データベース『えひめの記憶』
伊予の遍路道(平成13年度)
(2)歯長峠から明石寺へ
峠には道標⑲が倒れて横たわっている。明石寺への遍路道は、その横を通って宇和町下川(しとうがわ)へと山道を下る。途中、歯長隧道(はながずいどう)口から左折する林道と交差するが、この地点からは、現在は森林が伐採されていて、宇和町を遠望することができる。
その地点を過ぎると道は急な坂道になる。檜(ひのき)林の中を下って下川への道の中程にさしかかると、立ち枯れた松の巨木があり、その根元に道標⑳がある。そこを過ぎると道はさらに険しくなる。雨水によって浸食された急な坂道をしばらく下ると、やがて下川の集落に入る。山麓には谷川に架けられた石橋があり、その手前の山際には道標㉑が草木に埋もれるように立っている。
この道標には、石橋の寄付をした16名の名前が刻まれているが、「仏木寺一里半」「明石寺一里半」の文字も見え、ここが両札所のちょうど中間地点であることを示している。
石橋を渡ると、道はすぐ県道31号に合流する。そこから県道を少し下ると、宇和川に架かる歯長橋にさしかかるが、その橋の手前の山際には巨岩があった。そこには石仏を祀(まつ)ったお堂があり、お堂のそばには小さな遍路墓らしき墓石ももたせかけられていたという。しかし、その巨岩は、平成12年の道路拡張工事で撤去され、現在は道を挟んだ向かい側にその石仏を祀る新しい地蔵堂が建てられている。
地元の人に聞くと、ここからの遍路道は、歯長橋を渡らずに巨岩のあった辺りから左折して宇和川沿いの山際の道を進み、下川橋を渡って道引大師堂に達する道であったという。この道引大師堂(写真1-2-6)の前には、下川橋が完成したころの道案内であったという茂兵衛道標㉒がある。
道引大師堂には、中央に道引大師像、左側に弘法大師像、右側に不動明王像が祀られている。昔は現在の敷地いっぱいに茅葺(かやぶ)きの大師堂が建てられていて、ここでは接待も行われていたという。下川地区の人々による接待は、現在も場所は異なるが続けられている。
下川では、険しい歯長峠越えで力尽きて行き倒れる遍路も多くいた。道標⑳の近くに農作業小屋を持つ**さん(大正4年生まれ)は、現在も接待として一夜の宿を提供しているが、昭和初期ころまでは、峠から宇和町側の地で行き倒れた遍路は、下川地区の者が順番に4人一組となって世話をし、巨岩のあった裏手の山際に埋葬(写真1-2-7)していたと話している。
また、下川は、疲れた遍路が体を癒(いや)すに適した場所でもあり、遍路が泊まる幾つかの木賃宿もあった。
明治40年(1907年)に遍路した小林雨峯は、『四國順禮』の中で次のように記しており、当時の宿の様子をうかがい知ることができる。
下川(しもがわ)の木賃(ぼくちん)に宿(やど)る。一水(すゐ)を隔(へだ)てヽ渓山前(けいざんまえ)に峙(そばだ)つ。二軒
(けん)の木賃(ぼくちん)あり競(きそ)ふて杖(つゑ)を引(ひ)く、若(わか)き女主頗(ぢょしゅすこぶ)る勞(いた)はる。此夜
(このよ)、予等(よら)の宿(やど)りし木賃(ぼくちん)の客(きゃく)十五六人(にん)ありて、ガヤガヤゴタゴタ遍路始(へんろ
はじ)めて以來(いらい)の大勢(おおぜい)なり。然(しか)れども女主(ぢょしゅ)の言(げん)に依(よ)れば春先(はるさき)は五
十、八十の客(きゃく)を泊(はく)せしむと。此家(このいえ)に拂(はら)ひし米代宿料左(こめだいしゅくりょうさ)に示(し
め)すべし。金(きん)拾八錢(せん)、米(こめ)一升代(しやうだい)、金(きん)拾貳錢(せん)、宿料二人分(しゅくりょうふた
りぶん)、金(きん)四錢(せん)、菓子代(くわしだい)、金(きん)壹銭(せん)五厘(りん)、ワラジ代(だい) 女主(ぢょしゅ)云
(い)ふ、明晩(みやようばん)なれば、毎月何人(まいげつなんにん)にてもうちではお接待(せったい)いたしますのにと、こ
の毎月(まいげつ)二十日(か)は大師忌日(だいしきじつ)の逮夜(たいや)なればなり。民俗(みんぞく)の大師信仰(だいししん
かう)の状此(じやうこれ)にても早(はや)く知(し)る<20>。
遍路道は、県道宇和野村線(29号)を西に宇和町卯之町の方向へと進む。反対の東の方向に足を延ばすと、歯長橋から約三里のところにある野村町十夜野(とやの)に、「バラ大師」の名で親しまれている永照寺がある。この寺には一つの大師伝説が伝わっており、ここを訪れる遍路もいる。
その伝説の粗筋は、昔、弘法大師がこの地を訪れ一夜の宿を求めた時、里人に断られ、仕方なく野宿をした。しかし、そこにはノイバラが群生していて、そのバラのトゲで大師は安眠もままならなかった。そこで大師は、衆生の難儀を思い、バラのトゲを封じたという話である<21>。
