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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅱ-伊方町-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 酒造出稼ぎ

(1)酒造出稼ぎの初め

 江戸時代に伊方杜氏の出稼ぎがあったという話はいくつか見かけることができる。その中で、発信元・時期・出稼ぎ先が示されているのは、伊方町が発行した広報紙に掲載された安部若松の投稿のみである。その関係部分を抜粋し次に示す。
 「伊方杜氏の由来は、確かな記録がありませんが、先年、愛媛新聞のリアス風土記に依りますと、はぜの実搾(しぼ)りの出稼ぎにより酒造技術を習って、現在二三代目と記載されていました。それよりももっと古く私の家系でも、五代に渉(わた)って酒造に携わり、五代前(安政年間)岩松で酒造りに出稼ぎの記録があり、なお一昨年大阪学芸大学の篠田博士の全国杜氏の由来調査にこられた結果は、『伊方杜氏は宮窪杜氏よりもっと古く、日本でも最古の伝統ある杜氏(とうじ)だ。』と言明されています。(㉕)」
 安部若松は、当時西宇和郡酒造従業者組合組合長及び愛媛県杜氏組合連合会副会長の職にあり、その肩書きを付けての投稿であるから、権威もあり今少し詳しく調べたいところであるが、残念ながら本人は投稿の約1年後の昭和37年(1962年)逝去されており、ご遺族に尋ねてもその記録は、住居を改築したこともあり行方知れずだという。
 出稼ぎ先は、「岩松(いわまつ)」とあるのみで判然としないが、もし小西酒造場とするならば、貞享元年(1684年)米屋惣兵衛次成が岩松村にて酒造許可を得、城下に住居のまま酒造業を営み、その後、明治初期まで代々継続してきた歴史ある酒造場であって、代々の当主は宇和島藩に対しても相当の発言力を有していた商人であるから、販路・技術力共に城下の酒造家以上のものを持っていたと考えられ、岩松の小西酒造場に出稼ぎしたとすれば、技術力の給源では無く、労働力の給源としての出稼ぎと言うことであろう。
 なお「一昨年大阪学芸大学の篠田博士の全国杜氏の由来調査にこられた結果」云々の記述については、篠田統氏の著作で伊方杜氏に関するものは、昭和32年(1957年)発行の「西日本の酒造杜氏集団」以外には見当たらないので、「一昨年来られた」のは、安部氏の思い違いと考えられる。

(2)明治維新と酒造出稼ぎ

 明治5年(1872年)ころの酒造出稼ぎについて伊方村の様子をうかがわせる文書が、町見郷土館が預かっている豊之浦辻家文書の中に存在している。『御物成の儀につき願い上げ奉(たてまつ)り候(そうろう)』と題する明治5年7月付の文書がそれであり、その要旨は次の通りである。
 「御物成の規則が定められ、米や大豆を現物にて大阪で受け取るとのことでした。当地では琉球芋(りゅうきゅういも)を7割混ぜて主食としております。僅(わず)かな畑の内、半分は琉球芋を植え、半分は大豆(だいず)や小豆(あずき)を植えております。大豆は、豆腐(とうふ)・味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)に利用しますので、現物で上納できるのは僅かしか無く、多くは銀納にさせていただいてきました。米は以前より年内に納めてきましたが、大豆は、翌年の3月まで月割りにて銀納してまいりました。どこの家でも、前年の8、9月から翌年2月ころまでは、酒造働きに出ております。その賃銭を以て、翌年3月までの銀納にさせて頂きますようお願い申し上げます(㉖)。なお、この願書に対しては、「兼ねて相達し候通り、精々上納致すべく、万一差し支えの儀もこれあり節は、その節願い出るべき事」との回答がなされている。
 この文面で見ると、多少の誇張はあるとしても、全戸に近い働き手が酒造働きに出ているように読み取れるのである。
 明治新政府が最初に「酒造の儀は、古来より定法も之(これ)ある所 今般ご一新に付 鑑札お改め仰出(おおせいで)られ候間 早々差し出し申すべき事」と通達を出したのが、慶応4年(1868年)5月27日、俗に「酒造規制五箇条」と言われるものである。この通達の及んだ範囲は、山城国内に過ぎなかったとされているが、宇和島藩へは、6月1日高知藩よりの廻章を以て御達が届いたと記録されている。しかし、この通達によって宇和島藩がどう動いたのかは不明である。
 明治新政府の政策が本格的に展開可能になったのは、廃藩置県以後といわれる。酒造政策の場合、明治4年(1871年)に廃藩置県の詔書が発布され、丁度そのころ、「清酒濁酒(どぶろく)醤油鑑札収与並に収税方法規則」が制定された。この新しい酒造政策は、米の需給調整に主眼を置いた幕政下と異なり、産業の自由化と税収入の増加を主眼としたものであった(㉖)。
 この新しい規則に基づき酒造場は激しく増減することとなる。即ち、明治4酒造年度には爆発的に酒造場が増加したのである。
 宇和島藩村浦の酒造場は安政5年(1858年)から明治4年(1871年)までの13年間に、2倍近く飛躍的に増加している。しかも、農村部においてである。
 この中には、雑穀酒鑑札の新鑑札への切替、大政奉還から廃藩置県までの政情不安定時期に発生した密造酒の正規化、分け株の禁止にともなう新規鑑札の下付(かふ)なども含まれているとみられるが、明治維新後、酒造場が急激に増加し、従って、酒造出稼ぎもその需要が急激に発生(増加)したものと考えられる。

