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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)先祖のおまつり①

 盆は旧暦7月15日を中心に行われる先祖の霊をまつる一連の行事をいい、仏教行事「盂蘭盆会(うらぼんえ)」(旧暦7月15日を中心に行われる先祖の霊をまつる行事)として定着したものである。
 「古く江戸時代の庶民の盆行事は、7月12日または13日には盆市が立ち、家々は瓜(うり)、茄子(なす)、ささげなどの野菜、季節の果物、菓子などをお供(そな)えして盆棚を飾り、燈籠(とうろう)や提灯(ちょうちん)を下げ、寺参りをし、迎え火を焚(た)いて祖先の霊を迎えた。15日の夕方には送り火を焚いて霊を送り、盆棚や供物は海や川に流すといったことが行なわれていた。さらに、家内の仏前にはお膳(ぜん)やだんご、そうめんなどを供える。(⑳)」と『食文化論』に盆について記されている。
 前述した宇和島藩士三浦家文書から「盆の十五日」を見ると、蓮飯(はすめし)という蓮の葉に包んだ強飯(こわめし)と刺鯖(さしさば)を供え、生身魂(いきみたま)として健在でいる親に肴(さかな)を贈る風習を記している。現在では贈り物をする風習のみが残っている。さらに、吉田藩庄屋毛利家文書『家風仕栄記』の「盆」の記述を見ると、とりつけ団子、しば餅、赤飯、豆腐など盆の食が記されている。

 ア 子どもの盆行事「盆飯」

 (ア)盆飯とは

 盆に子どもたちが大人の指図を一切受けず、河原や浜辺に集まって、それぞれが持ち寄った米や野菜などを煮炊(にた)きし、ある時は寝泊りして一日を楽しく過ごす風習が、本県の南予地域一帯で広く行われていた。これをボンメシ、オボンメシ、ハマメシ、オナツメシなどという。盆飯(ぼんめし)の行事は、昭和30年代から40年代の前半にほとんど消滅したが、今も形を変えて北宇和(きたうわ)郡津島(つしま)町の一部に残っている。
 『愛媛の祭り』に、「盆飯は盆の火祭りの行事で、正月の火祭りに共通して、収穫の吉凶(きっきょう)を占い、とくに盆飯は子供の楽しい行事であって、正月の左義長(さぎちょう)の子供の行事と相通じ興味がある。(⑭)」と記されている。
 さらに、森正史氏は盆飯の由来について、「この行事は女の子がただ煮炊きをして楽しむだけになっているけれど、昔はこれも盆の儀式のうちで、しかも娘が大人になる成女式の機会であったらしいのである。つまり、童戯(とうぎ)となったママゴトの源流とみられるもので、戸外で共同飲食することは、少女が新しい魂を身につけて、神なり精霊なりの代行者または奉仕者としての資格を得るための謹慎(きんしん)生活がその本旨(ほんし)であったらしいのである。(⑥)」と述べている。

