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平成年25年月5月1日更新
平成25年の記録
1 | 第186回春例会 | 平成25年4月21日(日) 松山市道後公園内 市立子規記念博物館会議室に於いて 第186回(春)例会が開催された。総会に引き続き下記の講演があった。 『若者は漱石から何を学んでいるか』 愛光高等学校 和田隆一氏 一 初めに
長年、中学・高校の現場にいて感じているのは、「漱石」ほど若者たちがその成長と共に作品を順番に読むことができる作家はいないということです。全集にまとめられた分量で言うなら、漱石以上の作家はたくさんいますが、中高校生たちが学年が進むにつれて、その作品を成立年代順に読破していくことができるという点では、他に類を見ない作家です。 愛光学園の生徒を例にとるなら、入学前の小学校高学年段階から中学二年生まででだいたい『坊っちゃん』『吾輩は猫である』(これは読了ではなく一部分ですが)に出会っている、中学三年から高校一年生くらいで『夢十夜』を学習、それと関連して『現代日本の開化』『三四郎』『それから』を授業で扱う、または読むように教員が勧める、そして高校二年生で教科書の定番教材となっている『こころ』を学習、そして仕上げは、将来、いつの日か『門』『明暗』を自分の問題として身につまされながら読む日が必ず来るから、その時には読書体験と現実との虚実皮膜を重ねて欲しいと言って卒業後の課題とする――これが我々、国語科の教員が十代の若者に期待する『漱石体験』の軌跡です。 二 『坊っちゃん』のおかしさの底には……
文学作品としての評価は別にして、『坊っちゃん』くらい愛読されている作品はないと思います。その魅力はなんと言っても「文体」から来るものです。「それぞれの一文がきわめて短い。一文の構造も内容も単純で平易である。条件節があってもいずれも順接で、複雑な屈折はない。接続詞の使用も少ない。文末は『居る』『ある』『ない』『である』『だ』といったふうに断定的な言い切りで、歯切れがよい。」(相原和邦『漱石文学の研究』)という指摘はよく言われていることです。そのために中学生にとってはもっとも親しみやすい作品ということになります。 まず子供たちは冒頭の「親譲りの無鉄砲で子どもの時から損ばかりしている」に反応します。そして次から次と繰り出される「無鉄砲」な悪戯に驚嘆の声を上げますが、それは一人称的語りの文体のわかりやすさ故に、直接自分だけに語りかけられているような錯覚に陥るからでもあります。正確に言うと、知らず知らずのうちに「坊っちゃん」の「無鉄砲」を聞かされる「聞く人の立場に自分が置かれている」〈小森陽一〉ということです。この点について、授業では小森氏の論文(『構造としての語り』)を参考にしながら分析を試みます。 @親類のものから西洋製のナイフを貰つて奇麗な刃を日に翳して、友達に見せて居たら、A一人が光る事は光るが切れさうもないと云つた。B切れぬ事があるか、何でも切つて見せると受け合つた。Cそんなら君の指を切つて見ろと注文したから、D何だ指くらい此の通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。E幸いナイフが小さいのと、親指の骨が硬かつたので、今だに親指は手に付いて居る。F然し傷痕は死ぬまで消えぬ。 確かに我々大人は、小森氏が言われるように〈常識〉の側に立って、坊っちゃんがくり返す「無鉄砲」な言動を笑い飛ばします。が、子供の世界では@→A→Bまでのやりとりは当たり前のことなのです。問題はB→Cですが、そもそもCを要求すること自体が理不尽なことなのです。つまり、この手の要求は〈子供〉の世界ではよく起こることとして無視するのが常識的であるのに、言葉を額面通り受け取り、Dのようにそのまま実行してしまったことが異例なのです。要求した側は、唖然として、立ちすくんだに違いありません。言われた言葉を何のためらいもなく実行するというのは、たとえ子供の世界とはいえ、ルール破りのことですから。 『坊っちゃん』を初めて読む中学生は、大人と子供の中間にいますから、Dを前にして、悲鳴を上げるべきか、笑っていいのかわからず、どっちつかずの状態に置かれるようです。Eを聞いてひとまず安堵しますが、最初に覚えた驚きは違和感として心の底に残っています。従ってFについても、坊っちゃんは、大人のように常識的立場に立って後悔しているに違いないと読むか、子どもの側に立って平然と答えていると考えるかは、中学生それぞれ精神年齢によって判断が分かれるところです。つまり、坊っちゃんの言動は、喩えを喩えとして受け取らず、言葉を額面通りの意味で受け取ってしまう〈子供っぽさ〉が露呈していることになります。『坊っちゃん』という作品の滑稽さの底には、実はこういう言葉の意味の周辺に張り付いているが、言語化されていない情緒を「常識的」にくみ取ることができない坊っちゃんの〈発達障害〉があることは注意しておかねばなりません。 更に中学生の精神状態をかいま見ることができる次のような感想があります。 ・まず赤シャツは数々の悪事をはたらいている大変な奸物だと坊っちゃんは言うが、本当にそうだろうか。赤シャツが仕掛け人だという証拠のある事件は全然ない。(もっとも証拠を残さないから奸物と言えるかものかもしれないが……)実は「赤シャツ」とは江戸っ子特有の早合点ばかりしている坊っちゃんの生んだ虚像ではないだろうか。(中一 W・K君) 中学生が「赤シャツ」に興味を示すのは、「赤シャツ」こそ「坊っちゃん」を相対化する存在であり、一人称的語りの構造を根底から覆すことのできる視点を提供してくれるからでもあります。坊っちゃんの語りにつきあわされる中学生たちは、どこかで坊っちゃんに危うさを感じているのも確かです。この人の言っていることはどこまで正しいのであろうか、またどこまで本気で語っているのだろうかという相対的な視点を持ち始めることは、それだけ彼らが大人になりかかっている証拠でもあるのです。 三 十五歳の心を騒がせる『夢十夜』
『夢十夜』は高校用の教科書教材として割合多く採用されていますが、本校では先取りして中学三年で学習するのが通例です。また「十夜」と言っても、どの教科書でも共通して採られているのは「第一夜」「第六夜」だけで、つけ加えられるにしてもせいぜい「第四夜」「第七夜」くらいで、全体を通して読むことはまずありません。従って『夢十夜』の教材化と言っても「第一夜」「第四夜」のような〈幻想系〉と「第六夜」「第七夜」のような「反近代」の〈思想系〉の二つに分けて授業は進められます。 前者〈幻想系〉の代表として採録されている「第一夜」ですが、これは、正直言って授業者泣かせの教材です。教案を作る段階で、何をどう作っていけば授業が立体的に構築されるのか、全く足場が見つからないのです。「もう死にます」を繰り返す女に対して、「死にさうには見えない」「確かに是は死ぬな」「どうしても死ぬのかな」と外側から刻々と変化する女の状態を冷静に眺めている男、しかしこの男、「百年」待つように女から哀願されたという点では、「女」から選ばれた相手であることはまちがいないと思うのですが、何とも当事者意識が稀薄なのです。「女」の化身と思われる百合に接吻をするところで大団円を迎えるのですが、男のつぶやきは「百年はもう来てゐたんだな」であって、失った恋人への哀悼の思いや再生の喜びなどはみじんも表現されていません。 これについて中学三年生は、初読の感想の中で次のようなことを書きます。 ・男が腕組みをしているのが気になる。何か考え込んでいるように思える。それは女についてではないと思う。もっと違う何かについて、男はずっと意識がいっているように思う。(中三 Y・Aさん) 初読とはいえ、中学生たちはこの話を「死んでいく女」と「残された男」の〈悲恋〉というような単純なものとは考えていないのがわかります。しかし、ではその底に何が潜んでいるのかということになると、何時間、授業をしても何も見えては来ないのです。困った授業者は、「第一夜」の前には『虞美人草』『坑夫』、後には『それから』が置かれていると言うことを逃げ口上とするしかないのです。つまりここには漱石が作品化する以前の種子の数々、原石がちりばめられていると言って締めくくるのです。漱石自身が『作品』として表現する以前の状態が「夢」という形で提示されたものと考えればよいのではと言うことで、中学生は、次の段階に進んでいきます。 それに対して「反近代」をテーマとする〈思想系〉の代表が「第六夜」「第七夜」ですが、こちらも他の作品への序奏と位置づける点では〈幻想系〉と同様ですが、こちらは日本の近代化自体が内包している歪みというテーマの体現化されたものと考えます。その延長上に『現代日本の開化』『三四郎』『道草』などを想定し、引いては漱石の思想の根底に流れているものとの関連を指摘することになります。例えば「遂に明治の木には到底仁王は埋まつてゐないものだと悟つた。それで運慶が今日まで生きてゐる理由もほゞわかつた」という「第六夜」の終わり方については、「明治という時代を漱石の言う『開化』の矛盾と皮相を諷して、その寓意は明らかである」(佐藤泰正『文学そのうちなる神』)という読み方を提示します。漱石自身が生きていく上でどうしても抱え込まざるを得なかった、「涙をのんで上滑りに滑っていかなければならない」(現代日本の開化)近代人の苦痛、それはロンドンへの留学体験によって意識上で顕在化されてきたものであり、その留学体験をもとに描いた「第七夜」は「無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちていつた」と結ばれているのですから悲惨なものです。「開化」を謳歌する人々の中にあって、漱石一人が目覚めている苦悩、それは言い換えれば日本の近代化に対する批判ということになります。 四 『こころ』から学ぶ感情と行動の関係
高校用の国語の教科書には定番教材と言われて久しい『羅生門』(芥川龍之介)・『山月記』(中島敦)・『こころ』(夏目漱石)・『舞姫』(森鴎外)と繋がっていく近代文学の流れがありますが、中でも『こころ』は他を圧して教科書採用率が高く、ここ何十年にも渡って『こころ』を学習しない高校生は日本には存在しないと言ってもよい状態が続いています。これらの定番教材に共通しているのは、主人公が他者と関わることで自己を発見していく(または自己を喪失していく)お話であると言えるかと思います。そのためか、高校生はこれらの作品の読解として、主人公と相手との関係性のみに注目してしまいがちなのですが、そんな中で社会学者、作田啓一の指摘は、高校の現場にいる者に衝撃を与えました。 「先生」のお嬢さんに対する独占の情熱は、Kがライヴァルとしてあらわれたから燃え上がったのです。「先生」は内的媒介者であるKのお嬢さんに対する欲望を模倣したのです。この内的媒介者がいなくなれば、「先生」の情熱が鎮静するのは当然の成り行きでした。(『個人主義の運命』) 先生がKを下宿に招きさえしなければ悲劇は起こらず、先生と奥さんは幸せな結婚生活を送っていたはずだというふうに『こころ』を読んでいた高校生に、作田氏は逆の解釈をしてみせたのです。「Kがいなければ悲劇どころか、先生の恋すら始まりはしなかったのだと……。」恋は純白の無垢なる心から生まれてくる欲動ではなく、他者への模倣というねじ曲げられた行為から生まれる感情だという指摘は、高校生にコペルニクス的転回とも言うべき刺激的な読み方を提示しました。 言いかえれば、感情によって行為が促されるのではなく、行為することによって後から感情が生まれてくるという指摘は、『こころ』以外の他の定番教材とも通底しているのです。飢餓状態に追いつめられた若者が、たじろぐことなく残酷な行為をする老婆に出会うことで〈強盗〉に変貌していく『羅生門』、外見は虎になってしまった男が内面まで次第に虎になりつつある、その焦燥の中で、かつての旧友に過去を語ることで自己を分析していく『山月記』、恋人を見捨てて故国へ逃げかえる留学生が明日は故国に入るというその地点で、己の弱い心と向き合うことになる『舞姫』――このように大胆に括ってしまうと、四つの作品がなぜ高校の現場で支持されているかがわかってきます。、事を起こしてしまった後で、その罪の重さに苦しむというテーマは、これから若者たちの人生で起こるであろう未来を先取りして、彼らにシュミレーションしてみせていることになるのです。 かって『舞姫』を教室で取り上げるとき、必ず使われたキーワード「近代的自我」は、今や死語として見向きもされませんが、その言葉が指示しているのは、現代では行為の後から後悔と共に心の中から湧いてくる感情であり、挫折、悔しさという形で現代の若者の共感を得るのです。漱石の作品は、その間の事情をくり返し巻き返し、「三角関係」をめぐる互いの感情のズレとして描いています。『三四郎』では三四郎を翻弄してきた罪に戦きながらも行為だけが先走ってしまった美禰子、『それから』では友情という倫理に惑わされながら最後は友だちの妻を奪うという不義で決着を付けてしまう代助というように、その後の『漱石』作品はどこを切っても必ずこの図式で解釈できるのです。十代後半の若者は、これから自分の人生で体験するであろう現実を前もって作品を通して見せられることで心の準備をするのです。小説を読むという体験は、将来体験することの先取りと言われますが、『漱石』体験はまさに文字通り未来の先取りなのです。 五 最後に
若者にとっての「漱石体験」を、最初は「言葉」との出会い、次は社会との関わり、最後は自己の内なる感情への恐れとでも総括すると、ここには次第に精神的に成長をしていく若者の成熟過程と軌を一にしているのがわかります。ではどうして近代文学者の中で、漱石作品だけがこのように若者に影響を与えられたのかということですが、それに対する解答は次のように言えるかと思います。 彼が作家として活動を始めたのが明治も三十年代の後半に入ってからであること、つまり「近代文学」の成熟過程が即、漱石の執筆活動と重なると言うことです。それは「言文一致体」の模索の時期を終えて、その延長上で新しい「文体」の確立の時期に入っていたこと、留学という体験による西洋文学との出会いによって「小説」というジャンルの可能性を彼自身がよく知っていたことなどが考えられますが、何と言っても決定的な要因は、彼が旧制中学や旧制高等学校の教壇に立った経験があったことだと思います。それは彼が読者をイメージするとき、必ずその視野の中に「若者たち」が見えていたのであろうということです。教壇を降りて職業作家になってからは、「新聞連載」という形をとりますが、その時にも漱石山房には作家になる以前の「若者たち」が彼の周りに集まっていたことを考えれば更に納得がいく話です。漱石の時代から百年以上が過ぎた平成の時代にあっても、若者たちは尻ポケットに漱石の文庫本をさりげなくしのばせています。
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第187回
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平成25年7月21日(日)第187回(夏)例会 子規記念博物館会議室 13時30分〜16時 俳人漱石と明治時代の「蕪村調」について はじめに 3 子規派の「蕪村調」 |
平成24年の記録 |
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182回
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第182回春の例会は4月22日(日)午後1時30分より松山市道後公園の子規記念博物館において開催された。 この日は定期総会で平成23年度行事報告、決算報告に続いて平成24年度予算案・行事予定案、50周年記念行事案などが審議され承認された。また50周年行事実施に伴う寄付お願いが会長からあった。またこの日は千葉県柏市在住の会員田辺安以子氏がはるばる初参加された。 講演―「道草」原稿のルビから― 漱石と漢字のヨミ 顧問 愛媛大学教育学部教授 佐藤栄作氏 はじめに 漱石の原稿に書かれた漢字はどう読むべきか、漱石自身はどう読んでもらいたかったのか。このことに関わることがらとして、原稿に振られたルビ(振り仮名)に焦点を当てる。今回も、一七七回の例会で取り上げた「道草」(以下、作品名を「 」で、書名を『 』で示す)を中心に見ていく。 ルビとは ルビとは何か。日本語における漢字(漢字表記)は、複数の読みの可能性を持つものが大多数である。漢字が本来有していた中国語原音に基づく「音(オン)」も、日本語においては一つとは限らず、漢音、呉音、唐宋音など複数の「音」を持つ漢字も多い。その漢字に対応する和語が固定した「訓(クン)」も、中国語と日本語の対応が一対一ではないことから、ある漢字の「訓」が複数存在しても不思議はない。ルビの本来の機能とは、こうした漢字表記の読み=語形を一つに限定して示すことである。特別なケースとして、読みではなく、語義をルビによって示した例もあるが、ここでは言及しない。 ルビの機能が、仮名による漢字表記の読み=語形の表示であるとするなら、それは、当然、読み手への配慮であるはずである。書いている者は、その漢字表記をどう読むのかはわかっているのだから、ルビは、書き手の読み手への配慮である。より詳しくいうなら、書き手が読み手に読んでほしい読み=語形が、書き手の期待したとおりに読まれない可能性がある場合、その齟齬が生じることを回避するために、書き手が前もって読んでほしい読み=語形を明らかにしておくのがルビである。ところが、漱石に限ってのことではないが、漱石の作品の多くは、この当たり前のことがそのようになっていない状況があったと思われる。まず、この点を確認しておく必要がある。作品が発表される場によって事情が異なるのである。 ルビを振るのは誰か 「吾輩は猫である」、「坊っちやん」の場合、初出の雑誌『ホトヽギス』はパラルビである。パラルビというのは、必要な語だけにルビを振る方式のことで、先述したことからすれば、これが本来のルビのあり方だといえる。たとえば「坊っちやん」の場合、初出の本文には、ルビがかなり少ない。漱石が必要だと感じた箇所は多くなかったとわかる。しかし、そのために、たとえば相当数使用されている「居る」一つとっても、それが「ゐる」なのか「をる」なのか確定できない。「温泉」に「ゆ」とルビが振られた箇所があるが、「温泉」はすべて「ゆ」なのか、「ゆ」と振られた箇所のみ「ゆ」で、他は「おんせん」と読むのか。「報知」は「ほうち」か「しらせ」か、「資本」は「しほん」か「もとで」か。こういう例を挙げたら切りがない。どちらの読みでも、意味は通じる。何が書かれているかはわかるから、それで大きな問題にはならないが、書き手がルビが必要だと感じる語と、読み手がルビを振ってほしいと思う語とは一致しないだろうし、読み手が必要だと感じていない語でも、書き手が読んでほしい語形と異なっているケースが相当あると予想できる。その相違・齟齬が重大であるかどうかは、いろいろだろうが。 このような事情は、小説に限ることではない。こうしたことを未然に防ぐ手段として、すべての漢字にルビを振ってしまうというやり方がある。これを「総ルビ」と称する。公刊されたもの(文章)は、多くの人の目に触れる。一般市民・大衆に広く読んでもらおうとするなら、様々な国語力・漢字力の人々がいることを見越してすべてにルビを振っておく「総ルビ」という方式は有効なものだといえる。現在のような公的文書における漢字制限(読みの制限)が実行されていない明治には必要なあり方だともいえよう。と同時に、江戸後期の滑稽本など庶民の読み物は、ほぼ総ルビであったという前例もある。 漱石の場合、『ホトヽギス』はパラルビであったが、「草枕」を発表した『新小説』は総ルビだった。「草枕」の自筆原稿を見ると、漢字のほとんどにルビが振られているが、よく見ると漱石の手ではないことがわかる。出版した春陽堂の方で印刷所に出すときに振ったと考えられる。自筆原稿のごく一部しか見られていないのではっきりしたことは言えないが、漱石自身が原稿に振ったルビは、時期的にも、「坊っちやん」同様、そう大した数ではなかったと思われる。ここまでで言えることは、文学作品のルビは、そのすべてを書き手が振ったものではないということである。しかし、そうなると、先のルビの機能の定義も変更しなくてはならない。「書き手(作者)の読み手(読者)への配慮」では不十分であり、それに加え、「出版社等の読者への配慮」が加わる。 「坊っちやん」と「草枕」とは、「野分」と合わせて単行本『鶉籠』として出版される(春陽堂)が、その際ルビはどうなっているのかというと、『鶉籠』はパラルビである。『鶉籠』の「坊っちやん」のルビは、ほぼ初出と同じ(一部、異同あり)で、「草枕」は、初出の総ルビからルビがかなりカットされている。後者については、漱石が必要と考えたものだけになったともいえるが、その作業の詳細が記録されていないので、断定はできない。 「道草」の場合はどうか。実は、「道草」に限らず、当時、朝日新聞は、東京も大阪も総ルビを採用している。「虞美人草」に始まる朝日新聞に書いた漱石の作品もすべて総ルビによって世に出ているのである。ならば、事情は「草枕」と同じということになる―原稿に漱石が少しルビを振り、朝日新聞がルビを加えて総ルビにして刊行する―。ところが、残された自筆原稿を見ると、「草枕」と「道草」とでは少し様子が違っている。「道草」の前作の「心 先生の遺書」もそうなのだが、原稿に振られたルビの数が、「坊っちやん」「草枕」に比べ、「心」「道草」は各段に多い。自筆原稿をたどると、朝日新聞に書くようになってから、ルビが徐々に増えているようである(田島優二〇〇九『漱石と近代日本語』翰林書房参照)。「道草」の場合、ルビの振られた漢字の割合(「施ルビ率」と呼ぶことにする)は、四割程度あるのでは。つまり、同じ総ルビで世に出る作品ではあるが、「草枕」(初出)の場合は、ルビの大半が漱石の振ったものではなかったが、「道草」では、かなりの分量、漱石自身がルビを振っているのである。「道草」など後期の作品は、漱石自身のルビに朝日新聞のルビが加わって、総ルビのかたちで世に出たという言い方がぴったりくる。 誰のために振ったルビなのか 一つ確認しておくと、総ルビという方式は、すべての漢字にルビが振られるのではなく、漢数字(数量を表す漢字)には、原則としてルビがない。朝日新聞の総ルビはそのような方式である。改めて「道草」のルビについてまとめると、次のようになろう。これは、朝日新聞で発表された漱石の後期の小説についてはほぼ同じである。まず、漱石は「道草」の原稿を執筆する。その際、必要だと思われる漢字表記に自らルビを振る。その原稿は、朝日新聞に送られ、総ルビという方式に従って、ルビが加えられる。問題は、この漱石が自ら振ったルビが、誰のために振ったルビかという点である。 パラルビの『ホトヽギス』に書いた「坊っちやん」の場合、漱石が必要だと思って箇所にのみルビを振った。あるいは、必要箇所のすべてに振っていなかったかもしれないほど少数の施ルビ率である。それに対して、朝日新聞に書いた後期の作品は、施ルビ率が高くなっている。これは、漱石がルビが必要だと感じた箇所が格段に多かったということなのだろうか。必要だとの基準が、初期と後期とで、変わってしまったということだろうか。田島二〇〇九も指摘するように、この施ルビ率の変化(増加)は、総ルビという方式への対応、さらにいえば対策だといえるのではないか。総ルビというあり方は、誰が読んでも一通りにしか読まれない漢字表記にまでルビを振る。選択の余地はなく、読みの難易度の問題ではない。漢数字以外はすべて振られるのである。つまり、書き手がルビなど不要だと思う箇所にも機械的に振られるのである。ABどちらで読んでも意味は通るというような場合、ルビ無しなら、ルビがないため書き手と読み手とが異なる語形であったとしても、何事もなく過ぎてしまう。ところが、すべてにルビが振られるとなると、書き手としては、自分の思ってとおりに出版社等がルビを振ってくれていないなら、それは許せないだろう。読者が内心において違った読みをすることは、作者にまでは届かない。しかし、作品が初めて世に出る際に、作者本人の想定している読みとすでに異なる読みを指定するルビが振られてしまっているのだから。まだ作者の側であるはずの初出の段階で、自らの読みと違っているのでは話にならない。漱石は、そうしたことを、朝日入社以前から経験しており、朝日入社以降は、新聞で自らの作品を読む度に、繰り返し感じてきた(後掲するが、ルビの誤植はかなり多い)。そうしたことが、漱石の施ルビ率を高くしたと考えて間違いないだろう。つまり、漱石が原稿に書いたルビは、一部は、読み手(新聞を購入する一般市民)への配慮であるが、多くは、総ルビを採用し、原稿を総ルビにして世に出す朝日新聞に対して振ったもの、朝日新聞の文選工(活字を選ぶ者)、植字工(活字を組む者)へのルビなのである。もちろん、その担当者も「読み手」であることには違いないが。 漱石作品の誤植とルビ 誤植とは、活字を用いて印刷物を作製する際に生じる活字を組む際のミスを言う。文選と植字とは一連の流れの中での作業ではあるが、厳密には別の行為である。つまり、文選のミスと、植字のミスとがあるはずである。しかし、我々は合わせて誤植と呼んでいる。一般には、活字の選択ミスが原因であると考えられている。誤植は、本文にも、ルビにも生じる。総ルビの場合、ルビの数の多さとルビ用の文字の小ささから、かなり高い確率でミスが生じてしまうように思われる。実際には、文選工・植字工の熟練の度合で決まるはすであるが。誤植を含めミスという視点で、漱石のルビを再度見直すと、まず、「漱石自身がルビを振った漢字」と「漱石自身がルビを振っていない漢字」とがあり、前者は、いわゆる「一般読者のためのルビ」と「活字を組むためのルビ」とに分かれる。後者の中には、「漱石自身のルビの振り忘れ」も含まれるだろう。これがそのまま新聞の紙面の「道草」になるかというとそうではなく、そこに誤植が入り込む。漱石の振ったルビと異なるルビになってしまったものである。また、漱石が振らなかった漢字に朝日新聞が振ったルビの中に、漱石が想定している読みと異なるものが出現する。そこには、担当者が正しいと思って振ったものもあれば、うっかり振り間違えたものもあろう。総ルビでは原則漢数字にルビを振らないことから、漱石が漢数字に振ったルビが、朝日新聞では消えているケースもある。具体的にどのようなものがあるか、「道草」の前の作品である「心 先生の遺書」の例を挙げる。 @原稿のルビと朝日新聞のルビとが異なる場合(朝日新聞は東京版、□は本文漢字でルビなし。以下も同じ) 各語彙について、前部は原稿ルビ 後部は新聞ルビ 色 いろ しき 日数 ひかず びかぞ 数 かず かぞ 己惚れ おのぼれ うぬぼ 手数 □かず てかぞ 落した おと おち 御為 おし みし 何んな ど か 二人 ふたり ふたにん 話を はなし はな 穴 あな けつ 違ない ちがひ たがひ 妻 さい つま A原稿ルビ無し、新聞のルビが間違っている場合 本文語彙 前部原稿ルビ 後部新聞ルビ 二軒 □□ のき 出した □ で 先生 □□ さきせい 苦笑 □□ くるせう 菓子 □□ くわこ 臆劫 □□ おくこふ 御蔭 □□ ごかげ 明治 □□ あかぢ 出す □ で 届いた □ とゞけ 極めて □ きめ 同じ □ どう 養家 □□ やうや どうしてこのような誤りが生じるのか。それは、一に文選工・植字工の未熟さ・不注意によるといえるが、それにしても大きなミス・考えられない誤植が存在する。それはどうしてか。実は、明治四〇年ごろから、新聞では、漢字とルビとが一体となった「ルビ付き活字」が使用されるようになり、朝日新聞も使っていることがわかっている。つまり、明らかなルビの誤りの多くは、ルビ付き活字を選ぶ際に、当該箇所にふさわしくないルビの付いた活字の方を選んで組んでしまったことによる。「かず」とルビがあるべき「数」に「かぞ」とあるのは、動詞「数える」に用いる「かぞ」とルビの付いた活字を用いてしまったのである。誤読しようのない誤りは、ルビ付き活字の選択ミスから生じている。ルビ付き活字にももちろんプラス面がある。漱石は次のように書いている。「朝日新聞には仮名つきの活字あり音と訓と間違て振つてなければ悉く正しきものと御思ひ凡て切抜原稿の通に願候」(明治四五年七月二六日、岡田耕三宛書簡、『彼岸過迄』の単行本のための校正に際して)実際には、複数の音・訓が存在する場合も多いことから、ここでの書きぶりは楽観的すぎるが、仮名遣いの煩わしさから解放される点については、他の書簡でも触れている。漱石は、仮名遣いは語形であると考えていなかったことがわかる。大正三年四月二九日の志賀直哉宛書簡には、次のようにある。 「(略)漢字のかなは訓読音読どちらにしていゝか他のものに分らない事が多いからつけて下さい夫でないと却つてあなたの神経にさわる事が出来ます尤も社にはルビ付の活字があるからワウオフだとか普通の人に区別の出来にくいものはいゝ加減につけて置くと活版が天然に直してくれます」 これらから、漱石自らが振ったルビと新聞のルビとが違っていても、それが仮名遣いに関わるものなら、誤植とはとらえなかったとわかる。むしろ正してくれたと喜んだに違いない。しかし、語形の違い、語の違いについては、当然のことながら、そうはいかない。 なぜ、「道草」を対象とするといいながら、具体例として、前作「心」の誤植を挙げたのかというと、漱石が「道草」を書く際に、どのようなミスを経験してきたかについて、不十分ながら追体験しておきたかったからである。先に掲げたようなルビの誤りを犯されつつ、それでも、朝日新聞に書く限りは、総ルビという方式に従わざるを得ない。繰り返すが、漱石は、朝日新聞に書き始めたころから、そうしたミスを繰り返されながら、執筆してきたのである。そういう経験が、漱石の施ルビ率を向上させてきたのである。 しかし、だからといって、原稿執筆の際に、すべての漢字にルビを振るということができるだろうか。漱石は、それはしていない。すべての漢字に一々ルビを振りながら書くことは、書くリズムを崩してしまうからではあるまいか。誤読は回避したい。加えて、ルビ付き活字の選択ミスも減らしたい。そのためには、注意喚起のためにも、やはりルビを振っておいた方がベターだろう。しかし、振るにも限界がある。また、すべてに振ったとしても、誤植は皆無にはならないだろう。そうした積み重ねというか、あるいはバランスというべきか、何年も朝日新聞に執筆していく中で四割程度の施ルビ率にたどり着いたのだろう。 「道草」のルビの実際 「道草』の自筆原稿(書き潰し原稿も含む)のルビの実際を確認してみたい。以下は、「道草」冒頭部(第一回)のルビの実態(すべてではなく抄出)である。(改行部分を括弧で示した。※は濁点、反濁点が確認しづらいもの) 本文語彙 前部は原稿ルビ 後部は新聞ルビ 世帯 しよたい しよたい 何年目 なんねん」□ なんねんめ 故郷 こ□ こきやう 淋し味 □ み さび み 身体 からだ からだ 一日 いちにち □にち 有つた も も 裏門 うらもの うらもん 先方 □ぽう せんはう※ 真正面 ませうめん ましやうめん 一度も いちど □ど 山高帽 やまたか□ やまたかばう 服装 なり なり 洋傘 かふもり かふもり 無事 ぶじ ぶじ 何人 □ぴと なんひと※ 読んでも よ よ 媒介 なかだち なかだち 書棚 □だな しよだな 仕事 □ごと しこと※ 曠 あらの あらの 仕方 しかた しかた 手前 てまへ てまへ 年中 ねんぢう ねんぢう 見出した みいだ みいだ 無花果 □□□ いちじく 矢つ張り □ ぱ やつぱ(本文「つ」無) 十か十一 とう □□ とう □□ 掛物 □もの かけもの 姉弟 きやうだい きやうだい 今夜中 □□ぢう こんやぢう 釜 かま かま 御屋敷 □□」しき やしき(「お」仮名) 座敷 □」しき ざしき 石燈籠 □□ろう いしだうろう 薬王寺 や 「世帯」を「しょたい」と読んでもらうためには、ルビが必要だろう。「服装(なり)」(「坊っちやん」でもルビあり)、「洋傘(かふもり)」「媒介(なかだち)」などもその類だろう。しかし、他に読みようのないものにも漱石自身がルビを振っているケースがある。詳細については別稿に譲るが、書き潰し原稿との比較によって、同じ箇所のルビが、振ったり振らなかったりして揺れている場合もある。そうしたルビは、気紛れというか、その時の気分で振ったものだろう。注目されるのは、一語全体ではなく一部分にだけルビを振っている「部分ルビ」の存在である。。朝日新聞の方は、当然、部分ルビは漢数字を含む語に限られる(漢数字には、ルビ付き活字がなかった)。漱石の部分ルビはどうして生じたのだろう。 例えば、「□ぽう」「□ぴと」「□だな」「□ごと」などは、いわゆる連濁によって生じた濁音、半濁音についての注意喚起であろう。濁点、半濁点のないルビ付き活字が、多く準備されているはずだから。 このように、漱石には、活字を取り間違えられないようにという配慮、すなわち総ルビ対策、ルビ付き活字対策が見て取れるが、そうした理屈ですべてのルビの状況を説明し尽くすことは難しい。なぜ「淋し」「無花果」にはルビがないのか、「読んでも」には「よ」とあるのに。 まとめにかえて |
