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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 鉱石を掘る②

 カ 精錬とカナクロ石

 「カナクロ石(カナクソ石)とは、黄銅鉱(おうどうこう)を精錬(せいれん)して残ったカスの部分をいいます(写真1-1-7参照)。寺野(てらの)鉱山と佐礼谷(されだに)鉱山敷野抗(しきのこう)には精錬所があったように覚えています。平沢鉱山にもカナクロ石が落ちてあったので、かつては精錬所があったと思います。
 寺野鉱山の近くの養鶏場前の道路の上に精錬所がありました。そのとき使用された釜がまだ置いてあります。養鶏場へ上がる手前の左側にあります。
 寺野(てらの)鉱山のカナクロ石を砥部の人が採りに来ることがたまにありました。川に落ちているカナクロ石を採取していた人がいたので、もっとたくさん捨ててある『ズレ』を紹介したことがあります。寺野の養鶏場の下の辺りです。その場所は、トラック10台20台といわないぐらいの量があり、砥部の人もびっくりしていました。カナクロ石はコンクリートの材料として利用できるらしく、池を造るときに使用したり、川石の代わりに使用したりもしている場所もあるみたいです。カナクロ石はとても重たいです。」

 キ 鉱山の坑口跡を訪ねる

 「山口地区に栃(とち)ノ木(き)鉱山があります。現在も坑口はありますが、中は潰(つぶ)れていて入れない状態になっています。
 栃ノ木鉱山ではシロメが採掘できました。アンチモニー(アンチモン)のことをシロメと呼んでいました。シロメを採掘し続けると、最後には金山に当たると本で読んだことがあります。そのためには深く掘る必要があります。シロメはツララのようになっていて、ガスランプで焼くと周囲が溶けて取ることができます。マッチ箱の摩擦面がないときなど、シロメで擦っても火をおこせます。表面がぬれていても、布で軽く拭けば世話なく火がつきます。昔は、坑道に水が溜(た)まり、排水のために水を汲(く)んでいました。シロメの採掘には苦労しましたが、とてもきれいなものでした。昭和24、25年(1949、1950年)ごろ、1籠(かご)採掘できれば10人分の日当(にっとう)があるといわれていました。シロメが多く採れればよいのですが、両側の岩盤が固くて採掘が困難でした。シロメの層は、銅鉱(どうこう)があってもぶち切って続いているそうです。
 私(Bさん)の家のすぐ西側にも、銅鉱山であった宮本鉱山の坑口跡があります(写真1-1-8参照)。道路からも見えます。この坑口は家に近いので、戦争中は地区の防空壕(ごう)にしていました。坑口からの坑道の深さは、約50mです。今は、入ってすぐのところまで水に浸かっています。機械で掘っている坑口は、入り口が大きいですが、この坑口は全部手掘りで掘っていて入り口は小さいです。しかし、全部手掘りで行っているおかげで、天井が落ちてくる心配がないのです。ダイナマイトなどを使用している坑口は、周辺部まで衝撃が伝わっているので、崩れやすいです。」