(3)明治~昭和初期の酒造出稼ぎ

 明治40年(1907年)ころから始まった不況は、大正期に入ってさらに深刻となったが、大正3年(1914年)には、第1次世界大戦が勃発し、これを契機に国内産米の供給不足と思惑的な米穀の買い占めが行われ、大正7年(1918年)「米騒動」が全国的に波及した。同年11月世界大戦は終わったが、大正9年(1920年)には、大戦終結による反動不況により、各産業とも休業や倒産が相次ぎ、清酒業界においても例外ではなかった。大正12年(1923年)9月には関東大震災の影響により清酒産業の環境が悪化した上、昭和2年(1927年)の金融恐慌、昭和4年に始まった世界恐慌、これに追い打ちを掛けた昭和5年(1930年)の金解禁、これら経済不況深刻化のしわよせは、農村や中小企業に集中し、清酒業者の転廃業が続出した。昭和7年(1932年)以降においてもインフレによる化学肥料等の工業製品が高騰したのに対して、農産物価格の上昇はこれに伴わず、またアメリカの恐慌が長引いて生糸輸出の不振が長引き、これに伴い地方産業の清酒製造業は、昭和11年(1936年)にかけて製造場数が減少を続けた(㉘)。
 以上が明治から昭和初期にかけての我が国経済の状況と清酒製造業の大まかな推移であるが、多少の起伏があったとはいえ、ほぼ直線的な減少傾向である。杜氏の数は、1酒造場に1人であるから、酒造場の数と完全に比例する。

(4)酒造出稼ぎの追憶

 この項は、伊方町地域振興センター編『伊方杜氏』(伊方町刊 1992年)、大野豊作著『私の青春』(私家版 1992年)の記事から抜粋し、酒造出稼ぎの経験者が追憶を語った形式に編集したものである。

 ア 農村の暮らし

 酒造出稼ぎに出かけ始めたころ、その農家の暮らしはどのような状況だったのか。次の二人に語ってもらった。

 Dさん(昭和4年生まれ) 
 「昭和20年(1945年)9月、海軍志願兵として1年8ヶ月、傷心と虚脱そして開放感の錯綜(さくそう)する複雑な気持ちで郷里に帰ってきた。時に17歳だった。国破れて山河あり、故郷は私を温かく迎えてくれたが、両親、特に父が想像以上に老け込んでいた。段畑には、相変わらず甘藷(いも)が植えられ、駄屋(だや)には牛が草を食(は)んでいた。都会とは異なり食糧自給で飢える心配は無かったが、年老いた両親と弟妹の面倒、更には将来の生活設計について、長男としての責任が大きくのしかかっていた。何としても現金収入が欲しい。これは、切実な願望であった。当時は、麦や雑穀が一升(いっしょう)100円、ホケと称する闇焼酎が一升300円、作れば何でも金になり、また、物々交換である程度の欲しいものは手に入れることができた。しかし、悲しいかな我が家は甘藷と麦だけを作る普通畑ばかりで、作物のほとんどは、強制的に供出を余儀なくされ、果樹園の間作など隠し作物があるはずもなく、他所様の闇収入を羨(うらや)むばかりだった。10月ころ、父が親戚の杜氏に頼んで遅人(おそびと)に採用されることとなった。酒屋に行けば、一家の食糧の食い延ばしになるし、米のご飯が腹一杯食べられて、賃金も地元の土方より多くもらえる。幼少のころより酒造出稼ぎをしている家庭を見て、秘かに羨望(せんぼう)していたことが現実となり、これでやっと一人前になると希望に胸を膨らませたものである。」

