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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)婦人会

 ア 地域の婦人会

 (ア)地域婦人会の結成

 昭和20年(1945年)の終戦とともに、国策で設けられていた官製婦人団体の大日本婦人会は解散し、市町村における女性組織はなくなった。一方、女性参政権の実現に対処するため、文部省では政治経験を持たない女性たちに良識ある公民としての自覚を求め、新しいリーダーの養成と自主的な女性団体の育成を目的として、昭和20年10月「婦人教養施設ノ育成強化ニ関スル件」、11月「社会教育ノ振興ニ関スル件」などの通牒(つうちょう)を発した。
 こうした政府からの働きかけを受け、愛媛県でも昭和21年(1946年)から22年(1947年)にかけ、各種の女性団体が生まれた。なかでも新日本建設、民主主義化の徹底、国民道義昂揚(こうよう)、経済生活安定などを目標に掲げた地域婦人会が、県下各地に急速な勢いで結成された。そして、昭和22年12月1日には愛媛県連合婦人会が結成され、同胞援護や洋裁講習、指導者養成などに取り組んでいった(⑮)。こうして、県連合婦人会-郡市連合婦人会-地域婦人会という組織が形成された(図表3-1-3参照)。
 なお昭和30年(1955年)の愛媛新聞社『1956年版 愛媛年鑑』によれば、当時の県下の女性団体としては、地域婦人団体(130,000人)、農協婦人部(112,477人)、日赤奉仕団(40,610人)、未亡人団体(40,000人)、漁協婦人部(4,000人)などがあった。

 (イ)婦人団体の活動内容

 地域婦人会をはじめ、婦人団体ではどのような活動をしたのだろうか。昭和27年度に県内の都市的地域の40団体に対して行った婦人団体実態調査の結果が、愛媛県連合婦人会所蔵の「昭和二十八年度 県連合婦人会綴」にある。図表3-1-4によれば、1団体平均9回の活動があり、比較的多い活動内容としては、政治経済や時事問題の講演会が最も多い。次いで敬老会参加、視察見学、食生活講習などが多く、慰安会、社会施設慰問、結婚改善講演会、こどもの日行事、成人の日行事、衣生活講習が続いている。このように、昭和27年(1952年)ごろはまだ婦人学級の取り組みが少なく、奉仕活動や地区行事への協力、講演会、講習会、視察見学などが盛んであった。

 (ウ)地域婦人会の定例事業

 地域婦人会の事業は同一ではなく、それぞれ地域の実情に合わせて婦人会ごとに活動の違いがみられた。図表3-1-5は、西宇和郡内の3つの地域婦人会の月別行事(昭和31年度)である(⑦)。
 11月に行事がないが、これは農繁期のため会合を行っていないからである。6月も同様に会合は少ない。9月には老人の日の行事や敬老会が行われて共通しているが、その他は同時期に共通の行事があまりみられない。喜須来婦人会は、6月に農繁期託児所を開設し、年4回蚊、ハエの撲滅運動に取り組んでいる。伊方婦人会は、八幡浜学園訪問や養老院訪問など福祉分野への取り組みが特色である。瀬戸(せと)町婦人会は、料理や服飾、農業の講習会や講演会を設けて、学習機会の提供に努めている。

