の「断片」メモには「Festival」という語がくり返し出てくる。団子坂菊人形、学生親睦会、陸上運動会、丹青会の展覧会、文芸家の会、文芸協会の演芸会と、『三四郎』は行事に事欠かない。東京駅建設に象徴される明治国家建国も四十年、四十一年目という祝祭、「Festivalの開花の相といえる。この時代の相の上に漱石の文学、三四郎の青春も花開いている。

漱石文学を近代国家日本の祝祭の歴史とともにたどると、初期の『吾輩は猫である』『坊っちやん』『草枕』には日清・日露戦争「万歳」の高まりと多数の戦死者の影がある。中期の『三四郎』では大日本帝国憲法発布「万歳」と森文部大臣暗殺が話される。後期の『心』は激動の大日本帝国明治天皇「万歳」と明治天皇崩御を持する。漱石は近代国民国家明治日本の歴史的配合といえる「万歳」と「死」を洞察した。その明治の歴史的現実と不可分、正反対の「死」と「万歳」の文学を創出したのが作家漱石である。

七 おわりに 桃源郷
『明暗』の執筆中、漱石は独訳を希望する小池某に「草枕は甚だ劣作なる故に候」(大五・九・二四付書簡)と断念を促している。その『草枕』は「徹骨徹髄の清き」物語である。ところが『明暗』になると「徹骨徹髄」の「苦」が物語られている。人生観、芸術観の変化が漱石にあったからで、『坊っちやん』同様に『草枕』が名作であることは変わりない。「現代日本の開化」の暗闇の中で、人びとは、〈光明〉を見つけて活動している。〈光明〉には苦悩があるが、苦悩のあとには恍惚があるということをくり返している。恍惚とした開花は桃源に溯る『草枕』だけではなく、『三四郎』もまたそうである。
 大正五年十一月、最後の漢詩「無題」で漱石は「空中に独り唱う白雲の吟」と吟じた。白雲は理想郷にいわれるのであり、「わかるゝや一鳥啼て雲に入る」の「雲」から最後の「白雲」まで、漱石は桃源を希求した。『三四郎』でこういう桃源郷を考えるのは、やはり広田先生の孤独の深さがあるからである。「入学」した三四郎は池の端にしゃがんだ。そうして「寂寞」「孤独」におかれた三四郎が「不図眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立つてゐる」と〈女の夢〉が広がり、『三四郎』はその〈女の夢〉により幸福やなつかしさや慰めを与えてくれる。

173回
冬例会

  平成21年12月6日(日) 漱石94回忌繰上げ法要 正宗寺(子規堂)住職 田中義晃師読経の後
第173回
 冬例会 「坊っちゃん会発足の頃」

                           講師  副会長 田中義晃

 皆様今日は、以前にこの会で、頼本会長様より禅の公案について話をせよと言われていましたが、日程も合わずそれと、そんな難しいお話は私には向いていないので逃げていました。逃げ切れたと思いこんでいましたら今度は演題を変えて「坊っちゃん会発足のころ」と云うタイトルを勝手につけてこれで話せとのこととなり、今ここに立つことになりました。もともと私は、「仏と聞いたら耳洗え、仏と言うたら口濯げ」と思っています。つまり理解能力のない私では、仏教や仏について耳に入れても値打ちがない、だからもったいないから聞いた耳を洗え、仏に対して失礼だから軽々しく口に出したその口を洗えということです。早く言えば出来ていないものが解ったようなことを言ってはいけないと云うことです。だから遠慮しながら少し申し上げます。禅の公案は、理到、機悶,向上の三つに分類されて約80とおりくらいの公案があると云われています。これを甲乙両者の見解ないし境涯の差によって問答を行い、そのやりとりによって修行者を悟りの境地に導くものとしています。皆さんが耳にされた言葉があると思います。これが禅問答です。中国に唐の時代に臨済院という寺があったそうです。臨済宗の禅は看話禅で禅問答を行い、師家から修行僧に問題を出される、この問答を公案と言ったのです。それが今も私達の世界では続いているのです。例えば、隻手の声を聞け、という公案があります。つまり両手でたたけば音がでるが、一方の手だけではどうだ、音がするか等です。唯この公案に答えていくことは並大抵ではありません。夏目漱石も鎌倉の禅寺で参禅し公案に取り組んだはずです。まあ、そこに寝ている犬に仏性あるか、と訪ねても犬だから有りませんは答えではないのです。「狗にかえって仏性有りや、また無しや」という公案もあります。修行僧が座禅を組んでこの課題を見解(げんげ)というものから答えを探すのです。

本日は、この坂の上の雲ミュージアムの一室が会場です、「坂の上の雲」について少し現在の状況をお話し致しましようNHKさんや書物のおかげで今全国から、これに関する資料や子規との関係を知りたいとか、子規堂とはとかいろいろな問い合わせが郵便で来ます。そのような方は統べてご高齢者の方です、封書で便箋手書きです。季節の挨拶から現在の生活状況、それから先にお話ししました問い合わせ内容が記され便箋三枚目で終わるのです。非常に同じパターンの多さに驚きました一時は松山市子規堂できた宛名封書を見るとガクッとしたものです。しかし相手様のの熱心さを思うと明け方の三時頃までかかってご返事を書いたり、コピーを入れたりした日もあります。

現老後の生活や孫さんのことまで書いている方もいて、見ず知らずの方にそれなりの励ましの文章も書かなくてはいかず大変な時期もありました。中には折り紙の鶴まで入ってきたのもあり、お年寄りとは可愛らしいものだと考えさせられました。唯残念なことことに若い方からの問い合わせは全然有りません。良いほうに解釈すれば、この方達は恐らくインターネットから情報を取っているのでしょう。出来ることなら全国民、いや外国の方達にも「坂の上の雲」に関心を持っていただきたく思うのですが、・・・

最近東京であるパーティに出ていた時の話ですが、私が四国の松山から来ていると話したら、その老紳士が今回の「坂の上の雲」のことを話されて、秋山兄弟は四国松山の出身とは知らなかったと申されていました。私は、いいんですよ。子規を説明するには漱石を先に出して説明しなけば子規を知ってもらえない場合もありますからと答えたものです。言いたかったのは、地元の人達が知り尽くしているほど他県の人達はそのとうりに知っているというものではないのです。一般的観光客の方達には、松山出身ではない江戸っ子の漱石を出し、その友人子規をだして、そこから説明すれば正岡子規を理解してもらえるのです。一般的には読まれて無くても、読まれていても「坊っちゃん」の漱石は世に知られているのです。昔このことを行政や郷土史家の先生方に、観光客の生の状態を何度もお話しましたが、返ってくる言葉は、漱石はよそ者じゃけん、、、と云う言葉ばかりでした。その時私は、友人同士でお互い文学仲間、そんな漱石の力も借りて子規をたてればさらに良いのではと恒に思っていましたが、二度とその方達の前では口にだすのを止めたものです。時代が変わり、漱石がお札になった途端、野球場まで坊っちゃん球場となりました。ご丁寧にサブ球場がマドンナ球場じゃないですか。この感覚遅いですよ。もっともっと以前の時代から漱石の力を借りていればと思いますよ。誤解しないでください、子規に力が無いというのではないのですよ。世間の方達が子規より漱石の方を名前だけでも知っていると云うことです。今では、勿論経営は大変だと思いますが、伊予鉄道さんが坊っちゃん列車を走らせて下さっています。漱石を理解受け入れされたのでしょうね。これからは子規や漱石、秋山兄弟だけでなく、ご存じのとおりまだまだここ松山から広きにわたり多くの偉人が出ていられます。その方達の力をかりることも忘れてはならないでしょう。この坊っちゃん会の存在も、もっと世に出ていいのではないでしょうか。若い方達にもと願っています。そろそろ会長がつけられました、「松山坊っちゃん会発足のころ」についてお話いたしましよう。こう申しあげましても私はその頃はまだ子供でした。今でこそ古希ですが昭和15年生まれですから、これからお話しする事は、なんであんたがそんなことをを知っているのかと思われることでしょうが、なにせ私の父親、つまり先代住職は酒飲みでしたので大人の集まる所へは母親が、子供の私を必ずついていかせたものです。つまり大人の集まりのまわりで遊んだり貰った菓子などたべたりして終わるのをまつのです。そういう集まりの中での大人の話しや状景というものは結構いまになっても記憶に残るものです。松山坊っちゃん会は、その結成については、元大阪朝日新聞の学芸部長だった越智二郎さんが言いだされたと言われていますが、なんとはなしに分らぬうちにがやがやと言っている内に出来たようです。今改めて調べてみても現実のようです。私が住職してからも何度か越智先生に頼まれて、北条のご自宅にお経を読みに行ったこともあり、子供の時からのご縁と申しますか、誠に不思議なものをその時感じました。

松山中央放送局の局長さん、富田狸通さん、ヤママン百貨店の山本富次郎さん、川柳で有名な前田伍健さん、この方は「野球拳」でも有名ですよね。汽船会社の伊予商運の波多野晋平さん、後になってだと思うのですが県立図書館長の永田政章さん、そして先代住職や、まだまだ他の方達もいらしたのを憶えています。しかしここのところが、少々定かではないのですが、狸通さんの、狸の会と同じ顔ぶれのおじさん方の坊っちゃん会と松山子規会との区別が分らないのです。何故ならメンバーの方達がダブッていられるからです。子供の私には全部一つの集まりに思っても仕方ないことです。有る時代には、この方々がトンビをはおって(ダブルの袖無し外套、インバネス、俗にインバと称した)街頭を集団で闊歩したりされていました。今になって思いますと、通人で洒落気があり、文学でもって郷土を愛し、人の和を敬愛して楽しまれていたんだなと感じています。狸通さんの狸の会は今は無いですが、坊っちゃん会と子規会は永い歴史と共に現在も活躍されていますことは、大変素晴らしいことだと思っています。「坊よ、富サンノ伊予弁ハノウ、本当ノ伊予弁トチガウケン、マネシラレンゾ」と狸通さんに言われたものです。子供ですから遠慮はありません、そのことを山本富次郎さんに言うと、「何イヨンゾ、坊ウ、ワシノ伊予弁ノ方がホントジャケン」と言われ、今以てどちらが本当かわかりません、どちらも本当でしょうけれど。まあ、ドラマの「坂の上の雲」のように、だんだん、と云う言葉がお二人の口からは頻繁に出てこなかった事だけは確かです。

狸通さんが県病院に入院されていたとき、寿司を持ってお見舞いに行きましたら。「わしがもう最後と思うて来たのじゃろうが」と言われ、つい「ハイ」と素直に答えてしまいました。狸の狸通さんをいい加減な言葉で化かすことは出来ませんでした。それからしばらくしてお亡くなりになりました。生前最後に私に戴いた号が「可宗」です。

職業上今も使わせて戴いています。大人の方々の横で、昭和30年代から50年代前半位の自然教育でしたね。無意識の中で子供時代から見て取ったことが私の人生にも職業にも伴って、非常に役に立っています。この皆さんに

いつも心の中で感謝しています。「狸してとぼけてまぬけて一生を過ぐ」禅の公案のような文句、いいですね。高校生のころに戴いた短冊です。思い出は尽きぬものです、まだ御座います。安倍能成さんです、当時は寺は戦後の仮本堂に仮の居間でしたから、大きなワンルームみたいなものです。お客さんも家族も一緒のような状態でした。安倍家の墓所がここにあり、よく墓参にいらしていました。居間で申し上げますと、とても格好のいいお顔の方でした。坊よ、わしが偉くなったのは何故か分るかと言われました、私はその時どう答えたかは憶えていませんが、云われた言葉だけは覚えています。この白髪と白い髭じゃと。東高校名教館に掛けてある能成先生の肖像画で今それを知ることができます。よく頭をなでていただいたものです。歌人の吉井勇さんもそうです。この方は酒飲みで、先代住職と昼間から一升瓶と湯呑茶碗で、竹輪をあてによく飲んでいらっしゃいました。私の記憶ではこの寺でお茶を口にされている吉井勇先生の姿はありません。何度目かの来寺のとき子供の私が戴いた短冊を、住職になってから見つけ出しました。「酒にがし 女みにくし このころは 心しきりに 獅子窟にゆく 勇」。

子供に短冊など関心有るはずがありません。関心有るのは片岡千恵像とかのメンコです。こんな句の解釈が出来るはずがなくそのままにしていたのでしょう。両親のどちらかが、しまっていてくれたのです。後に先住職が、解釈してくれました。さけも女性もみんな足りた、自分の心は禅の修行場に行こうとしている事だと聞かされました。

ただし吉井勇さんだからこういう歌を詠んでもおかしくないんだと教えられました。勿論安倍先生の色紙もあります。それから柳原極堂さんもしばらくこの寺に仮の住まいをされていましたので、極堂さんの布団の横で遊んだものです。現金の小遣いはくれませんが、そこいらの和紙にしたためた書き物をくれました。今になってシマッタと思うことがあります。何枚かは、手作りの凧となって近くの田んぼで敗れてしまっています。しかし数枚の色紙と半切の書き流しがあり、これでいいのだと思い大切に保存しています。「極堂の書を凧とするガキ大将」贅沢な句ですね、極堂翁ご免なさいです。

私にとって最後に文学関係で忘れられない方がいます。才神時雄さんです。ある雨の日松山市内で散切り頭、縦縞の和服に尻からげ、草履に番傘小脇に書類、手にはとっくり、ひたひたと歩かれてる姿を初めて目にした時、明治の時代が歩いていると云う感じでした。その時点では、私には全然知らない方でしたが、後に先代住職を訪ねてこられてから才神時雄と云う方を知りました。それは正宗寺にも過去ロシア人捕虜の方達をあずかった事実があるので、取材のため出入りされていたのでしょう。そんなわけでだんだんと才神時雄さんを知ることとなったのです。個性のある、浴びるように酒の好きな方でした。非常に優しい方ですが、どうも自分の論が強い方で、最後にはマスコミ関係の方達とは、よく議論され喧嘩ばかしされたと聞いています。原稿料は全部酒代に代わっていたようです。子育てしながらそんな一家を支えられたのは、貞淑な奥さまでしたね。平成二年の出来事でした。桜の花びらが風に舞う下で、杯の酒にその花びらを写し込んで、いま口に運ぼうとしている、つまりこの一口の酒が三千世界を潤すというような才神さんの遺影写真が未だにはっきりと私の脳裏に焼き付いています。「作家才神時雄 大正六年三月青森県に生まれる 東京での雑誌記者を経て、昭和三十七年望んで文学の地、松山に住す。酒を愛し、酒を一生の友とし、文筆に専念する。その姿、誠に豪放なり。」正宗寺 義晃と云う碑文と戒名「文献院?時史閣居士」を墓石に刻み、当時の境内墓所の内藤鳴雪の碑の近くに墓碑を建て、納骨致しています。?と云う意味は、浴びるように酒を呑む飲み方のつもりです。とてつもない多くの文献資料の積もれた書庫の中で、作文構想に没頭しながら酒を浴びるようになりながら飲み悩み励んでいる、そして最後に人々に感動を与える素晴らしいものを書きあげる人であった。以上のような事を才神時雄という方を戒名で表したつもりです。漱石も「文献」という字がありますが、別に真似したわけではありません。才神さんもプロフェシヨナルな立場ですから「文献」を冠と考えました。さてだいぶんお話の時間もおしせまってまいりました。おしせまったところで今年も終わり、これからは忘年会の時期ですが、一茶和尚の句だったと思うのですが、「目出度さも 中くらいの おらが春」というのがあったように記憶していますが、やがてくる新年、それくらいの余裕を持って迎えたいものですね。これは一休和尚が詠んだものですが「世の中は 食うて クソして寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりよ」と言われています。さてその後と最後の言葉の問が今です、皆さんも私もこの言葉の裏にありますように、人としてこの世の中で楽しんで心置きなく生きていきたい物ですね。最後になりましたが、どうか皆様お元気で良いお年をお迎え下さい。つたないお話、ご拝聴有難う御座いました。

註  吉井 勇  明治19〜昭和35 歌人、小説家 東京都の名門の出 芸術院会員歌集「酒ほがひ」など

   才神 時雄 大正6年3月〜平成2年8月1日没 作家「松山捕虜収容所〜捕虜と日本人」中公新書他

   富田 狸通 明治34〜昭和52年 本名 寿久、本会代三代会長 俳人 元伊予鉄道課長

 

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173回
夏例会

平成21年12月6日(日)第173回冬例会 松山市立坂の上の雲ミュージアム

小説『坊っちやん』をどう読むか         平成22126    頼 本 冨 夫

小説『坊っちやん』が作品論として現われたのは、戦前はわずかであって、本格的な『坊っちやん』論が研究者により発表されたのは平岡敏夫の「坊つちやん試論−小日向の養源寺」(文学 昭和四六・一)が最初(佐藤泰正別冊国文学bT昭和五五)と言われている。それでは作品論の中で『坊っちやん』はいったいどのように研究され、どう読まれてきたのか、今日身近な所にある入手可能な資料で検証し考えて見たい。(引用文「坊っちゃん」の表記は原著者による)
1小宮豊隆(19841966)の『坊つちやん』解説 (岩波文庫 昭和四〇年七月)では「『坊つちやん』には、『坊つちやん』を貫くイデーがある。そのイデーを具体化する為の、各種の人物と、その各種の人物の相互関係と、その関係を発展させるとがある。それらのものは、すべて、漱石内部から生まれ出たものである。「考へて見ろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさつて勝つ。あさつて勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つ迄こゝに居る。」と言って、寄宿舎の生徒と喧嘩をした。喧嘩をして大人気ないなどとは坊ちやんは決して考へない。大人気のあるなしを考へるには坊つちやんはあまりに正直でありすぎた。火のついたやうに性急に、正しいもの清いものを愛しすぎた。其所に坊つちやんの「無鉄砲」たる所以があつたのかも知れないが、然しその「無鉄砲」は実に坊つちやんの天真爛漫から来てゐるのである。然も坊つちやんをして失敗せしめたのも亦、坊つちやんのこの天真爛漫に外ならなかったとすれば、その坊つちやんの責任の大半は、坊つちやんの天真爛漫が負ふべきであるよりも前に、その天真爛漫を容れる事の出来ない、堕落した社会が負ふべきであつた。然し漱石にとつて、弾劾すべきは、さういふ坊つちやんを愛する事を知らない社会であつて、つちやんではなかつた。」
2片岡良一(18971957)『坊っちゃん』(春陽文庫解説昭和四十三年)は、「彼(坊っちゃん)は、彼自身の人柄のよさにみずから安んずるだけで、それ以上に積極的な彼自身のなまの目標など、実際は何も持ってはいないのである。物理学校にはいったのも、ほんのその時の偶然に動かされただけのものだし、教師になって四国まで行ったのも、ただ校長にすすめられたからだけのことにすぎなかったので、教師になることに別段の意義も、使命感も感じていたのではなかったのである。だから、周囲の条件が思わしくなければ、いつでもやめてしまおうとする無責任さを持ちつづけているし、また事実やめてしまえば簡単に「街鉄の技手」におさまれる身軽さと変通性とをもってもいるのである。()それは無論、一つには作品の世界におかしみを添えようとする作者の技術が産んだものであったに相違ないのだが、それにしても、一方には誠実さや純粋さの権化のように理想化しようとされているこの人物の場合にも、こうした無定見さや無責任さ(すなわち不誠実さ)がからみついているのだとなったら、彼と彼をけいべつする周囲の人々との距離は、そもそも何ほどのものだということになるのであろう。()要するに「目くそが鼻くそを笑うたぐいでしかないことになるのである」として「ただ、問題の由来を深く探ろうともしなかった作者の目が、そういう坊っちゃんにおける内部的な矛盾をはっきりとは捕らえそこなっているところに、見のがしてはならぬ重大な観点があったと思うのである。」
3江藤 淳(193299)(文春文庫「こころ 坊っちゃん 解説」九十六年)では、「これは『坊つちゃん』という痛快な妖精が疾風のように四国の田舎中学を席巻して消えて行く動的な冒険小説である。この小説の魅力も第一に歯切れのよい江戸っ子的文章にあり、第二に明快を極めた勧善懲悪にある。女性的で陰湿な悪人どもを、あまり思慮深くはないがカラリとした善玉が、一杯喰わされされながらもやっつけてしまう。これは複雑な人間関係のなかで感情を幾重にも屈折させなければ生きられない日本人が思い描く、永遠の英雄像である。()われわれは虚心にこれを読んで虚心に痛快がり、かつ笑えばいい。」
4平岡敏夫(1930)『坊っちゃん』(岩波文庫一九九八年九七版解説)この小説の末尾は余談の形で本音を吐露した部分、芝居で言えば、人物が活躍する舞台にたいする幕のそでのようなものと考えられる。多くの観客は中学校の舞台ばかり見て、幕のそでのあたりに引っこもうとしている俳優の素顔は、見えないのだ。そのことは舞台そのものもよく見ていないことを意味するはずだが、父母の〈家〉もなく、〈家庭ならざる家庭〉も崩壊した宙吊りの深い孤独のなかで、語り手が最後に語りたかつたのは、自分を心から愛してくれた唯一の存在が現実にはこの世にはなく、別の世界に永遠に待っているという意識である。()つまり作者漱石にとって、それは、死によって永遠に隔たれつつも、ひたすら待ちつづける切実な女性存在というしかないものである。『坊っちゃん』という小説はたしかにおもしろい。そして悲しい。」
5塩田良平(18991971 )『坊っちゃん』解説(旺文社文庫昭和五十一年)
「坊っちゃんは「世の中に正直が勝たないでほかに勝ものがあるか、考えて見ろ。」と昂然と断言する。これは作者の精神である。つまり、作品『坊っちゃん』における戦いは正義と不正直との戦いである。そして正直派すなわち正義派をして、最後に不正直派すなわち悪人どもをさんざん懲罰して引上げさせることによって、作者は局を結ばせている。その意味でこれは倫理の書であり、勧善懲悪の小説である。大衆は単純な倫理を愛するから、これは大衆小説とも考えられる。と同時に、その倫理が単純なるがゆえに、この作をもって全部の世の中がこの通りにわりきれるものと思ってはならない。『坊っちゃん』には文学としての数々の欠点がある。人物が類型的であることはすでに言い尽くされているが、個人個人の心理の追求が浅いこと、結末の天誅が単なる暴力ざたに終わって、痛快ではあるが思想的には浅薄であること等々()『坊っちゃん』の内容自体は決して喜劇ではない。坊っちゃんが経験した二十五万石城下町における事件は、決して四国だけの問題ではない。天下に赤シャツは充満している。坊っちゃんは四国では溜飲を下げたが、果たして坊っちゃんは一生鉄拳制裁だけで溜飲を下げることができようか問題は、赤シャツとの戦いの喜劇性にあるのではなく、世の赤シャツとの戦いの悲劇性にある。漱石はこの悲劇を知らないのではない。知って回避したのである。そしてせめて、この瞬間だけでも坊っちゃんにせいせいさせて、都に凱旋させたかったのである。都には坊っちゃんの心の故郷が待ち構えている。それは老婢清だ。『坊っちゃん』の結末はこの清によってやや抒情性を帯びている。()
近代文学はただ人間性を客観的に観察するという写実主義から出発した。『坊っちゃん』や『野分』はそれ以上に、文学における倫理性を重んじたものである。維新の志士が政治をもって日本を救ったように、文学をもって日本を救おうとする志士的感情が漱石にあった。それは漱石の全生涯を貫いた精神であった。
6大岡昇平(18891988)「坊っちゃん」『小説家夏目漱石』(筑摩書房)
「もし、『猫』と「坊っちゃん」を漱石の代表作とする意見があれば、私はそれに賛成である。しかし『猫』は少し人を面白がらせようとして無理をしている。学をひけらかしてきざになっているところがあるが、『坊っちゃん』にはそれがない。()漱石は『猫』の好評に気をよくし、希望にみちあふれていたのであろう。感興の赴くにまかせて書いている感じで、のびのびとしたいい文章である。といって、決して一本調子ではなく、漱石という複雑な人格を反映して、屈折にみちているのだが、作者の即興の潮に乗って、渋滞のかげはない。こういう多彩で流動的な文章を、その後漱石は書かなかった。また後にも先にも、日本人のだれも書かなかった。読み返すごとに、なにかこれまで気がつかなかった面白さを見つけて、私は笑い直す。この文章の波間にただようのは、なんど繰返してもあきない快楽である。傑作なのである。」
7参考 『鶉籠』自序(「坊っちやん」「二百十日」「草枕」を収める) 明治三十九年十一月「()独り一個半個の青年あつて、「鶉籠」の為に其趣味をあやまられて流俗に堕落したりと云はば、「鶉籠」を公けにしたる著者は終生の恥辱なり。著者が「鶉籠」を公にしたるは此危険を冒して、苟も名を一代には馳せんとする客気にかられたるが為にあらず。「鶉籠」は天下青年の趣味をして一厘だに堕落せしむるの虞れなき作品たるを信じたればなり。」岩波漱石全集(〇三年版)「『文芸の哲学的基礎』の註に趣味即ち好悪、即ち情」とある。日本国語大辞典(小学館)には「物事の味わいを感じ取る能力」とある。

考察 
一、勧善懲悪・倫理的小説と言う立場から
明治十八年、坪内逍遥が『小説神髄』(「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」)を発表以来、これが文学のもっとも大切な価値とされ、この種の主題は、一般に「純文学」と呼ばれるものの大半に共通するものとされた。それまでの曲亭馬琴(「南総里見八犬伝」)は「勧善懲悪」の文学として斥けられた。勧懲主義打破こそが『小説神髄』の主目標であって、そのことが少なくとも新時代の文学者の価値基準になったのであるが、漱石は同一歩調をとらなかった。ということは、「倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり。(「断片」大正五年)という信条に生きた漱石の文学は、むしろ逍遥が単純に否定し去った小説における倫理性ないし功利性を、まつたくあらたな次元において快復しようとするものであったともいえる。」(猪野謙二「漱石」岩波講座日本文学史第一五巻 近代X) 
また蔵原惟人は「文学と思想」(岩波講座文学1)において、現代では、真の芸術的作品は、あらかじめ定められた思想に合わせて現実を描いてゆくものではなく、現実そのものの忠実な描写のうちから、自然に流れ出るものでなければならない。もちろん作家の思想はその作品全体に反映せざるをえないし、また作品が思想をもつということは当然でもあり、また望ましいことである。とし、封建的作家のうちには馬琴の「八犬伝」にも見られるように、人間の性格を固定したものとして、いわゆる善玉、悪玉として描いている作家が少なくない。ところが近代文学はこのような封建的な固定的人間造型をうちやぶって、悪人のうちにも善人を、善人のうちにも悪人を見、人間を固定した類型としてではなく、複雑で多面的なものとして描こうとした。これは文学上の人間を生きた現実の人間により一層近づけたという意味で、一つの大きな進歩であるといっている。これは小宮豊隆のいうように登場人物が類型的であり、「『坊つちやん』には、『坊つちやん』を貫くイデーがある。そのイデーを具体化する為の、各種の人物と、その各種の人物の相互関係と、その関係を発展させる筋とがある」のであり、このイデーを正義又は正直と置き換えればこの小説は当然勧善徴悪となり、倫理的小説となる。江藤淳は「この小説の魅力は歯切れのよい江戸っ子的文章と明快を極めた勧善懲悪にある」といっている。塩田良平も『坊っちゃん』における戦いは正義と不正直との戦いである。そして正直派すなわち正義派をして、最後に不正直派すなわち悪人どもをさんざん懲罰して引上げさせることによって、作者は結末を結んでいる。その意味でこれは倫理の書であり、勧善懲悪の小説である。また大衆は単純な倫理を愛するから、これは大衆小説であるともいっている。また前掲の「個人個人の心理の追求が浅いこと、結末の天誅が単なる暴力ざたに終わって、痛快ではあるが思想的には浅薄であること」、坊っちゃんや赤シャツは世の中に実在しない人間であることと共に「大衆小説」であるという批判も肯けるわけである。
ここで片岡良一の説に従えば、「彼(坊っちゃん)は、正直者ではあるが、それ以上に積極的な彼自身の生来の目標など、実際は何も持ってはいないのである。物理学校にはいったのも、全くの偶然であるし、教師になって四国まで行ったのも、ただ校長にすすめられたからだけのことであり、教師になっても別段の意義も、使命感も感じてはいなかったのである。だから学校が気に入らなければ、いつでもやめてしまおうとする無責任さを持ちつづけているし、また事実やめてしまえば簡単に「街鉄の技手」に転職する身軽さと融通性とをもってもいる。だから、学校の事情など考える社会性などまったくなく、一人よがりの好き勝手が感じられる。そこに自由人「坊っちやん」の痛快性・滑稽感が感じられるのであるが、それにしても、一方には純粋さの権化のように理想化しようとされているこの人物の場合にも、こうした無定見さや無責任さ(すなわち不誠実さ)を持っていて、そういう主人公が、教師をからかう生徒に対する行動は、「目くそが鼻くそを笑うたぐい」であり、おのずから人物を類型化・一本化しているではなく、複雑化している。誠実さや純粋さの権化のような主人公が、実は無責任な人間であったということになり、これは人物造形では近代文学の範疇に入るもので、けっして人物が類型的な勧善懲悪とは言い切れない。また主人公も「決して一本調子ではなく、漱石という複雑な人格を反映して、屈折にみちている」(大岡昇平)というのも性格面を言っていると考えるとするとなおさら類型的とは言いがたい。前掲の蔵原惟人が言うように「悪人のうちにも善人を、善人のうちにも悪人を見、人間を固定した類型としてではなく、複雑で多面的なものとして描」くのが近代文学であるのだから、ここに登場する人物はそれほど類型化されたものとは言いがたいのではないだろうか。
また結末において、坊っちゃんと山嵐は赤シャツ一味に卵と鉄拳制裁を加えるがこれで、赤シャツ一味が心を入れ替えたわけでもなく、なんら変わりはしないし、一方坊っちゃんと山嵐は辞職して、去って行くというまことに哀感漂う結末である。これは単純な因果応報、勧善懲悪などではない。
 さらに、平岡敏夫は、「語り手が最後に語りたかつたのは、自分を心から愛してくれた唯一の存在が現実にはこの世にはなく、別の世界に永遠に待っているという意識である」といっている。これは幼少時代家庭の愛情に恵まれなかった作者漱石の姿である。自分を心から愛してくれた、清という下女のことを最後に語って大尾となる所にこれもまた哀感を感じさせるものがある。坊っちゃんと山嵐は鉄拳制裁を加えた後、当人たちは勝利したつもりかも知れないが、辞職して去って行き、再び逢う事もないという場面と共に哀愁の色合いが濃いものがある。こうして見ると『坊っちやん』という小説は単に喜劇的要素ばかりでなく、笑いとペーソス両面をちりばめた優れた小説といえよう
 漱石は鈴木三重吉宛書簡(明治三十九年十月二十六日)で、いやしくも文学を生命とする者ならば、死ぬか生きるか命のやりとりをするような維新の志士の如き激しい精神で文学をやってみたいと言っている。ここには、江戸文学と同列の儒教的色彩濃厚な勧善懲悪小説ではない一段と視野の広い、国民を導くという意思を感じることができる。この傾向は漱石全生涯にわたる。その意味で『坊っちやん』は倫理を重んじた漱石作品の土台ともなるべき一作品ということになる。
『鶉籠』自序で漱石は言っている。「天下青年の趣味)をして一厘だに堕落せしむるの虞れなき作品たるを信じたればなり」と。ここに作家として出発直前の、明治を生きる漱石の青年に訴える倫理性が強く感じられる。
純粋で正義漢の主人公が活躍するこの物語は、誰が読んでも楽しく読める。学校内の問題とか結婚問題とか今日でも通用する問題を抱えていて、勧善徴
悪小説、倫理的小説であっても、古い感じはしない。登場人物も必ずしも類型的といえないところがある。
教育の根本は「愛」である。その視点から見ると、主人公は「不浄の地」を離れて「いい心地」はするであろうが、子弟関係・同僚との関係で得るところはない。邪魔者坊つちやんや山嵐を一掃した赤シャツ一味は勝者ともいえる。ただ主人公には東京へ帰ればただ一人理解してくれる清が待っている。清が出てくる場面はすべて哀感漂うとろである。しかし、漱石はそこへ力点をおいて描いたのではなだろう。正義を信じて存分にあばれまわる純粋な青年を描いたのである。平岡敏夫は「小説の末尾は余談の形で本音を吐露した部分、芝居で言えば、人物が活躍する舞台にたいする幕のそでのようなもの」舞台ばかり見て引っこもうとしている俳優を観客は見落としているとしている。
 『坊っちやん』は明治三十九年四月一日発行の「ホトトギス」に『猫』()と共に掲載された。原稿は約十日ばかりで一気に書かれたといわれている。『猫』発表以来ますます教師生活が厭になった漱石の心の奥底が、中学教師批判となって『坊っちやん』に凝縮されたと考えるならば、この小説は義を重んずる勧善徴悪を根本に笑いとペーソスに満ちた近代小説として当然ながら読まれるべであろう。だからこそ百年後の今日でも愛読されのである。(よりもと とみお 本会会長)