 Eさん(昭和11年生まれ) 
 「国民学校(現在の小学校)1年生に入学した昭和17年(1942年)ころから、戦争が激しくなり、出征兵士の見送りが度々、物資は不足し、履き物は手作りの藁(わら)草履、雨降りは裸足で登校した。昭和18年には、大水害があり、一面河原となり、牛が駄屋で泳いでいた。日増しに空襲が激しくなり、近所の人家近くの畑に爆弾(幸い不発)が落とされたり、佐島の軍事施設が爆撃されたり、度(たび)重なる空襲警報で、勉強はそこそこの毎日だった。終戦後は、半分以上墨で消された教科書で、20ページぐらいの紙を綴じたものだった。芋植えや、麦刈りの時は、農繁休業で学校は休みとなり、家の農作業を手伝った。普段の日でも、牛の草刈りや、下肥(しもごえ)運びなど家の仕事を手伝った。
 昭和26年、中学校を卒業、家の事情で農業に従事することになった。当時の農業は、米・麦・甘藷・養蚕・牛の多角経営で、質より量、すべて人力に頼っていた。秋の農作業も片付いた、12月20日、柳行李(やなぎごうり)を担いで父と共に、小田町の竹内酒造に蔵入りしたのが、酒造生活の始まりである。」

 イ 酒造場への往来

 今でこそ、自分の車を自分で運転し、日本国中道路さえあればどこまででも行ける。ところが自動車が庶民の交通手段になったのは、そんなに古い話ではない。昭和30年(1955年)3月31日、伊方村と町見村が合併して伊方町となり、役場の公用車が初めて購入された。そのころ、運転免許を持っている人がそんなにいるわけではない。バスの運転手が女性にもてる職種だったころなのである。伊方町役場は、地元建設会社の運転手を引き抜いて確保した。
 そのような交通事情の中で、酒屋との往来はどのようにしていたのだろうか。酒屋との往来事情について語ってもらった。

 Fさん(大正3年生まれ) 
 「大正8年(1919年)の秋、私はまだ6歳でした。父が杜氏を勤める上浮穴郡柳谷村中津の政木酒造場に行きました。その酒屋には、父の妹が嫁いでいたので、遊び方々父の仕事を見学に行ったのです。朝早くまだ暗いときに家を出て、ようやく夜が明けたのは日土(ひづち)の川辻(かわつじ)あたりでした。日土から平野(ひらの)に出て、大洲から内子(うちこ)までは乗合馬車、更に歩いて現在の内子町小田(おだ)で一泊。翌日の夕方、目的地の柳谷(やなだに)村中津(なかつ)の酒造場に着きました。」

 Gさん(大正4年生まれ) 
 「昭和6年(1931年)11月、16歳の私は、初めて酒造場の蔵夫として働くため郷里大江を出た。行き先は、伯父が杜氏を勤める大分県柏原(かしわばる)村宮原の阿部酒造場である。大江から塩成までは歩いた。荷物は日用品、作業着類を柳行李(やなぎごうり)に詰め、母が背負子(おいこ)で運んでくれた。塩成から繁久丸に乗り、夕方別府に着いた。青木屋旅館に投宿し、生まれて初めて温泉に入った。夕食が美味(おい)しかったことを覚えている。翌朝、別府駅から大分経由で竹田駅下車。再び汽車で萩駅へ。ここから伯父と二人、着物に下駄履きで、いくつもの谷を渡り、岡を越えて一時間あまりで酒造場に着いた。」

 Hさん(大正6年生まれ) 
 「昭和7年(1932年)、伊方小学校高等科卒業。農村の厳しい経済環境の中、父の手伝いとして私の酒造の道は始まった。行き先は、北宇和(きたうわ)郡明治(あけはる)村、今の松野(まつの)町松丸(まつまる)正木支店酒造場である。11月上旬、八幡浜より船にて宇和島へ。宇和島から列車。小学校6年の時、長浜から大洲まで列車に乗ったことを思い出しながら、一路松丸駅へ。豊かな田園と立派な酒蔵が印象的だった。」

 Iさん(明治39年生まれ) 
 「昭和17年(1942年)、南宇和(みなみうわ)郡城辺(じょうへん)町谷口酒造に行くことになりました。出発の朝は、お先祖様と氏神様にお参りに行き、無事働かせてくださいとお願いをして、それから伊方丸で八幡浜へ行き、八幡浜から宇和島へ、宇和島で一泊。翌朝、第13宇和島丸にて宿毛まで、更に後帰りして深浦に着き、そこから歩いて40分ばかりで谷口の酒屋に着きました。」

 Jさん(昭和4年生まれ) 
 「昭和21年(1946年)の新正月が終わると蔵入りである。伊方港よりポンポン船の伊方丸に乗り、八幡浜港着。衣類を詰め込んだ柳行李をかつぎ、駅まで徒歩で行く。午前10時ころ各駅停車の宇和島行きに乗る。予讃線は、昭和20年6月卯之町(うのまち)・八幡浜間開通によって全通したばかり。燃料は石炭なので、細かい粉塵が車内に漂う。もちろん暖房はない。宇和島駅で降りて、高知県宿毛(すくも)行きのバス停を探す。あいにくバスは1便のみで発車した後。やむなく旅館で一泊。食糧難の当時、食事はスイトン。翌朝バスに乗り宿毛に向かう。バスは木炭バス。松尾(まつお)峠を越えるには、急な坂道でカーブが多い。坂道の途中でエンコ(エンジンが止まること)する。やむなく乗客が降りてバスの後押しをする。坂を登り切るまで、これがしばしば起こる。正午前、やっと宿毛町兵頭酒造場の玄関前にたどり着いた。」

