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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 二名津の町並み

(1)青年会館周辺

 「現在の二名津集会所の駐車場になっているところに青年会館がありました(図表1-5-1の㋐参照)。その前側が広場になっており、盆踊りをしたり、芝居をしたりしていました。青年会館の2階に映写機と器材を置いて映画を上映していました。一月に多い時は20日、平均しても2日に1回は上映していました。昭和35年(1960年)ころ、3本立てで30円だったと思います。三崎の映画館とフィルムを掛け持ちしていて、三崎へフィルムを取りに行っていました。テレビが普及するまでは盛んにやっていましたが、昭和39年(1964年)に東京オリンピックが開催されたころから、この辺でもテレビが普及し、次第に映画はなくなりました。テレビは、早い家庭で昭和30年代の初めに購入していました。力道山のプロレスや栃錦や若乃花の相撲など、みんなでテレビのある家に見に行っていました。昭和30年代後半に二名津には電器店がなかったので、テレビは三崎の電器店で買いました。
 青年会館の西隣が二名津の農事実行組合と麦すり場になっていました。実行組合がなくなってからは、2階を青年団の集会などに利用していました。さらに西側(海側)にダイダイ(夏柑)の集荷場がありました。潮の満ちた時を利用してオオガーラ(大谷川)から船でダイダイを積み出していましたが、選果場が新しくなってからはあまり利用されなくなり、倉庫や消防団の夜警所として使われました。
 大谷川を挟んで集荷場の南側には、神松名農協(昭和33年〔1958年〕からは三崎町農協二名津支所)があり、事務所の他にデンプン工場、醤油(しょうゆ)工場、精米所がありました(図表1-5-1の㋑参照)。精米所といっても米をつくことはほとんどなく、麦をついていたので実際は精麦(せいばく)です。トウキビやタカキビ、アワやキビも粉にしていました。イモを切って干したものを粉にする精粉もしていました。イモの粉を水で溶いて、鉄板に薄く広げて焼いた、イモせんべいを売る店もあって子どもたちに人気でした。イモの粉を持参して焼いてもらったりもしていました。今のように店に行ってもお菓子がたくさん置いているわけでもなかったので、子どもがたくさん買いに行っていました。デンプン工場では二名津周辺の地域で収穫したイモからデンプンを作っていました。デンプンは大阪や広島へ運ばれ、主に医療用のブドウ糖の原料になっていました。」

(2)大谷川沿い

 「オオガーラは昭和37年(1962年)に街中(まちなか)の大部分が暗きょになって道路となりましたが、それまでは川で五つの橋が架(か)かっていました。今は水もチョロチョロと少ししか流れていないのですが、私たち(Dさん、Eさん、Fさん)が子どものころにはいつも水が流れていて、洗い物をしたり、上流で泳いだり、エビやドンコ、ウナギを捕ったりして遊んでいました。風が強い雨の日に傘が川に飛んで流されてしまい親に怒られたこともありました。
 オオガーラ沿いには、造船所が2軒あり木造の伝馬船(てんません)や漁船を造っていました(図表1-5-1の㋒参照)。ヤンマー船と呼ぶエンジンを積んだ船も造っていましたが、昭和30年代は主に櫓(ろ)で漕(こ)ぐ船を造っていました。船の出し入れは潮が満ちた時に潮が造船所の前まで上がってくるのを利用したり、潮が引いている時には丸太を下に敷いて5、6人で引っ張って出し入れしたりしていました。川の南側にあった造船所は昭和62年(1987年)までやっていました。造船所は港にも1軒あり、そこは50tから100tぐらいの木造の機帆船(きはんせん)を造ったり、この辺りを航海する船の修理をしたりしていました(図表1-5-1の㋓参照)。レールや巻き上げ機もあって本格的な造船所で、ドックと呼んでいました。造船所の隣には船に使う木を製材する製材所がありました。
 オオガーラにかかる小川橋の南側の一角には役場支所や駐在所、診療所があり二名津の官公庁が集中していました(図表1-5-1の㋔参照)。」