特別講演会 平成21年3月5日(木) 於 愛媛県立松山東高校体育館
      広島女学院大学教授 山本勝正 氏

夏目漱石の文学について―『心』を中心に―
 はじめに漱石の人柄を表す一つのエピソードから始めたいと思います。あるとき漱石は純一と伸六という二人の兄弟を連れて散歩の途中、射的場へ立寄りました。まず兄の純一に向かってお前やってみろと言いました。「恥ずかしいからいやだ」と袂に隠れると、今度は弟の伸六に撃ってみろと言いました。伸六も兄と同じに恥ずかしいと言うと「馬鹿!」激しい一撃で伸六は土の上に倒され、ステッキを全身に打ち下ろしました。その場に居合わせた人々も呆気にとられてこの光景を見ていました。伸六は何で同じことをしたのに、自分だけがこんなひどい目に合うのだろうと思ったそうです。伸六はそれから二十数年経って父漱石の全集を読んでいましたら、思い当たる事が書いてありました。みなさん、なぜ伸六だけ漱石は怒ったのでしょうか。それは弟が兄の真似ばかりしているからでした。漱石は外国の真似ばかりしている近代の日本にとても悲観的でした。このエピソードは漱石の人生観をよく表しています。
 さて私は今六三歳ですが、学生時代に読んだ『心』の素晴らしさに触れ、以来漱石の作品について研究してきました。平成元年に『夏目漱石文芸の研究』という作品論を出しました。現在は主に毎年『夏目漱石参考文献目録』を発表しています。
 ここで漱石作品の名前についてお話します。まず『吾輩は猫である』の猫は名前がありません。『坊っちやん』の主人公も「おれ」で名前がありません。『草枕』の主人公も「余」と書いてあるだけです。『それから』では主人公の父が幼名「誠之進」で後に「得」、兄が「誠吾」その子が「誠太郎」誠吾の弟が誠吾の代わりで「代助」です。父は誠実と熱心さえあれば世の中は動くと考えていますが、実は「損得」で動く人物です。父の誠実と損得という二面性を漱石は描いています。次は『行人』ですが、主人公が一郎で弟が二郎で、二人の心を繋ぐ架け橋の役をするのがHさん。つまり1―1でHです。
 次に『心』です。この小説の登場人物にもほとんど名前がありません。主要人物で名前があるのは奥さん「静」です。皆さんはなぜ奥さんにだけ「静」と名前があるのか不思議に思うでしょう。「静」という名は当時の人は誰でも知っていた名前です。主人公の先生は明治の精神に殉じるといって自殺します。自殺のきっかけは明治天皇大葬の日の乃木大将夫妻の殉死でした。大将夫人は「静子」という名でした。漱石は登場人物の名に工夫しているわけです。『心』の中には四軒の家が描かれています。一に先生と奥さんの家。二に私と両親の家。三に先生の両親の家。四に先生とKが下宿した奥さんとその母の家です。一の家は先生が死に、一人残された奥さんも亡くなると崩壊します。二の家も両親は亡くなり、私も家を継ぐ気がなく家は崩壊します。三の家は両親は死に家は叔父にとられ崩壊します。四の家はKの自殺後、この家を出て新しい家庭を持つわけですから、なくなったも同然です。このように見ますと四つの家はいずれも死と家の崩壊に結びついていると言わざるを得ません。この小説では「私」と先生を結びつける外的必然性はありませんが、自殺する先生が「私」宛に遺書を書くという信頼関係が、その必然性であるという逆説もまた成立します。
 次に『現代日本の開化』です。この中の挿話に、男が女に飽きて逃亡した。女が追っかけて来たので、手切れ金を出して解決しようとしたところ、女は金が欲しさに来たのではない。私を捨てるのなら、この窓から飛び降りて死ぬという。男はどうぞというと、女は本当に飛び降りて、死にはしなかったが、不具になってしまった。男はそこまで自分の事を思っていたのかと後悔し、一生不具の女に付き添って世話をしたという話を紹介しています。突き詰めて女の真心が明らかになるのはよいが、取り返しのつかない残酷な結果になる。後から考えると、真心は分らなくてもよいから、女を不具にさせずにいた方がよかったかも知れません。漱石は現代日本の開化も、実態が分からぬ昔の方が幸福で、分ってしまうと悲観したくなると言っています。この話は漱石文学を象徴する話だと思います。漱石の作品は決して、明るい、力が出るというものではなく、漱石は人間の真実、即ち孤独・不安・エゴイズムの醜さを追求した作家で、現代に通じる作家であります。(記録頼本)(やまもとかつまさ 日本近代文学著書『夏目漱石文芸の研究』桜楓社平成元年など)


  平成20年の記録

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166回春例会

平成20年4月20日(土) 午後1時〜3時30分まで。、市立子規記念博物館1階会議室にて、今年度の総会があった。つづいて愛媛大学法文学部中根隆行准教授の「漱石と安倍能成」」と題しての講演があった。

漱石と安倍能成

中根隆行

 かつて主峰漱石から盛んに噴煙したこの漱石山脈は、活火山であらうか、それとも死火山であらうか。(本多顕彰「漱石山脈――現代日本文学地図(一)、一九四六年)

 「漱石山脈」という言葉には、夏目漱石という存在が敗戦後の文学界にあっても他を抜きんでたということが端的に示されているわけですが、安倍能成という人物を考えるときにも非常に重要な意味をもっています。この場合、「漱石山脈」とは「主峰漱石」を中心にした「野上彌生子、森田草平、芥川龍之介」といった山々からの「噴煙」であって、漱石の文学的影響力を受けた作家たちを指しており、このなかにはいわゆる文化人であった安倍能成の名前はありません。しかし、この「漱石山脈」を広義に捉えると、彼は阿部次郎や小宮豊隆、野上豊一郎らとともに「漱石文化圏」あるいは「門下的漱石文化のエージェント」(戸坂潤)の筆頭として夙に知られた人物でした。戸坂潤はこういっています。「今日の日本の文化人の世界では、而も高尚な文化人の世界では、高級常識から云うと、漱石文化が文化そのもののスタンダードになっているのである」(戸坂潤「現代に於ける漱石文化」、一九三六年)。戸坂潤は別の箇所で「漱石=岩波文化」とも述べているのですが、その岩波書店を率いた岩波茂雄とも生涯を通して親交の厚かった安倍能成は、いわば「漱石=岩波文化」を牽引する知識人としてを戦前戦後の漱石像と密接にかかわっていた人物であったわけです。

もとより、安倍能成は松山出身者ですが、現在、彼は広く知られているわけではありません。おそらくその名が全国的に知られた時期は敗戦期です。彼は、戦中期から敗戦期にかけて第一高等学校校長を務めています。戦中期には軍部の圧力に対抗するなどして名校長と謳われていました。そうした経緯もあってか、一九四六年一月には幣原喜重郎内閣の文部大臣に就任し、在任期間は短いながらも戦後の教育改革に尽力することになります。ひとつのエピソードを挙げましょう。一九四六年二月、時の文部大臣であった安倍能成はGHQの招請に応じて来日したアメリカ教育使節団を前にして次のような演説を行っています。

御察しの如く、戦敗国たり戦敗国民たることは苦しい試練であり、困難な課題ではありますが、同時に敢て失礼を申せば、よき戦勝国たり戦勝国民たることも中々困難であります。我々は戦敗国として卑屈ならざらんことを欲すると共に、貴国が戦勝国として無用に驕傲ならざるを信ずる者であります。さうして諸君の来朝が我々の上の願を充たす最上の機会とならんことを切念するものであります。(安倍能成「米国教育使節団に対する挨拶」一九四七年)この演説は当時のメディアでも大きく伝えられ、多くの人びとから賛同を集めた名演説として知られています。「勝つた連合国に対して武力なき日本は唯屈服してその命ずる所に従ふ外はないといふ考え方」が浸透していた敗戦後の日本において、「戦敗国」の文部大臣が「戦勝国」の教育使節団に対して「貴国が戦勝国として無用に驕傲ならざる」ようにと主張すること。その歯に衣着せぬ物言いが好評を博したわけです。この演説で安倍能成が強調しているのは、“Might is right”という考え方になります。彼の意訳を使えば「勝てば官軍、負くればこれ賊」ということになります。つまり、「力は正義なり」の論理を戦後日本の教育改革においても押しつけようとするであろうアメリカ側に対する未然の批判です。これはうがった見方かもしれませんが、GHQ占領期の能成の脳裏には、明治の松山と敗戦後の日本の姿が重なり合って映っていたのではないかと思います。

普通の意味での国家発展の様々の条件を奪はれた我々日本国民は、素手で素裸で生きてゆかねばならぬ。これは一つの強みだともいへようが、この強みを生かすことは又難中の難である。而も後世子孫の為にこの荊棘の道を先づ切り開かねばならない。そこには現実の正視に立つて理想の光を仰ぐ深い智慧と意力とが要求される。さうして今こそ真の意味に於ける文化国家、道義国家の建設が志されねばならぬ。(安倍能成「剛毅と真実と智慧とを」一九四六年)
昭和天皇のいわゆる「人間宣言」にも明確に記されているように、敗戦後の日本の「荊棘の道」を明治維新に立ち返るという意味での再出発と捉える見方がありました。丸山眞男もこう述べています。「五十七年前の『日本』新聞を開くと、右上隅の日本という題字のバックに日本地図の輪郭が書かれているのが目にとまる。その地図には本州、四国、九州、北海道が載せられているだけだ。日本はいまちょうどこの時代から出直そうとしている」(「陸羯南――人と思想」一九四七年)。大東亜戦争に敗れ、主要都市が焦土と化した日本がGHQの占領政策のもとで民主化への道を歩むというこの経緯を、安倍能成が幕末の動乱のなかで佐幕派を貫き朝敵の汚名を被ったことで不遇におかれた明治の松山と比較して把握していたと考えても不思議ではありません。安倍能成が生まれたのは一八八三年ですが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』よろしく、「松山の神童」と称された彼もまたみずからの力によって明治から大正へと続く時代を生きたからです。

戦前、自由主義的な知識人として知られていた安倍能成は、戦後には「オールド・リベラリスト」と呼ばれていました。オールド・リベラリストというとなかなかイメージが掴めないかもしれませんが、当時の新聞はそれを「白髪の一高生」と揶揄しています。つまり、明治時代の一高生がそのまま老人になったという意味です。この喩えはきわめて言い得て妙です。彼は、松山中学校から第一高等学校、そして東京帝国大学へと進み、漱石門下の新進気鋭の文芸評論家として明治大正期の文学界で活躍した人物です。そして、森田草平や小宮豊隆、阿部次郎(鈴木三重吉とされる場合もありますが)とともに、明治末に「漱石門下の四天王」と並び称され、「大正教養主義」を主導した人物でもありました。

安倍能成は、一九〇二年九月に上京し第一高等学校に入学します。一高在学中には魚住影雄、阿部次郎、岩波茂雄、小宮豊隆、中勘助らを知ることになります。そして、その翌年五月に同級生の藤村操が「巌頭之感」を残して日光の華厳の滝に投身自殺するという事件が起こります。藤村操は漱石の英語の授業を受講しており、自殺する前に漱石が宿題をしてこない藤村を叱ったというエピソードもありますから、漱石にとっても重要な人物になります。その彼が遺した「巌頭之感」にはこう記されていました。「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーシヨの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを」(「藤村操氏の投瀑」『東亜画報』一九〇三年)。彼の死は日露戦争前夜にあって煩悶青年現象の端緒になった出来事なのですが、後年、岩波茂雄はその死を以下のように位置づけています。
その頃は憂国の志士を以て任ずる書生が「乃公出でずんば蒼生をいかんせん」といつたやうな、悲憤慷慨の時代の後をうけて人生とは何ぞや、我は何処より来りて何処へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悶時代でもあつた。立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするのを恥ぢ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に徹するためには死も厭はずといふ時代であつた。現にこの年の五月二十二日には同学(一年下)の藤村操君は「巌頭之感」を残して華厳の滝に十八歳の若き命を断つてゐる。(安倍能成『岩波茂雄伝』一九五七年)
思想史では、個人主義思想への転換をはかった象徴的な出来事だと位置づけられる藤村操の投身自殺に、安倍能成や岩波茂雄ら一高生も強い衝撃を受けることになります。当時の一高では、国家主義を基にした籠城主義――蛮カラ風のエリート主義――が支配的でしたが、日露戦争前夜であるこの頃になると個人主義思想が台頭してきます。一高で個人主義思想を主張する筆頭となったのは魚住影雄ですが、彼とともに文芸部委員となった安倍能成らの校友会雑誌での執筆活動もまた総体として個人主義への傾向を強めていくことになります。ちなみに、安倍能成も小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの後任として赴任した夏目漱石の講義を受講してはいましたが、在学中はあまり影響を受けていません。しかし、のちに高浜虚子を経由して漱石山房に出入りすることになる彼は、よくよく考えると藤村操の投身自殺を経た一高時代の煩悶期がなければ、逆に漱石門下とはならなかったのではないかという推測もできます。

岩波茂雄の記すとおり、藤村操の投身自殺は「乃公出でずんば蒼生をいかんせん」という「悲憤慷慨の時代」から「内観的煩悶時代」への転換を象徴する出来事でした。一高の校風はそれまで「籠城主義」や「悲憤慷慨」といった標語に代表されていました。一高はナンバースクールと呼ばれた旧制高校の筆頭であり、卒業さえすれば帝国大学に進学できる学歴エリートの製造工場でしたから、「籠城主義」や「悲憤慷慨」に象徴される校風は、いわば近代日本の富国強兵政策と絡み合うかたちで形成されたといっても過言ではありません。その一高で次世代を担うはずの藤村操という学生が「煩悶」を理由に投身自殺を遂げたのです。この時代を岩波茂雄は「国家でなく自己を問題にする傾向が起つて来た」(前掲)とまとめていますが、それは、たとえていえば、それまで一対のものとして疑う余地もなかった国家の前途と若者の将来との間に亀裂が生じたということになります。つまり、藤村操の投身自殺は、国家の帝国主義路線に寄り添う青年の立身出世の道程が、次世代を担う学生層によって疑問視され始めたのです。いうまでもなく、これは文学的な問題でもあります。夏目漱石や島崎藤村、田山花袋らを始めとして、この日露戦争期が日本近代文学の本格的な出発点となったことは偶然ではないと思われます。

安倍能成が文壇で気鋭の青年文士として活躍するのは、東京帝国大学を卒業する一九〇九年以降の数年間です。その活躍の舞台となったのは彼の代表作といわれる「野尻湖日記」が掲載された『ホトトギス』や『国民新聞』、『東京朝日新聞』であり、これは下掛宝生流の宝生新に謡を習ったのが縁で、高浜虚子や夏目漱石と親しくなったことが大きいといえます。のちに小説家志望の嘉村礒多が弟子入りを志願したとき、安倍能成はたいした苦労もせずに文壇に出たことを率直に認めています。日露戦争前後から煩悶青年や自然主義現象が社会問題となっていた当時、小説家志望の青年が多数存在したことを考えると、雑誌に投稿した経験もない彼が難なく発表する場所を得たというのはきわめて恵まれていた事例でした。石川啄木は、能成も含めた朝日文芸欄で活躍する漱石門下の青年文士を「青年大学派の崛起」と呼んでいます。

 しかし、文壇で注目を浴びたとはいっても、東京帝大卒業後の安倍能成が前途洋々であったわけでは決してありません。正規の英語教師をめざしたものの、必要な単位が足りなくてはたせず、日本済美中学という私立学校で英語を教えることで何とか日々の糧を得ていたというのが実情でした。一高、東京帝大を経た学歴エリートのトップランナーであった能成ではあるけれども、必ずしも経済的に恵まれていたわけではなかったのです。彼の実家は松山の素封家で旧士族、祖父、父とともに医者でしたが、能成の少年時代から父は廃業しているに等しく、松山中学校を優秀な成績で卒業するものの直ちに進学できず、母校で助教諭心得をしています。上京後もアルバイトなどをして苦学しています。岩波茂雄らもおおむねそうであったように、当時の学歴エリートは裕福な家庭に育った者だけが集まる特権集団ではなく、むしろそうであるところに近代日本の立身出世主義の本質があるといえます。

  そうした経験を考えると、漱石や虚子の知遇を得、明治末の文学界で活躍した安倍能成がいったい何を訴えていたのかが理解できるのと思われます。漱石山房に出入りし始めた一九〇九年頃から本格的に文筆活動を始めることになった能成は、自然主義文芸思潮が主流の文学界で次第にその名を知られるようになります。ことに有名なのは今治出身の片上天弦との論争ですが、能成が好んで使った言葉は「自己」です。たとえば、自然主義者の「自己」について彼は次のように反駁しています。

  かゝる自己を以て人生に臨み、現実に接する。果してどれだけ人生に触れ得るであらうか。多くの外的経験を重ねることが、人生に触れることならば、詐欺師や泥坊は最も多く人生に触れて居なければならぬ。我等がしみじみと深く人生に触れると感ずることが出来るのは、我等が清新な心持を以て人生に臨む時ではないか。たゞ現実にふれるといふことは、決して人生に触れ人生を深く経験する所以ではない。我等が人生に触れたいといふのは、むしろ人生に触れざることを示して居るのではないか。徹底せよといふのはむしろ徹底せざるを証するものではないか。(安倍能成「自己の問題として見たる自然主義的思想」一九一〇年一月)

 自然主義者の唱える「現実」や「自己」とは「与へられたる現実」や「自己」だと論じる安倍能成は、それらに右往左往するよりも、いかに「自己」を直視して「人生」に挑むかを考えねばならないと主張しました。このような彼の主張は、一高時代における個人主義を礎にした煩悶から思索へという流れの延長で捉えることができ、また大正教養主義的な言説へと接近しているといえます。けれども、能成のいう「自己」は、きわめて積極的な自己形成の主張ではありますが、他方では「自己」をとおして現実を批判する自然主義的な方向性を持たず、また、その「自己」を与えたものへと向かうこともありませんでした。

一九〇〇年代に学歴エリートのトップ・ランナーを走る一高生の間から国家主義や立身出世主義に対する懐疑が生まれ、個人主義が台頭したと述べました。こうした思想が台頭する基盤には、近代日本の教育制度がありました。つまり、社会的経済的に下位におかれた者であっても、学歴を積めば階級的移動が可能となる社会が到来したのです。そして、個人の学力=実力によって学歴エリートとなった学生たちは、その「自己」を判断基準として既成の社会に異議を申し立てたのです。安倍能成もまた「自己」を磨き、それを基準にしてものを考えました。それは、彼がカント哲学を中心にして得た「自由と責任」にも通じる考え方です。

 安倍能成のいう「自己」は教養主義的特徴を持っています。それは個人の人格を教養によって高めるという意味です。大正教養主義が旧制高校を中心とした学歴エリートを対象として広がり、「教養」という言葉が、同じく英語の“culture”の翻訳語として大正期に流布した「文化」という言葉と意味合いが異なっている事実は、そのことを物語っています。この大正教養主義の個人主義的な理想主義は、のちに三木清によって社会性を持ち得ないという理由から批判されることになります。そして能成もまた、植民地初の帝国大学である京城帝国大学の教授として、この教養主義の限界を身をもって経験することになります。

しかし、「自己」なるものの限界は、このときすでに安倍能成自身が認めていたことに注意すべきでしょう。一九一一年に阿部次郎、森田草平、小宮豊隆との合著として出版された『影と声』における能成の執筆部分の章題は「雲」であり、彼の論理的な文章とは裏腹に暗い印象が窺えるからです。藤村操の投身自殺からこの時期まで、能成は経歴のみから判断すると、まさしく学歴エリートのトップ・ランナーであったかのようにみえます。けれども、彼の文芸評論には、そうした外貌からでは推し量ることのできない暗さが表現されており、また次の文章を含めて考えるならば、その暗さがある程度社会性をもっていたことがわかります。

〕一国に高等遊民が多くなると不平党が増して、社会国家に危害を及ぼすといふけれども、必ずしもさうした者ではない。高等遊民の多い国でなければ実際文明は進まない。一国文明の程度は高等遊民の多寡によつて定まるといつてもよい位だといふ様な説であつた。〔〕相当の知識や学問があつて、職業を求めるけれども、社会は一向職業を与へてくれない。仕方なしに何もしないで居る、そして生活に困つて居る人もある。これも一種の高等遊民である。又中にはこれといふ職業をしなくても、食ふには困らない。それで自分の趣味好尚に従つて、学問を研究したり、又芸術を鑑賞したり創作したりすることの出来る幸福な人もある。彼等は又立派な高等遊民である。然しながら万事に多忙で余裕のない今の日本が、上に挙げた二種の内、どちらの高等遊民をより多く産出しつゝあるかは、言はないでも分つて居ると思ふ。(安倍能成「文壇の高等遊民」一九一一年)

もちろん、「高等遊民」という言葉は夏目漱石の造語です。高等教育を受け知性や教養を身につけながらも、経済的に不自由がないので無理に働こうとはせずに悠々自適に暮らす人びとのことを指しています。ところが、ここではもうひとつの高等遊民像が示されています。「相当の知識や学問があつて、職業を求めるけれども、社会は一向職業を与へてくれない」人びとであり、そのはてに彼らは日々の生活にも困るようになります。これは安倍能成の、みずからも含めた青年層の自己表象ではないでしょうか。確かに彼は漱石門下の新進気鋭の文士として知られていましたし、正規ではないにせよ教壇にも立っていました。しかし、その姿は学歴エリートのトップ・ランナーというにはほど遠かったはずです。この明治末は就職難の時代でもあるのです。そんな同時代の雰囲気を考えると、このような高等遊民的な自覚を能成がもっていたとしても何ら不思議ではありません。これも重要な指摘ですが、「高等遊民の多い国でなければ実際文明は進まない」と断言するところにも、そうした彼の矜持を窺うことができます。

ここまで話を進めると察しがつくとは思いますが、安倍能成が述べた二つの高等遊民像とは、夏目漱石の『それから』の主人公である長井代助像に重なります。「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ」と開き直る代助は、実業家の父を軽蔑しながらも父の経済的援助に依存して暮らし、「自分の趣味好尚」にひたる高等遊民です。しかし、その裕福な暮らしを捨てて三千代とともに生きる決心をしてから、代助は働く場所を求めて右往左往することになることは周知のとおりです。『それから』について、安倍能成は五十の齢を越えた一九三〇年代半ばになって、次のように語っています。冒頭で述べたように、それは彼が「漱石=岩波文化」を代表として知られた時期にあたります。

〕私が先生の作品に際立つて興味を覚えて来たのは『それから』を以て最初とする。その理由はそれが若かつた私の最も興味を持つた恋愛問題を正面的に取扱つた、恐らく先生の最初の作品だといふことにもあるけれども、私の記憶にして誤なくば、先生のその後の作品に一貫する自然の真実と人為の虚偽との矛盾相克といふテーマは、既にこの作品に於ても取扱はれて居たと信ずる。『それから』の次に出た『門』は、過去に恋愛の苦しい歴史を抱いて相倚れる寂しい静かな夫婦生活を描いたものだつたと記憶するが、その当時先生が『虞美人草』の技巧を嫌がられて、『門』の作風を愛して居られたことは、先生の口ぶりからも窺ふことが出来た。『門』の中に現はれたつつましい、ひそやかな、正直な、静かな、明るくはないが澄んだ人間や生活、かうした人間や生活の醸成する空気は、『こゝろ』に於ても受け継がれると共に一層洗練されて来て居るやうに思ふ。(安倍能成「『こゝろ』を読みて」一九三五年)

 まず表題となっている『こゝろ』の先生も高等遊民の類型であることに注意してください。安倍能成は『それから』を「若かつた私の最も興味を持つた恋愛問題を正面的に取扱つた」小説だと書いていますが、その詳細は省きます。重要であると思われるのは、能成がそこに「自然の真実と人為の虚偽との矛盾相克」という主題を読みとっていることです。もとよりそれは、狭義には代助と三千代の恋愛のことを指します。けれども、『それから』における「自然の真実と人為の虚偽」という対立項は、長井代助が二つの高等遊民像を体現する主人公だからこそ成り立つ構図であるのです。

 小宮豊隆が岩波書店から出した『夏目漱石』に関する文章のなかで、安倍能成は夏目漱石のことをこう評しています。漱石の生涯は「真実な正直な、自己の本然に就かなければ安んじ得ない生活」であったと(「『夏目漱石』を読む」一九三八年)。それは、「変物」といわれ「奇矯」と呼ばれても、漱石は「世間的な野心に動かされず、偏に自分の天真を発揮することを志した」からです。能成はそこに漱石の「自己の本然」をみたのです。この漱石の生き方は、かつて青年文士であった頃にみずからこだわった「自己」のひとつのかたちであったはずです。

 最初に述べたとおり、戦前と戦後を跨ぐように「漱石=岩波文化」や「漱石文化圏」、「漱石山脈」という言葉が論壇や文壇で登場します。それは、夏目漱石の存在がいかに大きなものであったのかを、残された文学作品とともに、漱石の影響を受けた作家や知識人たちが示したということを意味します。そのなかにあって安倍能成は、その実漱石のことをあまり語らず、一定の距離をおこうとした人物でした。しかし、藤村操の投身自殺から新進気鋭の文士として活躍した十年間ほどの時期を追ってみると、なぜ若き日の安倍能成が漱石とその文学に惹かれたのか、漱石との出会いがいかに彼の自己成型を促したのかを知ることができます。そしてそれは、オールド・リベラリストと称された戦後の彼の道程にも窺えるのではないでしょうか。

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167回夏例会


平成20年7月27日(日) 午後1時30分〜3時まで。、道後公園子規記念博物館1階会議室にて、会員木村直人氏の「私の坊っちやん論」と題して講演があった。

『坊つちやん』の読み方 …… 多田満仲伝承として読む      山影冬彦(神奈川県藤沢市在住)

1.作品中の該当個所の確認

 主人公の坊つちやんが多田満仲の後裔だと述懐して誇る場面は「四」や「十一」にある。

2.多田満仲虚実一覧

た だ の ま ん じ ゅ う  ・ 多 田 の 満 仲

虚     実

   人物の略歴(ただし、清和源氏・密告等については異説もある)

  連   想

 『坊つちやん 』の性格づけ

 源満仲。平安中期の武将。清和天皇系の賜姓源氏=清和源氏。源経基の長子。 頼光の父。藤原摂関家に近づき、摂関政治確立の契機となった安和(あんな) の変では密告者となり、武士としての地位を確かにした。諸国の守(かみ)や 鎮守府将軍などを歴任し、清和源氏発展の基礎を築いたことから、その元祖格 として清和源氏を標榜する後世の武家政権から神格視された。摂津守の時に摂 津に多田院を作り、その地を本拠としたことから多田満仲と称された。

                                              

  意 義 か ら 連 想

 大多数の漱石研究者のように『坊つちやん』を悲劇とみなし山の手情緒を感じる 論者は、おおむねこの範囲で多田の満仲をとらえている。

伝 承

虚 構 性 増 大

 分野

 作品

 特徴

 説話物語

 軍記物語

 浄瑠璃 謡・歌舞伎

 今昔物語

 前太平記
 金平浄瑠璃
 満仲

 仏道への発心(多田の新発意) 
  
武勇伝

 武家系図上の神格化

 身代わりもの(美女丸伝説)

 名所案内

隅田川両岸一覧 江戸名所図会など

多田の薬師

 素朴に『坊つ ちやん』を喜 劇とみなし下 町情緒を感じ る山影冬彦の 説の論拠とな るとらえ方。

 俳諧連歌
 狂歌
 川柳
 絵手本
 小咄

 歴史的用例として 3.で示す通り多数ある

 御国自慢・美女丸伝説・大江山鬼退治・江島生島醜聞事件・多田の薬師などに取材しての只の饅頭との洒落。

音 か ら 連 想

 (小説)

 坊つちやん

多田の薬師+只の饅頭

3.多田の満仲=只の饅頭という洒落の歴史的用例
多田満仲は十世紀の武将で饅頭が中国から伝来したのは十四世紀頃。故に洒落の成立は十四世紀以降。

〔 俳諧連歌 〕(/は改行の印)堂はあまたの多田の山寺  /  まんじゆうをほとけのまへにたむけおき
 〔北村季吟『新続犬筑波集』に「宗祇独吟百韻の中」として引かれていると『新潮日本古典集成 竹馬狂吟集 新撰犬筑波集』解説、二七三頁にある。〕

〔 狂歌 〕
  つゝめとも外にもるゝはまんちうの あんに相違のわが契り哉
  あまからてあちのよきこそ武者心 沙糖のいらぬたゝのまんちう
       〔2首は石田未得『吾吟我集』(明治書院刊『狂歌大観』本篇一六二頁・一六八頁)〕
〔 川柳 〕 ○ ちやらくらを多田のまんじう食初メ          ○ 下戸の子に上戸つぶれた大江山
〔 小咄 〕 ただの饅頭
  饅頭を菓子に出してあれば、「これは小豆ばかり入りて位高し。われ等ごとき者の賜はるは、ありがたき」 とていただく。また「砂糖饅頭は近来の出来物、なにの系図もなし。世のつねの者はうまさのまま、奔走に思 ふ」といひてくすみたり。「其方はなにとして、その別をば知られたるぞ」。「かくれもない。満仲の舞に、 『貞純の親王の御子六孫王と申し、六孫王の御子をば、ただのまんぢうと申し奉る』と。」                     (安楽庵策伝『醒睡笑』岩波文庫下巻、一六六頁)