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第183回
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平成24年7月29日(日)第183回例会 子規記念博物館会議室 13時30分〜16時 講演 漱石が愛した落語家 会員 光石連太郎 悦子夫妻 今日は、漱石を含めた明治の文豪・作家が落語から影響を受けていた、という観点から、はずすことのできない落語家、三遊亭円朝という人を中心に、当時の最新の技術である速記などを含めて、その後漱石が言及した二人の落語家、初代三遊亭円遊と三代目柳家小さんを取り上げます。 落語の世界に幕末あらわれたスーパースターが、三遊亭円朝。1839年(天保9年)−1900年(明治33年)。60年の人生の内、30年を江戸、30年を明治に生きた、まさに時代をまたいで活躍した芸人でした。 「所謂言語の写真法をもって記したるがゆえ この冊子を読む者はまた寄席において圓朝氏が人情話を親聴するが如き快楽あるべきを信ず もって我が速記法の効用の著大なるを知りたもうべし」
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184回
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本会結成50周年記念講演会 松山市道後 にぎたつ会館 午後2時〜3時 五十周年、おめでとうございます。記念の会で話すには役者不足で申し訳ないのですが、当地で二十八歳の時に教職に就いた漱石の出身大学のはるか後輩で、二十七歳の時に当地で教員生活をスタートさせた者として、また、「坊っちやん」の山嵐(会津っぽ)と同じ福島県(原発事故のフクシマ!)出身の者として、ささやかなゆかり相応のささやかな話をさせていただきます。 三 それからの漱石――結婚との格闘 ――ここまでにさせていただきます。時間の制約があったとは言え、先を急ぐ乱暴な話になってしまいましたことをお詫び申し上げます。ご清聴ありがとうございました。 |
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185回
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第185回冬例会 平成24年12月9日 市立坂の上の雲ミュージアム会議室 この懸念が的中したかのように、現代ではこの「脱境界化」が言語体系にも顕著に現れている。その一例として、『若者言葉』も然ることながら最近の「子供」の「大人」に対する「言葉づかい」には丁寧さのかけらもない。子供は大人にため口をきき、大人は子供に不自然な「ベビー・トーク(簡略化言語の一種)」を用いる。このように「日本語が乱れている」と巷で騒がれて久しく時が経つ。いや、言葉の乱れは今に始まったことではないと、古くは清少納言の『枕草子』にも当時の言葉の乱れに関する記述があるなどとTVバラエティ番組で取り上げられ、「日本語の乱れ」が低俗な雑学ネタとして持て囃されている。しかし、現代における言葉の世界は「乱れ」の状態で留まっているとは思えないのである。辞書・辞典の類には、「乱れ」という語の第一定義は「整っていたものがバラバラになる」とある。とすれば、現状を「乱れ」と言表するのは適切ではないような気がするのである。ただ単に「バラバラ」になっているだけならジグゾーパズルのように各ピースを合わせ直せば元に戻る。だが、ここ十数年の間に、言葉の短縮化や単純化が助長され、「言葉」よりも「絵・イラスト化」が先行されるなど変化変容を遂げ異質な言語体となってしまった現状は「時すでに遅し」ではないのか。そして、我々大人はこの現状をただ傍観し続けていてもいいのだろうか。 日本語における「脱境界化」の典型的な事例をもう一つ挙げるとすれば、『位相語』や『待遇表現』があらゆる対人関係にとって「不都合だ」とばかりに「バリア」を消去したことである。その結果『マニュアル敬語』というものが生まれた。これは接客場面における言語表現をマニュアル化し、各業種の人間が同じ「セリフ」を喋るという「ロボット化」現象である。このように対話の発信者と受信者が常に同じ「コードを共有」することを前提とする奇妙な動向が起こって久しいのである。言語学者チャールズ・フィルモアの「フレーム意味論」によれば、このような言語表現のマニュアル化は、他者である全ての聞き手に誤解が生じないよう、語の意味作用を限定し、一義的な意味、特定概念のみに「焦点化(前景化)」し認識させ、話者と聞き手としての他者とが同じ「フレーム」を共有するように構築されたものだと云える。そもそも対人関係には多様性がある。その多層多面的に存在する「境界線」を全て消去し、店員と顧客という二者間にのみ画一化していけば、人間はプリインストールされた言語を発する「ロボット」となる。これは各業界の「トップ」と称される支配者にはかなり「好都合」な状況ではないのか。かつて、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、『人間は言葉をもつ生物である』そして『有節言語は人間だけがもつもの』と定義した。言語こそが人間を人間たらしめる指標であるならば、我々大人は人間の本質を無くしつつあるのだろうか。 日本近代文学の文豪と称される作家が小説を執筆する際には恐らくその当時の「読者」を想定していたはずである。夏目漱石も芥川龍之介も、そして三島由紀夫も大江健三郎も皆、その「読者」、特に「エリート読者・選ばれた精読者」の言語的知性に挑戦するかのように、高次レベルの比喩や語彙を多彩に駆使し語っていく。三島由紀夫は生前「自分の小説は観念的文学であるが故に映像化は困難である」と言明したことは周知の事実である。そもそも「文学」とは「日常言語」を異化する技法で産出されていくもの。それ故、純文学作品の表現描写に難解なものが多いのは当然である。一方巷では文学作品は「堅苦しくて難しい」と文句を並べる者も多いが、そのせいなのか純文学離れを止めるためなのか、出版界では奇妙な「トレンド」が生まれ著しく進行している。それが「マンガ化」である。高度な知的レベルに達した「読者」を意図的に想定し産出された作品をわざわざ「消費者読者・大衆的読者」向けに「マンガ化」してしまう。文学「テクスト」を「マンガ化」するということは「文学言葉」のもつ語感や文意、多義性を完全に消去し、マンガ作家や編集者の解釈のみが一義化され表出されること。「この部分のテクスト解釈はこんな感じの絵・イラスト、即ちマンガになるよ」とばかりに有無を言わさず読み手に一瞬にして受容させる。そもそも「文学言葉」が如何なる意味概念を想起するかは読み手の恣意的解釈に任されているはずである。つまりはその思考過程を邪魔しているのである。その恣意的「思考」を停止させるような「マンガ化」は先述の文豪達にとっては想定外の動向であろう。 |
(漱石研究会)平成23年の記録
1 | 第178回春例会 | 平成23年4月24日(日) 松山市道後公園内 市立子規記念博物館会議室に於いて第178回春例会が開催された。総会に引き続き以下の講演があった。 「漱石の『僕の昔』と『二百十日』の碌さんのモデル」 会員 尾崎正亮氏(広島県廿日市市 ) 私の母方の祖父鈴木禄三郎は明治十年(一八七七年)頃、新宿牛込界隈において漱石の遊び仲間として少年時代を過ごし、漱石の談話「僕の昔」(『趣味』二巻二号、明治四十年二月一日)に登場している。このたび平成版漱石新全集の注解に、「鈴木の家の息子」が新たに加えられたので、注解として掲載されるに至った経緯を述べてみたい。 岩波書店創業八十年記念出版の漱石新全集は、平成五年(一九九三年)十二月から平成十一年(一九九九年)三月までの足掛け七年をかけて出版され、全二十八巻・別巻一がすべて出揃った。岩波書店は、漱石没後ただちに本格的な漱石全集として刊行した大正版を皮切りに、以来数次にわたってその改訂と補完を続けてきた。このたびの平成版漱石新全集は、「できるだけ原稿に忠実に!」をモットーとして、岩波書店漱石全集編集部の秋山豊、中村寛夫氏が監修したものであるが、各巻の注解は漱石研究家三十氏に委ねられている。漱石生誕百年・没後五十年(昭和四十二年、一九六七年)を記念した昭和四十年版漱石全集は、古川久氏の監修のもとで注解が付されたが、このたびの平成版漱石新全集により実に三十年ぶりに本文と注解が一新されたことになる。 昭和四十年版漱石全集第十六巻に掲載されている談話「僕の昔」の注解は、私の知る事実と異なる内容となっているため、将来、編集されるであろう生誕百五十年・没後百年(平成二十九年、二〇一七年)を記念した漱石全集には、事実を反映した内容の注解となることを願っていたところ、平成版漱石新全集によりチャンスが早く到来したわけである。私は平成七年、岩波書店へ祖父の小伝と私の小文「漱石の相撲相手」を、新宿牛込界隈の江戸切り絵図にある住居位置や幕府瓦解後の家族書などの資料とともに提出したところ、平成版漱石新全集第二十五巻の注解へ反映された。談話「僕の昔」は漱石の伝記資料として度々引用されており、江戸の名残を引きずった夏目家の人々の様子や、小説「坊ちやん」に登場する婆やの清のことなどが語られており興味深い内容となっている。 漱石は腕白時代のことを振り返って、次のように述べている。「小供の時分には腕白者で喧嘩がすきでよくアバレ者と叱かられた、あの穴八幡の坂をのぼってずっと行くと源兵衛村の方へ通ふ分岐道(わかれみち)があるだろうあすこをもっと行くと諏訪の森の近くに越後様といふ殿様のお邸があった、あのお邸の中に桑木厳翼さんの阿母(おっか)さんのお里があって鈴木とかいった、その鈴木の家の息子が折々僕の家へあそびに来たことがあった。」(棒線は筆者) 「鈴木の家の息子」には、次の注解が付されている。「電気技術者・実業家鈴木禄三郎のこと。文久二(一八六二)―昭和二十一(一九四六)年。『桑木厳翼さんの阿母さん』は禄三郎の姉『はる』で、禄三郎は十五、六歳のとき、年下の漱石と相撲をとって、漱石の額に歯をぶつけて前歯を折り、漱石を傷つけたことがあったという(山本勇編『電気と社会』一九六九年)。なお、鈴木正夫(禄三郎の子)と尾崎正亮(禄三郎の孫)の調査によれば、当時の鈴木家の住居は『越後様』でなく元清水家邸内(現、甘泉園)にあったという。現在新宿区西早稲田にある甘泉園は面影橋に近く、この談話における『越後様』を『甘泉園』に読みかえるとその位置関係が『源兵衛村』その他とは符合するが、『諏訪の森』との関係はよく説明できない。」 平成版漱石新全集においては、「鈴木の家の息子」に注解が新たに加えられたほか、幕府瓦解後の住居である「越後様といふ殿様のお邸」の注解が「甘泉園」へ置き換えられた。昭和四十年版漱石全集における「越後様」の注解は、当時の月報に掲載された「越後様を調べる」と題した江戸川柳研究家千葉治氏による論文の結論である「現在の戸塚警察署辺り」となっているが、これは誤りである。これらの事情は、漱石新全集第二十五巻の注解を担当された大野淳一氏の論文「『越後様』と『諏訪の森』―『漱石全集』の注釈から―」(武蔵大学総合研究所紀要No・6一九九六年(平成八年)十二月)に詳細に説明されており、私が岩波書店へ新情報を提出した経緯も述べられている。長い間注解者を悩ませた「越後様」の問題は、「鈴木の家の息子」の線からみていくことにより解決したが、「諏訪の森」の件は問題が決着したとは扱われていない。この点について私自身は、寺田寅彦宛の書簡に、「子供を連れて高田の馬場の諏訪の森を散歩した」とあり、漱石が「高田の馬場」、「甘泉園」、「諏訪の森」を一体の地域として捉えていると推察できるため、「諏訪の森」の件も問題は決着したと考えている。 平成八年(一九九六年)、熊本県は漱石来熊百年を記念して一連の行事を企画した。私が熊本を訪問した際の歓談の場において、漱石の義理の孫に当たる作家半藤一利氏(漱石の長女筆子の娘婿)に、「熊本阿蘇を舞台とした小説『二百十日』の『碌(ろく)さん』は『僕の昔』に登場する『鈴木禄(ろく)三郎』とも読めますよ!」と申し上げたところ、「これは面白い。同じ作品を読むとすれば、そのような読み方をしないと損だよ!」と述べられた。半藤氏から熊本日日新聞社の記者に紹介され、記者の求めに応じて作成した拙文は、「読者のひろば」(一九九六・十・二十、熊本日日新聞)に掲載された。「―漱石探訪の旅 熊本で考える―夏目漱石来熊百年を記念した行事のひとつである『草枕』全国俳句大会に参加した。私は小説『二百十日』に愛着をもっているので、『漱石博』開催中の熊本へ行くことが目的だった。―中略―私が『二百十日』に愛着をもつ理由は、登場人物『碌(ろく)さん』が、母方の祖父鈴木禄三郎の分身ではなかろうかと思われるからである。―中略―江戸切り絵図の雰囲気が残っている明治十年ごろ、漱石・金ちゃんと私の祖父禄三郎・禄ちゃんが遊び回っているうちに築かれた友情が、『二百十日』における『圭さん』と『碌さん』の間にも反映されているかもしれないと、一人ひそかに考えている次第である。」(初出 広島日独協会会報四十七 平成十二年三月) 「越後様」の注解は三通り付されている。「喜久井町辺り」(第二十巻)、「現在の戸塚警察署辺り」および「甘泉園」(第二十五巻)である。 漱石誕生の地である「馬場下」とは、もともと「高田の馬場」の下にあるという意味である(「硝子戸の中」)。「甘泉園」に隣接している「高田の馬場」の「高田」とは、越後高田城主であった家康六男松平忠輝生母お茶阿の方が遊園の地として過したことが地名の起こりであるとも伝えられている。 「甘泉園」が「清水様」のお邸であることは間違いないとしても、漱石が「越後様といふ殿様のお邸」とした理由も何となく窺えそうだ。 「野分」の最後の場面で、「越後の高田」(全集では従来の全集に従っている)が出ている。実は漱石の原稿は「越後の高岡」であったが、初出の「ホトトギス」では「越中の高岡」とされた。単行本では「越後の高岡」に戻された。単行本の読者から指摘された漱石は、「越後の長岡をわざと高岡と致し候」と記している(明治四十年 式場益平宛書簡)。何ともいじわるな表現である。 「僕の昔」の「越後様といふ殿様のお邸」の「越後様」を「清水様」すなわち「甘泉園」と読み替えることは正しいが、「越後様」を軽々に「清水様」とおき替えることは慎しみたい。漱石の遺した言葉は重く、注解者の悩みは深い。「越後様を調べ直す」課題は残されている。(おざき せいりょう)※当日の資料として付表1〜3が添付されていたが、当サイトにおいては便宜上省略したことをお断りする。 |
第179回夏例会 | 平成23年7月24日(日) 第179回夏例会 午後1時30分〜午後3時 於市立坂の上の雲ミュージアム会議室 漱石における家族論の課題 会員 岡崎和夫 氏(東京都) 〈要旨〉本論は、文学作品における家族論的な課題をあらたな観点から認定することを目的とし、作品資料の語彙的なdataを分析する。特定の作家についての使用語彙の計量的な調査は、いくつかの客観的な論の可能性を推測させる。その伝記的な事実にしたがうとき、一般に、漱石すなわち夏目金之助は、二親(両親)、とくに母に縁の薄かった作家として説かれ、いっぽう、?外すなわち森林太郎の実生活における父母との関りは極めて濃厚といい得ると思われる。しかしながら、漱石の、家族に関する語の出現の動向は、たとえば「父」、「母」についてそれぞれ900例ほどであり、いっぽうの?外の、「父」、「母」は、それぞれ200例にも満たないありようであり、漱石と比べた場合格段に少量であることが知られる。この稿は、そうした事実をあらたに指摘しながら、家族論的な論点を具体化し、それを、作家、また作品の理解に活用するみちすじを探る目的に立ち、紙幅にあわせて、とくに、『虞美人草』の実母・実娘のありように焦点をあわせて論じた。(青山学院女子短期大学教授おかざき かずお)※本稿はhttp://www.agulin.aoyama.ac.jp/metadb/up/tadmin/N18U0117_135.pdfより転載した。 |
第180回秋例会 | 平成23年10月1日(日) 第180回秋例会 午後1時30分〜午後3時 於愛媛県立松山東高等学校視聴覚室 漱石の「黄色い顔」 会員 木村 澄子 氏(藤沢市) 一 緒言 文豪 夏目漱石の言行は、様々な所で引用され、よく人口に膾炙しています。有名人の言葉は広く伝わっていますが、孫引き・曾孫引きなどで変化してしまうこともよくあります。漱石が、黄色い顔にコンプレックスを持っていた、というのも、そのひとつではないか、という疑問を持ちました。 漱石の留学期間は明治三三(一九〇〇)年十月〜三五年十二月でした。漱石が倫敦到着後、約半年過ぎた、復活祭の前の聖金曜日に盛装して外出する人々を見ての感想を、荒正人はこのようにまとめたわけですが、模倣を何より嫌った漱石が劣等感? と感じたので、漱石自身の文章にあたってみることにしたのです。 日記や書簡の例として、松山市立子規博物館の第五二回特別企画展「坊っちゃん百年―漱石のあしあと―」の自筆の「滞英日記」と絵はがきを御覧下さい。絵はがきは皆様御存知の、正岡子規あて、初体験のクリスマス、明治三三年十二月二六日。「柊を幸多かれと飾りけり」、日本に着くのは新年になってからなので「屠蘇無くて酔はざる春やおぼつかな」の句を書き添えています。子規の幸を祈り、自分の不足を述べるこの姿勢を心にとめておいてください。 |
第181回冬例会 |
平成23年12月4日第181回例会 松山市立坂の上の雲ミュージアム会議室 鉄鉢の旅を詠む ─子規・漱石─ 会長 頼 本 冨 夫 一はじめに 子規漢詩 行脚僧 (明治二十九年)について 行蹤何杳杳 /世上任紛紛 /独宿孤峰月 /夜深天樂聞 (講談社版子規全集第八巻 漢詩 新体詩)609 右の漢詩について(飯田利行(いいだ りぎょう)著「子規漢詩と漱石─海棠花」柏美術出版一九九三年刊)には書き下し文で「山を看、水を尋ねて去(ゆ)けば、山水に精気あり、鉄鉢に疎霰飛び衲衣(たふい)に白雲生ず、行蹤何ぞ杳杳たる、世上任 (ほしいまま)に紛々たり、独り孤峰の月に宿せば、夜深くして天樂聞こゆ」(同書)とあり、訳として「行雲流水のように一所不在の行脚をつづけてゆくと、山水のうちに人間のあるべきようが感得できて心が香しくなってくる。旅ゆけば鉄製の応量器(はちのこ)の中に、白米ならぬ冷たい霰が舞い込み、つづれ合わせの破衣に白雲が去来する。行脚僧は、足跡をくらまし止めないのが仁義である。それに比べて俗世の人たちは、あれやこれやと紛らわしい行跡をとどめようとしてあくせくしている。行脚僧は、黙々として孤峰の頂上で月が出れば月を眺めあかす。また夜が更けてゆくにつれ、天来の音楽が聞こえてくるような心境が味わえる」とある。そして、「この詩は、行脚に明けた愚庵の人生を詠ったものであるが、旅好きであった子規の悟境も二重写しとなっていることは見逃すことができない。なおこの詩の題名には、固有名詞愚庵を冠せていないが、父母妹の恩愛にほだされ、その行方さがしに一生を賭けた愚庵の一途さが詠まれている。今ブームを呼んでいる尾崎放哉や種田山頭火に愚庵の行脚物語を聞かせてあげたい。旅をこよなく愛した子規にとって愚庵の姿は羨望の的でもあった。」と解説。 二子規の行脚へのあこがれ 五 子規短歌の万葉調への転換 平成二十三年十二月四日第一八一回例会 松山市立坂の上の雲ミュージアム このテーマは、正岡子規が明治二十九年に発表した 行脚僧 という漢詩に頼本会長が目を留めて、「これはまさしく山頭火の世界ではないか」ということから始まったというわけです。この漢詩は「愚庵」という人のことをうたったものだそうですが、それについては後ほど会長から詳しく話があると思います。「行脚」とは国語辞典によると「僧が諸国を巡り歩いて修行すること。転じて方々を(徒歩で)旅行すること」とあります。諸国を巡り歩いて修行した僧といえばまず弘法大師でしょう。そのほかに西行、一遍上人、良寛なども有名ですが、松尾芭蕉や小林一茶等と共に「放浪の俳人」とか「漂泊の俳人」とかいわれることの多い「種田山頭火」がいます。 分け入っても分け入っても青い山を詠みました。 昭和二年から三年にかけて、四国遍路をしています。三年の正月に徳島にいたという自分の記録と、二月二十七日に足摺岬の三十八番札所金剛福寺をお参りしたという友人への手紙、七月二十二日に小豆島の尾崎放哉の墓を詣でたという記録以外に、その足どりは不明です。四国遍路に七カ月余というのはあまりにも時間がかかり過ぎていますから、当然どこかで滞在していたものと推測されますが、全くその痕跡が見いだせません。研究者の大きな課題の一つです。小豆島のあと、山陰地方を廻って熊本に帰っているようですが、その足跡も不詳です。 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 |
(漱石研究会)平成22年の記録
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174回春例会 |
子規博物館 平成二十二年四月二十五日(日) 第174例会 漱石を癒したまち松山 愛媛県立農業大学 会員 田鶴谷 茂雄 1 まえおき |
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175回夏例会 |
第175回 夏例会 於 愛媛大学校友会館 写生(文)、言文一致体と子規・漱石 言語(およびその要素である音韻、文法、語彙、文字・表記、スタイル等)は、一種の資源と見ることができます。それを得る(学習する、輸入する、開発する等)ためになにがしかのコストをかける必要がありますし、また手に入れた言語によってなにがしかの利益(経済的、知的・文化的、社会的、宗教的、安全保障的、等)を得ることができるでしょう(クルマス
一九九三、井上 二〇〇〇、水村 二〇〇八参照)。このような考え方を「言語資源論」と呼ぶこととし、この言語資源論の観点から、正岡子規や夏目漱石が目指した文学、特に写生文の果たした役割について考えてみたいと思います。 |
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176回秋例会 |
第176回秋例会 県立松山東高 視聴覚教室 「坊っちゃん」をつらぬく戦争 愛媛大学教育学部准教授 会員 若松伸哉 「坊っちゃん」が発表されたのは雑誌『ホトトギス』の一九〇六年四月の別冊付録。発表の前年には日露戦争が終わっている。日露戦争は国の浮沈をかけた戦いだったわけだが、この日露戦争の痕跡が小さいながらも「坊っちゃん」のなかにも見出せる。 たとえば第三章では「一時間あるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れちらかすんだろう」と書かれており、天麩羅を四杯食べたことについて生徒に囃し立てられた坊っちゃんはそれを「日露戦争」の報道になぞらえているのである。日露戦争報道の過熱はメディアの発達と再編成を促す大きな契機となったわけだが、そのような日露戦争についての報道を比喩とする描写は、当時の読者にとってまだ新しい日露戦争の記憶を当然ながら喚起させるだろう。「日露戦争」の語の持つ当時の喚起力の大きさはやはり注意されて良い。 また、うらなりの送別会の場面で、野だいこが「日清談判破裂して……」と歌っているが、これは日清戦争時に流行した歌であり、「坊っちゃん」には日露戦争だけでなく、日清・日露といった日本近代における二つの大きな対外戦争の記憶が刻印されているのである。 もちろん、日露戦争が及ぼした文芸への影響はなにも「坊っちゃん」に限ったことではない。例えば「坊っちゃん」の掲載誌である俳句雑誌『ホトトギス』においても、日露戦争交戦中には、戦争に関連した「雑信」や戦争を題材とした写生文が掲載されている。松山中学出身で日露戦争に出征した桜井忠温が、その戦争体験を小説にした「肉弾」(一九〇六)を書き、大ベストセラーになったことなどを象徴的な例として、「坊っちゃん」に限らず当時の文芸分野における戦争の影響は大きいのだが、ひとまず「坊っちゃん」における戦争の断片を先のように確認しておきたい。 さて、では主人公の坊っちゃんについて見ていこう。坊っちゃんは常に差異を産出する人物として描かれている。「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」ではじまる冒頭は有名だが、この後に続く少年時代のエピソードでは質屋の息子「勘太郎」との喧嘩が語られ、さらにその乱暴ゆえに母は「兄ばかり贔負」にし、父には「人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖の様に云」われ、兄とは「元来女の様な性分で、ずるいから、仲がよくなかった」とある。坊っちゃんは家族のなかでも浮いた存在として自らを語っているのだが、彼がそのような差異をもって語るのは家族だけではない。 唯一の理解者とも言うべき清と別れて四国に降り立つ第二章冒頭では、「船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている」のを見て、「野蛮な所だ」と言い、「磯に立っていた鼻たれ小僧」に対しては、「気の利かぬ田舎ものだ。猫の額程な町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか」と罵る。その後も田舎に対する差別的な表現は小説の随所に見られ、坊っちゃんはその差別的感情を隠そうともしない。 そして、そうした差別の感情は勤務地である中学校に行っても変わることはない。はじめて会う中学校の同僚に対しても、一人一人への文句を小説のなかに書き付け、それぞれに渾名を付けている。生徒についてはもっとひどく、初日から授業を「敵地」と呼び、「こんな田舎者に弱身を見せると癖になると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった」と、けんか腰である。結局、この後も生徒との関係は改善することもなく、宿直のときにはイナゴを蚊帳のなかに入れられる悪戯に端を発し、生徒と大騒動を起こし、祝勝会当日の夜には生徒の乱闘に巻き込まれることになる。 家族・同僚・生徒など通常親しくするべき人間に対しても差異を強調し、なじもうとしない坊っちゃんの心性がこれらから分かる。そしてそれは、表向きは頑固で正直だとする〈江戸っ子〉という坊っちゃん独自のアイデンティティへと一見回収されるようにできている。しかし、小説「坊っちゃん」は、こうした主人公の言動によって様々な対立の構造を露呈させていく。 坊っちゃんに〈東京と地方〉という差別の枠組があることは明らかだが、宿直のときに生徒と争う場面では次のように坊っちゃんは言っている。 江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけ様がなくって、仕方がないから泣き寐入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。只智慧のないところが惜しいだけだ。 ここでも「江戸っ子」の語を出している坊っちゃんだが、それ以上にこの引用部分では自分が武士階級で生徒が百姓だという〈武士と百姓〉の枠組が強調されている。坊っちゃんは明治時代以前から日本にある階層差を持ち出しているのである。 坊っちゃんに見られるこれらの対立の構造は、彼と山嵐との共闘の関係にも結びつくものである。赤シャツとの共闘に際して、お互いの出身地について「江戸っ子」と「会津」であることを確認する場面は、例えば早くに平岡敏夫が指摘したように戊辰戦争の敗北者を想像させる(*1)。戊辰戦争は尊皇派と佐幕派の争いであり、江戸から明治に変わるときにあらわれた主に武士階級による国内の大きな対立であり亀裂である。常に差異を産出する存在である坊っちゃんを主人公とした小説「坊っちゃん」は、主人公の言動に付随して様々な差異を明らかにしていく物語であり、さらに皆で祝うべき「祝勝会」の日においても、中学校と師範学校の生徒が乱闘するという差異であり亀裂をこの小説は記している。このように「坊っちゃん」の作品世界は現実の日本にたしかにある(あった)亀裂を明らかにしているのである。 先に「坊っちゃん」における日露戦争の痕跡を述べた。日清・日露の二つの対外戦争が、一つの共同体であり近代国家としての日本の誕生に大きく寄与していることはよく言われるが、そうした時代にあって、「坊っちゃん」は統一体としての日本に亀裂を走らせるように、国内における差異をあらわにしていく。 そして主人公・坊っちゃんが四国の中学を辞め、東京に戻った後に就職したのが「街鉄の技手」であることも興味深い。芳川泰久は、漱石が「坊っちゃん」を執筆する直前の一九〇六年三月十五日、日比谷公園で「電車値上反対を標榜せる東京市民大会」が開催され、街鉄の電車が焼打ちされる事件があり、それが当時の新聞で報道されていたことを指摘している(*2)。 歴史学者の成田龍一も日露前後の時期を国家に奉仕する「「国民」創出の時代」と捉えているが、統一共同体としての「帝国」を担う統合的な〈国民〉意識の誕生とともに、一方で〈国民〉の名のもとに、日本政府に対して社会構造の改革等を望む運動を引き起こす主体の誕生を見ている(*3)。その象徴的な事件が、日露戦争の講和に不満を持った民衆が起こした、一九〇五年九月五日の日比谷焼打事件であり、前述した「坊っちゃん」執筆直前に起こった街鉄電車の焼打事件は、日比谷焼打事件後に増加していく社会の構造改革を望む民衆騒擾事件の一つなのである。このような社会に対する民衆の運動は、言うまでもなく国内に亀裂を走らせるものであり、日露戦争による〈国民〉創出はこうした統合と亀裂という両義的な状況も招いていた。街鉄電車焼打事件はそこに位置付けることができるのである。 均質な共同体を突き崩していく坊っちゃんは、日本が一体となって戦っている日露戦争の時期にあっては、その国民統合の意識のなかでたしかに異質な存在であるはずだ。そうした性格を持つ坊っちゃんが就職したのが「街鉄」であり、当時の「街鉄」は国民意識にかかわる問題から見ても重要な場であったのは今述べたとおりである。「街鉄」をめぐる闘争は〈国民(市民)〉という民衆の連帯感・統合感を軸としたものでもあり、一方で国内における差異も同時に顕現させてしまうという両義的なものでもある。今度はその闘争の場所に坊っちゃんはいる。 *1 平岡敏夫「「坊つちやん」試論―小日向の養源寺」(『文学』一九七一・一→『 「坊つちやん」の世界』一九九二・一、塙書房)。 |
