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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)祝言の宴

 越智(おち)郡吉海(よしうみ)町津島(つしま)地区は、大島(おおしま)の西方、来島(くるしま)海峡の北側に位置する来島諸島の小島で、昭和25年(1950年)当時、島の北側には130戸ほどの集落があった。特産品としてイチジクも栽培されていたが、海運業が主産業で、昭和10年(1935年)には津島に機帆船30隻があった(⑩)。機帆船はバンセンと呼ばれており、大阪の問屋で荷物を受け取って、西日本各地の港へ運ぶ仕事を行っていた。
 かつての婚姻について、吉海町津島の**さん(明治44年生まれ)、**さん(明治45年生まれ)、**さん(大正4年生まれ)、**さん(大正6年生まれ)、**さん(大正10年生まれ)、**さん(昭和3年生まれ)に話を聞いた。
 **さんは、「お正月になるとたくさんの船が港に帰ってきます。沖には船がぶつかり合うほど沢山停泊していました。船主たちは儲(もう)けていましたから、お正月には子どもたちが船主さんの所へ『ノリゾメ(お年玉のこと)ちょうだい』と言って回っていました。」と活発であった海運業を回想する。
 結婚のきっかけとしては、そのほとんどが、親が決めたり見合いであったりで、恋愛から結婚に至る場合は珍しいようであった。**さんは、「若衆宿とか娘宿とかいうのは聞いただけで実際には知りません。ワカイシ(若衆)が、神社や方々の蔵を若衆宿として寝泊まりすることはあったようで、その一つを取り壊す時に、子どもみたいな落書きがあるのを見て笑ったことがあります。娘さんたちが寝泊まりしていた蔵もあったようです。この娘宿と若衆宿の交流で仲良くなることもあったと聞いています。」と言う。一方、**さんは、「両方の親が決めて、そのあと仲人が決まっていました。結婚式当日までどんな人がお婿さんになるのか知らない人もいました。両方の親が『うん』と言ったら決まっていたんです。」と言う。
 結納の儀礼について、**さんは、「タイ2匹、清酒2本、するめと米が贈られてきました。そのあと仲人さんとユイノウビラキと呼ばれる会食をして、後日、結納の丸帯一式が届けられました。」と言う。**さんは、「結納の品は丸帯、畳表が貼(は)られたぽっくり下駄(げた)(写真2-2-8参照)、足袋、ふかぼうしです。この丸帯一式でない場合は、ナンテンを敷いたかごに、大きいタイと小さいタイをオン(雄)とメン(雌)に見立てて入れます。それとお包み(お金)とお酒でした。丸帯一式が贈られる時はお包みは来ないし、お包みの時は、丸帯は贈られませんでした。」と言う。お包みがあればそれで丸帯一式を購入するわけで、結納の基本となる品は、丸帯一式であった。
 結婚式は、婿入りから始まる。**さんは、「仲人さんが、お婿さんやそのご両親・兄弟を連れて、お嫁さんの家にあいさつに行きます。お嫁さんの家では、お婿さん一行にお茶を出し、次に落ち着き餅を出します。津島ではぼた餅ではなくて、お椀に一つだけ米の粉団子を入れた雑煮のようなものでした。その後、本膳料理(*8)の一の膳(本膳)を出し、続いて少し小さめの二の膳(写真2-2-9参照)にはトリザカナといって鯛や松・鶴・亀などをかたどった生菓子を出していました。」と言う。
 婿入りの行事が終わると、出立ちの儀式などはなく嫁入り行列となる。**さん(明治45年生まれ)は、「お婿さんは先に自宅に帰っていますから、嫁入り行列には同行しません。嫁入り行列は仲人さんが先頭に立って、次に提灯(ちょうちん)を持つ人が続きます。昼間でも提灯を持って行くんです。嫁入り道具は先に送っておくことになっていました。」と言う。昼でも提灯があったのは、結婚式が夜間に行われるものであった名残と思われる。
 **さんは、「タビ(遠くから来ること)の嫁入り行列の時には、お嫁さんはお婿さんの家に入る前にマチアイで一休みします。マチアイは、仲人さんが適当な家を選んで、マチアイになってもらうよう頼むんです。そこではお茶が出るくらいで、お嫁さんの身繕(みづくろ)いをするのが目的でした。」と言う。マチアイは地域によってナカヤド(中宿)とかアイヤドとも呼ばれている。
 結婚式や披露宴は夕刻に始まる。**さんは、「嫁入り先に着くと座敷口からお婿さんの家に上がり、嫁入り行列で来た人たち全員に、お茶・落ち着き餅が出され、本膳・二の膳が出されます。二の膳にはトリザカナが出ます。この生菓子はお土産用です。婿入りの時と同じ儀式があるんです。」と言う。結婚式の中心的儀礼は盃事(さかずきごと)である。**さんは、「お婿さんの家の本家筋の人がアイキャクニンといって進行係を務めます。オンチョメンチョ(雄蝶雌蝶(*9))に指示して、夫婦盃(三三九度)や親子盃をします。そして兄弟さらに親戚(しんせき)へと、血縁が遠くなる順に親族盃の酒がつがれていきます。」と話す。
 結婚式も披露宴も、会場は婿方の自宅だからそう広くはない。従って参会者の人数は限られ、親戚(しんせき)の者がほとんどになる。**さんは、「昔は親戚づきあいがていねいだったから、何十軒と親戚がいました。それで、一日目は親、兄弟などの近い親戚だけ呼んで結婚式と披露宴、二日目はいとこなどまで広げて披露宴、三日目は料理などを手伝ってくれた人を呼んでフレマイという宴会をしていました。トリザカナは50人前くらいは作っていました。」と言う。
 披露宴の料理はにぎやかである。吉海町津島の人たちの話を総合すると、タモリ(セトダイ)・アコウ(キジハタ)・ホゴ(カサゴ)・メバルなどを使った尾頭付きの魚の煮つけ、タイ・ヒラメ・ブリ・スズキなどの旬の魚を使った刺身、ブリの照り焼など焼魚、野菜やコンブの煮物、ダイコン・ニンジン・花ふなどで原則として紅白に作った酢漬け、ソラ豆・ウズラ豆の煮豆、紅白にしてギザギザに切り酢味噌をつけた寒天、肉といとこんにゃくとゴボウなどを炊いた肉の旨煮(うまに)、などココノシナ(9品)はあったと言う。**さんは、「狭い会場で本膳、二の膳とは出せないから、大きな会席膳(*10)を使っていたように思います。このほかに、土産用のトリザカナ、別の銘々盆にはツマミと呼ばれる菓子や果物、さらに赤の渦巻き模様があるはんぺん(かまぼこなど練製品の一種)を分厚く切ったものなどがついていました。ご飯ものは、ちらしずしか白いご飯で赤飯は作っていなかった。」と言う。
 **さんは、「披露宴の座席はコの字型に作られていて、花嫁・花婿の正面には席を設けていませんでした。誰でも見られるように戸は開け放たれていました。近所の人は、正面からお嫁さんを見ることができました。お嫁さんはきれいですから、子どもから大人まで多い時には30~40人も見に来ていました。その人たちに手伝いの人がおかべずしを配るんです。おかべずしというのは、おからにご飯を少し混ぜたもので、こんにゃく・ゴボウ・ニンジン・シイタケ・レンコンを具にして、酢で味付けし、三角のおにぎりにしたものです。『握り固める』といって結婚式の縁起物で、オチツキと同じような意味があったので必ず作っていました。この大きなおにぎりを食べながら、花嫁さんや料理を食べている人を見ていました。」と話す。

