データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 岬の端で海に生きる

 平成17年(2005年)4月に伊方(いかた)町、瀬戸町、三崎町の三つの町が合併し、新たに伊方町が誕生した。その合併直前に作られた『三崎町勢要覧2005』には、「海に生きる男たちの伝統の技」と題し、「岬(ハナ)の端(はし)は魚の宝庫」、「身体ひとつが資本の海士(あまし)と、巧(たく)みに船を操(あやつ)る一本釣りの男たち。碆(ばえ)と潮が育てた海の幸は、いまや〝岬〟ブランドとして東京、大阪を中心に取引される。」と書かれている(①)。
 その「岬の端」での生活について、伊方町串(くし)に住むAさん(昭和15年生まれ)、Bさん(昭和38年生まれ)と、伊方町正野(しょうの)に住むCさん(昭和6年生まれ)、Dさん(昭和22年生まれ)から話を聞いた。

(1)地域ではぐくまれた交流の輪

 平成23年(2011年)8月、聞き取り調査の待ち合わせ場所である旧三崎町立串中学校跡に着くと、運動場や体育館で子どもたちと若者たちが一緒になって遊んでいた。伊方町立佐田岬小学校の校長先生と伊方町立水ヶ浦小学校の先生によれば、若者たちは東京の駒澤大学書道部の学生で、毎年、夏休みに正野を訪れて1週間程度の合宿を行ない、地域の小学生に習字や水泳を教えてくれているという。今年は、平成16年(2004年)に現在の伊方町立三崎中学校に統合されて廃校となった串中学校校舎で実施された。
 この交流は、昭和38年(1963年)に正野を旅行で訪れた駒澤大学書道部の学生が旧三崎町と八幡浜市を結ぶ定期船に乗り遅れたところ、地元の人が船で定期船まで送ってくれて無事に帰路に着くことができた恩返しとして、翌年に書道部の研修を正野で行なったことから始まった(②)。合宿後に学生たちから佐田岬小学校に送られてくる文集『恩後露(おんごろ)』はすでに47号を数えており、この夏で48回目となる。
 BさんとDさんは次のように話す。
 「この地域、特に小学校(旧正野小学校、平成17年〔2005年〕に旧串小学校と統合してからは佐田岬小学校)のPTAにとっては、秋の運動会と同様に夏の大事なイベントであり、夏休みには駒澤大学の学生さんが来てくれて習字教室があるというのが恒例(こうれい)になっています。
 小学校が統合される前は正野の集会所で合宿をしていて、水が貴重な時分、風呂(ふろ)は近くの校長官舎(かんしゃ)のものを使っていました。小学校の用務員を長年された女性が集会所の隣に住んでいて、その方が主に世話をされていた時期もありました。正野の集落の人たちも集会所に野菜などを持って行ったりしていました。」
 この合宿の魅力について駒澤大学の学生さんは語る。
 「今年は書道部の部員12名で参加しました。子どもたちが書道に関心を持ち集中して取り組んでくれるので、子どもたちに興味や関心を持ってもらえる機会を与えることができる楽しさや喜びを感じています。私自身はそれまで愛媛県を訪れたことがなかったのですが、初参加のとき、全く知らない存在である私を、子どもたちをはじめ保護者の方や先生方、そして地域の方々が温かく迎え入れてくださったことにとても感動しました。それらが4年間参加し続けた理由です。」
 正野辺りではモグラのことを「おんごろ」と呼んでおり、文集の題名である「恩後露(おんごろ)」はそこからきているという。子どもたちがよく使う地元の言葉に「恩」「後」「露」の字が当てられているのは、地域の人たちから受けた大きな恩への露(つゆ)ばかり(わずかなほど)のお礼という学生たちの気持が込められているのであろう。偶然の出会いから生まれた温かい交流は、正野や串の人たちと駒澤大学書道部の学生たちの双方によって大切に守り伝えられている。

