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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)杜氏のくらし

 平成2年(1990年)当時、全国に23の酒造りの技能者集団があった中で、愛媛県内には、宮窪杜氏(みやくぼとうじ)と呼ばれた越智郡杜氏と伊方(いかた)杜氏と称された西宇和郡杜氏の二つの杜氏組合が活動していた。
 この杜氏の語源は、刀自(とじ)(家事をつかさどる婦人)であるともいわれる。これは口噛(くちかみ)酒を造ったのが女性であり、それ以後も酒の管理を委ねられたのが女性であった名残からともいわれる。

 ア 出稼ぎのくらし

 酒造りは、杜氏が変われば酒質が変わるというほど微妙なものである。それだけ高度な技能を要求されるだけに、酒造業者は、酒造りに欠かせない杜氏を、冬の農閑期に出稼ぎとして集めて酒を造った。その意味で杜氏や蔵人は、出稼ぎの中で酒造りを習得した高度技能の保持者であった。
 この杜氏のくらしについて、西宇和郡伊方町大浜地区在住で、現在西宇和郡杜氏組合の組合長の**さん(昭和4年生まれ)に話を聞いた。
 「杜氏は、酒造に従事する人(蔵人(くらびと))全体をいうのではなく、蔵人の長(おさ)をさします。この酒造り蔵人の職制は各集団で呼び名に違いが見られます。例えば、伊方では杜氏、頭(かしら)、麹(こうじ)師、もと廻(まわ)り、道具廻し、釜屋(かまや)、船頭、追い廻し、室(むろ)の子、飯焚(めした)きの職制となっています。
 蔵人集団では、酒所で知られる兵庫県の灘(なだ)・伊丹(いたみ)では、冬場百日稼(ひゃくにちかせ)ぎに来た丹波(たんば)杜氏が知られています。全国的にも銘酒の産地には、○○杜氏などと呼ばれる蔵人集団がいます。愛媛県内でも、宮窪杜氏と伊方杜氏とが優秀な技術で、県内外の酒造場に出向いて、数々の酒を造っています。
 伊方町は佐田岬(さだみさき)半島の中央部にあり、山が海近くに迫り、海岸線は曲折に富み、平野部は少なく、自給自足形態の農業で生活は貧しいものでした。交通事情も悪く、通勤して働く場所も近くにありません。自然、男は漁に出かけ、家族はイモを掘り、麦をまくというくらしでした。麦をまいたあとは農閑期、海も荒れて漁もままなりません。そこでこの時期に男が出稼ぎに出るのが酒造りでした。
 酒造り歌の1節に『ヤーレーエー 酒屋杜氏さん麦種育ちよ スタコラサッサ 家で歳とるノーヤレ事はないよ ヤレヨイヨイヨ(⑭)』とありますが、酒造りは年末から春先まで家族と離れてくらす生活になります。その間、米飯が食べられるのがたいへん魅力でした。」と言う。
 その言葉が端的に示すように、当時の日常食は麦を主体とした粗食であった。
 **さんは、「伊方杜氏は、日本でも古い伝統を誇りますが、その起源については諸説があります。杜氏は蔵人を従えて、県内をはじめ高知県や九州・朝鮮半島にまで出かけ、現金収入を得ていましたが、雑役・釜炊きから蔵人を束ねる杜氏となるには何年もの経験と修業が必要でした。しかし、伊方杜氏は勤勉実直で、手堅く正直で、その上研究熱心であったため、酒屋の主人の信用も厚く、同じ酒屋に長年勤める者や県内外で酒造店を経営し成功した人もたくさんいます。」とも語る。

 イ 家を守る

 杜氏が蔵人集団を連れて酒造りに出かけた後の家を守り、子どもの養育を続けるのが一家の主婦の役目である。かつて留守宅を預かってきた伊方町大浜地区の**さん(大正10年生まれ)、**さん(大正11年生まれ)、**さん(昭和2年生まれ)と**さんに話を聞いた。
 「宇和海に面した大浜浦は、海から空に至る急傾斜地で、農業は斜面を耕地にした段畑と沖合い2kmほどに浮かぶネズミ島で知られる黒島(*4)に耕された畑を利用して、主として麦類と甘藷(かんしょ)(サツマイモ)を、またアワ・キビ・ソバ・トウキビなども栽培していましたが、ほとんど自家用でした。養蚕(ようさん)もやりましたが、耕地面積が少なく厳しいものでした。ナシの栽培も試みました。みかん栽培も昭和初期に導入しましたが、戦時中に不要不急の作物として伐採を強いられ、サツマイモや麦類への転作を強制されました。再びみかん栽培が盛んになっていくのは昭和20年代後半からで、それまでは換金性の低い作物を中心とする農業でした。
 男は漁でタイやカタクチイワシをとっていました。特に、カタクチイワシは5月から10月にはよくとれました。イワシを乾燥したかいぼしはいつも身の周りにあり、『右手に甘ショを握り、左手にカイボシを持つ姿が当時の食生活の象徴(⑭)』といわれるようなくらしでした。
 大浜地区では農閑期になると、男衆(おとこし)の9割がたは蔵人としてこの地を離れて出稼ぎに行きます。
 この間、土地を守り、子どもを育てるのが私たち主婦の仕事です。この地方では、『百姓が野菜を買って食べるようでは、その家(や)は延(の)さん。』といわれ、いろいろな自家用野菜を栽培します。段畑の耕作や栽培のため上り下りする作業は決して楽なものではありません。黒島の畑に向かうときは、舟で小1時間かけて行きます。女手で漕(こ)ぎますので帰りに海が荒れて舟が流され、まったく反対側の浦に漂着してしまい、とぼとぼと夜道を歩いて帰ったこともありました。
 育ち盛りの子どもの食事には気を使いました。押し麦が作られるようになってからも、主食には丸麦を利用しました。2度炊きの手間はかかりますが、炊き上げた量が多く、子どもを育てるための生活の知恵でもありました。
 傾斜地に設置された索道(空中ケーブル)、さらに現在はモノレールが、ミカンの収穫時の農家の労力軽減に大きな力を発揮していますが、それまではオイコ(背負い運搬具)を背負って収穫したミカンを運搬していました。」と語った。
 最後に、「うちの主人は何日も家を留守にしていながら、この間一本の電話も寄こさんかったのよ。」と漏らす三人の言葉に実感がこもる。逆にこれもまた杜氏の仕事の厳しさの一端をのぞかせる。
 この杜氏に携わる人数も激減している。宮窪杜氏と呼ばれた大島の蔵人集団はここ数年休業状態であったが、本年(平成15年)日本酒造杜氏組合に解散届を出した。近年の日本酒離れが大きな要因になっているが、その他みかん栽培の普及と拡大による農閑期のズレ、高齢化や若者の減少、きつい仕事を避ける風潮、酒造場の減少や醸造会社独自の杜氏養成などの要因も重なって杜氏の見通しは決して明るくないと**さんは語る。


*4:黒島 伊方町大浜の沖合いに浮かぶ周囲約3.1kmの無人島。中世に著された『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』
  (建長6年〔1254年〕成立)に、「伊与国矢野保の黒島のねずみ海底に巣食ふ事」として、大量発生したネズミの話が紹
  介されている。