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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)祝いの酒に固めの盃

 酒は山海の珍味とともに神への貴重な供え物(お神酒(みき))であり、祭りは神を迎えもてなし、神託(しんたく)を伺い、人もお下がりを飲食してから神を送り返す儀式である。だから、いずれの祭りの場合でも、まず酒造り神事が行われ、次に神酒など神饌(しんせん)(神前に供える飲食物)の献供、さらに神と人との共飲共食を儀式化した神事が続いた。この際、酒の芳醇(ほうじゅん)な香りや飲酒が陶酔と興奮を醸し出すので、酒は神と人とが交歓する手段として欠かせないものとなり、献酒とその共同飲食は神祭りの中心的儀礼となった。しかも、その飲み方は一つの盃(さかずき)で飲み回す群飲(集団的飲酒)で、座順にしたがって上座(かみざ)から下(しも)座へ盃が一巡する。その一巡を一献(こん)といい、それを二献、三献と繰り返す。その一献ごとに出される料理を献立といった。さらに、儀式的飲酒では酒は勝手につぐものではなく、つぎ手によって盃が満たされるのを待つものであった。そこで後世になっても、酒席には酒のつぎ手(お酌)がいるようになったといわれる。
 この儀式的な飲み回し(宴座(えんざ))では酒を堪能(たんのう)できないため、神事終了後の酒宴が引き続き行われるようになり、次第に正式の献酒は簡略化され、直会(なおらい)(神聖な祭りの儀式が終わった後で、神に供えた酒食を下げて行う宴会)や穏座(おんざ)(宴座の後、席を改めての酒宴など)、無礼講(ぶれいこう)などといった、後の酒盛り(酒宴)が盛大化していった。酒盛りでは、日常的な社会秩序は酔いのなかに消滅し、非日常的な振る舞いが許された。その名残で、現在でも酒の上の非礼は大目にみられることになった。

 ア 固めの盃

 わが国では、箱膳の使用に見られるように自分専用の食器を他人に使用されたり、食器を通じて間接的に他人と口が触れたりすることを忌(い)みきらう反面、酒盃のやりとりは別とされてきた。盃を取り交わして互いに酒を飲み新たな関係を確認することを盃事(さかずきこと)というが、酒を飲み合うことで一体感を深める、それがまた契約のしるしになるのである。
 この例は婚姻の機会などに今でも見られる。男女の結縁を誓う婚姻の儀礼も一つの神事であったから、これにも古くから飲酒が伴った。現在の婚約にあたる「スミザケ」・「タルイレ」・「クチガタメ」などは内定の契約を示しており、夫婦の固めの盃事は「三三九度」としてよく知られているが、婚礼はもともと嫁・婿双方の親類縁者が互いの関係を取り結ぶための儀礼であり、そのための確認を一つ瓶の酒・一つ鉢の食物を、飲みかつ食することに求めたのである。嫁・婿双方の親との「親子盃」、続いて「兄弟盃」、「親戚(しんせき)盃」などと多様な盃事が行われた。これらは、それぞれが長く契りを結ぶための約束でもあった。同じ盃の酒を飲み合って、一体感を得たのである。
 青年期に仮の親を求める子と仮親との間に交わされる「親子盃」、兄弟分の関係を結ぶために行われる「兄弟盃」、また若者組への加入、新たな組織への仲間入りなど、盃事は人と人との新たな関係を築くための重要な機会であった。酒はこのように相互の人間関係を結ぶうえに欠かせないものであった。
 視点は違うが、“タチガワラケ”という酒の風習も各地に見られた。婚礼の場合、荷物を運んだ人がその場を立ち去るとき、または婚礼の客が帰るとき、門口で立ったままで茶碗酒を飲むことがある。これは別れの酒であり、盛り切り一杯しか飲まない。新居浜市別子山(べっしやま)地区では、飲めない者はその場に置いてもよいが、飲み干して帰るのが上品な行いとされており(⑫)、多くの場合断れなかったようだ。城川町魚成(うおなし)地区では、平素あまり酒をたしなまない村人が、このタチガワラケで冷やの茶碗酒を振舞われて、帰っていく道筋で酔いつぶれて正体を失ったという話を聞くことができた。