(2)生活の中で培われた人情・忍耐・勤勉

 ア 乏水地帯でのくらし

 佐田岬半島に暮らす人々の生活用水は、水道施設が整備されるまでは井戸(いど)水(共同井戸)や谷川の水を利用してきた。しかし、水量や水質に恵まれず、砂利(じゃり)を入れてろ過するようにしていたが規模が小さいために降雨時の濁(にご)りや水質の汚染がみられるなど完全なものではなく、保健衛生の面でも問題が多かった。
 その半島の中でも旧三崎町は南予随一の乏水(ぼうすい)地帯といわれ、串や正野では天水(てんすい)施設を設け、雨水をろ過し飲料用に使用していた。昭和20年代から30年代にかけて簡易水道が整備され、日常生活が便利になり衛生面の改善も図られた。しかし、夏季の水不足に見舞われると、地区によっては水道施設が使用不能となり、給水車によって給水をしてもらわなければ日常生活に支障をきたすこともあった。この地域の水問題を解決するための苦闘(くとう)は、昭和57年(1982年)に野村ダムが竣工(しゅんこう)し、平成4年(1992年)に南予用水(なんよようすい)が旧三崎町に届くまで続いた。
 Aさん、Bさん、Cさん、Dさんは、串や正野での水にまつわる記憶を次のように話す。
 「串と正野の地区の難点は水がなかったことです。これには一番苦労をしました。水との闘(たたか)いです。南予用水ができるまでは井戸を使っていました。でも、井戸はあっても質の良い水は出ず、水の出るところもあまりなかったのです。特に夏場は井戸もカラカラでした。家が2、3軒集まったところに井戸がぽつんとあって、そこが涸(か)れたらもう少し低い位置に移ってまた井戸を掘るということを繰り返していました。笑い話ですが、大阪に出稼(でかせ)ぎにいった人が、水道の蛇口(じゃぐち)から水が出るのを見て蛇口を買い、こちらの家に戻り買ってきた蛇口をひねっても水が出なかったという話があります。それだけ皆(みな)、水には苦労をしたということです。
 この辺りは、山が迫って急傾斜地であるうえに平地がないので、雨が降っても水の溜(た)まるところがありません。串地区で最後まで水が残るのはこの串中学校の校舎が建っている辺りで、以前は田んぼでした。そこに『兵衛田川(ひょいだのかわ)』と呼ばれた小さな川が流れていて、そこからどれだけ水を汲(く)んだかわかりません。そのころは、水が悪いか良いかは触って確認していました。水であれば多少の質などは気にしませんでした。
 水はとても貴重で、洗濯は、まず海水(かいすい)で洗って最後にすすぐときだけが真水(まみず)でした。米を炊(た)くときも、まず海水で米をとぎ、最後に真水でといでいました。海水で炊いた飯(めし)はうまいです。できるところまでは海水。そして最後に真水。それぐらい水を大切に使っていました。
 昔は五右衛門(ごえもん)風呂で、風呂に入るのは3日に1回ぐらいだったでしょうか。昭和30年代初めのころにはドラム缶を切って据(す)えた風呂に入った記憶があります。風呂に入ることも少なく、濡(ぬ)らしたタオルで身体を拭(ふ)いて終わらせることもありました。そもそも風呂のある家がめずらしく、昭和40年代までに建てられた家の間取りに風呂場のないものが多いのは、水がないので風呂場を作る必要がなかったからです。」
 子どものころの水の配給や水汲みの思い出をDさんとBさんは話す。
 「小学校の高学年や中学生になったら、学校から帰ったら水汲みをするのが手伝いの一つでした。私(Dさん)たちが子どものころ(昭和30年前後)には正野に給水車は来ていませんでした。昭和38年(1963年)ころまでは車の通れる道路が現在の三崎漁協の辺りまでしかなかったからです。
 給水船で水が配給されていたという話も聞いたことがありますが、私(Bさん)たちが子どものころ(昭和40年代後半)には給水車でした。一軒につきポリ容器に何本というように決められて水をもらっていました。普段は、井戸の水が溜(た)まるのをじっと待って汲んでいました。どこの家も同じなので水汲みの順番待ちも大変でした。自分の家では、祖母はいないし父と母は働かなくてはならないので昼間に水を汲むことができず、みんなが寝静まった夜中か明け方に母が水を汲みに行っていました。父は朝から仕事があって夜は寝ないといけないので私が水汲みの手伝いをしました。夜の10時くらいに母に起こされて『父(とう)ちゃんは明日海に行かないかんけん寝かさないけん。ほやけん、すまんけど懐中電灯を持って行ってくれ。』と頼まれるのです。母が井戸や川から水を汲んでいるのを懐中電灯で照らし、汲んだ水を持って帰る。それが苦ではなく自分が頼りにされていると感じ、手伝いができることがすごくうれしかったものでした。」

