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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 郡中のまちの発展と郡中港の歴史

 松山(まつやま)藩から大洲(おおず)藩への「お替地(かえち)」(領地交換)にともない、寛永13年(1636年)、上灘(かみなだ)村に居住していた宮内九右衛門(くえもん)通則(みちのり)、清兵衛(せいべえ)正重(まさしげ)の兄弟が、大洲藩主・加藤泰興(やすおき)に米湊(こみなと)村のマツ林の海岸の開発を願い出て町を開(ひら)いたことが、今日の伊予市郡中(ぐんちゅう)の始まりである。
 郡中の飛躍的な発展は、文化9年(1812年)から天保6年(1835年)まで24年をかけた波戸普請(はとふしん)、萬安港(ばんあんこう)(郡中港・伊予港)の築造にある。米湊は片浜であるため風波も強く船着きに困難を極めており、港の築造は町方の長年の願いであった。郡中代官所手代・岡文四郎、波戸用係・豊川市兵衛らと町方の自普請によって、安広川(やすひろがわ)の河口に、防波堤145間5合(約262m)、護岸は257間5合(約463m)の港がつくられた。『郡中市陌浜辺図(しはくはまべず)』(安政年間)には、大洲藩・新谷(にいや)藩の蔵屋敷(くらやしき)、短冊(たんざく)状の地割り(奥行き60間)の町並みと萬安港が鮮やかに描かれている。港の完成により、大洲藩内の米や木材をはじめ砥部(とべ)の砥石や砥部焼などの産物の中心的な積出港として発展していくことになる。
 明治以降も港内の土砂の浚渫(しゅんせつ)や防波堤・護岸(ごがん)の改修は続けられ、明治44年(1911年)の大改修によって、現在の伊予港内港が完成。大正から昭和にかけて船舶(せんぱく)輸送は増え、昭和7年(1932年)には、三津浜(みつはま)・今治(いまばり)・高浜(たかはま)・宇和島(うわじま)・八幡浜(やわたはま)に次ぐ県内6位(4,710隻、123.3万t)の港湾(こうわん)都市になり、南予や九州を結ぶ定期便も就航していた。やがて外港の必要性も高まり、昭和12年(1937年)からは県の事業として外港の築造が着手され、戦後に再開されて昭和33年(1958年)に完成し、1,000t級の船舶の就航が可能になった。郡中港は伊予港と改称され、五色浜(ごしきはま)には「伊豫港竣工(しゅんこう)記念」碑が建てられている。