 (エ)婦人学級の開設

 婦人会では婦人学級を開催して会員の教養増進や意識啓発に取り組んだ。その具体例として、昭和31年度における西宇和郡保内町(現八幡浜市)の喜須来(きすき)婦人会と伊方町の町見(まちみ)婦人会の婦人学級の実施計画をまとめたのが、図表3-1-6である(⑦)。新生活運動に関する内容のほか、政治や宗教、教育など幅広い分野を学習できるよう講座が設定されている。喜須来・町見ともに年間16回の学級を計画している。町見婦人会では、毎回出席者を調査して、1か年無欠席者に対しては卒業式において賞品を授与することとしていた。
 また、同じ昭和31年度に西宇和郡三瓶(みかめ)町(現西予市)の三島(みしま)婦人会で設定された婦人学級計画では、分科会活動が特色としてあげられる。分科会は、『家の光(1925年に創刊された農業関係の月刊誌)』読書会・生花・衣服設計・食生活研究の4部門に分かれて、年10回活動している。残り14回は講演会や講習会などの学習会で、栄養、衛生、受胎調節、園芸や家畜など、婦人の教養や生活、産業面での知識修得が内容となっている(⑦)。
 伊予(いよ)郡双海(ふたみ)町(現伊予市)では、昭和31年度婦人学級で栄養講座を開催している。子守(こもり)、炊事(すいじ)などは大人の仕事の中に入らないという考え方(食生活の重要さに対する認識不足)を是正するため、食生活の改善に取り組んだ。カルシウムの摂取が不足しているので、「山羊(やぎ)を飼育して乳を毎日料理に使うのが上灘では最善の方法である」など地域の実態に合わせた講話が行われている。この講話は全員受講、実習は上灘(かみなだ)地区婦人会の17支部からそれぞれ3名の代表者が受講し、それを支部へ持ち帰って支部全員に伝達することにした(「双海町報」第14号)。この組織的な活動が評価され、昭和33年度には文部省から「食生活改善」をテーマに研究指定をうけている。そこで昭和33年(1958年)9月から1月にかけて、毎月2日間(毎回朝9時から夕方4時半まで)の新生活学校が開設された。第3回目の10月2日には久松定武知事が特別講師として講演している(⑯)(「双海町報」第34・36・37号)。
 昭和34年(1959年)、愛媛県連合婦人会の機関紙「えひめの婦人」第20号に、西宇和郡瀬戸(せと)町三机(みつくえ)(現伊方町)の婦人会長は、「僻地の婦人学級にことよせて」と題して寄稿し、次のように述べている。
 「就任以来各地区の婦人学級に廻(めぐ)らせていただきましたが、皆さんこの不便な土地にいて少しでも学び取ろうとされる強い意欲のあるのを本当にうれしく思いました。婦人学級は地区地区に適したものを色々の形でやっておられます。私の住む三机地区もはじめて見ました。毎週金曜日に開きますが会員の熱心さに私も共に負けてはならないと励まされています。メートル法実施に伴い無知な会員はこれの勉強に励んでおります。また先生達も子どもたちの教育がありますのに私共の願いを心よく受入れて下さるのには、深い感謝を捧げております。こうして僻地(へきち)の婦人達が新しい世の中の動きにまけぬよう勉強していられる姿はまことに尊いものがあります。あせらずゆっくりと無理のいかぬ婦人学級の姿にしたいものと念願しております。」

 (オ)リレー日記で心をつなぐ

 東宇和郡城川町(現西予市)では、リレー日記で婦人会の会員相互の理解を深めている(⑰)。昭和35年(1960年)の広報「しろかわ」第46号によれば、「私たちは、平常は随分おしゃべりしたり、膏薬(こうやく)を売ったりしている(仕事を怠けて無駄話をする)のに、いざ会合となると、みんな黙ってしまって意見が出にくい、これではみんながどんなことを考えているのか分からない。口でいえないことも書いてみれば出るのではあるまいか。みんなの考えがわかれば、心と心のつながりができて、しっかりした婦人同志の話し合いもできるのではないか」ということで始まったという。
 城川町男河内(おんがわち)と泉川(いずみかわ)の女性の日記から、当時の女性の思いを紹介しよう。

   「今ごろは時代が進み、青年学級、婦人学級などいろいろと活発な動きをみせております。大変よいことだと思います
  が、私達農家の婦人にとっては1時間のひまもない位いそがしく、度々(たびたび)出るということは無理ではないかと思
  います。自分が困るので、他人も困るのではないだろうかと考えるのです。今の婦人会は前とは大分おもむきがかわって、
  次第に出ることが多くなってきました。出る時には家の人に相談しなければならない、仕事の都合もあり、度々(たびたび)
  でると家の者が喜ばない。だから今度の会はとてもためになる事だから行きたいと思っても、『いけない』と言われたら行
  くことができない、本当に、男の人がもう少し考えてくれれば行けるのにと思います。私のもっていきようが悪いのかもし
  れませんが、どうにもしようがありません。」

