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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 中山の農林業①

 伊予市中山町は、山がちの地形で平地はわずかしかないが、谷あいの平坦地から斜面にかけて棚田が開(ひら)かれ、米作や麦作が盛んであった。山の畑では、様々な作物が豊かに実り、人々の生活の糧(かて)となり、現在でも、豊富な山林を利用したシイタケ栽培や栗栽培などが盛んに行われている。
 そのような山のくらしの中で、かつて広く行われていた炭焼きと、炭焼きに替わって盛んになった栗栽培について、それぞれ携わっていた方々から聞き取り調査を行い、地域を支えた産業の実情に迫ろうと試みた。

(1) 中山の炭焼き

 炭焼きについて、Aさん(大正14年生まれ)、Bさん(昭和2年生まれ)、Cさん(昭和2年生まれ)から話を聞いた。

 ア 炭焼きに取り組む

 「炭焼きというのは、農家が冬に副業としてやっている仕事でした。昭和30年代までは、炭は掘りごたつに入れたり火鉢に入れたりたりするなど、生活の必需品だったので、需要がいくらでもありました。中山には材料になる原木がいくらでもありました。炭焼きは許可が必要な仕事ではなく、個人でだれでもすることができました。
 中山の農家の人は、大なり小なり炭焼きをしたことがあります。直接に経営していなくても、手伝いなどを含めれば経験があると思います。他所(よそ)の町村に行って炭を焼いたりすることもありました。高知県の方まで行って炭を焼いた人も多くいました。冬場の仕事として一番いい仕事で、金が儲(もう)かる割りのいい仕事だったと思います。
 私(Bさん)は、今から70年前の昭和16年(1941年)ころ、14歳ぐらいから炭焼きの手伝いをはじめました。学校に行っていましたが、隣家に炭焼きの職人がいまして、その人に『手伝いに来てくれ。』と言われて、手伝いに行くようになりました。日傭(ひよう)代が当時で3円から4円ぐらいあったと思います。子どもなので一人役(いちにんやく)はくれなかったと思いますが、それでも良かったので、続けるようになりました。それ以後、今年の春まで70年間炭焼きに携(たずさ)わってきました。途中で会社勤めを20年ほどしましたが、その間も1年間に2、3回は炭を焼いていたので、まったくしなかったのは10年ぐらいで、60年ほどやったことになります。今年(平成23年)の春、うまく焼けなかったので、それを機会にやめました。炭焼きは冬の仕事で、それ以外の時期は農業をしていました。昭和30年代からは栗が主体の農業をしていました。
 私(Aさん)は、父が炭焼きをしていたので、学校を卒業したらそのまま父の仕事を手伝うようになりました。近所の人もやっていました。本業は農業で、栗をしていました。昭和30年代後半までは炭焼きをしていて、その後はミカンをするようになり、その後はシイタケをしました。その間も栗はずっと続けていました。」

 イ 炭の材料

 「炭焼きの材料は、だいたいクヌギです。ナラやカシでもいいですけど、クヌギが一番良かったです。炭にするのだったら、樹齢が12、13年のものが一番いいです。そのため、炭にする原木は、だいたい10年したら伐(き)っていました。
 木は1度伐っても、そこから芽が出ますから、また10年ぐらいで育ちます。きちんと管理すれば、株はいつまでももちます。周辺の下草を刈り、木にカズラなどが巻かないように管理すれば、何年でももちます。
 炭焼きの燃料には、焼く原木の枝を使いました。山で伐ったときに、炭の原木にするのと、その炭を焼く枝とに分けて準備しました。
 木を伐る道具は、昔はノコ(ノコギリ)とマサカリ、エガマぐらいでした。当時は原木を伐(き)るのにノコで作業する必要がありましたので、しんどかったです。エガマは木の枝を落とす道具です。原木を運ぶとき、担(かつ)いだり引っぱったりしました。運ぶのも重くて大変でした。」

