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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(4)食堂はデパートの顔

 「昭和38年(1963年)に食料品売場から食堂の指導員として再び食堂に配属になりました。その当時は、食堂が大盛況でした。家族で来て午前中は買物をして、お昼になると3階の大食堂で食事をするのです。子どもは旗の立ったお子様ランチ、親御さんは三越ランチや丼(どんぶり)ものなどを食べて、三越で楽しい時間を過ごして帰るというのが定番になっていました。そういう時代であったので、食堂のウエイトはすごく高かったと思います。当時の食堂はデパートの顔でした。日曜日・祝日は本当に大盛況でした。入口でチケット(食券)を買ってもらうのですが、日曜日・祝日などはチケットを買う人が行列になっていました。当時食堂は280席ありましたが、満席でした。席が足りないので、売場にある事務用のイスを持ってきたこともありました。280席の大食堂ですから、ウェイトレスは動くというよりも走り回るような状態でした。さらに、お客さんがたくさんいる中でお盆を持って食事を運ぶのですから、それは本当に大変な仕事でした。
 そのような食堂で働く社員の指導を任されたのです。食堂に配属されるのは、高校を卒業した新規採用の女性社員から7、8名が選ばれます。誰が配属されるかはわかりません。配属されると2年間は食堂で働きます。そして2年経つと売場へ出て行くことになっていました。だから食堂には、新入社員7、8名と入社2年目の社員7、8名の合わせて15、16名がいました。毎年新入社員が7、8名配属になるので、その社員教育をするのです。食堂に配属になった新入社員は、『同じように高校を卒業し、同じ試験を受けて採用されたのに何で私だけ食堂に配属になるのか。』と1週間ぐらい泣いてばかりです。中にはそのまま来なくなる人もいました。そういう新入社員に、食堂の業務の大切さを理解させるために自分の体験を話し、頑張らせることはけっこう大変な仕事でした。しかし仕事に慣れてくると、一生懸命に頑張ってやってくれるようになっていきます。重労働ですが、和気あいあいと仕事をしていました。それでも3年目になると売場へ配属になります。せっかく仕事に慣れてくれたころにメンバーが変わってしまうので苦労しました。自分が先頭に立って動かないと部下はついてこないと思い、お客さんが来るといつも自分がお盆を持ってまず走るようにしていました。一番しんどい仕事を選んでするようにしていました。夕方になると、足がパンパンになってきつかったけど、毎日が充実していました。
 食堂には、昭和38年(1963年)から59年(1984年)まで20年間いました。その中の前半の10年間が、お昼時や休日は常に満席になった大盛況の時代でした。昭和46年(1971年)9月に地下2階地上8階のホワイト三越がグランドオープンしました。それから、しばらくして食堂の状況が変化してきたのです。三越の周辺や大街道にレストランや食堂がたくさん開店して、何も三越の食堂で食事をする必要がなくなってきました。今までのように行列が出来る状況ではなくなってきたのです。そこで、食堂でもパーティを受けたり、世界の料理展や世界の果物展を企画したりして三越の食堂の魅力をアピールしなければならなくなりました。ちょうど高度経済成長期が終わって、デパートのあり方が変わってきたころであったと思います。」