【婚礼で縁起の良い食品】
 吉海町津島のおかべずしのように、婚礼で縁起が良いとされた食品にはどんなものがあるのだろうか。
 松前町昌農内(しょうのうち)の**さん(大正2年生まれ)は、「おからは別名“きらず”ともいって、『縁を切らず』にかけて縁起が良いとされます。ちらしずしと同じようにこんにゃく・ニンジン・ゴボウ・レンコン・シイタケなどの具を入れて、おからはすし酢で味付けしていました。」と言う。新居浜市別子山保土野(ほどの)の**さん(大正9年生まれ)は、「もち米のあずきご飯、タイ、コンブ、サトイモ、揚(あ)げ(油揚(あぶらあ)げ)などは縁起の良い食品なので使っていました。」と言う。サトイモが縁起が良いのは、親芋に子芋が次々つくからだが、揚げがめでたいとされる理由は分からないと言う。新居浜市垣生(はぶ)の**さん(大正7年生まれ)は、「見通しが良くなるのでレンコン、それと天ぷらがおめでたいといわれます。」と言う。
 『祝いの食文化』は、おめでたい食品とその理由を次のように述べている。タイは“めでたい”の“たい”に通じる語ろ合わせと、その姿・色・味が優れているからである。コンブは“よろこぶ”の“こぶ”、また別名ヒロメとも呼ばれるので“広め”に通じる語ろ合わせである。エビは、その姿が長いひげを持ち背中をまるめた老人に似ているので“海老”の字が当てられ、長寿を祝うものとされたからである。祝儀袋に使われる熨斗(のし)は、熨斗あわびのことで、アワビの肉を薄く長くはいで乾燥して伸ばしたもので、長く伸びることから永続し発展するのでめでたいとされる(⑪)、など数例を挙げている。
 このような食品のほかに、料理法や配膳方法にも気を使っている。別子山保土野の**さんは、「結婚式の時の本膳にのせる料理は、5品とか7品とかの奇数、巻きずしの具も奇数にします。コンブは切らずに結びこんぶにし、巻きずしを切る時は工夫をして斜めに切ったりしていました。」と言う。数は奇数にこだわり、“切る”のはできるだけ避けたのである。

