データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)明治から太平洋戦争にかけての食生活

 ア 都市部への洋食の広がり

 (ア)洋食の流入

 西暦1868年に元号が明治と改元されて新しい時代が始まった。日本は欧米文化を積極的に取り入れて近代化の道を歩み、人々の食生活も欧米の食習慣の影響を色濃く受けて、都市部を中心に変化していった。
 明治前期における食生活上の最も大きな変化は、牛肉食の広がりである。明治5年(1872年)に天皇が前例を破って牛肉を食べて以来、世間では牛肉食を文明開化の象徴とみなすようになった。当初の食べ方は、従来からの肉の料理法である味噌で煮る鍋焼きや、醬油・砂糖を入れて加熱した牛鍋(ぎゅうなべ)(現在のすき焼き)がほとんどであった。しかし時代が下るにつれ、カツレツ・ビフテキ・コロッケ・オムレツなど日本化された洋風肉料理が都市部の家庭で作られるようになっていった(⑲)。
 パン食も徐々に普及した。パンはかつて南蛮文化の一つとして日本にもたらされたが、当時は普及しないままに終わった。明治期には菓子の一種とされて間食に食べられるようになり、あんパンのような和洋折衷型パンも登場した(⑲)。

 (イ)正岡子規の『仰臥漫録』から

 慶応3年(1867年)に伊予松山で生まれた正岡子規は、近代俳句の開拓者として数々の業績を残したが、明治35年(1902年)に数え年36歳の若さで没した。彼は、明治34年から翌35年の亡くなる直前にかけて、東京の子規庵における、母・妹の看病を受けての療養生活を『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』と呼ばれる随筆(ずいひつ)日記に綴(つづ)っている。食べ物への関心が高かった子規らしく、この日記には日々の食事の内容が詳しく書き記されている。彼が食べた療養食は一般的な日常食とはやや異なるが、明治期の都市住民の食生活を知るうえで参考になると思われるのでここに取り上げておきたい。
 『仰臥漫録』から明治34年(1901年)9月4日の子規の食事を挙げると、次のような内容である。

   朝  雑炊三椀 佃煮(つくだに) 梅干
      牛乳一合(0.18ℓ)ココア入 菓子パン二個(牛乳と菓子パンは午前の間食と思われる。)
   昼  鰹ノサシミ 粥三椀 ミソ汁 佃煮 梨二ツ 葡萄酒(ぶどうしゅ)一杯
   間食 団子アン付三本焼一本 麥湯(むぎゆ)一杯 塩煎餅(しおせんべい)三枚 茶一椀
   夕  粥三椀 ナマリ節(カツオを半干しにしたもの) キャベツノヒタシ物 梨一ツ(㉝)

 ココア入りの牛乳・菓子パン・ブドウ酒・キャベツなど、いずれも明治期になって都市部で普及したものである。
 粥では腹が減るのだろう、彼は必ず間食を食べ、その量もかなり多い。例えば9月10日午後の間食は、焼栗(やきぐり)8、9個、ゆで栗3、4個、煎餅4、5枚、菓子パン6、7個を食べている。また9月18日には、ネジパン菓子を半分ほど食べたもののうまくなかったので、やけになって羊羹(ようかん)・菓子パン・塩煎餅などを食べて渋茶(しぶちゃ)を飲み、後で苦しくなったと書いている(㉝)。
 病床にふせっている彼の脳裏には、本膳料理のごちそうなどおいしいものを食べたいという願望がよく浮かんだようである。もし仮に、自分の余命があと半年と分かれば皆がもっと気遣ってくれるのではないかと想像し、そうなれば、「食ヒタイトキニハ本膳デモ何デモ望ミ通リニ食ハセテモラフ(㉝)」ことができるし、「西洋菓子持テ来イトイフトマダ其(その)言葉ノ反響ガ消エヌ内西洋菓子ガ山ノヤウニ目ノ前ニ出ル(㉝)」、「カン詰持テ来イトイフト言下(げんか)ニカン詰ノ山ガ出来ル(㉝)」のではないかと夢想している(㉝)。こうした食べ物を腹一杯食べたいというのは、当時の都市住民の多くに共通した願いであったのかもしれない。
 9月の正岡家の支出合計32円72銭3厘のうち、食費は19円96銭8厘にものぼっている。十分な栄養をとるため子規が療養食を続ける一方、彼の看病にあたっていた妹の正岡律(りつ)は、野菜や香の物など一品だけの副食で食事をとっていた(㉝)。明治期東京の中流家庭といえる正岡家であるが、その中で子規自身は、粥や雑炊といったものを除いては比較的上等の部類に入る食生活を送ったようである。