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177回冬例会 |
第177冬例会 平成22年12月5日(日)市立坂の上の雲ミュージアム会議室 漱石95回忌法要 正宗寺副住職 田中義雲師 講演 本会顧問 愛媛大学教育学部教授 佐藤栄作 書き潰し原稿から読む『道草』 一 漱石の書き潰し原稿(反故、反古) 三 書き潰し原稿と合わせて『道草』を読み直す まず、次に挙げるのが、初出である朝日新聞(これは東京版)です(略)。ゆまに書房の『漱石新聞小説復刻全集第九巻道草』(一九九九年)によりました。『道草』の二七回が世に出た最初の姿です。朝日新聞は、漱石から届いた原稿(最終原稿)を活字に組んだのですが、今触れたように、二七回一枚目の最終原稿が、最終原稿として確定するまでに、五枚の原稿用紙が書き潰し原稿となりました。五枚の書き潰し原稿A〜E(新宿区歴史博物館所蔵)と最終原稿F(二玄社『夏目漱石原稿「道草」』二〇〇二年による)とを活字にしたものを以下に挙げます。松澤和宏二〇〇三『生成論の探求』(名古屋大学出版)を参考にし、削除部分を[ ]、追加部分を〈 〉で示します。◆は不明な字。 四 書き潰し原稿から最終原稿へ |
(漱石研究会)平成21年の記録
1 | 第170回春例会 | 平成21年4月26日(日) 松山市道後公園内 市立子規記念博物館会議室に於いて第170回春例会が開催された。 総会に引き続き会員 ヒューマンアカデミー校講師 松浦淳子氏による「私とアメリカそして漱石」と題する講演があった。 平成21年4月26日(日)『第170回・春例会』松山市立子規博物館 回顧録『私とアメリカそして漱石』 私も当初はそうだったのです。その実体が掴めるまでは。「え?!アメリカの大学にJapanese literature(日本文学)という専門分野があるんだ!」「国文学とは何か違うの?」「日本での日本文学研究との相違点は?」「漱石専門の研究者っているの?」「文学作品や文献は日本語?論文は英語?」等々、現在では多少時代遅れとも感じられるような疑問ですが、90年代初頭はこのような疑問が生まれてきても不思議はないほど、アメリカにおける日本文学の研究は日本では一般にあまり周知されていないような時代だったのではないでしょうか。当時の学術界のトレンドは、所謂伝統的な文学研究である「作品論」や「作家論」ではなく、文学批評や文学理論においてはテクストそのものが何を意味しているのかを研究し、「文学」という概念が何を意味しているのかを思考する等、方法論として現代思想を応用すると共に、哲学、心理学、社会学、言語学などの観点から、科学的・理論的に研究し論説を語るというような多面性・多義性をもったものだったと記憶しています。ただし、「作品論」や「作家論」を全面的に否定していたわけではないのです。「何々の専門家」(例えば、漱石の専門家)と形容されるような本質究明的な文学研究を行なう学者というよりは、その学者の得意とする研究領野はあるが、非常に広範囲に渡る研究を行なう学者が多かったこと。換言すれば、「microscopic perspective」(微視的見地)ではなく、「macroscopic perspective」(巨視的見地)からの分析や「脱構築批評」が主流だったと記憶しています。90年代のアメリカ、私が関わっていた大学や学術界では、日本文学はまだまだマイナーな分野でした。ただ、この90年代は80年代から始まった日本語ブームと共に、日本文学等「Asian Studies」の研究が盛んになりつつあった時代でもありました。従って、私が経験した日本文学に対する、ある意味カルチャーショック的な体験談を語るには、読者の方々にも時間のベクトルを少しだけ過去に戻し、私の回想にお付き合い頂ければと思います。それでは私の苦労話を交えながら当時の大学院事情から物語ってみたいと思います。 南カリフォルニアにある総合大学「University of California, Irvine」通称「UCI」という大学で私が所属していた学部は「School of Humanities」下の「Department of East Asian Languages & Literature」通称「EALL」。その学科のjunior yearに編入した私は、母語が日本語だということもあったのか、いきなりgraduate courseのseminarに参加しながら学士号を取得するように言われ、その当時のEALL のChair に全ての受講するコースをカスタマイズしてもらい学業に励むことになりました。その学士号を取得した後もそのままEALLの博士課程への進学が承認され、その前期を修了した時点で修士号の取得を認可され、その後もそのままresearch assistantとして、またlecturer として、二足の草鞋を穿きEALLに属し続けたというわけです。その当時、日本文学専攻の博士課程の学院生は10名ほどで、その学院生の殆どがすでに4、5年もEALLで研究している優秀な文学博士のタマゴ達ばかり。彼らの学歴や経歴は様々でしたが、何かしら日本文学に魅せられてEALLに辿り着いていたことは確かでした。 EALLのgraduate seminar で学び始めた頃、「文学とは?」「語る主体って?」「歴史の非連続性とは?」「言説とは?」等、哲学的概念の議論がなされ、その間「メタ言語」が終始飛び交うという状況でしたが必死に理解しようと努めていた私。抽象的な事項を論理的に思考することは困難極まり、私の頭の中は当然パニック状態!「なぜ文学評論に西洋哲学思想が必要なのか?」という疑問から様々な考察が始まり、「なぜ?」という問いに正解のない探究が始まり無我夢中。そのうちに構造主義の思想家「Michel Foucault(ミシェル・フーコー)」の書に出会いました。フーコーは『知の考古学』で「自己の同一性(identity)というのは慣習や法や制度や規則が要求するものである。<中略>主体とは一個の自己になることだが、正確には、知と権力がある一定の戦略によって内側から誘導し、要求してくる《自己》の規格(norm)に従属すること(内田隆三『ミシェル・フーコー』)」だというのです。この論説を枠組みとして文学テクストをどのように批判し解体することができるのか、人間の「主体性」とは何なのか、当時の私には意味不明でしたし、その後も困惑状況のまま迷走的思索は続きました。seminarでは傍観者のごとき私は、ただただ先輩学院生達の文言を羨望の眼差しで見聞きし、教授陣の意見に真剣に耳を傾けていくうち、文学や言葉そのものに対する私の様々な概念が徐々に根底から覆されていきました。今思えば、30代前半まで私は文学というものには無縁の人間でした。興味のあるテーマといえば、政治経済や社会問題というようなノンフィクションばかり。文学なんて「虚構」の世界だとばかりに自ら文学書を手に取ることは殆どなかったのです。ましてや文学・文芸評論にはかなりの無知無学者。その「文学オンチ」の私が、何年も日本文学を研究し続けていた大学院生達と共に非常に興味深い講義を受けることになったことは、私自身も驚きだったのです。 さて、Asian Studies 学術界の日本文学は大きく2つの分野に分かれています。それは「premodern」と「modern」。日本文学を専攻する学院生は必ずどちらかを最終的には選択し、研究分野を絞りその専門家となりますが、博士課程で学んでいる間は、両方の分野のseminarを自由に選び、それを受講し単位をとることになっていました。従って膨大で広範囲な知識を身につけていくという、それほど長期的なプロジェクトだったのです。また博士論文の執筆が認可されるまでの過程で、自分の研究テーマを変更や修正することになれば、博士号を取得するまで最高8年から10年かかった者もいます。当時の私は先輩学院生達の苦労が他人事ではなく、博士号への道程は難関であり艱難だと実感するばかりでした。一方、当時のEALLの教授陣では、日本文学の学者は4名で、modern とpremodern で2名ずつ。この4名の教授達は各々の専門的研究領野の境界を越えた研究をしていたのですが、その代表的領野は「cultural studies」で、とにかく多才な学者達だったと記憶しています。その当時の私は芥川龍之介や太宰治等に興味があり、特に明治後期から大正にかけての文壇の動向や芥川と漱石との師弟関係などを考察していました。そこで様々な文献を通し驚嘆したことは、その議論の場に必ずといっていいほど漱石関連の分析や引用が言及されていたことでした。極言すれば、日本近代文学を研究するには漱石を抜きにして語ることはできない!それほど漱石は日本近代文学の礎を築き発展させた文豪なのだと。 ちょうどその頃です。「前田愛(本名:よしみ)」という文芸評論家のテクストに出会ったのは。そして結果的には『前田愛・英語版出版プロジェクト』に携わることになったのですが。その前田氏の評論の中でも『音読から黙読へ:近代読者の成立』や『大正後期通俗小説の展開:婦人雑誌の読者層』における分析には大いに啓発されたことを記憶しています。その一方で、私は当時課題とされた様々な現代思想論を読めば理解不能。それではと日本語訳を読めば余計に理解できず、結局英語版で格闘していた私には、この前田氏の記号論、テクスト論や読者論等は、文学の新参者の私にも少しだけ理解可能なものでした。ただその評論内容には他文献の引用や参照が多く、その情報量には目を見張るものがあり、とにかく私にとっては未知の文献名が次々と言及されていて精読すること自体大変でした。それを一件ずつ辿れば、その情報網がWorldwide Webのように構築されていく、それは驚きでした。とかく学術書というものは難しい内容をメタ言語で表現し知識人を対象に書かれたものが多いのですが、前田氏の書はたとえ知識人対象だとはいえ幾分違っていたように印象を受けました。難解な論説を分かり易く説明すること、一般の読者にも理解できるように平易な言葉で言述することこそ、より高度な能力と技術が必要であり、そのような研究者こそが「わかる」から「できる」というレベルに達しているのではないかと。このような点で前田氏はそれを実践した学者なのだと感じました。 その後も前田氏の論説を色々分析するうちに、あるテーマが議論されました。それは「文学テクストの中の空間・都市空間」や「言文一致(運動)」。「テクストの中に、空間が存在するとは?」、また前田氏が言述する「言文一致とは、話す通りに書くのではなくて、話すように書く、それが言文一致の文体の原理(前田愛『文学テクスト入門』」とはどういうことなのか、当時の私は暗中模索状態。国木田独歩『武蔵野』や樋口一葉『たけくらべ』、二葉亭四迷『浮雲』等に関する前田氏の評論と共に各作品の解読を進めましたが、その概念を理解するにはかなりの時間がかかったことを記憶しています。文学作品のテクストが造りだす「virtual」な世界。鳥瞰図的な視点からではなく、読者がまるで「地図の中」を散策しているかのように、その「空間」を可視化させ再構築する。前田氏はそのようなテクスト構造を詳細に「炙り出す」分析を実践したパイオニアということになるのでしょうか。そして、文学テクストの「科学的」分析を遂行した先駆者だったのではないでしょうか。 前述した疑問「文学とは何か?」に対し、イーグルトンの定義は「literature is practice」(Terry Eagleton『Literary Theory』)。その逐語的な訳は「文学とは実践である」となるのですが、その「実践」とは、文学という「自分の活動領域、専門領域における分析を通じて発言し行動する」ことであり、「様々な慣習や規則、思考や行動の様式をもう一度問い直し再問題化する作業(内田『フーコー』)」を遂行することなのでしょうか。ある研究者は文学とは権力が決める「モノ」であり政治活動であると提言していますが。回顧すれば、江藤氏は漱石もまた1世紀以上も前に「文学」の正体を見極めようと探究した一人だと言及しています(江藤淳『夏目漱石』)。また漱石は英国留学に因り「文学」と「literature」が必ずしも同一ではなく「文学」という言葉の「両義性」を認識することになったとも述べています。漱石はこの「言葉の間に横たわる断層」、言葉の意味概念の恣意性に翻弄され、明治期の社会の運命を見つめつつ近代文明を批判し続けた知識人だったのかもしれません。同様に、「日本近代文学」と「modern Japanese literature」の間に同一性がないのなら、その研究方法に「差異」が存在することも理解可能かもしれません。 Junko Joyce Matsuura |
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171回
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平成21年7月19日(土)第171回夏例会 愛媛大学教育学部 高知県内にふるくからある民俗芸能のひとつに、花取踊り(「花鳥踊り」とも)がある。その淵源はとおく中世にまで遡るというが、漱石の小説『坊つちゃん』に登場する「高知のぴかぴか踊り」は、この踊りのことであるといわれている。 坊っちゃんの勤める中学校と師範学校の生徒たちによる乱闘事件は、小説『坊つちゃん』のなかで重要な転回点となる挿話であるが、この乱闘がはじまる直前に、坊ちゃんと山嵐はのん気に「高知のぴかぴか踊り」を見物していた。そこに騒動が起こり、仲裁に入ろうとして巻き込まれた二人のうち、山嵐にだけに一方的な処分が下されることになる。 君とおれは、一所に、祝勝会へ出てさ、一所に高知のぴかぴか踊りを見てさ、一所に喧嘩をとめに這入つたんぢやないか。辞表を出せといふなら公平に両方へ出せと云ふがいゝ。 その日の午前中、坊っちゃんは祝勝会のために生徒を引率して練兵場に向かっている。午後には、その余興としてくだんの「ぴかぴか踊り」が演じられていた。しかし、なぜ「高知のぴかぴか踊り」なのだろうか。小説『坊つちゃん』には次のようにある。 踊といふから藤間か何ぞのやる踊かと早合点して居たが、是は大間違であつた。 いかめしい後鉢巻をして、立つ付け袴を穿いた男が十人許りずつ、舞台の上に三列に並んで、其三十人が悉く抜き身を携げて居るには魂消た。…(中略)夫れも動かないで刀だけ前後とか上下とかに振るのなら、まだ危険もないが、三十人が一度に足踏をして横を向く時がある。隣のものが一秒でも早すぎるか、遅すぎれば、自分の鼻は落ちるかも知れない。隣の頭はそがれるかも知れない。抜き身の動くのは自由自在だが、その動く範囲は一尺五寸角の柱のうちにかぎられた上に、前後左右のものと同方向に同速度にひらめかなければならない。こいつは驚いた。 東京で見知った「汐酌」やら「関の戸」やらが踊りだと思っていた坊ちゃんの目に、この踊りは奇異なものと映った。三十人ばかりの男が真剣を振り回して踊るのも物騒だが、これを統率するのが、太鼓を敲きながら、「夏分の水飴の様に、だらしない」歌を歌う「ぼこぼん先生」だというのだから不思議なものだと、坊ちゃんの感想は続く。 明治二十八年(一八九五)七月二十八日のこと、松山城内の練兵場では、日清戦争従軍兵士の帰還歓迎会が、愛媛県と高知県の有志によってとり行われた。当時、松山にあった歩兵二十二連隊は、愛媛と高知両県の出身者によって編成されており、こうしたこともあって高知県の代表一行は、はるばる山を越えてこの歓迎会にやってきたものと思われる。坊っちゃんが生徒を連れて行く「祝勝会」の設定は、松山中学の教師であった漱石の、この日の記憶によるものであろう。 実際に『坊つちゃん』が執筆されたのは、明治三十九年のことで、当時の読者たちにとって、「祝勝会」といえば日露戦争のそれが身近なものであった。漱石自身もそのあたりに混乱があると見えて、生徒の乱闘が散り散りになる場面では、 田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨い位である。 と、ロシアの敵将の名をうっかり出していたりもする。小説の時代背景を朧化しようという意図であるのかもしれないが、この「祝勝会」の挿話の直前、うらなりの送別会で、早くに帰ろうとする坊っちゃんたちに対して、 「や御主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せない」と箒を横にして行く手を塞いだ。 と野太が立ちふさがるのは、やはり作品の時代設定を、日清戦争のころと示唆するものであると考えられる。事実はさて置き、漱石にはこの小説の時代背景を、日清戦争後とする必要があったとも思われる。 地元の海南新聞(八月二日付)は、戦勝気分に沸き立つ歓迎式典の模様と、仮装行列やニワカ、撃剣、相撲など、多くの出し物が用意された余興のありあさまを伝えている。 その記事のなかに、たしかに高知の花取踊りのことが出てくる。 而して土佐より態々来演したる花取踊りは、一般の目に珍しかりしと活発なりしとにて、これまた世評頗るよろし。 隣国とはいいながら、見たこともない踊りの所作に、松山人士の好奇のまなざしが注がれた。七月二十七日の同紙には、歓迎式の予告としてその案内図が載せられており、そこには花取踊りの舞台とともに、松山市内各学校の生徒たちのために用意された席も示されている。漱石自身も松山中学の生徒を練兵場に引率してこの会場におり、花取踊りを目にしていたと考えてよい。 「高知のぴかぴか踊り」の挿話は、小説『坊つちゃん』の細部に過ぎない。とりたててストーリーの展開に大きな役割を果たすわけでもなく、漱石が松山で遭遇した、もの珍しい踊りの印象を作品に盛り込んだだけだということもできる。だが、小説『坊つちゃん』が『ホトトギス』に発表されたのは、それから十年あまりのちのことである。この間、熊本転任を経て英国留学を果たした漱石は、帰国して東京帝国大学に職を得ることになる。松山で見た奇異な踊りのことなど、あわただしい日々のなかで忘れ去られてもよい記憶の断片に過ぎなかった。 兵士たちの歓迎式によって、国威発揚の機運は四国の田舎街にまでゆきわたった。その余韻もさめやらぬ八月二十五日、須磨で療養していた子規が松山に戻ってくる。従軍記者として戦地に赴きながらも、志なかばで病を得たための帰郷であった。 |
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第一七二回秋例会平成二十一年十月三日(土)松山東高校視聴覚教室 三『三四郎』― 前期三部作 四『三四郎』― 東京帝国大学 さて『三四郎』は広田先生の「僕がさつき昼寝をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再会したと云ふ小説染みた御話だが、其方が、新聞の記事より聞いてゐても愉快だよ」という話から小説内部に入っていける。広田先生を大学教授にする「運動」「偽はりの記事」〈女の夢〉に『三四郎』の筋、構造はある。ちなみに、『坊っちやん』は坊っちゃんの「正直」の永続の決心から入っていける。似た筋、構造をもつ『坊っちやん』と『三四郎』を比較すると、「辞令」「会議」の物語『坊っちやん』では終極、「虚偽の記事」が掲載され「赤シヤツ退治」が断行される。「虚偽の記事」だが、「会議」の虚偽の変奏である。ところで朝日入社まえの小説『坊っちやん』と職業作家漱石の文学はおのずから異なる。『三四郎』はいわば「辞令」「入学」の物語だが、「会議」「偽はりの記事」は問題にされず、〈女の夢〉が語られる。明治「現代日本の開化」の暗闇を「偉大なる暗闇」広田先生の「太平」をとおして語り、その「太平」をまた〈女の夢〉として語る、重複ある魅力的な作品が『三四郎』である。 五『三四郎』― 美禰子とよし子 「官能の骨を透(とほ)して髄に徹する」「眼付」、「真白な歯」の魅惑的な美禰子が「迷へる子(ストレイ シープ)――解つて?」と謎めいた問いを発する。演芸会後に謎を残したまま美禰子は結婚し小説は終わるのであるが、もう一人のヒロインよし子も不可解である。「美禰子に関する不思議」は、実は「「よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい」という、よし子と「美禰子に関する不思議」である。重複、重層の物語で、「二人の女」美禰子とよし子も重複しているのである。漱石は「無意識な偽善家」について「自ら識(し)らざる間に別の人(ヽヽヽ)になつて行動するといふ意味だね」(森田草平『漱石先生と私』下巻)とも話している。展覧され喝采を博する美禰子の肖像画「森の女」は、じつは別人よし子の肖像でもあり、そのよし子に「母の影が閃め」く、三四郎の母の肖像でもあるということである。 『三四郎』は「掻き混ぜて」いる小説であり、「森の女」にもその物語は及んでいる。というより、「三つの世界」を最終楽章の大作「森の女」に重複、重層させるという最後の目的のために、『三四郎』は最初から物語られているのである。 漱石文学を近代国家日本の祝祭の歴史とともにたどると、初期の『吾輩は猫である』『坊っちやん』『草枕』には日清・日露戦争「万歳」の高まりと多数の戦死者の影がある。中期の『三四郎』では大日本帝国憲法発布「万歳」と森文部大臣暗殺が話される。後期の『心』は激動の大日本帝国明治天皇「万歳」と明治天皇崩御を持する。漱石は近代国民国家明治日本の歴史的配合といえる「万歳」と「死」を洞察した。その明治の歴史的現実と不可分、正反対の「死」と「万歳」の文学を創出したのが作家漱石である。 七 おわりに ― 桃源郷 |
173回
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平成21年12月6日(日) 漱石94回忌繰上げ法要 正宗寺(子規堂)住職 田中義晃師読経の後 講師 副会長 田中義晃 皆様今日は、以前にこの会で、頼本会長様より禅の公案について話をせよと言われていましたが、日程も合わずそれと、そんな難しいお話は私には向いていないので逃げていました。逃げ切れたと思いこんでいましたら今度は演題を変えて「坊っちゃん会発足のころ」と云うタイトルを勝手につけてこれで話せとのこととなり、今ここに立つことになりました。もともと私は、「仏と聞いたら耳洗え、仏と言うたら口濯げ」と思っています。つまり理解能力のない私では、仏教や仏について耳に入れても値打ちがない、だからもったいないから聞いた耳を洗え、仏に対して失礼だから軽々しく口に出したその口を洗えということです。早く言えば出来ていないものが解ったようなことを言ってはいけないと云うことです。だから遠慮しながら少し申し上げます。禅の公案は、理到、機悶,向上の三つに分類されて約80とおりくらいの公案があると云われています。これを甲乙両者の見解ないし境涯の差によって問答を行い、そのやりとりによって修行者を悟りの境地に導くものとしています。皆さんが耳にされた言葉があると思います。これが禅問答です。中国に唐の時代に臨済院という寺があったそうです。臨済宗の禅は看話禅で禅問答を行い、師家から修行僧に問題を出される、この問答を公案と言ったのです。それが今も私達の世界では続いているのです。例えば、隻手の声を聞け、という公案があります。つまり両手でたたけば音がでるが、一方の手だけではどうだ、音がするか等です。唯この公案に答えていくことは並大抵ではありません。夏目漱石も鎌倉の禅寺で参禅し公案に取り組んだはずです。まあ、そこに寝ている犬に仏性あるか、と訪ねても犬だから有りませんは答えではないのです。「狗にかえって仏性有りや、また無しや」という公案もあります。修行僧が座禅を組んでこの課題を見解(げんげ)というものから答えを探すのです。 本日は、この坂の上の雲ミュージアムの一室が会場です、「坂の上の雲」について少し現在の状況をお話し致しましようNHKさんや書物のおかげで今全国から、これに関する資料や子規との関係を知りたいとか、子規堂とはとかいろいろな問い合わせが郵便で来ます。そのような方は統べてご高齢者の方です、封書で便箋手書きです。季節の挨拶から現在の生活状況、それから先にお話ししました問い合わせ内容が記され便箋三枚目で終わるのです。非常に同じパターンの多さに驚きました一時は松山市子規堂できた宛名封書を見るとガクッとしたものです。しかし相手様のの熱心さを思うと明け方の三時頃までかかってご返事を書いたり、コピーを入れたりした日もあります。 現老後の生活や孫さんのことまで書いている方もいて、見ず知らずの方にそれなりの励ましの文章も書かなくてはいかず大変な時期もありました。中には折り紙の鶴まで入ってきたのもあり、お年寄りとは可愛らしいものだと考えさせられました。唯残念なことことに若い方からの問い合わせは全然有りません。良いほうに解釈すれば、この方達は恐らくインターネットから情報を取っているのでしょう。出来ることなら全国民、いや外国の方達にも「坂の上の雲」に関心を持っていただきたく思うのですが、・・・ 最近東京であるパーティに出ていた時の話ですが、私が四国の松山から来ていると話したら、その老紳士が今回の「坂の上の雲」のことを話されて、秋山兄弟は四国松山の出身とは知らなかったと申されていました。私は、いいんですよ。子規を説明するには漱石を先に出して説明しなけば子規を知ってもらえない場合もありますからと答えたものです。言いたかったのは、地元の人達が知り尽くしているほど他県の人達はそのとうりに知っているというものではないのです。一般的観光客の方達には、松山出身ではない江戸っ子の漱石を出し、その友人子規をだして、そこから説明すれば正岡子規を理解してもらえるのです。一般的には読まれて無くても、読まれていても「坊っちゃん」の漱石は世に知られているのです。昔このことを行政や郷土史家の先生方に、観光客の生の状態を何度もお話しましたが、返ってくる言葉は、漱石はよそ者じゃけん、、、と云う言葉ばかりでした。その時私は、友人同士でお互い文学仲間、そんな漱石の力も借りて子規をたてればさらに良いのではと恒に思っていましたが、二度とその方達の前では口にだすのを止めたものです。時代が変わり、漱石がお札になった途端、野球場まで坊っちゃん球場となりました。ご丁寧にサブ球場がマドンナ球場じゃないですか。この感覚遅いですよ。もっともっと以前の時代から漱石の力を借りていればと思いますよ。誤解しないでください、子規に力が無いというのではないのですよ。世間の方達が子規より漱石の方を名前だけでも知っていると云うことです。今では、勿論経営は大変だと思いますが、伊予鉄道さんが坊っちゃん列車を走らせて下さっています。漱石を理解受け入れされたのでしょうね。これからは子規や漱石、秋山兄弟だけでなく、ご存じのとおりまだまだここ松山から広きにわたり多くの偉人が出ていられます。その方達の力をかりることも忘れてはならないでしょう。この坊っちゃん会の存在も、もっと世に出ていいのではないでしょうか。若い方達にもと願っています。そろそろ会長がつけられました、「松山坊っちゃん会発足のころ」についてお話いたしましよう。こう申しあげましても私はその頃はまだ子供でした。今でこそ古希ですが昭和15年生まれですから、これからお話しする事は、なんであんたがそんなことをを知っているのかと思われることでしょうが、なにせ私の父親、つまり先代住職は酒飲みでしたので大人の集まる所へは母親が、子供の私を必ずついていかせたものです。つまり大人の集まりのまわりで遊んだり貰った菓子などたべたりして終わるのをまつのです。そういう集まりの中での大人の話しや状景というものは結構いまになっても記憶に残るものです。松山坊っちゃん会は、その結成については、元大阪朝日新聞の学芸部長だった越智二郎さんが言いだされたと言われていますが、なんとはなしに分らぬうちにがやがやと言っている内に出来たようです。今改めて調べてみても現実のようです。私が住職してからも何度か越智先生に頼まれて、北条のご自宅にお経を読みに行ったこともあり、子供の時からのご縁と申しますか、誠に不思議なものをその時感じました。 松山中央放送局の局長さん、富田狸通さん、ヤママン百貨店の山本富次郎さん、川柳で有名な前田伍健さん、この方は「野球拳」でも有名ですよね。汽船会社の伊予商運の波多野晋平さん、後になってだと思うのですが県立図書館長の永田政章さん、そして先代住職や、まだまだ他の方達もいらしたのを憶えています。しかしここのところが、少々定かではないのですが、狸通さんの、狸の会と同じ顔ぶれのおじさん方の坊っちゃん会と松山子規会との区別が分らないのです。何故ならメンバーの方達がダブッていられるからです。子供の私には全部一つの集まりに思っても仕方ないことです。有る時代には、この方々がトンビをはおって(ダブルの袖無し外套、インバネス、俗にインバと称した)街頭を集団で闊歩したりされていました。今になって思いますと、通人で洒落気があり、文学でもって郷土を愛し、人の和を敬愛して楽しまれていたんだなと感じています。狸通さんの狸の会は今は無いですが、坊っちゃん会と子規会は永い歴史と共に現在も活躍されていますことは、大変素晴らしいことだと思っています。「坊よ、富サンノ伊予弁ハノウ、本当ノ伊予弁トチガウケン、マネシラレンゾ」と狸通さんに言われたものです。