 ウ 炭焼き窯をつくる

 「窯(かま)の大きさは、だいたい奥行きが9尺(約272cm)で、横幅が8尺(約242cm)ぐらい、高さが3尺5寸(約106cm)ぐらいになります。それで容量が45俵(1俵は約15kg)ぐらいになります。窯の中の容量を1コバとか2コバと言っていました。1コバというのが100立方尺(りっぽうしゃく)です。100立方尺で、30俵ぐらいになります。45俵なら1.5コバになります。立方尺で売買したりしていましたので、昔はそういう呼び方もありました。
 窯は、原木を伐った山のこじり(山の一番下)に作るようにしていました。そうすると、原木を運ぶのが楽になります。下から原木を持って上げるのはしんどいですから、効率良く炭を焼くことを考えて、窯の位置を決めました。
 炭焼きは、窯が大きいほど量も取れるし、能率も上がるのですが、そのかわり大き過ぎると、窯の強度が弱くなります。大きいと、天井が抜け落ちる確率が高くなりました。窯は、土を盛って叩(たた)いて作っているので、土が悪かったり火に弱かったりすると、天井が落ちました。
 窯を作る位置に木を立てて、その並べた木の間には小枝を入れて、窯の形が丸くなるように形を整えます。窯の中になる場所に丸太を縦に並べるようにし、縦に並べた丸太の上にコヘイ(盛り木)を置いて、その上に天井を作るのです。天井を高くしようと思えば、コヘイをたくさん盛るようにします。そうして、窯(かま)が丸くなるようにして、その上にむしろを置いて、土をかけて叩きます。周辺の山にある、窯作りに適した山土を集めて、木の周りに盛っていきます。窯の天井部分が固くツルツルになるまで、棒で叩いて窯を作ります。窯の天井をしっかりと叩いて固めていないと、天井が抜けて失敗することがありました。その後、窯の入り口で火を焚いて、窯を乾燥させていきます。
 通常の窯は全部土で作っていますが、特別大きな窯にする場合は、天井を吊(つ)り天井にして、天井を補強し強度を保ちます。窯の天井の土の間に鉄板を入れて、その鉄板をバンセン(針金)で吊るようにします。ただし、バンセンで吊るしている鉄板の位置を、窯の天井が少し下がる高さ分、余裕をもたせて作らないといけませんでした。窯で炭を焼いていくと、窯の天井が少し下がってくるので、余裕をもたせてないと、天井が抜けてしまうからです。
 窯の中は、人が立って歩けないぐらいの高さになります。窯の入り口は、窯の高さが3尺5寸(約106cm)だったら、その1割ぐらいの大きさになります。窯の入り口付近をドイと言うのですが、そこで火を焚(た)いて、煙が窯の中を通って、後ろの煙突から煙が出るようにします。
 窯には、ヤマドリという場所があります。ヤマドリは、窯の中の後ろに位置し、煙突と繋(つな)がっていて、煙の出口になります。そこを素人が作るのとベテランが作るのとでは、空気のひき(空気が入ること)が違いました。ヤマドリの吸い込みが悪かったら、どんなにしても窯に火がつきません。そこを作るのが割と難しいのです。ヤマドリの大きさは、奥行き9尺(約272cm)横幅8尺(約242cm)の窯の場合は、その1割の、奥行き9寸(約27cm)横幅8寸(約24cm)が標準です。ヤマドリの口が大きければ、多く煙を取り込むとは限りません。山の傾斜がある場所でないと、ヤマドリが火をうまく吸い込まないのです。そのため、ヤマドリの位置を決めるには経験が必要でした。
 窯を作るときに、土と石を見る目が必要でした。私(Bさん)は、土を団子にして焼いてみて、それを投げつけて確認しました。パラッと壊れるのはダメな土で、2、3回投げつけても大丈夫な土を使用しました。1回目でも割れるのは割れるのですが、パラパラに割れる土でなく、少し欠けても大きな塊(かたまり)全体は割れていない土で、窯を作りました。
 窯の入口などに使う石は、川石なんかでは割れてしまいますので、火に耐えられる山石でないといけませんでした。
 土にはいろいろな色の土がありました。赤土が強かったですが、割れやすくもありました。窯を焚いて乾燥してきたら、土が縮んで割れてくるようになります。赤土は、その割合が少し高かったように思います。古い窯の土を使って、新しく窯を作る場合は、古い窯の土を半分使って作るようにします。古い窯の土を全部使うと、窯が割れてしまいました。
 1回炭を焼くと、中が空洞になって窯ができます。その窯が壊れるか、木材がなくなるまでは、そこで何回でも炭焼きができます。窯の上には、屋根を作って雨をしのげるようにしていました。できた炭を置く所も、屋根を構えていました。屋根はスギ皮やトタンでこしらえました。」