4.多田の満仲=只の饅頭という洒落の意義 …… 権威失墜による身分差別意識の打ち消し

 この洒落は、徳川身分制社会の頂点に位する神格化された多田満仲を、只の饅頭の所に引きずり下ろすもので権威失墜の見本のような滑稽話。漱石は明治知識人の中ではとびぬけて平等意識の強い人で、また、この種の洒落が飛び交う講談落語に親しみながら育った。多田の満仲=只の饅頭の洒落を前提にし、身分差別意識を自動的に打ち消す効果をも計算に入れた上で、漱石が坊つちやんにこの種の述懐をさせたものと思われる。

5.見落とされた洒落 この洒落は今まで『坊つちやん』理解に活用されず、見落とされてきた。その理由は色々あるが、最大の理由は坊つちやん自身が洒落に気づかずに放つという無自覚的な洒落だからである。無自覚的な洒落というのは、滑稽の度合を一段と増す効果がある。作者漱石の狙いもそこにある。その狙いを次にみる。

6.作者漱石の意図

 漱石『文学論』の「第四編 文学的内容の相互関係」の「第四章 滑稽的聯想」の「第一節 口合」に「無意識的洒落」についての考察がある。そこにおいて漱石は、「今一人ありて或る源因の為め(無識又は誤解等)洒落を洒落と心付かずして真面目に放つ事あれば、吾人の洒落に対する滑稽感は直ちに其人物の上に落ち来るが故に単に言語のあやのみにて得る感じよりは数等活躍せざるを得ず。如何となれば此際に於ける滑稽感の目的物は死したる一句にあらずして血あり肉ある具体的の活物なればなり。彼の口にせる滑稽は彼の人格に附着して離るべからざるが故に、彼の滑稽は彼の人格の一部分なりと断定し得るが故に、此格段なる滑稽の小窓を通して其奥に潜む活躍せる大滑稽を予想し得るが故に、一句の滑稽は単に一句の滑稽として線香花火の如くに消滅するものにあらず。忽然として人工を脱して天籟の妙音となり、畫龍水を得て一躍天に登るに至る」(『文学論』 岩波『漱石全集』第十四巻、三〇二〜三〇三頁)と考察している。

 この考察は、坊つちやんが只の饅頭との洒落に気づかずに「多田の満仲の後裔だ」と語る事態と見事に重なる。『坊つちやん』と『文学論』は並行して執筆された。一方には主人公による只の饅頭との洒落に気づかぬ「多田の満仲の後裔だ」述懐があり、他方には「無意識的洒落」理論が考察される。これは偶然ではない。この理論的考察の存在は、漱石が坊つちやんの述懐を、多田の満仲と只の饅頭の洒落としてはもちろんのこと、「無意識的洒落」としても描こうとしたことを証拠立てる。作品『坊つちやん』とは、漱石が学者として『文学論』で築き上げた自家特製の「無意識的洒落」理論を、作家として創作実践の場で実地に応用してみせた見事な作例だった漱石の意図は、坊つちやんに「洒落を洒落と心付かずして真面目に放」たせることによって、「洒落に対する滑稽感は直ちに其人物の上に落ち来るが故に」「活躍せる大滑稽」が「人格」化したような人物となるように坊つちやんを描くことにあったといえよう。漱石のこの意図は当たっている。坊つちやんは「多田の満仲の後裔だ」と語って菓子の饅頭の所に転落していて面白いだけではない。その事態に全く気づいていないから余計に面白い。正に「忽然として人工を脱して天籟の妙音となり、畫龍水を得て一躍天に登るに至る」が如き「活躍せる大滑稽」人物となりきっている。
7.漱石の創作態度
 漱石の意図がこのようなものだとすると、作者としての創作態度が関連して問題となる。作者が主人公に無自覚的な滑稽を演じさせるとは、作者が主人公を突き放して、主人公から相当な距離を保っていることを意味する作者が主人公を遇する点において、『坊つちやん』は一種独特な構造を秘めていると考えられる。 このように作者が主人公を遇する関係は、漱石のいう「写生文」そのものではないか。漱石のいう「写生文」とは作者の心的状態として大人が子供をみる態度であり、一緒になって泣き笑いすることのない、余裕のあるものだった。漱石が主人公を無自覚に滑稽を演じる人物として描いた時、大人が子供をみる余裕ある態度で目を細めていたとみるのが、私流の読み方である。作者が題を『坊つちやん』と命名した由来もそこに見る。
 そこで、次に、『坊つちやん』の読み方として、「写生文として読む」読み方が浮上してくるわけだが、この点については既に本会報第4号掲載の「写生文としての『坊つちやん』」で論及している。その拙稿に譲る。

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168回秋例会

平成20年10月4日(土) 午後1時30分〜3時まで。県立松山東高 にて同校教諭門田篤稔氏の
「受験問題に現れた漱石−受験生に何を読み取らせたいのか−」と題しての講演があった。

受験問題に現れた漱石―受験生に何を読みとらせたいのか―  愛媛県立松山東高等学校 教諭 会員 門田 篤稔
1 はじめに
今年の春(一月)、センター試験において、『彼岸過迄』が出題された(岩波「漱石全集【全二十八巻別巻一巻】」第七巻二四九頁二行〜二五五頁十二行)。これは、これまで漱石が一度もセンター試験には出題されておらず、この一回をもって二度と出題されることがないことを意味している。ただし、平成二十二年度からは違ってくるようだ。
以下に2007820 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20070820ur01.htmの解説※1と独立行政法人大学入試センターから以下の発表(200885)※2とを載せる。

※1 一方で、過去問については、問題を解いたことがある人とない人で不公平が生じることを避けるため、1979年から始まった前身の共通一次試験を含め、一度も出題されたことはない。また、教科書に載っている題材も出題しないことが慣習になっていた。しかし、問題作成の過程で、センター試験や他大学の過去問、教科書との重複をチェックするのに多大な時間を割かれる状況が年々、深刻化してきた。特に、国語の古典では、「枕草子」などの著名作品について、教科書や予備校の模擬試験で使われている可能性が高いとして出題を避けており、「高校生が読める程度の難易度で、興味を持つような内容の題材を探すのは限界がある」との声が上がっていた。
※2 引き続き良質な問題を作成する観点から、平成22年度大学入試センター試験から、過去の大学入試センター試験や大学の個別学力検査で使用された素材及び教科書に掲載された文章であっても、高等学校における基礎的学習の達成度を測定する上で適切なものであれば、素材文として使用することもあり得ることとします。

つまりは、漱石の再登板どころか、過去の大学受験問題において出された箇所からの出題や予備校等受験産業会社の模試の出題範囲からの採用も可能になったというわけだ。ただし、漱石がセンター試験にすぐに出るはずもなければ、国公立・私立の各大学が、ここ最近他大学が受験問題とした箇所と同じ部分を採用してくるとも考えがたい。
では、こうしたことを踏まえて以下の問題を考えてみる。(1)今まで漱石はどのような形で受験問題に現れていたのか。(2)また、漱石作品を通して、出題者は何を答えさせようとしていたのか。(3)今後、漱石が受験問題を席巻する可能性はあるのか。

2 教科書に現れた漱石作品

(1)〜(3)の問題を考えてみる前に、教科書の漱石について考えてみる。センター試験はもとより、各大学の受験問題においても、「教科書に載っている題材も出題しない」ことを基本としているからだ。この点については松山東高教諭光宗宏和氏の詳細な論文「教科書の中の漱石(教育研究紀要第37集 平成17年3月)」があり、そこから引用する。
戦前において「漱石作品の教科書への登場は、1906(明39)年『再訂女子国語読本』への『吾輩は猫である』の採録から始まった」のであり、「教科書への採録の範囲と広さと頻度数において、『猫』『草枕』を中心とした漱石と島崎藤村が双璧であった。」「昭和25年から37年にかけての高等学校教科書では、『草枕』『三四郎』各8社、『硝子戸の中』3社、『猫』2社という採録になっている。戦後、『三四郎』の採録が激増した。」
1960(昭和35)年版学習指導要領(実施は昭和38)から、国語科の科目としての「現代国語」が全生徒毎学年必修となった。昭和38年度改訂時の、全学年15社あった教科書の中で、最も多く採録されたのが『三四郎』6冊であった。以下、書簡3冊『こころ』『猫』『それから』『硝子戸の中』『私の個人主義』各2冊、『明暗』1冊であった。」
1970(昭和45)年版学習指導要領(実施は昭和48)でも「現代国語」の毎学年必修は変わらなかった(中略)漱石では『三四郎』が減ったが、『こころ』と『それから』の採録は現代作家の作品と同じように増えた。」
 昭和60年代に入って「「国語T」が必修、「国語U」が準必修、「現代文」は選択科目となった。(中略)「現代国語」から「国語T・U」へという科目の大きな変更によって、「国語U」における『こころ』の採録冊数の突出ぶりが目立つことになる。」加えて、教科書の種類・冊数も増えた時期であり、漱石作品自体もバラエティに富んだ多くの作品が、採録されることとなった。

 「1989(平成元)年版学習指導要領(実施は平6)になると、「国語T」が必修、「国語U」は「現代文」「古典T」とともに選択となった。(中略)「国語U」では、すべての教科書会社が『こころ』を採択している。漱石の小説といえば『こころ』、評論といえば『現代日本の開化』という時代になった。」ここに至って漱石は『こころ』の作家となったのであり、明治という日本を考えた思想家となった。この集中的大採録が、後の衰退を意味することは、自明のことである。

 「1999(平成11)年版学習指導要領(実施は平15)には「国語総合(標準単位数5)」と「国語表現T(標準単位数2)」が選択必修」となり、いずれかを選択すれば良くなった。週2回の授業をすれば、その後高校時代、国語を一切しなくても良いと言うことになったのだ。漱石作品も息の根を止められた感がある。「平成12年に比べると平成17年は、教科書会社が4社減り、教科書もかなり減少している。しかも、最も新しい平成16年検定「現代文」7冊に限ると、その中で『こころ』を採録しているのは1冊だけであり、漱石作品が1つもないものが3冊ある。」確実に、漱石作品は採録されなくなってきていると言えよう。
3 受験問題に現れた漱石作品
表1を御覧いただきたい。学燈社「国語入試問題詳解」と旺文社「全国大学入試問題正解」を使い、平成5年から18年までの夏目漱石出題作品と数を調査したものである。ところどころ抜けているのは、松山東高等学校の本館が建て替えられるため、資料となる冊子が体育館の何処か、段ボールの中で眠っているからである。採録回数が多いものから並べてみたのだが、文学作品が多く、意外なことに「小説といえば『こころ』、評論といえば『現代日本の開化』」の漱石がここでも生きていることだ。次に採録箇所及び内容であるが、入手できた受験問題について並べてみると北海道教育大学(平8)『永日小品(岩波「漱石全集 第十二巻百七十七頁四行〜百八十頁三行)』、立教大学『思い出す事など(同 第十二巻四百二十三頁六行〜四百二十五頁十五行)』、國學院大學(H8)『草枕(同 第三巻百二十九頁十一行〜百三十二頁九行)』、宮崎大学(H9)『夢十夜(同 第十二巻百十五頁一行〜百十八頁九行)』、西南大学(H10)『門(同 第六巻五百九十八頁九行〜五百九十九頁七行)』、日本大学(H11)『文鳥(同 第十二巻八十六頁二行〜八十九頁四行)』等と続く。
設問を()指示語内容指摘問題、()適語選択肢問題、()空欄補充問題、()整序問題、()文章挿入問題、()標題選択問題、()傍線部解釈問題、()内容説明問題、(9)読み書き・文法・文学史等知識問題、(10)その他の十項目に分け、分析してみた。はなはだ失礼ではあるが、模擬試験や他大学の過去の受験問題と変わりなく、ユニークな問題は見つからなかった。ユニークな問題は「国語入試問題詳解」「全国大学入試問題正解」には採録されていないことが原因であろうか。
変わったところでは、岡山大学(H19)が夏目金之助の書いた『山路観楓(同 第二十六巻六頁一行〜七頁十四行)』を古文の問題として出しており、和歌の鑑賞・口語訳を中心とした、感性をフルに生かして考えさせる問題を作っている。また、郡山女子大学(H20)では『虞美人草 予告』『三四郎 予告』『行人 続稿に就て』『斎藤阿具へ贈れる「吾輩は猫である」の上巻の見返しに』などを採録し、受験問題を作っている。問題が入手できなかったが、非常に興味深い。
さらに、ここ最近の受験問題にユニークな問題が見当たらないのであれば、センター試験の始まる遙か昔、1979年(S54)に始まった共通一次試験時代の受験問題であれば、どうであろうかと考えた。昭和54年〜昭和56年の受験問題を見つけ出し、上と同じような項目に分け、分析を施してみた。その結果、(1)〜(10)の項目に分けられない、今とはかなり変わった問題を見つけることができた。次のものである。一橋大学(S55)「昔と今の教育について五百字で意見を述べる」『教育と文芸(同 第二十五巻三十三頁一行〜三十六頁十一行)』。東京大学(S54)「大学時代の漱石と英文学の関係」「ロンドンで考えたこと」「譴責を受けた際の漱石の気持ち」等『文学論序(同 第十四巻七頁十行〜十頁一行』。三重大学(S55)「内容に合致する文を十四項目のうちからいくつでも選ぶ。」「二つの文章に共通する漱石の考えを二百字程度で記す。」『博士問題の成行(同第十六巻三百六十頁一行〜三百六十二頁十四行)』『文芸委員は何をするか(同 三百六十三頁一行〜三百六十六頁十一行)』等である。これらには、現在では小論文に属するタイプの問題が含まれている。漱石が採録されることはなく、最近の評論家の文章であるとか、ユニークな出題が目立つのが小論文問題だ。先に今とはかなり変わったユニークな問題(現在の問題と比べて)を出していた大学の平成20年の小論文を一部引用するが、以下の通り、興味深いものとなっている。
○ 一橋大学(後)社会井崎正敏『倫理としてのメディア』を読んで、問1 「商品に転化することで思想がいかなる変容を被るか」とあるが、どのような変容が生まれると述べているのか、説明する(600字以内)。 問2 「むしろメディア・ゲームに身を乗り出して参画することのうちに、ゲームのルールを内側から変える突破口が探し出せるのではないか」とはどういう主張であるかを明らかにしながら自分の見解を述べる(900字以内)。」
三重大学(後)人文・文化/大澤真幸「社会」を読んで、問1 超越的な第三者とは何かを説明し、その不在が責任概念の空洞化をもたらす理由を、本文に即して500字以内で要約する。 問2 現代社会において、超越的な第三者が存在しなくなった具体例を独自に一つ挙げ、その不在がどのような影響をもたらしているかについて1000字以内で論じる。
東京大学(後)文科一類論文1  英文(Mike Rose,The Mind at Work,2004)を読んで、問1 筆者の考えにそって、下線部の意味を350字以内の日本語で説明する。 問2 筆者はintelligenceについての2つの見方に関してどのように述べているか、350字以内の日本語で説明する。 問3 アメリカ合衆国におけるworkintelligenceの関係についての筆者の考えを250字から300字にまとめた上で、「筆者の考えは日本にもあてはまる」「筆者の考えは日本にはあてはまらない」のいずれか一方の立場から、日本におけるworkintelligenceの関係について日本語で論じる。あわせて700字以内。(ドイツ語、フランス語、中国語の問題は省略)論文2 第1問 入江昭『二十世紀の戦争と平和』を読んで、著者が提起したナショナリズムの問題について、自分の考えを自由に述べる(1200字以内)。第2問 福田歓一「自戒をこめて」を読んで、下線部「そもそもわが学部の専門とする法律政治の世界は、まさに精神的成人だけが取扱い得る世界だからである」に関して、法律政治の勉強をするために、精神的成人であること、または精神的成人になることが必要か、自分の考えを1200字以内で述べる。

 PISA調査(Program for International Student Assessment)でのフィンランドの好成績や、日本の順位の下落を挙げるまでもなく、こうした小論文の必要性は、ますます高くなってくるだろう。それは、日本人が今後の国際社会で生き残るためにも、重要なものであろう。
(3)今後、漱石が受験問題を席巻する可能性その可能性は薄いとしか言いようがあるまい。ここしばらくは、センター試験の余波として、模擬試験やサブテキストには顔を出すと思われる。しかし小説を素材とし、心理読解を中心とする設問であるならば、漱石作品でなくとも良いのである。近代の小説を取り上げるにしても、昨年の入試で幸田露伴の『五重塔』を上智大学が、今年の入試で中島敦の『文字禍』を京都大学が受験問題として採録し、それぞれに面白い問題を作っていた。漱石に限る必要は無い。「自我」や「殉死」を取り上げなくとも、「職人の意地」や「文字の霊性」によって読解力や表現力は問える。心情に迫れる。さらに現実世界は解決されない問題を抱え持っている。この問題に対しては、小論文が大いに受験生に対し、現在を、将来を問うている。もはや受験生に対して、「漱石とは何か」、「漱石の生きた時代とは何か」を問う時代ではないのかも知れない。国民作家という名称も、戦前・戦後の教科書や受験問題に多く採録されていた時期を経て獲得されたものであったろう。そもそも国民作家とは何か、すらが問題である。高校時代に読んだ思い出の作品が『こころ』でなくなろうとしている今、高校生や大学生は共通の作家を持つことはできるのだろうか。興味は尽きない。
4 まとめ
現状を嘆く必要もなければ、憂える必要もあるまい。漱石は漱石であるし、作品は作品である。郡山女子大学は今年『虞美人草 予告』『三四郎 予郡山女子大学(H20)では『虞美人草 予告』『三四郎 予告』『行人 続稿に就て』『斎藤阿具へ贈れる「吾輩は猫である」の上巻の見返しに』告』『行人 続稿に就て』(朝日新聞掲載)『斎藤阿具へ贈れる「吾輩は猫である」の上巻の見返しに』を使って受験問題を作った。ユニークな受験問題も作られよう。今後、漱石自身を論じた評論も出題されようし、彼の俳句を論じた文章が出題されることもあろう(たとえば坪内稔典・長谷川櫂の文章)。漱石作品を採録したからこそできた問題、漱石という人物だからこそ問える問題。漱石の魅力を十分に伝えてもらえる受験問題。それらに今後とも出会い、生徒と共に解く楽しみを味わいたいと思っている。   

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169回冬例会

第169回例会は平成20年12月7日(日)、午後1時30分〜市立坂の上の雲ミュージアムにて開催。漱石忌(9日)を繰り上げて、正宗寺住職田中義晃師(副会長)の代理、田中義雲師読経による法要の後、講演会。

東洋城と漱石、そして壷天子

        会員 山本典男
一、村上壷天子と松根東洋城

 数年前、俳人村上壷天子の旧居が取り壊され、遺族の方から壷天子の遺愛の松根東洋城からの形見を譲り受けた。松根東洋城からの形見は漱石の俳句だった。私はそれまで俳句にも門外漢だったが、その句が漱石、東洋城、壷天子とつながり、これらの句に深い師弟の愛が受け継がれていることを感じ、これを残すことが私の使命と考え、伊予郡砥部町五本松の窯業試験場前の自宅の一角に漱石と東洋城の師弟の小さな句碑を建てた。
二、村上壷天子
村上壷天子は明治二十年、宮窪町生まれ、昭和五十九年に九十六歳の長寿を全うしている。本名は万寿男で昭和十九年、松山市余戸小学校長を最後に教育界を去り、学校教育の功績から愛媛教育文化賞を受賞した。教育界引退後は、俳句や書絵に専念し、俳句は初め村上霽月、後に松根東洋城に師事し、『渋柿』の同人、選者にもなっている。句集に『綿津見』『別れ霜』があり、著書には『壷天子、書と画』あり、県内には多く句碑が残されている。その壷天子は「私にとって芸術、文化思想などの師たるに止まらず、私の人生に於いて『師中ただ一人の師』が松根東洋城であった」と言っている。(『壷天子、書と画』)

三、東洋城「いつくしめば」の句
大正十一年頃で壷天子は写実中心の俳句に飽き足らずしばらく中止していたが、境地の表現を重視する『渋柿』俳句に出会い、東洋城の指導を受けるようになった。昭和八年の秋、壷天子が初めて上京して東京余丁町の東洋城の『落葉荘』を訪ねたときの思い出を次のように書いている。「先生は稿執筆中であった。私は先生の命ずるままに座敷の真中に紙をのべて庭のスケッチをしながら待つことにした。先生の執筆が終わるとともに相伴って縁側に出て俳話を承ることになった。その途中はからずも叱責の痛棒が飛んできた。「壷天子君、君はわかった顔をしているがわかっていない、よく聞け」それから更に半時間ばかり俳話を拝聴した後、座敷に戻り私のスケッチの前に立った。先生は熟視しばらくの後「僕が一句書きいれよう」と筆をとった。「いつくしめば叱ると聞ける寒さかな」である」と。

 四、昭和三十九年、東洋城没

松根家の菩提寺、宇和島市の大隆寺に埋葬され、墓の戒名は安倍能成が書いた。壷天子は一回忌に招かれ、大隆寺の墓碑の前で、師を偲び「いつくしめば叱ると聞ける寒さかな」の句を得た経緯と出会いの講話をする。偶々この講話に居合わせた宇和島高校の兵頭正校長は「教育における師弟、教師と生徒の在り方はかくあるべし」と感動、同校の七十周年の記念事業として、句碑の建立を決意、この句の揮毫 を壷天子に頼み、この句碑は現在も同校の校門に兵頭校長の副碑とともにある。

 五、東洋城の「はなむけ」は漱石の句

 今回の句碑にある漱石の句「風に聞けいずれの先に散る木の葉」の経緯を説明する。東洋城が壷天子に形見として送ったこの短冊は漱石の短冊である。東洋城は昭和三十九年十月二十八日、八十六歳で亡くなる。生涯娶らず、名門の同家を継ぐものはなく、実弟の松根宗一氏が喪主となった。喪明けに宗一氏を通じて、故人の遺志で形見分けがあり、壷天子には東洋城遺愛の漱石の句が贈られた。近々松根宗一氏から送られてくるとの松岡凡草から壷天子への葉書がある。

六、東洋城の俳句へのきっかけ

 明治二十八年に松山中学で漱石に教えを受けた一人が松根東洋城であった。彼は東京の一高に入ったが、漱石が俳句に夢中になっていることを松山中学から五高に入っていた友人の矢野義二郎から聞き、漱石に俳句の添削を頼めないかと伝え、矢野は漱石に伝える。これが松根東洋城の俳句にのめり込む切っ掛けであった。「ゆで栗を峠で買ふや二合半」の句などを漱石に褒めてもらい、しだいに俳句熱が昂じていった。

漱石は英国留学の後、『吾輩は猫である』などのヒットで小説家として有名になる。安倍能成、鈴木三重吉、小宮豊隆,後には芥川龍之介等、彼を慕って多くの門下生が集まって来た。執筆時間のなくなっていた漱石は門下生との面接の日を木曜日に限ることになる。これが「木曜会」の始まりで、東洋城もその常連メンバーで漱石に可愛がられた。明治三十九年に虚子に宛てた手紙に「東洋城は遠慮のない、いい男です。あれは不自由なく暮らしたからああゆう風に出来上がったのだろう。其れから俳句をやるからあんなになったのであろう。僕と友達の様に話をする。そうして矢張り元の先生のような心持を持っている。それが全く自然で具合がいい。」と好意をもって書いている。

 七、東洋城主宰の「渋柿」の発行

 漱石は小説家として人気多忙のために俳句への関心は次第に薄れつつあった。その彼が一生、俳句を続けたのは、東洋城がいつも家にきて「先生俳句を作りましょうよ」と句作を誘いかけたためとも言える。大正三年、東洋城は大正天皇が「俳句とは」の御下問があったのに対し、「渋柿のごときものにそうらへども」と奏上したものに端を発し、その翌年、俳誌『渋柿』を主宰することになる。この『渋柿』は現在も続けられ一○○○号を超えており、『ホトトギス』に継ぐ俳誌である。

八、修善寺大患と「風に聞け」の句
明治四十三年に、漱石は修善寺で大量の吐血をし、病床に倒れ、生死の境をさまよった。「修善寺の大患」と言われるものである。この病気は大事件で大々的に報道された。この時安静のため、心身の赴くままに朝夕を過ごす楽しみを覚える。この時に味わった心境は久々に多くの俳句を生み出した。漱石はこの療養中の体験を自ら「思い出す事ども」で発表する。「風に聞けいずれか先に散る木の葉」の句も病床の体験から先を予測できない運命の出来事を書いた後にこの句が挿入されている。一方東洋城は北白川宮のお供の仕事の後で、漱石の見舞いに病室を訪れる。漱石は出来上がったばかりの句を見せた。東洋城は「示された句を無理に願って書いてもらった。それは仰臥のまま、苦しいのをこらえて巻紙に書かれたのであった」とある。その後東洋城は寺田虎彦らと編んだ「俳句研究」でこの句に感心している。

九.漱石の死と東洋城

 東洋城は大正五年十二月初め、書斎の柱に漱石の短冊を新しく掛け変えた。「風に聞けいずれか先に散る木の葉」冬が来たので冬の句を、そんな思いで掛け変えたが、冬に落ちる木の葉のようにその月の九日に漱石は逝った。東洋城は柱の短冊に思わず答えたという。「死顔に生き顔恋ふる冬夜かな」と。半藤氏は、師を偲んで句に詠んだ東洋城のことをそう記している。「新小説夏目漱石・臨特号」で松根東洋城が寄稿した「先生と俳句と私」に「風に聞け・・」の句の写真と東洋城の思い出がともに出ている。東洋城は昭和三十九年に八十七歳で亡くなり、その句が弟子の壷天子に形見として贈られた。また、壷天子は昭和五十九年に九十六歳で亡くなり、今度は、漱石の句は、場違いな私の所に来た。不思議な縁であった。漱石と東洋城、壷天子と続く師弟愛の句の方端をつかんだ者として漱石と東洋城の句碑建立を決めた訳である。

 一〇、東洋城の父母の墓

 東洋城の先祖は宇和島藩伊達家の城代家老であった。平成十五年の八月、私は宇和島の大隆寺の松根東洋城の墓碑を訪ねた。大隆寺は宇和島藩伊達藩主の菩提寺で、その家老を勤めた松根家代々の墓地もそこにあった。豊次郎、松月院殿東洋城雲居士、昭和三十九年十月二十八日没八十七歳、友人の安倍能成の筆である。松根東洋城は本名を豊次郎といい、明治十一年二月二十五日、東京の築地に生まれた。東洋城の号は豊次郎をもじったものである。父の権六は、宇和島藩首席家老松根図書の長男、母の敏子は伊達宗城公の次女。祖父の松根図書といえば、幕末四賢公の一人といわれた伊達宗城を裏から支え、宇和島に図書ありと他藩の藩主から羨まれた希代の切れ者。松根家といえば親戚に皇族や華族がいる名門である。

一一、漱石に依頼の東洋城の母の戒名

 東洋城の墓碑の横に、右に松雲院殿閉道自覚居士、左に霊源院殿水月一如大姉とあるのが父権六と母敏子の墓である。東洋城の『句全集』の年譜には、父の権六は明治四十四年に死亡とある。ところが『漱石全集』の「書簡集」には、明治四十四年に東洋城の母の戒名を相談したことの漱石の返信の手紙が五通残っている。明治四十四年の漱石の「頼まれて戒名選む鶏頭かな」はこの時の句である。単純に考えれば明治四十四年に亡くなったのは父の権六の筈である。それを生存中の母の戒名を漱石に相談するのは変でないかと書簡を見直したが、手紙で漱石に託した東洋城の相談は母敏子の戒名の件で、亡くなった筈の父の権六の戒名の相談は皆無である。そこで、父の権六の戒名は、権六が亡くなった一月には戒名は大隆寺の住職より贈られ解決済みでなかったかと解釈した。その上で、東洋城の漱石への依頼の内容は次の三点にあると考えた。

@    権六の一回忌までに墓石を建立する必要があるが、この際母の戒名も敬愛する漱石に決めてもらって墓石に彫っておきたい。

A      漱石の玄関の表札の字が気に入ったので、両親の墓碑は、これを書いた菅虎雄に頼んでもらいたい。

B  母の戒名には宇和島のイメージから海に因んだものを漱石に考えてもらいたい。

以上の三点が東洋城の漱石への依頼の内容ではなかったかと漱石の手紙から考えた。ところで、漱石の書簡では、東洋城の願いを聞き、滄?院殿水月(一夢)一如大姉ではどうかと東洋城に提案している。それに対し、漱石は「浩洋院殿では水月云々に即かず不賛成に候」と書き、海に関する五つの別の院殿号を提案、また翌日の手紙で、漱石は「昨日ある本を見たら海のことを霊源というように覚え候。霊源院殿は戒名らしく候、如何にや」とあれこれ詮索し、翌日、気の早い漱石は、友人の菅虎雄に戒名の揮毫を依頼している。文意は「縁起は悪いが戒名を是非書いて貰いたい。僕の教えた松根という男の父母である。書体は正楷、字配り封入の割の通り、右は父、左は母、ご承知ありたし。松根という男は引っ越しの時、僕の門札を書くところを見ていたから君に頼みたいといっている」とある。

一二、菅虎雄のこと

 菅虎雄は漱石の大学時代の友人で、漱石を松山中学に紹介したり、熊本の五高の教師に紹介したのも彼で、漱石の親友であった。安倍能成が、漱石が生前、最も親しくしていた友人に菅虎雄を挙げている。彼はドイツ語教師であったが、書にも堪能で一高の時の教え子芥川龍之介の著作『羅生門』の題字や、漱石が亡くなった時、雑司谷にある漱石の墓碑も彼が書いている。菅は漱石の頼みでもあり、数枚の候補作を書いている。ところが、東洋城は、直前になって中止したい、などと優柔不断なことを言っている。漱石は慌てて、「実は先刻、菅に手紙を出して頼んでしまった、いまさらよすと云うのも異なものではないか。それに私もこの戒名に愛着もある。」と東洋城に翻意を促しています。また別便では、菅虎雄の書いた戒名を複数見せて「小生のよしと思うに朱円を付し置き候」と結び、これで漱石達のやり取りは終わる。漱石は大正五年に亡くなり、東洋城の母親は昭和八年に亡くなっており、書簡だけでは分からないので漱石の戒名は実現したのか確かめる必要があると考えた。なお菅虎雄は漱石の墓碑も揮毫している。この顛末を宇和島の大隆寺の墓地で実際に確認するのが、旅の目的だった。だが、私の危惧に関わらず、漱石が考えた戒名は一字も修正されず、権六の戒名の横に母親の「霊源院殿水月一如大姉」はあった。漱石の「頼まれて戒名選む鶏頭かな」は確かに実行されていたのであった。(以下一三・一四は編集の都合上了解を得て省略)

