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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)山の祭りのごちそう

 八幡浜市日土(ひづち)町森山(もりやま)地区は、宇和海北部の川之石湾に注ぐ喜木(きき)川の中・上流域にあり、標高500m前後に集落がある。『八幡浜市誌』によると、明治から昭和10年代の日土町の主産業は米麦栽培や明治19年(1886年)導入の夏柑栽培のほか、養蚕(ようさん)・製糸業であった(④)。

 ア 祭りの食卓を飾る

 日土町森山地区の秋祭りの料理について、森山に住む**さん(大正5年生まれ)、**さん(大正8年生まれ)夫妻に聞いた。
 「この地区の春、秋のお祭り料理は、もち米を搗(つ)いた餅が付き物でした。どこの家も餅を搗いてお祭りを迎え、できた餅はお客にお土産(みやげ)として持たせていました。その他におすしや、お煮しめなどもお土産にしました。もち米を自分の家で作っているので、“何か事”といえば餅を搗くことが主で、餅がなければ寂しかったと思います。祭りの餅は量が少なく雑穀などの餅はあまりなかったと思います。
 “とりつけ”といって餅を搗いたときに、あんこをつけてぼた餅のようにしたものがありました。あんを周囲につけるだけですぐにできるので、とりつけと呼んでいたのでしょうか。臼で搗いていたので、ぼた餅とは違っていました。餅を搗いた時の楽しみの一つで、餅とは別に必ず作っていました。
 祭りの料理は、ちらしずしがごちそうでした。鉢盛料理もありました。鉢盛の中味は、す巻きの豆腐・コイモ・レンコン・こんにゃく・くずし(かまぼこなど魚のすり身の練り製品)・サツマイモの揚げ物などでした。フカ(サメ)のみがらしもありました。
 フカのみがらし・生(なま)もの(刺身など)・酢漬けはお祭りの定番料理というべきものでした。祭りのときに買うものは生魚とくずしぐらいで、他は自分の家で賄えるもので料理を作っていました。ここは比較的海が近いこともあって、魚は担いで売りに来ていましたが、この地域まで運ばれてくるころにはかなり傷んでいました。
 豆腐やこんにゃく作りはすべて主婦の仕事でしたから、お祭りなどでは前日から準備に大変でした。サツマイモの揚げ物はお土産にもなり、お客さんに喜んでもらいました。
 祭りにはお酒がつきものですが、戦時中配給になり、この時は酒を用意するのに苦労するようになりました。私らは1斗米(約18ℓ、約15kg)を持って行って、1升(約1.8ℓ)の酒と交換していました。1俵(約72ℓ、約60kg)の米でも4升の酒しかもらえませんでした。
 周辺の上須戒(かみすがい)、喜須来(きすき)、川之石(かわのいし)、宮内(みやうち)地区など各地域との交流があり、祭りには親戚(しんせき)同士、親しい知人同士と行き来していました。祭りは結構にぎやかで、村人の楽しみの一つでした。」

 イ 森山の日常食

 さらに、**さんに日常の食について聞いた。
 「このような山の中(写真3-3-3参照)ですからたいしたものはありません。しゃぎ麦(押し麦)だとよけいに食が進んでしまうからといって丸麦が中心でした。
 3食以外に2時ごろにお茶といって、軽いご飯をとっていました。時にはトウキビを挽いたはったい粉を中心にしたこともありました。戦後も一時続いていました。私が小学生のころ、川辻(かわつじ)地区に水車小屋が二軒あって、そこへ、トウキビを持っていって、学校から帰るときに立ち寄って搗いてもらったはったい粉を負い子(背負い運搬具のことで、西日本一帯でオイコと呼ばれることが多い。)で背負って帰りました。昭和の初めころだったと思います。
 旧正月には寒(かん)の餅をたくさん搗いていました。出来た餅を莚(むしろ)に並べ、固くなると、水を入れた大きな樽(たる)や壺(つぼ)に餅を入れ水餅にして保存しました。6月くらいまでは餅が食事代わりになったり、子どもの弁当になっていました。
 昭和14年(1939年)ころ私の結婚した当時も丸麦が主食でした。これは二度炊きをするので手間がかかりました。朝の4時ころから起きて炊いていました。二度目に炊くとき少しだけお米を入れていました。学校の弁当にする時は、米を入れて炊いたのを麦と混ぜずに、お米のところだけをとって弁当に入れていました。
 夜が明けるころには、みな有り合わせの物で朝ご飯を済ませて仕事に出ていました。おかずといえば、たくあん、お葉漬け、味噌汁程度でした。普段のときのご馳走といえば炊き込みご飯が精一杯でした。
 夏は七夕、夏祭り、お盆、21日のお大師様の縁日(えんにち)などの“何か事”が多くあって、一つ済んだらまた次の行事と次々にあるため、とにかく主婦は大変でした。」

写真3-3-3 八幡浜市日土町森山の景観

写真3-3-3 八幡浜市日土町森山の景観

平成15年11月撮影