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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)酒さまざま

 ア 日本の酒の略史

 日本における酒の起源は、アワ・ヒエなどの雑穀やドングリなどのでんぷん質食材の発酵で造られたといわれる。それも、当初は口で噛(か)んで唾液中の糖化酵素ででんぷんを糖化し、それを吐きためて空気中の酵母で発酵させる口噛(くちかみ)の酒で、それも女性によって造られた。そのうちに蒸した穀物に偶然カビが生えたので、それを用いた酒が造られ、稲作の発展とともに口噛の酒は消えて麹(こうじ)と飯(いい)(蒸し米)と水とで仕込む日本独特の酒が造られるようになった。この日本酒の歴史の起源は定かではないが、稲作が始まって以来の古いものと考えられ、わが国独特の酒の文化を育成してきた。
 初め酒は神への貴重な供え物として造られたが、それが神と人との共飲共食の場に、さらに人と人との交流の場にと変わっていき、いつしか大切な嗜好(しこう)飲料として生活の中に取り入れられた。それに伴い、酒の醸造も神事から独立して普及し、やがて室町時代以降の酒造業の発達によって、酒はいつでも自由に飲めるものとなって、次第に手酌(独酌)やさしつさされつの個別飲酒の仕方が一般化していった。
 日本の酒はその歴史上、長く日本酒だけであった。日本酒は古くから「五穀の華味(かみ)の至り」(五穀=米・麦・アワ・キビ・豆など主要な穀物の総称、至り=究極)と称されてきた日本古来の代表的な酒で、五味(甘・酸・辛・苦・渋)のバランスがよく、固有の味を持っているといわれ、広く日本人に好まれてきた。
 この日本酒に対して、江戸時代中期から造られ、たしなまれるようになったのが焼酎(しょうちゅう)である。米、麦、ソバなどの穀類やイモ類を原料とし、米麹で糖化し、発酵させたもろみを蒸留して造る。また、清酒粕(かす)を蒸留してつくる場合もある。この焼酎は、原料の特性や製法の違いによる風味など、地方色がある。明治以降になると、ビールやワインなどの洋酒も飲まれるようになった。
 明治に入ってから、酒造りは課税の対象となり、自家用酒の醸造制限の時期を経て、明治32年(1899年)には自家用酒の醸造禁止が発せられる。以後、酒の製造は専門の醸造業者によるものとなった。
 なお、愛媛県においては、明治7年(1874年)の「府県物産表」によると、酒・味噌・醤油などの醸造物は、穀類に次ぐ重要産物で全国第13位にあり、そのうち酒造業は米作を除くと当時の本県における最大の産業であった(⑨)。昭和3年(1928年)の「愛媛縣(けん)重要物産ノ分布ト交通圖(ず)」には、新居郡(にいぐん)(現新居浜市と西条市)、周桑郡、越智郡、松山市、東・西宇和郡、宇和島市、北宇和郡など広範な地域に清酒・焼酎の生産地が見られる(⑩)。

 イ 昭和10年代から昭和30年代に至る酒の流れ

 昭和10年代後半からの厳しい統制経済の情勢下、酒の醸造も激減し、配給制に移っていく。とりわけ、戦中から戦後の昭和30年(1955年)ころまでは需要に応じきれず、酒類がなかなか手に入らないか、高価な時代が続いた。この時期、農漁村などでは、自家製(密造)の酒や焼酎を造らない家庭、あるいは飲まない者はなかったとまでいわれている。酒を「ドブロク」、焼酎は「ホケ」と呼んでいた(⑪)。
 民俗研究家である**さんに、当時の城辺町僧都地区での焼酎作りについて話を聞いた。
 「焼酎は、麦かイモを煮て麹と合わせて大瓶で2~3週間発酵させたもろみを、見た目には単純ながら農家にはかなり大掛かりな装置を使い、1回に40~50分かけて1升(約1.8ℓ)の焼酎を採ったそうです。このような焼酎製造の器具も今では見ることもなくなり、わずかに民俗資料館等で焼酎釜(がま)を見かけることはありましても、使用方法を知っている者は少なくなりました。
 この密造酒造りの大敵は税務署(村ではシュゼイブと呼んでいました。)で、年に1、2回は密造酒の取り締まりにやって来ました。10人余りで来ますので、必ず摘発される者が出るのです。そこで村人は、できるだけ犠牲を少なくするため暗号を決めておいたそうです。例えば、一人が『ウシが逃げたぞう』と叫ぶと、それを聞いた隣近所の者はすぐに便所などに密造酒を投げ込んで難を逃れたそうです。焼酎は、祭りなど“何ぞ事”の折に使ったり、自家用に飲んでいたようです。」と語る。
 祭りに付き物の酒が、配給の2、3升の清酒では足りず、こっそり密造した焼酎やドブロクを補充して祭りを盛り上げたとか、酒宴の席の酒にドブロクやホケを出すのは公然の秘密であったなどと当時を懐かしむ声も各地で聞かれた。昭和30年(1955年)ころより生活も落ち着いてきて、酒が自由に買えるようになるにつれ、密造酒は次第に姿を消していったといわれる。