 イ 里道を歩く

 佐田岬半島の陸上交通について、『三崎町誌』には「半島全体急峻で細長い地形にはばまれ、ながく陸の孤島として取り残されていた」と記され、『瀬戸町誌』には「明治大正昭和初期に至るまで、町内各地区を結ぶものは通称里道(りどう)であり山道であった。それにまつわる種々の苦労話を古老(ころう)は吐(は)き出すように語る」と記されている。昭和33年(1958年)に県道八幡浜・三崎線が開通するまでは三崎町内の道は人ひとり通るのがやっとの険(けわ)しいものばかりで、県道も昭和40年(1965年)に一般国道197号線となったが、曲線が多いうえに幅員が狭く「酷道(こくどう)197(いくな)線」の異名で呼ばれる道路であった。その後、道路網の拡大と道路の改良が進み、昭和62年(1987年)の国道197号頂上線(佐田岬メロディーライン)の開通によって陸上交通の不便さは解消された。
 自らの足が頼りであったころのくらしについてBさんは語る。
 「正野では米ができないのでイモ(甘藷(かんしょ))で作ったカンコロを食べていました。串や正野は山が急傾斜で、そのうえに水がないので、なかなかイモができないのです。そのため、自分の畑でできるイモも限られているので、獲(と)った魚でイモを買ってカンコロを作っていました。たとえば、旧瀬戸町の高茂(こうも)は、魚はないけれどイモはありましたので、串から高茂まで(直線距離で10kmを超える)を一日かけて歩き、魚とイモの物々交換に行っていました。昔は今のような道路がなかったので、朝、魚を背負って出発し、昼過ぎにイモを背負って帰ってくるのです。これは昭和20年代ころの話です。」
 串や正野に暮らす人たちの温かな人情や辛抱強さ、仕事への一生懸命さは、厳しい生活環境の中で、水や日々の糧を手に入れるために家族で労(いた)わり合い地域で協力し合いながら生きることをとおしてはぐくまれてきたのであろう。

(3)碆と潮が育てた幸を海からいただく

 旧三崎町でのおもな漁法は、潜水漁法、一本釣り、網漁法である。激しい潮流と岩礁(がんしょう)の多い沿岸のすべてが採貝・採藻漁の好漁場であり、特に岬端(こうたん)部は潮の流れが速いため貝類の生育が早い。また、岬の沿岸一帯は一本釣りの好漁場でもあり、ハマチやタイは1年中、冬から春にかけてはイカ、夏はアジがよく釣れる。岬端部に位置し隣接する串、正野の両地区ではそれぞれ中心となる漁法が異なり、伝統的に串では潜水漁法が、正野では一本釣りがそれぞれ主であるという。その理由について、文化人類学者で民俗学者でもある田村善次郎氏は『風哭(な)き海吠(ほ)える佐田岬半島』の中で、藩政時代に宇和島藩(うわじまはん)の狩場(かりば)でイラズの山と呼ばれていた正野の地域が、慶応3年(1867年)以降、串やその他から移ってきた人たちによって拓(ひら)かれたことから、後発(こうはつ)の正野の人たちが異なった技術で異なった獲物(えもの)を対象に生業(せいぎょう)をたてることで漁の棲(す)みわけが行なわれたのではないか、と述べている(③)。
 Aさん、Bさん、Cさん、Dさんは採貝・採藻漁や一本釣りについて、串に住むEさん(昭和10年生まれ)は漁獲物(ぎょかくぶつ)の運搬・販売について、それぞれ次のように話す。