 ウ 木製の桶と樽での酒造り

 江戸時代から明治・大正を経て、昭和の第2次世界大戦前あたりまで、人々のくらしも産業も経済も桶(おけ)と樽(たる)によって支えられ成り立っていたという(㉚)。
 酒造の世界も例外ではなく、巨大な仕込桶、小さい運搬用の試桶(ためおけ)、運送用の4斗樽等々容器類は全て木製であった。
 言うまでもなく、酒造は微生物相手の仕事である。雑菌は徹底的に排除しなければならない。木製の桶や樽を洗滌(せんじょう)し滅菌する作業は、決して妥協が認められない工程なのである。
 Kさん(明治42年生まれ)に、その苦労の思い出を語ってもらった。
 「私は、大正15年(1926年)12月に北宇和郡明治村の正木酒造場へ行きました。高等小学校を卒業した16歳でした。酒造場は、伊方と違って大変寒く、川端にある蔵は、毎日氷が張っていました。朝3時に起きて甑(こしき)を焚く話は、父から聞いてはいたものの、5、6日は甑焚きと5人の蔵人(くらびと)の食事を1時間でしたものです。
 伊方村では、16から18歳になれば、酒造場に行くことは、当然と思われていました。機械化された現在の酒造場と違って、大量の仕込水も試桶(片手桶)で20ℓずつ担(かつ)いで走ったので、慣れないうちは、頭も首も冷たい水で濡れたものです。仕込桶もホーロータンクがないので、10から40kℓも入る杉の大桶に熱湯を入れ、火傷をしないよう高下駄を履いて中に入り、洗い上げるのです。済んだ後、外に出てみると体中から湯気がたっていました。そのくらいにしないと熱湯殺菌ができないと教えられたものです。これは蔵の経験が2、3年たってからやれる仕事でした。」

 エ 戦時下企業整備による酒造場の廃業

 昭和18年(1943年)10月、大蔵大臣から「清酒製造業企業整備要綱」とその実施方法の通達が出され、各税務署管轄単位に、生産能力は50%、製造場数は40~50%に整備縮小された(㉛)。
 この企業整備に遭遇し行き場を失ったLさん(明治36年生まれ)は、次のように語っている。
 「私は、大蔵省醸造試験所技師農学博士黒野勘六先生のご紹介で、大分県直入(なおいり)郡竹田(たけだ)町黒野喜一氏の経営する環山(かんざん)醸造場に、杜氏として就任したのが昭和10年(1935年)、33歳の時でした。それから勤続5か年、昭和16年には、北宇和郡広見町出目(いずめ)水野石太氏の経営する菊世界酒造場に勤務することになりました。しかし、昭和18酒造年度をもって、国策の企業整備で廃業。よって、私も休職することとなりました。」
 伊方杜氏が勤務したことのある酒造場で、この企業整備にあい昭和19年(1944年)を以て廃業となった酒造場は、判明しているものだけでも次の43酒造場をあげることができる。

   〇 現伊方町
     西本善治(中浦(なかうら))、菊池スギエ(河内(かわち))、兵頭定満(仁田之浜(にたのはま))、渡辺友一(小中
    浦(こなかうら))、池田荒治郎(二見(ふたみ))、山本綾三郎(三机(みつくえ))、坂本勇(小島(こじま))、梶原満
    元(田部(たぶ))、村井茂(二名津(ふたなづ))

   〇 現八幡浜市
     大森荒治(宮内(みやうち))、高門酒造(合名会社)(喜須来(きすき))、永井酒造(名)(喜木津(ききつ))、松
    本ツナヲ(八幡浜(やわたはま))、大本幾治(五反田(ごたんだ))、宇都宮幾子(八幡浜)、中井聚(若山(わかや
    ま))、脇田照雄(日土(ひづち))、松田竹四郎(日土)

   〇 現大洲市
     酒肆利雄(五郎(ごろう))、大藤正十郎(平地(ひらじ))、武智寿盛(久保(くぼ))、白石良太郎(上須戒(かみす
    がい))、亀田キン(豊茂(とよしげ))、出海酒造(合資会社)(出海(いずみ))

   〇 現内子町
     旅井市衛(城廻(しろまわり))、都築寿吉(町村(まちむら))

   〇 現宇和島市
     宇和島酒造(名)(宇和島(うわじま))、駄馬崎平三九(増穂(ますほ))、実藤森久(下灘(しもなだ))、大高俊平
    (宮野下(みやのした))

   〇 現松野町
     吉田花子(松丸(まつまる))、正木郁三郎(富岡(とみおか))