 エ 炭を焼く

 「炭焼きの時間は、2昼夜から3昼夜かかりました。窯に火が入ると、放っていても大丈夫でした。その間は他の仕事をしました。
 窯を乾燥させるために窯を焚(た)くのですが、窯の天井にメアナという丸い穴を開けて焚く人もいました。煙突以外にも窯に空気が逃げる穴が開いていると、早く火が回りやすくなり、中の水蒸気を抜くのも早くなります。とにかく窯の中から水蒸気を抜かないと、窯の中には火がつくようにはならないのです。焚くのが終わると、入り口やヤマドリと一緒にメアナは閉じて、炭が焼けるのを待つようにします。
 でき上がりは、白い煙がだんだん薄くなり、煙が出なくなった時に、経験で判断しました。煙突から出る煙の色のほかに、匂(にお)いでも判断していました。今は温度で判断できるようになりました。
 炭になったと判断したら、今度はすぐ入り口や煙突を塞(ふさ)ぐ必要がありました。そうしないと中の炭が全部燃えてなくなってしまいます。だいたい煙を見て、『これはだいたい燃えついたな。』と思うと、入り口の空気を入れる所をガンドと言うのですが、その回りにドロを塗って、空気の流れを少なくし、少しだけ開けておきます。
 ガンドの大きさなどによって、中の焼け具合も違ってきますので、燃え方や時間を調整していました。煙の出口に石を置いたりして、調整することもありました。入口と出口を潰(つぶ)す時間には、夜中だろうと雨だろうと行かないといけませんでした。
 1回目の炭焼きの後、次の炭焼きをするために、炭と原木を入れ替えることを『立替(たてかえ)』と言っていました。立替は、窯の熱が残っている間にしないといけませんでした。放っておくとせっかく焚(た)いた熱が逃げることになります。
 炭は、1回焼く間に次の炭焼きの準備をし、炭を取り出して空いた所に準備していた原木を入れていきます。窯の中に一人入って、別の人が外から窯の中にどんどん原木を入れていき、中が一杯になると、また焚き始めます。原木と天井との間には、ジャミ(枝木)をいれて、窯の中を一杯に詰めて行きます。2回目からは窯に入れられるだけ入れるようにします。ジャミは3級品ぐらいの製品ですが、それでも十分使い道がありました。隣近所に分けるぐらいの物にはなり、七輪(しちりん)の炭には十分使えました。
 炭焼きは、冬場の11月ころから4月ころまでしていました。一窯(ひとかま)焼くのにだいたい1週間かかりました。その間に次の木の準備をしました。炭ができても、窯の中は熱くて3日間ぐらいは入れませんでした。
 窯の中は相当熱いのですが、外に出ると寒いので、熱くなったり寒くなったりで大変でした。窯の中に入ると体に炭がついて、真っ黒になりました。まだ炭も熱い状態でしたので、手袋で掴(つか)んで出していました。炭に火が残っている場合などもありました。窯の中の壁に少し割れ目などができて隙間(すきま)があると、そこに火の粉が残っていて、危険な思いをすることもありました。窯の火を消すときは、煙突を倒して、赤土で隙間を埋めて、3日間ほど時間をかけて蒸し消すのですが、それでも火が残っている場合があったのです。
 炭焼きをするときの服装は、農作業するときと同じでした。熱い窯に入るときは、手ぬぐいで口もとを押さえるようにして作業をしました。熱い空気を吸い込まないようにするためです。
 頭は、ほっかむりをしていないと、髪の毛がジュッ、ジュッと焼け、チリチリになりました。戸口から陽炎(かげろう)が見えるぐらい、窯の中は熱い所でした。
 原料の木材を伐(き)ったときに、木の皮が剥(は)げてしまったら、炭焼きの製品にならないのです。木の成長が止まったころに、木を伐って準備しておかないと、木の皮が落ちたものでは、炭としての製品価値が下がり、炭自体の単価がかなり安くなります。そのため、10月半ばぐらいから木を伐っておくのです。炭焼きをするときに伐ったのでは、木の皮が落ちてしまいます。
 原木の長さは3尺5寸(約106cm)ぐらいで、焼くと少し縮み、炭は3尺2寸(約97cm)ぐらいの完成品になります。昭和30年(1955年)ころは、1俵15kgで300円ぐらいでした。今は1俵が12kgになっています。製品は規格統一のために検査を受けて、出荷していました。検査員が検査をしてから出荷することになります。」