子供ですから遠慮はありません、そのことを山本富次郎さんに言うと、「何イヨンゾ、坊ウ、ワシノ伊予弁ノ方がホントジャケン」と言われ、今以てどちらが本当かわかりません、どちらも本当でしょうけれど。まあ、ドラマの「坂の上の雲」のように、だんだん、と云う言葉がお二人の口からは頻繁に出てこなかった事だけは確かです。 狸通さんが県病院に入院されていたとき、寿司を持ってお見舞いに行きましたら。「わしがもう最後と思うて来たのじゃろうが」と言われ、つい「ハイ」と素直に答えてしまいました。狸の狸通さんをいい加減な言葉で化かすことは出来ませんでした。それからしばらくしてお亡くなりになりました。生前最後に私に戴いた号が「可宗」です。 職業上今も使わせて戴いています。大人の方々の横で、昭和30年代から50年代前半位の自然教育でしたね。無意識の中で子供時代から見て取ったことが私の人生にも職業にも伴って、非常に役に立っています。この皆さんに いつも心の中で感謝しています。「狸してとぼけてまぬけて一生を過ぐ」禅の公案のような文句、いいですね。高校生のころに戴いた短冊です。思い出は尽きぬものです、まだ御座います。安倍能成さんです、当時は寺は戦後の仮本堂に仮の居間でしたから、大きなワンルームみたいなものです。お客さんも家族も一緒のような状態でした。安倍家の墓所がここにあり、よく墓参にいらしていました。居間で申し上げますと、とても格好のいいお顔の方でした。坊よ、わしが偉くなったのは何故か分るかと言われました、私はその時どう答えたかは憶えていませんが、云われた言葉だけは覚えています。この白髪と白い髭じゃと。東高校名教館に掛けてある能成先生の肖像画で今それを知ることができます。よく頭をなでていただいたものです。歌人の吉井勇さんもそうです。この方は酒飲みで、先代住職と昼間から一升瓶と湯呑茶碗で、竹輪をあてによく飲んでいらっしゃいました。私の記憶ではこの寺でお茶を口にされている吉井勇先生の姿はありません。何度目かの来寺のとき子供の私が戴いた短冊を、住職になってから見つけ出しました。「酒にがし 女みにくし このころは 心しきりに 獅子窟にゆく 勇」。 子供に短冊など関心有るはずがありません。関心有るのは片岡千恵像とかのメンコです。こんな句の解釈が出来るはずがなくそのままにしていたのでしょう。両親のどちらかが、しまっていてくれたのです。後に先住職が、解釈してくれました。さけも女性もみんな足りた、自分の心は禅の修行場に行こうとしている事だと聞かされました。 ただし吉井勇さんだからこういう歌を詠んでもおかしくないんだと教えられました。勿論安倍先生の色紙もあります。それから柳原極堂さんもしばらくこの寺に仮の住まいをされていましたので、極堂さんの布団の横で遊んだものです。現金の小遣いはくれませんが、そこいらの和紙にしたためた書き物をくれました。今になってシマッタと思うことがあります。何枚かは、手作りの凧となって近くの田んぼで敗れてしまっています。しかし数枚の色紙と半切の書き流しがあり、これでいいのだと思い大切に保存しています。「極堂の書を凧とするガキ大将」贅沢な句ですね、極堂翁ご免なさいです。 私にとって最後に文学関係で忘れられない方がいます。才神時雄さんです。ある雨の日松山市内で散切り頭、縦縞の和服に尻からげ、草履に番傘小脇に書類、手にはとっくり、ひたひたと歩かれてる姿を初めて目にした時、明治の時代が歩いていると云う感じでした。その時点では、私には全然知らない方でしたが、後に先代住職を訪ねてこられてから才神時雄と云う方を知りました。それは正宗寺にも過去ロシア人捕虜の方達をあずかった事実があるので、取材のため出入りされていたのでしょう。そんなわけでだんだんと才神時雄さんを知ることとなったのです。個性のある、浴びるように酒の好きな方でした。非常に優しい方ですが、どうも自分の論が強い方で、最後にはマスコミ関係の方達とは、よく議論され喧嘩ばかしされたと聞いています。原稿料は全部酒代に代わっていたようです。子育てしながらそんな一家を支えられたのは、貞淑な奥さまでしたね。平成二年の出来事でした。桜の花びらが風に舞う下で、杯の酒にその花びらを写し込んで、いま口に運ぼうとしている、つまりこの一口の酒が三千世界を潤すというような才神さんの遺影写真が未だにはっきりと私の脳裏に焼き付いています。「作家才神時雄 大正六年三月青森県に生まれる 東京での雑誌記者を経て、昭和三十七年望んで文学の地、松山に住す。酒を愛し、酒を一生の友とし、文筆に専念する。その姿、誠に豪放なり。」正宗寺 義晃と云う碑文と戒名「文献院?時史閣居士」を墓石に刻み、当時の境内墓所の内藤鳴雪の碑の近くに墓碑を建て、納骨致しています。?と云う意味は、浴びるように酒を呑む飲み方のつもりです。とてつもない多くの文献資料の積もれた書庫の中で、作文構想に没頭しながら酒を浴びるようになりながら飲み悩み励んでいる、そして最後に人々に感動を与える素晴らしいものを書きあげる人であった。以上のような事を才神時雄という方を戒名で表したつもりです。漱石も「文献」という字がありますが、別に真似したわけではありません。才神さんもプロフェシヨナルな立場ですから「文献」を冠と考えました。さてだいぶんお話の時間もおしせまってまいりました。おしせまったところで今年も終わり、これからは忘年会の時期ですが、一茶和尚の句だったと思うのですが、「目出度さも 中くらいの おらが春」というのがあったように記憶していますが、やがてくる新年、それくらいの余裕を持って迎えたいものですね。これは一休和尚が詠んだものですが「世の中は 食うて クソして寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりよ」と言われています。さてその後と最後の言葉の問が今です、皆さんも私もこの言葉の裏にありますように、人としてこの世の中で楽しんで心置きなく生きていきたい物ですね。最後になりましたが、どうか皆様お元気で良いお年をお迎え下さい。つたないお話、ご拝聴有難う御座いました。
註 吉井 勇 明治19〜昭和35 歌人、小説家 東京都の名門の出 芸術院会員歌集「酒ほがひ」など 才神 時雄 大正6年3月〜平成2年8月1日没 作家「松山捕虜収容所〜捕虜と日本人」中公新書他 富田 狸通 明治34〜昭和52年 本名 寿久、本会代三代会長 俳人 元伊予鉄道課長
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173回
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平成21年12月6日(日)第173回冬例会 松山市立坂の上の雲ミュージアム 小説『坊っちやん』をどう読むか 平成22年12月6日 頼 本 冨 夫 小説『坊っちやん』が作品論として現われたのは、戦前はわずかであって、本格的な『坊っちやん』論が研究者により発表されたのは平岡敏夫の「坊つちやん試論−小日向の養源寺」(文学 昭和四六・一)が最初(佐藤泰正別冊国文学bT昭和五五)と言われている。それでは作品論の中で『坊っちやん』はいったいどのように研究され、どう読まれてきたのか、今日身近な所にある入手可能な資料で検証し考えて見たい。(引用文「坊っちゃん」の表記は原著者による) 考察
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特別講演会 平成21年3月5日(木) 於 愛媛県立松山東高校体育館
広島女学院大学教授 山本勝正 氏
夏目漱石の文学について―『心』を中心に―
はじめに漱石の人柄を表す一つのエピソードから始めたいと思います。あるとき漱石は純一と伸六という二人の兄弟を連れて散歩の途中、射的場へ立寄りました。まず兄の純一に向かってお前やってみろと言いました。「恥ずかしいからいやだ」と袂に隠れると、今度は弟の伸六に撃ってみろと言いました。伸六も兄と同じに恥ずかしいと言うと「馬鹿!」激しい一撃で伸六は土の上に倒され、ステッキを全身に打ち下ろしました。その場に居合わせた人々も呆気にとられてこの光景を見ていました。伸六は何で同じことをしたのに、自分だけがこんなひどい目に合うのだろうと思ったそうです。伸六はそれから二十数年経って父漱石の全集を読んでいましたら、思い当たる事が書いてありました。みなさん、なぜ伸六だけ漱石は怒ったのでしょうか。それは弟が兄の真似ばかりしているからでした。漱石は外国の真似ばかりしている近代の日本にとても悲観的でした。このエピソードは漱石の人生観をよく表しています。
さて私は今六三歳ですが、学生時代に読んだ『心』の素晴らしさに触れ、以来漱石の作品について研究してきました。平成元年に『夏目漱石文芸の研究』という作品論を出しました。現在は主に毎年『夏目漱石参考文献目録』を発表しています。
ここで漱石作品の名前についてお話します。まず『吾輩は猫である』の猫は名前がありません。『坊っちやん』の主人公も「おれ」で名前がありません。『草枕』の主人公も「余」と書いてあるだけです。『それから』では主人公の父が幼名「誠之進」で後に「得」、兄が「誠吾」その子が「誠太郎」誠吾の弟が誠吾の代わりで「代助」です。父は誠実と熱心さえあれば世の中は動くと考えていますが、実は「損得」で動く人物です。父の誠実と損得という二面性を漱石は描いています。次は『行人』ですが、主人公が一郎で弟が二郎で、二人の心を繋ぐ架け橋の役をするのがHさん。つまり1―1でHです。
次に『心』です。この小説の登場人物にもほとんど名前がありません。主要人物で名前があるのは奥さん「静」です。皆さんはなぜ奥さんにだけ「静」と名前があるのか不思議に思うでしょう。「静」という名は当時の人は誰でも知っていた名前です。主人公の先生は明治の精神に殉じるといって自殺します。自殺のきっかけは明治天皇大葬の日の乃木大将夫妻の殉死でした。大将夫人は「静子」という名でした。漱石は登場人物の名に工夫しているわけです。『心』の中には四軒の家が描かれています。一に先生と奥さんの家。二に私と両親の家。三に先生の両親の家。四に先生とKが下宿した奥さんとその母の家です。一の家は先生が死に、一人残された奥さんも亡くなると崩壊します。二の家も両親は亡くなり、私も家を継ぐ気がなく家は崩壊します。三の家は両親は死に家は叔父にとられ崩壊します。四の家はKの自殺後、この家を出て新しい家庭を持つわけですから、なくなったも同然です。このように見ますと四つの家はいずれも死と家の崩壊に結びついていると言わざるを得ません。この小説では「私」と先生を結びつける外的必然性はありませんが、自殺する先生が「私」宛に遺書を書くという信頼関係が、その必然性であるという逆説もまた成立します。
次に『現代日本の開化』です。この中の挿話に、男が女に飽きて逃亡した。女が追っかけて来たので、手切れ金を出して解決しようとしたところ、女は金が欲しさに来たのではない。私を捨てるのなら、この窓から飛び降りて死ぬという。男はどうぞというと、女は本当に飛び降りて、死にはしなかったが、不具になってしまった。男はそこまで自分の事を思っていたのかと後悔し、一生不具の女に付き添って世話をしたという話を紹介しています。突き詰めて女の真心が明らかになるのはよいが、取り返しのつかない残酷な結果になる。後から考えると、真心は分らなくてもよいから、女を不具にさせずにいた方がよかったかも知れません。漱石は現代日本の開化も、実態が分からぬ昔の方が幸福で、分ってしまうと悲観したくなると言っています。この話は漱石文学を象徴する話だと思います。漱石の作品は決して、明るい、力が出るというものではなく、漱石は人間の真実、即ち孤独・不安・エゴイズムの醜さを追求した作家で、現代に通じる作家であります。(記録頼本)(やまもとかつまさ 日本近代文学著書『夏目漱石文芸の研究』桜楓社平成元年など)
平成20年の記録
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166回春例会 |
平成20年4月20日(土) 午後1時〜3時30分まで。、市立子規記念博物館1階会議室にて、今年度の総会があった。つづいて愛媛大学法文学部中根隆行准教授の「漱石と安倍能成」」と題しての講演があった。 漱石と安倍能成 中根隆行 かつて主峰漱石から盛んに噴煙したこの漱石山脈は、活火山であらうか、それとも死火山であらうか。(本多顕彰「漱石山脈――現代日本文学地図(一)、一九四六年) 「漱石山脈」という言葉には、夏目漱石という存在が敗戦後の文学界にあっても他を抜きんでたということが端的に示されているわけですが、安倍能成という人物を考えるときにも非常に重要な意味をもっています。この場合、「漱石山脈」とは「主峰漱石」を中心にした「野上彌生子、森田草平、芥川龍之介」といった山々からの「噴煙」であって、漱石の文学的影響力を受けた作家たちを指しており、このなかにはいわゆる文化人であった安倍能成の名前はありません。しかし、この「漱石山脈」を広義に捉えると、彼は阿部次郎や小宮豊隆、野上豊一郎らとともに「漱石文化圏」あるいは「門下的漱石文化のエージェント」(戸坂潤)の筆頭として夙に知られた人物でした。戸坂潤はこういっています。「今日の日本の文化人の世界では、而も高尚な文化人の世界では、高級常識から云うと、漱石文化が文化そのもののスタンダードになっているのである」(戸坂潤「現代に於ける漱石文化」、一九三六年)。戸坂潤は別の箇所で「漱石=岩波文化」とも述べているのですが、その岩波書店を率いた岩波茂雄とも生涯を通して親交の厚かった安倍能成は、いわば「漱石=岩波文化」を牽引する知識人としてを戦前戦後の漱石像と密接にかかわっていた人物であったわけです。 もとより、安倍能成は松山出身者ですが、現在、彼は広く知られているわけではありません。おそらくその名が全国的に知られた時期は敗戦期です。彼は、戦中期から敗戦期にかけて第一高等学校校長を務めています。戦中期には軍部の圧力に対抗するなどして名校長と謳われていました。そうした経緯もあってか、一九四六年一月には幣原喜重郎内閣の文部大臣に就任し、在任期間は短いながらも戦後の教育改革に尽力することになります。ひとつのエピソードを挙げましょう。一九四六年二月、時の文部大臣であった安倍能成はGHQの招請に応じて来日したアメリカ教育使節団を前にして次のような演説を行っています。 御察しの如く、戦敗国たり戦敗国民たることは苦しい試練であり、困難な課題ではありますが、同時に敢て失礼を申せば、よき戦勝国たり戦勝国民たることも中々困難であります。我々は戦敗国として卑屈ならざらんことを欲すると共に、貴国が戦勝国として無用に驕傲ならざるを信ずる者であります。さうして諸君の来朝が我々の上の願を充たす最上の機会とならんことを切念するものであります。(安倍能成「米国教育使節団に対する挨拶」一九四七年)この演説は当時のメディアでも大きく伝えられ、多くの人びとから賛同を集めた名演説として知られています。「勝つた連合国に対して武力なき日本は唯屈服してその命ずる所に従ふ外はないといふ考え方」が浸透していた敗戦後の日本において、「戦敗国」の文部大臣が「戦勝国」の教育使節団に対して「貴国が戦勝国として無用に驕傲ならざる」ようにと主張すること。その歯に衣着せぬ物言いが好評を博したわけです。この演説で安倍能成が強調しているのは、“Might is right”という考え方になります。彼の意訳を使えば「勝てば官軍、負くればこれ賊」ということになります。つまり、「力は正義なり」の論理を戦後日本の教育改革においても押しつけようとするであろうアメリカ側に対する未然の批判です。これはうがった見方かもしれませんが、GHQ占領期の能成の脳裏には、明治の松山と敗戦後の日本の姿が重なり合って映っていたのではないかと思います。 普通の意味での国家発展の様々の条件を奪はれた我々日本国民は、素手で素裸で生きてゆかねばならぬ。これは一つの強みだともいへようが、この強みを生かすことは又難中の難である。而も後世子孫の為にこの荊棘の道を先づ切り開かねばならない。そこには現実の正視に立つて理想の光を仰ぐ深い智慧と意力とが要求される。さうして今こそ真の意味に於ける文化国家、道義国家の建設が志されねばならぬ。(安倍能成「剛毅と真実と智慧とを」一九四六年) 戦前、自由主義的な知識人として知られていた安倍能成は、戦後には「オールド・リベラリスト」と呼ばれていました。オールド・リベラリストというとなかなかイメージが掴めないかもしれませんが、当時の新聞はそれを「白髪の一高生」と揶揄しています。つまり、明治時代の一高生がそのまま老人になったという意味です。この喩えはきわめて言い得て妙です。彼は、松山中学校から第一高等学校、そして東京帝国大学へと進み、漱石門下の新進気鋭の文芸評論家として明治大正期の文学界で活躍した人物です。そして、森田草平や小宮豊隆、阿部次郎(鈴木三重吉とされる場合もありますが)とともに、明治末に「漱石門下の四天王」と並び称され、「大正教養主義」を主導した人物でもありました。 安倍能成は、一九〇二年九月に上京し第一高等学校に入学します。一高在学中には魚住影雄、阿部次郎、岩波茂雄、小宮豊隆、中勘助らを知ることになります。そして、その翌年五月に同級生の藤村操が「巌頭之感」を残して日光の華厳の滝に投身自殺するという事件が起こります。藤村操は漱石の英語の授業を受講しており、自殺する前に漱石が宿題をしてこない藤村を叱ったというエピソードもありますから、漱石にとっても重要な人物になります。その彼が遺した「巌頭之感」にはこう記されていました。「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーシヨの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを」(「藤村操氏の投瀑」『東亜画報』一九〇三年)。彼の死は日露戦争前夜にあって煩悶青年現象の端緒になった出来事なのですが、後年、岩波茂雄はその死を以下のように位置づけています。 岩波茂雄の記すとおり、藤村操の投身自殺は「乃公出でずんば蒼生をいかんせん」という「悲憤慷慨の時代」から「内観的煩悶時代」への転換を象徴する出来事でした。一高の校風はそれまで「籠城主義」や「悲憤慷慨」といった標語に代表されていました。一高はナンバースクールと呼ばれた旧制高校の筆頭であり、卒業さえすれば帝国大学に進学できる学歴エリートの製造工場でしたから、「籠城主義」や「悲憤慷慨」に象徴される校風は、いわば近代日本の富国強兵政策と絡み合うかたちで形成されたといっても過言ではありません。その一高で次世代を担うはずの藤村操という学生が「煩悶」を理由に投身自殺を遂げたのです。この時代を岩波茂雄は「国家でなく自己を問題にする傾向が起つて来た」(前掲)とまとめていますが、それは、たとえていえば、それまで一対のものとして疑う余地もなかった国家の前途と若者の将来との間に亀裂が生じたということになります。つまり、藤村操の投身自殺は、国家の帝国主義路線に寄り添う青年の立身出世の道程が、次世代を担う学生層によって疑問視され始めたのです。いうまでもなく、これは文学的な問題でもあります。夏目漱石や島崎藤村、田山花袋らを始めとして、この日露戦争期が日本近代文学の本格的な出発点となったことは偶然ではないと思われます。 安倍能成が文壇で気鋭の青年文士として活躍するのは、東京帝国大学を卒業する一九〇九年以降の数年間です。その活躍の舞台となったのは彼の代表作といわれる「野尻湖日記」が掲載された『ホトトギス』や『国民新聞』、『東京朝日新聞』であり、これは下掛宝生流の宝生新に謡を習ったのが縁で、高浜虚子や夏目漱石と親しくなったことが大きいといえます。のちに小説家志望の嘉村礒多が弟子入りを志願したとき、安倍能成はたいした苦労もせずに文壇に出たことを率直に認めています。日露戦争前後から煩悶青年や自然主義現象が社会問題となっていた当時、小説家志望の青年が多数存在したことを考えると、雑誌に投稿した経験もない彼が難なく発表する場所を得たというのはきわめて恵まれていた事例でした。石川啄木は、能成も含めた朝日文芸欄で活躍する漱石門下の青年文士を「青年大学派の崛起」と呼んでいます。 しかし、文壇で注目を浴びたとはいっても、東京帝大卒業後の安倍能成が前途洋々であったわけでは決してありません。正規の英語教師をめざしたものの、必要な単位が足りなくてはたせず、日本済美中学という私立学校で英語を教えることで何とか日々の糧を得ていたというのが実情でした。一高、東京帝大を経た学歴エリートのトップランナーであった能成ではあるけれども、必ずしも経済的に恵まれていたわけではなかったのです。彼の実家は松山の素封家で旧士族、祖父、父とともに医者でしたが、能成の少年時代から父は廃業しているに等しく、松山中学校を優秀な成績で卒業するものの直ちに進学できず、母校で助教諭心得をしています。上京後もアルバイトなどをして苦学しています。岩波茂雄らもおおむねそうであったように、当時の学歴エリートは裕福な家庭に育った者だけが集まる特権集団ではなく、むしろそうであるところに近代日本の立身出世主義の本質があるといえます。 そうした経験を考えると、漱石や虚子の知遇を得、明治末の文学界で活躍した安倍能成がいったい何を訴えていたのかが理解できるのと思われます。漱石山房に出入りし始めた一九〇九年頃から本格的に文筆活動を始めることになった能成は、自然主義文芸思潮が主流の文学界で次第にその名を知られるようになります。ことに有名なのは今治出身の片上天弦との論争ですが、能成が好んで使った言葉は「自己」です。たとえば、自然主義者の「自己」について彼は次のように反駁しています。 かゝる自己を以て人生に臨み、現実に接する。果してどれだけ人生に触れ得るであらうか。多くの外的経験を重ねることが、人生に触れることならば、詐欺師や泥坊は最も多く人生に触れて居なければならぬ。我等がしみじみと深く人生に触れると感ずることが出来るのは、我等が清新な心持を以て人生に臨む時ではないか。たゞ現実にふれるといふことは、決して人生に触れ人生を深く経験する所以ではない。我等が人生に触れたいといふのは、むしろ人生に触れざることを示して居るのではないか。徹底せよといふのはむしろ徹底せざるを証するものではないか。(安倍能成「自己の問題として見たる自然主義的思想」一九一〇年一月) 自然主義者の唱える「現実」や「自己」とは「与へられたる現実」や「自己」だと論じる安倍能成は、それらに右往左往するよりも、いかに「自己」を直視して「人生」に挑むかを考えねばならないと主張しました。このような彼の主張は、一高時代における個人主義を礎にした煩悶から思索へという流れの延長で捉えることができ、また大正教養主義的な言説へと接近しているといえます。けれども、能成のいう「自己」は、きわめて積極的な自己形成の主張ではありますが、他方では「自己」をとおして現実を批判する自然主義的な方向性を持たず、また、その「自己」を与えたものへと向かうこともありませんでした。 一九〇〇年代に学歴エリートのトップ・ランナーを走る一高生の間から国家主義や立身出世主義に対する懐疑が生まれ、個人主義が台頭したと述べました。こうした思想が台頭する基盤には、近代日本の教育制度がありました。つまり、社会的経済的に下位におかれた者であっても、学歴を積めば階級的移動が可能となる社会が到来したのです。そして、個人の学力=実力によって学歴エリートとなった学生たちは、その「自己」を判断基準として既成の社会に異議を申し立てたのです。安倍能成もまた「自己」を磨き、それを基準にしてものを考えました。それは、彼がカント哲学を中心にして得た「自由と責任」にも通じる考え方です。 安倍能成のいう「自己」は教養主義的特徴を持っています。それは個人の人格を教養によって高めるという意味です。大正教養主義が旧制高校を中心とした学歴エリートを対象として広がり、「教養」という言葉が、同じく英語の“culture”の翻訳語として大正期に流布した「文化」という言葉と意味合いが異なっている事実は、そのことを物語っています。この大正教養主義の個人主義的な理想主義は、のちに三木清によって社会性を持ち得ないという理由から批判されることになります。そして能成もまた、植民地初の帝国大学である京城帝国大学の教授として、この教養主義の限界を身をもって経験することになります。 しかし、「自己」なるものの限界は、このときすでに安倍能成自身が認めていたことに注意すべきでしょう。一九一一年に阿部次郎、森田草平、小宮豊隆との合著として出版された『影と声』における能成の執筆部分の章題は「雲」であり、彼の論理的な文章とは裏腹に暗い印象が窺えるからです。藤村操の投身自殺からこの時期まで、能成は経歴のみから判断すると、まさしく学歴エリートのトップ・ランナーであったかのようにみえます。けれども、彼の文芸評論には、そうした外貌からでは推し量ることのできない暗さが表現されており、また次の文章を含めて考えるならば、その暗さがある程度社会性をもっていたことがわかります。 〔…〕一国に高等遊民が多くなると不平党が増して、社会国家に危害を及ぼすといふけれども、必ずしもさうした者ではない。高等遊民の多い国でなければ実際文明は進まない。一国文明の程度は高等遊民の多寡によつて定まるといつてもよい位だといふ様な説であつた。〔…〕相当の知識や学問があつて、職業を求めるけれども、社会は一向職業を与へてくれない。仕方なしに何もしないで居る、そして生活に困つて居る人もある。これも一種の高等遊民である。又中にはこれといふ職業をしなくても、食ふには困らない。それで自分の趣味好尚に従つて、学問を研究したり、又芸術を鑑賞したり創作したりすることの出来る幸福な人もある。彼等は又立派な高等遊民である。然しながら万事に多忙で余裕のない今の日本が、上に挙げた二種の内、どちらの高等遊民をより多く産出しつゝあるかは、言はないでも分つて居ると思ふ。(安倍能成「文壇の高等遊民」一九一一年) もちろん、「高等遊民」という言葉は夏目漱石の造語です。高等教育を受け知性や教養を身につけながらも、経済的に不自由がないので無理に働こうとはせずに悠々自適に暮らす人びとのことを指しています。ところが、ここではもうひとつの高等遊民像が示されています。「相当の知識や学問があつて、職業を求めるけれども、社会は一向職業を与へてくれない」人びとであり、そのはてに彼らは日々の生活にも困るようになります。これは安倍能成の、みずからも含めた青年層の自己表象ではないでしょうか。確かに彼は漱石門下の新進気鋭の文士として知られていましたし、正規ではないにせよ教壇にも立っていました。しかし、その姿は学歴エリートのトップ・ランナーというにはほど遠かったはずです。この明治末は就職難の時代でもあるのです。そんな同時代の雰囲気を考えると、このような高等遊民的な自覚を能成がもっていたとしても何ら不思議ではありません。これも重要な指摘ですが、「高等遊民の多い国でなければ実際文明は進まない」と断言するところにも、そうした彼の矜持を窺うことができます。 ここまで話を進めると察しがつくとは思いますが、安倍能成が述べた二つの高等遊民像とは、夏目漱石の『それから』の主人公である長井代助像に重なります。「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ」と開き直る代助は、実業家の父を軽蔑しながらも父の経済的援助に依存して暮らし、「自分の趣味好尚」にひたる高等遊民です。しかし、その裕福な暮らしを捨てて三千代とともに生きる決心をしてから、代助は働く場所を求めて右往左往することになることは周知のとおりです。『それから』について、安倍能成は五十の齢を越えた一九三〇年代半ばになって、次のように語っています。冒頭で述べたように、それは彼が「漱石=岩波文化」を代表として知られた時期にあたります。 〔…〕私が先生の作品に際立つて興味を覚えて来たのは『それから』を以て最初とする。その理由はそれが若かつた私の最も興味を持つた恋愛問題を正面的に取扱つた、恐らく先生の最初の作品だといふことにもあるけれども、私の記憶にして誤なくば、先生のその後の作品に一貫する自然の真実と人為の虚偽との矛盾相克といふテーマは、既にこの作品に於ても取扱はれて居たと信ずる。『それから』の次に出た『門』は、過去に恋愛の苦しい歴史を抱いて相倚れる寂しい静かな夫婦生活を描いたものだつたと記憶するが、その当時先生が『虞美人草』の技巧を嫌がられて、『門』の作風を愛して居られたことは、先生の口ぶりからも窺ふことが出来た。『門』の中に現はれたつつましい、ひそやかな、正直な、静かな、明るくはないが澄んだ人間や生活、かうした人間や生活の醸成する空気は、『こゝろ』に於ても受け継がれると共に一層洗練されて来て居るやうに思ふ。(安倍能成「『こゝろ』を読みて」一九三五年) まず表題となっている『こゝろ』の先生も高等遊民の類型であることに注意してください。安倍能成は『それから』を「若かつた私の最も興味を持つた恋愛問題を正面的に取扱つた」小説だと書いていますが、その詳細は省きます。重要であると思われるのは、能成がそこに「自然の真実と人為の虚偽との矛盾相克」という主題を読みとっていることです。もとよりそれは、狭義には代助と三千代の恋愛のことを指します。けれども、『それから』における「自然の真実と人為の虚偽」という対立項は、長井代助が二つの高等遊民像を体現する主人公だからこそ成り立つ構図であるのです。 小宮豊隆が岩波書店から出した『夏目漱石』に関する文章のなかで、安倍能成は夏目漱石のことをこう評しています。漱石の生涯は「真実な正直な、自己の本然に就かなければ安んじ得ない生活」であったと(「『夏目漱石』を読む」一九三八年)。それは、「変物」といわれ「奇矯」と呼ばれても、漱石は「世間的な野心に動かされず、偏に自分の天真を発揮することを志した」からです。能成はそこに漱石の「自己の本然」をみたのです。この漱石の生き方は、かつて青年文士であった頃にみずからこだわった「自己」のひとつのかたちであったはずです。 最初に述べたとおり、戦前と戦後を跨ぐように「漱石=岩波文化」や「漱石文化圏」、「漱石山脈」という言葉が論壇や文壇で登場します。それは、夏目漱石の存在がいかに大きなものであったのかを、残された文学作品とともに、漱石の影響を受けた作家や知識人たちが示したということを意味します。そのなかにあって安倍能成は、その実漱石のことをあまり語らず、一定の距離をおこうとした人物でした。しかし、藤村操の投身自殺から新進気鋭の文士として活躍した十年間ほどの時期を追ってみると、なぜ若き日の安倍能成が漱石とその文学に惹かれたのか、漱石との出会いがいかに彼の自己成型を促したのかを知ることができます。そしてそれは、オールド・リベラリストと称された戦後の彼の道程にも窺えるのではないでしょうか。 |
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167回夏例会 |