(3)二名津の銀座通り

 「二名津中学校前から港へ行く道が二名津の銀座通りになります。その中でも、この辺の人がホリと呼んでいる五角(いつかど)(五差路)の周辺に多くの店が集まっていました(図表1-5-1㋕参照)。当然、人も集まる場所だったので行商に来た人が露店を出したりしていました。よく松前(まさき)の人が茶わんを売りに来てたたき売りをしたり、富山から薬売りが来て大道芸をしてお客さんを集めたりしていました。毎年、夏になると尾道(おのみち)から行商船が来ていました。その船を私たちは昆布船(こぶぶね)と呼んでいました。昆布(こんぶ)やナス、佃煮(つくだに)、日用品や衣類などいろいろな物を持って来ていました。船の雑貨屋のようなものです。昆布船が一度来ると1か月ぐらい停泊していました。船で寝泊りをして、二名津を拠点に周辺に行商に出るのです。船に自転車を積んでいて、主人が自転車で松(まつ)や明神(みょうじん)に売りに行っていました。地元の商店より値段が安かったので、昆布船が来るのを待っている人はたくさんいました。
 ホリの一角に薬屋があり、そこには産婆(さんば)さんがいました。この辺には産婆さんが一人しかいなかったので、当時この産婆さんが二名津のほとんどの子どもをとりあげたと思います。私たち(Dさん、Eさん、Fさん)もこの産婆さんにとりあげてもらいました。大久(おおく)に母子健康センターができるまでは、みんながこの産婆さんに頼っていました。」

(4)潮待ちの港

 「二名津港は昔から海が荒れたときの避難港や潮待ちの港になっていました。冬には西風や北風が強く吹き、春になると西風とマジの風(東南の風)が吹いて海が荒れるので、風がおさまって海が凪(なぎ)になると出て行く船が多かったのです。冬場には何日も風に吹き込まれて船が出て行くことができないこともありました。しかし、そのおかげで二名津の街も潤(うるお)っていたのです。夜になると船に乗っていた人が街へ集まってにぎやかでした。旅館や遊郭(ゆうかく)などもあったのです。
 また、風が強い日には、100tぐらいの機帆船(きはんせん)が50艘(そう)ぐらい泊まっていたこともあります。港の端から端まで船が並んで、上から見ると船の橋がかかってそれを渡れるぐらい並んでいました(図表1-5-1の㋖参照)。ここで避難しないと次は三机(みつくえ)まで停泊できる港がなかったからです。二名津港は海底が泥沼のようになっていて錨(いかり)がよく効くので船が流されないことも避難港になった理由だと思います。潮待ちをする船もたくさん泊まっていました。三崎の灯台(佐田岬灯台)を回るときには潮を見ないと回れなかったからです。潮を無視して航海すると燃料をたくさん使うことになったのだと思います。
 港の周辺には船の燃料を扱う油屋もありました。長浜(ながはま)から油(重油)を運んでいました。油屋の近くには魚問屋があり、港で漁師から買ったタイを大きなイケスに入れておいて、生船(なません)(魚を生きたまま運ぶ船)で大阪や神戸へ運んでいました。イケスに入れていたタイをカワウソに全部取られたという話を聞いたことがあります。その当時はカワウソがたくさんいて、夜になると港に泊めている船にも上がって遊んだりもしていました。油屋の前の波止場には、いろは丸(長浜・二名津間を就航)が着いていました。二名津へ泊まる唯一の定期船です。しかし、冬場の瀬戸内側は時化(しけ)が多く、欠航ばかりで採算が取れなかったのか、いろは丸の就航は長く続きませんでした。八幡浜に行くには、名取(なとり)まで行って八幡丸に乗らなければ行けなかったのです。交通の便が悪くて八幡浜へ買い物に行くこともできなかったので店が多かったのだと思います。明神(みょうじん)や松(まつ)など旧神松名村の人も同じ状況だったので、二名津へ買い物に来ていました。道路事情が良くなって八幡浜や大洲、松山へ買い物に行く人が増えて、二名津の店は廃(すた)れていったのだと思います。」