 (イ)現在も続く津島町の盆飯

 津島町は県の南西部に位置し、北は宇和島(うわじま)市、東は高知(こうち)県、西は宇和海に面する海と山の町である。農林業のほか、真珠やタイ・ハマチなどの養殖も盛んである。
 現在も町内で盆飯の行事が続いているのは、内陸部の旧清満(きよみつ)村岩渕(いわぶち)・増穂(ますほ)地区と海岸部の旧下灘(しもなだ)村嵐(あらし)地区である。岩渕地区は町の北部、旧清満村の中心地で、北は宇和島市に接し、岩松川が貫流する。増穂地区は清満地区南部の山間部で増穂川が中央を北流する。
 岩松川沿いの津島町清満地区で、かつて盆飯を経験した高田(たかた)地区の**さん(昭和2年生まれ)、**さん(昭和3年生まれ)と山財(さんざい)地区の**さん(昭和9年生まれ)に聞いた。
 「私たちのころは、津島の各地で行われ、山間部の御槇(みまき)や海岸地域にもありました。メンバーは5、6人で、男の子が入ったところもありますが、主として小学生の女の子だけの行事です。低学年の子は薪拾(まきひろ)いや雑役(ざつえき)、高学年の子は川の水でお米をといでから料理にかかります。河原の石でくど(かまど)を造り、鍋(なべ)でご飯を炊きました。おかずはいりこだしで、各自が家から持参したカボチャやナスを煮て、柿(かき)の葉に盛り、河原の木で作った箸(はし)で食べました。川の水はきれいで泳いではまた食べました。昭和30年(1955年)ころの日常のくらしは、麦とサツマイモ、海岸ではその上にイワシが加わる程度の粗食で貧しいものでした。白飯(しろめし)は普段は食べられないので、とにかく子どもたちは、白飯が食べられるからと盆飯を楽しみにしていました。『盆飯を食べると元気になるぞ。』と言って何度も食べました。柿の葉に盛ったのは、盆飯がお施餓鬼(せがき)(*5)の翌日で精霊流(しょうろうなが)しの意味があると思います。柿の葉を舟に見立て、先祖の霊を迎える仏教のおまつりと直接かかわりがあるのではないでしょうか。迎え火はオガラ(皮をはぎとった麻の茎)を焚き、先祖の霊を迎えた翌日(14日)が盆飯でした。
 盆飯の献立は、ササゲを入れたご飯とカボチャを煮たものです。豆のご飯は“マメなように、マメに暮らせ”と夏病(なつや)みを取り除くという意味もあったのでしょう。当時の川は、水がきれいで河原には石ころが多く、河畔(かはん)には木も生え魚も多かったので、盆飯の炊事や水遊びには最適でした。食器代わりにした柿の葉は、抗菌作用があるといって安心して使いました。
 盆飯は子どもが自立していくための行事(儀式)なので、大人は一切口出しせず、全てを子どもに任せてくれました。昔はこの行事を経て青年組(現在の青年団)に入って行ったのです。」
 さらに、津島町増穂追ノ川(おいのかわ)地区の**さん(大正12年生まれ)と**さん(昭和16年生まれ)にも、盆飯について聞いた。
 「お盆の16日に先祖を送る送り火(とぼしあげ)と夏病み防止のため、毎年地区ごとに河原で盆飯を行いました。大人は一切かかわらず、計画から献立・調理まで男女の小学生だけで行ったのです。ご飯はアズキとうるち米(普通米)の豆のご飯と決まっていました。おかずは野菜にだしジャコ(小魚)と切りこんぶを入れて煮たもので、醬油(しょうゆ)はあまり使わず塩で味付けしました。柿の葉を食器代わりに使い、熱いご飯やおかずを載せると、葉っぱの色が変わりました。お箸(はし)も土手に生(は)えているツゲ(柘植)やカジ(梶)の木で作り、食事は河原に筵(むしろ)を敷き車座になって食べました。当時は川の水はきれいで、飲み水や炊事に使い、何度も何度も川で泳いではご飯を食べました。この地区の盆飯行事は昭和30年代後半まで続きましたが、昭和40年代前半で中断し、復活したのは昭和46、7年(1971、72年)ころです。昭和50年くらいから今の形の盆飯になったのです。」
