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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)たこ飯のもてなし

 松山市の垣生(はぶ)地域は、伊予灘に面した市の西南部にあり東垣生町と西垣生町に分かれる。西垣生町今出(いまず)地区はかつて砂丘地帯であったが、次第に拓(ひら)かれて半農半漁の地域となった。

 ア タコの棲む浜

 昭和35年(1960年)以前、埋め立てられる前の松山市西垣生町今出地区の海岸は、白砂青松(はくしゃせいしょう)の美しく長い砂浜で三津(みつ)、大可賀(おおかが)、梅津寺(ばいしんじ)の地域まで続いていた。今出に住むタコ漁師の**さん(松山市西垣生町 大正15年生まれ)に、子どもの時の思い出とタコの棲(す)む今出の浜について聞いた。
 「昭和10年代の一番遊びざかりのころは、夏になると海水浴客でにぎわう今出の浜でよく泳いだものでした。また、近所の友達と砂遊びや相撲をしたり、裸足(はだし)で白砂の浜を競走したのは楽しい思い出です。また今出では、イワシをはじめ多くの小魚やアサリ・ハマグリ・シャコがとれ、潮干狩りも盛んでした。今出の浜は、重信川の河口外にあります。ここは重信川の川幅が広くて流れが緩やかで、浅瀬が多く、上流より栄養土も流れて来るため、魚や貝の生息に良いのではないかと思います。
 重信川右岸の遠浅の浜にある今出の漁港は、昭和20年代までは松山港の船溜(ふなど)まりでした。潮が満ちるとやっと小さな船が出入りできる程度の深さで、したがってエンジンなしの帆かけ船が大半でした。
 おやじが漁師だったので、舟に乗ることや魚釣り、たこ漁にも早くからなれていました。このような生活環境でしたので、自然におやじの後を継いでたこ漁を中心とした漁師となり約60年がたちました。
 今出の沖は小石が多く、潮の流れも速く、藻場(もば)があり、干潟(ひがた)(潮が引いて現れた遠浅の海岸)となること、また、タコの産卵とタコの餌(えさ)であるカニやカイが豊富であることなどから、タコの生息地として最適なのです。マダコが多くて、よくとれる時期は7~8月と11~12月の1年に2回あります。これは、タコの産卵の活発な時期と深く関係していると言われています。」
 また、昭和20年代後半の垣生地域の生活環境について、**さん(松山市東垣生町 昭和6年生まれ)に聞いた。
 「西垣生地区は半農半漁の家が多く、東垣生地区は農業専業と勤め人に分かれていました。農業は昭和の初めまではさとうきび栽培が多かったのですが、やがて米と麦の穀物やサツマイモ、ソラマメなどが生産の中心となりました。また、砂地という条件を生かしてブドウ・スイカ・モモの栽培がどんどん増えて、県下に知られるようになりました。当時の日常の主食は、麦・米との混合食でしたが、麦の割合が多く、またサツマイモもよく食べました。やがて、野菜も多く作り副食の重要な食材となりました。どの家でも家族が多くて貧しい生活でしたが、親子、兄弟が助け合いながらがんばりました。」
 
 イ たこ漁師

 **さんに、たこ漁師としての生活について聞いた。
 「タコがよくとれる夏は、毎日朝の5時に起床、味噌汁の飯で食事をして6時ころに家を出ますが、冬は暗いので少し遅れて8時ころに出て漁を始めます。
 エンジンの船に代わるまでは、弁当と帆を天秤棒(てんびんぼう)で担(かつ)いで浜まで行き、帆かけ船に漁の用具をのせて三津浜地区から伊予市にかけての沖合い約4kmの範囲で漁をしました。風向きや潮の干満といった状況判断が大変でした。今は、近くの船留りの海にもたこ壺(つぼ)を沈めることもあります。
 たこ壺(写真3-2-17参照)は約4kgあり、一隻の船に平均100個ほど積み、綱10mごとに一つずつくくりつけて、水深30~40mくらいの海底に沈めます。たこ壺に餌は入れません。タコは、すみかと思い壺に入りこみます。たこ壺の引き上げは、先に沈めたものから一日おきに上げていきます。たこ壺10個に1匹入ると大漁だといえます。普通は、100個で5~6匹です。特に、大潮で潮の流れが大きい時はタコが驚き、壺に入りやすいです。大潮の日は15日ごとに巡るので、潮の流れや干満の差をよく理解することが大切です。昭和30年代までは、漁師が30人、船30隻とにぎわったものでしたが、今は6~8人と減り寂しくなりました。
 とれたタコは船の生簀(いけす)(魚介類を生かし蓄(たくわ)えておく所)に入れて浜に持ち帰り、仲買人に売ったり、3軒あったたこ飯小屋の料理屋でお客さんに出したりもしました。自宅に帰るのは昼過ぎで、遅めの昼食を食べてから昼寝をして体の疲れを取るのが長年の習慣です。現在は、三津浜の魚市で取引できるようになり能率よくなりました。
 西垣生地区では、今出漁協組合の西側に魚霊塔(供養塔)(写真3-2-18参照)を建てて毎年4月28日に慰霊祭を実施しています。わが家では、お盆の8月16日と正月の1月16日は先祖からの慣わしとして、たこ供養のため漁には絶対出ないことにしています。」

 ウ たこ飯小屋と料理

 当時、地元では漁師が器用にたこ料理を自ら作り食べていたが、やがて、納涼台(のうりょうだい)を置いたたこ飯小屋の専門店ができて海岸も風流となった。
 **さんは、『愛媛の味紀行』の中でたこ飯小屋について、「北の浜、南の浜ともまず掘っ立て小屋を建て、よしず張りの囲いをし、お店らしくした。もちろん真水(まみず)はないため、ご飯は塩水であら洗いをし、真水を遠くまでリヤカーで汲みに行き炊いた。中には米を持参し料理の依頼を受けることもしばしばあった。(中略)たくさんとれるタコをご飯だけではということで、天ぷら、ほか五品ほどを出している。(⑭)」とたこ料理が今出の名物料理となったいきさつを紹介している。
 たこ飯の作り方やおいしい食べ方について、**さんと奥さんの**さん(昭和4年生まれ)に聞いた(写真3-2-19参照)。
 「生きたタコを使うことが基本です。まず、塩でしごきもみして、ぬめりと吸盤(きゅうばん)(イボ)の黒ずんだ泡(あわ)を取り、細かく切ったタコに、ゴボウ・ニンジン・だしこんぶ・醤油・塩を調合し、釜で炊くとおいしくできあがります。タコは、そのほか、小麦粉をつけたタコの天ぷら・皮を取り除いてつくる刺身・塩もみして茹でるぶつ切り・しゅうゆ味の煮付け・酢たこなどさまざまな食べ方があります。」

写真3-2-17 たこ壺と保管小屋

写真3-2-17 たこ壺と保管小屋

松山市西垣生町今出。平成15年6月撮影

写真3-2-18 魚霊塔

写真3-2-18 魚霊塔

松山市西垣生町今出。平成16年1月撮影

写真3-2-19 たこ飯セット

写真3-2-19 たこ飯セット

松山市西垣生町今出。平成15年8月撮影