データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 農業に生きる

 久万高原町の耕地は標高300mから800mに位置し、夏の冷涼な気象条件を生かした農業生産活動が行なわれている。昭和40年代後半から圃場整備がなされた整形の水田では、平成8年に特別栽培米(農林水産省の指針により化学合成農薬及び化学肥料の窒素成分を慣行の5割以上削減して生産した米)に認定された「久万高原清流米」が作られている。また、昭和53年と平成2年にそれぞれ国の産地指定(野菜生産出荷安定法に基づき指定野菜の集団産地としての育成の必要性を認定されること)を受けた夏秋トマトとピーマンが多く栽培されている。
 その米作りや高原野菜栽培について、久万農業協同組合(現松山市農業協同組合〔平成11年に合併〕)で長く営農販売(地域の営農振興と販売高の向上を図る業務)を担当した高岡啓一さん(昭和24年生まれ)や、久万高原町直瀬で農業を営む小倉達郎さん(昭和7年生まれ)と平岡新太郎さん(昭和8年生まれ)から話を聞いた。


(1) おいしいお米を作る

ア 「久万高原清流米」誕生のきっかけ

 「『コシヒカリ』は粘りのある食味のよい品種ですが、福井県生まれの新潟県育ちのイネなので、暑い所で作っても、その特徴があまり出ません。その点で、久万(久万高原町)は福井や新潟と気候がよく似ていて、特に、秋の登熟期(籾殻の中で米の粒が成長する時期)の気温がコシヒカリの生育にぴったりと合っています。ですから、コシヒカリの生育条件に最も適したこの場所で、急ぐことなくちょうどよい時期に、その特徴を引き出して最高の味を出す。それを目標に作っているのが清流米(久万高原清流米)です。現在、食味検定での味の評価や米の価格は、新潟県産の米よりも上です。久万の農家の中には、全国で最も高値で取引されている新潟県魚沼産と同等の米を作っているところもあります。
 この清流米が誕生したきっかけは、平成5年(1993年)の冷夏長雨でした。当時は、久万でも愛媛県内統一の普通の自主流通米を作っており、その年は、天候不順のために大不作となりました。そのため、『このままでは久万の稲作に将来はない。米作りの環境自体を変えなくてはならない。』ということで、まずは実態調査を行ないました。そして、その年の内に、米の食味分析計を町事業で、県内で初めて導入すると、翌年の平成6年(1994年)には、『あなたのお米の食味分析を無料で行ないます。ただし、肥料や農薬の使用日と使用量を必ず申込用紙に記入してください。』と呼びかけて、かなりな数の農家の米を検査しました。その結果、元肥(イネを植える前の土に前もって与える肥料)の量を抑えて、稲の茎の分けつ(1本の茎から次々と新しい茎が増えていくこと)本数を20本前後にしていた農家の収量が最も安定していて、元肥や穂肥(出穂前20日から1O日ころに施す追肥)をやり過ぎている場合は収量が極端に少ないことが分かりました。さらに、実肥(出穂前後から穂揃期〔出穂1O日前後〕までに施す追肥)はイネの実が張って形のよい粒となり増収にもつながるのですが、実肥を入れた農家の米は極端に食味の数値が低いという結果も出ました。
 そこで、平成7年(1995年)に、『施肥を抑えた方法で作った米は収量が安定し食味もよい』という結果を基に、久万の米作りの方針として、『イネの生理生態的な特性を十分に踏まえ、イネの生長に対して最小限だけかかわる』という方向性を打ち出しました。つまり、『イネにとって必要のないことはやめて、イネ自体の生きる力では足りない分を必要最小限だけ人間が手助けする』という方針に変えたのです。そこから、減肥減薬(化学肥料と化学合成農薬の使用低減)による『おいしくて売れる米』を作ることが始まりました。」