 (ウ)大街道のにぎわい

 松山市の大街道は、現在の愛媛県内で最もにぎやかな商店街である。大街道に生まれ育った高田英夫氏が、明治から戦前にかけての大街道商店街の様子を克明に記しており、大都市東京の西洋的な食の文化が地方都市松山にも徐々に伝わってきた様子を知ることができる。
 まず牛鍋は、明治になるといち早く老舗(しにせ)のうどん屋がメニューに加え、明治8年(1875年)には、すき焼きの専門店が開店してそれに続いた。大正10年(1921年)には、洋式宴会を売りものとした料理店も開かれている(㉟)。そのほかにも、高田氏の著作から、明治から昭和初期にかけての洋風の食べ物に関係する大街道の記述を拾ってみる。

   ○ 明治7年(1874年)創業の菓子店は、日露戦争後にロシア軍の捕虜(俘虜(ふりょ))が松山の俘虜収容所にいた
    時、当時まだ珍しかったパンを焼いて捕虜たちに売っていた。
   ○ 上記とは別の菓子店が、昭和4年(1929年)ころに松山で初めてアイスキャンデーを売り出した。ゴットン、
    ゴットンと大きな音をたてて動いているアンモニア臭い冷凍機から化学用の試験管を取り出して、しばらく水につけ中
    の割りばしを引っ張ると、試験管の中からアイスキャンデーが出てくる。安価なので、幼いころの高田氏は1日に
    1本、暑い日には2、3本買って食べていた。
   ○ 昭和の初めころ、大街道に数軒の喫茶店が続けて開店した。各喫茶店のメニューは、コーヒー・紅茶・ジュース・
    みつ豆・ぜんざい・しるこ・フルーツ・カレーライス・サンドウィッチなどで、集まって自由にしゃべったり、レコー
    ドの音楽を静かに聴いたりすることができるので若い男女に人気を博した。喫茶店の出入りを禁止されていた師範(し
    はん)学校(教員養成を目的とする旧制の学校)や中学校(旧制中学)の生徒の中にも、ひそかに出かけて見つかり処
    罰される者が出た(㉟)。

 大街道には、そのほかにも和食の料理屋、和菓子屋、中華料理店など食べ物を売る店が立ち並んでにぎわった。地方都市の松山にも、さまざまな食の文化が花開いたのである。

 イ 村の人々の食生活

 (ア)食生活の近代化の遅れ

 明治の時代になって階級差による食生活の差はなくなったが、依然として生活水準や居住地による食生活の格差は残った。明治11年(1878年)に政府の地租改良事務局に提出された全国食料調査の報告書には、愛媛県について、「平坦(へいたん)村落の民は米麦を併食(へいしょく)し、海岸及び島しょ部では麦とサツマイモに雑魚を常食としていて米穀は大変まれである。山間へき地にいたってはトウモロコシとサツマイモを常食とし、米穀はやはりまれであるが、その原因は米穀を産出しないことにある。」と書かれている(㊱)。大正7年(1918年)の内務省の主食物調査でも、愛媛県の山村では麦とサツマイモを等分に混ぜて炊き、あるいは麦2の割合にあとはトウモロコシを混ぜ入れるとしている(㊱)。
 都市住民の食生活が徐々に近代化の波を受ける一方で、地方の農山漁村における食生活の近代化はかなり遅れたのである。明治以降も、江戸時代と大きくは変わらない不安定な食生活をおくる村は多く、昭和初期の恐慌時における東北地方の惨状(さんじょう)はよく知られている。愛媛県でも大洲(おおず)地域には、明治期の話として、ヤマユリやクズの根・ヒエ・ドングリなどで腹を満たし、時にはわらを混ぜた糠雑炊で命をつないだ言い伝えが残っている。また、同じく明治期の別子山(べっしやま)村(現新居浜市別子山地区)では、救荒食として常にトチの実を入れた俵を2、3俵ほど天井につるし、ヒエも大桶(おおおけ)に保存していた(㉗)。

