データベース『えひめの記憶』
身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)
2 えひめの食-山村の主食トウキビ-
水田に恵まれない四国山地の村では、昭和30年代後半まで米は貴重であり、正月やお盆、祭りなどの特別な行事以外には米の飯を食べることは少なかった。日常の主食はトウキビ飯や麦飯であり、特にトウキビ(トウモロコシ)は山村の重要な主食であった。昭和30年ころまで、四国山地の村では焼畑農業が行われており、トウキビは焼畑の最も重要な作物でもあった。『愛媛県の山村』には「トウモロコシは、温暖多雨な気候と肥沃(ひよく)な土壌を好む作物であり、(中略)地味良好な土壌に恵まれ、夏季に雨の多い四国山地は、トウモロコシの適地として、その栽培が全域にみられた。愛媛県の山間地は、第二次世界大戦前には北海道(ほっかいどう)、阿蘇(あそ)と共に日本のトウモロコシの三大産地であった。」とある。
『えひめ、その食とくらし』の中で久万(くま)町(現久万高原町)の**さん(昭和4年生まれ)は、トウキビの栽培・保存について次のように語っている。
「ここのトウキビの栽培は、『久万山のトウキビ』と言われるほど有名なものでした。作りやすいのですが、台風など、強風が吹くと倒れやすいので注意しました。4月から種まきや畝(うね)寄せをして生長させ、9月末から順次収穫して、多い時には各家とも土間に山のように積み上げる状態でした。また、皮剥(は)ぎがたいへんで夜なべをよくしたものでした。
完熟させるため、当時は皮の部分を20~30束にまとめて縛り、毎年50~60連を軒下(のきした)の稲木(いなき)につるし、約2か月乾燥させました。次に、トウキビを挽(ひ)く作業に入ります。大きな石臼(いしうす)に遣木(やりぎ)(重い臼を回しやすくするための木)を取りつけ、事前に唐棹(からさお)や唐臼(からうす)で落としたトウキビのつぶを臼の穴に入れながら、3人の共同作業で回して挽きましたので、重労働でしたが、大人も子どももぐち一つ言わずよく働きました。」
栽培・保存されたトウキビは、冬から春にかけて山村の常食としていた。トウキビのご飯について、**さんは次のように語っている。
「よく食べたのはトウキビご飯です。季節的には、節季(せっき)(暮れ)から田上(たのあ)げ(田植え後)までの間によく食べました。一升(いっしょう)飯(約1.8ℓ)を炊(た)くのに、米粒大に挽き割った粗(あら)いトウキビを7割程度と、米を3割程度混ぜて炊くのが普通でした。温かいうちは食べやすいのですが、冷えると喉(のど)を通りにくいので、雑炊(ぞうすい)などにして食べることもしばしばでした。」
同じく『えひめ、その食とくらし』の中で、トウキビのご飯について日吉(ひよし)村(現鬼北町)父野川(ひちちのかわ)の**さん(大正14年生まれ)は、次のように語っている。
「トウキビは、収穫後皮をはぎ、家の南向きの軒下一面に吊(つ)って干していました。乾いたトウキビを足踏みの臼でついて粒を落としたり、夜なべ仕事に粒をもいでいました。これを臼で米粒ぐらいにひき割り、米を入れて一緒に炊き、主食の代わりにしました。米が麦ご飯のときより多く入っているときは、トウキビの黄色が鮮やかで、熱いうちはおいしく感じたこともあります。」
トウキビを臼で挽き細かい粒にする過程で出てくる黄色い粉をふるいにかけたものをハナ粉、トウキビを炒(い)ったものを臼で細かく挽いて粉にしたものをハッタイ粉とよぶ。ハナ粉は主に団子(だんご)や雑炊などにして食べていた。ハッタイ粉は保存食として珍重され、そのまま食べたりお湯やお茶で練って食べたりしていた。
お米を食べるようになったきっかけについて、『えひめ、女性の生活誌』の中で久万高原町の**さん(昭和10年生まれ)は、次のように語っている。
「主食は、トウキビのひきわりと麦を混ぜたものを食べていました。お米を食べるようになるのは、昭和38年(1963年)に1か月間大雪が降ったことがきっかけです。その時は、稲木にかけていた麦が全部腐ってしまい、麦が全然とれなかったのです。麦が食べられないので、それから米を食べるようになりました。」
日本人の食生活というと、米食のイメージが強い。しかしながら、国民の多数が日常の主食として白米だけのご飯を口にするようになったのは、戦後しばらくたってからのことである。これまでの愛媛学の調査研究においても、多くの人が、昭和30年代ころまでは麦やトウキビ、サツマイモなどの畑作物を主食にしていたと語っている。