   〇 現鬼北町
     高田周蔵(出目(いずめ))、水野石太(出目)、篠塚繁(奈良(なら))、斯波久馬(下大野(しもおおの))、赤松脩
    (沢松(さわまつ))、渡辺敏(父野川(ちちのかわ))、奥島孝一(上鍵山(かみかぎやま))

   〇 現伊予市
     徳野政吉(串(くし))、高野品三郎(中山(なかやま))

   〇 現久万高原町
     高門菊之佐(東明神(ひがしみょうじん))、政木茂十郎(久主(くず))

 オ 新人の酒蔵生活

 酒造は、微生物相手の作業である。人間は夜眠らなければならないが、微生物に睡眠時間はない。四六時中管理しなければならない。また、微生物を管理しやすい寒い季節に製造するため、米や容器を洗う水は冷たい。そこに新人の酒蔵生活の苦労が始まる。
 Mさん(大正4年生まれ)に初めての蔵入りを語ってもらった。
 「家を出るとき『お前は一番若く、新米で、仕事も及ばないのだから返事をよくし、人より先に立って仕事を始め、伯父さんに迷惑のかかることのないように地道に仕事をせよ。』と、祖母と母からくどくどと注意されてきた。酒造りの辛い仕事に米洗いがある。桶に米と水を入れ裸足で両足を入れ、交互にかき上げる様にして数十回洗い、両手でかき回し、水ですすぎ、再三繰り返し、米の濁りがなくなるまで洗った。足と手は冷水に赤くなり、痺(しび)れて感覚がなくなっても終わるまで続けねばならない。この作業は、毎日2、3時間行った。水仕事から生じる手足のアカ切れの痛みには弱った。若い手足でも毎日の水仕事なのでアカ切れがひどく、寝る前に薬を付けても、翌朝起きたときの痛みは、今でも忘れられない。寝不足も辛いことであった。夜半にモロミの泡(あわ)消しに起きても、朝3時には再び起きて、大釜に火を入れねばならなかった。
 楽しいことといえば、蔵夫(くらふ)3人戸外に出て、薪作りをしながら、世間話を聞いたり、1日の作業終了後、囲炉裏(いろり)を囲んで談笑しながら夕食をすることであった。3食とも白米食で腹一杯食べられたので、家の食事に比べ格段に良かった。蔵の夕食時の話題は、満州のこと、日本軍の戦勝のことが多かった。そして政府や軍の声明する日本の正義を蔵夫達は信じていた。杜氏であった伯父のみは、『日本軍の方が悪い。軍隊を出して他国の都市を武力で占領するなどは、不正義である。』と主張していた。」
       
 カ 戦時下の酒蔵

 戦火の激しくなった昭和19年(1944年)企業整備により約半数の酒造場が閉鎖した。兵隊にあるいは軍需工場に徴用され、銃後を守る男性は数少なくなっていた。それでも酒造場でがんばった人たちがいた。
 Nさん(昭和4年生まれ)に、戦時下に蔵入りした思い出を語ってもらった。
 「私は、昭和19年12月、当時16歳、西も東もわからず、八幡浜市飯森酒造の蔵夫として蔵入り。先輩の指導を仰ぎながら、先ず釜焚き・米洗いが自分の受持。午前4時起床、身を切るような寒さの中で、広い蔵の中唯一人、釜場(かまば)の前で火を焚く、やがて50分、湯が沸く、蒸し米をかけ終わると、先輩達が起きてくる。食事を済ませ先ず一服。1時間後、甑(こしき)とり。蔵一杯に筵(むしろ)を広げ、筵の上を我先にと走り回る。自分は、体が小さく、力もない。汗びっしょりで先輩の後を追う。約2時間後、蒸(む)し米(まい)が適温に冷めると、さあ仕込。あの硬い筵、要領がわからず、苦労の連続。仕込が終わると、筵の片づけ・掃除。それが終わると、さあ米洗い、蒸し米・もと米(まい)・麹(こうじ)米と順に洗う。失敗は許されない。当時、長靴はなし、ゴム草履。手足は、ひび・あかぎれで血がにじむ。涙も出る。今に忘れられない。日を追う毎に泡消し、上糟(じょうぞう)、粕剥(かすは)ぎ、仕事は多くなるばかり。
 やがて、太平洋戦争が激しくなり、戦闘機やB29爆撃機が上空を飛ぶ。夜は、蔵の中は真っ暗。ローソク一本で泡消しその他の作業。サイレンが鳴る、警戒警報、やがて空襲警報、防空壕に入ること度々。先輩達が『こりゃ酒造りどころじゃねえぞ。家からの便りでは、全員山小屋に避難して、家には誰もおらん言うぞ。と話す。酒造期も終盤、忘れもしない3月18日、八幡浜の佐島(さしま)に爆弾投下。ものすごい音、西の方を見ると、50mほど炎が上がり、煙がもくもくと噴き上がる。全員、顔は真っ青。竹内さんが『Nよ。もう家に帰るぞ。という。杜氏さんは『あと2本。ほっといて帰るわけにはいかん。という。
 そして、最後の夜が来た。私は、嬉(うれ)しくて眠れなかった。布団の中ですすり泣きしながら、一冬を振り返り、我ながらよく頑張った、よくやったなあ、と心の中でつぶやいた。」

