データベース『えひめの記憶』
瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)
(3)伊予水軍の活躍
ア 伊予水軍の姿
「来島の瀬戸の渦潮とどろとどろ高鳴る聞けば雄心(おごころ)の湧く」(吉井 勇)
伊予水軍は、鎌倉時代から南北朝・室町時代にかけて、瀬戸内海一円を舞台に制海権を掌握し、国内外にわたり活躍した。伊予水軍と総称された水軍の実態は、河野氏に臣従した村上氏を中心に、忽那氏・今岡氏・得居氏などであり、海上における組織的な戦闘力・行動力・情報収集力によって中世の瀬戸内海を制圧しリードした。
水軍の基本的な性格は、瀬戸内海の島々や沿岸の半農半漁の海人たちを母胎とした海上武士団・海上交易商人団・海上交通支配団ともいうべき機動的武装集団であり、海に生きる海人の本領を遺憾なく発揮して活動した。
水軍は海賊衆・警固(けいご)衆と呼ばれ、いずれも島々や沿岸の要害の地に堅固な水軍城(海城)を築き、水軍独特の情報ネットワークを駆使して急潮渦巻く各瀬戸ににらみをきかせた。彼らは、瀬戸内海の要地を航行する船舶から帆別銭(ほべつせん)(船の帆の広さによる。)、荷駄別役銭(にだべつやくせん)(荷駄別銭ともいう。積荷の多少による。)、櫓別銭(ろべつせん)(櫓の数による。)など通行税にあたる関銭(せきせん)を徴収し、水先案内や警備保障費にあたる警固料を取得して、それぞれの水軍の領地支配と経済基盤を強固なものにした。
イ 三島村上氏の活躍
室町・戦国時代活躍した伊予水軍の代表は、芸予諸島を主要拠点とし、瀬戸内海のみならず、海外にまで進出したといわれる村上三家(三島村上氏)であった。村上三家は15世紀のはじめころ、村上(北畠)師清(もろきよ)の後を継いだ義顕(よしあき)が、長男雅房(まさふさ)を能島(のしま)、次男義豊(よしとよ)を因島(いんのしま)、三男吉房(よしふさ)を来島(くるしま)の各城に配置し、分立させたのが起こりといわれる。今治市波止浜の沖合約500m、来島海峡に浮かぶ来島(写真1-2-4)を根拠とした来島村上氏、大島宮窪町の沖合約260m、船折瀬戸に浮かぶ能島(口絵写真)を根拠とした能島村上氏、広島県因島市中央部の青影城を根城(ねじろ)とした因島村上氏であった(写真1-2-5)。
村上氏の系譜については明確な資料や定説はないが、南北朝時代、南朝に仕えた村上義弘などは前期村上氏と呼ばれ、後の村上義顕以降分立した村上三家を後期村上氏として区別する場合もある。いずれにせよ村上氏という強い同族意識と固い同族的団結によって瀬戸内海を縦横に活動し、島々を根拠地にして制海権を掌握した海賊衆であった。
村上三家は、「河野分限録(*7)」によれば、伊予の国の守護となった河野氏の一門三十二将に列し、侍大将十八家に名を連ねて船大将も兼ねていたといわれ、重臣的な存在であった。村上三家のうち最も実力を備えた海賊衆として恐れられたのは能島村上氏であった。
村上水軍が瀬戸内海の歴史の舞台に明確に登場するのは15世紀以降のことである。村上三家の勇名を挙げた戦いの例は、まず弘治元年(1555年)の厳島(いつくしま)合戦であり、村上水軍は毛利元就(もとなり)を支援して勝利をもたらした。この合戦の加勢を契機にして村上三家は毛利氏に接近するようになった。次いで天正4年(1576年)の石山本願寺合戦では本願寺支援の毛利元就に従い、織田信長が率いる難波・熊野水軍と摂津の木津川口(大阪湾)で戦った。この海戦では、能島の村上元吉(もとよし)や因島の村上吉充(よしみつ)などが率いる村上軍が「ほうろく(火矢)」と呼ばれた火薬弾による果敢な焼き討ち攻撃を加えて織田軍船を撃破し、村上水軍の名を高くした。しかし、天正6年(1578年)の第2次の木津川口の海戦では、九鬼嘉隆(くきよしたか)が率いる強力な新造大型安宅船(あたけぶね)(*8)6隻の一斉攻撃を受け、村上水軍も敗北を喫した。
来島家をはじめ村上三家は河野氏の重臣団であったが、必ずしも常に臣従したわけではなく、三家それぞれがその時々の利害に応じて山名氏、大内氏、毛利氏、小早川氏、大友氏などに従属したり、また離反・敵対を繰り返した。
村上三家の団結にひびが入ったのは、織田信長・豊臣秀吉が瀬戸内海の制圧のため村上三家を味方に引き入れようと画策したことによってである。信長からの勧誘と説得を繰り返し受けた三家のうち、河野氏に離反した来島家が織田方に通じた。一方、毛利氏の説得によって因島家・能島家が毛利氏に従ったため、両家と来島家とは決定的に対立し、戦火を交える間柄となった。特に三家の中でも海賊大将の雄といわれた能島の村上武吉(たけよし)は、各大名に独立的な態度を取り続け、豊臣秀吉の勧誘にも応じないで、毛利氏に従ったため、最後まで豊臣秀吉の圧力を受け苦難の道を歩んだ。