第一六七回例会 平成二〇年一二月七日

   虚子『漱石氏と私』の持つ意義について  

―漱石・虚子の宮島行き記述から―   会長 頼本冨夫

一、はじめに

明治二十九年春、夏目漱石は松山の伊予尋常中学を辞し、第五高等学校教授として熊本へ赴任した。途中宮島までは上京する高浜虚子が同行した。この時の二人の行動は虚子が「漱石氏と私」の中で詳しく記述しているが、松山出発日時は春四月であるにもかかわらず秋に、宮島の宿所名が、正しくは「岩惣」であるのに「紅葉」と、記憶違いであろうか誤記されている。本稿ではその誤記の状況と、「漱石氏と私」の持つ意義について考察する。

二、虚子の著書「漱石氏と私」の記述の中から松山(三津浜)出発に関する記述を次に挙げる。

()確か漱石氏は高浜といふ松山から二里ばかりある海岸の船着場まで私を送つて呉れて、そこで船の来るのを待つ間、「君も書いて見給へ。」などと私にも短冊を突きつけ、自分でもいろいろ書いたりなどしたやうに思ふ。それが此春の分袂の時であつたかと思ふ。それから秋になつて又帰省した時に、私と漱石氏とは一緒に松山を出発したのであつた。私は広島から東に向ひ、漱石氏はそこから西に向かつて熊本に行くのであつたが、広島まで一緒に行かうといふので同時に松山を出て高浜から乗船したのであつた。()―さてその広島に渡る時に漱石氏はまだ宮島を見たことが無いから、そこに立寄つて見たいと思ふ、私にも一緒に行つて見ぬか、とのことであつたので私も同行して宮島に一泊することになつたのであつた。その時船中で二人がベッドに寝る時の光景をはつきりと記憶している。宮島までは四五時間の航路であつたと思ふが、二人はその間を一等の切符を買つて乗つたものである。それは昼間であつたか夜であつたか忘れたが多分夜であつたろう。一等客は漱石氏と私との二人きりであつた。()こんな寝台のやうなものゝ中で寝たのは初めてであつたので、私はその雪白の布が私の身体を包むのを見るにつけ大に愉快だと思つた。そこで下から声をかけて、「愉快ですねえ。」と言つた。漱石氏も上から、「フヽヽヽ愉快ですねえ。」と言つた。私は又下から、「洋行でもしてゐるやうですねえ。」と言つた。漱石氏は又上から、「そうですねえ。」と答えた。二人は余程得意であつたのである。その短い間のことが頭に牢記されてゐるだけで、その他のことは一向記憶に残つて居らん。宮島には私は其前にも一二度行つたことがある為に、却つてその漱石氏と一緒に行つた時のことは一向特別に記憶に残つて居らん。()(大正七年一月一三日初版 アルス社 同年阿蘭陀書房版も。)

同様に「俳句五十年」の中、『漱石と宮島に』では「(明治)二九年の十月に、私は偶々松山に居りまして、母の病気の介抱をしてをつたと思ひますが、夏目漱石が松山の中学校から熊本の第五高等学校に転任する事になりまして赴任する時に、私にも一緒に宮島へ行ってみないかといふ事でありまして、同行しまして、()定本高浜虚子全集第一三巻 昭和四八年刊 中央公論社初昭一七年」ついでながら、また同書三では、「漱石氏から私に来た手紙の、一番古いのは明治二九年一二月五日附きで熊本から寄越したものである。先ずその全文を掲げることにしよう」とし、「来熊以来は頗る枯淡の生活を送り居り候。道後の温泉にて神仙体を草したること、宮島にて紅葉に宿したることなど、皆過去の記念として今も愉快なる印象を脳裏にとどめ居り候。(下略)」と漱石も宿屋名を「紅葉」と記している。これらの記述を典拠として年譜では、

「明治二九年一〇月(二三歳)「(略)暮秋。松山に在り。漱石の熊本赴任を送って宮島に至り共に紅葉を賞す。」高浜虚子全集第六巻改造社昭和一〇年刊」となっていたが後に

「明治二九年(一八九六)漱石の第五高等学校への赴任を送り、宮島に遊び紅葉谷公園に宿る。4月」と訂正されたのは当然といえる。(定本高浜虚子全集別巻 虚子研究年表 昭和五〇年刊 毎日新聞社 松井利彦著) 参考までに、松山出発日時を漱石の書簡等から検証すると

明治二九年四月一〇日(金)はがき 消印なし 村上半太郎宛 三津浜久保田回漕店より「折角御来訪被下候ひしに両人共不在残念に存候

  花に寝ん夢になと来て遇ひ給へ  漱石

花の道二つに分れ遇はざりし 虚子」とある。(岩波漱石全集(九六年版)第二十二巻書簡)

また同年四月一五日()横地石太郎宛、熊本第五高等学校よりの書簡では、「拝啓出発の際は御見立被下ありがたく奉謝候小生去る十日発十三日午後当地に着致候()」 

となっていて、従って明治二九年四月一〇日松山発は間違いないように思われる。増補改訂漱石研究年表(荒 正人著昭和五九年集英社)もこれを採用していると考えられる。

付記和田茂樹先生(故人愛媛大名誉教授・講談社子規全集編集者代表)は「霽月(村上半太郎)の『逍遥反古』(句文集)の記述を引用され、「翌(四月)十一日午前九時、、霽月らの見送りを受けながら漱石と虚子は揃って三津浜港を出港し、松山を後にした。」(九五年版漱石全集第一四巻月報16『漱石・初期句作の一面―全集未収録句を紹介しつつ』岩波)とし、四月十一日三津浜出航としている。なお、同氏の(子規の素顔二六二頁 えひめブックス愛媛県文化振興財団平成一〇年三月三一日刊)にも同様の記述があるそれを典拠として(〇四年岩波)漱石全集第二七巻 年譜では、「明治二九( 一八九六)四月一一日 東京へ行く高浜虚子と松山の外港三津浜を出発し、宮島に一泊した。(和田)」となっている。しかし、この件については平成一四年七月松山坊っちゃん会(漱石研究会)第一四三回例会(『漱石―松山から熊本への旅』講師 会員山崎善啓氏、)の席上、和田先生自身が四月一〇日出発と訂正された。ちなみに山崎氏は他の資料を併用し、四月一〇日午前九時三津浜出航としている。    

三、高浜虚子著「漱石氏と私」について

 同書は大正五年一二月九日漱石の死の直後執筆、初出は翌年の二・三・四・五・六・九・一〇月号の「ホトトギス」に七回にわたって連載された。 同書には明治二九年一二月五日〜大正二年六月一〇日までの一〇一通のはがきを含む漱石の虚子宛書簡が掲載されている。外に漱石以外が二通ある。紅野敏郎氏は、岩波文庫『回想 子規・漱石』 高浜虚子著 解説の中で次のように述べている。

(前略)虚子のこの本の功績は、漱石の書簡を没後早々の時点で、多量に挿入しつつ、この一文が語られている点にある。漱石との出会いから『ホトトギス』誌上でのエッセイや小説の寄稿、それが縁となっての漱石周辺の人物の作品の寄稿、さらに朝日新聞入社後の漱石との関係なども浮かびあがってくる内容となっている。書簡を通して語らしめるという手法は、語りの読み物としての迫力は若干弱まるが、漱石書簡をこのようなかたちで保存、発表するという効力を存分に発揮した。次々と編まれていく『漱石全集』の書簡の巻の基礎づくりがすでにこの時点でなされていたのである。それも「漱石氏が『猫』を書くようになってから以来一両年」のものが多く、それ以前のものは「極めて少」なく、また朝日新聞社入社後、「その誌上に筆を執らぬようになってから」のものは「また著しくその数を減じている」と率直に書いている。()漱石書簡の醍醐味が、これによって満喫、広く喧伝された効果は実に大きい。虚子の側からいえば、計算あってそうしたのではなく、書簡がかたわらにあるからそれをすべて活用して、というおのずからの行為であったのだろうが、漱石の書簡は小説以上の面白さを持つ文学、と佐藤春夫をして言わしめる発端となったのである」と。

虚子は『漱石氏と私』の序の中で「漱石氏と私との交遊は疎きがごとくして親しく、親しきがごとくして疎きものありたり。その辺を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料としてただ追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる当時の事情は、ほぼこの書によりて想察し得可し」と記している。                           紅野氏も述べているように『猫』前後の書簡が、とりわけ多いのは、朝日新聞入社以前の二人の親密な関係から当然である。そこに漱石・虚子の友情が感じ取られる。『吾輩は猫である』・『坊っちやん』その他は無名の漱石を一躍人気作家に押し上げた。発行所を松山から東京へ移し、雑誌経営の経験日も浅い虚子にとっては、雑誌「ホトトギス」の売り上げが大きく伸びた喜びは言うまでもあるまい。『猫』以来虚子主宰の「ホトトギス」は、小説重視の方針を取っていたが、漱石朝日新聞入社以後、読者減少し、誌勢は衰退した。そこで大正二年二月年一〇月号からは経営方針を改め、他の小説連載をやめ、単独執筆とし小説重視的性格から俳句雑誌的性格へと徐々に方向転換した。大正五年は漱石は作家として惜しまれつつ没したが、発展に大きく貢献した友人漱石のために追悼号とか記念号は特に出さなかった。虚子にとってはあくまでも漱石は朝日新聞の小説記者であり、漱石の『猫』は自分が薦めて書かせた小説であり、漱石の成功により自分も刺激を受けて小説を志した、いわばライバルである。漱石追悼の特集は出さなかったのも、「交遊は疎きがごとくして親しく、親しきがごとくして疎き」状態だったからである。その代わりとしてか、「漱石氏と私」が漱石死去の翌年大正六年、「ホトトギス」二月号に掲載された。その目次では、主宰であるからか他の活字の三倍の大きさで巻頭で目を引いている。追悼の意味をもたせたものか。大正六年一〇月号では虚子の「京都における漱石氏」がトップで次に「漱石氏と私」の第七回となっている。虚子の文が二つ並んで、これも他の活字より大きくこれも読者の目を引くに十分である。同年の一二月になり、白石 大氏の「漱石先生の一面」という文が掲載されているが、普通の活字で、以後しばらく漱石関連の文は消える。虚子は漱石を偲び、漱石書簡を掲載することにより、漱石が「文壇に出づるに至れる当時の事情」を書き留めたのである。没後しばらくの間、漱石特集が多くの新聞雑誌等で組まれた。そういう社会性・ニュース性をも考慮し、あくまでも「ホトトギス」のために執筆したわけである。雑誌経営者としての虚子のしたたかさが垣間見える。これは「ホトトギス」の歴史からも考えられることである。山本健吉は「企業としての『ホトトギス』王国」(明治文学全集56筑摩書房 高浜虚子)と言っている。

よって虚子にとっては、ここでは書簡によって交遊をかたることが目的であり、漱石と宮島へ行った日時などに一々こだわる必要は感じなかったのである。その他愚陀仏庵に於ける子規・漱石同居でも明治二九年(正しくは明治二八年)としている。漱石との交遊を語れば、それでよかったのである。なお、参考までに漱石全集全一四巻(大正六年本、定価の記載のない予約出版本)刊行開始大正六年、完結大正八年、第一二巻書簡集大正八年四月三〇日刊、第一三巻 続書簡集大正八年六月一五日刊で年譜は付随しない。従って日時等拠るべき資料は虚子執筆当時はまだ存在しなかったのである。ついでながら、宮島行きの一等船室内の漱石・虚子が初めてベッドで、寝てみたりする場面は、実際には日中だったのであろうが、洋行を夢見る二人の青年の微笑ましい姿が描かれていて面白い。

(漱石研究会)平成19年の記録

1 第162回春例会
平成19年4月22日日 松山市道後公園内 市立子規記念博物館会議室に於いて第162回春例会が開催された。総会に引き続き三好典彦三好神経内科院長の「夢十夜を精神医学の立場から読む」と題する講演と木城香代氏の「夢十夜}の『第一夜』の魅力的な朗読が講演を挟んで冒頭と最後にあった。
なお、講演は質疑応答を中に入れながら進行する形であったが、本稿では整理の都合上、三好氏が当日持参された資料の中からの「第一夜」に関する女性のイメージの三つの章を順序に従って次に挙げる。
男性の夢の女性イメージについて
 認識の根本について私は次のように考える。我々が認識したという何事かは、外界の対象からの刺激が感覚
器を経て脳へと入力され、それが予め脳にある内部情報と照合され、その上で出力された情報であると、つまり、外界の対象を感知すると、必ずそれに対応した内的なイメージが刺激されている。脳には、そのような対応関係を作るシステムが予め準備されていると考えられる。
 夢でも登場人物を「○○さん」と認識したら、それに対応している内部情報のイメージである。では、そのような実在と対応しないイメージは何だろうか。実在と結びつかないなら、それこそ夢を見た人の固有のもので、しかも予めあったものと考えるのが自然であろう。だからそれは、その人が本来的に抱えているイメージである。「第一夜」の夢に登場する女性イメージも、漱石の内部にある男性にとってのW内なる女性Wの典型である。それに対応した固有名詞がなくても、決して女性一般のことではない。夢見手にとって、外的には見知らぬ人であるが、内的には馴染みの人である。
 生物界のオスにとって、メスが性的につながりたいという本能の求める対象であることに異論ないはずである。
ということは男性が夢の中で出会う女性も、男性が求めている特別な対象の象徴だと考えることは自然であろう。脳が進化を遂げた人類の男性の場合は、性の対象としてだけではなく、いくらかは文化的になり、情緒的に、精神的につながりを求める対象であったりもする。すなわち、この男性のW内なる女性Wはあらゆる次元を含む、男性がつながりを求めいるものの象徴であると考えられる。
 さて、夢の女性像を詳しく見ていくと、「長い髪」「色白で、柔らかな瓜実顔」「大きな潤いのある眼、真っ黒な瞳」というイメージである。その女性がどのような様子かというと、血色はよくて、むしろ活気を感じるほどである。そして女性は、静かな声であるが断固とした調子で、「もう死にます」とはっきりと意思を示す。この女性は、自らの意思を持つ女性のようだ。
 意思を封じ込められた女性について
この夢の女性イメージを検討する前に、対称的な、自らの意思を示す自由のない「意思を封じ込められた女性」について触れてみたい。というのも、私は漱石のことを調べ、漱石がそのような女性に対して強い感情を持っていると感じたからである。それを示すのに最も適当なのは、漱石の些末な日常を写している「文鳥」であろう。
(文鳥のあらすじ省略 )これだけでは、漱石の八つ当たりである。ところが、文鳥と交わる中で、自ら少年の頃をふと思い出し、そのことを挿間的に文章に織り込むことで趣きを深めている。
 思い出の女性はその時机にもたれていたが、少年時代の漱石のいたずらに気づいて、ものうげに顔を向ける。お嫁にゆく前の女性であるが、その女性の眉が心持ち八の字に寄っていたということを見て、まだ少年であった漱石でも、女性の境遇を察する。さらに、三重吉の娘の縁談話が同時進行で進んでいる。漱石はそのことについて相談を受けたが、それを反対しているらしい。「いくら当人が承知だつてねそんなところへ嫁にやるのは行く末よくあるまい。まだ子供だから、何処へでも、行けと云われる所へ行く気になるんだろう。一旦行けば、無闇に出られるものじやない。世の中には満足しながら不幸に陥っていく者が沢山ある」というように考えたりしている。
 文鳥を見ているうちに想起されてきた子供の頃の女性への淡い想い。その時の女性の様子からうかがえる女性の暗い運命。三重吉のまだあどけない娘に対する懸念。そして籠から出ることなく死んだ文鳥。それらのイメージが、心的外傷後ストレス障害における進入的かつ苦痛に満ちた想起のように漱石の脳裏に浮かび、その様子を漱石は忠実に写生している。さらに、漱石自身の八つ当たりまでも写生し、読者はそれを目の当たりにするる。
 漱石には、籠の中の文鳥が「意思を封じ込められた女性」と重なって見え、文鳥の死という結末はそのような女性の悲しい運命を象徴したものと映ったのであろう。漱石の身近には、そのような女性ばかりがいた。実母もしかり、養母もおそらく、そしてやさしかった嫂も十六歳で三十二歳の兄の再婚相手にさせられた娘もそうだ。
漱石はそのような女性の下で育ち成長した。漱石の怒りは、辛い運命を女性にもたらす男性に対して、つまり、実父、養父、三兄、三重吉に向かっている。しかし、文鳥の死については漱石にこそ責任がある。下女への八つ当りは、不本意ながらも実父らと同様の男性の一人となつてしまつた漱石が、その怒りをぶつける矛先を見失った結果としか思えない。
 封建時代を生きる女性が全て無力で悲しい女性ばかりなのではない。「家」を守ることを自ら引き受けた女性は輝いていた。しかし、漱石の時代に「家」はWマナW(霊的な力)を既に失っていて、形骸化しつつあった。だから、その権威にしがみつく男性は女性を都合のいいように利用した。そのような「家」に黙って殉じる女性の運命は悲しい。結局、最後に残る女性の犠牲によって、W家じまいWとなるのだろう。「家」に依りかかっている男性は、自らの手で始末をつけることは難しかろうから。 
 「家」に縛られていた日本の女性に許されていた個人的な意思は、「死にます」と「出家します」だけだろう。それは「黙って去ること」である。このことは封建時代よりも、平安時代をさらに遡る時代からの日本の伝統であろう。「鶴女房」「かぐや姫」「源氏物語に登場する女性たち」から綿々とその伝統は受け継がれている。「家」はそのような女性によって支えられているから、支えを失った「家」は崩壊し、男性は取り残され途方に暮れる。そのような男性の代表は「浦島太郎」だろうか。あの「光源氏」でさえも、最後にはWものがたりWから排除されてしまう。「文鳥」の最後の場面においても、この男性側の欺瞞と無力感が表れているように思う。
 だから今日でも、女性が個人的な意思を持つと破壊的なことが起こりがちである。「大人にとって都合の良い子」として育てられ、家族の中の役割を当然のように引き受けていても評価されず、「家族の自立することを期待している」という矛盾に満ちたメッセージを真に受ける女性が、それゆえの心細さと、口惜しさの中で「目に見える形で自分の力を示そう」という意思を持つた時に、努力の成果を評価しやすい「ダイエツト」という目標が目前にあれば、それに飛びついてしまうだろう。おそらく、これが「摂食障害」の始まりである。そして、彼女たちの密かな願望とは、それは単なる「やせ願望」ではなく、自らのマネキン化なのだろう。マネキンになればスタイル抜群な上に疲れを知らない。他人の欲望の対象にもならない。だから、スタイルを良くする目的は、男性を誘惑しようということではない。自らの強い意志で以って、意思を封じ込めた女性(マネキン)になろうとする。現代の女性はは矛盾に満ちた苦悩を抱えがちである。
 今時の男性でも、「自ら意思する女性」とのつきあいには戸惑い、途方に暮れる。ということは、W内なる女性Wに対してもそうなのだから、今時の男性も、相変わらずW内なる女性Wの意思を封じ込めようとしがちである。つまり、日本では、男性にとっても、自らの意思を持つということは大変なのである。そして、W内なる女性Wとつきあう代わりに、自らの都合通りになるマネキンを求めて二次元的キャラクターを追いかけるか、それにさえ疲れて引きこもるかになる。
自ら意思する女性、鏡子夫人
 漱石の身近には、自ら意思するようになった女性もいた。それは鏡子夫人である。女性の典型的なヒステリーは西洋では19世紀から増えている。女性が開放され始めた頃、つまり西洋でも女性が意思を示すことを少し許されるようになった時に、しかし、その意思が社会に受け入れられて十分に満たされることはないという状況下において、古典的なヒステリーは出現しやすい。だから、当時のヒステリーの女性はけっこう強い人が多い。男性治療者に向かって派手な症状を出していた女性が、男性治療者と格闘した後にふっきれて治り、その後は社会に向かって活躍している事例がいくつもある。フロイトやユングはそのような患者を、多く診ていたのではないかと思う。
 鏡子夫人も、一時は入水自殺を図るほどの状況であったが、それからはふっきれたのか、立ち直っている。以後は自らの意思でもって漱石と対応するようになり、漱石亡き後も「私は私よ」という様子がさわやかな感じだ。漱石の弟子たちにはそれが気に入らなかったようであるが。
 「意思を封じ込められた女性」に強い感情をを持っていても、では漱石は「自ら頤使する女性」に対して理解が深かったのかというと、そうでもない。前述したように、夫人が入水自殺を図った時には、漱石も途方にくれたようで、自分の体と夫人の体とをひもで結んで寝たりしている。その後も、夫人が立ち直り自ら意思するようになったらなったで、時々ヒステリーを起こす夫人には手を焼き、それを高慢と感じて怒るる漱石である。それはつまり、アンビバレント(両価的)であったということである。そのような事情を考慮せずに、今日でも鏡子夫人のことを、ただ「ヒステリーだ、悪妻だ」と言っている人は、古い頭の持ち主ではないだろうか。
『虞美人草』の藤尾(省略)
「第一夜」の女性のイメージ
 ここで、ようやく「第一夜」に話を戻すことができる。自ら意思する女性は死ぬ定めにあり、そうならないためには意思を封じ込めなければならないという。日本の女性の歴史を踏まえた「第一夜」であると思うから、いろいろ述べた。「第一夜」でも、やはり日本の「自ら意思する女性」の例にならって、夢の女性は「死にます」と言う。しかも、揺るぎなく凛として言うから、夢見手はそれを俄かに理解できない。夢見手は、彼女の瞳の中に自分の姿を
見ているだけである。
 女性は死ぬ前に、夢見手に対して「百年待ってください。きっと会いに来ますから」と言い残す。そして、女性は死に際に涙を流す。日本の女性の伝統なら、ここはただ黙って去るところであるが、この女性はそこが普通の日本の女性とは違っている。そのためだろうか、男性の方もそれにつられたように、百年間傍らで待つと約束する。
それから夢見手は約束どおりに女性の亡骸を真珠貝を使って埋葬する。その場面で真珠貝と月の光とのつながりが強調されている。月は日本的なものを連想させ、その月を女性と共に埋葬しているようにも感じる。そして、それも約束したとおりに「天から落ちてきた星の破片」を墓標に置く。その時、夢見手は「星の破片」の暖かさを体感して、何かを予感する。 それから、夢見手の頭上を日が何度も通り過ぎて、「星の破片」に苔が生えるほどの時が経った。あまりに長い月日のために、夢見手もさすがに女性の言葉への疑いを持ち始めた頃に、「星の破片」の下から茎が伸びて、暁の星の下に、女性の化身と思われる白い百合の花が咲く。百合は骨にこたえるほど匂い、夢見手は露の滴る百合の花びらに接吻する。
 夢に登場する女性も、意思を持ったからには、定めに従って死ぬしかなかった。しかし、夢見手に百年後の再来を予告する。夢見手は百年待ち、女性は百合となって再生した。その間、女性は月との結びつきが強い存在から、星との結びつきが強い存在へと変化した。ところが、人の具象イメージを欠いていて女性であることを暗示するだけの百合である。これはどういうことであろうか。古来より百合は「歩く姿は百合の花」というように、美しい女性の形容に用いられてはいたのだが。
 ここで、漱石に百合について連想を求めたとして、おそらく提示したと思われる子規の句と短歌を紹介したい。
  うつむいて何を思案の百合の花
  門さきにうつむきあふや百合の花
  うつぶきけに白百合咲けり岩の鼻
  下闇にただ山百合の白さかな
  足引きの山のしげみの迷い路に人より高き白百合の花
 特別な説明はいらないと思う。ここに「内なる女性が百年後に白百合の花となつて再会する」という「第一夜」の主題と繋がるイメージの源泉がある。『夢十夜』までの漱石は、前章で示したように、「霧の中に閉じ込められた孤独な人間のように立ち竦んでしまった」という状況であった。その時、迷い路で人より高き白百合の花に出会うように、漱石は夢の中で白百合となる女性に出会った。

163回
夏例会

平成19年7月22日土松山市立子規記念博物館にて午後1時30分より頼本会長の漱石生誕140年にちなんだ挨拶があり、東京新宿区の「漱石山房を考える会」の活動紹介などがあった。
 つづいて、青山学院女子短大岡崎和夫教授の「坊っちゃんにおける漱石用語の探求について」と題する講演があった。以下はその要約である。
 「坊っちやん」の冒頭部分の中で、「おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから此次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。」漱石はこの作品の中で「この次」という語を3例用いている。「この次教えてやる」「この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ」この例は今回の分を含まない次の時の意である。
 次に「今度」は22例もある。「教場へ出ると今度の組は前よりも大きな奴ばかりである。「今度はしゃくにさわった」「今度は釣りにはまるで縁故もないことを言い出した」「今度はだれも笑わない」「山嵐が座ると今度はうらなり先生が立った」これらはいずれも今回の意味
 次はやや微妙な場合。「今度からもっと苦くないのを買ってくれ」これは「この次から」の意、「今度転任者がひとりできるから」これは今回の意、「今度はもつと詳しく書いてくれとの注文」これは次回の意と考えられる。
即ち「今度転任者がひとりできるから」の今度は例外として取り扱うべきである。
「坊っちゃん」の中で漱石は「この次」「今度」の使い分けはかなり厳密と考えられる。しかし、上記「今度転任者が」の用例が示すように漱石は「現在」「ただいま」の意味の「今度」を「この次」「次回」の意味に用いている。
「坊っちゃん」を明治39年4月「ホトトギス」に掲載した時からこうした意味用法の逸脱、転換の兆しが、はじまつていたのである。このことは漱石原稿の推敲の跡をたどることにより気づいたことであり、活字で読んだのでは到底こうした漱石の言語センスの内側をとらえることはできなかつたと思う。原稿の筆跡は字形、字体から漱石自身の修正と見える。
 日本語の歴史において「今度」という語の持つ時の幅を拡げて「この次」の意味に転用した例の最古と思われる例は「日葡辞書」にCondo コンド Imano tabi (今の度) 今回=また、後で、または、これからさき とある。
(文責 頼本)

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164回
秋例会

平成19年10月13日土午後1時30分〜3時30分
県立松山東高校視聴覚教室にて頼本会長の挨拶に続き、会員菅 紀子氏の講演があった。次の記録は菅氏自身の原稿によるものである。

漱石のライバル重見周吉 −その後の発見資料を中心として−                                 今治明徳短大客員教授  会員  菅 紀子