イ 力を合わせて米作りを変える

 「平成7年に、それまでの稲作部会を再結成して、生産者と町と農協とがより連携した久万米生産部会が発足しました。『今までと一緒の考え方ではダメじゃ。米作りに革命を起こさんといかん。』という意識の下で、組織の形態や性格をはじめ、すべてが大きく変わりました。
 まず、その部会のメンバーを中心に、久万管内の地域ごとに一人か二人程で技術実証のための稲作栽培を行ないました。その時に肥料メーカーから、いろいろなタイプの肥料を提供していただいたのは本当に助かりました。農家の協力でイネの試作をしながら、元肥と穂肥の2回行っていた施肥が1回の施肥で済むような肥料を、農協が中心となって作り上げることができました。しかも、化学肥料の『必要最小限』の使用量にこだわっていくと、ある程度までは有機肥料で間に合うことが分かってきて、半分以上を有機肥料とする、『50%クリアー有機』という数値目標を立てることもできました。
 そして、農薬の使用量をそれまでの半分以下にすることにも挑戦しました。これは、農家にとっては大変な冒険ですから、効果の分かりやすいことに焦点を当てて取り組みました。久万地方は、6月に雨が多くて日照不足による稲熱病(稲の葉や茎、穂などが菌におかされて変色し、種子ができなくなる病害)によく悩まされていましたので、その稲熱病を撲滅することを目指しました。そのために始めたのが、苗の段階で農薬を用いる育苗箱施用です。これで、除草剤を含めた農薬の散布回数を7、8回から4回程度にして農薬の使用量を半分以下に抑えながら、稲熱病をほとんどなくすことに成功しました。それまでは、どの田んぼでも、ある程度は稲熱病になったイネが出ていましたが、育苗箱施用に変えた田んぼは、稲熱病がなくなり、病変がないので田んぼの色が同じになりました。このようにして平成7年から減肥減薬の米作りを始めたわけですが、そのときに出来た米のほとんどから、新潟県産の米を上回る食味の値が出ました。それには、各地の食味分析結果を取りまとめる食糧事務所の担当者が、『四国にもこんな米があるのか。』と驚いたそうです。
 しかし、初めのころは、同じような取組をしているところが県内にはなくて、半信半疑の人が多くいました。しかも、それまでは各農家がそれぞれのやり方で米を作っていたので、減肥減薬の統一した米作りでいく、という考え方に対しては相当な反対や反発がありました。『わしの米作りは、親父の代からしてきたやり方でしかできんのじゃ。お前ら若造が言うような方法は納得できん。』というわけです。特に、農薬をやる回数を制限したことが農家の人を不安にさせました。新しい作り方を始めた農家の中にさえ、不安のあまり、夜中に農薬を撒いた人がいたほどでした。そのような反発や不安をかかえた人たちを説得しながら、少しずつ問題を解決していったわけです。
 久万米生産部会を立ち上げたときに、久万管内のすべての小集落で座談会をやりました(写真2-1-1参照)。『ぜひ部会に入って、新しい作り方を始めてください。この作り方が納得いかずに我でされたい人は、部会に入らなくてもかまいません。ただ、1年先でも、部会の方がよかったと思ったら来てください。』とお願いして回りました。ちょうど同じころ、国から『新食糧法』(平成7年〔1995年〕制定)が出て、農家が自由に米を販売できるようになったので、『米の流通はこれから大きく変わります。(食味の)よい米が残る時代になりました。』と、米の産地作りを呼びかけました。おいしい均一なお米を、安定して供給できるようにするためには、地域ぐるみで取り組むことが絶対に必要でした。そして、平成8年(1996年)に、『久万高原清流米』というネーミングで商品が登場しました。
 やがて、ためらっていた農家の人たちも、部会で決めた方法で作った米のほうが高い値で売れることを知ると、新しい米作りを段々とやり始めて、現在では、ほとんどの米農家が清流米を作っています。これまでになるには、農協や町などが大変な苦労をされました。」