 キ 近代化された酒蔵

 新入生を泣かせた酒蔵も多くの酒屋で合理化、省力化が進められ、肉体労働の側面からは随分改善されてきた。子どものころから酒屋の仕事をつぶさに見学し、平成の世まで杜氏を勤めた、Oさん(大正3年生まれ)に、近代化された酒屋の様子を語ってもらった。
 「平成4年(1992年)まで、私が働いていた徳島県斉藤酒造場での作業状態を紹介します。
 朝、6時に起きて、1人は釜の焚き付け、他の者で昨日麹室(こうじむろ)へ引き込んだ麹蒸米(こうじむしまい)の切り返しを行う。機械ですから約30分で終わる。終わると、その日の仕込に必要な水と麹を投入する。その間に釜屋さんは、浸漬米(しんせきまい)を機械で蒸米用タンクに入れる。それが終わると朝食。このころ、午前7時30分。午前8時から蒸米をとる。まず麹用をとり、次に仕込用をとる。仕込用の蒸米とりは、連続放冷機で、エヤシューターを使い仕込タンクに入れるようになっている。この時間が約1時間。終われば、1人は翌日仕込の米洗い。もちろん機械で洗います。他の者で麹米の床揉(とこも)みをする。その間にもとの育成をやっている。行火(あんか)もとです。これが終われば、もとと醪(もろみ)の経過分析をする。それから槽掛(ふなが)けにかかる。全部の作業を昼食までに済ませると、午後3時までは、全員自由な時間とする。午後3時からは、麹の仲仕事と滓引(おりび)きを行い、午後5時から夕食・入浴を行う。手空きの者で、麹室最後の仕舞仕事をする。 
 以上のような作業を毎日繰り返し、その日、その日を終わり、皆造(かいぞう)を待つ。皆造が終われば、新酒の濾過・調合等を行い、火入れをして、懐かしの伊方に帰ってくる。日数で約100日くらいです。」

 ク 杜氏初体験のとき 

 杜氏は、酒造蔵において酒造の技術・労務上などの一切の責任を負い、蔵人(くらびと)の人事権を掌握し、毎秋腹心の部下を引き連れて蔵入りし、これを手足のように指揮監督、蔵内を統制した(㉜)。
 かつては、確かにこういった地位権限にあったが、現在ではこの表現はあわないようにも感じられる。かつての杜氏初体験の思い出を3人の方に語ってもらった。 

 Pさん(大正6年生まれ) 
 「杜氏2年目の昭和20年(1945年)、1号もとを使用した醪(もろみ)の発酵が弱く、最高温度が15.5度までしか上昇せず、いろいろと教本を見たり、手段を尽くし、仕込17日目でやっとアルコール分15.5度に達しましたが、昼夜心配で睡眠もとれず、主人にこの事態を報告し、税務署員に調査依頼した結果、『別に心配することはないと思う。』と言われたときには、一安心、胸をなで下ろし心底から喜びました。
 当時は、幸い三倍醸造が実施されていましたので、調味液添加時のアルコール分16度で大体適した醪となり、添加後のアルコール分20度のコクのある清酒ができたこと。昨日のことのように思い出されます。」

 Qさん(昭和4年生まれ) 
 「昭和31年(1956年)、三瓶町三好共栄酒造への蔵入りを前にして、父の体調が悪く『お前杜氏をやれ。』と言う。自分は勉強不足、自信はない。しかし、男として一度は杜氏をしたい気持ちもある。迷いながら酒造期に入る。最初は責任感と不安感で夜も眠れない。よい酒ができますように松尾様(酒造りの神様)に一心に祈る。やがて第1号上糟(じょうそう)。先ず松尾様に供え、主人と蔵一同できき酒。まあまあのできばえ。主人・蔵夫共に喜び、先ず一安心。やがて皆造の日が来る。無事酒造を終えた喜び。人には言えない嬉(うれ)しさで一杯。蔵夫の皆さん、本当にありがとう。」

