データベース『えひめの記憶』
身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)
12 えひめの信仰-漁村の信仰・習俗-
海に生きる漁民や船乗りたちから「板子(いたご)一枚下は地獄」と言われてきたように、海は豊穣(ほうじょう)をもたらす反面、背中合わせに不安や危険をはらんだところである。彼らにとって海は神聖なところで、海で言ったり行ってはならない禁忌(タブー)がいくつかあり、また船や生業に関する習俗や伝承も多く継承されてきた。ここでは、『瀬戸内の島々の生活文化』から、上島(かみじま)町や今治(いまばり)市、大洲(おおず)市の漁村の信仰や習俗について紹介する。
(1)海のタブー
出漁中に、梅干の種を海に捨てたり、金物を海に落とすことを漁民は極度に嫌う。それは、龍神(りゅうじん)さま(龍王さま、龍宮(りゅうぐう)さま、吉海(よしうみ)町椋名(むくな)ではリュウゴンサン、魚島(うおしま)ではリュウジンサン、伯方(はかた)町木浦(きのうら)ではリュウグンサン、長浜(ながはま)町青島(あおしま)ではリュウオウサンと呼ぶ。)が嫌いだからと言われている。吉海町椋名沖の大突間(おおつくま)島にあるリュウゴンサンには、海中に刃物を落とすとたたりがあると言われ、五色(ごしき)の糸を供えておことわりをする習俗があった。ほかにも、長浜町青島では、港神さまのある向鼻の先に貧乏岩(磯)と呼ばれる岩がある。この岩は丸く中央に穴が開き、「通行する船や艪(ろ)がこの岩に当たると漁がない。」と言って、漁民はたいへん恐れている。
漁労中に船上での忌(い)み言葉として、蛇(へび)、猿、猫などがある。蛇などは「ナガイモノ」と言って「蛇」とは言わない。宮窪(みやくぼ)町余所国(よそくに)では、「航海が長くなる。」と言って、航海に出るときにそばやうどんを食べない習慣があった。
(2)船霊さまと網霊さま
海に生きる人々の信仰のうちで重要なものの中に、「船霊(ふなだま)さま」がある。船霊さまは漁民や船乗りなどによって全国津々浦々の海村において祭られ、船の神様、船の守護神として信仰が厚い。「網霊(おおだま)さま」は網の神様として網の中央の浮き(あば)を御神体としている。
(3)船タデ
木造船時代はどの漁村でも船タデが行われていたが、プラスチック船に切り替わった現在では見ることが少なくなった。
船タデは船底を虫に食われないために焼く仕事である。昔は丸太のコロで木造船を浜に引き上げ、船底に付着している海藻や貝類をかき落とし、松葉や杉葉(魚島では江ノ島のススキを使用する。)をタデ草(船タデの燃料)として燃やし船底を焼く。その際、船の船霊さまは船タデをすると熱いのでしばらく船から離れていただく。タデ草を動かす棒の事をタデ棒という。船タデが終わるとタデ棒で船底を3回叩(たた)く。それは離れてもらっていた船霊さまに船タデが終了したことを知らせ、船にお帰りいただく合図である。
漁村では現在でも、正月2日の乗り初めの際には、船霊さまにお神酒(みき)を供え、酒で船を清めて1年の海の安全と豊漁を祈願する。
(4)頭上運搬
漁村成立の起源が古いと考えられている今治市宮窪(みやくぼ)町や上島町魚島(うおしま)の漁村、広島県の能地(のうじ)、二窓(ふたまど)、吉和(よしわ)の漁民が定着してできた島方や沿岸の漁村では、今では過去のものとなっているが、昭和30年代の初めまで、女性による頭上運搬という習俗があった。島ではこのことを「イタダキ」とか「カベリ」と呼んでいた。運ぶものは魚類、日常物資、飲料水、農産物、肥料などであった。重いもの、固いものを運ぶ場合は、頭にワラの輪を乗せてからかぶった。鮮魚行商の際も、「ハイボ」と呼ぶおひつを頭にかぶって近隣の農村地域に出かけていた。昭和30年代に入ると、四輪車の手押し車(乳母(うば)車を大きくした程度)が普及して鮮魚行商もこれに変わり、頭上運搬は島の生活から姿を消した。
(5)夫婦で出漁
現在はどの漁村でも、夫婦が一緒に船に乗り組んで出漁するのが一般的となっている。それは、漁村に若い労働力がいなくなり、必要に迫られた結果である。戦前の島の漁村には、夫婦で漁に出るところと、男は漁に女は農耕や行商にという二つのタイプがみられた。