全国統一を目指す豊臣秀吉は、天正13年(1585年)四国平定を断行し、小早川隆景(こばやかわたかかげ)率いる大軍が伊予国に進攻した。河野通直(みちなお)は抗戦したが、降伏し、湯築城を開城した。他の諸豪族も平定され統一政権の軍門にくだった。
能島家の村上武吉・元吉らも天正14年(1586年)小早川隆景の指示に従って来島海峡の要害である務司(むし)(武志)・中途(なかと)城から撤収し村上水軍を解体した。その後、能島村上家は安芸国竹原を経て最終的に周防国屋代島(山口県大島郡東和町)に移住し、因島村上氏とともに毛利氏の家臣団に編入され舟手衆(ふなてしゅう)(藩の海上警備・海運・軍船管理にあたる。)を務めた。
豊臣秀吉に臣従した来島村上家は来島と姓を改め、四国平定に活躍した。来島通総(くるしまみちふさ)は鹿島城主として風早郡に1万4千石の領地を与えられ、村上三家の中で唯一の秀吉取り立て大名となった。
しかし、村上水軍をはじめ各水軍は、天正16年(1588年)豊臣秀吉が公布した海賊禁止令によって完全にとどめをさされ、瀬戸内海の檜舞台からその勇姿を消していった。その後、村上水軍の名にふさわしい最後の姿は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(丈禄・慶長の役)において伊予水軍700名を率いた来島通之(みちゆき)・通総(みちふさ)の奮戦と通総の戦死(慶長2年=1597年)に見ることができる。
なお、村上三家唯一の取立て大名となった来島康親(やすちか)(通総の子)は、関ヶ原戦いの後の慶長6年(1601年)豊後(ふんご)国玖珠(くす)郡森城主(大分県玖珠郡玖珠町森)に移封、1万2千5百石の領地を与えられた。次の通春は来島をさらに久留島(くるしま)と改姓したが、もはやそこには水軍大将の面影を見出せなかった。
他方、忽那島を本拠とし南北朝時代には南朝方の水軍の雄であった忽那氏も、四国平定の際、東予方面から中予地方に侵攻した小早川隆景の軍勢によって主家の河野氏に続いて攻撃され全滅に近い打撃を受けた。忽那氏もまた主家の河野氏と同じように守護大名から戦国大名へ脱皮するという時代の流れに乗ることができなかったといえよう。
ウ 海城(水軍城)の特色
「眉太き海賊顔の人ありて能島の夏を忘れかねつも」(吉井 勇)
今日伊予水軍の活躍の跡を伝え、かつての雄姿をしのぶことのできるのは島々の海城の遺構である。島々の海城遺構の岩礁に立つと、水軍の軍船の使用した桟橋跡と思われる柱穴(ピット)の跡を多数見ることができ、かつての海城施設と水軍活動を物語っている。伊予国の中世城郭は大小合わせて700余りに及んでいるが、瀬戸内海の島々や沿岸に立地した海城が多い。島々の海城はいずれも小規模であるが、島全体が城郭化され、要塞的な役割を果たしている。
島々の海城の代表としては、船折瀬戸の島城(国指定史跡)をはじめ、鼻栗瀬戸の甘崎(あまざき)城(県指定史跡)、来島海峡の務司城(武志)、斎灘の鹿島城、クダコ水道の久多児(くだこ)城などがあげられる。いずれの海城も瀬戸内海における海上交通上の要衝に位置しており、急潮渦巻く海の難所を利用して堅固な海城を築いた。
海城の特徴は、海面・潮流を取り込んで城郭を築き、単純ながら実戦に備えた郭(くるわ)(曲輪)配置となっていることである。また、城郭には本格的な土塁や堀はないが、海面がその役割を果たしており、攻撃しがたい城塞となっていた。更に、能島の隣の鵜島(うしま)には造船所や船奉行屋敷・船大工屋敷かおり、能島の対岸の宮窪集落、甘崎城の対岸の甘崎集落にそれぞれ水場を造って用水を確保したり、海城付近の見張り用砦を含めて、その海城の海域全体を取り込んで要塞化した。
しかし、瀬戸内海を席巻(せっけん)した伊予水軍の海城群も小早川隆景軍の伊予侵攻によって、次々と落城し、または廃絶の運命をたどり、元和元年(1615年)、徳川秀忠が公布した一国一城令により決定的に後を断たれた。
以上見てきたように、伊予の中世史は瀬戸内海を舞台に波乱万丈の展開を示したが、特に戦国時代は鎖国支配の拡大を目指す戦国大名や武将にとって、いかにして瀬戸内海の制海権を掌握するかが戦略・戦術上の重要課題であり、激しい渦潮のように覇を競い、しのぎを削ったのである。
*7 戦国末期における河野氏配下の部将、居城、所属家臣などを列記。
*8 戦国時代、水軍の主力となった500石積~3,000石積級の強力な武装軍船。
写真1-2-4 来島水軍城跡 今治市来島。平成3年12月撮影 |
写真1-2-5 因島村上水軍の墓地 広島県因島市金蓮寺(こんれんじ)。平成3年12月撮影 |