(2) 中山の鉱山で働く

 ア 日南登鉱山で働く

 「私(Cさん)は農家に生まれ、専門学校を卒業して日南登(ひなと)鉱山(中山鉱山)に勤めました。昭和18年(1943年)10月ころから終戦までの間勤務しました。事業主は大阪の日進(にっしん)鉱業でした。主に鉱山の事務をしていました。事務は、給料計算や出欠を調べる仕事です。事務所には、10人ぐらい詰めていて、女性は2、3人でした。食事は持参していました。
 たまにカンテラを下げて坑道内に行くのですが、わりとみんな仕事をしないので、定期的に見回りに行くようになりました。大勢の鉱夫が集まって話しているときもあったので、見回りに行っては仕事をするように促(うなが)していました。従業員はたくさんいました。大洲(おおず)や立川(たつかわ)鉱山(新居浜市)など、遠方から来た渡(わた)り鉱夫もいました。
 娯楽といえば、相撲(すもう)を取るぐらいでしたので、相撲場がありました。相撲場の周りにぐるりと広い道が通っていたので、大勢の人が観覧することができました。
 戦時中には軍から徴用(ちょうよう)が来たりしていましたが、鉱山に勤務すると徴用が来ないので、私(Dさん)は日南登鉱山で勤務していました。家でふらふらしていたら、すぐ軍から『あそこに行け。』と徴用される時代でした。昭和16年(1941年)の5月ぐらいから昭和17年(1942年)2月ぐらいまで、日南登鉱山(中山鉱山)に勤務しました。日南登(ひなと)鉱山は、鉱石の品位が高く、もう少し良かったら、金鉱(きんこう)になるぐらいの鉱山でした。黄銅鉱(おうどうこう)という一番品位が高い鉱石が採取できていました。
 勤務は2交替制でした。朝の8時ぐらいから夕方の5時までと、次の勤務は、夕方の5時から翌朝の3時までしていました。朝の3時から8時までは、稼動していませんでした。夕方5時に中にいる人が、出るときに、発破(はっぱ)をかけるのです。時間になると『発破かけるぞー。』と言って、中にいる人が全部外に出てから、発破をかけるようにします。発破をかけると、その後少しの間中に入れませんので、30分ぐらいして、次の人が入るようにしていました。鉱夫は60人、選鉱夫は10人ぐらいいましたし、鍛冶屋(かじや)もいました。採掘にノミなどを使用していると先端が丸くなるので、それらの道具を尖(とが)らせるために鍛冶屋さんもいました。
 地表に『ヤケ』という、鉱床の露出部分が模様のように出ているのを、確認できる所があります(写真1-1-10参照)。そこを掘れば鉱石があるのはわかっていました。鉱石自体が地表に出ている場所もあります。『ヤケ』の具合によって、だいたい存在する鉱石がわかります。赤黒いのであれば銅鉱(どうこう)ですが、赤いのであれば硫化鉱(りゅうかこう)です。
 坑口に入る前には、山神(さんじん)さんにお祈りをして入ります。どこの鉱山にも事務所に山神さんを設置していました。山神さんの前には、常に鉱石を置いて祀(まつ)っていました。
 機械と手掘りと両方でした。削岩機があって、電気でやっていました。ところが、水に浸かったとか、なんだかんだと割合調子が悪いことが多いので、エアー式に切り替えて、コンプレッサー(空気圧縮器)の大きいのを据(す)えて、エアー式の削岩機で作業していました。削岩機が8台ぐらいありました。1台の削岩機に2人付いていまして、大将とその次の者でやっていました。削岩機にスタンドを立てて、それを操作して作業していました。
 ダイナマイトを使うときは、まずダイナマイトで爆破して、採れた鉱石をトロッコに積んで運び出し、辺りをきれいにして、またダイナマイトを仕掛けるという段取りを繰り返します。そのため、一つの坑口に7人から8人付いていました。穴を掘る人、発破をかけて落ちた鉱石をトロッコに乗せる人など、完全に分業ではなくお互いに手伝いながら作業していました。
 坑道の中は真っ暗ですので、カーバイトのランプを使っていました。炭鉱(たんこう)ではカーバイトの火で引火する危険がありますが、鉱山は火の気があっても問題ないですからカーバイトでした。坑道の高さは、高かったり低かったり色々ありましたが、トロッコを押す必要があるので、下は水平に近くしてないと効率が悪くなりました。
 採掘していて、黄銅鉱に行き当たると、山神さんにお供えしました。大きい鉱脈に当ったときは、お祝いがありました。掘り進めて行くと分かるのです。だんだん鉱石が多く取れるようになります。岩と岩の間に鉱脈があるのですが、それがある日突然大きくなるので、お祝いがあります。お昼から、『出たぞー。みんな一杯やれ。』となるのです。そうなると、その日はお酒を飲ませてくれ、半役(半日)ぐらいは休ませてくれます。酒の肴(さかな)は、だいたい竹輪(ちくわ)かテンプラ(魚のすり身を油であげたもの)でした。鉱夫もうれしいのですが、それ以上に事業主が喜びました。ただ、それで特段に翌月の給料が上がることはなかったです。
 選鉱場の横に『ズレ』がありました。ズレというのは、品質の悪い鉱石(写真1-1-11参照)などを捨てる場所のことです。
 重い鉱石を持ち上げて運ばなくてよいように、鉱石を下に落としてトロッコで運べるようになっていました。品質により落とす場所が違っていて、階段のように段々になっていました。そこからトロッコで、索道まで運んでいけるようにしていました。なるべく手間がかからないようにしていました。選鉱場には屋根があったので、雨が降っても仕事には支障はなかったです。選鉱場では、トロッコが坑道から出てくるときはぶつかると危ないのでみんな注意しました。
 私(Dさん)は、昭和16年(1941年)に鉱山のポンプ管理係になって働きました。みんなが仕事を始める前にポンプで坑道内の水を揚げてしまわないと、水が溜(た)まって仕事ができません。朝8時には、鉱夫が入ってきて仕事を始めるので、その前に溜まった水を抜いておくのがポンプ番の仕事でした。そのため、ポンプ番は一人だけ早朝の3時に出勤していました。私もそのころは若かったので、夜中に一人で、山の中にある坑道に行くのは怖かったです。ポンプは、坑道の中に入って、斜坑のウインチ(巻き上げ機)のある場所から30mから40mぐらい下の位置にありました。掘削が進むに従って、ポンプの位置も移動しました。掘り進めると、だんだん下がっていきました。ウインチは、坑口から70mから80mぐらいの位置にありました。
 ポンプ番は、3時ぐらいに行って水を揚げたら、みんなが仕事をしていても、昼の間は居眠りしていてもいいのです。日中は、『少し水が溜まったな。』と思ったら、抜いたらよかったのです。私はポンプ番でしたので、仕事の交替のときは、機械の調子がよいとか悪いとかの話をするぐらいでした。給料は60銭から70銭ぐらいでしょうか。坑道の中に入るからそれだけ貰(もら)えました。他の所(仕事)ではそんなには貰えなかったと思います。昼食は弁当で、ワッパにごはんと梅干を入れていました。選鉱夫は、選鉱場で食事していました。」