ウ 産地の熱意を売り込む

 「米の流通業者に対しては、米そのものの商品性よりも産地の取組姿勢を売り込む、ということを営業戦略としました。それで他の地域との競争に勝って販路を手に入れた広島県で、毎年1回、愛媛県と広島県の大手流通業者や生協、酒造会社などの関係業者に集まってもらい、生産者代表も参加して、久万米流通会議を開いています。
 また、消費者の声を大事にしようということで、愛媛県内の東・中・南予でそれぞれ5名から10名ずつ消費者モニターを募集して、定期的に久万の3品種のお米を自宅に送り、それを食べてもらって、年に1回は、各地域に出向いてモニターの方々の意見を聞いていました。そして、宣伝にも力を入れました。例えば、毎年、広島市内のデパートで行っていましたが、清流米おにぎりの配布と宮島大しゃもじによる『新米すくい取り』企画は好評でした。
 『久万高原清流米』という名称は、『くま』の漢字違いの同じ名称を、久万に先駆けて使っていた所がありました。そこで、その商標申請をされていた会社に、地域全体の取組であることを丁寧に説明して、久万高原清流米の名称をぜひ使わせてほしいことを訴えました。しかも、商標を無償で使わせて欲しいことも併せてお願いしました。すると、『これほど広い地域が全体で取り組んでいる産地はない。無償で結構です。どんどん使ってください。』と言ってくれたのです。そのおかげで今、この名称を自由に使うことができています(後年、久万独自登録が完了)。
 現在、清流米は、おいしくて安心・安全なお米として人気があり、他の米に比べて高値で取り引きされています。ただ、久万地方は山間部の傾斜地ですから田んぼの規模的な条件が悪くて、農家一戸当たりの水田の平均もそれほど広くはありません。そのため、米作りだけで生計を立てることのできる農家は少なく、そういう中で、清流米作りをどのように広げ、継続させていくかが課題です。」


(2) おいしい野菜を作る

ア 夏秋トマト

 「現在、トマトとピーマンの2品目が国の産地指定を受けています。以前は、キャベツと大根もそれに加わっていました(キャベツは昭和57年に、大根は昭和61年にそれぞれ国の産地指定となる。)が、大幅に生産が減ってしまいました。その主な原因は、大根の方は連作障害で、キャベツの方はコナガの幼虫による虫害です。それと、大根やキャベツは重い野菜ですから、収穫したり運搬したりするときは結構大変で、従事者が高齢化して体力的にも栽培を続けるのが難しくなったということも要因の一つです。その点、トマトやピーマンは、比較的軽量で従事者に高齢者や女性が多くなっても栽培を続けやすいというメリットがあります。
 トマトは、昭和44、45年(1969、1970年)ころに久万の一部で露地栽培が始まりました。米の転作が奨励されていたこともあって、昭和46年(1971年)ぐらいからトマト栽培が広がりました。ところが、久万は夏場に雨が多いので、雨に弱いトマトが9月には傷んでしまうことが問題となりました。そこで、昭和54年(1979年)に、一部のトマト農家で試験的に岐阜方式の雨除けハウスを使ってみると、ものすごく効果が上がり、品質や収量、所得の全部が大きくプラスとなりました。それで、愛媛県の補助などを受けながら積極的に雨除けハウスを導入していきました。
 そして、昭和56年(1981年)には、久万菅生にトマト選果場ができました(写真2-1-2、2-1-3参照)。それまでは、各農家で、晩方に収穫したトマトを、夜中の1時や2時ころまで選別しながら箱詰めして、それからトラックに積み込んで出荷場まで運んでいました。出荷場では順番待ちをしなくてはならないので、その待ち時間で睡眠をとっていました。選果場ができてからは、経費負担はあるものの、収穫後の重労働から解放され、収穫後の作業のことを心配する必要がないのでトマトの栽培面積も増えました。
 現在、市場に出回っているトマトの約95%は『桃太郎』という品種です(写真2-1-4参照)。その桃太郎にも変遷があって、今では十数種類もありますが、一番初期の桃太郎を西日本で最初に導入したのは久万町(現久万高原町)で、昭和58年(1983年)でした。翌年には、町内のトマト農家全戸で桃太郎に統一しました。すると、市場関係者からは、『こんな赤いトマトなんか売れん。』との事前の風評でした。当時はまだ、硬めで先端の部分が少しだけ着色したトマトが主流でしたが、桃太郎は赤くてもおいしいという自信があり、やがては『完熟トマト』の時代がくると思って出荷を続けました。そうしたら、久万産の桃太郎が、独り舞台のように売れまくりました。ですから、2年後にはもう、桃太郎が全国に広がっていました。
 トマト栽培が盛んになって、田んぼの基盤整備の仕方も変わり始めました。(トマト)ハウスが何棟建つか、ということを考えながら整備を始めだしたのです。ハウスを1棟建てるためには、狭くても幅が20mは必要です。しかも、ハウスは日の光を均等に当てるほうがいいので、南北方向に長い田んぼが理想的です。ただ、田んぼは、もともと東西方向に長くて、しかも、この辺りは狭い田んぼが多いので、区画自体の幅は20mあっても土手部分を除くと実際は15m位だったりするのです。ですから、一区画に2棟のハウスがなんとか入るという具合ですし、場合によっては、ハウスの一部が畦の上にかかるということもあります。
 トマトの苗の中に、オランダの会社のもので、『一粒播きの苗がとても強くて活着(さし木やつぎ木、移植などをした植物が根づいて生長すること)も早い。日本全国に供給します。』という謳い文句で販売されている、プラグ苗というのがありました。私(高岡さん)が行ったある研修会で偶然に情報を手に入れたのですが、その苗を見た瞬間に、『これで日本の農業が変わるかもしれない。』と思うぐらい衝撃を受けました。そこで、その苗についての勉強会を何人かで始めて、平成5年(1993年)に、久万の農協でいち早くそのプラグ苗方式を導入しました。
 また、数年後には、当時、日本では3台ぐらいしかなかった外国製の播種機(苗床に作物の種を播く機械)を久万の育苗センターに導入しました(写真2-1-5参照)。値段は高かったのですが、種にコーティングを加えて大きさを均一化してから吸い上げるタイプのものではなく、吸い上げのノズルを交換しさえすれば、トマトやキャベツ、ピーマン、タマネギなど、大きさの違うどのような種も落とすことのできる画期的な機械でした。それまでは手植えでしたので、働き手も多く必要で時間もかかるし、植えた種の数にもばらつきがあって間引きする手間もかかっていました。播種機の導入によって苗床もベッド形式になりましたし、発芽室も作りました。苗から始まった一連の改革で、品質管理が飛躍的に進み、相当な省力化ができました。」

