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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 菅生の地名とくらし

 久万高原町菅生(すごう)地区は、久万盆地を流れる久万川の東岸に広がる集落である。菅生の地名の由来は、『予陽郡郷俚諺集(よようぐんごうりげんしゅう)』(1710年成立)によれば、文武(もんむ)天皇の時代(7世紀末~8世紀初)に豊後国(ぶんごのくに)(大分県)から来た猟師が久万の山中で観音像を見つけ、「弓矢を折り柱とし菅蓑(すげみの)を懸(かけ)て草庵をなし乏(これ)を安置す、仍(より)て菅生山と号す」とある。また『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』(1299年ごろ成立)には、仏教が広まっていない時代に安芸国(あきのくに)(広島県)の住人が狩猟のため当地へ来て観音像を見つけ、「もつところの梓弓(あずさゆみ)を棟梁(とうりょう)とし、きるところの菅蓑をうはふきとして、草舎をつくりて安置し」、2、3年後に再度来て「精舎(しょうじゃ)をかまへ、荘厳をいたして菅生寺と号した」という(②)。このように、菅生の地名は、四国霊場44番札所である大宝寺(だいほうじ)の成立と結び付けて語られてきた。
 江戸時代には菅生村があり、享保18年(1733年)の人口は1,141人を数えたが、140年近くを経た明治4年(1871年)には、569人にまで半減した(③)。明治時代になると、久万町村(くままちむら)や野尻村(のじりむら)とともに小区や町村組合を形成したが、明治22年(1889年)の町村制施行に際し、単独で菅生村となった。大正13年(1924年)に久万町(くまちょう)と合併し、昭和34年(1959年)に美川(みかわ)村大字七鳥(ななとり)の字槇谷(まきたに)を編入した。現在は、久万町(くままち)に隣接していることもあって、宅地化が進むとともに、地区内に久万美術館や運動公園などが設けられている。明治4年から140年あまりを経た、平成24年7月末における菅生地区の世帯数と人口は、447世帯、895人である。
 本節では、菅生地区のうち、中通(なかどおり)・中(なか)組・北村(きたむら)の3組の小字(こあざ)を調べ、小字(大字の中にある小地名)の地図を作成することに主眼をおくとともに、昭和の菅生のくらしについて住民の方々から話を聞いた。