 ア 串の海士の仕事

 (ア)岬端をスム

 「現在の三崎漁業協同組合に合併する前は、串地区を中心にした三崎町漁業協同組合と正野地区を中心とした佐田岬漁業協同組合とに分かれていました。串の方は、夏が素潜(すもぐ)りで冬場は延縄(はえなわ)漁や出稼ぎに行くのが主で、正野では年中、この半島の灯台先で一本釣りをするのが主でした。合併した今でも、串地区は素潜りが多く、串は海士(あまし)、正野は一本釣りです。正野にも海士はいますが串ほどではなく、串にも漁士(りょうし)(漁師)はいますが正野ほどではありません。
 この辺りの海士には樽(たる)海士と繰上(くりあ)げ(分銅(ふんどう))海士があります。樽海士は、アワビやサザエを入れるテゴと呼ぶ網袋(あみぶくろ)とともに重(おも)り綱(づな)で固定した浮き樽(串ではヒョウタンという。以前は木製であったが、現在は発泡(はっぽう)スチロール製。)を使い、比較的浅い磯(いそ)を潜(もぐ)る(串ではスムという。)海士で、上がったときにその浮き樽で休憩(きゅうけい)しながら水中をのぞき見ます。現在は、この樽海士が多く、重さ5kgから7kgの鉛(なまり)の分銅を取り付けた綱を持って深く潜るような繰上げ海士はほとんどいなくなりました。本来、繰上げ海士というのは、海中の深い所でアワビなどを獲り、身に付けた命綱を引いて海面に上がる合図をしたら、船の取りかじに結びつけた命綱を船の上にいる者に繰(く)って上げてもらう方法をとる海士のことをいいます。三崎に住む高齢の夫婦一組だけが繰上げ(海士)をしていますが、今は、海士の持つ分銅綱を繰り上げるだけで海士は自力で上がってきていますので樽海士とあまり変わりません。
 昔の繰上げ海士は、二人の海士と船を繰(あやつ)るトモオシ一人の3人で組み、一つの魚場で4回から5回の作業(1回の作業を串ではヒトカズキという。)を二人で交代しながら3時間から4時間かけてしていました。1回の作業ごとに一人の海士が潜水を5回(1回の潜水を串ではヒトイリという。)するのですが、その間にもう一人の海士は命綱を繰り上げます。1回の潜水で、大体15尋(ひろ)(約27m。尋は水深をはかる長さの単位で、1尋は両手を広げたときの両手先の間の距離〔約1.8m〕。)の深さの所を2分間くらい潜っていました。昭和30年代の後半ころからゴム製のウエットスーツを着るようになるまでは褌(ふんどし)一つの裸のままで海に入っていたので寒くてしようがなく、沖での作業(串では沖ズミという。)のときは船の上でたき火に当たっていました。
 1回の作業で一人5回の潜水までと取り決められれば、5回目の潜水の終わりにアワビを見つけても6回目の潜水はできません。寒いからということもありますが、回数を守り、順番で潜ります。
 私(Aさん)は、これまで2回ほど息を詰(つ)めたことがあります。上がってくる途中に大きなアワビが見えたので、もう一度戻ってそれを獲(と)りに行ったのです。でも、アワビに金棒(かなぼう)(串ではイソガネという。)を差し込んでもなかなかアワビが起きなかったのです。息がある時ならば起こせるようなアワビでも、息がないときには起こせません。急いで上がったら、目がぐるぐると回っていました。そのときは、しばらく浮き樽につかまりながらじっとして休んでから帰りました。そのような状態を『息を詰める』といいます。
 海士になって親から最初に言われるのが、『上がりながら見えたやつ(アワビやサザエ)は(獲りに)行くな。』です。海士をしていて身体を悪くする原因のほとんどが、上がる途中にアワビやサザエが見えたのでもう一回行ってしまったというものです。
 潜水中の事故についていえば、岩の隙間(すきま)に手を入れてアワビやサザエを獲るときに、最初は入っても息がなくなってくると慌(あわ)てるので手が出てこなかったり、夏場に多いのですがウツボに噛(か)まれたりすることがあります。ウツボに遇(あ)っても、追いかけてこないし、じっとしていていればいいのですが、噛まれてしまうと、ウツボの歯は内側に向いて生えているので手を引っ込めた途端に深くえぐられます。この辺りで一番怖(こわ)いのがウツボです。」
 Bさんは、自身も何年か前にウツボに噛まれたと話し、「親から教えられることの一つに、『見えないところに手を突っ込んでウツボに噛まれたら手を引かずに押せ。相手(ウツボ)は喉(のど)が詰(つ)まるので口を開く。』というのもありますが、これはなかなかできません。」と笑う。

 (イ)延縄と出稼ぎ

 「海士の漁期は、貝や海藻の種類によって獲ることのできる期間は違いますが(図表2-1-1参照)、大体、春から秋にかけてなので、冬場などは延縄(はえなわ)漁や出稼(でかせ)ぎに行くことがあります。
 私(Aさん)は、フグの延縄で、静岡県の下田(しもだ)や山口県の下関(しものせき)、長崎県の五島(ごとう)などに行ったことがあります。船の持ち主の船方(ふなかた)に雇(やと)われて何か月間か船に乗り込み、そのうち1か月くらいは早めに山口県の粭島(すくもじま)に行って延縄に使う縄を作っていました。今になってみればお金にもならないものを1か月もかけてよく作っていたなと思いますが、当時は串から多くの人が粭島に行っていました。 
 出稼ぎには、串の人同士が何人かで船に乗り込み、大分県の保戸島(ほとじま)によく行っていました。保戸島の漁業協同組合とは事前に話し合って、収穫高から一定割合を差し引く形で春と秋に入漁料(にゅうぎょりょう)を納めていました。私(Aさん)の場合は3人で動力船に乗って保戸島に行きました。3人とも串では樽海士をしていましたが、保戸島では繰上げ海士をしました。一人が分銅を持って潜り、もう一人が命綱を繰り上げ、残る一人が櫓(ろ)を引いて船を押す、を交代でやりました。
 子どものころは、保戸島に出稼ぎに行った人が帰ってくるのを楽しみにしていました。持って帰ったアワビの殻(から)を見せてもらえるし、殻の大きさを比べながら『今シーズンの最高』を決め、それを獲ったときの武勇伝(ぶゆうでん)を聞かせてもらえるからです。その上、この辺りで『保戸どんぐり』と呼んでいた大きなアメ玉をお土産(みやげ)にもらえることも楽しみの一つでした。アメ玉はほっぺたになかなか入らず、ほっぺたに収(おさ)まっても片方からもう片方へ移せないくらい大きいものでした。
 保戸島で潜っていたときに、岩かと思っていたものが光って動いたので起こしてみたら大きなアワビだったことがあります。その殻を持って帰ったらよかったと思います。アワビにも種類があって『ヒラガイ』、『クロガイ』、『メダカガイ』がいます。でも、今はこの辺りにメダカガイはほとんどいません。年に2、3枚獲れるかどうかです。クロガイは肉厚で日持ちがよいので高値で売れますが身肉が硬い。味でいえばメダカガイが柔らかくておいしく、明鮑(めいほう)(アワビの肉を煮(に)て乾燥させた食品で中国料理の材料)に一番使われます。この辺りでは、子どもができた女性にメダカガイで作った『こもけ(〔子をもうける〕の意味)汁』を食べさせると母乳の出がよくなると言われています。お産(さん)直後の女性に、産後の肥立(ひだち)がよくなるようにと食べさせたのでしょう。」

