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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 くらしを支えた手工業品①

 伊予(いよ)市中山(なかやま)町は周囲を標高600mから800mの山並みに囲まれた山間部の農山村である。古くから竹や楮(こうぞ)など豊富な山の産物を原料として、家内工業や農家の副業で竹製品や和紙など様々な手工業品を生産・販売し、町内や近郊都市の人々のくらしを支えていた。しかし、高度経済成長期のプラスチックやナイロンなど石油を原料とした製品の普及により、次第に消えていった。
 ここでは、人々のくらしを支えていた手工業品のうち竹皮(たけがわ)、蓑(みの)、番傘(ばんがさ)を取り上げ、作っていた人々の仕事や技術、当時の生活を明らかにしようと試みた。

(1)竹皮職人
 
 戦前から戦後にかけて、県内では優れた竹工芸品が作られるなど、竹に関わる産業は地場産業の一つでもあった。伊予市中山町は県内有数の竹の生産地として知られ、竹の副産物である竹皮の生産も盛んであった。昭和18年(1943年)には竹皮1,200貫(約4.5t)を生産し、戦後も引き続き盛んに出荷していた。
 食品包装として欠くことのできかった竹皮について、竹皮商を営んでいたAさん(大正10年生まれ)、Bさん(大正15年生まれ)夫婦とCさん(大正10年生まれ)から話を聞いた。

 ア 神戸で修行

 「私(Aさん)は学校を卒業して15歳で知人の紹介により、神戸(こうべ)の矢治商店に丁稚(でっち)奉公をしました。そこは、折箱や竹皮など包装品を作って販売するお店でした。私は折箱職人になろうと思い、折箱を作ることを習っていました。知らない土地での奉公と仕事が厳しかったこともあり、いつも辞めたいと思っていましたが、何とか辛抱して働いていました。その後、戦争になり志願をして軍隊に入りました。終戦になり復員しましたが、中山では仕事がなかったため再び矢治商店でお世話になることにしました。折箱職人になろうと思っていたのですが、終戦直後のモノ不足で折箱の材料の経木(きょうぎ)(杉や檜などの木材を紙のように薄く削ったもの。)が手に入らなくて作ることができなかったのです。そこで、当時の矢治商店が主に竹皮で商売をしていたので、竹皮を広げて売る伸皮(のしかわ)の技術を習うことにしました。3年間、修業をして中山に帰り、昭和23年(1948年)に竹皮の商売を始めました。」

 イ 竹皮拾い

 「竹には主に真竹(またけ)・孟宗竹(もうそうちく)・淡竹(はちく)の3種類がありますが、食品包装に使う竹皮は、柔軟性のある真竹の皮です。孟宗竹の皮は、硬くて割れてしまうので食品包装には不向きで、淡竹も短くて幅が狭いので不向きです。
 竹皮は、双海(ふたみ)の柆野(くいの)や中山の大矢(おおや)、小田(おだ)の竹やぶを持っている農家から仕入れていました。徳島県や大分県から仕入れることもありました。四国の山間部の竹皮は京都付近に次いで質が良かったのです。竹やぶを持っている農家が竹皮を拾っているのでそれを買うのです。大きい竹やぶを持っている農家では、100貫(約375kg)ぐらい竹皮を拾っているところもありました。中山や小田など近隣の竹やぶを持っている農家をまわり、一やぶいくらでやぶごと竹皮を買って自分たちで竹皮を拾いにいくこともありました。竹皮はタケノコが出て、2週間ぐらいすると自然に剥(は)がれ落ちるのでそれを拾って集めます。時期は、6月から遅くても7月中旬までには、拾わないといけません。ちょうど梅雨時になります。皮が落ちて一度でも雨にあたると黒い斑点ができてしまうので、まだ竹についている落ちかけの皮を剥いで取っていくこともありました。湿気にあえばカビが生え、腐りやすいので充分に乾燥する必要があります。」

 ウ 丈選り
  
 「竹皮を寸法別に選り分けることを丈選(たけよ)りと言います。竹皮の長さによって大大寸・大寸・一の寸・二の寸・三の寸・四の寸・五の寸とそれ以下のものに分けます。大大寸が2尺1寸5分以上(約65.1cm以上)、大寸が2尺(約60.6cm)~2尺1寸5分、一の寸が1尺8寸5分(約56cm)~2尺、二の寸が1尺7寸(約51.6cm)~1尺8寸5分、三の寸が1尺5寸5分(約47cm)~1尺7寸、四の寸が1尺4寸(約42.4cm)~1尺5寸5分、五の寸が1尺2寸5分(約37.9cm)~1尺4寸です。寸法順に仕切りのある丈選箱(たけよりばこ)を斜めにたてかけて、竹皮を箱の中へ入れて寸法別に分けて横に置き、ある程度たまったところで束にします(写真1-3-2参照)。長いものほど値段が高くなります。たまに特大という大大寸の長さをこえるものがあり、それらは高い値段で売れました。五の寸以下のものでも、きれいな皮は、お味噌や奈良漬などを包むものとして売れていました。うちでは、丈選りは2人がしていました。」

