データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 半農半漁の生活

(1)農村の一面

 ア イモ、麦の栽培

 「昭和20年代から30年代中ころの二名津の主な産業は段畑でのイモや麦の栽培でした。品種は、麦が香川裸(かがわはだか)1号、イモが高系(こうけい)4号で4号イモと呼んでいました。麦はほとんど食用ですが、イモはデンプン工場があったので、収穫したイモをそのままデンプン工場へ運んでいました。二名津の農家はデンプン工場があったので切り干しにして出荷することはあまりしていませんでした。生イモから切り干しの歩留(ぶど)まりは約30%です。例えば生イモ10kgで切り干しを作ると3kgになります。切り干し作りは釜木(かまぎ)が盛んで、1軒が16貫(約60kg)入りの俵を100個ぐらい作って出荷していました。そのため切り干しを作る時期には、家の中も切り干しで一杯になって寝る場所がないくらいになっていました。それを農協がダンベ船(団平(だんぺい)船、幅が広く底を平たく頑丈(がんじょう)に造った船で重量物の近距離輸送に用いた。)で運んでいました。切り干しは広島県の宝酒造や宮崎県の焼酎(しょうちゅう)工場へ運ばれ、焼酎の原料になっていました。昭和30年代中ころから夏柑が入ってきて、次第にイモや麦の栽培から夏柑栽培へと変わっていったのです。昭和42年(1967年)に大干ばつでイモが収穫できなかったことがありました。その年を境にしてイモ畑や麦畑が消えていきました。原料のイモがなくなったのでデンプン工場も昭和44年(1969年)に閉鎖されました。」

 イ 伝馬船で運ぶ 

 「収穫したイモや麦、ダイダイ(夏柑)は山から海岸までオイコで背負って下ろして、それを伝馬船(てんません)で運んでいました。その当時、長崎山(ながさきやま)には道らしい道がなかったので、ほとんどの農家は収穫したイモや麦、ダイダイを運ぶために伝馬船を持っていました。二名津港の内側(陸側)には何艘もの伝馬船が並んで泊まっていました。伝馬船は、櫓(ろ)で漕(こ)ぐ長さ4mほどの木造船で、荷物の運搬をする船なので漁船よりも幅も広くてがっしりしており、船足は遅いのですが安定感があり、300貫(約1,125kg)ぐらいの荷物が積めていました。昭和30年(1955年)ころ、伝馬船を私(Fさん)の家で造った時に3万円でした。櫓や櫂(かい)は別注文でした。私(Dさん)が役場に入った時の初任給が4,200円だったので、そのぐらいの値段はしていたと思います。伝馬船に安定感があってもマジの風が吹くと沖から急いで沿岸に逃げていました。マジの風は丘から沖へ向かって吹く風なので、マジの風が吹くと櫓を漕いでも前に進まないので伝馬船は沿岸を通って帰っていました。子どものころ、いたずらをすると『マジの日に戸板(といた)に乗せて流すぞ。』と言って怒られていました。
 現在の船は、雨が降って底に水がたまっても抜くことができるようになっていますが、当時の船は雨が降ると船底に水がたまるのです。山で仕事をしていても雨が降り出すと、親から『すぐに船を見に行け。』と言われ、漁港まで走って行って船にたまった水をかき出していました。」

(2)漁村の一面

 ア イワシ網漁

 「昭和20年代はまだイワシ網漁が盛んに行われていました。昭和30年代初めまでは行われていたと思います。網元が2軒ありました。1軒は役場支所の前の家で、もう1軒は酒屋をしながら網元をしていました。私たち(Dさん、Eさん、Fさん)も中学生の時にイワシ網を引いた経験があるのですが、イワシだけでなくタイやメジカ(ソウダガツオ)がかかったりもしていました。慈照院(じしょういん)の入口から長崎鼻(ながさきのはな)に向かって山道を登って行くと二名津港が一望できるカンショマツ(監視所の松)と呼ばれる場所があり、見張り人がいて、海を見てイワシの群れを発見すると『カレシバ』という軍配(ぐんばい)のようなもの(サイ)を両手に持って振りながら『ヨーオホー、ヨーオホー。』と大声で合図をします。イワシの群れが湾に入ってくると海が赤くなるのでわかるのです。そのことをアカミと言います。合図の仕方も群れが大きいときと小さいときでは違っていました。大きいときは、カレシバを振るのも大きくて早く、声も叫ぶような大声で『ヨーオホー、早ようせい。ヨーオホー、早ようせい。』と言っていました。早くしないと群れが逃げてしまうからです。私たちは合図がわかるとすぐに港へ行って船に乗り、オオゴシという船を操(あやつ)る人の指図(さしず)で網を引く手伝いをして分け前をもらうのです。いわゆる菜曳(さいび)きをするのです。船に乗り遅れると菜曳きが成立しなくて菜(さい)(おかず)にありつけないので、合図があると急いで港へ行って船に乗っていました。分け前はイワシが大漁の時はたくさんもらえたのですが、少ない時は10匹ほどしかもらえないこともありました。イワシ網漁の時期は主に夏です。中学校は夏休みになっているので、山(畑)に行って畑仕事の手伝いをしなければならないのですが、菜曳きに行くと畑仕事を手伝わなくてよくなり、終わると海で泳いで遊ぶこともできるのです。夏の暑い時期に畑仕事の手伝いをするのが嫌だったので、菜曳きがあると喜んで行っていました。菜曳きには小学生も行っていましたが、小学生では網を引くことができないので、大人がロクロ(網を巻く道具)に網を巻いた後の手伝いをしていました。それでも分け前はもらえたのです。群れが来るのが夕方になることもあり、日が暮れて真っ暗な中で網を引いたこともあります。分け前でもらったイワシは干してイリコにしたり、大きな樽に大量の塩を入れて、その中にイワシを入れて塩漬けにして保存食にしたりしていました。10月のイモの収穫の時期に畑で火を焚(た)いて、桑の葉の上に塩漬けにしたイワシ置いて焼いて食べたり、冬に家の囲炉裏で白菜の上にイワシを置いて食べたりしました。」

