データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 陶石を掘る
中山町佐礼谷(されだに)の安別当(あべっと)地区に住むAさん(昭和5年生まれ)は、かつて、陶磁器の原料となる陶石採取を生業としていた。Aさんから、陶石採取の仕事について話を聞いた。
(1)陶石の採掘
「安別当で陶石の仕事を始めたのは、父が陶石採掘の仕事をしていたので、その後に続いて仕事をするようになったからです(写真1-1-1参照)。昭和25年(1950年)から昭和35年(1960年)ころまで働きました。農業と兼業で行っていましたが、農業の方が副業でした。現在、山は、私と伊予陶磁器協同組合で共有しています。伊予陶磁器協同組合は砥部(とべ)町の大南(おおみなみ)にあります。陶石というものは10年か20年すると、いつかは必ずなくなるものなので、伊予陶磁器協同組合は、なくなったときのために、質の悪い陶石でも、技術の進歩で原料として再度使用できるとの考えで、権利を半分取得したそうです。以前は、三重県四日市(よっかいち)の人が持っていました。鉱石は鉱区(こうく)設定(鉱物を採取できる土地の区域)ができますが、陶石は鉱区がないので設定ができません。高松(たかまつ)にある四国通産局で調べたら、『陶石には鉱区がありません。』と言われました。
陶石は他の鉱石に比べ柔らかく、ダイナマイトでは陶石をうまく砕(くだ)くことができないので、黒色(こくしょく)火薬(かやく)を使用します。まず黒色火薬をつめる穴を開けるのですが、『チクサ』と『セット』を使用します。チクサは、全体が1mぐらいの鉄の棒で、6分(ぶ)(約18mm)から4分(約12mm)の直径があり、先の方が全体的に丸く膨(ふく)らんで、先端がマイナスドライバーのようになっている道具です。セットは金槌(かなづち)で、20cmから30cmの長さがあり、普通の金槌より金の部分が長く、先端に向かって細くなり丸くなっています。両端とも使用できるようになっています。
陶石が埋まっている場所に、チクサを回しながら、セットで叩いて丸い穴をあけ、黒色火薬をつめて爆破します。チクサは、うまく回しながら使用しないと、岩に埋まってしまい、穴があけられなくなります。セットは重く操作するのが大変ですが、熟練(じゅくれん)の者になると、くるっとセットを回し、両方の先端を使用してリズムよく打つ者もいました。チクサの端をうまくセットで叩かないとチクサが割れてしまうので、叩(たた)くのにも技術が必要でした。いい陶石は白色で、鉄分が多く含まれると茶色になり、質が悪くなります。
爆破によって陶石がある場所に亀裂(きれつ)が入ると、そこに『ツルハシ』や『スカシ』と呼ばれる鉄の棒を突き刺し、崩していきます。ツルハシは、先端が丸くなるのが早いので、先端の部分だけを取り替えることができるようなものもありました。スカシは50cmから60cmの鉄の棒で、先を鋭利に尖(とが)らせたものです。長い間使用して長さが短くなったチクサを、スカシとして使用したりしていました。
道具は、一日使用していると先端が丸くなってしまいますので、作業する日の朝、自分で先端を熱し、叩いて鋭利にして使用します。
陶石の出る地層を崩して採取した陶石を、トロッコに乗せて運びます。トロッコは、鉄車輪のついた木製の箱でした。およそ4俵(約240kg)ぐらい載せることができます。坑道の中は、ジョウレンとトロッコを使いました。モッコ(藁(わら)で作った運搬具)は使用しませんでした。坑道より出された陶石は、その後、ワイヤー(索道(さくどう))で運搬していました。昔は、運搬に馬を使用していたと聞いたことがあります。
服装は、普通の作業着で行っていました。当時は、ヘルメットもマスクも付けてなかったのです。頭部を守るものは身に付けていませんでした。履物(はきもの)は、地下足袋(じかたび)でした。そのため、採掘作業のときに、足の上に石が落ちてきて、怪我(けが)をしたことがあります。特に岩の上部を叩くときには、注意が必要でした。
坑道は、天井や壁が柔らかいところには、マツの木で造った枠(わく)を坑道に設けて、崩れないように補強して作業をしていました。坑道の長さは、50mぐらいあったように思います。
作業員は全部で6、7名でした。私と同じ地区に住んでいる人たちの男3名、女3名ほどで、男の人が採掘と運び出しを、女の人が石の選鉱(せんこう)をしていました。陶石以外の不純物が多くついていると、女の人がそこを叩いて削っていく作業をしていました。選鉱していらなくなった石くずを『ズレ』と言いました。給料は、月末の現金払いでした。