 エ 伸し皮

 「私(Cさん)は、丈選りはしなくて、伸(の)し皮(竹皮を伸ばすこと)をしていました。竹皮は、丸くなっているのでそれを平らに伸ばすのです。最初に伸し皮で使う『芯(しん)』という道具を作ります。質の悪い竹皮を20枚ぐらい折り曲げ、中に縄をこぶし大に丸めたものを入れ、島田まげ(日本髪の代表的な髪型)のような形にして布袋に入れたものです。これは一度作れば何回でも使えます。伸ばす前に、竹皮を1時間ぐらい水につけてやわらかくします。水につけないと皮を曲げたときに破れるからです。座布団などを重ねて少し高くした場所に座って、右足の親指で芯を押さえて、竹皮の根元を両手で広げながら芯の下にさしこみ、芯に巻きつけるように上の方へ広げながら伸ばしていきます。竹皮のミミ(左右の端の部分)は丸まっているので、そこをしっかりと伸ばしておかないといけないのです。上手(うま)くミミの部分を伸ばすのが職人です。上手くできるようになるには、5年かかると言われていました。竹皮は幅によっても値段が違ってくるので、ミミの部分を上手く伸ばさないと幅が短くなり値段も安くなるのです。1枚1枚皮を伸ばしていき、50枚ぐらいになったら芯を取り除いて、後は同じように伸ばしていきます。20cmから30cmぐらいの厚さになったら、根元をトントンと床について揃(そろ)えます。そして、縄で縛り、倉庫の前で一晩干します。」

 オ 仕上げ

 「一晩干して乾燥したものは曲げた癖がついているので、そこを伸ばしてから仕上げていきます。仕上げの段階では、まず、ハワケ(幅選(はばよ)り)があります。同じ幅ごとに選り分けて揃えることです。大体12、13種類に分けます。大皮の場合なら、だいたい幅6cmから14、15cmのものを3、4mmおきぐらいに分けていきます。さらに6cmに満たないものを2種類、14、15cmを越えるものを2種類に分けるのです。この時に質の悪い皮も選り分けます。次に、同じ幅ごとに選り分けたものを50枚から100枚を一束にして、紐(ひも)でしばっていきます。それを倉庫に保管しておき、注文がくると出荷するのですが、竹皮なので長い間置いておくと乾燥して目方が減っていくのです。」

 カ 竹皮の用途

 「竹皮の品質は、黒い斑点がない真っ白になっているものが一等品です。一等品は、都会の高級料理店や寿司(すし)屋さんでお土産用の握り寿司を包んだり、肉屋さんが高級な肉を包んだりすることに使っていました。竹には殺菌作用があり、余分な水分を吸収し通気性もあるので肉や魚を包むには最適なのです。竹皮にカビが生えていたり、腐って黒い斑点があるものは二等品、さらに破れていたり穴があいているものは三等品になります。三等品のことをヤレ皮と言っていました。ヤレ皮は福山(ふくやま)や今治(いまばり)で販売されている鯛(たい)の浜焼きを包む鯛笠に使われています。鯛笠は長浜(ながはま)の櫛生(くしゅう)で作っていました。櫛生の笠職人が伸す前の竹皮を買って帰り、自分で伸してそれを笠に貼って鯛笠を作っていました。ヤレ皮を使って自分たちが履(は)く草履(ぞうり)も作っていました。竹皮で作った草履は、小学校の教室などの室内で履きます。竹皮の草履は、塵(ちり)が出ないので室内履きには良いのです(写真1-3-5参照)。
 主な取引先は、修行をした矢治商店の店主が紹介してくれた大阪や京都の商店です。東京からも竹皮を分けて欲しいといって買い付けに来ることもありました。当時は、お菓子から魚まで食品の包装に竹皮を使っていたので欲しい人がたくさんいたのです。中山の旅館に泊まってうちに買い付けに来ていました。その当時、トラック1台分の竹皮を30万円ぐらいで取引をしていたと思います。運送屋に頼んで取引先の商店へ送ることが多かったのですが、たくさん買ってくれた時は、うちでトラックを持っていたので大阪や京都まで運んでいました。うちで加工した竹皮は、主に京阪神の肉屋や寿司屋が使っていました。ヤレ皮を長浜の櫛生の鯛笠や観音寺(かんおんじ)のタッコロバチ(竹皮で編んだ笠)を作っていた店からも買いに来ることはありました。人竹(じんちく)(人造竹皮のこと。檜や杉の木を薄く削った経木(きょうぎ)の表面に竹皮模様を印刷したもの。)も扱っていたので、地元の肉屋などが買いにくることもありました。」

