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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)海の幸のあれこれ

 中島(なかじま)町は、松山市の北西約15km、本県と広島・山口両県が接する瀬戸内海西部に位置し、六つの有人島(野忽那(のぐつな)島・睦月(むづき)島・中島・怒和(ぬわ)島・津和地(つわじ)島・二神(ふたがみ)島)と大小22の無人島で構成されている。町の人口の65%が中島本島に集中している。気候は温暖で、柑橘(かんきつ)栽培と水産業と観光の町である(⑮)。

 ア 島のくらし

 中島は周囲24.2kmで東中島(大浦(おおうら)地区)と西中島(吉木(よしき)・熊田(くまた)地区)に大きく分けられる。昭和20年代は半農半漁の生活であり、農業は水田が少なく、自給用の麦とさつまいも栽培が中心であったが、やがて、換金作物としてタマネギとショウガ、柑橘の栽培(写真3-2-20参照)が増加した。
 地元農協婦人部の生活食改善組織で活動していた**さん(中島町小浜(おばま) 大正11年生まれ)に、昭和20年(1945年)ころから30年ころの食生活について聞いた。
 「主食は、麦と米、サツマイモの混合飯でした。押麦と米のご飯を炊くと、分量の多い麦は上に残り、少ない米が下に溜(た)まります。父親が釜底から先に米をすくい上げて食べ、母親や子どもは後から上の麦を食べていました。食事は、どの家庭も1日4回の習慣で、朝6時のオチャ(イモと味噌汁)、10時のコビル(麦飯といりこ、漬物)、午後3時のバンチャ(かんころ、イモ)、7時の夕食(麦飯と煮物)が普通でした。また、味噌は全て自家製の麦味噌でした。
 また、海岸から山の畑にいたるまでサツマイモがたくさん作られ、『中島のイモ食い』という言葉がよく使われたものでした。当時は道路の整備が十分でなかったので、収穫したサツマイモは、山から海岸までほごろ(藁(わら)で作った穀物入れ)で荷出しして小船に積み、艪(ろ)をこいで自宅へ持ち帰る家庭が多かったのです。家では、サツマイモを食材とした料理を多く作りました。生で切って干して乾燥したかんころ、それを粉にして煮て味を付けて食べるかんころ餅、サツマイモともち米をそれぞれ蒸して、混ぜあわせ杵(きね)で搗(つ)くいも餅、かんころの粉を麦と混ぜて炊くかんころ飯など、サツマイモさまさまでした。特に餅のなかでも、いも餅はたくさん搗きました。トウキビやタカキビはあまり栽培しませんでした。」
 中島町では、島外との交流が少ない島暮らしの生活から、強い共同体意識が島に根付いたといわれる。そのことについて、**さんに聞いた。
 「たとえば、2月の寒の時期は、親戚(しんせき)一同が本家(ほんけ)に集まり、一日中、寒の餅をつき盛大に旧正月を祝いました。島には娯楽が少なかったので、冠婚葬祭(かんこうそうさい)や寄り合いの機会を大切にして、その際には各人が食材を持ち寄って料理を作り合うという習慣が長く残りました。その時に、料理の味付けや作り方、人間関係のあり方などを自然と学ぶことが出来たのです。結婚も島民の中での縁組みが多かったので、自然とお互いに助け合う生活習慣が生まれました。」

 イ 海藻を食材として

 波静かで水の澄んだ中島の海岸では海藻が豊かに生育する。春になると海藻採集の時期を迎え、島民はそれを毎年楽しみにしていた。特にワカメとヒジキは住民にとって大切な食材であった。**さんに海藻の活用について聞いた。
 「戦後は塩が不足していたので、天日(てんぴ)干しにしたワカメは、貴重な塩分補給源でした。どの家でも庭に平釜をすえてワカメを茹(ゆ)であげ、冷水で洗い軒下に干していたものです。またヒジキは、“口明(くちあ)け”といって、ヒジキを採り始める時期が地域によって違っていましたが、寒の大潮に採ったものは、寒ヒジキといってやわらかいので重宝がられていました。」
 **さんは、海藻を材料にした料理について次のように語る。 
 「海藻類を年間通じて、さまざまに工夫して食べました。わかめ料理としては、灰ワカメ・塩ワカメのご飯や汁、佃煮(つくだに)、油いための煮物、サラダなどがあります。
 ひじき飯(写真3-2-21参照)は、ヒジキを長時間釜で炊いて乾燥させてから煮付けや混ぜご飯にします。もずくの種類に入るウミゾウメンは、梅雨時期に採れ、熱湯にくぐらせて色が青くなると三杯酢で調理しました。テングサは井戸水で何回も晒(さら)して夏の日に当て白くさせて、トコロテンにしました。アオサは緑や青の色粉(いろこ)としてふりかけや餅の中に入れました。また、フノリは炊いて髪洗いや着物ののり付けに使い、オゴノリは茹がいて刺身(さしみ)のつまにしました。」
 
 ウ 魚介類を食材として

 **さんに、当時の魚介類の料理についても聞いた。
 「海はきれいで海岸には砂浜が続き、海の幸は豊富でした。イワシ・ホウタレ・コノシロ・ベラ・タチウオ・チヌなどがよくとれました。特にイワシは満潮時に海岸にたくさん押し寄せて来て、干潮になっても引き潮に乗って沖に帰れないイワシが打ち上げられ、手づかみでとれました。特に、イワシとサツマイモは相性がよくておいしいので、さまざまな機会に食べました。
 魚介類の料理には、ニナ(ニイナ)の味噌煮・になずし・アサリの汁・ヨメガサラの天ぷら・うに飯・ナマコの汁や酢物・たこ飯・茹でだこ・タコの煮付けなどがあります。サザエやアワビは、焼いたり、刺身にしたり、酢物などにしました。ただ、カメノテは縁起が悪いのか、中島では一切食べませんでした。
 魚の料理の中でよく作ったものとしては、カタクチイワシを背開きにしてすり鉢(はち)でよくすり、小麦粉・塩・生ショウガを混ぜて団子にするイワシのつみれ汁や、小骨がたくさんありますが、身が薄くておいしいコノシロを使ったさつま汁があります。また、酢につけてすし飯風につくるゼンゴのいずみや、ハギの皮をはいで三枚におろしてかたくり粉をまぶして揚げ、酢と酒、醤油、砂糖を混ぜたたれにつけこんで上に野菜をのせる南蛮漬(なんばんづ)けなども作りました。それぞれできるだけおいしく食べるように工夫していたのです。」

写真3-2-20 段畑と柑橘栽培

写真3-2-20 段畑と柑橘栽培

中島町大浦。平成15年7月撮影

写真3-2-21 ひじき飯

写真3-2-21 ひじき飯

平成15年9月撮影