 今年(平成15年)の盆飯の責任者、清満小学校6年生**さんの母親**さん(津島町増穂追ノ川 昭和38年生まれ)は、「親の目から見ると危なっかしいところがありますが、たまには自由にさせてやるのもいいのではないかと、最大限子どもたちの自由にさせています。」と語る。**さんは「昨年の5年生の時から料理を作っています。お料理は5年生から家庭科で習いましたが、盆飯を通じて上級生の人から教わったことが役立っています。母には料理の仕方や順番などを教えてもらう程度です。楽しいこの盆飯を今後も続けてほしいです。」と明るく話す。
 今年(平成15年)の盆飯は、8月5日に行われ、地区の集会所に男女14人の小学生が集まった。子どもたちだけで都合のよい日を決めるので、かつてのように盆の時期とは限らない。今年の献立は焼きそばとフルーツポンチの簡単なものである。6年生2人と5年生1人の3人で計画を立てるところから買出しや調理まで行った。
 昔と盆飯の形態や日時は変わったものの、“子どもたちの行事”、“子どもたちが主体”という基本は、現在も変わることなく継承されている。
 一方、津島町嵐地区でも盆飯が行われている。嵐地区は町の南西部の海岸部にあり、旧下灘村の中心地で、西は宇和海に面し、南は南宇和(みなみうわ)郡内海(うちうみ)村に接する。昔、嵐地区の生業は段畑の甘藷(かんしょ)(サツマイモ)と麦であったが、現在は早掘りバレイショや真珠養殖が中心である。
 嵐地区で生まれ育ったという**さん(大正13年生まれ)に、盆飯について聞いた。
 「かつては8月14日の盆踊りの翌日と決まっていました。盆踊りの後、新盆の家や地区の有志から“御花(おはな)”(祝儀(しゅうぎ))をもらい、そのお金を盆飯の経費にあてていました。場所は海岸ではなく、庵(あん)や集会所のような所を使って行っていました。参加者は、昔は高等科2学年(13、14歳)と尋常科(12歳以下)の女子だけ(男子は亥(い)の子(こ)に参加)で、上級生の高等科の人が中心に準備や調理に当っていました。母親にも少し手伝ってもらいましたが、ほとんど子どもたちだけでやりました。各自が自分の箱膳(はこぜん)に茶碗(ちゃわん)や皿などの食器を入れ、風呂敷に包んで持参しました。料理はご飯とおかずの簡素なものです。ご飯は豆ご飯(小豆飯(あずきめし))、おかずはカボチャ、ナス、ニンジンなどの野菜に切りこんぶを入れた煮物と漬物やわずかな量のそうめんです。お米は1人1合(ごう)(約0.18ℓ、約150g)を上級生が集め、屋内で3升(しょう)(約5.4ℓ、約4.5kg)炊きのはがま(釜(かま))で炊きました。当時はお米のご飯はご馳走でした。盆飯の豆ご飯をそれぞれ1人ずつお茶碗一杯もらって帰り、それを家族中で少しずつ分け合って食べました。そうすれば家族の健康とご先祖様の供養になると言い伝えられていました。時代は変わり、食生活も大きく変化し、日時や献立に変化はありましたが、嵐地区では現在もこの盆飯行事は1年も欠けることなく続けられているので、今後もこの伝統行事は続けてほしいものです。」
 今年(平成15年)、頭(かしら)を務めた津島中学校3年生**さん(津島町嵐 昭和63年生まれ)は、「母や祖母が少し手伝ってくれましたが、食材の買出しや料理は、ほとんど自分たちだけでやりました。今まで盆飯で、赤飯や野菜の煮物は食べたことがありませんでしたが、今回は作るのも楽しかったし、おいしかったです。」と言い、日時の変更について、「料理を作る中学生が勉強や部活動で忙しく、作る人が相談して日時を決めているから。」と言う。
 代々受け継がれてきた盆飯の『記録帳』を見ると、日時や献立内容が変わったのは、今から30年ほど前の昭和40年代後半だという。今年は上級生が話し合って、かつての伝統の盆飯も合わせて作った。今年の盆飯の献立は、白いご飯のおにぎり、キャベツにタコ入りのお好み焼き、キュウリ・キャベツ・ハム・ゆで卵などのサラダ、ポテトチップス、さらに漬物とジュースと豪華である。みんな楽しくテーブルに向かう。例年はカレーライス、サラダ、フルーツポンチが定番であるが、今年は大きく献立の内容を変えている。今年は御花が多く、小豆飯や野菜の煮物など、かつての“伝統食”(写真2-1-15参照)も作ることができた。