はじめに 学習院応募当時の書簡から
 夏目漱石は1893(明治26)年帝国大学文化大学を卒業後大学院に入る一方、最初の就職活動として学習院に応募したが結果は不採用であった。これについて、『増補改訂 漱石研究年表』(集英社1984)によると、同年823日付狩野亨吉の村田祐治宛手紙に、「学習院に就職する件は茂野(ママ)氏〔重見周吉〕が決定したのなら諦めなくてはならぬのではないか」と問い合わせた。狩野は232426日と漱石を訪問し、26日の「狩野亨吉日記」には「学習院の位地終り重見に帰し夏目は遂に敗れたり。」と記した。これについて同年表は次のように注釈している。
 学習院に勤めていた工藤一記(嘉永6年生れ、大阪師範学校卒。学習院教授・幹事・庶務課を担当)の推薦で就任運動が進められていたが、これはアメリカ帰りの重見周吉(慶応1年愛媛県生れ。エール大学理学部・医学部卒)が就任したのでだめになる。824日、村田祐治(明治259月から11月まで学習院に在職)は、上会津屋(住所略)に湯治に行っていた立花銑三郎に、「ナツメノコトスグカイレ」という電報を打つ(これも学習院就職と関係あるかと思われる)。狩野亨吉は村田祐治から聞いたと記している。
 立花銑三郎は帝大の一年先輩で当時学習院嘱託教授であった。漱石の書簡をみると、狩野から村田に宛てた上記の便りに先立つ712日、立花に「此際断然決意の上学習院の方へ出講致し度」と依頼の手紙を送っている。しかし結局一ヶ月も過ぎた815日漱石は再び立花宛に「小生出講の儀につきては種々事情でき余程奇観に御座候何しろ駄目の事とあきらめ居候」と書き送った。10月、第一高等学校からも就職口はあったが、学長外山正一の推薦で、最終的に東京高等師範学校英語嘱託になる。さらに高等師範と東京専門学校を辞して愛媛県尋常中学校の嘱託教員に就任したのは、学習院就職に失敗してからわずか一年半程後の18954月であった。
 このような経緯を見ると、大学卒業後の漱石の軌跡は、学習院不採用から始まったともいえる。にもかかわらず確かな人脈を有しながらまさかの不採用をもたらした原因ともいえる人物、重見周吉については最近まで殆ど調査されていなかった。
 しかしロンドンの古書市場で重見周吉の英文著書『日本少年』英語名A Japanese Boy by Himselfが倫敦漱石記念館長恒松郁生氏により発見された。重見が筆者と同郷の今治出身であることから恒松氏の勧めもあり原書を購入し全文翻訳したわけだが、翻訳作業と並行して重見の人物像を調査した際は、全てがゼロからの発見であるだけに、資料が得られる毎に苦労は報われる思いであった。そして漱石と重見との関係について考察を進めたのである。その産物が拙著『「日本少年」重見周吉の世界』(2003年創風社出版)となり、前半に原書の全訳、後半に研究文を掲載一冊にまとめたものであるから、重見の著書と二人についての概論的なものは拙著を参照していただくとして、今回は特に拙著出版後継続調査の途上新たに発見した資料を中心に述べることとしたい。とはいえ今回初めてこのような漱石のライバルの存在を知った人のために、まずは漱石の立場から、彼がどのように重見を意識していたかを再確認しておこう。
『私の個人主義』冒頭における言及
『私の個人主義』は漱石が晩年47歳のとき学習院大学から要請を受けて行った講演記録で−大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述−と付記がある。講演後講演録は書き直され翌年学習院大学が発行する「輔仁会雑誌」に掲載された。漱石が自筆の原稿を残していることから、この講演が通常口頭発表で終わる講演とは差異を持ち、そこにあえて書き残しておきたい漱石の意思があったと捉えることができないだろうか。まず気づくことは前置きの話が長いことである。
 「たとひ私にした所で、もしこの学校教授でもなってゐたならば」と仮定する。ここで漱石は学習院の教師になる可能性のあったことを明かすのであるが、「さて愈世間へ出て」初めての職を得る瀬戸際で生じた進路の分岐点を学習院で経験し、21年後実際に学習院へ足を運んで講演をする巡り合わせとなった。漱石はこの2年後没したため結果的に作家として晩年の講演と講演記録となった。学習院の教師になろうとした経緯を説明する部分で、漱石ははっきりと「時分一人ありました。」と書いている。しかし斡旋してくれた人を信じ、「まだ事の極らない先にモーニングを誂えてしまった」後自分は採用されなかったことを知る。(「」内『私の個人主義』引用、)
 さうしてもう一人が英語教師の空位を充たすことになりました。其人はなんいうでした忘れてしまひました別段悔しくなかったからせう。何でも米国帰りとか聞いてゐました。−それで、もしその米国帰り採用されずこのまぐれ当り学習院教師でもなって、しかも今日迄永続していたなら、こうした鄭重な御招きを受けて、高いところから貴方がたに御話をする機会も遂になかったかもしれますまい。それをこの春から十一月迄も待って聴いてくださろうというのは、取りも直さず、私が学習院の教師に落第して、貴方がたから目黒の秋刀魚のやうに珍しがられてゐる証拠ではありませんか。(『私の個人主義』)
 この漱石の運命を変えたともいえる「もう一人の男」「米国帰りの人」が重見周吉である。『私の個人主義』には重見の名は書かれておらず忘れたかのように言い、しかも文面からは重見にそれほど関心を払ってはいないかのごとく書いている。しかし「敵」とまでいい、内心相当なライバル意識を抱いていたのではなかろうかと推測される。はじめに紹介した書簡から漱石が学習院の職を切望していたのは自明であり、かつモーニングのエピソードがそれを象徴している。
重見周吉の修学履歴書
 学習院史料室に残る修学履歴書に従って述べると、出身地は「愛媛縣越智郡今治町大字本町百三十一番戸平民」とあり、明治93月「伊豫国越智郡弘敞小學」を全科卒業すると、119月、「伊豫国越智郡今治中學へ入校」、同156月「中學全科卒業」@となっている。同年9月以降、「渡邉清、矢野績、北村龍藏ノ諸氏ニ就テ漢學、河上啓造氏に就テ數學、谷榮、古賀啓次郎、デビス諸氏ニ就テ英學ヲ修ム、A 同17916日、「北米合衆國カン子チカット州ニュヘブン市へ向ヶ出帆、支那印度等ノ地方ヲ經テ米國へ著。B」 同21617日エール大学理學部を卒業、学位を受けると引き続き4ヵ月後の1011日には医學部へ入校した。翌22年、「拙著英文『日本少年』ノ稿成リ、ニュヘブン市セルドン会社之を出版ス。米國各州ノ新紙及ビ我邦ニ於テハメール新聞並に国民の友好票ヲ下ス。以て学資ヲ得タリC」さらに翌23年にはニューヨークヘンリーホールト会社より拙著「日本少年」ノ第二版ヲ出ス、とあり1891(明治24)624日「エール大學医學部卒業」、医学博士の学位を得た。(下線および番号筆者)
 これまで下線部について次のようなことがわかった。
@について、当時今治中学はまだ開校していない。
Aについて、学校名がないが、重見は今治からまず同志社へ進学したことが別の資料から判明した 学習院の履歴書が妙なのは、定かでない中学校名を書き(@)、定かな同志社という校名を書いていない(A)ことである。当時は廃藩置県の修正や変更に連動して中学校の統廃合が何度も行われており、公式記録には明治14年から17年まで「県立越智中学」があったことを確認した。一方エール大学の資料には「重見周吉は今治、京都に暮らし、1879(明治12)年から1884(明治17)年まで同志社英学校で学んだ」とある。今治は明治12912日、同志社から新島襄らを迎え、伊勢時雄を初代牧師として四国で初めてキリスト教会が創立された土地であること。そして『今治教会沿革史』には「信仰に燃えつつあった教会は、伊勢、古荘氏などの尽力により通町に一種の中学校を開校した」という。
 以上の事実から重見は今治中学の前身、教会学校、同志社英学校をまとめて体裁よく履歴に記載し、選考に配慮したのかもしれない。
 しかしこの行為を厳密に取れば学歴詐称になる。米国帰りの重見が夏目と同時に応募していなければという仮定に加え履歴書の審査をクリアしていなければ、重見は学習院に採用されず、夏目金之助が採用されて松山中学には赴任せず、『坊つちやん』は生まれず日本文学の歴史は変わったかもしれないのである。Bについて、重見は19歳で渡米したことになるが、士族出身でも帝大出身でもなく、政府の後見に縁のない私費留学であった。漱石が官費留学第1号としてロンドンに向け発つのが1899年暮れ、それを遡ること15年前の私費留学であった。同志社社史資料室で発見された同室編「池袋清風日記」の中にある重見渡米についての記述からは渡米の苦労が窺い知れる。重見は乗船前には宣教師に大金をもらい、船中では労役し、上陸後も労役につくとあるから大変な苦学生なのであり、少ないと不平をこぼしても国費を給費されている夏目は遥かに恵まれていたのである。
 Cについては、『日本少年』序文にエール大学の恩師への謝辞に合わせ当出版が学費を得る目的であることを明記している。
『日本少年』について
 当著作の書評をインターネット上で公開の米国議会図書館データから発見した。出版の翌18902月、William Kingsleyなる人物がNew Englander後のYale Review誌上で書評している。それによると、キングスレイは重見の著作を、日本人自身が少年の視点から家庭生活を紹介したことを評価し、書籍の直接購入方法まで案内している。確かに維新間もなく日本に文明開化の波が押し寄せた時代、合衆国本土で日本庶民の生活を知る術は殆どなかったはずで、重見の果たした貢献は大いに評価してよい。同時にキングスレイは当時全米の大学に在籍する留学生の中でも日本人留学生の優秀さを指摘し、その典型の一人として重見周吉を挙げている。さらに、日本人留学生を通して見た日本人の精神性を「騎士道」と表現した点が注目される。新渡戸稲造『武士道』の出版は1900(明治33)年、『日本少年』より11年後なのである。キングスレイが書評で「騎士道」という語で言及したのは、日本人の精神性を形容するにあたり、新渡戸の英文著作により「武士道」という語が西洋でも定着する10年以上前であった。また、出版時重見は24歳、新渡戸は40歳、この年齢差からも、『日本少年』が重見が学業半ばいかにして若年で成し遂げた出版であったかがわかる。これらの点から重見の英文著書が米国本土で成された日本人による異文化紹介の草分け的仕事であったという意義を認めることができるのである。
 『日本少年』は国内では徳富蘇峰が社長を務める『国民の友』に書評が掲載されていた。もっとも著者名は重見某氏(傍点筆者)となっており、医学界に所属したせいか、当時から影が薄かったようである。それは『坊つちやん』の中で、喧嘩を新聞に報道された坊つちやんが某呼ばわりされ、「某とはなんだ」と怒る場面を想起させはしないだろうか。また、岡倉由三郎は『日本人の欧文文学』で『日本少年』を評している。岡倉由三郎は夏目と帝大文科大学同窓生で、1893年漱石が学習院就職を諦めたまさに同時期、文科大学の学生が始めた「文学座談会」に両者共出席している。さらに留学中の夏目は岡倉が当地へ留学してくる際受け入れの手筈をしたほか、渡英中は逆に岡倉がロンドンの夏目の様子を文部省に報告している。ロンドンにおいて二人が重見について言葉を交わすことも想定できるし、夏目が『日本少年』を読んだ可能性も否めない。そもそも筆者の手元にある原書はロンドンの古書店から購入したものである。
おわりに 二つの同窓会誌
 夏目は学習院の「落第」以後晩年になって初めて同所に足を運び「教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から駈けてゐたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。」(『私の個人主義』学習院輔仁会雑誌)と語ったが、その感慨は既に松山中学の同様の同窓会誌に次のように吐露されていた。「余は教育者に適せず、教育家の資格も有せざればなり、其の不適当なる男が、糊口の口を求めて、一番得易きものは、教師の位地なり。」(『愚見数則』松山中学保恵会雑誌)20年を経て同様の同窓会誌に同じ思いを記し、20年分の自己の軌跡を語りこれから社会に出て行く若者に指針を与えようとしている思いの強さは甚大である。また夏目が官費留学を要請されても快諾せず一旦断りかけたのは、重見の「洋行帰り」が学習院採用の判断材料にもなって先を越された苦い思い出が想起されたからかもしれない。しかし彼はそれをただの怨みとせず重見が介入した初めの挫折にこだわり掘り下げ、自己本位を確立し教育者でなく文学者となった。
 重見周吉は、学習院教授職をめぐり、期せずして作家以前の夏目金之助の進路に端緒的に関与することとなった。しかも結果的には漱石に重要な方向性を与えた人物だったのである。
  注 筆者は引用文に傍点を入れた個所があるが都合により省略したことをお断りします。

165回
冬例会

第一六五回例会 十二月九日()午後1時30分〜3時30分 坂の上の雲ミュージアム三階会議室
頼本会長の挨拶に続き、正宗寺住職(代理副住職田中義雲師)による夏目漱石第92回忌法要が営まれた。その後
「漱石の松山行き旅程をたどる」と題して
会員 山崎 善啓氏の講演があつた。(以下は山崎氏の原稿による)

はじめに
 小説「坊っちゃん」の舞台は、松山とははっきり書いていないが、状況の描写などからみて松山に間違いない。「なもし」という方言は、松山独特の方言であるし、温泉の三階とは、道後温泉に間違いない。
主人公の「坊っちゃん」は江戸っ子である。親譲りの無鉄砲な青年で、世渡りが下手である。正義感だけが強く、子供のときから損ばかりしている。四国のある中学校へ数学教師として赴任したが、持ち前の正義感と無鉄砲さがたたって、いろいろとヘマをする。だが根が正直で淡白だから、ヘマをしてもあまり憎めない。「坊っちゃん」という作品は、そうした主人公が自分の生い立ちと、短期間の教師生活について語った小説である。
 夏目漱石は明治二十八年
(一八九五)四月、愛媛県尋常中学校の教師となつて松山へ向かった。二十八歳のときである。
 それでは、漱石はなぜ松山へ来たのか.一一〇年前の松山への旅路はどのような経路であったのか。当時の記録、時刻表などをもとにその旅路をたどってみることにした。
 一 漱石はなぜ松山へ来たのか
 夏目漱石(金之助)は明治二十六年七月、帝国大学文科大学英文科二期生として卒業した。この頃卒業の文学士の就職は極めて困難であつた。漱石もあちらこちらに手を打つて就職運動をしていた。
明治二十六年七月、学習院に出講を希望したが不採用になつた。採用になつたのは米国帰りの重見周吉今治出身であつた。明治二十六年九月に東京専門学校で講義をはじめ、十月、東京高等師範学校の英語嘱託となって週二回出講
明治二十八年一月、横浜の英字新聞記者を志望し、英語の論文を提出したが不採用
このような状況の中、明治二十八年三月頃、漱石の友人菅虎雄は漱石に愛媛県尋常中学校英語教師を周旋した。菅虎雄が漱石に松山赴任の話を持って来たのは、前年から突然やって来て下宿をさせてくれとか、とかく菅を悩ませる異常と思われる行動がしばしば見受けられたので、親友として見るに見かねて、何とか救ってやらねばならないという責任を感じていたためであろうと言われている。
(漱石松山赴任に至るまでの理由については諸説がある)
当時、愛媛県当局は新学士の誕生にともなって、お雇い外国人教師を整理し、日本一流の英語英文学士を尋常中学に招く方針を定めた。そのため校長より二十円高い、前任外人教師の給与百五十円の半分ほどの月給八十円を用意した。県当局は早速県参事官で内務第一課長と第三課長を兼任していた浅田知定に命じて人選に当らせ、浅田はその候補者選定を同郷の久留米市出身の菅虎雄に依頼し、菅は早速これを漱石に伝えた。
同年三月十日、漱石は友人狩野亨吉宅を訪れ、「愛媛県尋常中学校へ招聘せられんとする談合追々熟す」と告げている。三月三十日には、漱石の送別会が学士会で開かれた。
 二 東京新橋から乗った列車は
 漱石は明治二十五年
(一八九二年)七月、友人正岡子規と共に旅行をした。京都・大阪・神戸・岡山などで遊び、八月十日は松山に着き、先に帰郷の子規を訪ねた。この経験から、関西方面の地理も大体承知していた。そこで今回の赴任にあたっては、東海道線の終点神戸で山陽線に乗り換えて広島へ行き、宇品から三津浜へ渡るコースをとることにした。
東海道線は明治二十八年(一八九五年)当時、新橋―神戸間の直行列車は一日三本だけであった。
新橋 午前六時二四発―神戸着翌日午前一時三〇 分
午前十一時四五発―神戸着翌日午前六時五五分
午後九時五五発
 ―神戸着翌日午後五時三四分
漱石は四月七日午前十一時四十五分発の列車に乗った。(明治二十八年四月九日狩野亨吉宛書簡)急行列車が登場したのは明治二十九年九月。漱石が明治二十八年赴任の時は普通列車で、新橋―神戸間の所要時間は、十八時間から二十時間近くかかっていた。列車は、静岡午後五時五十八分着、名古屋には夜中の十一時四十分着、京都午前四時三十三分着、ようやく夜も明け初めた頃となり、大阪には午前五時四十九分、終点の神戸には午前六時五五分到着であつた。
(
) 漱石研究年表では、七日午前十一時四十五分(推定)新橋発、八日午前七時三十五分神戸着とあるが、当時の時刻表ではそのとおりだが、神戸着は六時五十五分となっている。
 神戸広島間は山陽鉄道会社線で、神戸発広島雪直行便は次の三便であった。
神戸発急行 午前九時発広島着午後五時五六分
午前一〇時〇〇―午後一〇時三五分

直行午後八時〇〇―翌日午前八時四三
東海道線で午前六時五十五分神戸に着いた漱石は、山陽線午前九時発急行列車に乗り換えて、広島に午後五時五六分に到着した。

注1山陽線の急行列車は、明治二十七年十月十二日の列車時刻改定で初めて誕生した。
注2漱石研究年表には「九時
(不確かな推定)神戸を出発、午後五時五六分広島に着く」とあるが、この時刻表は明治二十七年十月十日改正されてもので、同年十月十二日芸備日日新聞に掲載されている。
三 広島で宇品発三津浜行きに乗船
漱石は四月八日広島に泊まり、九日朝、宇品から三津浜行きの汽船に乗った。当時宇品発三津浜行き汽船は次のとおり出航していた。

赤穂丸 午前八時〇〇発 三津浜着午前十二時三〇
西予丸 午後四時〇〇発 着午後八時三〇分
相生丸 午後四時三〇発着午後九時〇〇
注1 相生丸は芸備日日新聞明冶二七年一〇月一六日、赤穂丸は同紙二八年二月二日の記事による。明治二十五年就航の第二相生丸は木造で六〇トン、一五〇馬力で旅客定員は不明だが一〇〇人足らずであったと思われる。他の汽船の規模は不明であるが、同程度であったと思われる。

注2漱石研究年表では「△四月八日宇品から船で三津浜に向かう。△四月九日晴、満月、午後三時三津浜港に着き」とあるが八日に乗船して九日午後三津浜着とはありえないから、八日は広島泊と推定した。
四 三津浜から軽便鉄道で松山へ
三津浜に午後一時頃上陸した漱石は、午後一時四十一分三津浜発の軽便鉄道に乗り、午後二時〇九分、松山の外側
(とがわ)駅、現松山市駅に到着した。(神田乃武宛書簡) 松山―三津浜間六・八キロの軽便鉄道は明治二十一年(一八八八)十月から開業した四国初の鉄道であつた。松山―三津浜間を二十八間分で走り、運賃(下等)三銭五厘、その便利さと安さで、たちまち人々を魅了した。黒煙をあげて走る機関車を人々は岡蒸気と呼び見物人が相次いだ。
漱石は新橋を四月七日午前十二時前に出発してから、九日午後二時過ぎようやく松山に到着したわけで、二泊四十時間を費やした長旅であったと考えられる。四月十日愛媛県尋常中学校嘱託教員の辞令が発令された。
五 当時の職員録から

愛媛県尋常中学校(明治二十八年一月)の抜粋
学校長(年七百二十)従七位 住田昇
教諭・助教諭 ()
嘱託教員(月七十) 横地石太郎(注 原本は東大所蔵、手書きで訂正がある)
教諭に
(月八十) 横地石太郎
嘱託教員
(月八十)夏目金之助
抹消横地石太郎

「漱石研究年表」(昭和五九版集英社)には次のように記載されている。学士は漱石の他に横地石太郎理学士で教頭だけである。校長六十円横地は七十円英語教師西川忠太郎は四十円、数学の渡部政和は三十五円、弘中又一漱石と同期赴任は二十円、体育の浜本利三郎は助教諭で十二円であった。
参考文献
「坊っちゃん」夏目漱石 新潮社 昭五九
「汽車汽船旅行案内(復刻)あき書房昭五六
「夏目漱石と菅虎雄」教育出版センター昭五八
「石崎汽船史」 石崎汽船株式会社 平七
「芸備日日新聞」明治二七


 

(漱石研究会)平成18年の記録

1

158回春例会

平成18年4月15日土道後温泉椿の湯 2階会議室午後1時30分〜3時30分
講演 T 会長 頼本 冨夫氏 「松山時代の漱石写真」
第一五八回例会四月十五日()
講演1

夏目漱石松山在任中の写真としては愛媛県尋常中学の「卒業記念写真」といわれるものが僅か一点存在するのみである。ここでは、この写真がいつ写されたものか、本当に「卒業記念写真」なのか検証してみることとする。私が「卒業記念写真」なるものに疑問をいだいたのは

@卒業式はいつ挙行されたのかという日付けの問題とA卒業生の中に卒業していない生徒が三名含まれてので「卒業記念写真」とは考えにくい。果たして「卒業記念写真」かということである。 そこで信頼できる資料として
T「県立松山東高校史料館所蔵写真」台紙付き、台紙に直貼り写真寸法210×270mm台紙に松山市写真師長井輝正(右書き)の印刷、台紙裏に、明治二十九年三月撮影 (丁寧な筆跡でなく後からの手書きと思われる)
「漱石写真帖」第一書房版(非売品、後に一般向けも出版)昭和三年松岡譲編、夏目純一発行(漱石十三回忌記念出版)(目次に)「松山中学校第2回卒業生(ママ)念写真明治二十九年四月撮影」以下巻頭の説明十一項目中より抜粋
一、撮影年次の不明のものは大約の推定を敢てせり。」
「一、写真は必ずしも原写真大小によらず体裁上概ねこれを統一せり。敢えて原寸を示さず。」

「神奈川近代文学館所蔵写真」(前記2の写真の原本) 夏目家寄贈の写真 表紙付き二重台紙付内側台紙額縁内寸法93×135mm「松山市岡本写真館」OKAM
OTO.PHOTOSTUDIO.MATSUYAMA.JAPAN
」以上内側台紙に印刷
岩波版漱石全集平成六年版第二巻掲載「明治二十九年四月 愛媛県尋常中学校卒業記念写真」
日本文学アルバム 筑摩書房版 夏目漱石 昭和三〇年版「 松山中学校卒業記念写真」(日付記載なし)
子規・漱石・極堂生誕百年祭実行委員会編(図録)昭和四十一年「 松山中学校卒業写真 明治二十九年」
愛媛新聞創刊百周年記念「近代日本の巨星―子規と漱石展から」昭和五十一年「子規と漱石―その交友と足跡」(図録)「松山中学校卒業生との記念写真 明治二十九年四月」
別冊太陽 「夏目漱石」平凡社 昭和五十五年「 明治二十九年の松山中学校卒業記念写真」
「漱石研究年表」集英社 昭和五十九年版の記事、明治二十九年三月三十日()の項に「愛媛県尋常中学校第(ママ)回卒業式が挙行され、第五高等学校に転任の旨発表される…」「(愛媛県尋常中学校卒業生と共に写真を撮ったのはこの時か)」写真の掲載はない。
10新潮日本文学アルバム 夏目漱石「明治二十九年四月」 新潮社 昭和六十年
 このように見てくると原本と思われるは「卒業記念写真」という記載はなく、2・4・5・6・8が「卒業記念写真」であり、7のみがややニュアンスの異なる卒業生との記念写真」であり、記載者が写真の撮影月日に疑問を感じたと思えるふしがある。
 次に卒業年月日であるが、○明治二十九年三月が、○四月が2・4・7○三月三十日の記述がである。○明治二十九年が6・8で日付はは特定できなかったと考えるべきであろう。また、3は記述はないが、2・3、4は同一原本であると考えられるから、日付けも当然同一と考えられる.
 次に別の資料を挙げて考えたい。
ア「伊予史論考」(昭和三十六年 影浦直孝 旧松山中教員、郷土史家著)第十五、「小説坊っちやんと松山中学校」の、「明治三十九年教務日誌」(戦災焼失)によると「明治二十九年四月九日午前九時講堂において夏目教官告別式挙行」とある。「明治二十九年四月」撮影の根拠らしい。四月九日に「告別式」があり、その直後の写真とすると「卒業記念」とはいえない。ただし、同時に卒業式があったとすれば話は別だが、それなら教務日誌にはそのような記述があって然るべきであろう。「教務日誌」の記述は「夏目教官告別式」であり、漱石一人のために「告別式」は行われたのであり、この時に写真撮影があったと仮定すれば、それは漱石一人のための記念写真ということになる。写真の中心人物である漱石が端の方にいる人物の配列、中央に正装した軍人の配列から「告別記念写真」でもなさそうである。
当会昭和六十一年十二月九日第八十一回例会では撮影は「宇野和吉写真館撮影」という松山の写真家風戸 始氏の談があり、「軍服に勲章を佩しているから三月三十日愛媛県尋常中学校第(ママ)期卒業式当日撮影したものであろう」と同氏著「子規 漱石写真ものがたり」(松山規会叢書昭和六四年刊)記している。また「一月中旬以降の某日。卒業見込み者を含んでいる。一月中は松の内の風習で(軍人は正装で)あった」同書 前本会会長浦屋 薫氏談。こうなると三十九年一月となる。
 参考までに明治二十九年前後の卒業写真を調べてみた。
ウ「明治二十八年三月第三回卒業生写真」―(裏書) 21.5×26.5mm (漱石着任直前の写真)当時の写真師の撮影技術がいかなるものであったか推測できて面白い。人物の顔が隠れて見えない者もいる。職員は最後列、外人教師(漱石の前任者カメロン、ジヨンソンか)最後列の左端、 本館前真中の生徒手にバット持つ。新しがり屋が気取っているように見える。
「愛媛県立松山中学校 明治三十年卒業式後記念写真」(漱石離任翌年) 雨天体操場裏側ニテ写ス 三月三十日写」この裏書きは後日、それも式後そう遠くない時期のものと思われる。22.2×28.0mm 横地校長前三列中央、前列右四人目東洋城。職員の配列はまず妥当のようである。来賓は写真にはいないようである。前年卒業しなかった三人はこの写真にいない。(同窓会名簿ではこの年の卒業)そうなると学校側は前年度の写真に写っている生徒は、二度と写さなかったと考えられる。
オ「愛媛県松山中学校職員・卒業生写真」「 玄関前ニ於テ撮影 明治三十二の二を消して一年三月」と裏書がある。記入のし方から見て後日の記入らしい。 背後に国旗を交差し、白幕を張る卒業写真らしい写真。来賓 土屋郡長、大里税務署長、岡本大尉等、の記入がある。職員は後半。20.5×27.0mm
考察その一
 の裏書きから見て当時の卒業式は三月三十日にあったと考えられる。そして問題の明治二十九年の漱石の写っている「卒業記念写真」も式の直後撮影したのであろう。その根拠は、この写真が漱石のもとにはなかったということである。当時の写真技術から見て、漱石離任に間に合わせることができなかったと考えられる。卒業してない生徒が写っていることは当時は「卒業記念写真」をあまり厳密には扱わなかったと考えるべきではないだろうか。それらの生徒は、翌三十年の実際に卒業した年の写真に写ってない事からも言い得る。もし、卒業時までの何かの写真を流用したものならば、時間的余裕があり漱石のもとには存在するはずである。次に「告別式」はの「教務日誌」の記述により、四月九日であると判明する。前掲2・3・4・7の撮影月の根拠らしい。しかしこの時漱石のために特別に写真撮影がなされたとも考えられない。何よりも写真が漱石の手にわたってない(考察その二参照)ことが、私の四月説否定の根拠でもある。漱石のために特別に撮影されたものならば必ず漱石のもとへ送られたはずである。漱石の熊本五高赴任のための三津浜港出航は翌十日であるから、九日はかなり忙しい時であったろう。
考察その二
前掲「神奈川近代文学館所蔵写真」は先年故夏目純一氏未亡人から寄贈されたものである。この写真はに示すごとく昭和三年松岡譲や漱石未亡人来松の際、愚陀仏庵等の写真を撮影した岡本秋夫写真館によって複写されたものであることが、写真台紙のネームにより判明した。ということはもともと夏目家には「卒業記念写真」は存在しなかったと思われる。漱石は写真はもとよりメモ・伝票の類まで几帳面に保存している。前述のごとく、四月九日には漱石一人のために「告別式」は行われたのであり、その時に写した1が「告別記念写真」と仮定すると、中心人物である漱石の手元へ渡らなかったとは考えにくい。人物の配列からも「告別記念写真」などではなさそうである。「漱石写真帖」の原本は当時の松山中、(現松山東高)所蔵のものである。卒業生所蔵の写真は台紙はない。前掲の「子規漱石写真ものがたり」の風戸始氏は「撮影したのは当時松山中学東隣りにあった宇野和吉写真館(明治三十六年大阪の第五回内国勧業博覧会で褒章受章)であることを、筆者はかつて台紙付き写真複写の際に確認した。」とまで記している。しかし現松山東高所蔵の写真はTのごとく写真師は(二代目)長井輝正である。当時の松山中の裏という地理的条件からの風戸 始氏の誤記ではなかろうか。
結論一、撮影日は三月三十日としてよい。四月ではない。二、「卒業記念写真」と考えてよい。三、漱石のもとにはこの「卒業記念写真」は存在しなかった。
 参考までに前掲「子規漱石写真ものがたり」から関係写真師について次に略記する。○長井輝正(二代)父八朗兵衛輝正より写真術習得。写真館名「写真師 長井輝正」明治十二年頃三番町で開業。三十年代初め、盛業中の写真館廃業。明治三十二年没、四十二歳。「明治二十九年の漱石の写っている卒業写真」を写したのは二代目輝正。・長井八朗兵衛輝正()(初代)松山藩士 お馬廻り役 松山で明治四年写真場を開業。・三代輝一以後は岡山で営業、現在は・五代基泰氏。○宇野和吉写真館、松山中の裏二番町、そのため風戸氏の誤記か。以後不明。○岡本秋夫写真館、昭和初期〜昭和二十年。「漱石写真帖」のための複製、愚陀仏庵など撮影。
※小論記述のための参考文献及び資料は文中に記した。
※本稿は第一五八回例会時に発表したものであるが、会報掲載に当り稿を改めた

講演U 愛媛大教育学部教授 佐藤 栄作氏「坊っちやん」冒頭部の文字・表記

『坊っちやん』100年記念「漱石坊っちゃんの碑」の建立にあたって、『坊っちやん』自筆原稿の冒頭部の文字・表記について確認した。「漱石坊っちゃんの碑」は、柳澤真治郎氏所蔵の自筆原稿(番町書房1970年複製刊行)の原稿1枚目の冒頭部6行を黒御影石に彫り込んで再現したものである。『坊っちやん』自筆原稿については、本会147回でも採り上げたが、問題とされる文字・表記を含むので、今回あらためて私見を述べることにした。
タイトルの「坊っちやん」は、漱石本人の手によるとして間違いないが、冒頭部の本文の落ち着きに比べ、やや勢いがありすぎるように見える。タイトル下の「夏目嗽石」は、本文と筆記用具が異なる(墨筆)。直前に執筆した『吾輩は猫である』十の冒頭の「嗽石」と全く同筆。『吾輩は猫である』九には「漱石」、『野分』は「夏目嗽石」とあるが、いずれも、本文の字とは異なるように思われる。当時の漱石には、作品の冒頭に著者名を入れる習慣がなかったのではないか。いずれも編集の側の人物の手としておきたい。ただし、「ホトトギス」収載の前掲著者名全てを虚子筆と断定することも難しい。この「夏目嗽石」は、「嗽」を用いていることもあり、碑を見る者が最も疑問を感じる箇所となろう。ただし、「嗽」の字は漱石自身にもわずかながら使用例があり、誤用とすべきではない。異体字としてとらえていたと考えたい。

2行目以降は、まさに執筆開始時の漱石の字である。書き始めでもあり、楷書体に近い字が多い。「譲」は新字体とも異なる俗字体、「鉄」は新字体と同じ略字体である。「譲」は『坊っちやん』に8例あるが、いずれもこの俗字体をやや崩したものである。「鉄」は同じく7例あるが、略字体「鉄」3例、正字(旧字)体「鐵」1例のほか、金ヘンに「夷」の異体字が3例ある。「鉄」は、上記の3字体が使用されているが、使い分けはないようだ。「損」は、はっきりと木ヘンで書かれており不審であるが、『坊っちやん』の「損」全10例のうち、木ヘンに見える「損」が他にもう1例認められる。木ヘンと手ヘンとで異体関係にある字は多く、これもそのように考えるべきであろう。「時」は、略字体と正字体との両方が見られる。『坊っちやん』では略字体の方が断然多い。「事」も「時」同様、そのほとんどが略字体であり、ここ(4行目)でもひらがなに近い印象の略字体(草書体に基づくか)が用いられている。視覚的には、形式名詞「こと」=略字体、その他=楷書となっていれば機能的だが、略字体は漢語熟語にも用いられている。「段」も左半分が「暇」のように書かれており、木ヘンの「損」同様、「譌字(ウソ字)」にしか見えない。しかし漱石は『坊っちやん』の「段」5例すべてをこのように書いている。漱石の癖であるが、漱石だけに限られるものではない。「冗談」の「冗」もワ冠ではなくウ冠であり、これは「譌字(ウソ字)」というよりも「穴」の字の誤用に見える。しかし、『坊っちやん』の「冗」5例(すべて「冗談」)のうち4例がウ冠で、ワ冠は1例のみである。漢和辞典によれば、「冗」はもともと「屋根の下に人」であり、ウ冠の方が「古字」とある。漱石はそのことを知っていて、「古字」の「冗」を書いたのだろうか。ともかく、やはりこれも異体字レベルで書いていたのではないかと考えたい。ただし、『坊っちやん』には「穴」も用いられており、それとの区別はきわめて微妙である。
 「漱石坊っちゃんの碑」の建立によって、冒頭部の漱石の書き癖や異体字が人々の目に触れることとなった。「漱石が誤字を書いている」という発言も出てくるかもしれない。それについて、上記のようなスタンスで対応していきたいと思う。「漢字観」とでもいうべきものの、この100年の変化を味わうべきである。