 イ 日南登鉱山跡を訪ねる

 Eさん(昭和2年生まれ)、Dさん(昭和2年生まれ)、Fさん(昭和25年生まれ)とともに、鉱山跡を現地調査し、現在の様子や当時の日南登(ひなと)鉱山の概略(がいりゃく)を再現してみた(図表1-1-11参照)。

 (ア)下の坑口

 まず、排水用の下の坑口が真下に見える道で観察した。
 「下の坑口(図表1-1-11の㋐)は排水用の坑口にしようとしていた場所です。大きい機械を据(す)えて、上の坑口(図表1-1-11の㋒)と繋(つな)げて排水する計画でした。近くに鉱山事務所(図表1-1-11の㋑)がありました。
 鉱山を掘る機械の動力は最初、電気でしていましたが、トラブルが多いので、エアーコンプレッサーに変えました。電気は来ていたのですが、今みたいな電線でないので、水に浸かったらダメになる電線でした。その当時は、みな裸線でした。そのため、漏電(ろうでん)したりバチバチ火花が飛び散ったり、危なかったです。
 私(Dさん)が行っていた時、上の坑道と下の坑道はつながってはなく、結局貫通(かんつう)しなかったと思います。下から上に向かって機械で掘っていましたから、下の坑道のほうが大きかったです。」