 Rさん(大正5年生まれ) 
 「昭和36年、義兄の後を継ぎ、杜氏として勤めることとなりました。酒造技術や税務関係記帳は、既に義父のもとで教えを受けていましたから、それなりの自信はありましたが、いざ現実になってみると、『杜氏としてその責任を果たしていけるだろうか。』と一抹(いちまつ)の不安を抱きながら初年度の蔵入りを致しました。
 いざ杜氏として指揮を執ってみれば、あれもこれも、全てのこと、全てのものに責任のある業務であり、改めて、杜氏職の重責を感じました。
 田舎の小さな酒造場であり、設備も昔のままで仕込も小さく、今考えると本当に小規模なものでした。しかしながら、もとを取り仕込を始めて皆造まで、3か月あまりの日数だったと思います。その毎日毎日の長く感じられたこと。今日思うに、私のニューギニア戦場の3か年以上に長く感じたように思います。
 酒の出来は、初年度としては上々で、主人にも喜ばれ、全員健康で無事終了し、何物にも代えがたい喜びでした。」

 ケ 品評会用吟醸造り

 一般消費者が吟醸酒(ぎんじょうしゅ)とか大吟醸などと言った高級酒を購入して飲めるようになったのは、平成2年(1990年)4月1日から後のこと。ところが高度精白米による吟醸酒は、それ以前から品評会出品用として醸造されていました。杜氏が直面した戸惑いと苦労、そして全国品評会入賞の喜び。さまざまな心の内を語ってもらった。

 Sさん(大正元年生まれ) 
 「昭和初期から日中戦争が始まるころまでは、日本酒の全盛時代でありました。清酒の品評会も、伊方杜氏組合の自醸酒(じじょうしゅ)品評会をはじめ、南予では、八幡浜、大洲、宇和、宇和島の各酒造組合単位で盛んに行われておりました。勢い、吟醸酒造りにも熱が入ったものです。以下、私なりの自己流での吟醸酒造りについて、古い記憶を呼び起こしながら述べていきたいと思います。
 原料米は備前米で、酒造(しゅぞう)米としては最適なものを使用致しました。精白は5割でした。さて、どうしたら良い蒸米を得られるか苦心致しました。白米を水洗いして、浸漬時間は40分、水切り時間を8時間とり、水切りは竹で編んだサナを数枚作り、その上に10cmの厚さに広げました。甑(こしき)にかけ40分間蒸米しました。結果は、上粘(うわねば)りせず弾力のある手触りの良い蒸米を得ることに成功しました。次に麹でございますが、もと麹は38℃、掛け麹は36℃の最高温度をとりました。出麹(でこうじ)は、香り、はぜ具合共に良好でした。それからもとは、山廃(やまはい)もとで最高温度は15℃、仕込より30日目に酛分(もとわけ)、丸冷(まるざまし)にしました。もとの枯らし期間は4日間で添え仕込をしました。醪(もろみ)の発酵形式は、前急(ぜんきゅう)後平(こうへい)型で最高温度は13℃、留(と)め仕込より28日目に搾り上げました。
 新酒の成分は、清酒メータ -14度、酸は0.13、アルコール16度でした。火入れ後、夏期の貯蔵は8℃にして秋の品評会に備えました。その秋というのは、昭和13年(1938年)の10月だったと思います。東京での全国清酒品評会です。結果は、優等賞を受賞致しました。八幡浜税務署管内では、初めての優等賞でした(伊方杜氏では、最初の全国入賞とみられる。)。」

 コ 杜氏と品評会

 筆者がお酒に品評会があることを知ったのは、昭和30年(1955年)に伊方村と町見村が合併し、町見村職員から伊方町職員に任命され、いきなり西宇和郡酒造従業者協会主催の自醸酒品評会の仕事を手伝ったときでした。この品評会はその名に自醸酒とある様に、杜氏さんがこの1年間に自分が造ったお酒を持ち寄って開く品評会なのです。お酒の品評会には、酒造経営者の組織する団体主催のものや国税庁醸造試験所主催などいろいろあります。いずれにしても、杜氏さんが精魂込めて造ったお酒の品評会ですから、入賞の喜びは格別のものがありました。二人の喜びの思い出を語ってもらった。

 Tさん(大正9年生まれ) 
 「蔵夫生活12年目に社長から杜氏を任された。37歳の時である。経験不足と銘釀家(めいじょうか)の蔵夫をしたことのない私は、迷い苦しむばかりである。全くの手探り醸造である。そのころ酒造華やかなりし時代、各地で品評会が盛大に催されていました。宇和島管内にも18醸造場があり、各地の杜氏が入り混じり合い、競い合ったものでした。杜氏1年目は、残念ながら最下位の汚名でした。社長からは『お前がボロ酒造るから、酒は売れんぞお。』と、電話で叱られるやら散々でした。苦節5年、ようやく管内総合1位の栄冠に輝きましたが、ちょうどその年から優勝旗制度が廃止となり、店頭に優勝旗を飾ることができませんでした。以来、私は伊方の品評会にも優勝旗に縁遠い杜氏として終わりました。」