 (イ)西条地域の山村の食生活

 こうした地方村落の状況を、石鎚(いしづち)連峰北麓(ほくろく)に位置する現西条市の山間部を例に見てみよう。
 『西条市生活文化誌』によると、明治から昭和初期にかけての西条地域の山間部では、山の斜面を利用した焼畑耕作が盛んに行われており、水田はごくわずかであった。菜原(なばら)と呼ばれる畑で野菜を栽培し、収穫するとすぐに煮物にするか、あるいは乾燥させたり塩漬けにしたりして越冬用の保存食とした。保存のきく塩さばやいりこも、行商人が売りに来た際にできるだけ多く購入するようにしていた(㉓)。
 海の鮮魚はなかなか食べられなかったが、川では年中アメゴ(アメノウオ)が釣れるので、焼いたり刺身にしたりして食べた。秋から春にかけての狩猟の解禁期間中に捕獲したイノシシ・山鳥・野ウサギなどの肉は、ダイコン・ネギ・豆腐とともに汁に入れてぼっかけ飯にして食べた。どこの家でもニワトリを4、5羽飼っていて、卵を生まなくなると祭りや正月の前にしめて料理した(㉓)。
 山村の子どもたちは、ラムネ・アメ玉などは祭りの日くらいしか買ってもらえないため、日々のおやつはカキ・クリ・モモなど家の庭でとれる果物が中心だった。ほかに自家製の芋飴(いもあめ)や団子(だんご)、炒(い)った干飯(ほしいい)・ソラマメ・トウモロコシもおやつであり、野生の野イチゴ・アケビなどを探して食べるのも子どもたちの楽しい遊びだった(㉓)。
 山間部の集落の一つである市之川(いちのかわ)(現西条市市之川地区)は、アンチモン(銀白色の鉱物でメッキや活字鋳造に用いる。)鉱山で働く人々と山仕事を生業とする人々が住む村であった。大正の初めにようやく雑貨店ができ、一応の日用品がそろうようになった。山で働く人々は炭焼きや木の伐採を行い、炭や薪(まき)を町に売りに行くことで生計を立てていた。各家々では、自宅の裏に屋根を張り出しその周囲を囲って炊事場として、そこで料理を行っていた。炊事場には舟の形に生木をくり抜いた木の樽が置いてあり、竹の樋(とい)を通して山からの水を貯めるようにしていた。山里で冬の寒さが厳しいため家の中にいろりを作り、そこでも料理した(㉓)。
 過酷な山仕事を行う市之川の家庭では、1日に4食の食事がとられていた。冬季の食事をあげると、朝は、まず午前6時ころにいろりでトウモロコシの団子を焼いて食べるチャノコ(茶の子)が1食目である。続いて午前10時ころに朝食をとるが、その献立は米を1割程度入れた麦飯、ダイコンの味噌汁、漬物といったものである。だいたいにおいて、冬季の副食物は漬物や乾燥物などの保存食が多い。食事の際は銘々が自分用の椀・皿の入った箱膳を用い、子どもも3歳くらいになると子ども用の箱膳が与えられた。昼食は午後2時ころで、ノッチャ(後茶)と呼ばれる。山の仕事場での弁当であり、麦飯、醬油(しょうゆ)の実、いりこ(朝の味噌汁のだしに使ったものが多い。)、切干しだいこんの煮物、たくあん、梅干しなどであった。柳や竹で編んだ弁当行李(こうり)に入れるが、何人分にもなるとおひつなど大きな容器に入れて運んだ。夕食は午後7時ころで、カボチャ・田イモ・ダイコンなどの野菜を入れた雑炊やいも粥、団子汁など体の温まるものが中心であった(㉓)。
 冬を越して春になり、野菜がとれ始めると副食は野菜が多くなった。ただし、例えばダイコンができると、汁の具も煮物もダイコンばっかりの“ばっかり食”が続くことになる(㉓)。
 市之川に住む人々の春の楽しみは、行商で売りに来たサワラを買い求め料理して食べることだった。この日はサワラを使って酢じめ・照り焼き・塩焼き・味噌漬けといった料理が作られ、ワカメとウドの酢物・ミツバ入りのすまし汁・山菜入りすしなども食卓に並んで、久々に春の味を満喫できたのである(㉓)。