この伝説は、後述する大洲の十夜ヶ橋の伝説と類似しているが、これに類する話は、各地に大師伝説として伝わっているようである。
遍路道は、道標㉑から卯之町の方向に県道29号を進み、やがて皆田(かいだ)に入る。そこから県道をそれて右折し、皆田小学校の前を通りながら旧道をしばらく行き、再び県道に合流する。その後、稲生(いのう)の三差路で県道をそれて左折し、岩瀬川を渡って下鬼窪(おにくぼ)に入る。やや行くと、**邸(卯之町5)の前に、かつては茂兵衛道標㉓が立っていた<22>。この道標は、平成5年に工事の都合で宇和球場横の小高い丘の上に移されている。道標㉓は手印で仏木寺と明石寺の方向をそれぞれ示しているが、「左 新道」という文字も見え、道標が建てられた明治35年(1902年)の時点で、下鬼窪から明石寺に至る道には、新道と旧道があったことをうかがわせている。
地元の人の話を総合すると、新道は、**邸の前から鬼窪の通りを直進して県道鳥坂宇和線(237号)に合流し、そこから県道を北に進み、宇和高等学校体育館横に立つ道標㉔を経て明石寺に至る道であるという。一方、旧道は、元屋地邸の横から入る小路を通り、宇和球場横・宇和高等学校の農場を突き抜けて県道鳥坂宇和線上にあるバス停八丁坂付近に至る道であったようである。この旧道は現在は途中一部が消滅しているが、農園の辺りに「八丁」と呼ぶ地名も残っており、「八丁」は明石寺までの距離を示しているものと考えられる。
道標㉓を通る新道は、県立歴史文化博物館(ここには小松町の宝寿寺境内にあった道標㉕と西条市氷見乙竹内にあった道標㉖が展示されている。)への進入路を少し進んで右折して行くが、旧道は、バス停八丁坂付近から県道237号を左にそれて細い遍路道を行く。するとやがて新・旧の遍路道はこんもりとした森の手前にある三差路で合流する。この森には「四十三番明石寺奥之院」と刻字された石碑があり、中程にある小高い石積みの中央に祠(ほこら)がある。
この森の手前の三差路には、破損部を丁寧に針金で括(くく)った「卯のまちよし田道」と記された道標㉗があり、遍路道から法華津(ほけづ)峠越えの宇和島街道に通ずる道の方向を示している。この道標㉗を左に見ながら山際の道をさらに北に進むと、再び三差路にさしかかり、その干前に「明石寺へ六丁」の道標㉘がある。ここから三差路を道標に従って左折して進むと、道はすぐに四十三番明石寺の参道口に達し、参道入り口の鳥居のそばに茂兵衛道標㉙が立っている。
鳥居の横を通る現在の参道は、よく整備されていて自動車で登れるようになっている。左側の昔の参道は、鳥居をくぐって行く道であったが、現在は草に覆(おお)われ途中からは道路拡張工事によって消滅している。地元の人の話によると、昔の参道沿いには、途中に茅葺(かやぶ)きの茶堂が建てられていて、そこでは接待も行われていた。そのため、宇和町明石(旧明石村)には、毎回の接待費用を捻出する「接待田」と称する村有の田もあったという。
明石寺は、参道を300mほど登りきったところにある。単層の山門をくぐると、正面に本堂、左に鐘楼と大師堂があり、山門の左には鳥居があって氏神が祀られている。この寺は、昔は熊野修験(しゅげん)の道場として栄えていたが、現在は、四国八十八ヶ所の札所の中でも香川県東部の八十七番長尾寺とともに天台宗寺門派に属する寺になっている。
明石寺は、一般には「めいせきじ」と呼ばれているが、地元では「あげいしさん」「あげしさん」と呼ばれている。この名前の由来について、『宇和旧記』は、「此寺を『あげし』寺と云ふこと、昔十八九なる女の、大石をいただき、道を歩み行かる所に、夜既に明ければ、捨置かるヽの由、則其所しらわうと云所なれば、石を白王権現と奉崇の由、彼女人は觀音の佛力と見えたり、詠歌に、『きくならく千手不思議の力にて、大盤石もやすく上げ石』とあり、然らば上石寺と書くべきか。<23>」と記述している。
明石寺には「弘法井戸」(写真1-2-8)の伝説が伝わっている。弘法大師がこの寺を訪れた折に、寺にある井戸で行水(ぎょうずい)を行った。その後、井戸は僧侶の行水する修行場となり、寺に参拝する信者の中には、この井戸水は薬になるといって持ち帰る人も多かったという<24>。
境内の熊野神社の鳥居の前には、菅生(すがう)山(四十四番大宝寺)までの距離を示す徳右衛門道標㉚があり、山越えの道への登り口には遍路道を示す道標㉛が立っている。
写真1-2-6 道引大師堂 平成13年11月撮影 |
写真1-2-7 歯長橋の手前にある遍路墓 平成13年11月撮影 |
写真1-2-8 明石寺境内にある弘法井戸 平成13年11月撮影 |