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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)お亥の子さん

 亥(い)の子(こ)は、旧暦10月(亥の月)の亥の日の亥の刻(午後9時から11時)に、新穀(しんこく)で搗(つ)いた餅(もち)を作って食べ、無病と子孫繁栄を祈願する男の子の行事である。
 「亥の子は、亥の月の亥の日、亥の刻に餅を食べると無病息災であるとの中国の俗信に基づくもので、平安朝以来、行なわれてきた行事である。それが次第に民間でも祝うようになり、収穫祝いとして特に西日本で盛んに行なわれだしたものである。(⑧)」と『愛媛県史 民俗下』にある。
 また、亥の子餅について『食文化論』には、「亥の子餅は中国では大豆、小豆、大角豆(ささげ)、胡麻(ごま)、栗、柿、糖の7種であったが、我が国の室町時代には、白、赤、黄、胡麻、栗の5色となった。そして形も猪(い)の爪形(つめがた)へと変化した。(⑳)」と記している。
 『宇和島吉田両藩誌(うわじまよしだりょうはんし)』の「年中行事十月」に、次のような記述がある。「亥の日には、亥の子餅をついて祝い、この日から炬燵(こたつ)を入れる。何時(いつ)ころ始まったものか、石の亥の子には6本か8本の縄をつけ、亥の子歌に合わせて亥の子をついて回る。亥の子は若衆仲間に入れない子どもの遊びで、亥の子宿は子どもたちの集会所。ウラジロ(山草)を飾ったお宿に、恵比寿(えびす)・大黒様(だいこくさま)をまつり、餅やダイコンなどの野菜を供える。」とある。これは、今も変わらぬ亥の子の光景を伝えている。
 『愛媛県史 民俗下』によると、亥の子には、藁(わら)の亥の子と石の亥の子があるという。
 藁の亥の子は、「稲藁を束ねて固く小縄(こなわ)で巻いて棒状にした亥の子で、ホテ・ワラボテという。藁の亥の子をつく地域は、松山市東部の温泉(おんせん)郡重信(しげのぶ)町、川内(かわうち)町、さらに上浮穴(かみうけな)郡などである。(⑧)」と記され、一方、石の亥の子は、「御影石製(みかげいしせい)で、ゴーリンサンと呼ぶ。ゴーリンサンと尊称しているのは、“降臨さん”の意で、神霊の降臨する神座(神の依代(よりしろ))であったからであろう。(⑧)」と記し、石の亥の子をつく地域は、「松山市を中心にして北部の北条(ほうじょう)市、越智(おち)郡及び島嶼(とうしょ)部、(中略)南予(なんよ)に入って喜多(きた)郡、宇和(うわ)郡地方は一帯に石の亥の子である。(⑧)」
 さらに、「石の亥の子も藁の亥の子(写真2-1-19参照)同様に一軒ずつ順番に回るが、石の亥の子地帯には、亥の子宿があるのが大きな特色である。(中略)宿は亥の子祭りの当屋(とうや)であるが、床の間に俵を置いて亥の子をまつり、タイ・米・餅・葉つきのダイコンなどを供える。(中略)石にしろ藁にしろ、地面を強く叩(たた)くことは、悪霊(あくりょう)を地下に鎮圧して生産増強の発動を促す行為(呪術(じゅじゅつ))といわれている。(中略)
 亥の子をまつる場所は、恵比寿棚(えびすだな)か床の間である。各家ごとの亥の子は、桝(ます)に米・餅・ユズを入れて、ダイコン2本を箕(み)の上にまつる。それを臼(うす)の上に載せる、または千歯(せんば)(稲や麦の脱穀用の農具)の上に供物(くもつ)を載せるなどのまつり方もある。(⑧)」
 いずれにせよ、亥の子が農業生産過程の節目(ふしめ)の収穫祝いの行事であることは確かである。近年、少子化の影響や子どもを取り巻く環境の変化などで、亥の子行事が自然消滅したところが少なくない。

写真2-1-19 石の亥の子と藁(わら)の亥の子

写真2-1-19 石の亥の子と藁(わら)の亥の子

ウラジロをつけた石の亥の子(上・吉田町)と藁ボテの藁の亥の子(下・重信町)。