 (ウ)クロメ漁

 「海藻のクロメは春に芽を出して冬に枯れるということを繰り返すので、春にクロメを採りに行っていました。今は、クロメで漁をするというよりは、自分の家で食べる分を採るぐらいです。クロメを使った料理の中で私(Aさん)が一番うまいと思うのは、メバルとか脂(あぶら)ののった魚のお汁の中に小さく切って入れて、それをご飯にかけて食べるものです。
 クロメは昔から食べられていましたが、食べ方としては、クロメを汁に入れて食べるのと、刻(きざ)んで醤油(しょうゆ)をかけてご飯と一緒に食べるのと二つに分かれていました。私(Dさん)はご飯派です。
 クロメは粘りがあって食物繊維(しょくもつせんい)が豊富なので便秘(べんぴ)によく効(き)くともいわれています。旬(しゅん)は春なのですが、採った後に葉を巻いて冷凍しておくと、いつでも解凍して使うことができて便利です。
 戦時中は、クロメを採りに行き、乾燥させてから焼いて灰にしていました。その灰は、火薬を作るときに使われたそうです。また、昔はクロメを売っていて、醤油の着色料に使われたり、ヨードチンキ(傷口の消毒等に使われる薬剤)を作るときに使われたりしたと聞いたことがあります。身体にイボができたときにはクロメの芯を切ってそのねばねばした汁をつけたらイボが取れるといわれていますので殺菌作用はあるかもしれません。それと、クロメはよく畑の肥料にもしていました。今のように十分な肥料がなかったころは、台風などの大波によって海岸に打上げられたクロメを採っては畑に持って行っていました。
 昔から、各地区の人たちは浜(海岸)の入札をして区画ごとの権利を買い、手に入れた区画の浜に打上げられた海藻を自分の畑の肥料にしていました。『ちぎれて流れてきた藻類を拾う権利』ということです。串では7、8年前に入札を止めて浜の利用を自由にしています。正野では現在も地区の集会後に入札をしていますが、今の入札金額はとても少額になりました。昔からそのようにして藻を集めていました。主に肥料にしていましたが、テングサなんかはお金にもなりました。
 昔は冬場になると、港に泊めていた船のスクリューに海藻が巻き付いて船が出られないようなこともありました。でも、最近は、この辺りでも海藻が少なくなりました。それが、貝類や魚が少なくなった原因の一つだと思います。
 海に潜っているとわかるのですが、海岸のぎりぎりの所までミカン畑が迫っているような場所では、その下の海中に海藻が少なく、逆に海藻が多い場所の陸や山を眺(なが)めると、そこは段々畑のない藪(やぶ)だったりするのです。海藻が減り、その結果として貝類や魚が少なくなった背景には、温暖化などの気候の変動や海流の変化などがあるのでしょうが、仕事や生活の中で海への影響をあまり考えてこなかったこともあるように感じます。『山を育てなければ海は育たない』という言葉のとおりだと思います。」