 結婚式が終わった翌日に嫁の土産が配られる。**さんは、「翌日は朝からお嫁さんの着物などがお披露目(ひろめ)されます。その時にお嫁さんの土産が配られていました。年寄りでも子どもでもみんなに配っていました。翌日も披露宴はあるんですが、それは夜ですから。お嫁さんが着物姿で座って、みんなにあげていました。これは地区の人とお嫁さんがあいさつを取り交わすためだったんだと思います。」と言う。**さんは、「ヒガシウチ(東予地域でも香川県寄りの地域)は米所だったので炒った米を俵に詰め熨斗まで付けて車で引っ張って行くのを見ました。津島は米が不自由な所だったから、せんべい・ぼうろ・あめ・あられなどの駄菓子を半紙に包んでおひねりにしてあげていました。」と言う。
 吉海町の**さんの言う「ヒガシウチの嫁の土産」について、新居浜市垣生(はぶ)地区の**さん(大正7年生まれ)、**さん(昭和3年生まれ)に聞いた。垣生ではオイリと呼び、**さんによると、「オイリは炒った米が大部分ですが、それにあられや炒ったダイズを混ぜていました。炒るといっても圧縮機にかけて炒ったものですから、大きさは何倍にもなります。私が結婚した時は、米が配給になっていましたが、『ほかのものはともかく、オイリだけは持って来て下さい。』といわれました。」と言う。**さんも、「あまり田を作っていないからと言ったところ、主人の親戚に当たる人が乳母車に米を積んで持って来てくれました。」と嫁入りの必需品であったことを述べる。紙の内袋があって、外側は熨斗で飾った米俵である。嫁入り道具と一緒に先に婚家先に送られ、人目につく玄関などに3俵(1俵は4斗。1斗は約18ℓ)、5俵と積んでおく。何俵積まれているかが近所の評判になった。婚礼の晩は、このオイリを手伝いの人たちと一緒に、小さな紙袋に詰める作業で大忙しで、翌朝5時ころにはもう子どもや大人がオイリをもらいに並んでいたと言う。「オイリ」は「お入り」に通じるめでたい語ろ合わせである。


*8:本膳料理 本膳で出される料理で、日本料理の正式な配膳方法。本膳(一の膳)、二の膳などから構成されるが、多い時
  には三の膳、与の膳、五の膳と続く。本膳は、食器(飯椀(わん)・汁椀・平椀・壺(つぼ)椀・高坏(つき))が決まってい
  た。膳、椀ともに漆塗りである。
*9:雄蝶雌蝶(おちょうめちょう) 結婚式の時、銚子(ちょうし)などに付ける折り紙の蝶であるが、この場合は盃事に際して
  銚子などを持って酒をつぐ人を指している。
*10:会席膳 会席料理をのせて出す膳。1尺2寸(約36.4cm)四方の大型で足がない漆塗りの膳である。しかし、会席膳
  は、足がないお膳一般の呼称に使われ出したようで、吉海町津島では一辺が50cmほどの大きさのものであったという。

写真2-2-8 丸帯とぽっくり下駄

写真2-2-8 丸帯とぽっくり下駄

吉海町津島。平成15年7月撮影

写真2-2-9 本善と二の膳

写真2-2-9 本善と二の膳

5種類のお椀が載っている方が本膳(一の膳)である。八幡浜市穴井。平成15年9月撮影