 (ウ)消えていった盆飯

 いくつかの事例をもとに、消えていった南予地域の盆飯行事についてたどってみたい。
 例えば、県の南端、高知県に接する山地と盆地の町、南宇和郡一本松(いっぽんまつ)町では、盆飯を「盆ガマ」といい、大人は一切介入せず、子どもたち独自の盆行事であった。盆の15日、子どもたちが家から米や野菜などを持ち寄り、鍋や釜も持ち出して河原や屋敷の隅などに集まり、ご飯やおかずを煮炊きしていた。
 一本松町広見(ひろみ)地区の**さん(昭和16年生まれ)は、「最初の盆ガマは姉の誘いでした。ご飯は河原に集まって飯盒(はんごう)でカレーを作りました。肉がなく、缶詰(かんづめ)やソーセージや天ぷらなどで肉の代用をしました。カレーも固形のルーがなく、自分たちもカレー粉で作りました。『盆ガマ』をやめたのは昭和37、8年ころです。その理由は子どもの遊びやテレビなどの生活様式の変化、子どもの減少、食生活が変化し、米飯が珍しくなくなったことなどが挙げられると思います。」と言う。
 南宇和郡のほぼ中央に位置し、御荘湾(みしょうわん)を抱く御荘町でも、8月14日になると女の子たちは、屋外へ鍋・釜を持ち出し、持ち寄った米でご飯を炊き、野菜などを煮てみんなで食べた。これを食べると夏病みしないと言い伝えられていた。この風習も次第に廃れ今では行われなくなった。
 御荘町平城(ひらじょう)地区の**さん(昭和21年生まれ)は、「盆飯は小学生の希望者だけが5、6人のグループに分かれて行っていました。以前は女子だけでしたが、後に男子のグループもでき、最初は別々でしたが、昭和30年ころは男女いっしょに8月14日に役場前の僧都川の河原で行うようになりました。当時、普段のご飯は麦飯で白飯は珍しく、“チンチマンマ”といい大変なご馳走でした。夏場なので僧都(そうず)川で泳ぎながら料理を作り、みんなで食べ、きれいな川の水も飲みました。盆飯がなくなったのは、昭和30年代の中ごろで私たちが最後だったと思います。」と、他地域とほぼ同じ内容の話をする。
 さらに、北は津島町と接し、宇和海に突き出た由良(ゆら)半島の懐(ふところ)に抱かれた南宇和郡内海村でも『おっとろしゃうちうみ 第2集』に、「網代(あじろ)地区では、旧暦7月13日に女の子たちが浜辺で盆飯を作っていたが、昭和30年(1955年)ころやめた。須ノ川(すのかわ)地区では、新暦8月15日に盆めしを河川敷等で煮ていたが、昭和20年(1945年)ころやめた。さらに、柏崎(かしわざき)地区では、新暦8月15日に子どもたちは何人かが組みになり、米、釜などを持って来て浜で炊き、みんなで食べたが、昭和45年(1970年)ころに終わった。(㉑)」と記されている。
 内海村柏崎地区の**さん(昭和13年生まれ)は、「メンバーは近所の男子小学生5、6人で旧暦の7月14日に海岸で行いました。海辺なので、献立は釜に魚を入れ醬油で煮た混ぜ飯(炊き込み)で、おかずは特にありません。魚はイワシ、サバ、ムロアジで、炊き込みは今でいう釜飯です。スイカを食べては海でよく泳ぎました。やめた理由は、食べ物が豊富になり盆飯の魅力がなくなったことや子どもの減少、さらに遊びの変化です。」と経験を語る。
 また、肱川(ひじかわ)流域の大洲(おおず)市春賀三善(はるかみよし)地区でも、かつて盆飯があり「お盆飯」(お盆まんまともいう。)と呼び、すし(ちらしずし)が中心だった。本来、精霊(しょうりょう)の供養だった盆飯の行事も戦後に様変わりし、肱川流域でも昭和40年代にその姿を消してしまった。現在、盆飯は親や先生が指導する愛護班やスポーツ少年団の飯盒炊飯(すいはん)に変わってしまった。
 現在、多くの盆飯が消滅した背景として、川の水量の減少や水の汚れなど河川環境が変化したこと、特に高度経済成長後、食生活そのものが大きく変化したこと、子ども同士の結びつきが希薄となり遊びの形態が大きく変わったことなどが挙げられる。