 イ 正野の漁士の仕事

 (ア)日本一の漁場

 CさんとDさんは正野の漁業について話す。
 「昭和20年代の終わりころ、岬の端の辺りでは寒流系や暖流系の魚以外であればあらゆる魚が釣れました。私(Cさん)の父はよく、『日本で一番よい漁場だ』と言っていました。タイやハマチ、ブリ、サワラ、イサキ、サバなどがどんどん釣れました。対岸の佐賀関(さがのせき)(大分県)が船で30分くらい走らないと漁場に着けないのに比べ、こちらは5分くらいで漁場に行けます。その点からいってもすばらしい漁場ですが、昭和30年(1955年)前後から魚が少なくなったように思います。
 正野には、昔から根づいた漁として一本釣りがあります。いろいろな漁の中でも腕の差がでるのは一本釣りです。この辺りでは、佐田岬灯台周辺の磯(いそ)場の近くでタイやハマチ、イサキなどの磯魚を釣る漁を『陸周(おかまわ)り』といいます。一本釣り以外の漁で、例えばタチウオ釣りなどは、正野では昭和55、56年(1980、1981年)ころから始まり平成元年(1989年)ころに盛んになりましたが、漁場の真ん中で漁をしたらだれでも釣れます。だから場所取りに遠慮するような人はあまり釣れず、腕の差ではなく気の強さで漁が決まる部分があります。
 正野では、一本釣りよりもタチウオ釣りのほうが漁があって景気のよかった時期もありましたが、最近ではタチウオの水揚げも少なくなってしまいました。タチウオ釣りの前には、フグの延縄漁が盛んなときもありました。フグの景気がよかったときは羽振りもよかったものです。でも、バブル経済がはじけるとタイやフグなどの高級魚の値段も落ちはじめ、平成8年(1996年)ころが、ここの漁場の水揚げのピークだったように思います。
 変化といえば、漁のときのマナーが守られないこともみられるようになりました。一本釣りでは、潮が流れる先とは逆のところに来て餌(えさ)を降(おろ)し、潮に流されながら釣り、そのまま流されながら釣れた魚を取り込み、それが終わると元の場所に戻る、という『沖流し』を繰り返します。だから釣船の潮先(潮が流れる先)に船を止めてはいけないというのが暗黙(あんもく)のルールだったのですが、最近、それをしてしまう人がいます。」CさんとDさんは、正野の漁業がかつてのような活気や矜持(きょうじ)を失いつつあると残念がる。

 (イ)漁をする侍

 田村善次郎氏は『風哭き海吠える佐田岬半島』の中で、正野と串で何人かの人たちに聞いたこととして、「正野は一本釣りが中心で、漁士専門である。海士は、串が専門であるという。正野でも海士をやった人は多かったし、現在も何人かは潜っているらしい。しかし、ここは漁士だと意識しているのは、面白いことだと思った。ちなみに漁士というのは、一本釣りや延縄などの釣漁をやる人のことであるという。(④)」と書いている。
 漁師ではなく「漁士」の字を当てることについて、正野に住むCさんは、「漁をする侍(さむらい)(士)だから」と解釈する。Cさんの父親は、正野で早くから動力船による一本釣りをはじめた一人で、戦中・戦後にかけて多くの鮮魚を供出(きょうしゅつ)した功績(こうせき)により、昭和24年(1949年)9月に、連合国による間接統治の下部機構であった愛媛民事部の司令官ウエリントン・ビー・サールス(シャールス)中佐から表彰された。Cさんは、「司令官が『Cさんの父は魚釣りは日本一だけれども握手をする術(すべ)を知らない。』とスピーチしたことを今でも思い出します。そのとき父は、何のことを言われているのか分かっていませんでした。ネクタイをすることはもちろんスーツさえ着たことがなく、知人のスーツを借りて出席した父にとって、一生で一番晴れがましいことでした。」と、笑いながらも誇(ほこ)らしげに語る。
 自身も若いころにその父親や兄たちと一緒に船に乗り込んでいたCさんは、昭和20年代ころの正野の一本釣りについて話す。

 (ウ)5馬力の焼玉エンジン

 「この辺りの一本釣りは、木枠(わく)に釣り糸をぐるぐると巻いたものを片手に持ち、もう片方の手で海にたらした釣り糸を微妙に上下させながら釣る方法をいい、釣り糸一本だけという意味です。昭和20年代ころは、船が小さくてスピードも出ず、釣れた魚が多いときなどは大きな波のローリング(横揺れ)やピッチング(縦揺れ)によって危険なこともある中で、親子や兄弟といった家族何人かで漁をしていました。家族では足りないときは、船方が人を集めて共同で出漁(しゅつりょう)することもありました。私の家では父と兄たちが一緒に漁をしていました。
 持ち船は、今の船に比べると小さい木造船でしたが、二丁櫓(ろ)ぐらいの手押し船がほとんどだった当時では大きいほうでした。漁船は女性の名前から名付けられることが多く、母の名前を取って『富士丸(ふじまる)』といいました。そのころ造船は佐賀関が有名で、宮崎県から取り寄せた軽くて丈夫(じょうぶ)なスギの赤い部分を使って造ってもらいました。戦時中は電気着火のエンジンを付けていましたが、戦後は5馬力ぐらいの焼玉(やきだま)エンジン(シリンダー内の赤熱(せきねつ)状態になった球形の突起(とっき)〔焼玉〕に油を吹き付けて爆発させる仕組みのエンジン。)で走らせていました。当時、この辺りではまだ、動力船は2、3隻(せき)しかなかったように思います。
 日の出前後や日の入り前後の境目をそれぞれ『朝まじめ』『夕まじめ』と言いますが、海面に上がるプランクトンを追って魚がやって来るその時間帯をねらって、朝から晩まで漁に出ていました。大潮(おおしお)でよく釣れるときはかなりの時化(しけ)でも漁をしていましたが、荒れた海の中に小さな船でよく行ったものだと今では思います。
 船での食事は、弁当で済ませたり、船に備えた竃(かまど)で作ったりしていました。竃をデッキから上に設けていた船もありましたが、富士丸の場合は、エンジンルーム後方の船倉に竃用のスペースを造り、そこに18ℓ缶を入れて竃にしていました。燃料には堅(かた)くて火力の強いバベ(ウバメガシ)をよく使い、普段は蓋(ふた)をして作業の邪魔(じゃま)にならないようにしていました。
 エンジンルームの前方には餌(えさ)を入れる生簀(いけす)を作り、さらに前方の舳先(へさき)近くには二人ぐらいが寝ることのできる小さな空間を作って、そこに船玉様(ふなだまさま)(船中で祀(まつ)る守護神)を置いていました。昔の船は、乗り降りするときに便利なように舳先に突き出し(通称ハイゴ棚)を付けていましたが、この辺りで、その突き出しを付けた最初の船が富士丸でした。」