 イ 一本釣り

 「農業に比べると漁業をする人は少なかったのですが、近くにタイの好漁場があったことから一本釣りでタイを釣ったり、夜釣りでイサキやイカを釣ったりする漁師がいました。昭和30年(1955年)ころは、エンジンの付いた漁船でなく、オオガーラ沿いの造船所で造っていた木造の漁船で櫓を漕いで沖の漁場まで出ていました。櫓を漕ぐだけでは大変なので帆を上げて風を利用して出ていたのです。港から北へ2kmほど進んだところに長崎鼻という場所があります。櫓を漕いで30分ぐらいで行けるのですが、漁師の中には、港まで帰る時間がもったいないので、漁をして夜になるとそこへ船を泊めて、翌日の早朝にまた漁に出る人もいました。漁師の家の女の人は、港の周りでタイの餌(えさ)にするシャコ(アナジャコ)をよく捕っていました。糸をシャコの尻尾(しっぽ)に巻いて、それを砂泥地のシャコのいそうな穴に入れて引っ張ります。シャコは縄張り意識が強いので、穴に入ってきたシャコを追い出そうとして穴からシャコが出てくるのでそれを捕まえるのです。私たちも子どものころにワラをシャコの尻尾に巻いて、シャコを捕って遊んだり、それを餌にホゴを釣って遊んだりしていました。」

(3) 自給自足の生活

 ア 主食は麦とイモ

 「当時は麦やイモが主食でした。私たち(Eさん、Fさん)が小学生や中学生のころは、麦すら腹いっぱいに食べさせてくれない時代でした。親からイモを三つ食べてから麦飯を食べなさいと言われていました。高校生の時でも(昭和37年〔1962年〕ころ)、まだ麦とカンコロを一緒に炊いていました。弁当にカンコロを入れると食べづらいので、カンコロを除けて麦飯だけをすくって弁当箱に入れていました。カボチャも作っていたので、夏になると南京(なんきん)おじや(カボチャの雑炊(ぞうすい))ばかり食べていました。『盆の前後と南京おじやはあつい(暑いと熱い)』などと言っていました。昭和30年代は、正月やお祭以外に米を食べるということはなかったです。お米は『チンチマンマ』と言ってお金を出さないと食べられなかったので貴重でした。子どものころは、お祭りになるとお米を腹いっぱい食べられるので楽しみにしていました。米が主食になるのは昭和40年代になってからです。私(Dさん)は、結婚するまでは麦飯を食べていました。結婚してから、嫁に麦飯を食べさすわけにはいけないと言って米の飯に替えたのです。この辺は、田んぼがないので米を作ることができなかったのです。私(Fさん)は農政局に勤めていたのでわかるのですが、昭和30年代に半島(佐田岬半島)で米を供出(きょうしゅつ)していたのは、伊方の九町(くちょう)で少し供出があっただけでした。三崎でも一部米を作っているところはあったのですが、供出するところはなかったと思います。」