平成20年7月27日(日) 午後1時30分〜3時まで。、道後公園子規記念博物館1階会議室にて、会員木村直人氏の「私の坊っちやん論」と題して講演があった。 『坊つちやん』の読み方 …… 多田満仲伝承として読む 山影冬彦(神奈川県藤沢市在住) 1.作品中の該当個所の確認 主人公の坊つちやんが多田満仲の後裔だと述懐して誇る場面は「四」や「十一」にある。 2.多田満仲虚実一覧
3.多田の満仲=只の饅頭という洒落の歴史的用例 多田満仲は十世紀の武将で饅頭が中国から伝来したのは十四世紀頃。故に洒落の成立は十四世紀以降。 〔 俳諧連歌 〕(/は改行の印)堂はあまたの多田の山寺 / まんじゆうをほとけのまへにたむけおき 〔 狂歌 〕 4.多田の満仲=只の饅頭という洒落の意義 …… 権威失墜による身分差別意識の打ち消し この洒落は、徳川身分制社会の頂点に位する神格化された多田満仲を、只の饅頭の所に引きずり下ろすもので権威失墜の見本のような滑稽話。漱石は明治知識人の中ではとびぬけて平等意識の強い人で、また、この種の洒落が飛び交う講談落語に親しみながら育った。多田の満仲=只の饅頭の洒落を前提にし、身分差別意識を自動的に打ち消す効果をも計算に入れた上で、漱石が坊つちやんにこの種の述懐をさせたものと思われる。 6.作者漱石の意図 漱石『文学論』の「第四編 文学的内容の相互関係」の「第四章 滑稽的聯想」の「第一節 口合」に「無意識的洒落」についての考察がある。そこにおいて漱石は、「今一人ありて或る源因の為め(無識又は誤解等)洒落を洒落と心付かずして真面目に放つ事あれば、吾人の洒落に対する滑稽感は直ちに其人物の上に落ち来るが故に単に言語のあやのみにて得る感じよりは数等活躍せざるを得ず。如何となれば此際に於ける滑稽感の目的物は死したる一句にあらずして血あり肉ある具体的の活物なればなり。彼の口にせる滑稽は彼の人格に附着して離るべからざるが故に、彼の滑稽は彼の人格の一部分なりと断定し得るが故に、此格段なる滑稽の小窓を通して其奥に潜む活躍せる大滑稽を予想し得るが故に、一句の滑稽は単に一句の滑稽として線香花火の如くに消滅するものにあらず。忽然として人工を脱して天籟の妙音となり、畫龍水を得て一躍天に登るに至る」(『文学論』 岩波『漱石全集』第十四巻、三〇二〜三〇三頁)と考察している。 この考察は、坊つちやんが只の饅頭との洒落に気づかずに「多田の満仲の後裔だ」と語る事態と見事に重なる。『坊つちやん』と『文学論』は並行して執筆された。一方には主人公による只の饅頭との洒落に気づかぬ「多田の満仲の後裔だ」述懐があり、他方には「無意識的洒落」理論が考察される。これは偶然ではない。この理論的考察の存在は、漱石が坊つちやんの述懐を、多田の満仲と只の饅頭の洒落としてはもちろんのこと、「無意識的洒落」としても描こうとしたことを証拠立てる。作品『坊つちやん』とは、漱石が学者として『文学論』で築き上げた自家特製の「無意識的洒落」理論を、作家として創作実践の場で実地に応用してみせた見事な作例だった漱石の意図は、坊つちやんに「洒落を洒落と心付かずして真面目に放」たせることによって、「洒落に対する滑稽感は直ちに其人物の上に落ち来るが故に」「活躍せる大滑稽」が「人格」化したような人物となるように坊つちやんを描くことにあったといえよう。漱石のこの意図は当たっている。坊つちやんは「多田の満仲の後裔だ」と語って菓子の饅頭の所に転落していて面白いだけではない。その事態に全く気づいていないから余計に面白い。正に「忽然として人工を脱して天籟の妙音となり、畫龍水を得て一躍天に登るに至る」が如き「活躍せる大滑稽」人物となりきっている。 |
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168回秋例会 |
平成20年10月4日(土) 午後1時30分〜3時まで。県立松山東高 にて同校教諭門田篤稔氏の 「受験問題に現れた漱石−受験生に何を読み取らせたいのか−」と題しての講演があった。 受験問題に現れた漱石―受験生に何を読みとらせたいのか― 愛媛県立松山東高等学校 教諭 会員 門田 篤稔 1 はじめに 今年の春(一月)、センター試験において、『彼岸過迄』が出題された(岩波「漱石全集【全二十八巻別巻一巻】」第七巻二四九頁二行〜二五五頁十二行)。これは、これまで漱石が一度もセンター試験には出題されておらず、この一回をもって二度と出題されることがないことを意味している。ただし、平成二十二年度からは違ってくるようだ。 以下に2007年8月20日 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20070820ur01.htmの解説※1と独立行政法人大学入試センターから以下の発表(2008年8月5日)※2とを載せる。 ※1 一方で、過去問については、問題を解いたことがある人とない人で不公平が生じることを避けるため、1979年から始まった前身の共通一次試験を含め、一度も出題されたことはない。また、教科書に載っている題材も出題しないことが慣習になっていた。しかし、問題作成の過程で、センター試験や他大学の過去問、教科書との重複をチェックするのに多大な時間を割かれる状況が年々、深刻化してきた。特に、国語の古典では、「枕草子」などの著名作品について、教科書や予備校の模擬試験で使われている可能性が高いとして出題を避けており、「高校生が読める程度の難易度で、興味を持つような内容の題材を探すのは限界がある」との声が上がっていた。 つまりは、漱石の再登板どころか、過去の大学受験問題において出された箇所からの出題や予備校等受験産業会社の模試の出題範囲からの採用も可能になったというわけだ。ただし、漱石がセンター試験にすぐに出るはずもなければ、国公立・私立の各大学が、ここ最近他大学が受験問題とした箇所と同じ部分を採用してくるとも考えがたい。 2 教科書に現れた漱石作品 (1)〜(3)の問題を考えてみる前に、教科書の漱石について考えてみる。センター試験はもとより、各大学の受験問題においても、「教科書に載っている題材も出題しない」ことを基本としているからだ。この点については松山東高教諭光宗宏和氏の詳細な論文「教科書の中の漱石(教育研究紀要第37集 平成17年3月)」があり、そこから引用する。 「1989(平成元)年版学習指導要領(実施は平6)になると、「国語T」が必修、「国語U」は「現代文」「古典T」とともに選択となった。(中略)「国語U」では、すべての教科書会社が『こころ』を採択している。漱石の小説といえば『こころ』、評論といえば『現代日本の開化』という時代になった。」ここに至って漱石は『こころ』の作家となったのであり、明治という日本を考えた思想家となった。この集中的大採録が、後の衰退を意味することは、自明のことである。 「1999(平成11)年版学習指導要領(実施は平15)には「国語総合(標準単位数5)」と「国語表現T(標準単位数2)」が選択必修」となり、いずれかを選択すれば良くなった。週2回の授業をすれば、その後高校時代、国語を一切しなくても良いと言うことになったのだ。漱石作品も息の根を止められた感がある。「平成12年に比べると平成17年は、教科書会社が4社減り、教科書もかなり減少している。しかも、最も新しい平成16年検定「現代文」7冊に限ると、その中で『こころ』を採録しているのは1冊だけであり、漱石作品が1つもないものが3冊ある。」確実に、漱石作品は採録されなくなってきていると言えよう。 PISA調査(Program for
International Student Assessment)でのフィンランドの好成績や、日本の順位の下落を挙げるまでもなく、こうした小論文の必要性は、ますます高くなってくるだろう。それは、日本人が今後の国際社会で生き残るためにも、重要なものであろう。 |
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169回冬例会 |
第169回例会は平成20年12月7日(日)、午後1時30分〜市立坂の上の雲ミュージアムにて開催。漱石忌(9日)を繰り上げて、正宗寺住職田中義晃師(副会長)の代理、田中義雲師読経による法要の後、講演会。 東洋城と漱石、そして壷天子 会員 山本典男 数年前、俳人村上壷天子の旧居が取り壊され、遺族の方から壷天子の遺愛の松根東洋城からの形見を譲り受けた。松根東洋城からの形見は漱石の俳句だった。私はそれまで俳句にも門外漢だったが、その句が漱石、東洋城、壷天子とつながり、これらの句に深い師弟の愛が受け継がれていることを感じ、これを残すことが私の使命と考え、伊予郡砥部町五本松の窯業試験場前の自宅の一角に漱石と東洋城の師弟の小さな句碑を建てた。 三、東洋城「いつくしめば」の句 四、昭和三十九年、東洋城没 松根家の菩提寺、宇和島市の大隆寺に埋葬され、墓の戒名は安倍能成が書いた。壷天子は一回忌に招かれ、大隆寺の墓碑の前で、師を偲び「いつくしめば叱ると聞ける寒さかな」の句を得た経緯と出会いの講話をする。偶々この講話に居合わせた宇和島高校の兵頭正校長は「教育における師弟、教師と生徒の在り方はかくあるべし」と感動、同校の七十周年の記念事業として、句碑の建立を決意、この句の揮毫 を壷天子に頼み、この句碑は現在も同校の校門に兵頭校長の副碑とともにある。 五、東洋城の「はなむけ」は漱石の句 今回の句碑にある漱石の句「風に聞けいずれの先に散る木の葉」の経緯を説明する。東洋城が壷天子に形見として送ったこの短冊は漱石の短冊である。東洋城は昭和三十九年十月二十八日、八十六歳で亡くなる。生涯娶らず、名門の同家を継ぐものはなく、実弟の松根宗一氏が喪主となった。喪明けに宗一氏を通じて、故人の遺志で形見分けがあり、壷天子には東洋城遺愛の漱石の句が贈られた。近々松根宗一氏から送られてくるとの松岡凡草から壷天子への葉書がある。 六、東洋城の俳句へのきっかけ 明治二十八年に松山中学で漱石に教えを受けた一人が松根東洋城であった。彼は東京の一高に入ったが、漱石が俳句に夢中になっていることを松山中学から五高に入っていた友人の矢野義二郎から聞き、漱石に俳句の添削を頼めないかと伝え、矢野は漱石に伝える。これが松根東洋城の俳句にのめり込む切っ掛けであった。「ゆで栗を峠で買ふや二合半」の句などを漱石に褒めてもらい、しだいに俳句熱が昂じていった。 漱石は英国留学の後、『吾輩は猫である』などのヒットで小説家として有名になる。安倍能成、鈴木三重吉、小宮豊隆,後には芥川龍之介等、彼を慕って多くの門下生が集まって来た。執筆時間のなくなっていた漱石は門下生との面接の日を木曜日に限ることになる。これが「木曜会」の始まりで、東洋城もその常連メンバーで漱石に可愛がられた。明治三十九年に虚子に宛てた手紙に「東洋城は遠慮のない、いい男です。あれは不自由なく暮らしたからああゆう風に出来上がったのだろう。其れから俳句をやるからあんなになったのであろう。僕と友達の様に話をする。そうして矢張り元の先生のような心持を持っている。それが全く自然で具合がいい。」と好意をもって書いている。 七、東洋城主宰の「渋柿」の発行 漱石は小説家として人気多忙のために俳句への関心は次第に薄れつつあった。その彼が一生、俳句を続けたのは、東洋城がいつも家にきて「先生俳句を作りましょうよ」と句作を誘いかけたためとも言える。大正三年、東洋城は大正天皇が「俳句とは」の御下問があったのに対し、「渋柿のごときものにそうらへども」と奏上したものに端を発し、その翌年、俳誌『渋柿』を主宰することになる。この『渋柿』は現在も続けられ一○○○号を超えており、『ホトトギス』に継ぐ俳誌である。 八、修善寺大患と「風に聞け」の句 九.漱石の死と東洋城 東洋城は大正五年十二月初め、書斎の柱に漱石の短冊を新しく掛け変えた。「風に聞けいずれか先に散る木の葉」冬が来たので冬の句を、そんな思いで掛け変えたが、冬に落ちる木の葉のようにその月の九日に漱石は逝った。東洋城は柱の短冊に思わず答えたという。「死顔に生き顔恋ふる冬夜かな」と。半藤氏は、師を偲んで句に詠んだ東洋城のことをそう記している。「新小説夏目漱石・臨特号」で松根東洋城が寄稿した「先生と俳句と私」に「風に聞け・・」の句の写真と東洋城の思い出がともに出ている。東洋城は昭和三十九年に八十七歳で亡くなり、その句が弟子の壷天子に形見として贈られた。また、壷天子は昭和五十九年に九十六歳で亡くなり、今度は、漱石の句は、場違いな私の所に来た。不思議な縁であった。漱石と東洋城、壷天子と続く師弟愛の句の方端をつかんだ者として漱石と東洋城の句碑建立を決めた訳である。 一〇、東洋城の父母の墓 東洋城の先祖は宇和島藩伊達家の城代家老であった。平成十五年の八月、私は宇和島の大隆寺の松根東洋城の墓碑を訪ねた。大隆寺は宇和島藩伊達藩主の菩提寺で、その家老を勤めた松根家代々の墓地もそこにあった。豊次郎、松月院殿東洋城雲居士、昭和三十九年十月二十八日没八十七歳、友人の安倍能成の筆である。松根東洋城は本名を豊次郎といい、明治十一年二月二十五日、東京の築地に生まれた。東洋城の号は豊次郎をもじったものである。父の権六は、宇和島藩首席家老松根図書の長男、母の敏子は伊達宗城公の次女。祖父の松根図書といえば、幕末四賢公の一人といわれた伊達宗城を裏から支え、宇和島に図書ありと他藩の藩主から羨まれた希代の切れ者。松根家といえば親戚に皇族や華族がいる名門である。 一一、漱石に依頼の東洋城の母の戒名 東洋城の墓碑の横に、右に松雲院殿閉道自覚居士、左に霊源院殿水月一如大姉とあるのが父権六と母敏子の墓である。東洋城の『句全集』の年譜には、父の権六は明治四十四年に死亡とある。ところが『漱石全集』の「書簡集」には、明治四十四年に東洋城の母の戒名を相談したことの漱石の返信の手紙が五通残っている。明治四十四年の漱石の「頼まれて戒名選む鶏頭かな」はこの時の句である。単純に考えれば明治四十四年に亡くなったのは父の権六の筈である。それを生存中の母の戒名を漱石に相談するのは変でないかと書簡を見直したが、手紙で漱石に託した東洋城の相談は母敏子の戒名の件で、亡くなった筈の父の権六の戒名の相談は皆無である。そこで、父の権六の戒名は、権六が亡くなった一月には戒名は大隆寺の住職より贈られ解決済みでなかったかと解釈した。その上で、東洋城の漱石への依頼の内容は次の三点にあると考えた。 @ 権六の一回忌までに墓石を建立する必要があるが、この際母の戒名も敬愛する漱石に決めてもらって墓石に彫っておきたい。 A 漱石の玄関の表札の字が気に入ったので、両親の墓碑は、これを書いた菅虎雄に頼んでもらいたい。 B 母の戒名には宇和島のイメージから海に因んだものを漱石に考えてもらいたい。 以上の三点が東洋城の漱石への依頼の内容ではなかったかと漱石の手紙から考えた。ところで、漱石の書簡では、東洋城の願いを聞き、滄?院殿水月(一夢)一如大姉ではどうかと東洋城に提案している。それに対し、漱石は「浩洋院殿では水月云々に即かず不賛成に候」と書き、海に関する五つの別の院殿号を提案、また翌日の手紙で、漱石は「昨日ある本を見たら海のことを霊源というように覚え候。霊源院殿は戒名らしく候、如何にや」とあれこれ詮索し、翌日、気の早い漱石は、友人の菅虎雄に戒名の揮毫を依頼している。文意は「縁起は悪いが戒名を是非書いて貰いたい。僕の教えた松根という男の父母である。書体は正楷、字配り封入の割の通り、右は父、左は母、ご承知ありたし。松根という男は引っ越しの時、僕の門札を書くところを見ていたから君に頼みたいといっている」とある。 一二、菅虎雄のこと 菅虎雄は漱石の大学時代の友人で、漱石を松山中学に紹介したり、熊本の五高の教師に紹介したのも彼で、漱石の親友であった。安倍能成が、漱石が生前、最も親しくしていた友人に菅虎雄を挙げている。彼はドイツ語教師であったが、書にも堪能で一高の時の教え子芥川龍之介の著作『羅生門』の題字や、漱石が亡くなった時、雑司ケ谷にある漱石の墓碑も彼が書いている。菅は漱石の頼みでもあり、数枚の候補作を書いている。ところが、東洋城は、直前になって中止したい、などと優柔不断なことを言っている。漱石は慌てて、「実は先刻、菅に手紙を出して頼んでしまった、いまさらよすと云うのも異なものではないか。それに私もこの戒名に愛着もある。」と東洋城に翻意を促しています。また別便では、菅虎雄の書いた戒名を複数見せて「小生のよしと思うに朱円を付し置き候」と結び、これで漱石達のやり取りは終わる。漱石は大正五年に亡くなり、東洋城の母親は昭和八年に亡くなっており、書簡だけでは分からないので漱石の戒名は実現したのか確かめる必要があると考えた。なお菅虎雄は漱石の墓碑も揮毫している。この顛末を宇和島の大隆寺の墓地で実際に確認するのが、旅の目的だった。だが、私の危惧に関わらず、漱石が考えた戒名は一字も修正されず、権六の戒名の横に母親の「霊源院殿水月一如大姉」はあった。漱石の「頼まれて戒名選む鶏頭かな」は確かに実行されていたのであった。(以下一三・一四は編集の都合上了解を得て省略) 第一六七回例会 平成二〇年一二月七日 虚子『漱石氏と私』の持つ意義について ―漱石・虚子の宮島行き記述から― 会長 頼本冨夫 一、はじめに 明治二十九年春、夏目漱石は松山の伊予尋常中学を辞し、第五高等学校教授として熊本へ赴任した。途中宮島までは上京する高浜虚子が同行した。この時の二人の行動は虚子が「漱石氏と私」の中で詳しく記述しているが、松山出発日時は春四月であるにもかかわらず秋に、宮島の宿所名が、正しくは「岩惣」であるのに「紅葉」と、記憶違いであろうか誤記されている。本稿ではその誤記の状況と、「漱石氏と私」の持つ意義について考察する。 二、虚子の著書「漱石氏と私」の記述の中から松山(三津浜)出発に関する記述を次に挙げる。 「(略)確か漱石氏は高浜といふ松山から二里ばかりある海岸の船着場まで私を送つて呉れて、そこで船の来るのを待つ間、「君も書いて見給へ。」などと私にも短冊を突きつけ、自分でもいろいろ書いたりなどしたやうに思ふ。それが此春の分袂の時であつたかと思ふ。それから秋になつて又帰省した時に、私と漱石氏とは一緒に松山を出発したのであつた。私は広島から東に向ひ、漱石氏はそこから西に向かつて熊本に行くのであつたが、広島まで一緒に行かうといふので同時に松山を出て高浜から乗船したのであつた。(略)―さてその広島に渡る時に漱石氏はまだ宮島を見たことが無いから、そこに立寄つて見たいと思ふ、私にも一緒に行つて見ぬか、とのことであつたので私も同行して宮島に一泊することになつたのであつた。その時船中で二人がベッドに寝る時の光景をはつきりと記憶している。宮島までは四五時間の航路であつたと思ふが、二人はその間を一等の切符を買つて乗つたものである。それは昼間であつたか夜であつたか忘れたが多分夜であつたろう。一等客は漱石氏と私との二人きりであつた。(略)こんな寝台のやうなものゝ中で寝たのは初めてであつたので、私はその雪白の布が私の身体を包むのを見るにつけ大に愉快だと思つた。そこで下から声をかけて、「愉快ですねえ。」と言つた。漱石氏も上から、「フヽヽヽ愉快ですねえ。」と言つた。私は又下から、「洋行でもしてゐるやうですねえ。」と言つた。漱石氏は又上から、「そうですねえ。」と答えた。二人は余程得意であつたのである。その短い間のことが頭に牢記されてゐるだけで、その他のことは一向記憶に残つて居らん。宮島には私は其前にも一二度行つたことがある為に、却つてその漱石氏と一緒に行つた時のことは一向特別に記憶に残つて居らん。(略)」(大正七年一月一三日初版 アルス社 同年阿蘭陀書房版も。) 同様に「俳句五十年」の中、『漱石と宮島に』では「(明治)二九年の十月に、私は偶々松山に居りまして、母の病気の介抱をしてをつたと思ひますが、夏目漱石が松山の中学校から熊本の第五高等学校に転任する事になりまして赴任する時に、私にも一緒に宮島へ行ってみないかといふ事でありまして、同行しまして、(略)定本高浜虚子全集第一三巻 昭和四八年刊 中央公論社初昭一七年」ついでながら、また同書三では、「漱石氏から私に来た手紙の、一番古いのは明治二九年一二月五日附きで熊本から寄越したものである。先ずその全文を掲げることにしよう」とし、「来熊以来は頗る枯淡の生活を送り居り候。道後の温泉にて神仙体を草したること、宮島にて紅葉に宿したることなど、皆過去の記念として今も愉快なる印象を脳裏にとどめ居り候。(下略)」と漱石も宿屋名を「紅葉」と記している。これらの記述を典拠として年譜では、 「明治二九年一〇月(二三歳)「(略)暮秋。松山に在り。漱石の熊本赴任を送って宮島に至り共に紅葉を賞す。」高浜虚子全集第六巻改造社昭和一〇年刊」となっていたが後に 「明治二九年(一八九六)漱石の第五高等学校への赴任を送り、宮島に遊び紅葉谷公園に宿る。4月」と訂正されたのは当然といえる。(定本高浜虚子全集別巻 虚子研究年表 昭和五〇年刊 毎日新聞社 松井利彦著) 参考までに、松山出発日時を漱石の書簡等から検証すると 明治二九年四月一〇日(金)はがき 消印なし 村上半太郎宛 三津浜久保田回漕店より「折角御来訪被下候ひしに両人共不在残念に存候 花に寝ん夢になと来て遇ひ給へ 漱石 花の道二つに分れ遇はざりし 虚子」とある。(岩波漱石全集(九六年版)第二十二巻書簡) また同年四月一五日(水)横地石太郎宛、熊本第五高等学校よりの書簡では、「拝啓出発の際は御見立被下ありがたく奉謝候小生去る十日発十三日午後当地に着致候(略)」 となっていて、従って明治二九年四月一〇日松山発は間違いないように思われる。増補改訂漱石研究年表(荒 正人著昭和五九年集英社)もこれを採用していると考えられる。 付記和田茂樹先生(故人愛媛大名誉教授・講談社子規全集編集者代表)は「霽月(村上半太郎)の『逍遥反古』(句文集)の記述を引用され、「翌(四月)十一日午前九時、、霽月らの見送りを受けながら漱石と虚子は揃って三津浜港を出港し、松山を後にした。」(九五年版漱石全集第一四巻月報16『漱石・初期句作の一面―全集未収録句を紹介しつつ』岩波)とし、四月十一日三津浜出航としている。なお、同氏の(子規の素顔二六二頁 えひめブックス愛媛県文化振興財団平成一〇年三月三一日刊)にも同様の記述がある。それを典拠として(〇四年岩波)漱石全集第二七巻 年譜では、「明治二九( 一八九六)年四月一一日 東京へ行く高浜虚子と松山の外港三津浜を出発し、宮島に一泊した。(和田)」となっている。しかし、この件については平成一四年七月松山坊っちゃん会(漱石研究会)第一四三回例会(『漱石―松山から熊本への旅』講師 会員山崎善啓氏、)の席上、和田先生自身が四月一〇日出発と訂正された。ちなみに山崎氏は他の資料を併用し、四月一〇日午前九時三津浜出航としている。 三、高浜虚子著「漱石氏と私」について 同書は大正五年一二月九日漱石の死の直後執筆、初出は翌年の二・三・四・五・六・九・一〇月号の「ホトトギス」に七回にわたって連載された。 同書には明治二九年一二月五日〜大正二年六月一〇日までの一〇一通のはがきを含む漱石の虚子宛書簡が掲載されている。外に漱石以外が二通ある。紅野敏郎氏は、岩波文庫『回想 子規・漱石』 高浜虚子著 解説の中で次のように述べている。 「(前略)虚子のこの本の功績は、漱石の書簡を没後早々の時点で、多量に挿入しつつ、この一文が語られている点にある。漱石との出会いから『ホトトギス』誌上でのエッセイや小説の寄稿、それが縁となっての漱石周辺の人物の作品の寄稿、さらに朝日新聞入社後の漱石との関係なども浮かびあがってくる内容となっている。書簡を通して語らしめるという手法は、語りの読み物としての迫力は若干弱まるが、漱石書簡をこのようなかたちで保存、発表するという効力を存分に発揮した。次々と編まれていく『漱石全集』の書簡の巻の基礎づくりがすでにこの時点でなされていたのである。それも「漱石氏が『猫』を書くようになってから以来一両年」のものが多く、それ以前のものは「極めて少」なく、また朝日新聞社入社後、「その誌上に筆を執らぬようになってから」のものは「また著しくその数を減じている」と率直に書いている。(略)漱石書簡の醍醐味が、これによって満喫、広く喧伝された効果は実に大きい。虚子の側からいえば、計算あってそうしたのではなく、書簡がかたわらにあるからそれをすべて活用して、というおのずからの行為であったのだろうが、漱石の書簡は小説以上の面白さを持つ文学、と佐藤春夫をして言わしめる発端となったのである」と。 虚子は『漱石氏と私』の序の中で「漱石氏と私との交遊は疎きがごとくして親しく、親しきがごとくして疎きものありたり。その辺を十分に描けば面白かるべきも、本篇は氏の書簡を主なる材料としてただ追憶の一端をしるしたるのみ。氏が文壇に出づるに至れる当時の事情は、ほぼこの書によりて想察し得可し」と記している。 紅野氏も述べているように『猫』前後の書簡が、とりわけ多いのは、朝日新聞入社以前の二人の親密な関係から当然である。そこに漱石・虚子の友情が感じ取られる。『吾輩は猫である』・『坊っちやん』その他は無名の漱石を一躍人気作家に押し上げた。発行所を松山から東京へ移し、雑誌経営の経験日も浅い虚子にとっては、雑誌「ホトトギス」の売り上げが大きく伸びた喜びは言うまでもあるまい。『猫』以来虚子主宰の「ホトトギス」は、小説重視の方針を取っていたが、漱石朝日新聞入社以後、読者減少し、誌勢は衰退した。そこで大正二年二月年一〇月号からは経営方針を改め、他の小説連載をやめ、単独執筆とし小説重視的性格から俳句雑誌的性格へと徐々に方向転換した。大正五年は漱石は作家として惜しまれつつ没したが、発展に大きく貢献した友人漱石のために追悼号とか記念号は特に出さなかった。虚子にとってはあくまでも漱石は朝日新聞の小説記者であり、漱石の『猫』は自分が薦めて書かせた小説であり、漱石の成功により自分も刺激を受けて小説を志した、いわばライバルである。漱石追悼の特集は出さなかったのも、「交遊は疎きがごとくして親しく、親しきがごとくして疎き」状態だったからである。その代わりとしてか、「漱石氏と私」が漱石死去の翌年大正六年、「ホトトギス」二月号に掲載された。その目次では、主宰であるからか他の活字の三倍の大きさで巻頭で目を引いている。追悼の意味をもたせたものか。大正六年一〇月号では虚子の「京都における漱石氏」がトップで次に「漱石氏と私」の第七回となっている。虚子の文が二つ並んで、これも他の活字より大きくこれも読者の目を引くに十分である。同年の一二月になり、白石 大氏の「漱石先生の一面」という文が掲載されているが、普通の活字で、以後しばらく漱石関連の文は消える。虚子は漱石を偲び、漱石書簡を掲載することにより、漱石が「文壇に出づるに至れる当時の事情」を書き留めたのである。没後しばらくの間、漱石特集が多くの新聞雑誌等で組まれた。そういう社会性・ニュース性をも考慮し、あくまでも「ホトトギス」のために執筆したわけである。雑誌経営者としての虚子のしたたかさが垣間見える。これは「ホトトギス」の歴史からも考えられることである。山本健吉は「企業としての『ホトトギス』王国」(明治文学全集56筑摩書房 高浜虚子)と言っている。 よって虚子にとっては、ここでは書簡によって交遊をかたることが目的であり、漱石と宮島へ行った日時などに一々こだわる必要は感じなかったのである。その他愚陀仏庵に於ける子規・漱石同居でも明治二九年(正しくは明治二八年)としている。漱石との交遊を語れば、それでよかったのである。なお、参考までに漱石全集全一四巻(大正六年本、定価の記載のない予約出版本)刊行開始大正六年、完結大正八年、第一二巻書簡集大正八年四月三〇日刊、第一三巻 続書簡集大正八年六月一五日刊で年譜は付随しない。従って日時等拠るべき資料は虚子執筆当時はまだ存在しなかったのである。ついでながら、宮島行きの一等船室内の漱石・虚子が初めてベッドで、寝てみたりする場面は、実際には日中だったのであろうが、洋行を夢見る二人の青年の微笑ましい姿が描かれていて面白い。 |
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(漱石研究会)平成19年の記録