 オ 炭を出荷する

 「昔は、炭にも等級があって、特選、1級、2級とありました。皮が剥げているのは、特選にはならなかったです。他には、材料が大きすぎても、特選が取れなかったです。樹齢が15年も超えてくると、太くて量は多くなりますが、特選が取れなくなり、逆に価値が下がりました。
 出荷先は、森林組合か農協に出していました。また炭取引する商人もいました。森林組合や農協で炭の取り扱いが始まるまでは、商売人が取り扱っていました。商人同士が張り合いながら競っていましたが、その後の流通先はよく知りません。
 昔はサンダワラという俵に入れて出荷していました。その俵はカヤで編んでいました。昭和40年代から、段ボール箱で出荷するようになりました。今は袋に詰めて出荷しています。各地区に炭を保管する木炭倉庫を構えていて、そこに炭を集めて検査をしていました。野外では濡(ぬ)れてしまいますので、倉庫が必要でした。
 戦後すぐの時期には、検査を受けていない炭は売買ができなかったのです。検査を受けていなかったら、闇(やみ)ということでした。闇になると警察の取り締まりの対象になりました。検査を受けた炭には、検査済の紙がサンダワラについていました。」

 カ 生活を支えた炭焼き

 「私(Bさん)は毎年1,000俵ぐらいの炭を焼いていました。値段が安くなったので、3,000俵ぐらいの炭を売らずに置いていたのですが、昭和45年(1970年)ごろに炭の値段が倍ぐらいになって売れました。それで私は、家を建てることができました。収入があると、佐礼谷(されだに)にも飲み屋がありましたが、佐礼谷から中山の町に飲みに行ったり、郡中まで飲みに行ったりもしました。炭や林業で儲(もう)けた人は、お金が入ると遊びに行っていました。昭和40年代になって、プロパンガスが出てからは、需要が急に減って、炭の売れが悪くなりました。そのころにみんなは炭焼きをやめていきました。」
 「私(Cさん)は小さいころ、父が自宅で使う炭を作るため、家から100mぐらい離れた所に炭窯(すみがま)を作って炭焼きをしたのを憶えています。私は、父の炭窯の横に自分専用の小さい炭窯を作ってもらって遊んでいました。隣の立派な炭窯で作業している父と同じように作業して、翌日楽しみに見に行きました。そうすると、煙突を竹で作っていたのですが、きれいに焼けてしまって、竹がなくなっていました。自分の窯の中の炭もきれいになくなって、灰になっていました。自分の窯は小さいので、一晩も燃やしたら、燃えすぎて灰になっていました。量を考えてしないといけないことを習いました。父の仕事を手伝うのが遊びで、それが見習いになりました。それで自然と覚えています。」
 中山の山あいの各地でさかんに炭の生産が行われていたが、今では、炭は生活必需品ではなくなり、生産がほとんどなくなった。しかし、炭火焼の料理や脱臭剤、美容などでの利用に活路を求め、中山では細々とではあるが、現在も生産が続けられている。