 イ 肉や魚はぜいたく品

 「基本的には、自給自足の生活でイモ、麦以外にもカボチャやキュウリなど野菜も作っていました。味噌(みそ)や醤油(しょうゆ)も自家製です。麦味噌を作っていましたが大豆は貴重品だったので余り入れてなかったのです。魚や肉はほとんど食べることはなかったのです。その当時、魚屋や肉屋がなかったのは、魚や肉がぜいたく品だったので売れないからだと思います。肉は、ニワトリを飼っていたので廃鶏(はいけい)が出たら、それをさばいて鶏肉を食べるぐらいでした。ヤギも飼っていて、乳を搾(しぼ)ってミルクをとっていました。牛乳屋もあったのですが、牛乳は高価でめったに買うことはできませんでした。牛乳屋は敷地内で乳牛を飼って乳を搾(しぼ)って売っていました。昭和30年代は、まだ肉牛(三崎牛)も飼育しており、大久の牛市に出していました。大久まで3里(約12km)ぐらいあるのですが、山を越えて牛を引いて連れて行っていました。豚の飼育もしていて、業者が取りに来て、船で大阪へ運んでいました。牛や豚の飼育は現金収入を得る手段でした。」

 ウ 炭焼き

 「牛や豚の飼育以外にも、名取から店の荷物を運ぶ駄賃(だちん)担ぎの人や冬に炭を焼いて収入を得る人もいました。炭焼きは昭和30年代になると少なくなっていましたが、それ以前には二名津のほとんど全戸で炭を焼いていました。木は自分の家で持っている雑木山にあるクヌギやバベ(ウバメガシ)を使います。バベはこの地域の特産品でバベの炭は備長炭といわれ重宝されていました。10月ころから木を切って山にある炭窯で焼き始めます。乾燥した木では良い炭ができないので生木を使います。窯に火を入れてから炭を出すまで1週間ぐらいかかっていました。1釜で約30kg入るカマスに25、26袋の炭ができあがります。機帆船に積んで大阪へ運んで売った人もいましたが、ほとんどは三崎に運んでいました。当時の三崎は夏柑で儲(もう)かっていたので、三崎へ炭を持って行くとよい値段で売れていたのです。高校時代に三崎に行く時に炭を担いで行っていました。私(Eさん)が最後に焼いたのは昭和45年(1970年)で、それ以後は二名津で炭焼きは消えました。」

 エ 子どもは貴重な労働力

 「子どもは貴重な労働力だったのです。学校から帰ると、今のように黒板や白板(ホワイトボード)などない時代なので庭先に炭で『○○○の山に来い。』と書いてあるので、すぐに行って手伝いをしていました。水道が通ったのは昭和26年(1951年)ですが、それまでは共同井戸があり、そこへ水を汲(く)みに行っていました。私(Dさん)は小学生の時から共同井戸に水を汲みに行くのが役割だったので、水道を引く工事が始まった時に、家にはいつ引かれるのだろうかと心待ちにしていました。家まで水道が引かれた日に、学校から帰って水道が家に引かれたことを知って万歳をして喜びました。
 私(Eさん)の家は地下水をポンプで水を汲み上げていましたが、バケツに水を汲んでそれを風呂に入れるのが子どもの時の役割だったのでそれが嫌でした。私(Fさん)の家もポンプでした。地下水がある地区はポンプを使って、地下水のない地区は共同井戸から水を汲んでいたのです。
 風呂を沸(わ)かすのも子どもの役割でした。薪(まき)で風呂を沸かすので大変だったのです。最初に松葉を燃やして薪に火を付けるのですが、松葉を拾って集めるのも子どもの仕事です。大人は冬の間に1年分の薪を作ります。薪は山で割ってカズラで巻いて束にして、家に運んで木納屋(きなや)という倉庫に置いていました。木納屋に入らないものはそのまま山に置いておいて木納屋の薪が減るとその分を山から持って帰っていました。薪は風呂を沸かす以外にもかまどでも使います。戦時中に松根油(しょうこんゆ)をとって枯れた松の根っこの部分や松の枝で枯れている部分は油があるのでよく燃えます。それを正月の餅(もち)をつくときなど大きな火力が必要な時に使っていました。その当時、松は重宝されていたのです。松が少しでも枯れるとすぐに切って薪にしていたので、松くい虫などがあまり繁殖しなかったのだと思います。今考えると当時の生活はエコな生活だったと思います。自給自足の生活で、イモや麦、野菜など人が食べられないものは家畜の餌(えさ)に、家畜の糞(ふん)や下肥(しもごえ)は肥料に、プラスチックやナイロンなどないので、燃やせるものは燃やして燃料にするというような、地球に優しい生活でした。
 昭和30年(1955年)ころは、まだ戦後のモノのない厳しい時代が続いていました。毎日が食べることに精一杯の時代だったのです。そのため、ダイダイ(夏柑)よりも食べ物が優先的に作られ、山の天辺まで段畑を耕し、主食の麦やイモを中心に作っていたのです。自給自足の生活は当たり前で、大人も子どももよく働きました。道路も整備されてなく、都会からも遠く離れた地域ですが、今とは違い人がたくさんいて活気があり、互いに助け合いながら生活をしていたのです。」