 Uさん(昭和4年生まれ) 
 「昭和42年(1967年)から10年間杜氏を致しました。幸いに、県の品評会や西宇和郡自醸酒品評会で優等に入賞するようになりました。
 忘れられないのは、杜氏になってちょうど10年目最後の年でした。西宇和郡自醸酒品評会で最高位の優等一位に入賞し、優勝旗と賞状、大きな優勝カップもいただきました。発表の日と表彰式当日は、夢ではないかと思いました。優勝カップは、私自身の記念に、今でも家の応接間に飾っております。当時の出品点数は、確か260点以上だったと記憶致しております。随分古い話です。」

 サ 技術の高度化と伊方杜氏の将来

 吟醸酒・大吟醸など高度精白米を原料とする高級酒が求められる一方で、割安の紙パック入り清酒がスーパーマーケットに沢山並ぶ現実もある。消費者志向の二極化である。この情勢の中で伊方杜氏は、いかにあるべきか。先が見えないのが現実である。
 人一倍吟醸酒作りに励んできた、Vさん(昭和3年生まれ)に伊方杜氏の将来を語ってもらった。
 「昔から『一 麹、二 酛(もと)、三 造り』は、酒造りの基本鉄則として、ことあるごとに言われてきた。この格言は、今も昔も変わらない。しかし、色々な面で学問的に明らかになって、酒造技術も大きく前進していることも忘れてはならない。
 飽食の時代・グルメブームと言われる近年、日常生活が、全ての面でより高級に、また、多様化が言われる。日本酒も、吟醸酒・純米酒・本醸造に見られるように、手作りの本物志向が求められ、今までの酔いの酒から味わいの酒へと、消費者の意識変化が見られる。そして、これら高級な酒造りの必要から、より高度な醸造技術と経験が要求されている。最近は『一 杜氏、二 原料、三 環境』といわれ、技術重視の傾向と杜氏への期待の程がうかがえるのである。
 今日ほど酒造杜氏の技術と存在価値が問われることはかってない。折しも、杜氏の高齢化は加速し、後継者難の波は否応(いやおう)なく押し寄せている。伊方に根ざした伝統産業と言われ、継承されるべき技術遺産をなんとか次の世代へ引き継ぐ手段はないものか。打開の糸口さえ見いだせないのが現状である。」

(5)柑橘農業への転換と酒造出稼ぎ

 筆者の父は、農畜産物を買うことは絶対に認めない人であった。鶏を飼って卵を得、山羊を飼って乳を得、逆に、リンゴを買うことは絶対認めない、徹底した自給農業を目指していた。戦後の農業は、どことも大なり小なりその傾向はあったが、父はそれが人一倍厳しかったように思う。そのような環境で育った筆者が目を見張ったのは、昭和30年(1955年)、伊方村の農地の一部を見たときである。麦を刈った跡にミカンの苗が植えられ、そのミカンの間にはスイカの苗が植えられていた。その光景は、自給自足農業との決別を意味していた。
 かつての酒造出稼ぎは、冬期の農閑期を利用した活動であった。農業が甘藷と麦が主体の場合、秋期に甘藷を収穫し麦の播種が終われば、春期まで農閑期となり、寒造りを好適とする酒造とはマッチングがすごく良好だったのである。
 しかし、いつまでも甘藷と麦ばかり作っているわけには行かない。柑橘農業に大転換をした。
 杜氏をやめて専業農家の道を選んだWさん(昭和11年生まれ)は、次のように語ってくれた。
 「私は、昭和43年(1968年)、32歳の時杜氏になりましたが、13年間勤めた後、昭和57年(1982年)にやめました。その理由は、農業が甘藷・麦から柑橘に変わったことから、冬の農閑期が無くなり、酒造と農作業の季節が合わなくなったからです。結局、酒造をとるか、柑橘農業をとるかの決断を迫られたのです。止めた理由としては、もう一点、同じ理由で蔵人が来てくれなくなったのです。自分自身がどちらをとるかと言う問題より、蔵夫を確保できなくなったことの方が大きかったと思います。」

(6)酒造場機械化・合理化の末に

 農業が甘藷・麦から柑橘に変わり、季節労働が嫌われる世になり、同伴する従業員が雇えなくなる。この環境の変化にマッチするように、酒造場側は、設備装置の機械化・合理化を進めてきた。このことは、酒造場で周年雇傭の従業員を蔵入りさせることが可能となり、杜氏側に雇傭の負担を軽減させた。しかしながら、高度精白米の醸造技術はそれほど容易ではない。いったん退職した杜氏が再び呼び戻された事例もある。酒造出稼ぎは、労働力の給源としての意味合いを失い、技術力の給源としてのみ存在しているのである。このような杜氏側の体制で後継者が育成できるわけがない。幸いと言えるのか、酒造場経営者には後継の子息を醸造工学系の大学に行かせている人は多い。製造業の経営者が製造技術を持つことは当然のことなのかも知れない。