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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)稲の害虫退治

 稲の害虫退治(虫送り・虫祈禱(むしきとう))の一例として東宇和郡城川町魚成(うおなし)・田穂(たお)地区の「実盛送(さねもりおく)り」を取り上げる。城川町は昭和29年(1954年)、魚成・土居など旧4村が合併して誕生した肱川の支流、黒瀬川流域の山峡の町である。魚成・田穂地区は河岸段丘上や谷底平野に集落や耕地が並ぶ。
 実盛送りと虫祈禱について、『愛媛県史 民俗下』には、「稲の害虫、主としてウンカ退治の目的から行う行事を虫祈禱という。虫送りともいい、南予ではとくに『実盛送り』といっている。それぞれ地域的な特色があって興味深い。(⑧)」と記され、さらに実盛送りについて『愛媛県の民俗芸能』には、「病虫退散を祈願(きがん)する行事で、紙旗を先頭に実盛人形とともに鉦・太鼓を念仏に合わせて打ち鳴らして行進する。斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)(*4)が稲株に足を奪われて無念の最期(さいご)を遂げ、その霊が虫となって稲を害するようになったので、その霊を慰め稲の豊作を願って行事が始まった。(⑬)」と記している。
 各地区を回った実盛人形は、今田(いまで)地区で黒瀬川岸に安置される。その実盛人形が、自然の大水で早く流されるとその年は豊作になるといわれている。
 なぜ、人形を作り川に流すのか。民俗学研究者の守屋毅は、『愛媛の祭りと民俗』の中で、「人形を作って、これを持って村中を回り、最後に村はずれに放置したり、焼き捨てたり、川へ流したりする風が広くいきわたっている。つまり害虫の発生をもたらすような諸々の災厄(さいやく)を人形一身に背負わせて人形もろとも処分してしまおうという発想なのである。(⑮)」と論じている。
 魚成地区の**さん(昭和11年生まれ)に、昭和30年(1955年)ころの日常のくらしと実盛送りについて聞いた。
 「地区の青年団などを中心に新生活運動が起こり、栄養のバランスを考え、塩分の高い食生活の改善や菜種油(なたねあぶら)を使った料理に目覚めた時期でした。実盛送りの料理は、まず、米の粉をこね、あんこを入れたしば餅は珍重されました。それに赤飯や自家栽培の小麦を挽き、手でこねたあと麺棒で延ばして作ったうどんと、酒や甘酒を入れた蒸かし饅頭(まんじゅう)です。これらは、普段の食べ物と比べると、たいそうなご馳走で、小さい時は楽しみでした。
 今、当時を振り返ってみると、貧しく粗末な食べ物でしたが、もうこれ以上悪くはならないという妙な安心感があったように覚えています。次第に世の中は落ち着き、産業の復興の兆(きざ)しも見えてきた時期でした。この地区でも少し明るさが見えはじめ、希望に満ちた時期でした。」
 さらに、田穂地区の**さん(昭和4年生まれ)にも聞いた。
 「実盛送りは、虫送りとして田休みの行事で古くから行われていたと聞いています。昭和30年(1955年)ころの田休みの食は、しば餅と手作りのうどんです。私が嫁いで来た昭和30年代は、うどんは手で打って麺棒で延ばして作っていました。具などの食材はすべて自家栽培のもので、だしはダイズが主でしたが、行商人が売りにきた貴重品のいりこも少し使っていました。ほかには、キュウリや季節の野菜を刻んだ酢のものくらいでした。実盛送りなどのもん日でも、生魚は食べませんでした。時折、食べる魚といえば塩さば程度で、当時のたんぱく源といえばダイズが主でした。」


*4:斎藤別当実盛 平安末期の武将。木曾義仲を討つため出陣し、討手の大将と組み打ち、高刈りの稲株に足を奪われ不覚の
  最期を遂げた。別当とは、本官のある者が臨時に別の職に当たる意、後に専任の長官の称となる。