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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

□三瓶町下泊の農業の移り変わり(浜田 類治)

 ただいま御紹介をいただきました浜田でございます。
 本日は、「海道文化と三瓶のくらし」というテーマですので、それに沿って、自分の体験や資料、また、古老の方々から聞いた話などを、お話してみたいと思います。
 漁業と申しましても、これはなかなか広範囲なものですが、私はその中で網の変遷を取り上げてみたいと思います。
 御承知のように、明治の初年に、村とか浦の制度が改革されるわけでして、網とか漁獲は、船改め所という役所の管轄になるそうです。船改め所は、当時は八幡浜に置かれていたそうですが、これが明治7年(1874年)から、各地区の区長、戸長という人たちが、その仕事を受け継いだというふうに記されております。
 当時は、網は、一網一網代(あじろ)という、もっぱらこれは地引き網の話ですが、そういうふうな慣例があったそうです。地引き網にとっては、この網代(網漁業を行う漁場)というものがいかに重要なものかということは御承知だろうと思いますが、それだけに、その網代を巡って、いろいろな争いも生じております。たとえば、皆江(みなえ)と下泊(しもどまり)の間に、堂(どう)の后(うしろ)というところがありますが、そこが藩政時代から、盛んに紛争の場所となって、境界争いが起こったそうです。
 藩政時代には、御承知と思いますが、下泊は宇和島藩、そして、皆江は吉田藩。したがって、どうしても本藩の宇和島藩の威力が強く、皆江の漁民たちは泣き寝入りをしておりましたが、明治になって、ついに当時の神山(かみやま)県の方へ提訴するわけです。そこで神山県から、係官が派遣されて、双方の代表者、そして庄屋、当時の庄屋は下泊は二宮さん、皆江は菊地さんでしたが、この庄屋の方々も交えて、線引きができるわけです。ところが、このあとも、裁定が下り、請け書も出してというような段取りになってからでも、何回となく争いが起こったようです。明治19年(1886年)に、これが再燃するというようなことが記されております。
 江戸時代には、下泊に網の数が六つ、皆江が三つというような数だったそうですが、これが明治になって逆転いたします。皆江の網の数が六つ。下泊が三つというようになってくるのです。皆江の網代の数が、下泊とではかれこれ倍半分の差があります。下泊は11か所、皆江が6か所です。それが網の数が逆転したものですから、皆江から始終いちゃもんがつくんだというようなことを、当時の下泊の人が言っていたそうです。
 ちなみに、三瓶町内の網代の数を申しますと、北は周木(しゅき)の池之浦から、南は下泊の荒田、明浜町の境になります荒田まで、54カ所の網代が設定されていたそうです。
 地引き網の構造は、魚が入る袋があって、それから袖の部分にシュロの網の少し目の荒いの。それから大引(おおびき)という小指大の荒縄でつくって、30cm角ぐらいだったと思いますが、そういうふうなものがつけられて、その先に大綱、手綱というふうなものが、100mからついていたわけです。それを2隻の船で総がかりで引っ張るので、とても労力を要しました。網の引き子さんも15、6名からの人数が必要だったように思います。この漁法で取る魚は、魚種はもっぱらカタクチイワシです。俗に言う、ホウタレです。それがずっと明治、大正から昭和の初期まで続いていたように思います。昭和の初期には、自分たちも手伝いをしたことを覚えております。
 やがて、これに代わって出てくるのが、四つ張り網でございます。四つ張り網の歴史はまた古く、書物などを見ると、嘉永(かえい)年間(1848~54年)に、網元の笹田という庄屋さんが、西中忠兵衛という人を、高知のほうへ派遣して(高知がどうも先進地だったそうですが、)、そこで漁法を習得させておりまして、それによって伝えられたというふうに言われています。