   「新生活学校で『お茶碗(ちゃわん)やお皿(さら)など、よいものは使わずに始末しておいて、自分らはカケたお茶碗
  を使ったりする。変わったお料理を作ったら、目先を変えて、きれいな食器に盛りつけ、家族の気分をかえてみる工夫
  も必要。』という話を聞き、自分の家のことをいわれたようで恥ずかしく思い、笑いころげたものでした。
   その後私は家族みんなに、それぞれ模様もちがった新しいお茶碗(ちゃわん)を買って来て、お夕食の時ご飯をもってやる
  と、子どもたちの喜びは大変なもの、『これは私の。』『これは僕の。』とうれしそう、これを見て私は『まあよかった、
  たまに新しいのとかえてやるのもよいものだ。』とつくづく感じました。夜おそく帰ってきた主人も、新しい茶碗(ちゃわ
  ん)がよかったのか、『まあ、お前もこんなこと知っとったのか。』と笑いました。
   私は先生の話を聞いたからとはいわなかったのですが、いくら年をとっても勉強するということはよいことだと身にしみ
  て感じました。こんなことも新生活学校に行かなかったら思いつかなかったことでしょう。」

 (カ)婦人会数え歌

 西宇和郡保内町(現八幡浜市)磯崎(いさき)の磯崎婦人会では、昭和30年代前半期に「磯﨑婦人会数へ歌」が歌われていた(⑦)(図表3-1-7参照)。数え歌のメロディに合わせた替え歌ではあるが、婦人たちの生活改善や家庭生活に対する思いが伝わってくる。磯崎地区の**さん(大正13年生まれ)、**さん(昭和13年生まれ)、**さん(昭和23年生まれ)、**さん(昭和29年生まれ)に数え歌のメロディを教えていただいた。この数え歌は、かつて、磯崎婦人会の総会で歌われていたそうである。

 イ 郡市連合婦人会と県の連携

 郡市連合婦人会は、地域婦人会の上部組織であって、郡あるいは市ごとに設けられ、県連合婦人会の下部組織としての性格をもっている。郡市連の主なメンバーは地域婦人会の会長で、年間7回会長会が開催されて郡連や県の行事や事業を話し合う。郡市連の行事としては、指導者研修会、郡の関係団体との連絡協議会、研究会などである。
 郡市連主催の指導者研修会は、どのようなものだろうか。昭和30年(1955年)7月25日に開催された西宇和郡連合婦人会指導者研修会では、午前中講演が2本(「婦人会運営について」、「新生活運動の方向」)、昼食・レクリェーションの後、午後から討議「運営上の諸問題について」を1時間半、次いで全体討議を1時間程度行って午後4時に終了するという日程で行われ、約240人が参加している(⑦)。
 この研修会では、「売春防止法」の問題が議論に上がったらしい。講師の新山すみ子(愛媛県教育委員会社会教育課)から研修会を運営した西宇和郡連合婦人会の副会長にあてて、8月5日付けで次のような礼状が届いている(⑦)。

  「先日の売春禁止法の問題に関する資料をあつめお送り致しますが、各村に御配布戴き御参考にして下さい。松山市の婦人
 研修会、今治市の婦人研修会でもこの問題が取上げられて、盛んに論じられましたが、問題なくこの禁止法が可決されていま
 したら、婦人の間でこんなに問題にされなかったかもしれません。通らなかったということは誠に残念でございますが、通ら
 なかったことによって全国の婦人がひとりでも多くこのことを認識し、このことに対する反対運動が、今度のように婦人国会
 議員や婦人団体の指導者のみの叫びでなく、婦人ひとりひとりからの反対運動としてもり上り、この禁止法を通過せねばなら
 ないようなことになるのではないでしようか。このように考えれば、今度は通らなかったが次の機会には通すぞという運動
 が、本当の底力のある運動として起ってくると思います。」

 売春防止法は、昭和22年(1947年)以来6回も国会に提出されたが、売春業者の反対運動や議員のサボタージュによりなかなか成立しなかった。昭和28年(1953年)、前国会で流案となった売春処罰法案に再び日を当てようと、衆参両院女性議員が超党派で取り上げた。しかし政府案がなかなかまとまらないため、29年(1954年)5月に議員立法として衆議院に提出されたが、会期末であったため継続審議とされた。30年(1955年)6月にも議員立法として売春等処罰法案が衆議院に提出されたが、否決された。新山の手紙は、この衆議院での否決のことを指している。その後も婦人団体を中心に同法制定促進の運動を続けられ、翌昭和31年(1956年)5月にようやく売春防止法は成立する(⑱)。
 新山の礼状は次のように続いている。