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159回夏例会

第一五九回夏例会 七月三十日()松山市立子規記念博物館会議室
講演
  漱石初版本の稀少性と装丁上の特質
漱石本書誌研究家
(会員) 小田切靖明氏
「吾輩ハ猫デアル」初版本(上編・中編・下編)は明治三十八年から明治四十年にかけて大倉書店、服部書店から発行された。当時の定価は、上編九十五銭、中編と下編が九十銭であるが、発行から百年が経過した現在、この三冊のカバー付き初版は三百万円以上の古書価を付けている。(東京神田、明治古典会での最低入札価格も一五〇万円が相場)その稀少性がいかばかりのものか想像にかたくない。橋口五葉装丁、挿絵には中村不折、浅井忠を起用、菊版、天金の豪華な造本である。  
岩波書店から大正三年に発行された「心」も、漱石自身が初めて装丁を担当したことで知られている。(漱石自装の本は、他に「硝子戸の中」がある)今度はふとした動機から自分で遣ってみる気になって」と「序」にも記しているように函・表紙・見返し・扉・奥付・検印に至るまですべてが漱石の手による本で、蒐集家の間でもその人気は絶大である。本の背や溝に亀裂が生じやすい本で、極美本は極めて少ない。三四郎も漱石本の中では、人気が非常にある。函付の初版本を入手するのは難しい。「「寒零紗」の表紙で、タンポポを図案化した見返しの色合いがぱっとしていて好い」と森田草平も記している。漱石は、「三四郎」の印税で長女筆子にピアノを買っている。(日記より)初版の函と重版の函 とでは違いがあり、初版本購入の際には注意した方がよいだろう。    最後に「坊つちやん」所収の「鶉籠」について、この本は漱石本(オリジナル)の中では比較的入手しやすい本である。(カバー付きは難しい)明治四十年の初版から大正二年発行の十四版までの重版が確認されている。松岡譲の「漱石の印税帖」(昭和三十年朝日新聞)では「鶉籠」の検印部数は全部で一万二千百七十一部で、他の作品に比べ検印部数(発行部数)が群を抜いて多い。この本も「猫」同様、橋口五葉装丁のカバー付き菊版の本で、「青磁色」(漱石の指示)がとても美しい。紙面の都合で紹介できないが、漱石本全体に言えることは、細部へのこだわり、気配りだと思う。表紙・見返し・扉・挿絵などは現在の文庫本では、味わうことができない「芸術」がある。「草合」のような表紙に「漆」を使った本など現在では造本が不可能と言っても過言ではないであろう。
 今後も多くの方々に明治・大正期の漱石オリジナル本の素晴らしさをお伝えしたいと思う。(奈良県)

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160回秋例会

第一六〇回秋例会 十月十五日() 愛媛県立松山東高校大会議室
近藤我観と子規・漱石          近藤元規
松風会会員として子規・漱石と親交のたあった近藤元晋(もとゆき、号 我観)について、その孫にあたる元規氏に語ってもらった。
 祖父我観は藩校明教館教授であった元脩(もとなが)の長男として明治二年十二月二日松山市小唐人町に生まれ。少年時代から正岡子規とも親交があった。我観は「観我生」を俳号としていたが、あるとき子規に「我観がええ。我観におし」と言われ素直にそれに従ったのだと言う。父について漢学を学び明治十八年大阪師範学校入学、同二十年愛媛師範学校に転じ、明治二十三年同校卒業、外側尋常小学校(現在の番町小)に勤務.その後地元俳句結社、松風会の会員となり、明治二十八年子規が愚陀仏庵に漱石と同居して指導中は当然漱石とも親しくなった。ここでの交際がなかったら今日、郷里の文化財でもある「わかるるや一鳥啼いて雲に入る」「永き日や欠伸うつして別れ行く」(愚陀仏)の句は残らなかったであろう。元松山中教員であった森円月は漱石の思い出の中で子規に俳句を書いてもらったが、その時子規から「漱石のもあるから持って行けと言われたが、一中学教員のものなどはもらう気がしなかったからね」と言っている。我観は謹厳実直な人柄で、わずかな交際期間ではあったが、漱石の人柄をよく見抜いたのだと思う。    明治二十九年四月十日三津浜出航以前に当時の萩野家にいた、きみさんに持たせて我観の妻繁野のもとへ届けられた。漱石の真面目な人柄もうかがい知ることができる。我観が乞われて知人に与えた「わかるるや」の半切は現在は子規博収蔵である。
 次に散策集について、正岡子規は、明治二十八年愚陀仏庵で、漱石と同居生活をしていたが体力も回復、九月二十日から松山近郊へ散歩した.その時の俳句稿が子規自筆の「散策集」である。特に十月六日は漱石を誘い二人で道後方面へ歩き、温泉へ上がり、宝巌寺では「色里や十歩はなれて秋の風」の句を残している。松山へ帰ってから、大街道の芝居小屋で「てには狂言」を見た。この貴重な記録がなぜ我観の手元にあったのか不明であるが、元子規博館長の和田茂樹氏は「学者我観の誠実な人柄を見込んで贈ったのであろうか」と昭和四十一年八月二十三日の愛媛新聞「正岡子規」第二部の「子規周辺の人々38『近藤我観』」の中で述べている。原本は戦災により焼失したのは残念であるが、「鶏頭」(柳原極堂主宰)他に転載され、松山市より復刻もされたのは幸いである。我観については書いたものが沢山あるが、未だにに手付かずである。
 我観は明治三十三年東京小石川女子師範学校に勤務、五月七日人力車に乗った留学直前の漱石に茗荷谷で偶然遭い、挨拶を交わした。几帳面な漱石はわざわざ人力車から降りたという話は多くの書にある。これも我観の人柄をも物語る話でもあろう。三十九年今治中学、四十三年松山の北予中学に転じた.昭和五年、北予中校長大将秋山好古の葬儀では教員を代表して弔辞を読んだ。昭和八年に同校を退職した。(文責頼本)

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161回冬例会

第一六一回冬例会 十二月九日(土) 松山市一番町 愚陀仏庵
漱石の手紙と「不浄の地」    会長 頼本 冨夫氏

T問題提起

(1)、「其夜おれと山嵐は此不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るさるほどいい心持ちがした。」ご存知の「坊っちゃん」の最終場面である。何もこの場面ばかりではないが、人は決まって、これほどまでに漱石は松山を悪く言っているのに、
何故漱石の人気があるのかという質問をよく受ける。それに対して私は次のように答えている。

   A、小説の内容から見て松山の悪口を言っているのではない。
ア、小説では場所が松山とは作者は一言も言ってない。四国辺のある町の話である。
イ、ストーリーは 作られた話、即ち虚構である。松山以外の出来事も素材として取り入れられ ている。
ウ、主人公は部分的には漱石自身を思わせるが、全体像としては、漱石自身ではない。
即ち登 場人物はすべて作者が創造した人物である。
エ、作者は日本国中にどこにでもある話という考えで書いている。

B、反面、一般はそれではなかなか納得しない。それも無理のない話ではある。 そこで松山の人が批判の対象とされているという根拠も考えてみよう。

  ア、漱石は実際に松山で1年間を過ごしたから、松山が小説の材料として取り入れられて
いる ことは想像できるし、漱石自身がそう言っている部分もある。(例 道後温泉・松山中学・いか銀)
イ、友人宛の書簡には松山を批判的に書いている部分もある。
(2参照 )

C、しかし松山では小説「坊っちやん」の人気は絶大である。それはなぜか。
小説「坊っちやん」はその面白さにおいて、その主題において現代にも生きる
 小説である。名作の舞台であることに松山人は誇りを感じている。

松山人は文豪漱石がわざわざ松山へ赴任して、その青年時代の一時期を過ごしたという事実 と、しかも松山人子規の親友であり、同居生活を送ったと言うことが誇りでもある。
道後温泉・伊予鉄道・松山中学・四十島、その他松山が漱石と「坊っちやん」のお陰で全国的に有名になった。「坊っちやん」といえば松山と全国の人が認めている。

以上のようなことから、少々批判はあったとしても「小説は小説」「どこにでもある話」「例え批判されたとしてもその面白さと世間的人気の方が数倍勝っている」と、こう考えるのである。

2 では実際に漱石自身は松山をどう思っていたのか。その書簡をもとに考えてみよう。

ア、明治28年4月7日東京発、4月9日松山着。旅館 城戸屋へ宿泊。4月10日発令愛媛県尋常中学校嘱託教員として発令された。それから一年間の漱石の松山生活が始まる。
漱石の
月給80円。ちなみに 校長・ 教頭は60、同僚の英語教師 西川40円数学の渡部35円と
いうから破格の待遇であった。いくら高等師範の経験があるとは言え、帝国大学の卒業生であるとは言え、普通の新米教師であれば、学校第一の高給取りであるならば、そうそう文句は言えないはずである。着任早々につぎのように手紙に書いている。
イ、明治284月16日()神田乃武宛書簡(前略)「教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中学校の有様抔は東京に在って考ふる如き淡泊のものには無之小生如きハーミット(注世捨て人)的人間は大に困却致すことも可有之と存候」(下略)以下引用は岩波漱石全集96

ウ、同年510() 狩野 亮吉宛  (前略)道後温泉は余程立派なる建物にて8銭出すと3階に上り茶を飲み菓子を食ひ湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれる(中略)面白き散歩所も無之候当地下等民のろまの癖に狡猾に御座候(下略)

エ、同年526() 正岡子規宛(前略)「身体別に変動も無之教員生徒間の折合もよろしく好都合に御座候東都の一瓢生を捉へて大先生の如く取扱ふ事返す返す恐縮の至りに御座候(中略)僻地師友なし面白き書あらば東京より御送を乞ふ結婚、放蕩、読書三の者其一を択むにあらざれば大抵の人は田舎に辛抱は出来ぬことと存候当地の人間随分小理屈を云ふ処のよし宿屋下宿皆ノロマの癖に不親切なるが如し大兄の生国を悪く云ふては済まず失敬々々」(下略)

オ、同年725() 斎藤阿具宛(前略) 「当中学は存外美少年の寡なき処其代り美人があるかと思ふとやはり払底に御座候何しろ学校も平穏にて生徒も大人なしく授業を受け居候小児は悪口を言ひ悪戯をしても可愛らしきものに御座候(中略)近頃女房が貰ひ度く相成候故田舎者を一匹生擒る積りに御座候」(下略)

カ、8月25日〜10月19日 子規 漱石の愚陀仏庵に同居。次の手紙は子規が去って以後のものである。
116()正岡子規宛(前略)此の頃愛媛県には少々愛想が尽き申候(中略)口さえあれば直ぐ動く積りに御座候 貴君の生れ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候」(後略)
このように漱石は日を追って次第に松山が気にいらなくなってきている。

キ、次は「吾輩ハ猫デアル」「坊っちやん」等たてつづけに発表し文名とみに上がって来た頃、友人の狩野亮吉から京都帝大に来ないかと誘われたことに対する断わりの長い手紙の一部である。

明治39年1023日 狩野亮吉宛(前略) 僕をして東京を去らしめた理由のうち下の事がある─世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚い奴が他という事を顧慮せずして衆を恃み勢に乗じて失礼千万な事をしている。こんな所に居りたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しやう─是が大なる目的であった。然るに田舎へ行ってみれば東京同様の不愉快な事を同程度に受ける。その時僕はシミジミ感じた。僕は何が故に東京へ踏み留まらなかったか。彼等がかく迄に残酷なものであると知ったら、こちらも命がけで勝負をすればよかった。(中略) 熊本へ行ったのは逃れて熊本へ行ったと云はんより、人を遇する道を心得ぬ松山のものを罰した積りである。高等学校が栄転だから行ったと思ふのは外見である。栄進と云ふ念慮は東京を去る時にキッハパリと棄てて居た。松山が余の予期した様な純朴な地であったなら余は人情に引かされて今日迄松山に留まって村夫子を以って甘んじてゐたかも知れぬ。熊本は松山よりいい心地で暮らした。夫から洋行した。洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰って来た。(中略)天授の生命のある丈利用して自己の正義と思ふ所に一歩でも進まねば天意を空しふする訳である。(下略)( 以上書簡は岩波漱石全集第2296年版引用)
3 漱石をして「不浄」と言わしめたものは何か
上記の手紙から
考えてみると、知識人としての漱石が、高い立場から見下した言い方であり、松山赴任直前の漱石は、鏡子夫人が後に「漱石の思い出」で言っているような多分に被害妄想的なところがあった。これを精神科医で作家の加賀乙彦はその講演の中では「精神の変調」と言っているが、それは影を引きずっていたようである。その上にさらにこの手紙を書いた当時の漱石の周辺、即ち東京帝大の講師という地位の問題等が重なって吐露されて、このように表現されたと考えられる。また東京高師の固苦しい生活も愉快なものではなかったようだ。とすれば東京も不浄な地であり、松山然り、熊本はこの手紙では批判されてないが、新婚生活という家庭環境も考えられる。いくらエリートとは言え、腕白者の中学生と年齢的にも大人びた高等学校の生徒では教師に接する態度にもちがいがあった。特に熊本は武士的気風の色濃いい土地柄で、漱石は気に入った点も多かったようである。それから英国での孤独な留学生活が精神的に漱石を苦しめたものであったことは多く語られている事実である。
こうしてみると「不浄な地」は松山ばかりとは限らない国内外至る所、漱石の赴くところすべてということになる。それが小説「坊っちやん」では赤シャツ、狸、のだいこ、いか銀等の俗物のいる場所となっているのである。
4「不浄」でない世界ー「坊っちやん」の中からー

ア「坊っちやん」のような人間が生存できる正義の行われる自由な社会--現実にはあり 得ない。
○「山嵐の如きは中学のみならず高等学校にも大学にも居らぬ事と存候然しノダの如きは累々然としてコロがり居候。小生も中学にて此類型を二三目撃致候。サスガ高等学校には是程劇しき奴は無之(尤も同類は沢山有之)(中略)山嵐や坊っちやんの如き者が居らぬのは人間として存在せざるにあらず、居れば免職になるから居らぬ訳に候 貴意如何僕は教育者として適任と見倣さるる狸や赤シやツよりも不適任なる山嵐や坊つちやんを愛し候。大兄も御同感と存候(下略)(明治3944 大谷繞石宛)
○「『坊ちやん』の中の坊ちやんといふ人物は或点までは愛すべく、同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今の様な複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさへすれば、それで作者の人生観が読者に徹したと云ふてよいのです。」(明治3991日「文芸界」59号「文学談」
「坊っちやん」ならずとも単純過ぎて経験が乏しい人間は現代でも馬鹿にされ、屈辱感、挫折感を味わうのはちっとも変わっていない。いじめの問題は単に学校の生徒ばかりではない。小説の中では既に「うらなり」もいじめに遭っているのである。かくしてこの世には「不浄」ならざる社会は皆無という事になる。主人公は東京で街鉄の技手になるが、ここが「不浄」とは縁のない場所とはまず考えられない。教師時代のままの「坊っちゃん」だつたらおそらく長続きはしなかったろう。
唯一「不浄」でない世界ー 清のような人物のいる場所
それは―無条件に愛情を注ぐ人・「律儀で忠貞な老女」
(辰野 )

  清は主人公の悲しみと寂しさを、母の愛情で優しく迎えてくれる人 「あなたは欲がすくなくつて、心が奇麗だと云つてまた誉めた。清は何と云つても誉めてくれる。」(岩波・全集第294)清は心やさいばかりでなく、清自身正義の持ち主である。多くの研究者は清の優しい面、母の盲目的愛情面を強調するきらいがあるのではないか。もともと「由緒のあるもの」だったのだから江戸の武士的気質を理解していただろう。心が綺麗な主人公を誉めるのは清自身も共通の精神、律儀で主人に貞節を尽くすという昔気質をもっていたからと思う。そういう面は漱石自身のものでもある。
5
「坊っちゃん」の「正義」は漱石の性格と教養と重なる。

   幼児の頃の生活環境例、養父母の人前で取り繕う会話や態度、実父母が自分達をお    じいさん、おばあさんと漱石に呼ばせたことなどに偽りを見抜く)
   少年時代の読書体験   「子供の時聖堂の図書館へ通って、徂徠の「萱園十筆」を  無闇に写し 取った昔」(思い出すなど)「元来僕は漢学が好きで、随分興味を有つ   て漢籍は沢山読んだもの 」(落第)
  大田南畝自筆の「南畝莠言」を喜いちゃんという友人から25銭で買い、後で取り  返されるという話    (硝子戸の中)―金は返すから本を返してくれと喜いちゃんが言  うのに対し、本は返すが金は受け取れないという話がその後に続く。少年金之助の  高価な本を安く買って悪かったという律儀な心理が表れている。
  このように漱石は幼年期から親しんだ漢籍の伝統的儒教的教養・徳義心が身につい  ていた。その表れが、次の少年期の作文である。11歳の少年の作文とは思えないほ  どの名文である。漢籍の素養を基礎にした大家の片鱗を既に表している。

   ○参考 現存する漱石最初の作文「正成論」(明治11)その一部分のみ挙げる
  「夫レ正成ハ忠勇整粛抜山倒海ノ勲ヲ奏シ出群抜萃ノ忠ヲ顕ハシ王室ヲ補佐ス実ニ股肱ノ臣ナリ   帝之ニ用ヰル薄クシテ却ッテ尊氏等ヲ愛シ遂ニ乱ヲ醸スニ至ル然ルニ正成勤皇ノ志ヲを抱キ利ノ
  為ニ走ラズ害ノ為ニ遁レズ膝ヲ汚吏貪士ノ前ニ屈セズ義ヲ蹈ミテ死ス嘆くニ耐フペケンヤ噫」
英文学との関連
 「此の世界何とて不浄の有らざるべき 只此不浄中円満の種子を含むとは「ホイットマン」がSong ofniversalの中に述べる言なり」(「文壇に於ける平等主義者の代表『ウォルト・ホイットマン』 altWhitmanの詩について」)
これを読むとこの世の中には不浄だらけで不浄があってこそ世の中は成り立っている。浄があって不浄があり、不浄があって浄があると考えれば浄も不浄もない。これは仏教の世界である。漱石は学生時代かの鈴木太拙に頼まれ、その論文の校正もし、ジャパンメールの就職試験では「禅について」という論文を書いて自信を持って提出したが残念ながら不採用となった。おそらく相手が理解できなかったのだろう。日本人でさえ「禅問答」など簡単に理解できるものではないのだから。松山赴任直前は鎌倉帰源院で参禅もしている。浄・不浄をあくまで理解した上で、「坊っちやん」の中に「不浄」の語彙を使用したとすると作者漱石のユーモアが一層面白く感じられるのではないか。
 とするとこの世には「不浄な地」は実際はないのであり、「不浄な地」と言われようが、言われまいがあくまでもユーモア、誇張表現上の作為からきていることで気にすることはないのである。

           

 平成17年の記録

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154回
春例会

平成17年4月26日(土) 午後1時より、道後温泉椿の湯 2階会議室にて開催。

第154回例会 講演   日本現代詩人会会員  みもと けいこ 氏

..........................漱石にとっての二つの松山....子規との松山・虚子との松山
 一昨年の終わりになりますか、『愛したのは、「拙にして聖」なる者という本を出版いたしました。そのなかで漱石文学における男女の三角関係のもとが・漱石・子規・虚子の友情と確執に由来しているのてはないかという類推のもと、その三人の関係を調べてみました。今回は「松山坊っちゃん会」ということで、小説『坊っちやん』の背景となった明治二十八年頃の三人の関係についてふれてみたいと思います。
『坊っちやん』の下女〈清〉は有名ですが、漱石作品には全部で六作品に下女〈清〉が登場します。私はこの〈清〉は漱石の友人でもあり、『吾輩は猫である』を書かせた高濱虚子がモデルとなっているのではないかと考えております。
 漱石・子規ともに慶応三年生まれです。経済的基盤の崩れつつあった江戸の名主の四男として生まれた漱石は、その存在を特に父親に蔑ろにされ、後に精神に歪みをきたすまでに不安な成長をいたしました。一方子規は母方の祖父、松山藩の漢学者大原観山に可愛がられ、幕末の志士や英雄に憧れる親分肌の青年として成長をいたしました。二人は現在の東大の学生として出会うわけですが、二人の交遊は常に子規が主導権を握るという形で進行致しました。青春時代の二人の交遊で、何に共感し何に反発しあったかということは、その往復書簡で知ることが出来ます。その中で特に生涯を通じて、その関係に歪みをもたらした価値観の相違がありました。明治二十四年の文通で子規が元士族に拘わり、英雄的気概を持った人間はみんな元士族であるということを言っております。それに漱石がひどく反発し「君何が故にかかる貴族的の言をはかんや。我工商の味方をする」と言っております。これは漱石と子規の交遊の一つのキーワードでもあり、『坊っちやん』の背景にもこの時の反発が色濃く現れております。正義の味方山嵐が会津の出身としてあるところなど、士族、特に松山藩の幕末の対応を皮肉ったものと考えられております。
 漱石は明治二十八年東大大学院卒業と同時に東京高等師範学校の嘱託教員を辞め、松山尋常中学に赴任します。子規は明治二十六年に東大を中退し日本新聞社に入社します。子規は文芸担当なのですが、政治・社会情勢に相変わらず強い興味を抱いていたので、従軍記者として日清戦争の取材に大陸へ行くことを希望し、二十八年四月に広島港から出港します。しかし子規が出発してまもなく下関で講和条約が締結され、子規はその役割を達することなく帰国の途につきます。子規は帰りの船の中で大量の吐血をし、いちじるしく体調を損なってしまいます。神戸に上陸し、静養していた子規に帰国から三日遅れの日付で、東京に帰る途中松山に寄らないかと誘いの手紙を漱石は書いております。当時漱石は追跡症といわれる精神病の一種を引き起こしていて、文芸の創作が自分の精神の回復の一助になるのではないかという、言わば漱石の「エゴイズム」が子規を松山に立ち寄らせたのだと思っております。
 いざ子規が愚陀仏庵で暮らし始めると、そこに集まったのは、柳原極堂、野間叟柳、小学校教員の団体、その大部分は松山藩士の子弟たち、子規の気のおけない幼少時からの仲間たちだったのです。子規のまわりには遠慮のない松山弁が飛び交い句会は盛況を極めました。

子規を松山に呼んだのは漱石ですが、しかし明治四十一年の「ホトトギス」に子規は大陸から帰ってきて勝手に松山に来た」と書いておりまして、こちら側だけ読んだ方は、子規の方からやって来たと思っている方もあるようです。漱石が忘れたのだとは思っておりません。漱石の心の中で記憶の変形が起こったのだと考えております。

一方虚子との交遊は、漱石に暖かな慰めを与えるものでした。明治四十年松山に帰る虚子に「あなたと松山で道後温泉に入っていたら、どれだけ楽しいでしょう」という手紙を出しております。それは明治二十八年に松山尋常中学に赴任した折り、虚子と温泉につかり、俳句を創ったのを懐かしんだものです。俳句の方法として、子規の言う写生よりは、虚子の提唱した神仙体の方が、漱石には合っていたように思われます。 

漱石と子規との関係は、子規が漱石の文学的先導をしたという微笑ましいだけのものであったかどうか、一方漱石が松山の悪口を書いているのに、松山が「坊っちやん」で街おこしをするのはどうかと言った意見は、両方共にもうすこし議論の余地があろうかと思っております。(みもと氏の原稿による。)

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155回
夏例会

7月23日(土)午後1時30分より、道後湯の町、椿の湯2階会議室にて、済美高等学校講師、寺岡信子氏による「漱石の『こころ』に対する現代高校生」と題して講話があった。以下はその概要である。

現在、高等学校国語教科で近現代文学を取り扱う科目は、「国語総合」と「現代文」である。漱石の『こころ』は「現代文」(2年生)で学習することが多い。 この調査は、学習成果を問うというものでなく、小説『こころ』は現代高校生にどのように受容されたかというものである。

○ アンケート調査内容 国語科『現代文』の授業終了後、アンケートを実施。
 ● 対象生徒  音楽科2年生クラス21名(男子4名 女子17名)
 ● 授業概要  小説『こころ』下「先生と遺書」35回〜45回前半を授業13時間学習。
 ● 使用教科書 「精選現代文」 東京書籍
1 アンケート項目(抜粋)と結果
 (1)『こころ』はおもしろかったか。
○ おもしろかった20名   ○ おもしろくなかった−1

   「おもしろかった」の主な理由
◇主人公「私」の心理あるいは心情の変化。 
◇「私」とKが恋敵に変化していく様子。
◇人間の醜さに惹かれた。   
 (2)「私」とKを比べて、どちらの人物に好意を持つか。
   「私」9名   K12
  主な理由 「私」「私」と同じ立場になれば、同じようなことを考えただろう。
                「お嬢さん」をどうしても手に入れたいという気持ち。
                汚らしさが人間らしいから。
         K素直で正直者。 意志強固。 人を思いやる心がある。「私」を大切に思っている。
 (3)作品の中で   @ 感動・共感したこと
◇仮病をつかってまで、Kを欺き、求婚した「私」にKが労わりの言葉をかけるところ。
◇Kを裏切ってでも、お嬢さんに求婚する気持ち
◇「私」のすべてに共感した。
   A 腹立たしく思ったこと
     ◇Kの自殺直後にKの遺書が気になったこと。 
     ◇仮病をつかい、Kを出し抜いて、求婚したところ。
   B 悲しくなったこと
     ◇Kを欺いている「私」にKが優しい言葉をかけるところ。
     ◇Kに同情している自分。
 (4)その他の感想
     ◇内容が現実的で共感できることが多かった。Kの自殺など多少ショッキングなところもあったけど、
読んでいて飽きない。

     ◇『こころ』イコール「襖」だと思う。『こころ』の中に描かれた三角関係は男女だけでなく、現代の人間関係に当てはまると思う。
2 アンケート結果から読み取れる顕著な事柄

 エゴイズム、あるいは人間の醜さを肯定的に認めようとする者が多いことである。その根拠としては,アンケート(2)にあるように「私」に好意を持つ者が40%いることである。その理由として、「人間らしい」と評価していることである。ダーティーなイメージで肯定される主人公は昨今の小説・映画・TVドラマに闊歩している。「私」に対する親近感はそのような時代環境にもあろう。 Kに対しては、好意や同情を持っているが、「意志強固」「まじめ」「一途さ」という画一的な人物像という理解に止まっている。さらにはKが自分自身を語る場面はほとんどなく、Kの信条ともいうべき「精進」とか「道のためにはすべてを犠牲にする」というストイックなものは、現代高校生にとって非常に理解しにくい、共感しにくいものであろう。
 漱石が『こころ』を朝日新聞に連載してから90年。しかし『こころ』は現代高校生にとっても十分現代的テーマを持った小説として存在していると言えよう。

3

156回
秋例会

漱石「坊っちやん」発表100年記念講演会
平成17年10月13日(金) 会場 県立松山東高等学校体育館
演題「子規と漱石」 、講師 大阪成蹊短期大学教授 和田 克司 先生

「坊っちやん」発表100年記念の各種行事のトップを切って、その前夜祭ともいうべき記念講演が折から文化祭でにぎあう漱石ゆかりの松山東高校で、松山坊っちゃん会と東高の共催で開催された。その内容をご紹介する。

    一

皆さん今日は、皆さんの背筋をぐっと伸ばした姿勢を見て感心しました。生きる姿勢ということをこれから1時間お話しいたします。

来年は「坊っちやん」発表後100年になります。私個人は松山東高校を卒業して50年になります。このような節目の年にお話しできることを大変光栄に思います。

まず手元に用意した明治33年8月24日の正岡子規の手形と自分の手を合わせてください。子規の手が大きいのか小さいのか。まず墨汁をつけて自分の16歳、17歳、18歳の手形を押してみることをお勧めします。手形の原本は今どこにあるか不明です。手を合わせますと、子規と握手するということになります。手を合わせた時、おやっと思った人は集中力のある人です。手形は左手であります。子規は左ききでありました。明治33年、子規の病気は最晩年ほどでもなかったので、このように手形を押すゆとりがありました。次に子規の身長は163・9センチで、夏目漱石は158・8センチです。皆さんが自分の背と比較すると、髯をはやした漱石がぐっと身近な存在になるでしょう。

さて、子規の喀血についてお話しします。喀血(かっけつ)は、いわゆる結核菌により肺が冒されたことによる肺からの出血を口から吐くこと、吐血(とけつ)は消化器系統の出血を口から吐くことであります。子規の結核は全身に広がりまして、足は左足の膝頭に集中的に結核菌が繁殖し、さらに脊椎に及び、子規を死ぬまで苦しめました。結核菌が脊椎の骨を食いちぎったのです。したがって子規は傷口が直接神経に触れる大変な痛みを体験しました。今では結核治療薬の発達と、医学の進歩により、子規と同じ痛みを体験することはできません。子規には3回の大きな喀血がありました。最初、子規は明治22年5月9日に突然喀血しました。たぶんこの年の特別な寒さと風邪がきっかけと思われました。父が早く亡くなっている事もあり、驚いた子規は近所の本郷真砂町に住む東京帝国大学医科大学卒の山崎元修先生の診察を受けます。子規喀血の報を聞いた漱石はすぐ駆けつけます。そこで、あなた方ならどうするかという問題と関わってきますが、漱石は子規訪問後、山崎先生を訪ね子規の病状を聞きました。漱石は「失礼ながら山崎先生ではだめだ。是非、東京帝国大学医科大学病院の診察を受けないと、君の病気は危ない」と忠告をします。この時の子規の喀血が、人間的にも友情的にも子規と漱石を強く結びつけたということになります。子規には小さい喀血が以前にもあったのですが、この明治22年の大きな喀血を機会に、号を子規と名付けました。子規は中国音ではツークイ(zigui)となります。ツークイという音は、ホトトギスという鳥が鳴く声であります。ホトトギスにはいろいろな呼び名がありますが、血を吐くことと結び付けています。ホトトギスの鳥の意味と本名の正岡常規(つねのり)の規の字を取って子規(ホトトギスの異称)と号したのです。子規は見舞いの答礼として自分の作品(「七草集」)を読んで欲しいと漱石に渡します。漱石は漢詩で子規の作品「七草集」の批評を書きました。数え年23歳の青年同士が、漢詩を交換するだけの能力を当時は持っていました。そのときに初めて夏目金之助は漱石という号を使います。子規という号と漱石という号が、明治22年の子規の喀血を機に生まれたということ、そして、それを機に二人が急速に友人として親密に交際するようになったということであります。

今あなた方は級友を家に呼ぶことがあろうと思います。子規は勇躍上京しましたが、子規にとって自分の家に来て欲しい他郷の人は三人しかいませんでした。一人は菊池仙湖という、後に第一高等学校の校長になった人、それから岡山県津山中学校の教員をして後にジャーナリストになった大谷是空、そして夏目漱石の三人だけであります。このうち大谷是空を除く二人は松山を訪ねて来ます。漱石は、明治28年、今から110年前に、松山中学校の教員として、あなた方の先輩を教えます。その契機は、明治25年の夏に、正確には八月中旬で日時は分かりませんが、松山を訪ねて子規と寝泊りをしています。その家は中の川の「くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ」の歌碑がある所からもう少し西の川下に下った、子規のお母さんと妹さんの旧居という碑の建っている場所です。その時に「松山ずし」(松山では「もぶりずし」)を子規のお母さんからご馳走になったことを記録に残していますし、側で高濱虚子がじっと見ていて、この人が夏目漱石かということを強く認識します。明治25年の漱石の来訪がやがて「坊っちやん」を生んでくるきっかけになるわけです。