1 | 第162回春例会 | 平成19年4月22日日 松山市道後公園内 市立子規記念博物館会議室に於いて第162回春例会が開催された。総会に引き続き三好典彦三好神経内科院長の「夢十夜を精神医学の立場から読む」と題する講演と木城香代氏の「夢十夜}の『第一夜』の魅力的な朗読が講演を挟んで冒頭と最後にあった。なお、講演は質疑応答を中に入れながら進行する形であったが、本稿では整理の都合上、三好氏が当日持参された資料の中からの「第一夜」に関する女性のイメージの三つの章を順序に従って次に挙げる。 男性の夢の女性イメージについて 認識の根本について私は次のように考える。我々が認識したという何事かは、外界の対象からの刺激が感覚 器を経て脳へと入力され、それが予め脳にある内部情報と照合され、その上で出力された情報であると、つまり、外界の対象を感知すると、必ずそれに対応した内的なイメージが刺激されている。脳には、そのような対応関係を作るシステムが予め準備されていると考えられる。 夢でも登場人物を「○○さん」と認識したら、それに対応している内部情報のイメージである。では、そのような実在と対応しないイメージは何だろうか。実在と結びつかないなら、それこそ夢を見た人の固有のもので、しかも予めあったものと考えるのが自然であろう。だからそれは、その人が本来的に抱えているイメージである。「第一夜」の夢に登場する女性イメージも、漱石の内部にある男性にとってのW内なる女性Wの典型である。それに対応した固有名詞がなくても、決して女性一般のことではない。夢見手にとって、外的には見知らぬ人であるが、内的には馴染みの人である。 生物界のオスにとって、メスが性的につながりたいという本能の求める対象であることに異論ないはずである。 ということは男性が夢の中で出会う女性も、男性が求めている特別な対象の象徴だと考えることは自然であろう。脳が進化を遂げた人類の男性の場合は、性の対象としてだけではなく、いくらかは文化的になり、情緒的に、精神的につながりを求める対象であったりもする。すなわち、この男性のW内なる女性Wはあらゆる次元を含む、男性がつながりを求めいるものの象徴であると考えられる。 さて、夢の女性像を詳しく見ていくと、「長い髪」「色白で、柔らかな瓜実顔」「大きな潤いのある眼、真っ黒な瞳」というイメージである。その女性がどのような様子かというと、血色はよくて、むしろ活気を感じるほどである。そして女性は、静かな声であるが断固とした調子で、「もう死にます」とはっきりと意思を示す。この女性は、自らの意思を持つ女性のようだ。 意思を封じ込められた女性について この夢の女性イメージを検討する前に、対称的な、自らの意思を示す自由のない「意思を封じ込められた女性」について触れてみたい。というのも、私は漱石のことを調べ、漱石がそのような女性に対して強い感情を持っていると感じたからである。それを示すのに最も適当なのは、漱石の些末な日常を写している「文鳥」であろう。 (文鳥のあらすじ省略 )これだけでは、漱石の八つ当たりである。ところが、文鳥と交わる中で、自ら少年の頃をふと思い出し、そのことを挿間的に文章に織り込むことで趣きを深めている。 思い出の女性はその時机にもたれていたが、少年時代の漱石のいたずらに気づいて、ものうげに顔を向ける。お嫁にゆく前の女性であるが、その女性の眉が心持ち八の字に寄っていたということを見て、まだ少年であった漱石でも、女性の境遇を察する。さらに、三重吉の娘の縁談話が同時進行で進んでいる。漱石はそのことについて相談を受けたが、それを反対しているらしい。「いくら当人が承知だつてねそんなところへ嫁にやるのは行く末よくあるまい。まだ子供だから、何処へでも、行けと云われる所へ行く気になるんだろう。一旦行けば、無闇に出られるものじやない。世の中には満足しながら不幸に陥っていく者が沢山ある」というように考えたりしている。 文鳥を見ているうちに想起されてきた子供の頃の女性への淡い想い。その時の女性の様子からうかがえる女性の暗い運命。三重吉のまだあどけない娘に対する懸念。そして籠から出ることなく死んだ文鳥。それらのイメージが、心的外傷後ストレス障害における進入的かつ苦痛に満ちた想起のように漱石の脳裏に浮かび、その様子を漱石は忠実に写生している。さらに、漱石自身の八つ当たりまでも写生し、読者はそれを目の当たりにするる。 漱石には、籠の中の文鳥が「意思を封じ込められた女性」と重なって見え、文鳥の死という結末はそのような女性の悲しい運命を象徴したものと映ったのであろう。漱石の身近には、そのような女性ばかりがいた。実母もしかり、養母もおそらく、そしてやさしかった嫂も十六歳で三十二歳の兄の再婚相手にさせられた娘もそうだ。 漱石はそのような女性の下で育ち成長した。漱石の怒りは、辛い運命を女性にもたらす男性に対して、つまり、実父、養父、三兄、三重吉に向かっている。しかし、文鳥の死については漱石にこそ責任がある。下女への八つ当りは、不本意ながらも実父らと同様の男性の一人となつてしまつた漱石が、その怒りをぶつける矛先を見失った結果としか思えない。 封建時代を生きる女性が全て無力で悲しい女性ばかりなのではない。「家」を守ることを自ら引き受けた女性は輝いていた。しかし、漱石の時代に「家」はWマナW(霊的な力)を既に失っていて、形骸化しつつあった。だから、その権威にしがみつく男性は女性を都合のいいように利用した。そのような「家」に黙って殉じる女性の運命は悲しい。結局、最後に残る女性の犠牲によって、W家じまいWとなるのだろう。「家」に依りかかっている男性は、自らの手で始末をつけることは難しかろうから。 「家」に縛られていた日本の女性に許されていた個人的な意思は、「死にます」と「出家します」だけだろう。それは「黙って去ること」である。このことは封建時代よりも、平安時代をさらに遡る時代からの日本の伝統であろう。「鶴女房」「かぐや姫」「源氏物語に登場する女性たち」から綿々とその伝統は受け継がれている。「家」はそのような女性によって支えられているから、支えを失った「家」は崩壊し、男性は取り残され途方に暮れる。そのような男性の代表は「浦島太郎」だろうか。あの「光源氏」でさえも、最後にはWものがたりWから排除されてしまう。「文鳥」の最後の場面においても、この男性側の欺瞞と無力感が表れているように思う。 だから今日でも、女性が個人的な意思を持つと破壊的なことが起こりがちである。「大人にとって都合の良い子」として育てられ、家族の中の役割を当然のように引き受けていても評価されず、「家族の自立することを期待している」という矛盾に満ちたメッセージを真に受ける女性が、それゆえの心細さと、口惜しさの中で「目に見える形で自分の力を示そう」という意思を持つた時に、努力の成果を評価しやすい「ダイエツト」という目標が目前にあれば、それに飛びついてしまうだろう。おそらく、これが「摂食障害」の始まりである。そして、彼女たちの密かな願望とは、それは単なる「やせ願望」ではなく、自らのマネキン化なのだろう。マネキンになればスタイル抜群な上に疲れを知らない。他人の欲望の対象にもならない。だから、スタイルを良くする目的は、男性を誘惑しようということではない。自らの強い意志で以って、意思を封じ込めた女性(マネキン)になろうとする。現代の女性はは矛盾に満ちた苦悩を抱えがちである。 今時の男性でも、「自ら意思する女性」とのつきあいには戸惑い、途方に暮れる。ということは、W内なる女性Wに対してもそうなのだから、今時の男性も、相変わらずW内なる女性Wの意思を封じ込めようとしがちである。つまり、日本では、男性にとっても、自らの意思を持つということは大変なのである。そして、W内なる女性Wとつきあう代わりに、自らの都合通りになるマネキンを求めて二次元的キャラクターを追いかけるか、それにさえ疲れて引きこもるかになる。 自ら意思する女性、鏡子夫人 漱石の身近には、自ら意思するようになった女性もいた。それは鏡子夫人である。女性の典型的なヒステリーは西洋では19世紀から増えている。女性が開放され始めた頃、つまり西洋でも女性が意思を示すことを少し許されるようになった時に、しかし、その意思が社会に受け入れられて十分に満たされることはないという状況下において、古典的なヒステリーは出現しやすい。だから、当時のヒステリーの女性はけっこう強い人が多い。男性治療者に向かって派手な症状を出していた女性が、男性治療者と格闘した後にふっきれて治り、その後は社会に向かって活躍している事例がいくつもある。フロイトやユングはそのような患者を、多く診ていたのではないかと思う。 鏡子夫人も、一時は入水自殺を図るほどの状況であったが、それからはふっきれたのか、立ち直っている。以後は自らの意思でもって漱石と対応するようになり、漱石亡き後も「私は私よ」という様子がさわやかな感じだ。漱石の弟子たちにはそれが気に入らなかったようであるが。 「意思を封じ込められた女性」に強い感情をを持っていても、では漱石は「自ら頤使する女性」に対して理解が深かったのかというと、そうでもない。前述したように、夫人が入水自殺を図った時には、漱石も途方にくれたようで、自分の体と夫人の体とをひもで結んで寝たりしている。その後も、夫人が立ち直り自ら意思するようになったらなったで、時々ヒステリーを起こす夫人には手を焼き、それを高慢と感じて怒るる漱石である。それはつまり、アンビバレント(両価的)であったということである。そのような事情を考慮せずに、今日でも鏡子夫人のことを、ただ「ヒステリーだ、悪妻だ」と言っている人は、古い頭の持ち主ではないだろうか。 『虞美人草』の藤尾(省略) 「第一夜」の女性のイメージ ここで、ようやく「第一夜」に話を戻すことができる。自ら意思する女性は死ぬ定めにあり、そうならないためには意思を封じ込めなければならないという。日本の女性の歴史を踏まえた「第一夜」であると思うから、いろいろ述べた。「第一夜」でも、やはり日本の「自ら意思する女性」の例にならって、夢の女性は「死にます」と言う。しかも、揺るぎなく凛として言うから、夢見手はそれを俄かに理解できない。夢見手は、彼女の瞳の中に自分の姿を 見ているだけである。 女性は死ぬ前に、夢見手に対して「百年待ってください。きっと会いに来ますから」と言い残す。そして、女性は死に際に涙を流す。日本の女性の伝統なら、ここはただ黙って去るところであるが、この女性はそこが普通の日本の女性とは違っている。そのためだろうか、男性の方もそれにつられたように、百年間傍らで待つと約束する。 それから夢見手は約束どおりに女性の亡骸を真珠貝を使って埋葬する。その場面で真珠貝と月の光とのつながりが強調されている。月は日本的なものを連想させ、その月を女性と共に埋葬しているようにも感じる。そして、それも約束したとおりに「天から落ちてきた星の破片」を墓標に置く。その時、夢見手は「星の破片」の暖かさを体感して、何かを予感する。 それから、夢見手の頭上を日が何度も通り過ぎて、「星の破片」に苔が生えるほどの時が経った。あまりに長い月日のために、夢見手もさすがに女性の言葉への疑いを持ち始めた頃に、「星の破片」の下から茎が伸びて、暁の星の下に、女性の化身と思われる白い百合の花が咲く。百合は骨にこたえるほど匂い、夢見手は露の滴る百合の花びらに接吻する。 夢に登場する女性も、意思を持ったからには、定めに従って死ぬしかなかった。しかし、夢見手に百年後の再来を予告する。夢見手は百年待ち、女性は百合となって再生した。その間、女性は月との結びつきが強い存在から、星との結びつきが強い存在へと変化した。ところが、人の具象イメージを欠いていて女性であることを暗示するだけの百合である。これはどういうことであろうか。古来より百合は「歩く姿は百合の花」というように、美しい女性の形容に用いられてはいたのだが。 ここで、漱石に百合について連想を求めたとして、おそらく提示したと思われる子規の句と短歌を紹介したい。 うつむいて何を思案の百合の花 門さきにうつむきあふや百合の花 うつぶきけに白百合咲けり岩の鼻 下闇にただ山百合の白さかな 足引きの山のしげみの迷い路に人より高き白百合の花 特別な説明はいらないと思う。ここに「内なる女性が百年後に白百合の花となつて再会する」という「第一夜」の主題と繋がるイメージの源泉がある。『夢十夜』までの漱石は、前章で示したように、「霧の中に閉じ込められた孤独な人間のように立ち竦んでしまった」という状況であった。その時、迷い路で人より高き白百合の花に出会うように、漱石は夢の中で白百合となる女性に出会った。 |
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165回
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第一六五回例会 十二月九日(日)午後1時30分〜3時30分 坂の上の雲ミュージアム三階会議室 |
(漱石研究会)平成18年の記録
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158回春例会 |
平成18年4月15日土道後温泉椿の湯 2階会議室午後1時30分〜3時30分 講演 T 会長 頼本 冨夫氏 「松山時代の漱石写真」 第一五八回例会四月十五日(土) 講演1 夏目漱石松山在任中の写真としては愛媛県尋常中学の「卒業記念写真」といわれるものが僅か一点存在するのみである。ここでは、この写真がいつ写されたものか、本当に「卒業記念写真」なのか検証してみることとする。私が「卒業記念写真」なるものに疑問をいだいたのは @卒業式はいつ挙行されたのかという日付けの問題とA卒業生の中に卒業していない生徒が三名含まれてので「卒業記念写真」とは考えにくい。果たして「卒業記念写真」かということである。 そこで信頼できる資料として 3「神奈川近代文学館所蔵写真」(前記2の写真の原本) 夏目家寄贈の写真 表紙付き二重台紙付内側台紙額縁内寸法93×135mm「松山市岡本写真館」「OKAM 講演U 愛媛大教育学部教授 佐藤 栄作氏「坊っちやん」冒頭部の文字・表記」 『坊っちやん』100年記念「漱石坊っちゃんの碑」の建立にあたって、『坊っちやん』自筆原稿の冒頭部の文字・表記について確認した。「漱石坊っちゃんの碑」は、柳澤真治郎氏所蔵の自筆原稿(番町書房1970年複製刊行)の原稿1枚目の冒頭部6行を黒御影石に彫り込んで再現したものである。『坊っちやん』自筆原稿については、本会147回でも採り上げたが、問題とされる文字・表記を含むので、今回あらためて私見を述べることにした。 2行目以降は、まさに執筆開始時の漱石の字である。書き始めでもあり、楷書体に近い字が多い。「譲」は新字体とも異なる俗字体、「鉄」は新字体と同じ略字体である。「譲」は『坊っちやん』に8例あるが、いずれもこの俗字体をやや崩したものである。「鉄」は同じく7例あるが、略字体「鉄」3例、正字(旧字)体「鐵」1例のほか、金ヘンに「夷」の異体字が3例ある。「鉄」は、上記の3字体が使用されているが、使い分けはないようだ。「損」は、はっきりと木ヘンで書かれており不審であるが、『坊っちやん』の「損」全10例のうち、木ヘンに見える「損」が他にもう1例認められる。木ヘンと手ヘンとで異体関係にある字は多く、これもそのように考えるべきであろう。「時」は、略字体と正字体との両方が見られる。『坊っちやん』では略字体の方が断然多い。「事」も「時」同様、そのほとんどが略字体であり、ここ(4行目)でもひらがなに近い印象の略字体(草書体に基づくか)が用いられている。視覚的には、形式名詞「こと」=略字体、その他=楷書となっていれば機能的だが、略字体は漢語熟語にも用いられている。「段」も左半分が「暇」のように書かれており、木ヘンの「損」同様、「譌字(ウソ字)」にしか見えない。しかし漱石は『坊っちやん』の「段」5例すべてをこのように書いている。漱石の癖であるが、漱石だけに限られるものではない。「冗談」の「冗」もワ冠ではなくウ冠であり、これは「譌字(ウソ字)」というよりも「穴」の字の誤用に見える。しかし、『坊っちやん』の「冗」5例(すべて「冗談」)のうち4例がウ冠で、ワ冠は1例のみである。漢和辞典によれば、「冗」はもともと「屋根の下に人」であり、ウ冠の方が「古字」とある。漱石はそのことを知っていて、「古字」の「冗」を書いたのだろうか。ともかく、やはりこれも異体字レベルで書いていたのではないかと考えたい。ただし、『坊っちやん』には「穴」も用いられており、それとの区別はきわめて微妙である。 |
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159回夏例会 |
第一五九回夏例会 七月三十日(日)松山市立子規記念博物館会議室 |
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160回秋例会 |
第一六〇回秋例会 十月十五日(土) 愛媛県立松山東高校大会議室 |
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161回冬例会 |
第一六一回冬例会 十二月九日(土) 松山市一番町 愚陀仏庵 漱石の手紙と「不浄の地」 会長 頼本 冨夫氏 T問題提起 (1)、「其夜おれと山嵐は此不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るさるほどいい心持ちがした。」ご存知の「坊っちゃん」の最終場面である。何もこの場面ばかりではないが、人は決まって、これほどまでに漱石は松山を悪く言っているのに、
A、小説の内容から見て松山の悪口を言っているのではない。 B、反面、一般はそれではなかなか納得しない。それも無理のない話ではある。
そこで松山の人が批判の対象とされているという根拠も考えてみよう。 ア、漱石は実際に松山で1年間を過ごしたから、松山が小説の材料として取り入れられて C、しかし松山では小説「坊っちやん」の人気は絶大である。それはなぜか。 2 では実際に漱石自身は松山をどう思っていたのか。その書簡をもとに考えてみよう。 ウ、同年5月10日(金) 狩野 亮吉宛 (前略)「道後温泉は余程立派なる建物にて8銭出すと3階に上り茶を飲み菓子を食ひ湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれる(中略)面白き散歩所も無之候当地下等民のろまの癖に狡猾に御座候(下略)」 エ、同年5月26日(日) 正岡子規宛(前略)「身体別に変動も無之教員生徒間の折合もよろしく好都合に御座候東都の一瓢生を捉へて大先生の如く取扱ふ事返す返す恐縮の至りに御座候(中略)僻地師友なし面白き書あらば東京より御送を乞ふ結婚、放蕩、読書三の者其一を択むにあらざれば大抵の人は田舎に辛抱は出来ぬことと存候当地の人間随分小理屈を云ふ処のよし宿屋下宿皆ノロマの癖に不親切なるが如し大兄の生国を悪く云ふては済まず失敬々々」(下略) オ、同年7月25日(木) 斎藤阿具宛(前略) 「当中学は存外美少年の寡なき処其代り美人があるかと思ふとやはり払底に御座候何しろ学校も平穏にて生徒も大人なしく授業を受け居候小児は悪口を言ひ悪戯をしても可愛らしきものに御座候(中略)近頃女房が貰ひ度く相成候故田舎者を一匹生擒る積りに御座候」(下略) カ、8月25日〜10月19日 子規 漱石の愚陀仏庵に同居。次の手紙は子規が去って以後のものである。 明治39年10月23日 狩野亮吉宛「(前略) 僕をして東京を去らしめた理由のうち下の事がある─世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚い奴が他という事を顧慮せずして衆を恃み勢に乗じて失礼千万な事をしている。こんな所に居りたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しやう─是が大なる目的であった。然るに田舎へ行ってみれば東京同様の不愉快な事を同程度に受ける。その時僕はシミジミ感じた。僕は何が故に東京へ踏み留まらなかったか。彼等がかく迄に残酷なものであると知ったら、こちらも命がけで勝負をすればよかった。(中略) 熊本へ行ったのは逃れて熊本へ行ったと云はんより、人を遇する道を心得ぬ松山のものを罰した積りである。高等学校が栄転だから行ったと思ふのは外見である。栄進と云ふ念慮は東京を去る時にキッハパリと棄てて居た。松山が余の予期した様な純朴な地であったなら余は人情に引かされて今日迄松山に留まって村夫子を以って甘んじてゐたかも知れぬ。熊本は松山よりいい心地で暮らした。夫から洋行した。洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰って来た。(中略)天授の生命のある丈利用して自己の正義と思ふ所に一歩でも進まねば天意を空しふする訳である。(下略)」( 以上書簡は岩波漱石全集第22巻96年版引用) ア「坊っちやん」のような人間が生存できる正義の行われる自由な社会--現実にはあり
得ない。 |
平成17年の記録
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154回
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平成17年4月26日(土) 午後1時より、道後温泉椿の湯 2階会議室にて開催。 第154回例会 講演 日本現代詩人会会員 みもと けいこ 氏 ..........................漱石にとっての二つの松山....子規との松山・虚子との松山一昨年の終わりになりますか、『愛したのは、「拙にして聖」なる者という本を出版いたしました。そのなかで漱石文学における男女の三角関係のもとが・漱石・子規・虚子の友情と確執に由来しているのてはないかという類推のもと、その三人の関係を調べてみました。今回は「松山坊っちゃん会」ということで、小説『坊っちやん』の背景となった明治二十八年頃の三人の関係についてふれてみたいと思います。 『坊っちやん』の下女〈清〉は有名ですが、漱石作品には全部で六作品に下女〈清〉が登場します。私はこの〈清〉は漱石の友人でもあり、『吾輩は猫である』を書かせた高濱虚子がモデルとなっているのではないかと考えております。 漱石・子規ともに慶応三年生まれです。経済的基盤の崩れつつあった江戸の名主の四男として生まれた漱石は、その存在を特に父親に蔑ろにされ、後に精神に歪みをきたすまでに不安な成長をいたしました。一方子規は母方の祖父、松山藩の漢学者大原観山に可愛がられ、幕末の志士や英雄に憧れる親分肌の青年として成長をいたしました。二人は現在の東大の学生として出会うわけですが、二人の交遊は常に子規が主導権を握るという形で進行致しました。青春時代の二人の交遊で、何に共感し何に反発しあったかということは、その往復書簡で知ることが出来ます。その中で特に生涯を通じて、その関係に歪みをもたらした価値観の相違がありました。明治二十四年の文通で子規が元士族に拘わり、英雄的気概を持った人間はみんな元士族であるということを言っております。それに漱石がひどく反発し「君何が故にかかる貴族的の言をはかんや。我工商の味方をする」と言っております。これは漱石と子規の交遊の一つのキーワードでもあり、『坊っちやん』の背景にもこの時の反発が色濃く現れております。正義の味方山嵐が会津の出身としてあるところなど、士族、特に松山藩の幕末の対応を皮肉ったものと考えられております。 漱石は明治二十八年東大大学院卒業と同時に東京高等師範学校の嘱託教員を辞め、松山尋常中学に赴任します。子規は明治二十六年に東大を中退し日本新聞社に入社します。子規は文芸担当なのですが、政治・社会情勢に相変わらず強い興味を抱いていたので、従軍記者として日清戦争の取材に大陸へ行くことを希望し、二十八年四月に広島港から出港します。しかし子規が出発してまもなく下関で講和条約が締結され、子規はその役割を達することなく帰国の途につきます。子規は帰りの船の中で大量の吐血をし、いちじるしく体調を損なってしまいます。神戸に上陸し、静養していた子規に帰国から三日遅れの日付で、東京に帰る途中松山に寄らないかと誘いの手紙を漱石は書いております。当時漱石は追跡症といわれる精神病の一種を引き起こしていて、文芸の創作が自分の精神の回復の一助になるのではないかという、言わば漱石の「エゴイズム」が子規を松山に立ち寄らせたのだと思っております。 いざ子規が愚陀仏庵で暮らし始めると、そこに集まったのは、柳原極堂、野間叟柳、小学校教員の団体、その大部分は松山藩士の子弟たち、子規の気のおけない幼少時からの仲間たちだったのです。子規のまわりには遠慮のない松山弁が飛び交い句会は盛況を極めました。 子規を松山に呼んだのは漱石ですが、しかし明治四十一年の「ホトトギス」に子規は大陸から帰ってきて勝手に松山に来た」と書いておりまして、こちら側だけ読んだ方は、子規の方からやって来たと思っている方もあるようです。漱石が忘れたのだとは思っておりません。漱石の心の中で記憶の変形が起こったのだと考えております。 一方虚子との交遊は、漱石に暖かな慰めを与えるものでした。明治四十年松山に帰る虚子に「あなたと松山で道後温泉に入っていたら、どれだけ楽しいでしょう」という手紙を出しております。それは明治二十八年に松山尋常中学に赴任した折り、虚子と温泉につかり、俳句を創ったのを懐かしんだものです。俳句の方法として、子規の言う写生よりは、虚子の提唱した神仙体の方が、漱石には合っていたように思われます。 漱石と子規との関係は、子規が漱石の文学的先導をしたという微笑ましいだけのものであったかどうか、一方漱石が松山の悪口を書いているのに、松山が「坊っちやん」で街おこしをするのはどうかと言った意見は、両方共にもうすこし議論の余地があろうかと思っております。(みもと氏の原稿による。) |
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155回
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7月23日(土)午後1時30分より、道後湯の町、椿の湯2階会議室にて、済美高等学校講師、寺岡信子氏による「漱石の『こころ』に対する現代高校生」と題して講話があった。以下はその概要である。 現在、高等学校国語教科で近現代文学を取り扱う科目は、「国語総合」と「現代文」である。漱石の『こころ』は「現代文」(2年生)で学習することが多い。 この調査は、学習成果を問うというものでなく、小説『こころ』は現代高校生にどのように受容されたかというものである。 ○ アンケート調査内容 国語科『現代文』の授業終了後、アンケートを実施。 エゴイズム、あるいは人間の醜さを肯定的に認めようとする者が多いことである。その根拠としては,アンケート(2)にあるように「私」に好意を持つ者が40%いることである。その理由として、「人間らしい」と評価していることである。ダーティーなイメージで肯定される主人公は昨今の小説・映画・TVドラマに闊歩している。「私」に対する親近感はそのような時代環境にもあろう。 Kに対しては、好意や同情を持っているが、「意志強固」「まじめ」「一途さ」という画一的な人物像という理解に止まっている。さらにはKが自分自身を語る場面はほとんどなく、Kの信条ともいうべき「精進」とか「道のためにはすべてを犠牲にする」というストイックなものは、現代高校生にとって非常に理解しにくい、共感しにくいものであろう。 |
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156回
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漱石「坊っちやん」発表100年記念講演会 平成17年10月13日(金) 会場 県立松山東高等学校体育館 演題「子規と漱石」 、講師 大阪成蹊短期大学教授 和田 克司 先生 「坊っちやん」発表100年記念の各種行事のトップを切って、その前夜祭ともいうべき記念講演が折から文化祭でにぎあう漱石ゆかりの松山東高校で、松山坊っちゃん会と東高の共催で開催された。その内容をご紹介する。 一 皆さん今日は、皆さんの背筋をぐっと伸ばした姿勢を見て感心しました。生きる姿勢ということをこれから1時間お話しいたします。 来年は「坊っちやん」発表後100年になります。私個人は松山東高校を卒業して50年になります。このような節目の年にお話しできることを大変光栄に思います。 まず手元に用意した明治33年8月24日の正岡子規の手形と自分の手を合わせてください。子規の手が大きいのか小さいのか。まず墨汁をつけて自分の16歳、17歳、18歳の手形を押してみることをお勧めします。手形の原本は今どこにあるか不明です。手を合わせますと、子規と握手するということになります。手を合わせた時、おやっと思った人は集中力のある人です。手形は左手であります。子規は左ききでありました。明治33年、子規の病気は最晩年ほどでもなかったので、このように手形を押すゆとりがありました。次に子規の身長は163・9センチで、夏目漱石は158・8センチです。皆さんが自分の背と比較すると、髯をはやした漱石がぐっと身近な存在になるでしょう。 さて、子規の喀血についてお話しします。喀血(かっけつ)は、いわゆる結核菌により肺が冒されたことによる肺からの出血を口から吐くこと、吐血(とけつ)は消化器系統の出血を口から吐くことであります。子規の結核は全身に広がりまして、足は左足の膝頭に集中的に結核菌が繁殖し、さらに脊椎に及び、子規を死ぬまで苦しめました。結核菌が脊椎の骨を食いちぎったのです。したがって子規は傷口が直接神経に触れる大変な痛みを体験しました。今では結核治療薬の発達と、医学の進歩により、子規と同じ痛みを体験することはできません。子規には3回の大きな喀血がありました。最初、子規は明治22年5月9日に突然喀血しました。たぶんこの年の特別な寒さと風邪がきっかけと思われました。父が早く亡くなっている事もあり、驚いた子規は近所の本郷真砂町に住む東京帝国大学医科大学卒の山崎元修先生の診察を受けます。子規喀血の報を聞いた漱石はすぐ駆けつけます。そこで、あなた方ならどうするかという問題と関わってきますが、漱石は子規訪問後、山崎先生を訪ね子規の病状を聞きました。漱石は「失礼ながら山崎先生ではだめだ。是非、東京帝国大学医科大学病院の診察を受けないと、君の病気は危ない」と忠告をします。この時の子規の喀血が、人間的にも友情的にも子規と漱石を強く結びつけたということになります。子規には小さい喀血が以前にもあったのですが、この明治22年の大きな喀血を機会に、号を子規と名付けました。子規は中国音ではツークイ(zigui)となります。ツークイという音は、ホトトギスという鳥が鳴く声であります。ホトトギスにはいろいろな呼び名がありますが、血を吐くことと結び付けています。ホトトギスの鳥の意味と本名の正岡常規(つねのり)の規の字を取って子規(ホトトギスの異称)と号したのです。子規は見舞いの答礼として自分の作品(「七草集」)を読んで欲しいと漱石に渡します。漱石は漢詩で子規の作品「七草集」の批評を書きました。数え年23歳の青年同士が、漢詩を交換するだけの能力を当時は持っていました。そのときに初めて夏目金之助は漱石という号を使います。子規という号と漱石という号が、明治22年の子規の喀血を機に生まれたということ、そして、それを機に二人が急速に友人として親密に交際するようになったということであります。 今あなた方は級友を家に呼ぶことがあろうと思います。子規は勇躍上京しましたが、子規にとって自分の家に来て欲しい他郷の人は三人しかいませんでした。一人は菊池仙湖という、後に第一高等学校の校長になった人、それから岡山県津山中学校の教員をして後にジャーナリストになった大谷是空、そして夏目漱石の三人だけであります。このうち大谷是空を除く二人は松山を訪ねて来ます。漱石は、明治28年、今から110年前に、松山中学校の教員として、あなた方の先輩を教えます。その契機は、明治25年の夏に、正確には八月中旬で日時は分かりませんが、松山を訪ねて子規と寝泊りをしています。その家は中の川の「くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ」の歌碑がある所からもう少し西の川下に下った、子規のお母さんと妹さんの旧居という碑の建っている場所です。その時に「松山ずし」(松山では「もぶりずし」)を子規のお母さんからご馳走になったことを記録に残していますし、側で高濱虚子がじっと見ていて、この人が夏目漱石かということを強く認識します。明治25年の漱石の来訪がやがて「坊っちやん」を生んでくるきっかけになるわけです。 二 子規は生涯にわたって大きな喀血を三回しましたが、第二回の喀血は明治28年、漱石が当時の愛媛県尋常中学校(現松山東高等学校)に来た年に、子規は従軍記者として清国に渡りました。しかし、明治28年5月17日、帰国の船中で大きな喀血をいたします。気泡が沢山出ますが、船中のことで、もう一度飲み込まなくてはならないという悲惨な体験をします。船中でコレラに罹った船員が亡くなったこともあって、喀血をするという大病であるにもかかわらず、門司から神戸まで上陸できませんでした。やっと神戸に上陸した時は一歩も歩けなくて、神戸病院に搬送され、きわめて危険な状況でしたが、強く生きる意志力が強かったのか、幸い命を取り止めて、やがて須磨に移り、結果的には松山へ帰ってくるのであります。その療養期間中に手紙を出して「君、よかったら早く松山へ帰って療養をした方がいい」と言ったのは漱石でありました。その漱石の招きもあって子規は療養のために、松山へ帰って来るのでありますが、その時になぜ自分の家でなく、当時、上野義方さんがお持ちの家、愚陀仏庵と漱石が名付けていた所へ、子規がころがりこんで来たのかというと、子規はお金持ちではなく、当時すでに自分の家はありませんでした。お母さんと、妹さんは東京の上根岸八十二番地で借家住まいでありましたし、財産のほとんどを使い果たし、過酷な経済状態でありましたし、松山へ帰ってきたときは、休職中の身の上でありましたので、新聞「日本」に勤めてはいましたが、月給は全くもらえませんでした。