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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)小正月の火祭り

 小正月(こしょうがつ)の火祭りの一例として新居浜(にいはま)市大島(おおしま)の「とうどおくり(左義長(さぎちょう))」を取り上げる。とうどは正月の神を煙に乗せて天に返して一年の安泰を願う年中行事である。大島は新居浜市の北東部にある瀬戸内海に浮かぶ周囲8kmの小島である。かつては村上水軍の拠点、中世には皇族の荘園として知られ、藩政期には西条藩に属していた。島民は海原に糧(かて)を求め、海運業で財をなした。終戦直後、1,200~1,300人もいた人口が、現在(平成15年)はわずか165戸・365人、そのうち小学生6人、中学生5人で、高齢者が全人口の60%を占めている。
 大島は五つの地区(上之町(かみのちょう)、中之町(なかのちょう)、築之町(つきのちょう)、西之町(にしのちょう)、宮西町(みやにしちょう))からなり、それぞれとうど(左義長)(写真2-1-8参照)を出す。『ふるさと年中行事調査報告書』に、大島の「とうど祭り」について次のように記している。
 「『とうど祭り』は、正月の15日、門松・竹・注連縄(しめなわ)などの正月飾りや紙幟(かみのぼり)などで作ったとうど(左義長)を焼く祭りである。この火で焼いた餅を食えば、年中の病からのがれられるといわれ、大島では古くから伝統行事として、各地区で盛大に続けられた。
 大島でこの行事を行うのは子供組(地区単位に13歳~16歳の少年で自治的に組織)で、これらの男子にとって、一生こころに残る思い出の楽しい行事、また全島で祝う神聖な正月行事である。(⑩)」
 大島に住む**さん(昭和8年生まれ)と**さん(昭和24年生まれ)に、「とうど」について聞いた。
 「ここの五つの地区で、それぞれとうどを作るのは平等感からです。大島のとうどは、平安時代に始まり、江戸時代も盛んであったといわれています。ただし、宮西町の人々は明治初期に入島したので新しいのです。昭和30年(1955年)の初めのころまで浜ではやして(燃やして)いました。3年前から築之町のとうどが減り、現在四つですが来年(平成16年)には復活します。今年のとうどは、子どもが少なくなったので、大島の伝統文化を守っていくため、島外の子どもとの交流や女の子や大人も参加しています。とうどの材料は子どもが集め大人が作ります。
 とうど作りの子ども組は、浜辺に筵(むしろ)で覆(おお)って作った仮小屋の『仮屋(かりや)』で、親が作った炊き込みご飯やぜんざいを、各自が茶碗(ちゃわん)、箸(はし)、皿(さら)を持ち寄って食べ、他の組に壊されないように、とうどの警戒に当たりました。現在は『仮屋』は作らず、子ども組が集まるお堂に古老が来て、昔の話を聞かせながら一夜を過ごしています。また、古い時代の仮屋での食事は、魚の炊き込みご飯(魚飯)といりこや味噌(みそ)などを食べていたころもありました。かつては魚飯といりこと味噌でしたが、今は鶏肉を入れた炊き込みご飯と鏡餅をぜんざいにして食べるくらいです。そしてとうどに点火し、燃え残りのとうどは明け方に引き倒され、人々は燃えさしの竹で灰を鏡餅の上に載せて持ち帰り、竹は屋根に投げ上げて火災除(かさいよ)けに、餅はぜんざいにして一年中の病気除けにみんなで食べるのです。大島では子ども組が主体になってする習わしで、それは島の住民が村上水軍の伝統を受け継ぎ、若衆へと育つ少年の勇壮な集団訓練と考えていたからです。
 当時のくらしは、一言でいうと“麦とイモとイワシ”のささやかで粗末な食生活でした。また、昔の名残でしょうか、普段倹約してももん日(び)は米飯に旬(しゅん)の魚介類や島でとれるゴボウ、ニンジンなどの野菜をふんだんに入れたばらずし(ちらしずし)を作っていました。また“何か事”(何か特別な事)にはよく餅を搗きました。中にはいも餅、米粉の餅など種類も豊富でした。子どもはそうしたハレの日のご馳走(ちそう)が楽しみで待ち遠しかったのです。」
 正月の注連縄やお札(ふだ)などを四角錘(しかくすい)の竹組みとともに燃やすとうどおくりは、今年(平成16年)は1月12日(成人の日)の早朝行われた。夜明け前、五つの地区の自治会と交流学習の子どもたちが作った、合わせて六つのとうどに次々と点火され、大きな炎となって燃え上がった。早朝から集まった約300人の人たちは、持ち寄った鏡餅にとうどの灰を乗せたり、燃え残った竹を一緒に持ち帰るなど、家内安全・無病息災や火災除けの願いを込めて、思い思いにとうどおくりを見守った。

写真2-1-8 新居浜市大島西之町のとうど 

写真2-1-8 新居浜市大島西之町のとうど 

平成16年1月撮影