データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 三島町の立地と陶磁器生産のあゆみ
(1)三島町の立地
三島(みしま)陶磁器は、窯業(ようぎょう)に適した地形をもとに成立し、海運・陸路などの地理的要因を背景に発展し、生産・販路を拡大してきた。
かつて多くの窯が築かれていた三島町周辺は、小高い丘のような地形をしていて、集落の東西は傾斜地となっている。平地からの比高(ひこう)は4m~5mである。
三島陶磁器の生産が盛んだったころの窯は連房(れんぼう)式の登窯(のぼりがま)で、三島町の場合は、七つから八つの焼成室が階段状に造られていた。この窯の構造が、三島町の地形に適していた。
また、三島町の南部の山地に、陶磁器の原材料となる陶石(優白質変質安山岩(ゆうはくしつへんしつあんざんがん))を含む地質体が東西に帯状に存在する。この地質体は、西は伊予市双海(ふたみ)町に始まり、中山(なかやま)町安別当(あべっと)、鵜(う)の崎(さき)を経て砥部(とべ)町へと続いている。その上、釉薬(ゆうやく)の材料となる釉石(ゆうせき)を産出する三秋(みあき)が近いことも幸いした。
さらに、地理的環境も陶磁器生産を支え発展させた。
松山平野の西南部に位置する三島町は、北方約700mに積出港である郡中港を控(ひか)えており、製品の出荷に有利であった。
街道は、郡中(ぐんちゅう)湊町(みなとまち)、灘町(なだまち)から大洲(おおず)へと続く主要道であった。そのため、燃料となるマツ材は中山町佐礼谷(されだに)あたりから犬寄(いぬよせ)峠を経て集まった。また、陶石の産地である伊予市鵜の崎、中山町佐礼谷の安別当(あべっと)などとも比較的近い位置にあり、取り寄せるのに便利であった。
なお、県内において近世陶磁器生産の先進地である砥部(とべ)は、三島町(みしままち)から直線距離にして約9km東方にあり近い。江戸時代には、砥部も三島町も大洲(おおず)藩領であったが、三島陶磁器発祥(はっしょう)の地である市場(いちば)は新谷(にいや)藩に属していた。新谷藩は大洲藩の分藩であったこともあり、当時から両地間の人的交流などが盛んであった。窯業(ようぎょう)史においても、三島窯業の発祥となった市場でのやきもの生産開始時から、技術交流など砥部との深いかかわりがあった。以後、三島陶磁器が絶えるまで、砥部との密接なかかわりが継続することになる。
(2)陶磁器生産のあゆみ
ア 江戸期の陶磁器生産
「三島焼(みしまやき)」という言い方は、明治時代以降、伊予市での陶磁器生産の中心が三島町であったことに起因する。江戸時代には、三島町に窯(かま)は存在しなかった。先程も述べたが、三島陶磁器発祥の地は、三島町の南方に隣接する市場である。
市場で窯が造られる前、砥部では、杉野(すぎの)丈助(じょうすけ)が安永6年(1777年)に磁器焼成(しょうせい)に成功している。それからしばらく後、新谷藩の命により、市場村庄屋佐伯(さえき)忠左衛門(ちゅうざえもん)が、砥部の門田金治の協力のもと窯を創始した。その時期について、『伊予市誌』(2005年)には、天明(てんめい)寛政(かんせい)ころ(1781~1801年)としているが、山本典男氏は、寛政10年(1798年)ころと、より具体的に年代を絞りこんで推定している(①)。
創始年代については、いまだ推定の域を出ておらず、市場のどの場所に窯が造営されていたのかも、現時点では特定できていない。
窯ができた当初は、原料として稲荷(いなり)山の土と三秋の釉石が使われていた。稲荷山は陶石を産出する地質体ではなく、粘土を原料にしていたと考えられる。つまり、陶器を生産していたと思われる。このころは、経営が苦しかったらしく、佐伯忠左衛門は多額の借金をしている。
文化12年(1815年)に、七右衛門、音右衛門が佐伯家から焼き方を引き受けている。その後、文政(ぶんせい)元年(1818年)に音右衛門が佐伯家から窯を譲り受けている。これが金岡(かなおか)窯の始まりである。当時は、磁器、陶器ともに焼いていたようだが、良質の陶石を入手できるようになってからは次第に磁器生産へと移行し、経営も安定してゆく。以後、金岡窯は、二代亀蔵、三代定蔵、四代亀十郎と昭和まで続く三島陶磁器屈指の名門窯となる。
