データベース『えひめの記憶』
身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)
7 えひめのその他の製造業-近永アルコール工場-
昭和12年(1937年)4月のアルコール専売法の施行に伴って設立された国営工場の一つが、北宇和(きたうわ)郡広見(ひろみ)町近永(ちかなが)(現鬼北(きほく)町)にあった。『愛媛の技と匠』の中で、近永アルコール工場で働いていた**さん(昭和22年生まれ)は次のように語っている。
「アルコール専売法の施行に伴い、13の国営酒精(しゅせい)工場が建設されていきましたが、その場所は、とにかく原料のサツマイモ(甘藷(かんしょ))やジャガイモが多く生産でき、しかも集荷条件のよいところということだったそうです。
この近辺では宇和島(うわじま)と近永で工場の誘致合戦を行ったのですが、清い水の豊富にわき出ている近永に決まりました。昭和14年(1939年)10月起工、16年12月試運転開始、そして、翌17年2月に本作業を開始したということです。当時は、純度99.8% (現在製造しているアルコールの純度は95%)の航空燃料用アルコールを主に製造していました。
昭和25年(1950年)、『国営工場の一部を残し、他は当分の間、順次民間に払い下げる。』という閣議決定が行われ、これによって昭和25年から昭和34年までの間に、国営6工場(高鍋(たかなべ)、帯広(おびひろ)、島原(しまばら)、相知(おうち)、小林(こばやし)、北見(きたみ))の民間への払い下げが実施されました。こうした状況ですから、当時の人から『近永工場もいつ払い下げになるのか、冷や冷やしながら、気も上の空で仕事をしていた。』と聞いたことがあります。そして、昭和57年(1982年)、国(通産省)から新エネルギー総合開発機構に移管され、職員も公務員の身分を離れました。さらに、昭和63年に『新エネルギー・産業技術総合開発機構近永アルコール工場』と改称されました。」
その後、平成14年(2002年)3月に近永アルコール工場は閉鎖され、現在は住宅団地になっている。近永アルコール工場に勤めていた**さん(昭和6年生まれ)は、『愛媛の技と匠』の中で次のように工場の思い出を語る。
「工場に採用されると、普通は『仕込み工程』に従事し、その次に『発酵工程』に回されますが、わたしは、入って最初の10日間ほどは、ボイラーにくべる石炭を運搬する作業に携わり、その後、発酵工程での仕事に回りました。当時は、仕込み工程、発酵工程を習熟後、『蒸留工程』に回されるようになっていました。それ程、蒸留の仕事は複雑で、その管理が難しかったことを覚えています。
昭和20年ころのアルコール製造の工程を説明しますと、まず原料のサツマイモは、干甘藷と生甘藷の2種類が俵詰めされて、この近辺で取れたものはトラックや馬車で、またそれ以外のものは貨車で工場まで輸送されていました。
太平洋戦争中は、とにかくガソリンに代わる燃料用アルコールの増産が第一でしたから、甘藷からだけではなく砂糖からもアルコールを作っていました。砂糖が配給制になり、もちのあんなどに砂糖が十分に使えなくなって貴重品となったころでも、工場には砂糖がたくさんありました。太平洋戦争終結後は、燃料用アルコールの需要は激減しましたので、工場は休業してもいいような状態となりました。工場の操業は、1年のうち1か月間ほど、甘藷の収穫時期の11月から12月にかけてだけで、後は機械の手入ればかりのような状態がしばらく続きました。日本経済が高度成長期に入るとともに、昭和33年(1958年)ころから再び工業用アルコールの需要が高まりました。
政府関係の工場である限り、研究を進めて新しい原料をどんどん開拓していかなくてはいけないということで、ミカンからジュースを取った搾(しぼ)り粕(かす)を利用してアルコールを作ることが研究され、昭和54年(1979年)より開始されました。今振り返ってみると、安価な原料で効率よく、しかも優れた品質のアルコールを製造するにはどうすればいいか、このことをいつも頭において研究開発に取り組んできたように思います。」
全国的にも珍しい国営アルコール工場の歩みを通して、地域とのかかわりや産業・経済の変化、そこで働く人々の思いを知ることができる。