    二

子規は生涯にわたって大きな喀血を三回しましたが、第二回の喀血は明治28年、漱石が当時の愛媛県尋常中学校(現松山東高等学校)に来た年に、子規は従軍記者として清国に渡りました。しかし、明治28年5月17日、帰国の船中で大きな喀血をいたします。気泡が沢山出ますが、船中のことで、もう一度飲み込まなくてはならないという悲惨な体験をします。船中でコレラに罹った船員が亡くなったこともあって、喀血をするという大病であるにもかかわらず、門司から神戸まで上陸できませんでした。やっと神戸に上陸した時は一歩も歩けなくて、神戸病院に搬送され、きわめて危険な状況でしたが、強く生きる意志力が強かったのか、幸い命を取り止めて、やがて須磨に移り、結果的には松山へ帰ってくるのであります。その療養期間中に手紙を出して「君、よかったら早く松山へ帰って療養をした方がいい」と言ったのは漱石でありました。その漱石の招きもあって子規は療養のために、松山へ帰って来るのでありますが、その時になぜ自分の家でなく、当時、上野義方さんがお持ちの家、愚陀仏庵と漱石が名付けていた所へ、子規がころがりこんで来たのかというと、子規はお金持ちではなく、当時すでに自分の家はありませんでした。お母さんと、妹さんは東京の上根岸八十二番地で借家住まいでありましたし、財産のほとんどを使い果たし、過酷な経済状態でありましたし、松山へ帰ってきたときは、休職中の身の上でありましたので、新聞「日本」に勤めてはいましたが、月給は全くもらえませんでした。そういう状況の中で、漱石は自分の借りている愚陀仏庵、これは子規記念博物館には建物の一階の部分が復元され、県立美術館分館、萬翠荘の東手には愚陀仏庵の建物がそのまま復元されています。そして全日空ホテルと三越の間を南に下ると、本来あった愚陀仏庵の跡地は、現在は駐車場になっています。したがって愚陀仏庵を尋ねられた時、ぜひ他郷の方には正確に三つの愚陀仏庵を区分して教えていただきたいのですが、その愚陀仏庵に子規を招いて、漱石は二階に、子規は一階で生活をしたわけです。もし、今から110年前の50日余りの二人の語らいがなければ、近代の日本文学は大きく変わっていただろうと思われるほど、二人の語らいは重要でありましたけれども、最近分かってきたことや、専門の立場から愚陀仏庵に関わって少し申しておきます。

実際に愚陀仏庵のあった辺りは、だいたい武家屋敷が続いていました。愚陀仏庵のあった上野義方さんの屋敷は母屋と離れに分かれていて、母屋と離れの間に庭があったように思われます。愚陀仏庵のすぐ北側に宇都宮さん、南側には大島さんという方が住んでおられました。問題はここから始まります。北側の宇都宮丹靖という方は、俳句を専門とし、占い、易、暦を商売とする、当時有名な方で、夢大などの号ももっていました。宇都宮丹靖は松尾芭蕉を非常に尊敬し、俳諧の伝統を受け継ぐというばかりでなく、全国の俳人と交流をしていたような人物であります。一方、上野義方さんの南側の大島梅屋は、実は現在の番町小学校の先生をしていた方ですけれど、子規からの影響以前に、下村爲山という、画家として非常に有名な方の指導ですでに俳句を作っていました。その下村爲山が東京へ帰るのと入れ替わりに、子規が松山へ帰って来たのです。たまたま子規が隣に住まいをしたので、是非、子規に俳句を教えて欲しいと、大島梅屋などが愚陀仏庵に通い始めました。当時の海南新聞、現在の愛媛新聞でありますが、そこに勤めていました柳原極堂もその一人です。毎日のように子規を訪ねて来て俳句の教えを乞うたわけであります。子規の指導によって、松山で俳句を作る松風会の人々の訪問が大きい刺激になりまして、漱石は最初人々の出入りを気持ちよく思わなかったようですが、漱石自身が子規の最初の喀血の時から、俳句を作るということでは子規の影響を受けていたために、思い切って俳句を勉強したいという気持ちになって、松風会の人たちと一緒に漱石も俳句を作り始めます。俳句を通じて子規と漱石が非常に親しくなっていくもう一つの柱にやがてなっていくわけです。したがって第二回目の喀血は子規と漱石の心の交流に加えて、二人の文学の交流が始まります。

松山の人々に覚えておいて欲しいことの一つは、当時俳諧とか俳句とか呼ばれるものは、子規にとっては新しい文学ではありましたが、決して一般的には俳句という言葉が定着していなかった時代であります。その時期に子規は松山から発信して、俳句は文学の一部であるということを初めて新聞「日本」を通じて全国に主張します。俳句が文学であるということは、何でもないあなた方の常識ではありますが、わずか110年前の子規の一言から出発したということは覚えていただきたいのと、最後にも申しますけれど、俳句(haiku)という言葉は、あなたが調べる英語辞書には必ず出てくる表現であって、世界の人々は日本のことについて富士山だけでなく俳句という言葉もよく知っております。そうした認識は、とりわけ松山の方が持っていただきたい、世界に向かって羽ばたいてゆく大きな自信の一つになると思います。

もとへ戻ります。愚陀仏庵の北側に宇都宮丹靖という方が、南側に大島梅屋と言う方がおられました。松風会の人々の影響で、漱石は俳句への関心を一層強く持って行きますけれど、問題は子規自身は、とても偉いんでありますが、宇都宮丹靖という子規とは考え方の違う、文学の面では全然考え方の違う旧派の人から、ものを学びたいという姿勢で、お隣の宇都宮丹靖を訪ねて俳諧を教えてもらいます。すなわち自分が接する身近のものから多くのものを吸収するという姿勢が、子規を大きく育てて行きます。その一つの例が隣の宇都宮丹靖であります。

それで、ご存知と思いますが、「散策集」という子規の書いた紀行文がありまして、その紀行文は、同じ明治28年の9月20日から五回にわたって松山の周辺を散策、即ち散歩をした時の紀行文であります。この紀行文を通じて目に見えるものを俳句として考えるという一歩を、子規自身も確認しております。明治28年10月6日に、子規と漱石は連れ立って道後を訪ね、大街道に明治20年から出来ていた新栄座という劇場で、二人は今様狂言を観ております。たまたま子規と漱石の姿を見ていたのが、本校正門入って左側に胸像があります安倍能成先生であります。安倍能成先生は、明治16年に生まれておられますので、子規とは16歳違うわけで、生涯にわたって自分の尊敬すべき人として子規と漱石を挙げていますが、先生ご自身は漱石の四大弟子の一人として重んじられた人であります。その安倍能成先生が劇場で二人の姿を確認しておられます。少しだけ覚えておいてほしいのは、1945年、日本が終戦後の難局に立ち入って舵取りが出来なくなった時代に、安倍能成先生が文部大臣を引き受けられて、今日の教育の基盤を打ち立てられただけでなくって、アメリカからの強すぎる圧力を跳ね返して、日本の伝統的なものを重んじながら、西洋の素晴らしいものを取り入れるという形で、今日の教育の根幹を築かれた特筆すべき文部大臣であることは覚えておいて欲しいのと、いつかまた安倍能成先生に触れる機会を子規、漱石に併せてお願いしたいと思います。

本筋へ戻ります。愚陀仏庵のことについて記録がいくつか残っております。その記録の合間、合間がしだいに分かって来まして、子規が愚陀仏庵の一階を借りながら、時には桔梗を活け、時には浦島草を活けたり、非常に清楚な室内空間を持っていただけでなくって、子規が愚陀仏庵で夜間に読書をしていると、隣から三味線の音が聞こえてくるといったような、まだ電気のない松山の静かな佇まいの中で読書をしながら、明日を考えて子規が生活していた姿が、分かって来ました。とりわけ伝えておきたい点は松山の方は、専門家もお気づきになっていないことかも知れませんが、愚陀仏庵での五十余日のうち、わずか五日間の記録をどうして「散策集」に記したかという事が分かっていません。しかしながら、記録を重ね合わせて行きますと、立つ事さえ難しかった子規が松山へ帰って、立つだけでなく、歩き始めて、散歩をして、これで大丈夫だという形で、歩行練習をして、強い意志を、これから東京で文学で身を立てるという意志を、もっと極端に言えば、今一銭も入らない自分の生活から、再び月給を取って生活をするということ、お母さんや妹の面倒を見るんだという決意の最初が、「散策集」に表れた子規の文章でありました。すなわち子規の強い気迫というものが散策集に込められていることを、松山の方にお伝えしたい気持ちで一杯であります。

そして、愚陀仏庵の隣に宇都宮丹靖がいて、松尾芭蕉を大事にするばかりでなく、植物としての芭蕉を植えておられたということが、分かってきます。そうすると「坊っちやん」の第七に、主人公がとっても大切にしている、お清から手紙をもらう場面があります。手紙を読もうとすると、暗くて分からないから、縁側に出て手紙を読むという趣向になっています。その季節は初秋で今に近い季節で、そこに芭蕉の葉のそよめきが感じられると書いてあります。これは別の言い方をしますと、「坊っちやん」に込められた愚陀仏庵の数少ない記録が、「坊っちやん」の中で生きております。したがって、「坊っちやん」の「初秋の風」という言葉は、まさに愚陀仏庵を連想するわけで、漱石の立場から申しますと、体験をしました明治28年から39年の10年余をかけて、その正確な記憶を文章として缶詰のように納めたということが分かります。そうしたことがなぜ分かって来るかということを申しますと、記録です。実は記録というものは非常に大切でありまして、何でもないものの方が実は記録することが難しい状況です。したがって、私は希望として、あなた方は日記をつけ、先生方から習ったエッセンスを、どれだけ大切にするかということが、今後のあなた自身の人生を決めると思いますけれど、その記録は間違いなく、どこかで生きてくるということを確信をもって、心に留めていただきたいと思います。

    三

三番目の大きい喀血を申します。明治33年8月13日に大きい喀血がありました。当時、子規はすでに寝たきりの病床生活に入っているわけでありますが、人間にはバイオリズムという生命の不思議な営みがあって、子規には5月が一番悪い月で、本人も自覚しています。そういうわけで、明治33年の5月を無事済ませましたから、大丈夫だと思っていた矢先の8月の13日に喀血をしました。この時は精神的に参りました。その時期、漱石は、熊本の第五高等学校に赴任しておりましたけれども、同じ年の明治33年の6月に英国へ留学することを命じられました。

ついでに申しておきますと、東京帝国大学で漱石は英文学を、子規は国文学を学びますけれど、英文学を学んだ一番目は立花銑三郎で、二番目が漱石であります。したがって東京帝国大学で日本人として英文学を学んだ二番目の人が伊予尋常中学校(松山中学)へ教えに来たという意味なんです。決して数多い先生の中から漱石が来たというわけではありません。したがって、漱石は、子規がいなかったら、そして明治25年に松山に来ていなかったら、本校に来ることは全くなかったと考えていいのであります。漱石が二人目の英文学の学徒であったため、文部省はぜひ本格的な英語英文学を英国で学んできて欲しいと、漱石に白羽の矢が立ちまして、漱石をロンドンへ送ることになったわけです。その時が子規の第三番目の喀血の時期になります。したがって、第一番目と第二番目の喀血は子規と漱石とが結びつくための喀血であったのに対して、第三回目の喀血は淋しいことに、子規と漱石とが別れるということに結びつきました。

坐ることが難しくなり、寝たきりになりますと、床ずれが出来、床と接している部分が火傷をしたような状態になりますので、必ず体を動かさなくてはなりません。子規はだんだん寝返りが難しくなったために、敷居の上の鴨居の部分から紐を吊るし、その紐にすがりながら自分の身を起こして、痛みをこらえながら、右を下にしたり、左を下にしたりしたわけです。記録を見ますと背後の左の部分の穴が非常に厳しいようで、私の感覚から言いますと、右の方に穴が少なかったら、右を下にしたらいいなと思うんでありますが、少し違いました。最初、右を下にしていたようでありますけれど、痛いはずの左側を下にしないと耐えられませんでした。亡くなるまでの大痛苦の三年は仰向けに寝ることすら難しく、仰臥で半身に体を起こしたままの姿勢で寝なければ、痛みに耐え切れないという状況になって行きました。おできに絆創膏(ばんそうこう)を貼ってそれを剥がすとき、とっても痛いのはご存知のとおりでありますが、明治の時代はガーゼがありますけれど、一度洗って、消毒をしてもう一度使っていました。肺結核の場合は痰や血が口を通じて出てきますが、脊椎の部分の結核菌に冒されたところは、出口がまったくありませんから、だんだん腫れてきて、膿が大きくなって、腫れた所が火山のようになって、そこから膿が出てきます。それだけでなく、膿の出口は神経が露出したままで、露出部分に包帯がくっつきます。包帯と膿との部分をベリッと剥がさないと、包帯が取れない。あなた方は歯の痛みを連想できると思いますけれど、包帯を剥がす時の激痛、疼痛に加えて、常に鈍痛が腰部にあり、微熱や高熱が続くわけです。子規が亡くなりました明治35年9月19日の前に、麻酔を服用して痛みを抑えたというのは、ご記憶にあるかもしれません。実は麻酔の服用は、子規の亡くなる一年二か月前からで、最初は包帯の取替えのときだけの服用でした、麻酔薬が効いてきたときに包帯を剥がすわけですが、それでも「痛い痛い、馬鹿野郎」と言われながらも妹さんが看護したわけです。妹さんの仕事は大変だった上に、汚い話で恐縮ですが、トイレヘ行けないわけですから、そのお世話を全部妹の律さんが行なったわけです。包帯の取替えと、下のお世話が同時でありますから、律さんは涙を流しなから看病をいたしました。しかも、だんだん痛みが強くなり麻酔の服用が頻繁になります。現実には痛い痛いと大きな声を上げながらの生活でした。

ちなみに、正岡常規の妹の名は律、兄の常規と妹の律と一字ずつ取ると規律になります。お父さんは酒飲みだったと書かれているけれども、ものごとを正しくきちんと守る、ものをきちんと筋道だてるという規律が、お父さんの正岡常尚が二人の子供に託した大きな願いでした。その規律の言葉に惹かれるように、妹律は献身的に、兄子規を最期まで看病しつづけたわけであります。

    四

さて、子規には「仰臥漫録」という非常に大切な作品があります。「仰臥漫録」は実はあなた方がやがて病に伏し、精神的に打開ができなくなったときに、そのときに手にして欲しい書物であります。「仰臥漫録」は明治34年9月2日より書き始めて、二冊ありますが、一冊目が書き終わった日が、実は今日10月13日であります。実は「仰臥漫録」は、仰臥のままの姿勢で書くことができるとばっかり考えておりました。違います。子規は仰臥のままの姿勢で書くことができなくって、左下の姿勢で患部が露出したままの状況で、右手に筆をとって書きました。昔の本のことでありますから、綴じたり、はずしたりができますから、私は「仰臥漫録」は一枚一枚の紙を手に持って書いたと思っていました。原本が出てきて驚いたことには、原本の右下隅に染みと言いますか、筆あとがついています。筆あとから判断すると、「仰臥漫録」が綴じられて重い状態のまま、子規が「仰臥漫録」を持って書いていたということが、客観的に分かってきました。今は「仰臥漫録」の複製もあって、手に取ることもできるのでありますが、原本の重さは260グラムです。そうすると、今あなた方が持っている参考書はだいたい300グラムから400グラム、その書物を持って左半身を横にして2ページ読んでみて欲しい、そうするとどのくらい苦しい姿勢であるかすぐ分かります。子規は「仰臥漫録」を書き続けました。これは日記です。毎日、天候、食事、便通の記録が書いてあります。そして真中には妹さんの悪口がある。律ほど理屈づめの女はいないと書いてある。せっかくお世話になりながら、どうしてそんな悪口を書くんだろうと思うかも知れない。そして10月13日は「仰臥漫録」の一番最後のページになります。子規は麻酔を服用し始めて一日一日をとっても大切にしました。したがって、「仰臥漫録」を書いたその日が、命の終わりであるということは、当然考えながら書いています。そうした中で食事の記録と、便通の記録があります。便通の記録があるということは、そのまま、妹に済まなかったね。こめんね。私は排便をすることができたよという報告でもあるわけです。母妹は、たくあん、味噌汁だけの食事です。そういう生活の中で子規は刺身を食べ、肉卵を食べ、スープを飲み、当時としては最高級の食べ物を記録しています。「仰臥漫録」の食事記録は、今日という日にご馳走を食べることができたよと言う記録であります。「仰臥漫録」の周辺の記録から見て行きますと、食事をすることが一番楽しみのように見えながら、最後の段階では食事をすることが一番苦痛であるという記録が出てまいります。そうすると人間から食事の喜びを取った時に、どれほどつらい一日が待ち受けているかというのは、あなた方もよく分かると思います。

そうした中で10月13日、今日という日、子規はとうとう自殺を考えます。自分の手元に千枚通しと、小さい小刀がある。隣の部屋に行くと、剃刀がある。剃刀さえ取りに行くことが出来たら、自分はどこかを切って死ぬことが出来るかもしれない。そういう考えが起こります。妹さんがお風呂へ行く、買い物に出る、お母さんに電報を打って来てもらうように頼みます。わざわざ家族の二人に出て行ってもらって、たった一人になる。その間に自殺をしようと考えます。しかし、痛苦のため剃刀を取りに行くことさえ出来ないわけです。側にある紙切り用の小刀で血管を切ることは出来たとしても、自分は死ぬのは怖くない。しかし、これ以上痛みに耐えることはもっと難しいと考えて、煩悶に煩悶を重ねて、最後にどうしよう、どうしようと言いながら自殺を思いとどまるという非常に感動的な文章が出てまいります。「仰臥漫録」の第一冊目の一番最後のところです。そして第二冊目に入ると、「再びしやくりあげて泣き候処」と、その文章は始まる。涙をだらだら流しながら生きるという決心をした子規は、「仰臥漫録」第一冊目、ほとんどすべてを片仮名で書いていましたが、第二冊目に入ると同じ明治34年の10月13日の、今日という日に平仮名で書き始めている。新しく生きるんだと、新しい「仰臥漫録」を書き始めて、一日でも生きようと決心をしました。しかしそれも十日余りしか続きません。次は自分の誕生日まで生きようと思う。その後長い長い空白がある。もう書けない。その書けない時期の、明治34年の11月6日に、子規は漱石に宛てて「僕ハモーダメニナツテシマツタ」という言葉で始まる、非常に感動的な書簡を送ります。もう何も書けない。自分の周辺には、自分よりも長生きすると思っていた人達が死んで行った。苦しいからもう書くのはこれで止めるといいながら、実は「仰臥漫録」と同じ紙に漱石に宛てて手紙を書いて、自分の日記を見て欲しいという記録を書き記しました。漱石はそれに答えてやがて子規に返信を送りますが、子規と漱石が心から支えあった、僅か十数年という歳月が、日本の近代文学を打ち立てる大きい柱となりました。

あなた方が、やがてこれから六十年の人生を歩むに際して、順調な時はいいけれども、苦しい時、精神的に、肉体的に、立ちはだかる大きな障害があるとき、文学というものは不思議なもので、はじめてそこで、心と心とが接する何かを見つける機会が出てくると思います。そうした機会を、とらえることができるかどうかは、今のあなたの一日一日が実は非常に大切で、あなたが、今、役に立たないと思っていることが、実は一番大切なことで、あなたが、今、面白くないと思っていることが、実は一番大切なことで、努力をしなければ人生生ききることができないということを、子規も漱石も教えていると共に、子規と漱石が未来に百年にわたって、あなたに呼びかけるのと同じことが、やがてあなたにも必要だし、子規と漱石が世界に広がったように、今はすべての事象が世界に向かって広がっているのだということを心に銘記しながら、あなたの明日がすばらしい一日であることを祈って、私の記念講演を終わります。最後まで一生懸命聞いてくれてありがとう。(文責 頼本)


           

4

157回
冬例会

第157回冬例会は、12月3日(土)午後1時30分、漱石90回忌法要後1時45分〜約1時間、
松山市一番町愛媛県美術館内 愚陀仏庵において会員25名が参加して開催された。当日は
朝日、読売、愛媛新聞、松山リビングなどマスコミ各社も取材に来場した。
講師は 松山大学人文学部社会学科教授 市川 虎彦氏 演題
「都市的パーソナリティと小説『坊っちゃん』」
で社会学専門家の立場からの興味深い発想で会場を魅了した。
以下はその要約である。
            

 私は文学を専門的に研究している人間ではありません。地域社会学の研究者です。きょうは、社会学からみたら漱石の『坊っちゃん』も、こんなふうに読めるという話をしてみたいと思います。

 社会学の専門用語の一つに「社会的性格」というものがあります。「一つの集団や階層の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であり、その集団や階層に共通な基本的経験と生活様式の結果として形成されたもの」と定義されています。つまり、国民性とか県民性といわれるものは、その典型です。そして、都市的な生活様式の中から都市居住者特有の性格が生まれるとも考えられており、そうした性格を「都市的パーソナリティ」とよび、以前から多くの社会学者、社会心理学者が言及してきました。

 もっといえば、同じ都会でも、その都市の成り立ちや特質に応じて、独特の性格構造が生まれてきていることも指摘されています。いわゆる「江戸っ子」というのも、その一つといえましょう。江戸幕府成立以来、官僚が居住する江戸・東京は、人々に権威主義的な性格を植えつけ、今日至るまで東京人の「有名店好み」として受け継がれています。これに対して大阪人は実質本位だとされています。また、つねに高度成長し続けた江戸は、「宵越しの金はもたない」といった気風を生み、江戸っ子には反商業主義が強くあります。節約・貯蓄は美徳ではありません。また、筋を通す理念主義、多血質なども江戸っ子の特徴とされています。

 漱石の『坊ちゃん』は、フラット・キャラクターが活躍する小説です(参照:小林信彦『小説世界のロビンソン』新潮文庫)。フラット・キャラクターとは、ある一つの観念(性質)を具現化した存在として描かれる登場人物のことです。これに対して、多面的で変化する精神をもつ登場人物は、ラウンド・キャラクターというそうです。漱石の後期の小説はラウンド・キャラクターが描かれているわけです。どうかすると、そうした小説の方が深みやあじわいがあり、高級だと考える向きが出てきます。そして、『坊っちゃん』はおもしろいことはおもしろいが、人物が類型的で軽い小説だと評価されがちなのかもしれません。しかしそうではなく、そもそも小説の質が違うのです。

 社会学の目からみると、主人公「坊っちゃん」は前に述べた「江戸っ子・東京人」という社会的性格の化身です。われわれは、『坊っちゃん』以降、「江戸っ子」といえば「ああ、『坊っちゃん』みたいな人間か」といった了解のしかたが可能になったのです。「赤シャツ」にしろ、「野だいこ」にしろ同じです。名前をきけば、性格がおのずと浮かび上がってきます。こうした生き生きとした類型が対立したり、協力したりする小説は、単に都会の人間が田舎の人間と摩擦をひきおこす物語というだけでなく、また別の読み方や解釈をうみだす可能性をはらんでいるのだと思います。

 平成16年の記録

1

150回
春例会

平成16年4月24日(土) 午後1時〜3時まで。、道後温泉椿の湯 2階会議室にて、頼本会長の第150回を迎えて挨拶があり、続いて菅 紀子氏(第19回愛媛出版文化賞受賞者)の「漱石のライバル 重見周吉」と題しての講演があり、最後に今年度の本会の総会があった。以下は菅 紀子氏講演の概略である。
@『私の個人主義』
・講演だから口頭で話をして終わってもよかったのに、あえて原稿を書いたのは,書き残したい意志があったと察せられる。
・この講演で漱石の半生を振り返る鍵になっている存在、それが重見周吉であった。そこから一気に24歳に戻るとともに演壇の上にいる47歳の現在までを辿り,学習院の学生に語りかける。
・重見周吉という相手に「敵」と「ライバル」という言葉を使用している。この二語の語気の強さ。
・重見については「なんでも米国帰りとか」と言っているように、漱石は重見について、ある程度の情報を得ていた。「名前は忘れてしまいましたが」とは文字通り受け取るより、知りながらあえて伏せておいた感がある。
A学習院教授職の座という土俵上におけるライバル
学習院応募時の両者の比較
ア、年齢ー漱石24歳、 周吉27歳 イ、経験−漱石、東京大学文科大学新卒、 周吉、米国エール大医学部卒、留学帰り ウ、英語能力 −漱石、机上の知識 、周吉、生のコミニュケーション
Bライバル意識を秘めたまま生涯忘れなかった漱石
・留学の話が持ち上がった際、当初留学にそれほど関心がないかのような言動をしている。
(安易に留学したくない)
・次に留学を決心した時点で、漱石は文部省が指示する英語教育についての研究をよしとせず、自分は文学について研究しに行くのだと明言。
・教師という職業
松山中学での教師体験の苦々しさは、学習院で教師になれなかった挫折感が尾を引いているのかも知れない。
また、学習院であれば詰襟の礼儀正しい良家の子弟が揃っているであろう。ところが目の前にいる松山中学の生徒はというと、制服もなく着古して汚れ、着崩れなど気にしないバンカラな気風。
・留学途上、キリスト教への誘いを断る。宗教に助けを求めない覚悟の顕れ。
・『坊っちやん』と『日本少年』の類似
・類似的描写、(導入部の類似) ー海から見える風景(日)、教会の尖塔は見えない。(坊)、高柏寺の五重の塔が見える。
C競争しない漱石
社会生活のスタート地点で漱石は、一度だけライバルを持ち共通の社会的地位を巡って競った。その後、漱石の書いたものの中に、「ライバル」「敵」という語気の荒い言葉や対象は見当たらない。さらに、以来職業上新たに
自分のライバルを作ることはなかった。このような環境を確保した上で、漱石は「自己本位」の境地を掘り下げた。
D悩まない重見周吉、悩み続ける夏目漱石
重見は四国の一介の港町今治から京都同志社へのぼり、米国エール大学へのぼり、さらに医学部へのぼり、帰国後は故郷から言えば東京へのぼり、そこかにとどまって医者と教師という知的職業にのぼり、安住した。美しい妻と東京でしか見られない歌舞伎や演芸などによく出かけ、華やかな生活を楽しんだ。自分の人生に満足しているようだ。一方漱石は、結婚すれば悩み、留学すれば神経衰弱を高じさせ、博士号を断り、小説家という職業に落ち着いた後も、というよりむしろ書くという行為によって、ますます苦悩し続けるのである。
このとき、重見周吉は、もはや夏目漱石のライバルではなくなっていた。漱石は他者の表層的介在のない次元において,自己の内面世界の中で格闘していたからである。自己完結した重見、自己の不可解を追及し続ける夏目。(菅氏のレジュメによる)

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151回
夏例会

平成16年7月10日(土) 午後1時30分〜3時まで。、道後温泉椿の湯 2階会議室にて、会員村上志行氏の「漱石と満鉄総裁中村是公」と題して講話があった。次はその要旨である。
(前略)、漱石、是公二人とも慶応3年生まれ、是公は広島県出身。明治17年徒歩で上京し、9月大学予備門予科に入学した。19年7月2人は共に本所江東義塾の教師となり塾の寄宿舎に住んだ。漱石は英語で幾何と地理を教えたが、是公は何を教えたか不明である。2人は月給5円ずつもらい、食費月2円、予備門の月謝25銭、湯銭若干を引いて、残りは懐へ入れて蕎麦や汁粉や寿司を食い歩いた。2人の部屋は2畳であった。(中略)
或る日、是公は得意のボートレースで優勝し、その賞金で、漱石にアーノルドの論文とシェークスピァのハムレットを買ってくれた。明治22年、21歳の夏、二人は友人たちと江ノ島1泊旅行に出かけたが、風に山の樹がさっと靡いたのを見て是公は、「戦戦兢兢」という表現をした。漱石はその漢文紀行文集に「草樹皆俯す、是公跳叫して曰く、満山の樹、皆戦戦兢兢たりと余為に絶倒せんとすー云々」いわば言語音痴というべきだがこれは意図しない諧謔味となり、是公の人柄も表している。漱石英国留学中にも街角で2人はぱったり出会い、幾日か遊び歩いた。そのときは是公は台湾総督府からの出張中で、懐は豊かであったらしいが、わずかに「永日小品」でうかがいい知るのみである。後、満鉄総裁になった是公は漱石を満州に招待した。これが、「満韓ところどころ」に結実する。私は紀行文学の白眉だと思う。さて、漱石は胃潰瘍で逝去した。この時の葬儀委員長は中村是公だった。是公は、貴族院議員に勅選され、震災後の東京市長にも就任した。然し、昭和2年奇しくも漱石と同じ胃潰瘍のため、61歳で死去した。(この文は村上氏のレジュメを基に作成した。)

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152回
秋例会

平成16年10月2日(土) 午後1時30分〜4時まで愛媛県立松山東高等学校視聴覚教室において
会員三好恭治氏の「漱石と湧が淵大蛇伝説」副会長戒能申脩氏の「松山坊っちゃん会発足のころ」と題して講演があった。以下はその要旨である。

漱石と湧ケ淵大蛇(オロチ)伝説

 明治二十八年八月から十月にかけて五十数日間漱石と子規は愚陀仏庵で生活と共にしたが、子規上京後漱石の句作は急激に増えた。因みに漱石全集「子規へ送りたる句稿」では九月三二句、十月八八句、十一月一八四句、十二月一〇二句、翌年一月から熊本に去る三ヵ月に一七〇余句記載されている。漱石の俳句の三分の一はこの数カ月間に作られた。
 漱石の湧ケ淵の大蛇を詠んだ句は「子規へ送りたる句稿その八 十二月十四日」に載せられている。子規が明治二十四年八月下旬に訪ねた白猪・唐岬の地を漱石は十一月三日に雨を冒して見物したが、疲労のため病気となり、十一月十三日付の子規宛句稿に「二十九年骨を徹する秋や此風」「吾病めり山茶花活けよ枕元」などの句を残している。健康の回復を待って石手から湯山の散策に出掛けたのであろうが、同行の松風会のメンバーや日時は不明である。
 十二月  二十五日には上京して歳末の二十八日に中根鏡と虎の門の貴族院書記官長官舎の二階で見合いし婚約が成立している。それ以降の松山での吟行句は残っていない。以下卓話と関連する句を抜き書きする。  
○冬木立寺に蛇骨を伝えけり        (注)五十一番札所熊野山石手寺              
  湧ケ淵三好秀保大蛇を斬るところ                      
○蛇を斬った岩と聞けば淵寒し                        
   円福寺新田義宗脇屋義治二公の遺物を観る  二句              
○つめたくも南蛮鉄の具足哉                         
 
○山寺に太刀を頂く時雨哉                          
   日浦山二公の墓を謁す 二句                        
○塚一つ大根畠の広さ哉                           
 
○応永の昔なりけり塚の霜          (注)新田義宗、脇屋義治は南北朝期の新田義貞、脇屋義助の子。 
  さて湧ケ淵の大蛇伝説であるが松山藩記録として集大成した「松山叢談 第四 天鏡院定長公」の項に「三好家記に云涌ケ淵の妖怪先祖三好長門守秀吉長男蔵人之助秀勝元和年中打取申候(以下省略)」として経過が詳述されている。「三好家記」と「三好系図」は現在東京大学史料編纂所に影写本が保存されており原本は未公開である。漱石の句にある「三好秀保」は「蔵人之助秀勝」のことであり「蛇を斬った」のではなく「家書」では「覚悟可致と鉄砲を向候」となっている。 
  実は湧ケ淵の大蛇伝説は「三好家記」以外にも数多く伝承されているが、熊野山石手寺宝物館に蛇骨と大蛇を斃した石剣(松山市指定文化財)が展示されたいる。寺伝では同寺の僧侶により退治された大蛇は雄であり、一方湧ケ淵の大蛇は雌で「夫」亡き後、湯山村食場(じきば)の菊ガ森城主三好長門守家に女中奉公することになる。昼間は美貌の女中であるが深夜は大蛇に化身し、やがて秀勝の知るところとなり破局(斬首?銃殺?)を迎える。雌の大蛇の枯骨は現在ホテル奥道後内の竜姫宮に祭られ、ホテル関係者、三好家始め近在の者が集まり毎年八月に大祭が開かれている。 
 漱石の句の前書きは石手寺に立ち寄り住職から直接聞いたものか、松風会のとある人物から説明を受けたものと思われる。尚、南北朝時代の宮方の新田義宗、脇屋義治は武家方の道後湯築城主河野氏に敗北するが、最後まで宮方に尽くした菊ケ森城主三好氏を頼って湯山に落ち延び落命した悲劇の伝承がある。漱石も史実に興味があり、湧ケ淵から往復二里の山道を散策したものと思われる。                       
 平成十五年(二〇〇三)にホテル奥道後は創立四〇周年を迎えた。昼なお暗い鬱蒼と繁った樹木の下を滔々と流れる水が、巌とぶつかって轟々とこだましたかつての湧ケ淵を五十歳未満の者には想像も出来ないだろう。漱石が後代に湧ケ淵と大蛇の記憶を残してくれたことに心からなる感謝の念を捧げたい。                湧ガ淵三好秀保大蛇を斬るところ
○蛇を斬った岩と聞けば淵寒し(以上は三好氏のメールによる)

この後、副会長 戒能 申脩氏の「松山坊っちゃん会発足の頃」と題して第20回例会における仲田庸幸愛媛大
教育学部教授の「私と本」と題する講演の紹介(氏の敬慕する久松潜一博士の紹介状をもって漱石山房を訪れた話、風呂番の爺さんが健在だつたことなど) 松友増美氏(松山市役所勤務)の漱石の伝記関係の書物を読んだ感想の紹介があった。
                       

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153回
冬例会

平成16年12月5日(日)、午後1時30分より県美術館分館内愚陀仏庵において、第153回例会が開催された.漱石忌(9日)を繰り上げて、正宗寺住職田中義晃師(副会長)の読経に続いて、下掛宝生流能楽師 坂苗 融師
門下10名による献吟、謡曲羽衣の連吟があった。
続いて頼本会長の司会で「我々は小説「坊っちやん」をどう受けとめるか」をテーマに参加者から熱心な意見が寄せられた.