 イ 酒に興じる

 酒盛り(酒宴)の機会は、祭りの酒から次第に地域的にも広がりを見せ、また時期的にも、サナブリ(田植え後の祝い)などの農事の祝い、家普請や冠婚葬祭、年祝い、各種の講(神仏に参詣(さんけい)したり、社寺に寄付したりすることを目的とする人々の団体)の寄り合いなどと次第に増加していった。これらの新たな酒盛りでは亭主役が飲食物を用意して一方的に客に振る舞い、客は酒肴(しゅこう)料(宴席などに招待されたとき、お礼として持参する包金)を持参するか、丁重に招待を感謝して、用意された酒と料理を会食する。
 宇和島市を中心とした地域では、“何ぞ事”の折に鉢盛(はちもり)料理が用意され、豪華な彩りを添える。一本松(いっぽんまつ)町では、結婚式の披露宴などの際に、およそ招待客二人に一鉢といった見込みで作られた鉢盛料理が極彩色の高脚膳(たかあしぜん)に載せられ、きれいに並べられる。山海の旬(しゅん)の物の盛られた料理は日本酒によく合うので、酒宴を盛り上げる肴(さかな)として喜ばれたという(⑬)。
 この酒盛りに当たっては、主人から客に酒をすすめる勧酒歌、客からの感謝の意を表す謝酒歌や祝い歌が歌われ、最後に酒宴が終わって退去する時の別れの立歌を歌うという儀礼的な様式があったという。例えば一本松町では、酒宴の席で謡が済むと、必ず続けて「うれしめでたの よいやなー 若松様よ 枝も栄えりゃ葉も茂る よいやなー」で知られる“よいやな節”が歌われた。この歌が済むと、後はどんな歌を出してもよかった。“地ぎょう節”は酒宴の中途で歌うものではなく、この歌が歌われたら帰ってもよいとされていたという(⑬)。
 やがて酒盛りの進行には大きな違いはないものの、次第に儀礼的な歌は歌われなくなり、酒宴の目的が変わっていく。始まりは日常的秩序の枠内にある。座順は地位や序列を表しており、挨拶(あいさつ)も一定の様式を守っている。酒盛りが始まれば、思う存分に飲んで酔わないと酒盛りの目的を達したことにはならない。宴たけなわとなると、日常的秩序の世界から無礼講の世界に移る。その中で、日常的秩序を否定した秩序の逆転現象すら起こる。そして素面(しらふ)に戻り、人と人との間に新たな関係が生まれ、より強固なものになる。とはいえ、酒の無礼講で禍根を残した話も少なくない。