 キ 竹皮が取れない

 「竹皮屋には、組合もありました。うちは、関西竹皮事業協同組合に所属していました。愛媛県で組合に加入していたのはうちだけです。組合の主な事業として、毎月2日、12日、22日の3回、大阪の高槻(たかつき)でセリ市を開いていました。県内でも、竹皮を扱っている業者や竹皮で商売をしている人は何人もいましたが、職人を雇って竹皮を包装用に加工していたのは、うちだけでした。
 一番忙しかった時期は、昭和30年から40年代です。そのころは、私たち以外にも、職人を10人ぐらい雇っていました。いつも、竹選(たけよ)りをする人が2人、竹皮を伸す人が8人ぐらいはいました。職人のなかには、子どものいる人が多かったので、子どもが小学校から帰ると親が働いているので遊びに来て、にぎやかでした。夏休みになると、高校生にもアルバイトに来てもらっていました。昭和50年代や60年ころでもけっこう忙しかったと思います。平成になってからも夫婦2人だけで少しは商売をやっていましたが、5年前に年もとったのでやめました。
 今でも、良い竹やぶさえあれば、竹皮を作ることができますが、今は竹やぶの手入れをしないので、大きな竹が育たないため良い竹皮が取れないのです。竹が売れないので竹やぶの手入れをしないのです。昔は、竹籠(たけかご)や箕(み)、竹ほうきなど農作業や日常生活の道具に竹が使われていたので、竹が売れていたのです。今は竹やぶの中に入ることもできないぐらい荒れている所もあり、鯛笠にするようなヤレ皮さえも取れなくなっています。」

(2) 蓑作り 

 伊予市中山町大矢(おおや)・小池(こいけ)地区は標高約500mの高地に立地する山村集落である。昭和30年ころまで冬の農家の副業として蓑(みの)を生産していた。蓑は周辺地域に出荷され、主に農家の雨具として使用されていたが、ナイロンやビニールの雨カッパの普及により姿を消した。
 蓑作りについて、Dさん(大正14年生まれ)、Eさん(大正15年生まれ)、Fさん(大正15年生まれ)に話を聞いた。

 ア 蓑を編むのは女性の仕事

 「私たちは小さいころから、冬になると母親や祖母が蓑を編むのを見ながら育ってきました。この地域では、蓑を編むのは昔から女性の仕事です。男の人は山で木を切ったりするなど冬でもいろいろと仕事があったのですが、女の人は冬になると仕事がなかったので蓑を編んでいたのです。大矢や小池は標高が高いので、当時は雪もたくさん降っていて、いつも20、30cmは積もっていたのです。まだ、車やバスも走っていなくて交通の便も悪く冬になると外へ仕事に行くこともできなかったので、12月から3月ころまではいつも編んでいました。小池地区で30軒余り家があったのですが、ほとんどの家で蓑作りが行われていたと思います。私たちは、高等小学校を卒業して15、16歳になって始めました。小池地区では、蓑を編むのは娘の仕事でした。普通は、自分の家で一人で編むか、姉妹や近所の娘さんと二人で編むのですが、1か所に年のあまり変わらない娘が5、6人集まって編む所もありました。私(Eさん)の家がそうでした。たまたま、隣に住んでいた人が引越しをして空家になったので、その家を買って一部を作業場にしていました。8畳ぐらいの板の間の上に筵(むしろ)を敷いて、真ん中に囲炉裏(いろり)があったので囲炉裏を背中にして5、6人が丸くなって編んでいました。朝8時ころから始めて夕方5時くらいまで編んでいました。お昼はみんな家に食べに帰っていました。5、6人が一緒に集まって編むのは小池地区では私の家だけで、大矢地区でも1軒あっただけでした。」