 イ 精霊の供養

 精霊の供養の一例として喜多(きた)郡長浜(ながはま)町の「青島(あおしま)の盆踊り」を取り上げる。長浜町は伊予灘に面した肱川の河口に開けた町で、青島は長浜港から海上13.5kmの伊予灘に浮かぶ孤島である。集落は島の東南部の港付近に集中し、住民のほとんどが漁家で、裏山のわずかな段畑でミカンやサツマイモなどの栽培を行っている。昭和30年(1955年)には152戸・798人の島であったが、漁業の不振などにより、人口流出が続き、現在(平成15年)わずか38戸・42人に激減している。
 江戸時代の初めころ、大洲藩(おおずはん)の馬の飼育場であった青島に、播州坂越浦(ばんしゅうさごしうら)(現兵庫(ひょうご)県赤穂(あこう)市坂越)の与七郎という人が、一族など16戸を率(ひき)いて移住した。以来、住民は赤穂への望郷の念などから、故郷と関係の深い赤穂浪士に扮(ふん)した「亡者踊(もうじゃおど)り」と、平凡で単調な生活を慰(なぐさ)めるため、勇壮な賎ヶ岳(しずがだけ)七本槍にかかわる武将に扮した「大漁踊り」などの盆踊りを、現在に至るまで長い歳月にわたり受け継いできた。現在、兵庫県赤穂市にも、青島と同様の踊りがあるという。なお、青島の盆踊りは、昭和40年(1965年)に愛媛県の無形民俗文化財に指定された。
 青島に住む**さん(昭和4年生まれ)は『愛媛の祭り』の中で、盆踊りの亡者踊りと大漁踊りについて次のように述べている。
 「8月14日の1日目は亡者踊りです。その年に亡くなった方の霊を慰めるために、燈籠(とうろう)を櫓(やぐら)のところに立てて、それを中心に踊ります。その後、浜辺で坊さんが燈籠を焼いてそれを海に流します。亡者踊りでは、四十七士の衣装を着て踊ります。四十七士にはなんの縁もゆかりもないと思うけれど、結局青島の人は赤穂から来たということで、赤穂への郷愁があるのでしょう。踊りは一年間の死者の霊を慰さめるもので、素朴な口説(くど)き(*6)に合わせて独特のしぐさで踊ります。
 2日目は漁師が大漁を祈願し、魚の供養もする大漁踊り(写真2-1-16参照)です。この踊りは賎ヶ岳の七本槍の衣装を着て踊ります。なぜ、賎ヶ岳の七本槍か、そのわけははっきりしません。賑(にぎ)やかな大漁踊りだから、活気のある七本槍ということで取り上げたのかなと思っています。この日も夜の8時から9時くらいまで船着場の広場で踊ります。昔は男が踊るものだったんですが、今は女が主に踊ります。この青島では、島から出ている人は、普通は正月や祭りには帰省(きせい)しないで、お盆に帰って来ます。100人以上帰るときもあります。(⑭)」
 かつて、盆踊り2日目の15日に行っていた「大漁踊り」は、現在13日に変わった。
 長浜町青島に住む**さん(昭和4年生まれ)、**さん(昭和25年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和3年生まれ)に、昭和30年(1955年)ころの島のくらしと盆の食について聞いた。
 「戦前から島では、麦飯とサツマイモが主食でした。麦は丸麦で、一度沸騰(ふっとう)させて蓋(ふた)をして30分から1時間蒸しておくと押し麦(さくら麦)のようになり、その後米を洗って混ぜて炊きました。米を混ぜた麦飯は良い方で、サツマイモを麦の中に入れて炊きました。朝とお茶(3時のおやつ)はサツマイモ、昼と晩は麦飯の粗末な食事でした。米飯は盆、正月、節句と祭りのもん日だけでした。麦と米が半々になったのは、子どもたちが島を出て家族が少なくなった40年代半ばからです。副食はいりこ、自家菜園のダイコン、ジャガイモ、タマネギなどの野菜類。いりこはいわし網でとったカタクチイワシが各戸に分配され、浜や軒先で茹(ゆ)でました。また、保存食はいりこのほかに、イワシの塩辛(しおから)、ヒジキ・ワカメ・テングサなどの海藻類、ナマコ・タコ・イカやウニの瓶詰めなどがありました。高級魚は仲買に売り、島ではあまり食べられませんでした。島のほとんどの家が米飯になったのは昭和40年代の後半です。いずれにせよ、米を少し入れた野菜の雑炊やいも粥(がゆ)が多く“麦とイモとイワシ”のくらしでした。
 お盆の主食はそうめん、県外から“こぶ屋”という名の行商船が年に何回か来て、そうめんやもち米など島で調達できない物はそこから買っていました。副食は自家製の豆腐、野菜のかき揚げと近海でとれた新鮮な魚です。お節句や若宮さんのもん日には、炊き込みご飯や手打ちうどんを作りました。さらに、普通の白餅のほかに、とりつけ餅、タカキビやアワの雑穀餅やおはぎなど、餅はよく作りました。」
 今年(平成15年)の盆踊りは、あいにくの雨のため青島コミュニティセンター2階の大広間で行われた。島の人たちが精魂こめて作った手作りの鎧(よろい)・兜(かぶと)・槍(やり)や派手な衣装を付けた賎ヶ岳七本槍の武将に扮した30人余りの踊り手は、古老の口説きや太鼓に合わせて踊り先祖を供養した。その中には県外からの帰省客や島外の助(すけ)っ人(と)も多く見られた。


*5:施餓鬼 飢餓に苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者(もうじゃ)の霊に飲食を施す法会(ほうえ)。
*6:口説き 低音のごく単純な節で叙情的に文章を言い流す部分。謡曲や浄瑠璃(じょうるり)で、単純な節で恨(うら)み、嘆
  き、追懐などを述べる部分。またその文句。また、民謡などで叙事的な長い詞章をもつ歌。

写真2-1-15 嵐地区の今年の盆飯

写真2-1-15 嵐地区の今年の盆飯

津島町嵐集会所にて。平成15年8月撮影

写真2-1-16 長浜町青島の盆踊り「大漁踊り」

写真2-1-16 長浜町青島の盆踊り「大漁踊り」

青島コミュニティセンターにて。平成15年8月撮影