 (ア)南宇和郡に見られる酒宴

 南宇和郡一帯に今も残存する酒宴の風習について**さんに聞いた。
 「まず、結婚式の披露宴ですが、客人は席に着くなり席に置かれた酒・ビールなどを勝手に飲み始めます。つぎ手の女性も心得たもので、客人が席に着くと『ボツボツやりよりなはいや。』とすぐに酒を勧めます。披露宴が始まると式次第は型どおりに進みますが、そのころには既にかなり酔っている者もいます。初めて他の地域から参列した客人は、この様子を見て驚くようです。
 この風習が四国西南部地域(愛媛県の南宇和郡内と高知県幡多(はた)地域)独特の風習かどうかは定かではありません。ただ南宇和郡内では、かつて結婚式は夕刻から夜にかけて婚家で行われました。当日、嫁が実家を出て婚家に向かうのは潮の満ち時で、満ち時が遅いと嫁の到着も遅れることになります。私の結婚式も夜の11時ころから始まりました。式が遅くなりますと、招待客に迷惑をかけます。そこで客人に『ボツボツやりよってくださいや。』と前もって酒食をもてなしていました。これがいつの間にか風習となっていったのではないでしょうか。」
 なお、酒に伴う風習として、さらに次のような例も挙げた。
 「“何ぞ事”の招待でも、『○○日の晩にやるから寄んなはいや。』と正確な時間を明示しないことが多いのです。だから、当日の夜は人々が三々五々と集まってきます。そこで主人は鉢盛料理を前に、『ボツボツやりよってくださいや。』と酒を勧めます。遅く来た者は、『駆けつけ3杯』と酒を早速に勧められます。この盃も江戸時代後期から昭和初期まで御荘(みしょう)の地で焼かれ、四国西南部で使われていた御荘焼きの盃(さかずき)(直径は大きなもので9cm、小さいものでも7cm。いとじり〔陶磁器の裏の丸く突き出た部分〕は3cmくらいと細いので安定が悪く、盃を置く盃台が必要になる。)で勧められます。宴が進むにつれ、『二献(こん)三献』の盃のやり取りが行われます。これは酌に来た人が客人の盃に酒をつぎます。客人はこの盃を飲み干して返盃(へんぱい)します。酌に来た人はこれを受けて再度客人に盃を返して酒をつぎます。客人は再びこれを飲み干して酌に来た人に盃を回します。酌に来た人は盃の酒を飲み干し客人に返盃します。これで二献三献の酒盃のやり取りが終わり、酌に来た人は次の席に移ります。客座にいる者は、このやり取りで繰り返し歓迎されるとしたたかに酔います。宴の最中に座を抜けて帰ろうとすると、『先に帰るんだったら“タチガワラケ”よ。』と、結婚式の帰りに行われる“タチガワラケ”の風習が、このような場面にも出てきます。しかも、器は丼(どんぶり)とか大皿、時には三三九度の大盃が出されることがあります。」と言う。
 この三三九度の盃は、炭焼き窯(がま)完成時の祝いや42歳や61歳の年祝いなどにも使われたという。
 なお、『一本松町史』によると、一本松町正木(まさき)地区では、婚礼の晩に若者たちが新婦を励ます意味を込めて、100~300kgに及ぶ大石を婚家の庭に運んできて据える“オチツキ石”の風習があった。婚家の方でも心得ていて、その夜は若者たちを酒席に招き入れて厚くもてなし、若者たちは、新郎・新婦を祝い励ました。この風習も昭和30年(1955年)ころに途絶えたという(⑬)。
 なお、これに類した風習は松山市荏原(えばら)地区や宇和町永長(ながおさ)地区など各地にもあったという。

 (イ)越智郡上浦町の“友呼び”のご馳走

 越智郡上浦(かみうら)町甘崎(あまざき)地区に見られた“友呼び”の話を**さんに聞いた。
 **さんは、「この地域の秋祭りに繰り出される神輿(みこし)や獅子(しし)・奴(やっこ)は神社の管理下にありますので、それにかかわった者は当屋(とうや)(神事を主宰する役に当たった人の家)で、氏子の出した金子(きんす)で賄われる酒食の接待を受けます。ところが、この祭りの名物ダンジリを運行する青年団は、その接待を受けることができませんので、青年団の年長の者か団員の有志の者がご馳走(ちそう)を準備し、団員を接待しました。それを友呼びと呼びました。友呼びを行う家は、通りかかる青年団の者を呼び込み、祭りの期間に1軒あたり20~30人にご馳走を振る舞いました。招待されていない者も集まってきました。中老(青年団を卒業した中年の人)の中には、気恥ずかしいので頬(ほお)かむりをして、夜こっそりと訪れて接待に預かる者もいました。この時に出されるご馳走には特に決まった料理はありませんでしたが、酒が振る舞われ、刺身・巻きずし・煮しめ・ちくわ、ナシ・ブドウなどが、大皿に盛られて用意されました。どこの家も同じような料理でした。ナシは飲酒後の口をさっぱりさせるために欠かせない果物でした。普段、ご馳走を食べる機会は少なかったので、好きな物を好きなだけ飲食することができる友呼びは、青年団員の楽しみでした。また、団員同士の親睦・意思疎通の場であるとともに、男女の出会いの場でもありました。この費用も個人持ちのため、経済的負担は大きかったものの、祭りのときにしか見られない楽しみの行事でした。この友呼びの風習も昭和30年代まで続いていましたが、現在は、ダンジリが運行されていないため、友呼びも自然に行われなくなりました。」と語った。