  「運動というものはすべてこのような形にならなければ、本当の実績が上がる運動にならないと思います。新生活運動にし
 ても同じことで、ただ掛け声ばかりではなく、婦人ひとりひとりに徹底することからはじめなければ、身についたものになら
 ないでしょう。
  偉そうなこと申上げましたが、私達の一足一足の生活が明日の歴史を造るのだと思う時、そこに生き甲斐(がい)のある生活
 ができるのだと考え、つらいことも、楽しいことも皆(みな)でわかち合って行きたいものだと考えるものですから、つい、口
 幅(くちはば)ったいことを申し上げました。」

 このように愛媛県教育委員会社会教育課の新山は、西宇和郡連合婦人会副会長に対して新生活運動の進め方についてアドバイスしているが、「私達の一足一足の生活が明日の歴史を造るのだ」という新山の言葉は、共に時代と地域を切り拓(ひら)いていこうという、強い意気込みを感じさせる。

 ウ 婦人会活動とともに 
 
 (ア)瀬戸町三机での婦人会活動

 西宇和郡伊方町三机(みつくえ)の**さん(昭和4年生まれ)から、瀬戸(せと)町婦人会での活動の様子を伺った。
 「私は昭和25年(1950年)に結婚し、婦人会に入りました。年間行事としては、料理教室などの文化行事、体育行事などをしていました。婦人会と村の区長さんとで相談して、和霊様やお地蔵様の縁日には婦人会が踊りをしたり、敬老会でお年寄りの前で踊ったりしました。ハワイアンを踊ったのも楽しい思い出です。敬老会は9月の敬老の日に公民館であり、食事の準備も婦人会がしていました。敬老会では、4区(西(にし)・上(うえ)・東(ひがし)・三田(さんだ))に分かれてステージで劇や踊りなどを披露します。地区ごとに練習して発表していました。踊りの練習は役員さんの家で行うことが多かったです。毎晩毎晩、練習しました。
 10月14、15日の祭りの時に、仮装行列が行われた年がありました。4区がそれぞれハッスルして競争で出し物を演じておりました。弥次喜多とか、清水次郎長とかをしました。今でも楽しい思い出です。子どもらも一緒に区をあげて行っていました。11月3日の農業祭では、三机中学校でうどんを作ってバザーをしました。事前の設営や材料準備など、夜を徹して準備していました。和霊様の祭りの日には相撲大会があり、青年が相撲を取りましたが、ご飯炊きは婦人会がしました。運動会をはじめ地域のさまざまな行事に婦人会がかかわっていました。
 婦人学級では講師を呼んで子育てなどのお話を聞くことが多かったように思います。調理実習はよくしていました。今は栄養士さんを中心にしていますが、昔は旅館の奥さんなど、年配の人を中心にしていました。お寿司の作り方など、年配の方が詳しいので習っておりました。魚料理は自然と覚えるので習ったりはしませんでした。三机は公民館に調理室があったので、キッチンカーは来ていないように思います。婦人会員の自宅でも料理教室をしました。
 お花(生け花)もしました。最初は町民センターで先生を呼んでしていましたが、センターが遠いため参加者が減ってきましたので、参加者の家に近い私の家でするようにしました。お花が足りなくならないよう、山へ行って花を集めたりもしました。
 私が39歳の時、主人が亡くなったので、私は婦人会と母子会の両方の活動に参加していました。行事が両方あるのでとても忙しかったです。農協婦人部は、三机では婦人会とは一緒に活動していませんでした。昔は家を守るのが女の仕事でした。山に松葉を拾いにいったり、薪を集めたりするのも女性の仕事でした。山仕事をしながら子育てをして、婦人会などの地域活動をしていました。
 婦人会長になるのは、学校の先生を経験した人が多かったです。みんなで投票して会長を決めておりました。会長は仕事が多いので家庭の理解がないと務まりませんでした。お金もないといけませんし、暇もなければいけません。松山へ会合に行くのにも、会からいくぶん旅費は出ますが、持ち出しもありました。
 当時、婦人会はすごい勢力でしたから、松山で婦人会の会合がある時には、大勢の人が参加しました。三机からは、まず塩成(しおなし)に歩いて行き、そこで八幡丸(やわたまる)に乗って八幡浜まで出て、八幡浜駅から汽車に乗っていきました。八幡浜では人が多くて汽車に座れないありさまでした。宇和島から、宇和から大勢の人が乗っているのです。普通は日帰りで帰っていましたが、時には道後のホテルに泊まることもありました。
 婦人会には会服がありました。夏用・冬用がありました。婦人会の行事はもちろん、地域の行事や小学校のPTAの参観日にも会服を着ていました。どこへ行くのも会服で済みましたから、気が楽でした。」