嘉永(かえい)4年(1851年)には、音右衛門が陶磁器製造を藩から引き離す許可をもらっている(②)。同年音右衛門は長崎(ながさき)の萬屋多助との絵薬(えぐすり)取引を藩に願い出て許可されている。このころになると、地元内外の神社の奉納額などに音右衛門の名前が寄進者名として見いだせることから、金岡窯の経営が順調であったことがうかがえる。
イ 明治期の陶磁器生産
明治12年(1879年)には、高橋兼五郎が新たに三島町で窯を創設する。
明治17年(1884年)、それまで市場で操業していた金岡家は、本邸を三島町に移し、同時に窯も造営する。敷地面積は、総計3,000坪(約99a)で、西半分が工場、東半分に本邸と庭があったとされる(③)。
金岡家は、製品の質を向上させるための努力を惜しまなかったようで、それまでよりも良質の陶石を、明治20年(1887年)に亀十郎が中山町佐礼谷(されだに)の安別当(あべっと)で発見した。また、名古屋方面から陶工を招き、進んで新しい設備を取り入れた。
明治30年代ころになると、窯が増加し三島町は今まで以上に活気づく。高橋窯や玉本(たまもと)窯は新窯も開いていた。他にも曽根(そね)窯、川の上窯などがあった(④)。
販路拡大の貢献者で特筆すべきは金岡亀十郎である。亀十郎は、明治39年(1906年)に神戸の貿易商で新谷(にいや)の出身である池田(いけだ)貫兵衛(かんべえ)を通じて、伊予郡陶磁器の海外輸出に成功する。
伊予郡陶磁器の海外進出について、「愛媛新報」(明治43年〔1910年〕9月6日付)は、次のように報道している。
「砥部陶器と共に海外に輸出しつゝある三島陶器は、近来いよいよ上景気にして、金岡・近藤・高橋・浜松工場とも漸次(ぜんじ)職工を増雇(ぞうこ)し、昨今の残暑にも拘(かか)は(わ)らず、夜業に従事して、注文先の需用に忙(いそが)は(わ)し。」
以後、三島陶磁器は、池田(いけだ)貫兵衛(かんべえ)が経営する池田商会を通して、中国、東南アジアなどの東洋市場へ輸出されることとなった。
販路の拡大や需要の増加に対応して陶磁器を増産できたのは、明治以降に絵付などの技術が向上したことによる。
すでに、明治8年(1875年)ころ、砥部(とべ)の坂本源吾らが、安価な西洋コバルトを輸入し、使用している。明治11年(1878年)には、尾崎(おさき)出身の伊藤(いとう)允譲(いんじょう)が、肥前(ひぜん)陶工から型紙絵付の技法を習い砥部に伝えている。これから後、三島町でも型紙絵付が普及することになる。
そして、型紙よりもさらに効率よく絵付ができる銅版絵付は、明治26年(1893年)に砥部で始まった。三島町では、明治33年(1900年)ころに金岡窯で導入されている(⑤)。
こうした技術の向上と販路の拡大による大量生産によって、陶磁器が安価に入手できることになり、人々の生活に広く浸透するようになった。
一方、陶磁器の大量生産は、製造工程の省力化が進んだが、粗製化にもつながった。
金岡窯の亀十郎は、焼(や)き物(もの)に改良を重ね、明治36年(1903年)千歳(ちとせ)焼を開発した。また近藤窯では、京都の磁器を取り寄せて、より上質の製品を作ることに取り組んだ。三島陶磁器の繁栄を支えたのは、人の努力と熱意だったことを忘れることはできない。
砥部(とべ)とは、陶工の交流など絶えず密接な関係が続いた。そのためか、明治後半期から大正期にかけての型紙絵付の製品は、砥部と三島町(みしままち)の区別がつかないほどである。
なお、三島町の窯元も加わった「下浮穴(しもうけな)伊豫両郡陶磁業同業組合」が明治21年(1888年)に、「伊豫陶磁器同業組合」が明治42年(1909年)に、それぞれ設立されている。
ウ 大正期の陶磁器生産
大正期に入ると、三島町でも設備の近代化が一層進んだ。金岡窯では、電力を動源とする機械ロクロが設置されている。こうした技術の向上によって生産力も増大した。