 平成15年の記録

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146回
春例会

平成15年4月26日(土)松山市道後湯之町 椿の湯2階会議室において、会長 頼本冨夫氏の「漱石と謡曲」と題して講演があlり、引き続き、重要無形文化財(能楽)保持者下掛宝生流職分 坂苗融氏の独吟「通盛」「舟弁慶」があった。以下はその講演の概要である。
漱石の謡曲へのきっかけ 漱石と謡曲の関係は記録の上では、明治28年10月6日日曜日、子規に誘われ散策をした帰りに、大街道の芝居小屋で「てには狂言」を見物したというのが最初である。「てには(照葉とも)狂言」とは能狂言に面を着けない女役者のおどりを入れた通俗的なものであったといわれている。松山中学の教師をしていた時代である。漱石が謡曲を始めた直接のきっかけは、明治32年(又は31年)熊本五高の同僚、桜井房記から加賀宝生流の謡曲を習ったことである。熊本は、旧幕時代から能楽が盛んで、明治以降喜多流、金春流が盛んであったが、桜井など加賀出身者の間では加賀宝生流の謡曲が盛んであった。英国留学のため、謡曲は一時中断したが、帰国後の明治40年1月1日、草平、三重吉、東洋城、豊隆、森巻吉らが集まっている所へ、高浜虚子が現れ、謡を始めた。漱石も謡ったがさんざんの不評だった。1月13日、九段能楽堂へ草平、三重吉らと「隅田川」を見に行き、7月7日には「藤戸」を謡った。うまく謡えたので、謡曲を再び本格的に始めようと言う気になった。4月には朝日新聞に入社し、経済的にも、時間的にも、少しゆとりができたのである。
漱石の謡曲の先生 明治40年4月16日高浜虚子宛書簡「いい先生はないでしようか。人物のいい先生か、芸のいい先生かどつちでも我慢する。両者そろえば奮発する。」とある。当時松本金太郎は徳川家の能楽師として著名であったが、彼は大酒豪であり、多忙で、その上、月謝も高かろうと敬遠し、宝生新への交渉を虚子に依頼した。週2回で月8円の謝礼。(宝生新は5円という)代稽古は小鍛治剛。彼は熱心で几帳面であった。宝生 新は漱石の謡いを「ただ素直に声を出しさえすればいいといふお考へだろうと思っていましたが、先生は、どうもさうではありませんでしたね。謡つてる間にご自分で節を拵えたいといふ意志が働く。そこがどうも夏目先生らしくないと思ひましたよ。」と評している。
謡の効用 死ぬまで謡はやめなかった漱石であったが、自分自身は、「芸術のつもりでやっているのではなく、半分運動のつもりで唸っているまでのこと。」(大阪朝日大正3年3月23日 )と言っている。
確かに大きな声を出すことは漱石にとって健康法の一つには違いないのだが、しかし、漱石の日記を読むと、単に「運動のつもり」ばかりでなく、かなりのめりこんでいることがわかる。例えば明治44年2月10日の入院生活中の夫人宛書簡には病気が次第に良くなってきて、元気が出てきた頃の漱石の、謡いでもやってみたい気持ちが、ユーモラスに表れている。
なぜ謡の稽古をやめたのか。大正5年4月19日野上豊一郎宛書簡 前略「一人前になるには時間足らず今許す時間内にては碌な事は出来ず、已めた方が得策と存知候其の上近来○といふ男の軽薄な態度が甚だ嫌になり候故已めるのは丁度よき時期と思ひつき遂に断行致し候」弟子が多く、下掛宝生流の宗家として多忙であり、決められた稽古の時間など守れなかった師匠と几帳面な漱石とではうまく行かぬ所も多かったらしい。この時以降、日記・書簡に能楽に触れたものはない。
漱石の好きな曲目と嫌いな曲目 宝生 新によれば漱石は「通盛」が好きで「明けても暮れても」謡っていたという。特に「小宰相局の入水といつたやうな文学的に面白いところもあるのでそれがお気に入ったのでせう。」「「弱法師」は盲目ものだから嫌いだというやうなお話でした。」と言っている。
謡曲「通盛」(小宰相入水の場面 )が好きだった理由 漱石の小説には謡の場面や語句・人名等多数使用されている。ここでは、特に「草枕」に注目したい。草枕二の峠の茶屋で、御婆さんの話から画工が志保田の嬢様の花嫁姿を思い描いているうちに、ジョン・エブレット・ミレー(Millais英、ラファエル前派の画家、「落ち穂拾い」「晩鐘」の仏のミレーMilletとは別人)の描いた「オフェリア」の水に流れていく姿を思い浮かべる。また婆さんの「嬢様と長良乙女とはよく似て居ります。」という話から二人の男に同時に愛され、思い悩んだ末、淵川に身を投げて死んだ美しい乙女の話を聞かされ、その墓を見て行こうと思う。三では、その夜長良乙女がオフェリアになって川を流されて行く夢を見る。七では宿の温泉の湯につかりながら、ミレーのオフェリアを想像し、自分も風流な土左衛門を描いてみたいと思う。しかし、その顔が思うように浮かんでこない。九では宿の女性、那美さんが「私が身を投げて浮いて居る所を
ー苦しんで居るいる所ぢやないんですーやすやすと往生して浮いている所をー奇麗な画にかいてください」と言われ画工は驚く。十では鏡が池で絵を描こうとするが、「こんな所へ美しい女の浮いている所を描いたら、どうだらうと思ひ」その顔は「やはり那美さんの顔が一番似合ふ様だ。然し何だか物足らない。」と思ったりしている時に峠の茶屋で会った馬子の源兵衛から、昔の志保田の嬢様が失恋して身を投げたのがこの池だという話を聞く。また明治38年中央公論11月号に発表された「韮露行」の最後、エレーンの美しい亡骸を乗せた小舟が城の水門を漂う場面等を併せて考察すると、漱石は汚れのない美しい女性が、美しい衣装をまとって、死んで水の上を漂う情景に特別な思いを持っていたと考えられる。しかも、それらの女性はいずれも無償の愛に生きた、ひたむきな愛の持ち主である。こうした点を考えると、当然のことながら恋人通盛を一ノ谷の合戦で失い、身をはかなんで入水する藤原憲方の娘で、当時宮中第一の美人とうたわれた16歳の小宰相の最後を物語る謡曲「通盛」を漱石が好んだということはうなずける話である。
漱石が謡曲に親しんだ結果と影響 漱石が謡曲に親しんだ結果、前述のごとく漱石の作品(草枕・坊っちやん・吾輩は猫である・虞美人草・彼岸過迄・行人・明暗等)の中に数多く曲目・人名等が素材として取り入れられている。その影響としては、漱石山脈といわれた人々が多く能楽に親しんだ。中でも、
高浜虚子は、生家が能楽に熱心で、三兄の信嘉は上京して「能楽」を創刊、後継者の育成にも力を入れた。漱石の機嫌の悪いときは、夫人から「ちと宅を引っ張り出してください」と頼まれ、能楽の見物に誘ったり、漱石の謡のきっかけを作ったりした。新作能「実朝」その他を作っている。虚子は漱石に影響を与えたと言うべき人である。小宮豊隆は独文学者で「能と歌舞伎」「伝統芸術論」を、野上豊一郎は英文学者で能楽研究者となり、「能 研究と発見」などの著作があり、今春流の保護育成に努め、安倍能成は漱石や虚子の勧めで謡を始めた。

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147回夏例会

7月26日(土)松山市道後湯之町 椿の湯2階会議室にて午後1時から3時まで愛媛大学教育学部教授 佐藤栄作氏の「『坊っちやん』本文のゆれ」−岩波新全集の問題点ーと題して講演があった。以下はその概要である。
岩波新全集(1994年刊)は、「自筆原稿に忠実に」という「画期的な」編集方針を採ったため、それまでの全集本と本文にかなりの相違が見出せる。たとえば、これまで、「バッタだらうが雪踏(せった)だらうが、」とされ、語呂合わせの面白さとして読まれていた箇所は、原稿では「バッタだらうが足踏だらうが」とあり、新全集では「足踏」とした(ルビはなし)。また、清との別れの場面の「随分御機嫌やう」は、原稿
では「存分御機嫌やう」であり、新全集では、「存分」を採った。前者の確定(「あしだ」か「あしふみ」か)は難しい(山下浩氏に言及あり )が、後者は「随分」が当時の決り文句であろう。いずれにしても、
これらについて新全集の編集者は校訂作業を放棄しているように思われる。
『坊っちやん』は原稿、初出、初版、どれも複製が手に入る。それらを比較しながら見ていくと、原稿をそのままにすべきか訂正すべきかの判断がきわめて難しいと痛感する。同時に、岩波新全集の方針、
判断が、最善ではないことにも気づかされる。

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148回秋例会

10月4日(土)松山市持田町県立松山東高校視聴覚室にて 午後1時〜3時まで元愛媛大学教育学部教授 菊川國夫氏による「漱石の書・子規の書」と題して講演があった。以下はその概要である。
1, 子規と漱石の句碑
松山東高校に、子規と漱石の句碑がある。
 「お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花」漱石    「行く我にとどまる汝に秋二つ」子規 
明治28年10月、帰省していた子規と松山中学教師漱石との惜別の句という。
漱石の字はしなやかな曲線中心の和様風で、後年良寛に傾倒する書風がかいま見える。子規の方は
直線的な唐様風で、幼少時、武智五友に学んだ書風がよく出ている。
2,一昨年松山東高史料舘に、漱石が松山中学在任中に書いた欠勤届が収蔵された。次の任地熊本へ赴く数日前に書かれたもので、貴重な資料である。いやな松山を早く離れて、新しい任地熊本へ心が急いでいるような書きぶりである。
3,近時漱石筆の書画に対する関心が異常に高くなり、研究もなされてきた。漱石の書は「彼の文学と共存している。」「その書境があの透明な文体に通じる資質を備えている。」(鈴木史楼)と言われている。漱石の書について概要を述べてみる。
1,その幅が広い。幅、短冊、色紙帖、漢詩稿、句稿、画賛、書簡など多岐に及ぶ。
2,書の内容も多彩である。○漢詩(漱石の自作の漢詩数207編)○俳句(自作俳句約2500という。)
  ○書簡(そのほとんどが毛筆であり、近年新発見のものもあり、人気が高い。)○漢語の名句、佳語   など(二字句、三字句の少字数書が多い。)
3,書に対する見識が高い。○漱石の蔵書目録などによると、書に関する専門書、法帖、字典類、拓本  等も多く、書に対する並々ならぬ関心には驚かされる。○晩年良寛に傾倒したが、書風も良寛調で  あった。本来漱石の書は東高の句碑にも見られるように、良寛に似ていて、良寛好みであった。
4,漱石「則天去私」と子規「絶筆三句」
  子規絶筆三句は、句も書も力いっぱいの仕事であり、人間の生ききった姿である。「仏」の縦画の清  冽にして力強い線は人間業の極致である。壮絶な臨終を感じさせる。
  漱石の「即天去私」は絶筆に近い晩年のものだが、スケールも小さく、力強さに欠ける。言葉の持つ  意味が先行して、この書を有名にしてしまった。「明暗」同様、漱石の書も未完のまま終ってしまった  ことが惜しまれる。(講演の後、参加者は、東高史料館、明教舘を見学し、近代俳句発展の跡を辿り郷土の先覚者の肖像画に往事を偲んだ。)

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149回冬例会

12月9日(火)松山市一番町愛媛県美術館分館内 愚陀佛庵 午後1時〜3時 正宗寺副住職 田中義雲師の読経により第88回漱石忌法要後会員 村上 志行氏「漱石と寅彦」と題して講演があった。以下その概要である。
寺田寅彦が夏目漱石と親しく話をしたきっかけは、第五高等学校2年の学年末試験の終了したときであった。
友人の中に英語の試験にしくじった生徒がいてた。その生徒の代理で点をもらう交渉をしたのが寅彦だった。
用件を快く聞いていた漱石に向かって彼は,[先生、俳句とはいったいどんなものですか。]という質問をした。
それに対して漱石の答えは「俳句はレトリックの煎じ詰めたものだ。」ということであった。この言葉は漱石の死後も、寅彦にははっきり耳の底に残っていて忘れられなかった。寅彦は夏休みに、故郷の土佐へ帰って俳句を作り,漱石のもとへ持参し添削を乞うた。以後週に二・三度遠い下宿から「恋人に会うような気持ち」で漱石のもとを訪れた。寅彦は英語がよくできたので答案を返す時漱石はにこにこして渡した。それを内丸最一郎などは見て抗議したらしい。その後寅彦は,東京帝国大学理科大学に入学し,実験物理学を専攻した。
一方漱石は英国へ留学し,英語学を学ぶことを命ぜられた。日記によれば、その頃ドイツ留学の帰途英国に滞在していた化学者池田菊苗に啓発される所が大きく、自分ももっと、組織だったどっしりしたものを書きたいと研究に没頭し、一時は文部省に発狂説が出るほどであった。この研究の結果が「文学論]であり、後の作品にまで繋がるのである。(以下略)その他
村上氏は寺田家の家系、最初の妻夏子の家系について話され、特に夏子の父,阪井重季陸軍少将は、松山の第10旅団長として赴任した。当時一番町にあった御典医天岸家の屋敷がその官舎であり、夏子も一時滞在したことがあること。阪井重季書の日清戦争従軍記念碑が,伊予郡砥部町麻生の理生院にあること。阪井重季は陸軍中将となり、後備第1師団長として、日露戦争で奉天の会戦に参加したこと。そのことは、司馬遼太郎の「坂の上の雲]にも記述があること。寅彦の父、利正は宇賀家から寺田家に入り婿となった人で、その妹は安岡家に嫁している。安岡家は小説家安岡章太郎と関係があること等興味深い話であった。

 平成14年の記録

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142回春例会

平成14年4月27日 (土)道後温泉椿の湯 において前子規博館長 和田茂樹氏の「漱石の俳句」と題して講演があった.。以下は其の概要である.。
夏目漱石は,明治17年9月東京大学予備門、予科4級に入学した。.翌18年9月には同予科3級に進学したが、翌19年4月に同予備門は「第一高等中学校」と改称され、漱石らの予備門予科第3級は第一高等中学予科第2級に編入されたが、9月胃病のため受験欠席で原級にとどまつた。漱石も子規も共に慶応3年(1984年)に生まれた。子規は明治19年9月幾何数学欠点のため原級に留まった.。ここで漱石と子規と2人共に2年2組の同級生となった.。
明治22年2月5日「第一高等中学校」第1回私会希望生を募集、漱石は敬愛する兄嫁の死を悼み ゛The Death of my Brother`子規は`Self Reliance(自じ)として、英語のスピーチで講演をした。それから子規は和漢詩文集「七草集」(漢詩・和歌・俳句・小説等)を公表して示し、漱石は9月に「木屑録」(房総紀行の漢詩集)を公表、子規はその後に五言絶句,七言絶句など次々と送稿、互いに敬愛する仲となった.。
明治22年子規の喀血を聞いた漱石は山崎医院を訪ねて病状、対策などを詳しく質問し,子規への詳報に認め,入院加療を勧めたが,子規はそれに従わなかった。その書簡に漱石は2句認めていたが,それが契機となり、松山中学教諭となった漱石は、松山周辺を散策しては,子規の添削を受けるようになった。 明治28年9月23日(句稿一・32句)以後、漱石は松山周辺を散策しては,10月8日(句稿四・46句)、11月2日には、河の内泊、翌3日雨中に白猪・唐岬の両瀑を見て(句稿四・50句)も送稿したが、佳作は数句、◎印は2句に過ぎず、子規の厳しい選抜に「駄句不相変御叱正被下度候なるべく酷評がよし、啓発する所もあらんと存じ候」と漱石は,厳正なる写生をと要求した.。
子規の帰省により,明治28・9年には松山で俳句熱が高まった。河東碧梧桐や高浜虚子ら新人が、すばらしい成果を示し、その他の新人も次々に子規は「明治29年の俳句界」で紹介した。夏目漱石について,「漱石は明治28年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠に於いて句法に於いて特色を見はせり、其の意匠極めて斬新なる者、奇想天外より来りし者多し。「日あたりや熟柿の如き心地あり」「蘭の香や聖教帖を習はんか」(10句略)漱石また滑稽思想を有す「長けれど何の糸瓜とさがりけり」「狸化けぬ柳枯れぬと心得て」(2句略 )又漱石の句法に特色あり、或は漢詩を用い、或は俗語を用い、或は奇なる言ひまはしを為す。「冴え返る頃をお厭ひなさるべし」「作らねど菊咲にけり折りにけり(2句略)漱石は又一方に偏せず、滑稽を以って唯一の趣向となし(中略)其の句雄健なるものは何処迄も雄健に、真面目なるものは何処までも真面目なり。「短夜の芭蕉は伸びてしまひけり」「庭見ゆる一枚岩や秋の水」(16句略)(日本、明治29・3・7連載31) これが明治28年9月23日から1年7か月後と考えてよかろう。この発想の基に広大な教養の背景と、漢詩の趣向も見られ,欧米的訳語や文化の背景もうかがえるであろう。
こうして「句稿一」から、明治32年10月迄の「句稿三十九・29句」迄の約1700句作句あり、「岩波書店刊、漱石全集28巻の中、第17巻「俳句」に、1頁6句で350頁あり、その他の連句、俳文学や当時、不詳の句も350頁に収められている。なお「第18巻漢詩」は漱石の漢詩、下欄に読み方を記し,詳しい解説を施している。(ここで和田氏体調不良のため講演を中止されました.)   

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143回夏例会

平成14年7月27日(土)道後温泉椿の湯において会員・伊予史談会会員 山崎 善啓氏の「漱石 松山から熊本への旅」と題して講演があった.以下はその要約である.。
漱石は,明治29年四月10日松山を出発して,新勤務地、熊本に向かった.途中広島県宮島へ一泊大宰府天満宮、都府楼跡等巡り久留米で泊り、13日熊本に到着している.。その旅路については、書物により,いろいろ解説されているが、どれが正しいか判断に迷った。私は,当時の新聞記事等による航路や鉄道の時刻表等をつぶさに調べて旅路を解明してみることにした。松山の港、三津浜から宇品行きの船便は1日1便、広島から西に鉄道はまだ開通していなかった。宇品から宮島へ寄港して門司までの船便はこれも1日1便,しかも、宮島発午後2時50分、門司着は午前4時であった。このような時刻表を明らかにして、大宰府参詣コースを実地に歩いてみて、漱石の旅路を正確に調査したものである。

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144回秋例会

平成14年10月12日(土)県立松山東高等学校視聴覚教室において会員 戒能申脩氏の「松山時代の漱石」と題して講演があった。以下はその一部である。
漱石は、松山中学在職中の明治28年11月2日、温泉郡三内村(現川内町)大字河之内日浦の造り酒屋近藤本家(子規の遠縁)に一泊し、翌3日天長節(文化の日)に白猪の滝と唐岬の滝の見物に出かけた。帰りは、近藤家には寄らず、平井川原まで歩き、当時の終着駅である伊予鉄道平井駅(明治26年5月7日開設)から汽車で松山に帰っている。
この時蓑笠姿で、山道に生い茂った草を鎌で刈りながら案内したのが、近藤家の下男だった河之内上音田の、当時22歳の佐伯宇太郎(明治6年2月28日出生)青年であった。佐伯家は近藤家の信望が厚く次郎右衛門、好蔵、宇太郎と三代にわたって下男奉公をしている。当時近藤本家へ奉公に上がると、礼儀作法はもちろん手習いまで身につけて帰ってきたという。
日浦は地滑り指定地区になっており、長年の地滑りと地震のために、栄華を誇った豪邸の跡さえ全く残っていない。豪邸を支えていた石垣は、近世の城郭並に、大きな石垣を二重に築いていたというが、それさえも今は崩れ落ちて、あちこち田畑の石垣に利用されているが、その威容に当時の面影の一部を偲ぶことができるだけである。

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145回冬例会

平成14年12月8日(日)午後1時から松山市一番町愛媛県美術館分館内愚陀仏庵において松山市末広町正宗寺田中義雲師の読経のもと漱石第87回忌法要を行い、その後会長の頼本 冨夫氏の「漱石を悩ませた松中の教え子-高須賀淳平のことー」と題して講演があった。以下はその概要である。
ここに挙げる高須賀淳平は生没年未詳、本人自身が漱石から松山中学で教えを受けたといっているが、現在の松山東高校の同窓生名簿には記載されてない。何か手掛かりのある方は、ご教示願いたい。
明治40年6月11日渋川玄耳宛漱石書簡では、「愛媛県にて小供のとき教えた腕白もの」とあり、生徒としては漱石にとってかなり印象に残っていた人物と思われる。同書簡によると、、「早稲田中退後、株屋になったり、寄席の帳場へ坐ったり」職業を転々とし、一時は、佐藤紅緑の書生をしたこともあった。そんなことをしながら、明治29年創業の新声社(今日の新潮社の前身)の手伝いをしたりしていた。明治28年1月「猫」を発表し、文名大いに上がった漱石のもとへ、高須賀淳平は社名も新しく変わった「新潮社」の記者という触れ込みで、同年8月19日ごろ訪れた。これが漱石、淳平の最初の出会いである。
明治39年4月漱石は『坊っちゃん』を発表。明治40年、高須賀淳平新潮社入社。(浩峰)と号した。そしてしばしば漱石のもとを訪問記者として訪れたらしい。そこで身の上話、生活の苦しみ、将来のこと等いろいろ話も出て、ついには朝日新聞へ入社の世話まで頼んだのである。これは前記明治40年の渋川宛漱石書簡が物語っている。
漱石は明治40年3月15日、朝日新聞入社が決定した。入社早々日ならずして、このような依頼を受けた漱石も、戸惑いは会ったが、教え子といわれる男から頼まれれば否と言わないのが漱石である。全述の手紙で高須賀就職を依頼した。採用通知はすぐ来た。6月17日渋川宛に、漱石は礼状を出している。それによると高須賀は「本人も望外の喜悦にて是から足を伸ばして楽に寝られる」と大変な喜びようだったと記している。以後高須賀淳平は朝日社員として度々漱石のもとを訪問しているが、特筆すべきは、漱石山脈の一人であり、後に夏目家の書生となる岡田(後に林原)耕三を漱石に紹介したことである。新潮時代の淳平は、結核療養のため、小田原海岸早川村の清光館という旅館で静養していた。その隣室に岡田がいて親しくなったのである。岡田は、淳平が漱石と知り合いということを知って、紹介を依頼した。淳平は、「君は、夏目先生が死ねと言ったら死ねるか。」「はい、死ねます。」と岡田。こんな問答があった。「よし、それなら紹介してやろう。]淳平は純粋な人であったと岡田は後に語っている。その後夏目家の書生となった岡田は、鏡子夫人にも気に入られ、一時は、長女筆子の夫にと考えたこともあったらしい。一方高須賀淳平は漱石門下の小宮豊隆をはじめ多くの門人とも親しくなって行った。
しかし、高須賀はあくまで臨時社員であって、明治40年12月末には朝日新聞を退社して国民新聞に移っている。明治42年3月13日(土)の漱石日記には「淳平の細君今暁死去。(来信)博文館高須賀淳平」とある。妻の死去を漱石に知らせたものである。この時は博文館に入社していたのであろう。淳平は同年1月13日には金50円を漱石から借りている。参考までに当時の朝日新聞新入社員の月給が30円である。明治42年5月16日(日)の漱石日記には「…この正月から今日迄臨時に人に借りられたり、やつたりしたのを勘定してみたら二百円になつていた。是では収支償わぬはずである。そのうちで尤も質の悪い、尤も大っぴらなのは淳平である。淳平はにくい奴だ。もう一文も貸さない。…」心の中をぶちまけるのが日記である。つい本音が出たとも考えられるし、漱石流のユーモアとも考えられる。貧窮ゆえのことではあろうが、漱石が頼られると否と言わぬをよいことに、淳平は漱石から度々借金をしたと思われる。
ところで、小説「坊っちやん」の有名なバッタ事件の部分で「いたづらと罰はつきものだ。罰があるからいたづらも心地よく出来る。いたづら丈で罰は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思つてるんだ。金は借りるが、返すことは御免だと云ふ連中はみんなこんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。」もちろん、この「バッタ事件」の部分では、主人公のモデルは漱石ではないが、生徒は当時の松山中学生を念頭に置いて執筆したはずである。そこに唐突に貸した金の話が出てくるということは、昔の松中生高須賀淳平をふと思い浮かべ、「こんな奴等が卒業してやる仕事」の表現となったのではないかと考えられる。
これはあくまで推測の域であるが、漱石が[坊っちやん」を執筆する以前に淳平が漱石宅を訪問しているのは事実であって、そこで借金の申し込みがあったという事実が証明されれば、この話は一層面白くなる。今後より詳しく調査してみたい。なお、森田草平の文によれば[三四郎」の与次郎は淳平が部分的に取り入れられていると言うことを付記する。

 平成13年の記録

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138回春例会 4月21日(土)午後1時より、道後温泉 椿の湯 会議室において、愛媛大学教育学部教授 佐藤栄作氏の「『坊っちやん』の原稿と高浜虚子」と題して、精細な資料をもとに日ごろの研究の一端を講演された。以下はその抜粋である。
「『坊っちやん』の原稿には、虚子による添削個所が90箇所ほど確認できる。その大半は、松山言葉の部分であり、これによって、松山言葉は、よりリアルに生き生きとしてきた。添削部分からは、松山人虚子の心情も読み取れる。松山言葉に注目することで、松山人ならではの読みが可能となるのは、今も変わらないのではないか。」

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139回夏例会 7月21日(土)午後1時より、道後温泉 椿の湯 和室において、本会役員 戒能申脩氏が『漱石・子規・極堂」と題して講演をされた。内容は、子規没後百年記念展「極堂とその仲間たち」の記念講演の概要(山上次郎氏「極堂との思い出」・八木洋美氏「内藤鳴雪について」・石井久吾氏「子規について」) を紹介し、あわせて、感想・意見を述べられた。

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140回秋例会 10月13日(土)午後1時より、愛媛県立松山東高等学校 視聴覚教室において、『漱石と松山』の著者、中村英利子氏による同名の講演があった。ルポライターとしての中村氏が既存の資料ばかりでなく、新たに取材した各方面の意見なども盛り込んだ氏の著作をもとに話された。

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141回冬例会 12月9日(土)午後1時より、愛媛県立美術館分館「万翠荘」内「愚陀佛庵」において、夏目漱石86回忌法要にあたり、正宗寺副住職 田中義雲師の読経につづいて、本会会長(愛媛医療福祉専門学校非常勤講師) 頼本富夫氏の「『おれ』のイメージ--小説「坊っちやん」の表現と人間関係から--」と題して講演があった。内容は、主要論文を踏まえて、独自の見解も入れて、題名「坊っちやん」の1、表記、2、その意味、3、主人公の人間像1、年齢 2、容姿 3、家庭環境 4、性格・人柄 5、学歴 6、職歴 7、趣味・食べ物の好き嫌い 8、家族関係 それに人間関係、そして世間一般に対する見方等、多岐にわたって『おれ』という人物を明らかにしようとしたものであった。そのようにして「おれ」という人物を見ると単純に正直で子どもっぽさもある正義感の持ち主とはいえない、神経質で異常なまでに潔癖な、エリート意識の強い人物像が浮かび上がる。そこには、作者漱石の分身とも言える人物像が多分にある。

 平成12年の記録

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134回春例会

道後温泉椿湯
   講演 愛媛大教授 清水 史氏「坊っちゃんの方言

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135回夏例会

道後温泉椿湯
   講演 本会役員 渡部一義氏「インターネットと漱石」

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136回秋例会

県立松山東高
   講演 本会会員 伊賀上紀美子氏
        「ロンドン漱石記念館長 恒松氏の講演から」
   スライド上映 本会会長 頼本 冨夫氏 「熊本の漱石旧居」
   8ミリ映画  同 頼本冨夫氏
         会員 上田雅一氏 招待 竹村彬氏 作品

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137回冬例会

立美術館内 愚陀仏庵 漱石85回忌法要
           正宗寺住職 田中義晃師
           講演 本会会長 頼本 冨夫氏「漱石と雑司が谷墓地」