そういう状況の中で、漱石は自分の借りている愚陀仏庵、これは子規記念博物館には建物の一階の部分が復元され、県立美術館分館、萬翠荘の東手には愚陀仏庵の建物がそのまま復元されています。そして全日空ホテルと三越の間を南に下ると、本来あった愚陀仏庵の跡地は、現在は駐車場になっています。したがって愚陀仏庵を尋ねられた時、ぜひ他郷の方には正確に三つの愚陀仏庵を区分して教えていただきたいのですが、その愚陀仏庵に子規を招いて、漱石は二階に、子規は一階で生活をしたわけです。もし、今から110年前の50日余りの二人の語らいがなければ、近代の日本文学は大きく変わっていただろうと思われるほど、二人の語らいは重要でありましたけれども、最近分かってきたことや、専門の立場から愚陀仏庵に関わって少し申しておきます。 実際に愚陀仏庵のあった辺りは、だいたい武家屋敷が続いていました。愚陀仏庵のあった上野義方さんの屋敷は母屋と離れに分かれていて、母屋と離れの間に庭があったように思われます。愚陀仏庵のすぐ北側に宇都宮さん、南側には大島さんという方が住んでおられました。問題はここから始まります。北側の宇都宮丹靖という方は、俳句を専門とし、占い、易、暦を商売とする、当時有名な方で、夢大などの号ももっていました。宇都宮丹靖は松尾芭蕉を非常に尊敬し、俳諧の伝統を受け継ぐというばかりでなく、全国の俳人と交流をしていたような人物であります。一方、上野義方さんの南側の大島梅屋は、実は現在の番町小学校の先生をしていた方ですけれど、子規からの影響以前に、下村爲山という、画家として非常に有名な方の指導ですでに俳句を作っていました。その下村爲山が東京へ帰るのと入れ替わりに、子規が松山へ帰って来たのです。たまたま子規が隣に住まいをしたので、是非、子規に俳句を教えて欲しいと、大島梅屋などが愚陀仏庵に通い始めました。当時の海南新聞、現在の愛媛新聞でありますが、そこに勤めていました柳原極堂もその一人です。毎日のように子規を訪ねて来て俳句の教えを乞うたわけであります。子規の指導によって、松山で俳句を作る松風会の人々の訪問が大きい刺激になりまして、漱石は最初人々の出入りを気持ちよく思わなかったようですが、漱石自身が子規の最初の喀血の時から、俳句を作るということでは子規の影響を受けていたために、思い切って俳句を勉強したいという気持ちになって、松風会の人たちと一緒に漱石も俳句を作り始めます。俳句を通じて子規と漱石が非常に親しくなっていくもう一つの柱にやがてなっていくわけです。したがって第二回目の喀血は子規と漱石の心の交流に加えて、二人の文学の交流が始まります。 松山の人々に覚えておいて欲しいことの一つは、当時俳諧とか俳句とか呼ばれるものは、子規にとっては新しい文学ではありましたが、決して一般的には俳句という言葉が定着していなかった時代であります。その時期に子規は松山から発信して、俳句は文学の一部であるということを初めて新聞「日本」を通じて全国に主張します。俳句が文学であるということは、何でもないあなた方の常識ではありますが、わずか110年前の子規の一言から出発したということは覚えていただきたいのと、最後にも申しますけれど、俳句(haiku)という言葉は、あなたが調べる英語辞書には必ず出てくる表現であって、世界の人々は日本のことについて富士山だけでなく俳句という言葉もよく知っております。そうした認識は、とりわけ松山の方が持っていただきたい、世界に向かって羽ばたいてゆく大きな自信の一つになると思います。 もとへ戻ります。愚陀仏庵の北側に宇都宮丹靖という方が、南側に大島梅屋と言う方がおられました。松風会の人々の影響で、漱石は俳句への関心を一層強く持って行きますけれど、問題は子規自身は、とても偉いんでありますが、宇都宮丹靖という子規とは考え方の違う、文学の面では全然考え方の違う旧派の人から、ものを学びたいという姿勢で、お隣の宇都宮丹靖を訪ねて俳諧を教えてもらいます。すなわち自分が接する身近のものから多くのものを吸収するという姿勢が、子規を大きく育てて行きます。その一つの例が隣の宇都宮丹靖であります。 それで、ご存知と思いますが、「散策集」という子規の書いた紀行文がありまして、その紀行文は、同じ明治28年の9月20日から五回にわたって松山の周辺を散策、即ち散歩をした時の紀行文であります。この紀行文を通じて目に見えるものを俳句として考えるという一歩を、子規自身も確認しております。明治28年10月6日に、子規と漱石は連れ立って道後を訪ね、大街道に明治20年から出来ていた新栄座という劇場で、二人は今様狂言を観ております。たまたま子規と漱石の姿を見ていたのが、本校正門入って左側に胸像があります安倍能成先生であります。安倍能成先生は、明治16年に生まれておられますので、子規とは16歳違うわけで、生涯にわたって自分の尊敬すべき人として子規と漱石を挙げていますが、先生ご自身は漱石の四大弟子の一人として重んじられた人であります。その安倍能成先生が劇場で二人の姿を確認しておられます。少しだけ覚えておいてほしいのは、1945年、日本が終戦後の難局に立ち入って舵取りが出来なくなった時代に、安倍能成先生が文部大臣を引き受けられて、今日の教育の基盤を打ち立てられただけでなくって、アメリカからの強すぎる圧力を跳ね返して、日本の伝統的なものを重んじながら、西洋の素晴らしいものを取り入れるという形で、今日の教育の根幹を築かれた特筆すべき文部大臣であることは覚えておいて欲しいのと、いつかまた安倍能成先生に触れる機会を子規、漱石に併せてお願いしたいと思います。 本筋へ戻ります。愚陀仏庵のことについて記録がいくつか残っております。その記録の合間、合間がしだいに分かって来まして、子規が愚陀仏庵の一階を借りながら、時には桔梗を活け、時には浦島草を活けたり、非常に清楚な室内空間を持っていただけでなくって、子規が愚陀仏庵で夜間に読書をしていると、隣から三味線の音が聞こえてくるといったような、まだ電気のない松山の静かな佇まいの中で読書をしながら、明日を考えて子規が生活していた姿が、分かって来ました。とりわけ伝えておきたい点は松山の方は、専門家もお気づきになっていないことかも知れませんが、愚陀仏庵での五十余日のうち、わずか五日間の記録をどうして「散策集」に記したかという事が分かっていません。しかしながら、記録を重ね合わせて行きますと、立つ事さえ難しかった子規が松山へ帰って、立つだけでなく、歩き始めて、散歩をして、これで大丈夫だという形で、歩行練習をして、強い意志を、これから東京で文学で身を立てるという意志を、もっと極端に言えば、今一銭も入らない自分の生活から、再び月給を取って生活をするということ、お母さんや妹の面倒を見るんだという決意の最初が、「散策集」に表れた子規の文章でありました。すなわち子規の強い気迫というものが散策集に込められていることを、松山の方にお伝えしたい気持ちで一杯であります。 そして、愚陀仏庵の隣に宇都宮丹靖がいて、松尾芭蕉を大事にするばかりでなく、植物としての芭蕉を植えておられたということが、分かってきます。そうすると「坊っちやん」の第七に、主人公がとっても大切にしている、お清から手紙をもらう場面があります。手紙を読もうとすると、暗くて分からないから、縁側に出て手紙を読むという趣向になっています。その季節は初秋で今に近い季節で、そこに芭蕉の葉のそよめきが感じられると書いてあります。これは別の言い方をしますと、「坊っちやん」に込められた愚陀仏庵の数少ない記録が、「坊っちやん」の中で生きております。したがって、「坊っちやん」の「初秋の風」という言葉は、まさに愚陀仏庵を連想するわけで、漱石の立場から申しますと、体験をしました明治28年から39年の10年余をかけて、その正確な記憶を文章として缶詰のように納めたということが分かります。そうしたことがなぜ分かって来るかということを申しますと、記録です。実は記録というものは非常に大切でありまして、何でもないものの方が実は記録することが難しい状況です。したがって、私は希望として、あなた方は日記をつけ、先生方から習ったエッセンスを、どれだけ大切にするかということが、今後のあなた自身の人生を決めると思いますけれど、その記録は間違いなく、どこかで生きてくるということを確信をもって、心に留めていただきたいと思います。 三 三番目の大きい喀血を申します。明治33年8月13日に大きい喀血がありました。当時、子規はすでに寝たきりの病床生活に入っているわけでありますが、人間にはバイオリズムという生命の不思議な営みがあって、子規には5月が一番悪い月で、本人も自覚しています。そういうわけで、明治33年の5月を無事済ませましたから、大丈夫だと思っていた矢先の8月の13日に喀血をしました。この時は精神的に参りました。その時期、漱石は、熊本の第五高等学校に赴任しておりましたけれども、同じ年の明治33年の6月に英国へ留学することを命じられました。 ついでに申しておきますと、東京帝国大学で漱石は英文学を、子規は国文学を学びますけれど、英文学を学んだ一番目は立花銑三郎で、二番目が漱石であります。したがって東京帝国大学で日本人として英文学を学んだ二番目の人が伊予尋常中学校(松山中学)へ教えに来たという意味なんです。決して数多い先生の中から漱石が来たというわけではありません。したがって、漱石は、子規がいなかったら、そして明治25年に松山に来ていなかったら、本校に来ることは全くなかったと考えていいのであります。漱石が二人目の英文学の学徒であったため、文部省はぜひ本格的な英語英文学を英国で学んできて欲しいと、漱石に白羽の矢が立ちまして、漱石をロンドンへ送ることになったわけです。その時が子規の第三番目の喀血の時期になります。したがって、第一番目と第二番目の喀血は子規と漱石とが結びつくための喀血であったのに対して、第三回目の喀血は淋しいことに、子規と漱石とが別れるということに結びつきました。 坐ることが難しくなり、寝たきりになりますと、床ずれが出来、床と接している部分が火傷をしたような状態になりますので、必ず体を動かさなくてはなりません。子規はだんだん寝返りが難しくなったために、敷居の上の鴨居の部分から紐を吊るし、その紐にすがりながら自分の身を起こして、痛みをこらえながら、右を下にしたり、左を下にしたりしたわけです。記録を見ますと背後の左の部分の穴が非常に厳しいようで、私の感覚から言いますと、右の方に穴が少なかったら、右を下にしたらいいなと思うんでありますが、少し違いました。最初、右を下にしていたようでありますけれど、痛いはずの左側を下にしないと耐えられませんでした。亡くなるまでの大痛苦の三年は仰向けに寝ることすら難しく、仰臥で半身に体を起こしたままの姿勢で寝なければ、痛みに耐え切れないという状況になって行きました。おできに絆創膏(ばんそうこう)を貼ってそれを剥がすとき、とっても痛いのはご存知のとおりでありますが、明治の時代はガーゼがありますけれど、一度洗って、消毒をしてもう一度使っていました。肺結核の場合は痰や血が口を通じて出てきますが、脊椎の部分の結核菌に冒されたところは、出口がまったくありませんから、だんだん腫れてきて、膿が大きくなって、腫れた所が火山のようになって、そこから膿が出てきます。それだけでなく、膿の出口は神経が露出したままで、露出部分に包帯がくっつきます。包帯と膿との部分をベリッと剥がさないと、包帯が取れない。あなた方は歯の痛みを連想できると思いますけれど、包帯を剥がす時の激痛、疼痛に加えて、常に鈍痛が腰部にあり、微熱や高熱が続くわけです。子規が亡くなりました明治35年9月19日の前に、麻酔を服用して痛みを抑えたというのは、ご記憶にあるかもしれません。実は麻酔の服用は、子規の亡くなる一年二か月前からで、最初は包帯の取替えのときだけの服用でした、麻酔薬が効いてきたときに包帯を剥がすわけですが、それでも「痛い痛い、馬鹿野郎」と言われながらも妹さんが看護したわけです。妹さんの仕事は大変だった上に、汚い話で恐縮ですが、トイレヘ行けないわけですから、そのお世話を全部妹の律さんが行なったわけです。包帯の取替えと、下のお世話が同時でありますから、律さんは涙を流しなから看病をいたしました。しかも、だんだん痛みが強くなり麻酔の服用が頻繁になります。現実には痛い痛いと大きな声を上げながらの生活でした。 ちなみに、正岡常規の妹の名は律、兄の常規と妹の律と一字ずつ取ると規律になります。お父さんは酒飲みだったと書かれているけれども、ものごとを正しくきちんと守る、ものをきちんと筋道だてるという規律が、お父さんの正岡常尚が二人の子供に託した大きな願いでした。その規律の言葉に惹かれるように、妹律は献身的に、兄子規を最期まで看病しつづけたわけであります。 四 さて、子規には「仰臥漫録」という非常に大切な作品があります。「仰臥漫録」は実はあなた方がやがて病に伏し、精神的に打開ができなくなったときに、そのときに手にして欲しい書物であります。「仰臥漫録」は明治34年9月2日より書き始めて、二冊ありますが、一冊目が書き終わった日が、実は今日10月13日であります。実は「仰臥漫録」は、仰臥のままの姿勢で書くことができるとばっかり考えておりました。違います。子規は仰臥のままの姿勢で書くことができなくって、左下の姿勢で患部が露出したままの状況で、右手に筆をとって書きました。昔の本のことでありますから、綴じたり、はずしたりができますから、私は「仰臥漫録」は一枚一枚の紙を手に持って書いたと思っていました。原本が出てきて驚いたことには、原本の右下隅に染みと言いますか、筆あとがついています。筆あとから判断すると、「仰臥漫録」が綴じられて重い状態のまま、子規が「仰臥漫録」を持って書いていたということが、客観的に分かってきました。今は「仰臥漫録」の複製もあって、手に取ることもできるのでありますが、原本の重さは260グラムです。そうすると、今あなた方が持っている参考書はだいたい300グラムから400グラム、その書物を持って左半身を横にして2ページ読んでみて欲しい、そうするとどのくらい苦しい姿勢であるかすぐ分かります。子規は「仰臥漫録」を書き続けました。これは日記です。毎日、天候、食事、便通の記録が書いてあります。そして真中には妹さんの悪口がある。律ほど理屈づめの女はいないと書いてある。せっかくお世話になりながら、どうしてそんな悪口を書くんだろうと思うかも知れない。そして10月13日は「仰臥漫録」の一番最後のページになります。子規は麻酔を服用し始めて一日一日をとっても大切にしました。したがって、「仰臥漫録」を書いたその日が、命の終わりであるということは、当然考えながら書いています。そうした中で食事の記録と、便通の記録があります。便通の記録があるということは、そのまま、妹に済まなかったね。こめんね。私は排便をすることができたよという報告でもあるわけです。母妹は、たくあん、味噌汁だけの食事です。そういう生活の中で子規は刺身を食べ、肉卵を食べ、スープを飲み、当時としては最高級の食べ物を記録しています。「仰臥漫録」の食事記録は、今日という日にご馳走を食べることができたよと言う記録であります。「仰臥漫録」の周辺の記録から見て行きますと、食事をすることが一番楽しみのように見えながら、最後の段階では食事をすることが一番苦痛であるという記録が出てまいります。そうすると人間から食事の喜びを取った時に、どれほどつらい一日が待ち受けているかというのは、あなた方もよく分かると思います。 そうした中で10月13日、今日という日、子規はとうとう自殺を考えます。自分の手元に千枚通しと、小さい小刀がある。隣の部屋に行くと、剃刀がある。剃刀さえ取りに行くことが出来たら、自分はどこかを切って死ぬことが出来るかもしれない。そういう考えが起こります。妹さんがお風呂へ行く、買い物に出る、お母さんに電報を打って来てもらうように頼みます。わざわざ家族の二人に出て行ってもらって、たった一人になる。その間に自殺をしようと考えます。しかし、痛苦のため剃刀を取りに行くことさえ出来ないわけです。側にある紙切り用の小刀で血管を切ることは出来たとしても、自分は死ぬのは怖くない。しかし、これ以上痛みに耐えることはもっと難しいと考えて、煩悶に煩悶を重ねて、最後にどうしよう、どうしようと言いながら自殺を思いとどまるという非常に感動的な文章が出てまいります。「仰臥漫録」の第一冊目の一番最後のところです。そして第二冊目に入ると、「再びしやくりあげて泣き候処」と、その文章は始まる。涙をだらだら流しながら生きるという決心をした子規は、「仰臥漫録」第一冊目、ほとんどすべてを片仮名で書いていましたが、第二冊目に入ると同じ明治34年の10月13日の、今日という日に平仮名で書き始めている。新しく生きるんだと、新しい「仰臥漫録」を書き始めて、一日でも生きようと決心をしました。しかしそれも十日余りしか続きません。次は自分の誕生日まで生きようと思う。その後長い長い空白がある。もう書けない。その書けない時期の、明治34年の11月6日に、子規は漱石に宛てて「僕ハモーダメニナツテシマツタ」という言葉で始まる、非常に感動的な書簡を送ります。もう何も書けない。自分の周辺には、自分よりも長生きすると思っていた人達が死んで行った。苦しいからもう書くのはこれで止めるといいながら、実は「仰臥漫録」と同じ紙に漱石に宛てて手紙を書いて、自分の日記を見て欲しいという記録を書き記しました。漱石はそれに答えてやがて子規に返信を送りますが、子規と漱石が心から支えあった、僅か十数年という歳月が、日本の近代文学を打ち立てる大きい柱となりました。 あなた方が、やがてこれから六十年の人生を歩むに際して、順調な時はいいけれども、苦しい時、精神的に、肉体的に、立ちはだかる大きな障害があるとき、文学というものは不思議なもので、はじめてそこで、心と心とが接する何かを見つける機会が出てくると思います。そうした機会を、とらえることができるかどうかは、今のあなたの一日一日が実は非常に大切で、あなたが、今、役に立たないと思っていることが、実は一番大切なことで、あなたが、今、面白くないと思っていることが、実は一番大切なことで、努力をしなければ人生生ききることができないということを、子規も漱石も教えていると共に、子規と漱石が未来に百年にわたって、あなたに呼びかけるのと同じことが、やがてあなたにも必要だし、子規と漱石が世界に広がったように、今はすべての事象が世界に向かって広がっているのだということを心に銘記しながら、あなたの明日がすばらしい一日であることを祈って、私の記念講演を終わります。最後まで一生懸命聞いてくれてありがとう。(文責 頼本) |
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157回
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第157回冬例会は、12月3日(土)午後1時30分、漱石90回忌法要後1時45分〜約1時間、 松山市一番町愛媛県美術館内 愚陀仏庵において会員25名が参加して開催された。当日は 朝日、読売、愛媛新聞、松山リビングなどマスコミ各社も取材に来場した。 講師は 松山大学人文学部社会学科教授 市川 虎彦氏 演題は 「都市的パーソナリティと小説『坊っちゃん』」で社会学専門家の立場からの興味深い発想で会場を魅了した。 以下はその要約である。 私は文学を専門的に研究している人間ではありません。地域社会学の研究者です。きょうは、社会学からみたら漱石の『坊っちゃん』も、こんなふうに読めるという話をしてみたいと思います。 社会学の専門用語の一つに「社会的性格」というものがあります。「一つの集団や階層の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であり、その集団や階層に共通な基本的経験と生活様式の結果として形成されたもの」と定義されています。つまり、国民性とか県民性といわれるものは、その典型です。そして、都市的な生活様式の中から都市居住者特有の性格が生まれるとも考えられており、そうした性格を「都市的パーソナリティ」とよび、以前から多くの社会学者、社会心理学者が言及してきました。 もっといえば、同じ都会でも、その都市の成り立ちや特質に応じて、独特の性格構造が生まれてきていることも指摘されています。いわゆる「江戸っ子」というのも、その一つといえましょう。江戸幕府成立以来、官僚が居住する江戸・東京は、人々に権威主義的な性格を植えつけ、今日至るまで東京人の「有名店好み」として受け継がれています。これに対して大阪人は実質本位だとされています。また、つねに高度成長し続けた江戸は、「宵越しの金はもたない」といった気風を生み、江戸っ子には反商業主義が強くあります。節約・貯蓄は美徳ではありません。また、筋を通す理念主義、多血質なども江戸っ子の特徴とされています。 漱石の『坊ちゃん』は、フラット・キャラクターが活躍する小説です(参照:小林信彦『小説世界のロビンソン』新潮文庫)。フラット・キャラクターとは、ある一つの観念(性質)を具現化した存在として描かれる登場人物のことです。これに対して、多面的で変化する精神をもつ登場人物は、ラウンド・キャラクターというそうです。漱石の後期の小説はラウンド・キャラクターが描かれているわけです。どうかすると、そうした小説の方が深みやあじわいがあり、高級だと考える向きが出てきます。そして、『坊っちゃん』はおもしろいことはおもしろいが、人物が類型的で軽い小説だと評価されがちなのかもしれません。しかしそうではなく、そもそも小説の質が違うのです。 社会学の目からみると、主人公「坊っちゃん」は前に述べた「江戸っ子・東京人」という社会的性格の化身です。われわれは、『坊っちゃん』以降、「江戸っ子」といえば「ああ、『坊っちゃん』みたいな人間か」といった了解のしかたが可能になったのです。「赤シャツ」にしろ、「野だいこ」にしろ同じです。名前をきけば、性格がおのずと浮かび上がってきます。こうした生き生きとした類型が対立したり、協力したりする小説は、単に都会の人間が田舎の人間と摩擦をひきおこす物語というだけでなく、また別の読み方や解釈をうみだす可能性をはらんでいるのだと思います。 |
平成16年の記録 |
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150回
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平成16年4月24日(土) 午後1時〜3時まで。、道後温泉椿の湯 2階会議室にて、頼本会長の第150回を迎えて挨拶があり、続いて菅
紀子氏(第19回愛媛出版文化賞受賞者)の「漱石のライバル 重見周吉」と題しての講演があり、最後に今年度の本会の総会があった。以下は菅
紀子氏講演の概略である。 @『私の個人主義』 ・講演だから口頭で話をして終わってもよかったのに、あえて原稿を書いたのは,書き残したい意志があったと察せられる。 ・この講演で漱石の半生を振り返る鍵になっている存在、それが重見周吉であった。そこから一気に24歳に戻るとともに演壇の上にいる47歳の現在までを辿り,学習院の学生に語りかける。 ・重見周吉という相手に「敵」と「ライバル」という言葉を使用している。この二語の語気の強さ。 ・重見については「なんでも米国帰りとか」と言っているように、漱石は重見について、ある程度の情報を得ていた。「名前は忘れてしまいましたが」とは文字通り受け取るより、知りながらあえて伏せておいた感がある。 A学習院教授職の座という土俵上におけるライバル 学習院応募時の両者の比較 ア、年齢ー漱石24歳、 周吉27歳 イ、経験−漱石、東京大学文科大学新卒、 周吉、米国エール大医学部卒、留学帰り ウ、英語能力 −漱石、机上の知識 、周吉、生のコミニュケーション Bライバル意識を秘めたまま生涯忘れなかった漱石 ・留学の話が持ち上がった際、当初留学にそれほど関心がないかのような言動をしている。 (安易に留学したくない) ・次に留学を決心した時点で、漱石は文部省が指示する英語教育についての研究をよしとせず、自分は文学について研究しに行くのだと明言。 ・教師という職業 松山中学での教師体験の苦々しさは、学習院で教師になれなかった挫折感が尾を引いているのかも知れない。 また、学習院であれば詰襟の礼儀正しい良家の子弟が揃っているであろう。ところが目の前にいる松山中学の生徒はというと、制服もなく着古して汚れ、着崩れなど気にしないバンカラな気風。 ・留学途上、キリスト教への誘いを断る。宗教に助けを求めない覚悟の顕れ。 ・『坊っちやん』と『日本少年』の類似 ・類似的描写、(導入部の類似) ー海から見える風景(日)、教会の尖塔は見えない。(坊)、高柏寺の五重の塔が見える。 C競争しない漱石 社会生活のスタート地点で漱石は、一度だけライバルを持ち共通の社会的地位を巡って競った。その後、漱石の書いたものの中に、「ライバル」「敵」という語気の荒い言葉や対象は見当たらない。さらに、以来職業上新たに 自分のライバルを作ることはなかった。このような環境を確保した上で、漱石は「自己本位」の境地を掘り下げた。 D悩まない重見周吉、悩み続ける夏目漱石 重見は四国の一介の港町今治から京都同志社へのぼり、米国エール大学へのぼり、さらに医学部へのぼり、帰国後は故郷から言えば東京へのぼり、そこかにとどまって医者と教師という知的職業にのぼり、安住した。美しい妻と東京でしか見られない歌舞伎や演芸などによく出かけ、華やかな生活を楽しんだ。自分の人生に満足しているようだ。一方漱石は、結婚すれば悩み、留学すれば神経衰弱を高じさせ、博士号を断り、小説家という職業に落ち着いた後も、というよりむしろ書くという行為によって、ますます苦悩し続けるのである。 このとき、重見周吉は、もはや夏目漱石のライバルではなくなっていた。漱石は他者の表層的介在のない次元において,自己の内面世界の中で格闘していたからである。自己完結した重見、自己の不可解を追及し続ける夏目。(菅氏のレジュメによる) |
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151回
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平成16年7月10日(土) 午後1時30分〜3時まで。、道後温泉椿の湯 2階会議室にて、会員村上志行氏の「漱石と満鉄総裁中村是公」と題して講話があった。次はその要旨である。 (前略)、漱石、是公二人とも慶応3年生まれ、是公は広島県出身。明治17年徒歩で上京し、9月大学予備門予科に入学した。19年7月2人は共に本所江東義塾の教師となり塾の寄宿舎に住んだ。漱石は英語で幾何と地理を教えたが、是公は何を教えたか不明である。2人は月給5円ずつもらい、食費月2円、予備門の月謝25銭、湯銭若干を引いて、残りは懐へ入れて蕎麦や汁粉や寿司を食い歩いた。2人の部屋は2畳であった。(中略) 或る日、是公は得意のボートレースで優勝し、その賞金で、漱石にアーノルドの論文とシェークスピァのハムレットを買ってくれた。明治22年、21歳の夏、二人は友人たちと江ノ島1泊旅行に出かけたが、風に山の樹がさっと靡いたのを見て是公は、「戦戦兢兢」という表現をした。漱石はその漢文紀行文集に「草樹皆俯す、是公跳叫して曰く、満山の樹、皆戦戦兢兢たりと余為に絶倒せんとすー云々」いわば言語音痴というべきだがこれは意図しない諧謔味となり、是公の人柄も表している。漱石英国留学中にも街角で2人はぱったり出会い、幾日か遊び歩いた。そのときは是公は台湾総督府からの出張中で、懐は豊かであったらしいが、わずかに「永日小品」でうかがいい知るのみである。後、満鉄総裁になった是公は漱石を満州に招待した。これが、「満韓ところどころ」に結実する。私は紀行文学の白眉だと思う。さて、漱石は胃潰瘍で逝去した。この時の葬儀委員長は中村是公だった。是公は、貴族院議員に勅選され、震災後の東京市長にも就任した。然し、昭和2年奇しくも漱石と同じ胃潰瘍のため、61歳で死去した。(この文は村上氏のレジュメを基に作成した。) |
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152回
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平成16年10月2日(土) 午後1時30分〜4時まで愛媛県立松山東高等学校視聴覚教室において 会員三好恭治氏の「漱石と湧が淵大蛇伝説」副会長戒能申脩氏の「松山坊っちゃん会発足のころ」と題して講演があった。以下はその要旨である。 漱石と湧ケ淵大蛇(オロチ)伝説 明治二十八年八月から十月にかけて五十数日間漱石と子規は愚陀仏庵で生活と共にしたが、子規上京後漱石の句作は急激に増えた。因みに漱石全集「子規へ送りたる句稿」では九月三二句、十月八八句、十一月一八四句、十二月一〇二句、翌年一月から熊本に去る三ヵ月に一七〇余句記載されている。漱石の俳句の三分の一はこの数カ月間に作られた。 漱石の湧ケ淵の大蛇を詠んだ句は「子規へ送りたる句稿その八 十二月十四日」に載せられている。子規が明治二十四年八月下旬に訪ねた白猪・唐岬の地を漱石は十一月三日に雨を冒して見物したが、疲労のため病気となり、十一月十三日付の子規宛句稿に「二十九年骨を徹する秋や此風」「吾病めり山茶花活けよ枕元」などの句を残している。健康の回復を待って石手から湯山の散策に出掛けたのであろうが、同行の松風会のメンバーや日時は不明である。 十二月 二十五日には上京して歳末の二十八日に中根鏡と虎の門の貴族院書記官長官舎の二階で見合いし婚約が成立している。それ以降の松山での吟行句は残っていない。以下卓話と関連する句を抜き書きする。 ○冬木立寺に蛇骨を伝えけり (注)五十一番札所熊野山石手寺 湧ケ淵三好秀保大蛇を斬るところ ○蛇を斬った岩と聞けば淵寒し 円福寺新田義宗脇屋義治二公の遺物を観る 二句 ○つめたくも南蛮鉄の具足哉 ○山寺に太刀を頂く時雨哉 日浦山二公の墓を謁す 二句 ○塚一つ大根畠の広さ哉 ○応永の昔なりけり塚の霜 (注)新田義宗、脇屋義治は南北朝期の新田義貞、脇屋義助の子。 さて湧ケ淵の大蛇伝説であるが松山藩記録として集大成した「松山叢談 第四 天鏡院定長公」の項に「三好家記に云涌ケ淵の妖怪先祖三好長門守秀吉長男蔵人之助秀勝元和年中打取申候(以下省略)」として経過が詳述されている。「三好家記」と「三好系図」は現在東京大学史料編纂所に影写本が保存されており原本は未公開である。漱石の句にある「三好秀保」は「蔵人之助秀勝」のことであり「蛇を斬った」のではなく「家書」では「覚悟可致と鉄砲を向候」となっている。 実は湧ケ淵の大蛇伝説は「三好家記」以外にも数多く伝承されているが、熊野山石手寺宝物館に蛇骨と大蛇を斃した石剣(松山市指定文化財)が展示されたいる。寺伝では同寺の僧侶により退治された大蛇は雄であり、一方湧ケ淵の大蛇は雌で「夫」亡き後、湯山村食場(じきば)の菊ガ森城主三好長門守家に女中奉公することになる。昼間は美貌の女中であるが深夜は大蛇に化身し、やがて秀勝の知るところとなり破局(斬首?銃殺?)を迎える。雌の大蛇の枯骨は現在ホテル奥道後内の竜姫宮に祭られ、ホテル関係者、三好家始め近在の者が集まり毎年八月に大祭が開かれている。 漱石の句の前書きは石手寺に立ち寄り住職から直接聞いたものか、松風会のとある人物から説明を受けたものと思われる。尚、南北朝時代の宮方の新田義宗、脇屋義治は武家方の道後湯築城主河野氏に敗北するが、最後まで宮方に尽くした菊ケ森城主三好氏を頼って湯山に落ち延び落命した悲劇の伝承がある。漱石も史実に興味があり、湧ケ淵から往復二里の山道を散策したものと思われる。 平成十五年(二〇〇三)にホテル奥道後は創立四〇周年を迎えた。昼なお暗い鬱蒼と繁った樹木の下を滔々と流れる水が、巌とぶつかって轟々とこだましたかつての湧ケ淵を五十歳未満の者には想像も出来ないだろう。漱石が後代に湧ケ淵と大蛇の記憶を残してくれたことに心からなる感謝の念を捧げたい。 湧ガ淵三好秀保大蛇を斬るところ ○蛇を斬った岩と聞けば淵寒し(以上は三好氏のメールによる) この後、副会長 戒能 申脩氏の「松山坊っちゃん会発足の頃」と題して第20回例会における仲田庸幸愛媛大 教育学部教授の「私と本」と題する講演の紹介(氏の敬慕する久松潜一博士の紹介状をもって漱石山房を訪れた話、風呂番の爺さんが健在だつたことなど) 松友増美氏(松山市役所勤務)の漱石の伝記関係の書物を読んだ感想の紹介があった。 |