 (エ)漁場を行き交う

 「佐田岬灯台の周りが主な漁場で、そこから瀬戸内海側へ3kmほど出たところにも漁場があります。ここでは魚場のことをアジロといい、アジロにはそれぞれ通称が付けられています。例えば、灯台のすぐ南側で黄金碆(おうごんばえ)の東側のアジロは『ケアゲ』と呼ばれ、昭和20年代に私が船に乗っていたころには、日の出前によくケアゲの少し陸地寄りの『ウドグイヤ』と呼ばれている場所で漁をしていました。この辺りでは穴のことをウドと言いますが、山見で穴が見えたところに食い合わせがあったのでしょう。また、灯台の西側で黄金碆の北側を『ワイマワシ』、そこからもう少し沖に出たところを『スナ』と呼んでいます。ワイは海の渦(うず)のことを言い、スナの通称は砂地からきています。これらの通称は今でも使われています。そして、アジロごとに引き潮がよいのか満ち潮がよいのか(魚がよく釣れるのは引き潮のときか満ち潮のときか)が決まっています。潮の流れによって餌が移動することが関係しているのかもしれません。
 漁をするときの餌はイカやイワシでしたが、それらも自分で釣っていましたので片潮(かたしお)は餌を獲ることで過ぎてしまいます。潮の干満(かんまん)は一日にそれぞれ2回あり、その一つひとつを片潮と言って大体6時間ぐらいです。時間が惜(お)しくて他の人にイカを釣ってもらう契約を結んでいた漁士もいました。イカはブリやハマチを釣るときの餌になります。秋冬ともに使えるヤリイカが冬にはあまり獲れなくなるので、コウイカが冬にはよく使われます。ヤリイカはハマチなどの青魚(あおざかな)の餌に向いており正野や串で釣れました。コウイカはタイなどの歯の丈夫な魚を獲るのに向いていて塩成(しおなし)や大久(おおく)、瀬戸内側でよく釣れていました。餌のことで言えば、主に手押し船での漁ですが、黄金碆の周辺でイサキを釣るときにはゴカイを餌にしていました。以前は大きなイサキがよく釣れていました。
 大漁の思い出としては、4、5kgぐらいのブリを片潮で80匹余り釣ったことがあります。当時は、漁士の間で『腕(うで)しだい、餌しだい』という言葉が使われていました。『腕』というのは技術のこともあるのでしょうが腕の力のことをいい、『腕しだい、餌しだい』というのは、腕の力やいい餌がある間は釣れるという意味で、それぐらい魚が多かったということなのです。
 よく釣れたときは小さな船の魚槽(そう)が一杯になります。そのときは、魚場が陸に近いこともあり途中で水揚(みずあ)げをします。当時は販路(はんろ)があまりなくて仲買(なかがい)に引き取ってもらうわけです。今のような陸上輸送ができないころなので仲買は運搬船でやって来て、海上停泊かこの辺りの港に着けていました。大体が仲買の言い値で売買されていましたので、父がよく、『漁士ぐらいつまらん仕事はない。自分が釣ったものを自分で値段をつけることができない。』と嘆(なげ)いていました。」