大正2年(1913年)には、池田商会経営の陶土粉砕(ふんさい)を目的とする近代的な郡中(ぐんちゅう)陶土工場が、郡中港埋立地に建設された。1日に約400貫(約1,500kg)の陶土を生産し、伊予郡の陶磁器業者に供給した。
大正3年(1914年)に第一次世界大戦が始まり、開戦当初は経済界の混乱により不況となったものの、それは一時的なもので、まもなく日本は好景気となり、三島陶磁器の生産も一層増加した。このころは、窯の煙が絶えることがなく、三島町(みしままち)の道は、陶石や燃料を積載した荷馬車が連なり、通行もままならないほどであったという。
郡中陶土工場でも、新工場の建設に伴い、組織を株式会社とし、大正4年(1915年)には、会社名が「伊豫陶器株式会社」となった。この工場を通称「池貫(いけかん)工場」と言った。この工場に立つ約30mの高さの3本の煙突は、郡中港の標識となったばかりでなく、郡中に住む人々の心に深く刻まれることとなった。池貫工場は、それまでマツ材であった燃料を石炭にするなど効率的な機械操作によるものであったため、生産力は格段に向上した。また、工場が郡中港に隣接していたことから、船を会社前に横付けすることができ、出荷も有利に働いた。
第一次世界大戦中の数年間は、好景気に支えられて陶磁器生産は活気づいた。三島陶磁器にとっては、この時期が最も花開いた時期であった。
大正7年(1918年)に大戦が終わりを告げると、これにより日本は一転して不況となり、陶磁器の需要も激減した。近藤窯は、陶磁器生産の将来を見越して、大正8年(1919年)に伊豫陶器株式会社と合併し廃業した。これに続くように、大正末期までに、三島町(みしままち)の玉本窯、浜松窯、山崎窯なども窯の火が消えた。
伊豫陶器株式会社も不況のあおりを受けて経営難となり、経営主がそれまでの池田商会から、神戸(こうべ)の鈴木商店、太陽曹達(そーだ)株式会社(鈴木商店の子会社)へと移ることになった。
エ 昭和期の陶磁器生産
三島町で、昭和まで続いたのは高橋窯、金岡窯の二つである。高橋窯は、製造技術などの努力が重ねられたものの、昭和初期に廃業した。
金岡窯は、三重県四日市(よっかいち)から陶工を連れてきて製品の品位向上に努めたられたものの、不況を克服できず、ついに昭和9年(1934年)に四日市の実業家に土地や全施設を譲り渡すことになった。この時点で、金岡窯が絶えることとなった。金岡窯閉窯の後、東亜製陶所が設立され、新施設を構築して主に国内向けの重箱、火鉢、すり鉢類を生産して経営を続けた。しかし、一時的に好況の時期はあったものの、ついには、昭和28年(1953年)ころ廃業する。
伊豫陶器株式会社は、第一次世界大戦後の不況、世界恐慌(1929年)の中、輸出向けの生産量が減少し、第二次世界大戦が始まると貿易統制が進むことで輸出額がさらに激減した。昭和17年(1942年)、伊豫陶器株式会社は、伊予窯業(ようぎょう)株式会社と社名を改称する。翌年の昭和18年(1943年)、同社は軍需工場に指定され、陶磁器は国内向けに限られるとともに、もっぱら耐火煉瓦(れんが)を生産することになった。そして、終戦前後から経営者の変更などの紆余曲折(うよきょくせつ)をたどり、ついに昭和47年(1972年)、伊予窯業株式会社は工場を閉鎖した。
最後に、篠崎勇氏によるやきものに関する聞き取り調査資料の一部を掲載する(⑥)。
「終戦時日本に帰る船がないのでアンダマン諸島に上陸した。島は(中略)約1万の住民が居た。島民が『伊予ボール』を食器に使って居たので驚いた。陶器のソコに『伊予窯業』の名前があったので郡中池貫の製品だと思(おも)ひ(い)なつかしかった。」(もと海軍さん)
「16歳のころ郡中(ぐんちゅう)池貫(いけかん)に就職して大正6年(1917年)退職。はじめ石膏型(せっこうがた)係で、製品は、1ゴムワン、2伊予ボール、3朝鮮サバル、4サヤなどであった。陶石はアベトウ(安別当)産で、トロンメル(粉砕器)に入れて粉にしていた。」(明治34年生まれ男性)