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153回
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平成16年12月5日(日)、午後1時30分より県美術館分館内愚陀仏庵において、第153回例会が開催された.漱石忌(9日)を繰り上げて、正宗寺住職田中義晃師(副会長)の読経に続いて、下掛宝生流能楽師
坂苗 融師 門下10名による献吟、謡曲羽衣の連吟があった。 続いて頼本会長の司会で「我々は小説「坊っちやん」をどう受けとめるか」をテーマに参加者から熱心な意見が寄せられた. |
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146回
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平成15年4月26日(土)松山市道後湯之町 椿の湯2階会議室において、会長 頼本冨夫氏の「漱石と謡曲」と題して講演があlり、引き続き、重要無形文化財(能楽)保持者下掛宝生流職分 坂苗融氏の独吟「通盛」「舟弁慶」があった。以下はその講演の概要である。 漱石の謡曲へのきっかけ 漱石と謡曲の関係は記録の上では、明治28年10月6日日曜日、子規に誘われ散策をした帰りに、大街道の芝居小屋で「てには狂言」を見物したというのが最初である。「てには(照葉とも)狂言」とは能狂言に面を着けない女役者のおどりを入れた通俗的なものであったといわれている。松山中学の教師をしていた時代である。漱石が謡曲を始めた直接のきっかけは、明治32年(又は31年)熊本五高の同僚、桜井房記から加賀宝生流の謡曲を習ったことである。熊本は、旧幕時代から能楽が盛んで、明治以降喜多流、金春流が盛んであったが、桜井など加賀出身者の間では加賀宝生流の謡曲が盛んであった。英国留学のため、謡曲は一時中断したが、帰国後の明治40年1月1日、草平、三重吉、東洋城、豊隆、森巻吉らが集まっている所へ、高浜虚子が現れ、謡を始めた。漱石も謡ったがさんざんの不評だった。1月13日、九段能楽堂へ草平、三重吉らと「隅田川」を見に行き、7月7日には「藤戸」を謡った。うまく謡えたので、謡曲を再び本格的に始めようと言う気になった。4月には朝日新聞に入社し、経済的にも、時間的にも、少しゆとりができたのである。 漱石の謡曲の先生 明治40年4月16日高浜虚子宛書簡「いい先生はないでしようか。人物のいい先生か、芸のいい先生かどつちでも我慢する。両者そろえば奮発する。」とある。当時松本金太郎は徳川家の能楽師として著名であったが、彼は大酒豪であり、多忙で、その上、月謝も高かろうと敬遠し、宝生新への交渉を虚子に依頼した。週2回で月8円の謝礼。(宝生新は5円という)代稽古は小鍛治剛。彼は熱心で几帳面であった。宝生 新は漱石の謡いを「ただ素直に声を出しさえすればいいといふお考へだろうと思っていましたが、先生は、どうもさうではありませんでしたね。謡つてる間にご自分で節を拵えたいといふ意志が働く。そこがどうも夏目先生らしくないと思ひましたよ。」と評している。 謡の効用 死ぬまで謡はやめなかった漱石であったが、自分自身は、「芸術のつもりでやっているのではなく、半分運動のつもりで唸っているまでのこと。」(大阪朝日大正3年3月23日 )と言っている。 確かに大きな声を出すことは漱石にとって健康法の一つには違いないのだが、しかし、漱石の日記を読むと、単に「運動のつもり」ばかりでなく、かなりのめりこんでいることがわかる。例えば明治44年2月10日の入院生活中の夫人宛書簡には病気が次第に良くなってきて、元気が出てきた頃の漱石の、謡いでもやってみたい気持ちが、ユーモラスに表れている。 なぜ謡の稽古をやめたのか。大正5年4月19日野上豊一郎宛書簡 前略「一人前になるには時間足らず今許す時間内にては碌な事は出来ず、已めた方が得策と存知候其の上近来○といふ男の軽薄な態度が甚だ嫌になり候故已めるのは丁度よき時期と思ひつき遂に断行致し候」弟子が多く、下掛宝生流の宗家として多忙であり、決められた稽古の時間など守れなかった師匠と几帳面な漱石とではうまく行かぬ所も多かったらしい。この時以降、日記・書簡に能楽に触れたものはない。 漱石の好きな曲目と嫌いな曲目 宝生 新によれば漱石は「通盛」が好きで「明けても暮れても」謡っていたという。特に「小宰相局の入水といつたやうな文学的に面白いところもあるのでそれがお気に入ったのでせう。」「「弱法師」は盲目ものだから嫌いだというやうなお話でした。」と言っている。 謡曲「通盛」(小宰相入水の場面 )が好きだった理由 漱石の小説には謡の場面や語句・人名等多数使用されている。ここでは、特に「草枕」に注目したい。草枕二の峠の茶屋で、御婆さんの話から画工が志保田の嬢様の花嫁姿を思い描いているうちに、ジョン・エブレット・ミレー(Millais英、ラファエル前派の画家、「落ち穂拾い」「晩鐘」の仏のミレーMilletとは別人)の描いた「オフェリア」の水に流れていく姿を思い浮かべる。また婆さんの「嬢様と長良乙女とはよく似て居ります。」という話から二人の男に同時に愛され、思い悩んだ末、淵川に身を投げて死んだ美しい乙女の話を聞かされ、その墓を見て行こうと思う。三では、その夜長良乙女がオフェリアになって川を流されて行く夢を見る。七では宿の温泉の湯につかりながら、ミレーのオフェリアを想像し、自分も風流な土左衛門を描いてみたいと思う。しかし、その顔が思うように浮かんでこない。九では宿の女性、那美さんが「私が身を投げて浮いて居る所を ー苦しんで居るいる所ぢやないんですーやすやすと往生して浮いている所をー奇麗な画にかいてください」と言われ画工は驚く。十では鏡が池で絵を描こうとするが、「こんな所へ美しい女の浮いている所を描いたら、どうだらうと思ひ」その顔は「やはり那美さんの顔が一番似合ふ様だ。然し何だか物足らない。」と思ったりしている時に峠の茶屋で会った馬子の源兵衛から、昔の志保田の嬢様が失恋して身を投げたのがこの池だという話を聞く。また明治38年中央公論11月号に発表された「韮露行」の最後、エレーンの美しい亡骸を乗せた小舟が城の水門を漂う場面等を併せて考察すると、漱石は汚れのない美しい女性が、美しい衣装をまとって、死んで水の上を漂う情景に特別な思いを持っていたと考えられる。しかも、それらの女性はいずれも無償の愛に生きた、ひたむきな愛の持ち主である。こうした点を考えると、当然のことながら恋人通盛を一ノ谷の合戦で失い、身をはかなんで入水する藤原憲方の娘で、当時宮中第一の美人とうたわれた16歳の小宰相の最後を物語る謡曲「通盛」を漱石が好んだということはうなずける話である。 漱石が謡曲に親しんだ結果と影響 漱石が謡曲に親しんだ結果、前述のごとく漱石の作品(草枕・坊っちやん・吾輩は猫である・虞美人草・彼岸過迄・行人・明暗等)の中に数多く曲目・人名等が素材として取り入れられている。その影響としては、漱石山脈といわれた人々が多く能楽に親しんだ。中でも、 高浜虚子は、生家が能楽に熱心で、三兄の信嘉は上京して「能楽」を創刊、後継者の育成にも力を入れた。漱石の機嫌の悪いときは、夫人から「ちと宅を引っ張り出してください」と頼まれ、能楽の見物に誘ったり、漱石の謡のきっかけを作ったりした。新作能「実朝」その他を作っている。虚子は漱石に影響を与えたと言うべき人である。小宮豊隆は独文学者で「能と歌舞伎」「伝統芸術論」を、野上豊一郎は英文学者で能楽研究者となり、「能 研究と発見」などの著作があり、今春流の保護育成に努め、安倍能成は漱石や虚子の勧めで謡を始めた。 |
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147回夏例会 |
7月26日(土)松山市道後湯之町 椿の湯2階会議室にて午後1時から3時まで愛媛大学教育学部教授
佐藤栄作氏の「『坊っちやん』本文のゆれ」−岩波新全集の問題点ーと題して講演があった。以下はその概要である。 岩波新全集(1994年刊)は、「自筆原稿に忠実に」という「画期的な」編集方針を採ったため、それまでの全集本と本文にかなりの相違が見出せる。たとえば、これまで、「バッタだらうが雪踏(せった)だらうが、」とされ、語呂合わせの面白さとして読まれていた箇所は、原稿では「バッタだらうが足踏だらうが」とあり、新全集では「足踏」とした(ルビはなし)。また、清との別れの場面の「随分御機嫌やう」は、原稿 では「存分御機嫌やう」であり、新全集では、「存分」を採った。前者の確定(「あしだ」か「あしふみ」か)は難しい(山下浩氏に言及あり )が、後者は「随分」が当時の決り文句であろう。いずれにしても、 これらについて新全集の編集者は校訂作業を放棄しているように思われる。 『坊っちやん』は原稿、初出、初版、どれも複製が手に入る。それらを比較しながら見ていくと、原稿をそのままにすべきか訂正すべきかの判断がきわめて難しいと痛感する。同時に、岩波新全集の方針、 判断が、最善ではないことにも気づかされる。 |
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148回秋例会 |
10月4日(土)松山市持田町県立松山東高校視聴覚室にて 午後1時〜3時まで元愛媛大学教育学部教授
菊川國夫氏による「漱石の書・子規の書」と題して講演があった。以下はその概要である。 1, 子規と漱石の句碑 松山東高校に、子規と漱石の句碑がある。 「お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花」漱石 「行く我にとどまる汝に秋二つ」子規 明治28年10月、帰省していた子規と松山中学教師漱石との惜別の句という。 漱石の字はしなやかな曲線中心の和様風で、後年良寛に傾倒する書風がかいま見える。子規の方は 直線的な唐様風で、幼少時、武智五友に学んだ書風がよく出ている。 2,一昨年松山東高史料舘に、漱石が松山中学在任中に書いた欠勤届が収蔵された。次の任地熊本へ赴く数日前に書かれたもので、貴重な資料である。いやな松山を早く離れて、新しい任地熊本へ心が急いでいるような書きぶりである。 3,近時漱石筆の書画に対する関心が異常に高くなり、研究もなされてきた。漱石の書は「彼の文学と共存している。」「その書境があの透明な文体に通じる資質を備えている。」(鈴木史楼)と言われている。漱石の書について概要を述べてみる。 1,その幅が広い。幅、短冊、色紙帖、漢詩稿、句稿、画賛、書簡など多岐に及ぶ。 2,書の内容も多彩である。○漢詩(漱石の自作の漢詩数207編)○俳句(自作俳句約2500という。) ○書簡(そのほとんどが毛筆であり、近年新発見のものもあり、人気が高い。)○漢語の名句、佳語 など(二字句、三字句の少字数書が多い。) 3,書に対する見識が高い。○漱石の蔵書目録などによると、書に関する専門書、法帖、字典類、拓本 等も多く、書に対する並々ならぬ関心には驚かされる。○晩年良寛に傾倒したが、書風も良寛調で あった。本来漱石の書は東高の句碑にも見られるように、良寛に似ていて、良寛好みであった。 4,漱石「則天去私」と子規「絶筆三句」 子規絶筆三句は、句も書も力いっぱいの仕事であり、人間の生ききった姿である。「仏」の縦画の清 冽にして力強い線は人間業の極致である。壮絶な臨終を感じさせる。 漱石の「即天去私」は絶筆に近い晩年のものだが、スケールも小さく、力強さに欠ける。言葉の持つ 意味が先行して、この書を有名にしてしまった。「明暗」同様、漱石の書も未完のまま終ってしまった ことが惜しまれる。(講演の後、参加者は、東高史料館、明教舘を見学し、近代俳句発展の跡を辿り郷土の先覚者の肖像画に往事を偲んだ。) |
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149回冬例会 |
12月9日(火)松山市一番町愛媛県美術館分館内 愚陀佛庵 午後1時〜3時 正宗寺副住職
田中義雲師の読経により第88回漱石忌法要後会員 村上 志行氏「漱石と寅彦」と題して講演があった。以下その概要である。 寺田寅彦が夏目漱石と親しく話をしたきっかけは、第五高等学校2年の学年末試験の終了したときであった。 友人の中に英語の試験にしくじった生徒がいてた。その生徒の代理で点をもらう交渉をしたのが寅彦だった。 用件を快く聞いていた漱石に向かって彼は,[先生、俳句とはいったいどんなものですか。]という質問をした。 それに対して漱石の答えは「俳句はレトリックの煎じ詰めたものだ。」ということであった。この言葉は漱石の死後も、寅彦にははっきり耳の底に残っていて忘れられなかった。寅彦は夏休みに、故郷の土佐へ帰って俳句を作り,漱石のもとへ持参し添削を乞うた。以後週に二・三度遠い下宿から「恋人に会うような気持ち」で漱石のもとを訪れた。寅彦は英語がよくできたので答案を返す時漱石はにこにこして渡した。それを内丸最一郎などは見て抗議したらしい。その後寅彦は,東京帝国大学理科大学に入学し,実験物理学を専攻した。 一方漱石は英国へ留学し,英語学を学ぶことを命ぜられた。日記によれば、その頃ドイツ留学の帰途英国に滞在していた化学者池田菊苗に啓発される所が大きく、自分ももっと、組織だったどっしりしたものを書きたいと研究に没頭し、一時は文部省に発狂説が出るほどであった。この研究の結果が「文学論]であり、後の作品にまで繋がるのである。(以下略)その他 村上氏は寺田家の家系、最初の妻夏子の家系について話され、特に夏子の父,阪井重季陸軍少将は、松山の第10旅団長として赴任した。当時一番町にあった御典医天岸家の屋敷がその官舎であり、夏子も一時滞在したことがあること。阪井重季書の日清戦争従軍記念碑が,伊予郡砥部町麻生の理生院にあること。阪井重季は陸軍中将となり、後備第1師団長として、日露戦争で奉天の会戦に参加したこと。そのことは、司馬遼太郎の「坂の上の雲]にも記述があること。寅彦の父、利正は宇賀家から寺田家に入り婿となった人で、その妹は安岡家に嫁している。安岡家は小説家安岡章太郎と関係があること等興味深い話であった。 |
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142回春例会 |
平成14年4月27日 (土)道後温泉椿の湯 において前子規博館長 和田茂樹氏の「漱石の俳句」と題して講演があった.。以下は其の概要である.。 夏目漱石は,明治17年9月東京大学予備門、予科4級に入学した。.翌18年9月には同予科3級に進学したが、翌19年4月に同予備門は「第一高等中学校」と改称され、漱石らの予備門予科第3級は第一高等中学予科第2級に編入されたが、9月胃病のため受験欠席で原級にとどまつた。漱石も子規も共に慶応3年(1984年)に生まれた。子規は明治19年9月幾何数学欠点のため原級に留まった.。ここで漱石と子規と2人共に2年2組の同級生となった.。 明治22年2月5日「第一高等中学校」第1回私会希望生を募集、漱石は敬愛する兄嫁の死を悼み ゛The Death of my Brother`子規は`Self Reliance(自じ)として、英語のスピーチで講演をした。それから子規は和漢詩文集「七草集」(漢詩・和歌・俳句・小説等)を公表して示し、漱石は9月に「木屑録」(房総紀行の漢詩集)を公表、子規はその後に五言絶句,七言絶句など次々と送稿、互いに敬愛する仲となった.。 明治22年子規の喀血を聞いた漱石は山崎医院を訪ねて病状、対策などを詳しく質問し,子規への詳報に認め,入院加療を勧めたが,子規はそれに従わなかった。その書簡に漱石は2句認めていたが,それが契機となり、松山中学教諭となった漱石は、松山周辺を散策しては,子規の添削を受けるようになった。 明治28年9月23日(句稿一・32句)以後、漱石は松山周辺を散策しては,10月8日(句稿四・46句)、11月2日には、河の内泊、翌3日雨中に白猪・唐岬の両瀑を見て(句稿四・50句)も送稿したが、佳作は数句、◎印は2句に過ぎず、子規の厳しい選抜に「駄句不相変御叱正被下度候なるべく酷評がよし、啓発する所もあらんと存じ候」と漱石は,厳正なる写生をと要求した.。 子規の帰省により,明治28・9年には松山で俳句熱が高まった。河東碧梧桐や高浜虚子ら新人が、すばらしい成果を示し、その他の新人も次々に子規は「明治29年の俳句界」で紹介した。夏目漱石について,「漱石は明治28年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠に於いて句法に於いて特色を見はせり、其の意匠極めて斬新なる者、奇想天外より来りし者多し。「日あたりや熟柿の如き心地あり」「蘭の香や聖教帖を習はんか」(10句略)漱石また滑稽思想を有す「長けれど何の糸瓜とさがりけり」「狸化けぬ柳枯れぬと心得て」(2句略 )又漱石の句法に特色あり、或は漢詩を用い、或は俗語を用い、或は奇なる言ひまはしを為す。「冴え返る頃をお厭ひなさるべし」「作らねど菊咲にけり折りにけり(2句略)漱石は又一方に偏せず、滑稽を以って唯一の趣向となし(中略)其の句雄健なるものは何処迄も雄健に、真面目なるものは何処までも真面目なり。「短夜の芭蕉は伸びてしまひけり」「庭見ゆる一枚岩や秋の水」(16句略)(日本、明治29・3・7連載31) これが明治28年9月23日から1年7か月後と考えてよかろう。この発想の基に広大な教養の背景と、漢詩の趣向も見られ,欧米的訳語や文化の背景もうかがえるであろう。 こうして「句稿一」から、明治32年10月迄の「句稿三十九・29句」迄の約1700句作句あり、「岩波書店刊、漱石全集28巻の中、第17巻「俳句」に、1頁6句で350頁あり、その他の連句、俳文学や当時、不詳の句も350頁に収められている。なお「第18巻漢詩」は漱石の漢詩、下欄に読み方を記し,詳しい解説を施している。(ここで和田氏体調不良のため講演を中止されました.) |
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143回夏例会 |
平成14年7月27日(土)道後温泉椿の湯において会員・伊予史談会会員 山崎 善啓氏の「漱石 松山から熊本への旅」と題して講演があった.以下はその要約である.。 漱石は,明治29年四月10日松山を出発して,新勤務地、熊本に向かった.途中広島県宮島へ一泊大宰府天満宮、都府楼跡等巡り久留米で泊り、13日熊本に到着している.。その旅路については、書物により,いろいろ解説されているが、どれが正しいか判断に迷った。私は,当時の新聞記事等による航路や鉄道の時刻表等をつぶさに調べて旅路を解明してみることにした。松山の港、三津浜から宇品行きの船便は1日1便、広島から西に鉄道はまだ開通していなかった。宇品から宮島へ寄港して門司までの船便はこれも1日1便,しかも、宮島発午後2時50分、門司着は午前4時であった。このような時刻表を明らかにして、大宰府参詣コースを実地に歩いてみて、漱石の旅路を正確に調査したものである。 |
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144回秋例会 |
平成14年10月12日(土)県立松山東高等学校視聴覚教室において会員 戒能申脩氏の「松山時代の漱石」と題して講演があった。以下はその一部である。 漱石は、松山中学在職中の明治28年11月2日、温泉郡三内村(現川内町)大字河之内日浦の造り酒屋近藤本家(子規の遠縁)に一泊し、翌3日天長節(文化の日)に白猪の滝と唐岬の滝の見物に出かけた。帰りは、近藤家には寄らず、平井川原まで歩き、当時の終着駅である伊予鉄道平井駅(明治26年5月7日開設)から汽車で松山に帰っている。 この時蓑笠姿で、山道に生い茂った草を鎌で刈りながら案内したのが、近藤家の下男だった河之内上音田の、当時22歳の佐伯宇太郎(明治6年2月28日出生)青年であった。佐伯家は近藤家の信望が厚く次郎右衛門、好蔵、宇太郎と三代にわたって下男奉公をしている。当時近藤本家へ奉公に上がると、礼儀作法はもちろん手習いまで身につけて帰ってきたという。 日浦は地滑り指定地区になっており、長年の地滑りと地震のために、栄華を誇った豪邸の跡さえ全く残っていない。豪邸を支えていた石垣は、近世の城郭並に、大きな石垣を二重に築いていたというが、それさえも今は崩れ落ちて、あちこち田畑の石垣に利用されているが、その威容に当時の面影の一部を偲ぶことができるだけである。 |
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145回冬例会 |
平成14年12月8日(日)午後1時から松山市一番町愛媛県美術館分館内愚陀仏庵において松山市末広町正宗寺田中義雲師の読経のもと漱石第87回忌法要を行い、その後会長の頼本
冨夫氏の「漱石を悩ませた松中の教え子-高須賀淳平のことー」と題して講演があった。以下はその概要である。 ここに挙げる高須賀淳平は生没年未詳、本人自身が漱石から松山中学で教えを受けたといっているが、現在の松山東高校の同窓生名簿には記載されてない。何か手掛かりのある方は、ご教示願いたい。 明治40年6月11日渋川玄耳宛漱石書簡では、「愛媛県にて小供のとき教えた腕白もの」とあり、生徒としては漱石にとってかなり印象に残っていた人物と思われる。同書簡によると、、「早稲田中退後、株屋になったり、寄席の帳場へ坐ったり」職業を転々とし、一時は、佐藤紅緑の書生をしたこともあった。そんなことをしながら、明治29年創業の新声社(今日の新潮社の前身)の手伝いをしたりしていた。明治28年1月「猫」を発表し、文名大いに上がった漱石のもとへ、高須賀淳平は社名も新しく変わった「新潮社」の記者という触れ込みで、同年8月19日ごろ訪れた。これが漱石、淳平の最初の出会いである。 明治39年4月漱石は『坊っちゃん』を発表。明治40年、高須賀淳平新潮社入社。(浩峰)と号した。そしてしばしば漱石のもとを訪問記者として訪れたらしい。そこで身の上話、生活の苦しみ、将来のこと等いろいろ話も出て、ついには朝日新聞へ入社の世話まで頼んだのである。これは前記明治40年の渋川宛漱石書簡が物語っている。 漱石は明治40年3月15日、朝日新聞入社が決定した。入社早々日ならずして、このような依頼を受けた漱石も、戸惑いは会ったが、教え子といわれる男から頼まれれば否と言わないのが漱石である。全述の手紙で高須賀就職を依頼した。採用通知はすぐ来た。6月17日渋川宛に、漱石は礼状を出している。それによると高須賀は「本人も望外の喜悦にて是から足を伸ばして楽に寝られる」と大変な喜びようだったと記している。以後高須賀淳平は朝日社員として度々漱石のもとを訪問しているが、特筆すべきは、漱石山脈の一人であり、後に夏目家の書生となる岡田(後に林原)耕三を漱石に紹介したことである。新潮時代の淳平は、結核療養のため、小田原海岸早川村の清光館という旅館で静養していた。その隣室に岡田がいて親しくなったのである。岡田は、淳平が漱石と知り合いということを知って、紹介を依頼した。淳平は、「君は、夏目先生が死ねと言ったら死ねるか。」「はい、死ねます。」と岡田。こんな問答があった。「よし、それなら紹介してやろう。]淳平は純粋な人であったと岡田は後に語っている。その後夏目家の書生となった岡田は、鏡子夫人にも気に入られ、一時は、長女筆子の夫にと考えたこともあったらしい。一方高須賀淳平は漱石門下の小宮豊隆をはじめ多くの門人とも親しくなって行った。 しかし、高須賀はあくまで臨時社員であって、明治40年12月末には朝日新聞を退社して国民新聞に移っている。明治42年3月13日(土)の漱石日記には「淳平の細君今暁死去。(来信)博文館高須賀淳平」とある。妻の死去を漱石に知らせたものである。この時は博文館に入社していたのであろう。淳平は同年1月13日には金50円を漱石から借りている。参考までに当時の朝日新聞新入社員の月給が30円である。明治42年5月16日(日)の漱石日記には「…この正月から今日迄臨時に人に借りられたり、やつたりしたのを勘定してみたら二百円になつていた。是では収支償わぬはずである。そのうちで尤も質の悪い、尤も大っぴらなのは淳平である。淳平はにくい奴だ。もう一文も貸さない。…」心の中をぶちまけるのが日記である。つい本音が出たとも考えられるし、漱石流のユーモアとも考えられる。貧窮ゆえのことではあろうが、漱石が頼られると否と言わぬをよいことに、淳平は漱石から度々借金をしたと思われる。 ところで、小説「坊っちやん」の有名なバッタ事件の部分で「いたづらと罰はつきものだ。罰があるからいたづらも心地よく出来る。いたづら丈で罰は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思つてるんだ。金は借りるが、返すことは御免だと云ふ連中はみんなこんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。」もちろん、この「バッタ事件」の部分では、主人公のモデルは漱石ではないが、生徒は当時の松山中学生を念頭に置いて執筆したはずである。そこに唐突に貸した金の話が出てくるということは、昔の松中生高須賀淳平をふと思い浮かべ、「こんな奴等が卒業してやる仕事」の表現となったのではないかと考えられる。 これはあくまで推測の域であるが、漱石が[坊っちやん」を執筆する以前に淳平が漱石宅を訪問しているのは事実であって、そこで借金の申し込みがあったという事実が証明されれば、この話は一層面白くなる。今後より詳しく調査してみたい。なお、森田草平の文によれば[三四郎」の与次郎は淳平が部分的に取り入れられていると言うことを付記する。 |
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138回春例会 |
4月21日(土)午後1時より、道後温泉 椿の湯 会議室において、愛媛大学教育学部教授 佐藤栄作氏の「『坊っちやん』の原稿と高浜虚子」と題して、精細な資料をもとに日ごろの研究の一端を講演された。以下はその抜粋である。 「『坊っちやん』の原稿には、虚子による添削個所が90箇所ほど確認できる。その大半は、松山言葉の部分であり、これによって、松山言葉は、よりリアルに生き生きとしてきた。添削部分からは、松山人虚子の心情も読み取れる。松山言葉に注目することで、松山人ならではの読みが可能となるのは、今も変わらないのではないか。」 |
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139回夏例会 | 7月21日(土)午後1時より、道後温泉 椿の湯 和室において、本会役員 戒能申脩氏が『漱石・子規・極堂」と題して講演をされた。内容は、子規没後百年記念展「極堂とその仲間たち」の記念講演の概要(山上次郎氏「極堂との思い出」・八木洋美氏「内藤鳴雪について」・石井久吾氏「子規について」) を紹介し、あわせて、感想・意見を述べられた。 |
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140回秋例会 | 10月13日(土)午後1時より、愛媛県立松山東高等学校 視聴覚教室において、『漱石と松山』の著者、中村英利子氏による同名の講演があった。ルポライターとしての中村氏が既存の資料ばかりでなく、新たに取材した各方面の意見なども盛り込んだ氏の著作をもとに話された。 |
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141回冬例会 | 12月9日(土)午後1時より、愛媛県立美術館分館「万翠荘」内「愚陀佛庵」において、夏目漱石86回忌法要にあたり、正宗寺副住職 田中義雲師の読経につづいて、本会会長(愛媛医療福祉専門学校非常勤講師) 頼本富夫氏の「『おれ』のイメージ--小説「坊っちやん」の表現と人間関係から--」と題して講演があった。内容は、主要論文を踏まえて、独自の見解も入れて、題名「坊っちやん」の1、表記、2、その意味、3、主人公の人間像1、年齢 2、容姿 3、家庭環境 4、性格・人柄 5、学歴 6、職歴 7、趣味・食べ物の好き嫌い 8、家族関係 それに人間関係、そして世間一般に対する見方等、多岐にわたって『おれ』という人物を明らかにしようとしたものであった。そのようにして「おれ」という人物を見ると単純に正直で子どもっぽさもある正義感の持ち主とはいえない、神経質で異常なまでに潔癖な、エリート意識の強い人物像が浮かび上がる。そこには、作者漱石の分身とも言える人物像が多分にある。 |
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134回春例会 |
道後温泉椿湯 講演 愛媛大教授 清水 史氏「坊っちゃんの方言」 |
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135回夏例会 |
道後温泉椿湯 講演 本会役員 渡部一義氏「インターネットと漱石」 |
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136回秋例会 |
県立松山東高 講演 本会会員 伊賀上紀美子氏 「ロンドン漱石記念館長 恒松氏の講演から」 スライド上映 本会会長 頼本 冨夫氏 「熊本の漱石旧居」 8ミリ映画 同 頼本冨夫氏 会員 上田雅一氏 招待 竹村彬氏 作品 |
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137回冬例会 |
県立美術館内 愚陀仏庵 漱石85回忌法要 正宗寺住職 田中義晃師 講演 本会会長 頼本 冨夫氏「漱石と雑司が谷墓地」 |