 ウ 水槽車で海の幸を運ぶ

 昭和24年(1949年)に新漁業法が公布されるとともに、三崎地区では正野、松(まつ)、神松名(かんまつな)(二名津(ふたなづ)・明神(みょうじん))、三崎、名取(なとり)に漁業協同組合が作られた。そして昭和36年(1961年)には、これらの漁協が合併して三崎漁業協同組合が成立した。三崎漁協が組合員のために取り組む事業の中には、漁獲物の運搬・販売に関することも含まれている。
 当時の運搬・販売の苦労についてEさんは語る。
 「三崎漁協になって魚などを直接に販売するようになるまでは、大体、明石(あかし)型と呼ばれた生(なま)ボート(生きた魚の運搬船)で明石の仲買がやって来て、タイやイセエビなどを10日間とか15日間買い上げる入札を浜で行ない、生簀(いけす)にたまるとその生ボートが取りに来るという方法で販売していました。しかし、そのやり方では、仲買に買い叩(たた)かれるばかりで儲(もう)けになりませんでした。
 ですから、三崎漁協では、直接販売に方針を転換して、佐田岬漁協が持っていた一進丸(いっしんまる)という生ボートで魚を広島県まで運び、広島市と呉(くれ)市の市場で売り始めました。そのころはまだアワビやサザエは1年契約の入札をしていましたが、やがて貝や魚の出荷調整や稚(ち)貝・稚魚育成のための蓄養池が佐田岬灯台下にできると、アワビやサザエも直接販売に切り替えることになりました。そして、その運搬と販売を私が担当することになり、勤務していた三崎漁協下田(しもだ)出張所(静岡県下田市)から三崎に呼び戻されました。
 当時、アワビやサザエは大阪の市場に持っていくのですが、大阪の汚い海ではアワビが死んでしまうので、船では神戸までしか運べませんでした。ただ、神戸の海もきれいではないので、いつまでも船を繋(つな)いでいることはできません。そのため、西日本のアワビを淡路(あわじ)島の北淡(ほくだん)町の港に集めて出荷調整をしながら販売していた長崎県壱岐(いき)の人たちの仲間に入りました。しかし、いつまでたっても自分たちのアワビを売ることができず、しかもアワビは高い水温や傷に弱いので困りました。
 そこで、昭和42年(1967年)でしたが、一進丸に乗って広島県にいた私は、当時の専務理事に、『トラックを水槽車(すいそうしゃ)にして運んだらよいと思うのだがそうさせてもらいたい。水槽車を作るためにトラックがどうしても欲しい。』と頼みました。すると専務が、『そういうことを、どこかでだれかがしているのか。』と聞いてきましたので、『どこもしていないけれど、多分大丈夫だと思うのでやらせてもらいたい。』と言うと、『失敗したらどう責任を取るのだ。』と詰め寄られ、『辞職します。』と覚悟を決めて応えたところ、『辞めるだけでは責任を取ったことにはならない。損失を全額補うことが責任を取ることだ。』と言われ、『それはできませんが、このままではじり貧(ひん)です。』と頼み続け、結局は広島で4tトラックを買わせてもらいました。 
 それからトラックを持って帰り、プラスチック船がないころでしたので木の水槽を船大工に頼んで作ってもらって水槽車に改造しました。酸素ボンベを二つ積んで広島の音戸(おんど)の瀬戸から神戸や大阪まで私たち漁協職員が交代しながらぶっ通しで運転して運びましたが、遠いうえに道路が整備されていないので時間がかかりアワビが弱るのです。これではいけないと思い、一進丸で尾道(おのみち)まで運び、筏(いかだ)を借りてアワビを生かし、そこから水槽車で運ぶ方法に変えてからは、随分(ずいぶん)よくなりました。
 それでも水槽車に替えた最初のころは、アワビが死んでしまうことがありました。水槽内の水温が高くなることが原因の一つだとわかると、水槽の内側を鉄板で囲み、鉄板と木の間に氷を詰(つ)め込んで鉄板の中に海水を入れて運んでみました。しかし、2、3回はよかったものの今度は水槽の中が錆(さ)びてしまいアワビが死んでしまうのです。悩んでいるところに、ある人から水槽内の鉄板をグラスファイバーで覆(おお)うことを教えてもらい、そのようにしてみると錆が止まりうまくいきました。水槽車で運送するようになってアワビの値段もそれまでの何倍にも跳(は)ね上がりました。」
 串や正野の海士や漁士たちが伝統的な漁法によって海からいただいた、新鮮でおいしい貝や魚は、さまざまな人たちの努力を経て、全国の消費者に届けられるようになった。

図表2-1-1 海士の漁期(口開け〔解禁日〕と終期)

図表2-1-1 海士の漁期(口開け〔解禁日〕と終期)

三崎町教育委員会・三崎町文化財保護審議会『三崎町における海士の歴史・フグ縄漁・漁業の変遷表』(1997)をもとに、Bさんの協力により作成。