陶石を『ちゃわん石』とも呼んでいました。陶石は、陶磁器や耐火煉瓦(れんが)の原材料になっていました。出荷するときの石の大きさは、大きいものもあれば小さいものもありばらばらでした。一番の出荷先は、岐阜県の瑞浪(みずなみ)市にある工場で、陶磁器の原材料に使われ、洋食皿になってほとんどをヨーロッパに輸出していると聞いていました。安別当(あべっと)の陶石は、熱には強いが、ひずみが出る性質みたいで、皿にした場合に反(そ)り返ったり、いがんだり(ゆがむこと)するように聞いています。
休日は特にはなかったです。雨が降っても穴の中なので問題もなかったのです。副業の農業と兼業でしていたのですが、農業の方は待ってくれないので、5月、6月の田植え時期が忙しかったです。農繁期(のうはんき)と、陶石の出荷を間に合わすのが重(かさ)なるとしんどかったです。貨車の予約をしてあるので、予約の日までに、貨車1杯分の陶石を送らないと採算が悪くなるので大変でした。
陶石採取の作業は、朝8時から夕方5時くらいまでの勤務でした。休み時間は決めてはないのですが、2時間ぐらいやっては、30分ほど休んだりしていました。秋が深まってくるとシバ栗が落ちるので、お昼に拾ってきてそれを茹(ゆ)でて食べたりしたら、2時間ぐらい経(た)っていたこともありました。お昼は、坑道の外の小屋で食べたりしました。休憩(きゅうけい)も同様です。」
(2)陶石の出荷
「安別当(あべっと)の陶石は、当初、自分たちで掘って天秤棒で担(にな)って郡中(ぐんちゅう)まで3里(約12km)歩いて運んでいたように聞いています。それが一人役(いちにんやく)で、結構高値だったと聞いたことがあります。池貫(いけかん)(池田貫兵衛氏経営の伊豫陶器株式会社)か東亜(とうあ)(東亜製陶所)に持って行ったのではないかと思います。
私の時代には、国鉄(現JR)の伊予市駅から汽車の貨車で岐阜へ出荷していました。駅までは5t積みの4輪トラックで運んでいました。1か月に10t貨車で2車ほど予約して送っていました。
砥部(とべ)には、1か月に3tから5tほど、愛媛碍子(がいし)株式会社や伊豫陶器協同組合へ送っていました。碍子は、電線と電柱とを絶縁(ぜつえん)するために用いる器具で、陶石を素材としています。『安別当の陶石は鉄分を含んだものが多いので、電気が走って碍子が割れる。』と言われたことがあります。
また、耐火煉瓦(れんが)用に、伊予市の池貫工場(伊豫陶器)に送っていました。送った陶石は、品質のよくないものでもよかったのを憶(おぼ)えています。詳しくは分かりませんが、原材料の土を増やすために使用していたと思います。陶磁器を製造する場合、1か所の原料だけでは製造しません。山口県や備前(びぜん)の焼き物は、そこで取れる原材料だけで製品を造っていると思いますが、一般の陶磁器は、色々な場所の原材料を混ぜて製造しています。岐阜県の瑞浪(みずなみ)市の工場に行って見た時には、地元の原料のほか、熊本(くまもと)県の天草(あまくさ)から石積みに使用するぐらい大きい陶石が来ていました。その陶石は、自分の判断では、鉄分を多く含んだ茶色の鉱石がぐるりと原料全体を覆っているように見えました。割って中を見ると白かったです。実際にはその茶色の部分は鉄分でないようで、焼くと白くなるように聞きました。
岐阜県の瑞浪市には、3年に1度くらいの頻度(ひんど)で行っていました。宇高(うこう)連絡船に乗り、岡山で乗り換えて国鉄の夜行列車で行きました。
戦前、父が経営していたころには、日本硬質陶器の工場が釜山(ぷさん)にあり、そこに原料が送られていて、郡中港から船で出荷していたと思います。その関係で朝鮮半島の人がきていました。『中山町誌』には、30、40人来ていたように書いているのですが、そんなには来てなかったように思います。その人数であれば、それなりの居住スペースが必要ですが、そんなスペースはなかったと思います。私の家にも5、6人はいたのですが、ご近所の柚谷さん方の隠居(いんきょ)にもいたそうです。私の家の下にあった6畳2間の建物におりましたから、そこに何十人もは泊まれないと思います。私が小学生の時によく遊んでもらったので、来ていたのは間違いないと思いますが。」
(3)採掘をやめたあと
「昭和27年(1952年)から昭和32、33年(1957、1958年)ぐらいまでは、景気がよかったです。昭和34年(1959年)ぐらいから悪くなりました。陶石が採れなくなってきたのが原因です。50cm幅であった原料が、15cmほどになっては、同じ動力をつぎ込んでも捨てる部分の方が多くなり、採算が悪くなったので昭和35年(1960年)にやめました。陶石の地層は、ずっと続いているのではなく、ポツポツ飛んでいるので、その場所で採れなくなったら終わりになります(写真1-1-3参照)。