 イ 互いに競争をするように

 「私(Dさん)は、近所の人で大矢から小池へ嫁入りしてきた人と2人で編んでいました。編み方もその人に教えてもらいました。小さいころから母親や姉が編んでいるのを見ていたので、ある程度編み方は知っていましたが、実際に編むようになると慣れない作業で覚えることも多くて一つの蓑を編むのに時間がかかりました。図面があるわけでもなく、一つ一つ口語(くちかた)りで『蓑の下の方を広くするんよ。』とか『この部分は2回編んで、あそこは3回編むんよ。』というように教えてもらいながら編んでいくので一つの蓑を作るのに一月(ひとつき)ぐらいはかかっていましたが、慣れてきたら1時間半から2時間ぐらいで一つの蓑を編むことができるようになっていました。1日に5、6枚は編んでいました。1日に5枚しかできない人は、6枚できる人に負けたらいけないということで朝早くから編んでいました。私(Eさん)は姉がいたので『私は、今日は5枚編めた。』『今日は、私は6枚編んだ。』というように互いに競争をするようにして編んだものです。」

 ウ 材料はワラとチガヤ

 「材料は、ワラとチガヤです。ワラは、秋の取り入れが終わると乾燥させて納屋(なや)や駄屋(だや)にしまっておきます。蓑に使うワラは長さが必要になります。そのため稲を刈るときも、できるだけ根元から刈るようにしていました。稲木(いなき)に干したワラで長いものは、蓑を編む時に使うので別に分けていました。今は、機械で刈ってしまうのでワラがないのです。また、昔と品種も違うのでワラの長さが短くて蓑作りには不向きです。あらかじめ編む前日に、次の日に使う分のワラを水につけてやわらかくしておきます。水につけるのはワラを曲げた時などに折れないようにするためです。チガヤは山にある畑の際に植えていました。私(Dさん)の家では、チガヤを植えていなかったので、親戚の家の畑に植えてあるチガヤを母親と一緒に刈りにいっていました。チガヤを刈るのは11月ころです。刈ったチガヤは干して保管しておき、使う前の晩に水に湿らせておきます。チガヤは硬いので湿らせてやわらかくするのです。そうしないと締まらないし、1日に5、6枚編むので手も痛くなるのです。」

 エ シベ縄作り 

 「蓑を編む前に、ワラの穂からシベ(ワラシベ)という芯の部分を抜き取って、蓑を編む時に使うシベ縄を作ります。シベは蓑を編む時に1本1本抜き取っておきます。シベは縄を作る前に1日水につけておき、それを小槌(こづち)でたたいてやわらかくして、シベを2本合わせて縄を編むのです(写真1-3-6参照)。シベをたたくのは主におじいさんがしていました。シベ縄を編むのはおばあさんと子どもの仕事でした。子どものころに、小学校から帰ると親に言われてシベ縄を編んでいました。冬は学校から帰ると、シベ縄を編むのが子どもの役割でした。蓑を首に着けるワラ縄もワラを3本合わせて作っていました。」

 オ カツカツ、コツコツとリズム良く

 「蓑を編む時に使う台をコマセ(横幅約120cm、高さ約55cm)と言います(写真1-3-7参照)。コマセは蓑だけでなく、炭や米を入れる俵やイモやミカンを入れるホゴを編むときにも使います。コマセの芯棒には、あらかじめ編み込む部分に切り込みを入れています。この切り込みの部分にシベ縄を巻いたツチノコ(蓑や俵を編む台の部品で糸巻きのような形をした長さ約7.5cm、直径約4cmの木片)を二つずつぶら下げておきます。ツチノコは樫(かし)の木でできています。杉(すぎ)などより重さがあるのでワラを締めるのにはよいのです。それを前後に交差してシベ縄でワラを締めて編んでいくのです。ツチノコを交差させる時にツチノコどうしが当たってカツカツ、コツコツという音がします。仕事が乗って来るとカツカツ、コツコツと心地よいリズムが部屋中に響いていました。編むのが早い人は、ツチノコが鳴るリズムが早いのです。時にはみんなで歌を歌いながら編み、息抜きで踊りを踊ったりもしていました。」