 (イ)伊方町町見での婦人会活動

 伊方町九町在住の**さん(大正15年生まれ)から、町見婦人会の活動の様子を伺った。
 「私は昭和45年(1970年)ごろに婦人会の副会長として活動をしていました。私たちの地域では、婦人会と農協婦人部は一緒に活動しており、婦人会副会長が農協婦人部長を担当するようになっています。
 6月に『レクリェーション講習会』を地域婦人会の活動として行っていました。これは盆踊りの講習会で、現在も継続されています。本部の民謡の先生が盆踊りの踊り方を講習に来られるのです。
 7月の『家具展示会』は、農協婦人部の活動です。家具を婦人会役員が販売して、そのリベートを会の運営にあてていました。衣料品展示会、調味料や石鹸(せっけん)、ラーメンなどの全戸配布販売、洗剤や駆除剤などの生活資材とりまとめ、あるいは綿入れ講習会などの活動が主でした。物品販売が多かったように思います。私は世話役でしたので、展示会の時には浴衣や毛布、食料品など、会場に品物を並べ注文をとって、品物が来れば配って歩きました。また貯金をお願いしたこともありました。農協の慰安旅行は、例年ですと県内(松山一泊)なのですが、販売量が多かった年には宮崎県へ連れて行ってもらいました。そのようにして婦人会が生活品の販売活動をしていましたが、地元にお店ができ、モノが購入しやすくなってくると、このような活動は少なくなりました。
 婦人会では養老院慰問の活動もしていました。夏に保内町川之石にあった養老院(今は磯崎に移転)へ、おむつを縫う奉仕に役員が行きました。
 9月には町民運動会がありました。当時は二見(ふたみ)中学校でありました。その時の出し物の準備のため、毎日のように活動し、月に3日ほどしか休まなかったように記憶しています。夜ごとに、仮装行列はこうしようとか相談したり、小学校で夜、踊りの練習をしたりしました。
 婦人学級は二見中学校の家庭科室で行いました。また、公民館の調理室にみんなに集まってもらい、料理教室をしました。野菜を持ち寄ったり、栄養に関する学習をしたりしました。割烹着(かっぽうぎ)に三角巾(さんかくきん)をつけて、新しい献立や調理法を習っていました。前もって『こういう料理をします。』と連絡があると、材料は八百屋さんで買っておき、当日使いました。そのうち調理したものを独居老人の方に配るようになりました。婦人学級ではこのほか、講話、人工呼吸の練習やマッサージの仕方などを学ぶこともありました。学級の歌も作った記憶があります。
 当時は地域のみんなが会員で、熱心に出てきて学習していました。その後、私が婦人会長をしていた時は、原発の問題で町が真っ二つに割れて大変な時期でしたが、皆さんに理解していただいて、なんとか乗り切ることができました。」

図表3-1-3 愛媛県内の婦人会会員数の推移

図表3-1-3 愛媛県内の婦人会会員数の推移

愛媛県教育委員会『愛媛教育年鑑』各年判、松山商科大学『愛媛県長期社会経済統計』(1983年)から作成。

図表3-1-4 県内婦人団体の年間活動内容(都市的地域、昭和27年度)

図表3-1-4 県内婦人団体の年間活動内容(都市的地域、昭和27年度)

愛媛県連合婦人会所蔵「昭和二十八年度 県連合婦人会綴」資料から作成。都市的地域とは、市部の市街地域と考えられる。

図表3-1-5 地域婦人会の月別行事(昭和31年度)

図表3-1-5 地域婦人会の月別行事(昭和31年度)

西宇和郡伊方町町見郷土館所蔵文書から作成。このほか、役員会・会長会・支部長会などが行われているが、それらは除いている。

図表3-1-6 婦人学級の実施計画(昭和31年度)

図表3-1-6 婦人学級の実施計画(昭和31年度)

西宇和郡伊方町町見郷土館所蔵文書から作成。

図表3-1-7 磯﨑婦人会数へ歌

図表3-1-7 磯﨑婦人会数へ歌

調査協力者からの聞き取り調査により作成。