 (ウ)酒の余興

 かつて、酒宴の場で歌われた酒盛り歌の儀式性が失われ、次第に遊興的になるにつれ、流行歌を座興として歌うなど娯楽的なものになった。中には器と箸(はし)で拍子をとるバンカラな囃(はや)しで座を盛り上げるものもあったが、現在はカラオケの時代へと変化している。
 酒宴の席などで座興や接待のために、客に酒を勧める趣向として用いられた道具もあった。盃(さかずき)の底をとがらせたものや底に穴があいている可盃(べくさかずき)や、天狗(てんぐ)やヒョットコなどの面をかたどった天狗盃などで、客はつがれた酒を飲み干すまでは盃を膳や卓上に置くことができなかった。これに類したものに前述の御荘焼の盃(猪口(ちょこ))も挙げられる。興にのると、周囲の囃しに合わせて対座した二人が背中に隠し持った箸(はし)を差し出して数を当て合い、負けた方が罰杯を飲み干す箸拳(はしけん)の遊びなどがある。
 **さんは、可盃や天狗盃を使った座興や箸拳の遊びなどは、土佐との交流で伝播(でんば)したと考えられ、土佐と国境を接する焼畑地帯、例えば銅山川(どうざんがわ)流域などに残っていると指摘する。県内の焼畑は、作物を急峻な山腹斜面に求めざるを得ないような銅山川上流域、加茂川(かもがわ)上流域、上浮穴郡一帯、肱川(ひじかわ)上流の東宇和郡の山間部などで昭和30年(1955年)ころまで行われていた。これらの焼畑地域にくらす人々は、国境を越えた生活共同体的意識が強く、これらの座興も地域にくらす人々の交際の方法として広まったものであろうと言う。
 新宮村馬立(うまたて)地区の**さん(昭和8年生まれ)によると、新宮村には箸拳や可盃・天狗盃などの風習が見られたという。馬立地区は、おおよそ1,200年の昔、中央より土佐国府(地方行政府)へ通じる陸路の最短ルートとして道が拓(ひら)かれた所であり、また江戸時代には、土佐藩の参勤交代の行列が通った旧街道で、藩主などの宿泊する馬立本陣などがあり、土佐とのつながりが強かった。また焼畑地帯として、隣接する阿波の山城谷(やましろだに)村(現徳島県山城町)や土佐の大豊(おおとよ)(現高知県大豊町)の人々との交流もあった。こういう地理的関係からか、この地方でも酒宴の席でこれらを利用して酒席の座興を高めていた。それが昭和30年代になってから次第に廃れていき、現在はほとんど酒席では見られなくなったという。
 箸拳の風習は、城川町魚成地区にも見られた。**さん(昭和6年生まれ)の祖父が“何か事”の折に、興にのってくると、この箸拳をやって楽しんでいたという。この地方も焼畑地帯で、土佐との往来の道があるうえに、蔭之地茶堂の前に残る広場では牛市が開かれ、各地からウシの売り買いに来た博労(ばくろう)が集まってにぎわったといわれる。城辺町僧都地区でも、かつて箸拳が見られた。**さんの曽祖父の兄が、かつて酒宴の席でこの箸拳遊びに興じていたところ、負けた相手が興奮して刃物で曽祖父の兄の太股(ふともも)を刺すという刃傷沙汰(にんじょうざた)があったと祖父が語っていたという。この話によると、僧都地区では明治時代の末ころか大正時代の初めころにはこの遊びが行われていたと推測される。