 (ウ)1日の食事回数

 山村の市之川集落で1日に4食の食事がとられていたと述べたが、この例でわかるように、当時の農山漁村では1日に3回を超す食事をとる場合も多かった。大正期を基準に1日の食事回数を県内各地で調査した愛媛県教育委員会の報告を見ると、各地の食事回数は3食・4食・5食の3類型に分類され、5食の場合は朝昼晩3食の中間の時間帯にそれぞれ軽食をとる形態となっていたようである。しかし、食事の回数は必ずしも固定されたものではなく、季節やその時々の労働内容に応じて変化する地域が多かった(㉕)。
 1日5食の例を挙げると、越智郡島しょ部大三島の上浦(かみうら)町甘崎(あまざき)地区では米2、麦8の混合飯が主食で、午前6時にアサメシ、12時にヒルメシ、午後8時にバンメシを食べる以外に、午前10時にハヤビル、午後3時にバンチャと呼ばれる軽食をとった。また、八幡浜(やわたはま)市若山(わかやま)地区の人々の主食も米2、麦8の混合飯で、3食の名称は甘崎地区と同じだが、午前9時の間食をオヤツ、午後3時の間食をオチャと呼んでいた(㉕)。

 ウ 戦争の時代を生き抜く

 昭和12年(1937年)の日中戦争の開始から昭和20年(1945年)の太平洋戦争の終戦にかけて、日本は対外戦争の真(ま)っ只中(ただなか)にあった。そしてこの間を通じて、国民の食料は徐々に不足し始めたのである。
 戦争の長期化による食料事情の悪化に伴い、愛媛県は昭和14年から食料増産政策を打ち出し、米・麦・サツマイモ・ダイズの増産を図った。また、昭和15~16年にかけて、乏しくなる食料を計画的に分配するため米穀・野菜・魚介類を次々と配給制とし、食糧管理法施行以後の昭和18年には食糧統制の目的をもって愛媛県食糧営団を発足させた(㊲)。
 しかし、県庁の庭をすべて開墾してダイズ・ソバを栽培するほどの努力を行ったにもかかわらず、戦争がより激しさを増した昭和17、18年以降は、県内の主要作物はサツマイモを除きすべて減産傾向に転じるようになった。全国的な食料不足の中、もともと食料自給率の低い愛媛県の食料事情は逼迫し、やがて主食の配給すらままならない状態に陥ったのである(㊲)。
 喜多(きた)郡(現大洲市を中心とする地域)の愛媛県地方事務所から、昭和18年(1943年)に各村々の常会(地区会)に通達された一つの文書が残っている。その内容は食糧増産に努めて農産物供出の義務を果たすことを求めるものだが、興味深いのは、この中でイナゴの食用化についても言及(げんきゅう)している点である。その文書によると、イナゴは害虫だが不足しがちな動物性たんぱく質の供給源としてこれに勝るものはなく、「いなごの如(ごと)き栄養高き食品を利用することは、最も時宜(じき)に適したこと(㊳)」だとし、続けてその調理法まで紹介している(㊳)。行政機関が昆虫食まで推奨する非常事態となったのである。
 また軍隊の兵士たちも、兵舎の生活でこそ給食の白米が食べられたが、ひとたび戦場に出るとそうはいかなかった。食料補給がうまくいかず、食べ物を得るのに苦労することも多かったのである。当時、中国に出征した美川村東川(ひがしかわ)地区出身のある兵士は、新興県(しんこうけん)城内に駐屯していた彼の部隊が周囲を敵に取り囲まれ補給を断たれる苦しい経験をした。彼は後にその時のことを回想して、刈り取りできず放置されている小麦を命がけで刈り集めてお粥にして分け合ったり、倉庫に残っていた少量のアワで岩塩入りのお粥を作ってすするなどして命をつないだことを書き記している(㊴)。