陶石採取をやめてからは、野菜を中心に農業をしていました。ホウレン草が中心で、ニンジンなどを生産していました。安別当(あべっと)野菜組合で、1日で4t車で2車ぐらい出荷していました。安別当全体で40戸ぐらいあったのですが、安別当野菜組合には、34、35戸加入していまして、組合収入が7,000万から8,000万円くらいありました。松山中央青果ができた時に野菜組合ができました。そのため、生活に困ることはなかったです。その当時は、盆踊りも盛大に行っていました。薬師(やくし)寺で行い、上灘(かみなだ)や伊予市の方からも人が来ていました。花火も上げていました。」
(4)採石場跡を訪ねて
「このあたりの地名は、ザイモクという字(あざ)になっていると思います。昔からザイモク、ザイモクと言っていました。久しぶりに来ました。用がないから最近は来ていませんでした。ここで何人も働いていました。うちの地区の人たちは、寺野(てらの)鉱山に行くか、ここの石山(採石場)に来るしか、他に日銭を稼ぐ仕事はなかったのです。
この辺りが、陶石を採っていた場所です。採っていた場所は、下にもあります。同じ地層の筋に陶石があります。まだ奥にもありますし、並んであった所もあります。
採石のため、坑口のすぐ横に小屋を建てて、選鉱(せんこう)などの作業をしていました。この坑口周辺の山に、陶石が多くあり、坑口が7か所ありました。陶石が集まっている所はここら辺だけで、他の場所にはなかったです。
坑口の直径は、人間が立って頭がつかえないぐらいでした。2mぐらいです。坑道のちいとじゃくい(少し軟弱な)所は坑木を入れていました。坑木を入れてもかがむ(背を曲げる)必要はなかったです。今は、全部崩して危なくないようにしています。坑道は、全部が繋(つな)がっているわけではなく、飛び飛びで坑口があり、それぞれ陶石の採石場になっていました。坑道は長さ30mぐらいありました。坑道に入ると、陶石が幅4mぐらいありましたが、硫化(りゅうか)鉄鉱(てっこう)が混ざっていました。硫化が混ざっていると褐色になり、陶石の製品としては質が低くなりました。
坑口の近くには、昔は田んぼがあり、採石して選鉱したときに採れたくず石を捨てていました(写真1-1-4参照)。陶石は、白いとこだけを採るので、選鉱して赤いところは削って捨てなければいけません。赤い部分がくず石として捨ててあるのです。ここは谷田(谷間にある田)だったのですが、私の父がしていた時代にくず石を捨てて、谷が埋まった所です。くず石で谷が埋まるぐらい、陶石の量があったのだと思います。売買は目方でして、1t何ぼ(いくら)と言っていました。1tが5万円ぐらいでした。
私が経営している時は、ダイナマイトを使ってないですが、私が子どものころ、父が経営していたころは、たぶんダイナマイトを使用していたと思います。ダイナマイトは、寺野(てらの)鉱山で保管していました。毎日取りに行っては、使っていました。危険物なので保管が厳重(げんじゅう)じゃないといけなかったからです。『火薬』と書いてある木の箱をランドセルみたいに担(かつ)いで坑道に入っているのを見た記憶があります。黒色(こくしょく)火薬(かやく)でしたら、自分の所で保管できたのです。
昭和10年(1935年)から12年(1937年)ころ、雇っている人を日傭人(ひようにん)と呼んで、女の人で日給35銭から40銭ぐらいで仕事をしてもらいました。男の日傭人の場合は、石垣を積む仕事は70銭ぐらいでしたが、普通は55銭から60銭が一般的でした。
ある時期、山の尾根より向こう側の所で、1日に2人で掘ると1tぐらい採掘できました。それは、何も混ざりけがない品質で、掘ったもの全部が真白で、選鉱もなんにもしなくてもよい陶石が採れました。それを運び出すには、下に坑道を抜いて、坑道からトロッコで運んでから、ワイヤー(索道(さくどう))で降ろしました。陶石は、大きくても小さくても何でも、白かったらよかったです。硫化鉄鉱が混ざりだしたら、いかん(よくない)かったです。
採取した陶石を降ろすために索道を架(か)けていました。ある程度陶石がたまったら索道で下ろしました。私の家の前に谷があるのですが、そこまで索道で降ろせるようにしていました。索道ができるまでは馬で運んでいました。索道の根付けは、坑口から中へ入れて縛っていました。そうしたので、新たに木を立てたりしなくてよかったです。道幅の広い道が出来たのは、戦後間もなくのことでした。」
陶石採取は昭和35年(1960年)に終了し、その後、採石場は坑口がふさがれ、そのまま放置されていた。現在、その辺りは樹木が生い茂り、ここで陶石採取が行われていたことは、まったくわからない状況であった。案内役のAさん自身、久しぶりの探訪であったという。しかし、落ちている石片(せきへん)を拾って砕くと、白い陶石が現れる。それを見ながらAさんは、いきいきと当時の様子を話してくれた。
写真1-1-1 安別当の陶石 伊予市中山町。平成23年9月撮影 |
写真1-1-3 安別当の陶石採取場所 伊予市中山町。平成23年9月撮影 |
写真1-1-4 品質の悪い陶石の残片 伊予市中山町。平成23年9月撮影 |