 カ 一番難しいのは襟付け

 「蓑の大きさは大体決まっていました。大人用は着丈が80cmぐらいで九符(ここのふ)といって9か所を編みこみ、子ども用や小柄な女性用の場合は着丈が70cmぐらいで八符(やふ)といって8か所を編みこみます。符というのは編みこむ部分のことです。下へいくほど符と符の間が広くなります。編む順番は、まず蓑を着けたときに右脇の下になる部分を編みます。次に右肩の部分を編んで、その次に蓑の真ん中になる胴の部分を編みます。胴の部分を編む時には、ワラの芯になるシベを右手で抜き取っていきます。そして左肩の部分を編み、最後に左脇の下の部分を編んでいきます(写真1-3-8参照)。
 蓑を作るときに一番難しいのは、襟付(えりつ)けという蓑の襟の部分から背中にくる部分にチガヤを付けていく作業です(写真1-3-9参照)。雨をはじくようにチガヤを付けます。買う人は、蓑の襟から背中にかけてチガヤがたくさん付いていて、きれいに広がって付いているかを見て買うのでこの部分をきれいに仕上げていくことが大事になります。チガヤの中で長くて幅の広いものを選んで表側に2、3枚重ねて付けていきます。さらに、長さの短いものを表に見えないように重ねて中に入れていくのです。チガヤがうまく重ねて付いていると、水が流れて中にしみ込んでこないのです。逆にチガヤが少ないと、ワラが水を吸って重くなっていきます。」

 キ 郡中や松前で販売

 「できあがった蓑は干して納屋にしまっておき、春になると問屋や雑貨屋に引き取ってもらいます。問屋や雑貨屋は郡中(ぐんちゅう)や松前(まさき)に持って行って売るのです。私(Eさん)の集落では、よく郡中へ売りにいっていました。問屋さんが一方の肩に10枚、もう一方の肩に10枚合わせて20枚を背負って売りに行っていました。
 私たちが作った蓑は、主に郡中や松前の農家の人が田植えをする時に使っていました。田植え以外でも、雨が降っていたら草取りなどの農作業の時には蓑を着ます。蓑は1年ごとに新しいものに替えていました。私たちが作っていた蓑は雨除(あまよ)け用で、夏の日除け用ではありません。夏に山仕事で使う日除け用の蓑はスゲ(カヤツリグサ科の植物)でできています。」

 ク 家の一員としてその役割を果たす

 「蓑1枚の値段やいくらで引き取ってもらっていたのかは全く知りません。その当時は家の収入はすべて惣領(そうりょう)が管理していたからです。私たちは家の一員としてその役割を果たしていただけです。蓑を編んで売ったお金は家の臨時収入になっていたと思いますが、手間賃(てまちん)などはもらっていません。お祭や宮島さん(中山町泉町(いずみまち)にある厳島(いつくしま)神社の夏祭り)などの行事の時に小遣いをもらう程度でした。私たちが小学生のころの小遣(こづか)いが5銭から10銭ぐらいでした。小学生の時に、帳面がいると親に言うと『炭袋を担(かつ)いで持っていきなさい。』と親に言われ、店に炭袋を10枚ぐらい持って行って帳面と交換をしてもらったこともありました。」

 ケ 50年ぶりに蓑を編む

 「一番忙しかったのは戦争前でした。ナイロンの雨カッパが出てくるまでは忙しかったのです。戦争中は小池や大矢、野中(のなか)地区の蓑を集めて旧日本軍へ供出をしていたと聞きました。戦争が終わってから広島県の呉(くれ)の倉庫に保管されている蓑を取りに来るように農業会へ連絡があり取りに行ったそうです。戦後に、ナイロンの雨カッパが普及するようになって編む数は減ってきましたが、昭和30年(1955年)ころまでは編んでいました。ナイロンの雨カッパも出始めのころは、すぐに破れたりするので蓑のほうがよいと言われていたのです。昭和30年代になると蓑を編むことはなくなりましたが、コマセでタバコ栽培に使うコモを編んでいました。イモやミカンを入れるホゴも編んでいました。ワラで編んだホゴは軽くて中にいれるものも傷がつかないのでよいのです。ホゴは10年くらい前まで編んでいましたが、蓑を編むのは50年ぶりになります。」

写真1-3-2 丈選り

写真1-3-2 丈選り

伊予市中山町。平成23年7月撮影

写真1-3-5 竹皮で作った草履

写真1-3-5 竹皮で作った草履

伊予市中山町。平成23年7月撮影

写真1-3-6 シベ縄を編む

写真1-3-6 シベ縄を編む

伊予市中山町。平成23年9月撮影

写真1-3-7 コマセとツチノコ

写真1-3-7 コマセとツチノコ

伊予市中山町。平成23年9月撮影

写真1-3-8 蓑を編む順番

写真1-3-8 蓑を編む順番

蓑の裏側部分、数字は編む順番を示す。伊予市中山町。平成23年9月撮影

写真1-3-9 襟付け

写真1-3-9 襟付け

伊予市中山町。平成23年9月撮影