イ ピーマン

 「ピーマンは、昭和50年代に、父二峰や畑野川などの地域の一部の農家がそれぞれ、1畝から3畝(約1aから3a)ぐらいの畑で細々と作って市場に出荷していました。気温に温度差があるからでしょうが、久万のピーマンは、他の産地のものに比べて、緑が鮮やかできれいな上に柔らかいのです。そこで、そのよさを引き出してピーマンの産地化を進めようと、昭和57年(1982年)ころから農協が本格的な取組を始めました。
 まず、ピーマンについては、昭和59年(1984年)に『京みどり』という品種を選定しました。ただ、『京みどり』は柔らかくておいしいのですが夏場に腐りやすいので、昭和61年(1986年)には、『京みどり』より硬めで少し病気に強い『京波』という品種を新たに選定しました。『京波』に切り替えてからは傷みにくいこともあって、比較的大きなものは四国内に卸して、小さなものは阪神方面に出荷するというように両用が利くようになり、栽培に取り組みやすくなりました。と言うのも、ピーマンはどうしてもいろいろな大きさのものができるのですが、四国の人は、大粒で肉厚の食べ応えのあるピーマンを好む関東型の消費傾向があり、中粒の柔らかいピーマンを好む関西の人とは反対なので、大小にかかわらず安定して売れる市場ができました。その上、ピーマンは、資材投資が少なくてすみ、重さが軽くて高齢者や女性でも作業がしやすい、といったメリットもあります。ですから、ピーマンを栽培する農家が一挙に増えました。
 そして、産地化をするのなら、毎晩、庭先のピーマンの山の中で袋詰め作業をする苦労を初めから取り除いておく必要があるということで平成元年(1989年)には、ピーマンの選果場を造り、それからますます生産が伸びました(写真2-1-6参照)。作付面積がまだ小さいのに多くの市場に出しても安定した供給ができませんので、初めは一つの市場に決めて、しかも、そのころ日本で一番値段のよい『三田ピーマン』をはじめ各地のピーマン産地が競争していた、神戸の『神果』という青果市場に出荷しました。『競争の一番激しいところで勝負しよう。神果市場で生き残ったら、どの市場でも生き残れる。』という思いでしたし、絶対に負けない自信もありました。そうしたら、その次の年から、阪神市場全社から出荷の誘いが来ました。ですから、栽培面積をいくら拡大したとしても、その生産品を捌けるだけの市場の確保もできています。今、最盛期に選果場に行くと、ピーマンが壁のように積み重なっていますが、そのような経緯の中で生まれた光景なのです。」
 久万高原町では米作りと野菜栽培の両方で生計を立てている農家が多い、と言う小倉さん、平岡さん、高岡さんは、地域の高齢化やそれにともなう荒廃地の増加という問題を指摘しつつも、各農家の意見に耳を傾けて課題を整理すれば、「久万の農業が生き残るための方法はある。」と強く語る。