 四つ張り網漁が、その後長い長い間、三瓶の漁業に大きな貢献をし、漁獲を上げてまいりました。この漁法は、もっぱら夜間操業でして、沖へ出ていって、明かりをつけて魚を集めて、網を引き上げるというふうな方法です。イワシの刺し網という漁も盛んに行われていたようです。
 四つ張り網は、地引き網とは違って、全部が綿糸の網でした。明かりとしては、最初はたいまつが使用されていたようですが、それが石油灯に代わり、さらにアセチレン灯と言いまして、御承知のようにカーバイトを燃やすものですが、あれに代わる。そして戦後になって、バッテリー使用になります。
 バッテリーは、初めのころは、毎日充電をしないといけないという不便さがありましたが、だんだんと改良されてゆきました。戦後になって、漁具の発達、船の大型化、さらに動力が全部の船に取り付けられるようになり、それで行動範囲が広くなるというような形で、目ざましい発達を遂げるわけです。
 漁法、漁船、漁具などの発達につれて、漁獲もいきおい増大していきました。実際、三瓶では、昭和26年(1951年)ころに、27統の四つ手網があったそうです。それらの船が、それぞれ、いい漁場を求めて先を争って出漁するというので、三瓶の港は出漁の時には壮観そのものだったというようなことも記されております。
 四つ張り網がそういうような好成績を収めるのですが、やがて漁網のほうも、綿糸から、今度は化学繊維のナイロンに変わってきます。ナイロン網は軽くて、水分を含まない。しかも、耐久性に富んでいるというので、乗り子や、引き子たちは、労力面で大いに助かったことと思います。
 綿糸の網を使っていたころは、漁から帰ってきたら、必ず浜へ干す。そして、干したら2、3回、網さがしをやるというようなことでした。網染めなどにも、網の親方たちは、いろいろと苦労をされていたようですが、大正元年(1912年)に大谷化学薬品ですか、大谷式というのが出回ってきて、だいぶ網が長持ちするようなことになったということも聞いております。
 いずれにしましても、昭和27、8年から30年ころになってきますと、船はもちろん大型化しますし、漁場も、最初のころは、瀬戸町の川之浜沖から、東宇和郡の田之浜沖を結ぶ線だったらしいんですが、その後どんどん広げられて、佐田岬から、北宇和郡の嘉島(かしま)を結ぶ線まで拡大され、それにつれて、漁獲もどんどん増大していくというようなことで、三瓶の町としても、相当に潤ったことと思います。
 ところが、それが昭和39年(1964年)をピークにして、今度はだんだん漁獲が減ってまいります。そして、そのころから巻網(まきあみ)がさかんになるわけです。四つ張り網のほうは、だいたい昭和40年をピークにして次第に姿を消すというようなことになるのですが、そのころ、四つ張り網の網元さんは、巻網に切り換えた人が大部分であったそうで、このときに、切り替えをしなかった人はもう廃業したということのようです。巻網も全盛期には、だいたい大中小を合わせて12統から13統ぐらいもあったようですが、やがて、だんだん漁獲がふるわなくなり、次第に減っていきました。
 今は御承知のように、大型巻網船。これはもちろん漁場も違いますが、これが、3統と、聞くところによりますと、小型の巻網が4統いるという話です。
 昔の地引き網は、入ってくる魚を待っていて漁をするというような、現在では考えられないほどのんきな漁法だったのですが、だんだん漁具、設備が発達するにつれて、沖へ沖へと、魚を追いかけていくというような漁法に変わっていきまして、資源の枯渇につながったのではなかろうか、そういうことも考える次第でございます。
 このような取る漁業に代わるものとしまして、養殖が、昭和30年ころから始まるのですが、昭和35年に香川県の蔭間(かげま)真珠さんが来て、この三瓶湾で事業を始める。また、31年に三重県の御木本(みきもと)さんがきて、仕事を始めるというふうなことになっております。
 以上、時間がまいりましたので、一応このあたりで私の話を終わらせていただきます。