 (イ)上の坑口

 日南登(ひなと)鉱山の上の坑口(図表1-1-11の㋒)一帯を観察した。自動車が通る道沿いに大きなズレ(選鉱によって不要になったクズ石などを捨てた場所、図表1-1-11の㋓)があった(写真1-1-12参照)。道路の上手に上がり、生い茂る草を刈りながら進むと坑口跡付近に到達した。
 「今はないですが、ここら辺には光りよる石がいっぱいありました。
 坑口のすぐ近くに選鉱場跡があります。上の段には、昔のノミなどを尖らせる鍛冶(かじ)場がありました。その横に現場事務所がありました。今は石垣しかないですが、ここで200人近く働いていたそうです。
 この坑口は、発破(はっぱ)をかけて潰(つぶ)したと聞いています。坑口を入っていくと、途中にウインチがあり、斜坑に繋(つな)がっていました。坑口から水平に坑道が延びていて、斜坑があり、斜坑から横に穴が伸びていました。その横穴から鉱石が出てきて、斜坑がメインの通りですのでウインチで巻き上げていました。斜坑は傾斜30度とかでなく、もっと緩やかな斜度だったはずです。
 斜坑に水が溜まるので、先ほどの下の坑口に通じるようにして、水を抜くように計画していました。私はまだ若かったので、はっきりとした計画はわかりません。掘った鉱石は、ウインチで巻き上げて、途中からトロッコに乗せて運んでいました。坑口からウインチ場までは、70、80mぐらいありました。斜坑から延びる水平な横道になる各坑道は、そんなに深くなかったです。大体20、30mぐらいしか入ってなかったです。各坑道に削岩機を据えて、掘っていました。
 坑口にトロッコの線路が入って、坑内から鉱石を運んで、選鉱場でトロッコを引っくり返して選鉱していました。坑口から出ているトロッコの線路は選鉱場までです。選鉱場に女の人が5、6人いて、カンカン、カンカン叩(たた)いて、いい鉱石と悪い鉱石に選(よ)り分けていました。品位の悪い鉱石は下に落として捨てていました。」

 (ウ) トロッコ道

 鉱石を運んでいたトロッコの線路跡を観察した。
 「トロッコ道の先に索道がありました。鉱石は、鉱山からトロッコで運ばれ、トロッコの線路が終わる場所(図表1-1-11の㋔)にあるジョウゴに集めて索道に乗せ、索道から降ろしていました。今のところにトロッコの線路があって、今、鉄塔(てっとう)がある辺りまで続いていました。」

 (エ)索道終点

 「図表1-1-11の㋕が、鉱石を索道で降ろしていた下の駅です。ここに大きいジョウゴがありました(写真1-1-13参照)。トラックをここに着けて、上からトラックの荷台に石を入れていました。その上にコンクリートの大きい擁壁(ようへき)があり、そこに字が書いてあります。『日進(にっしん)鉱業株式会社』と書いてあったと思います。この索道を作って所有していた会社です。
 ジョウゴの口は、戦後60年経っていますから、だいぶ壊れています。今では、知っている人に聞かないと、道側に少し石が出ているぐらいにしか感じず、知らない人は見落とすと思います。
 この道を少し上がった所が道の行き止まりでしたので、そこでトラックをくるっと回して運んでいました。その先の道は昭和30年代にできたように思います。近くの川沿いの谷に、従業員宿舎(図表1-1-11の㋖)が4軒ぐらいあったと思います。今も石垣は残っています。宿舎の横に坑口に上がる道がありました。今も道はありますが、それは木を切り出すために後から造った別の道です。」

写真1-1-7 カナクロ石 上写真

写真1-1-7 カナクロ石 上写真

伊予市中山町。平成23年12月撮影

写真1-1-7 カナクロ石 下写真

写真1-1-7 カナクロ石 下写真

伊予市中山町。平成23年12月撮影

写真1-1-8 宮本鉱山の坑口

写真1-1-8 宮本鉱山の坑口

伊予市中山町。平成23年9月撮影

写真1-1-10 岩の表面が『ヤケ』ている様子

写真1-1-10 岩の表面が『ヤケ』ている様子

岩の表面がまわりの色とは違う色に変色しているのが、見た目にはっきりとわかる。これを参考にして採掘していた。伊予市中山町(宮本鉱山入口)。平成23年9月撮影

写真1-1-11 鉱物が含まれている石

写真1-1-11 鉱物が含まれている石

白い点のように見える部分が鉱物である。伊予市中山町。

図表1-1-11 中山鉱山(日南登鉱山)想定図

図表1-1-11 中山鉱山(日南登鉱山)想定図

現地調査及びEさん、Dさん、Fさんからの聞き取りにより作成。

写真1-1-12 日南登鉱山の大きなズレ

写真1-1-12 日南登鉱山の大きなズレ

伊予市中山町。平成23年9月撮影

写真1-1-13 鉱石を索道で下ろした所の大きなジョウゴ

写真1-1-13 鉱石を索道で下ろした所の大きなジョウゴ

伊予市中山町。平成23年9月撮影