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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 黒森峠

 黒森峠(くろもりとうげ)は、久万高原町面河(おもご)地区(旧面河村)と東温(とうおん)市川内(かわうち)地区(旧川内町)との境界にある標高985mの峠である。明治初年(1868年)ころ面河地区の渋草(しぶくさ)、笠方(かさがた)から黒森峠を越えて河之内(かわのうち)、川上(かわかみ)へ通じる黒森街道が開通した。明治から大正、昭和初期まで、黒森街道は面河と松山方面を結ぶ重要なルートであり、面河から松山方面へ、松山方面から行商人や面河渓谷や石鎚登山に行く人々が行き来した。物資の流通でも重要なルートで、面河から木材や炭などの林産物が川上、横河原(よこがわら)を経由して松山方面へ運ばれた。昭和13年(1938年)に国道33号御三戸(みみど)から関門(かんもん)の県道(面河線)開通により、次第に物資の輸送は国道33号を経由するように変わっていくが、人々の往来には黒森街道が利用された。しかし、昭和31年(1956年)県道黒森線(現国道494号)の開通によって黒森街道はその役目を終えた。
 黒森峠を越える人とモノについて、Aさん(大正13年生まれ)、Bさん(昭和6年生まれ)、Cさん(昭和12年生まれ)に話を聞いた。

1 黒森峠と黒森街道

(1)黒森街道

 「江戸時代、面河の産物は主に割石(わりいし)峠を越えて河之内村の問屋(とんや)(地名)まで運んでいました。割石峠には、現在も峠の名前の由来になった割石が残っています。私たちが知っている範囲では、割石峠を越えて物資を運んでいた記憶はありません。
 黒森街道は、明治時代に杣川(そまがわ)村役場(明治22年に設置)があった渋草から土泥(とどろ)、面河ダム建設によって水没した笠方地区の集落を通り、小網(こあみ)から黒森峠を経由して川内の音田(おんだ)にある金毘羅(こんぴら)さん(松尾山金毘羅寺)の門前へ出るルートになります。土泥から笠方に行く途中に『堀割り』というところがあります(写真3-2-1参照)。面河の発展に尽力し、黒森街道の整備に情熱を注いだ重見丈太郎(後の面河村長)が、大正9年(1920年)に陸軍工兵隊を動かして掘削した道です。工兵隊が掘削したのは土泥地区から北へ2kmぐらい進んだ川奥(かわおく)橋の上流で、現在の面河ダムの手前の辺りになります。地元の人は『堀割り』と呼んでいます。10mぐらいの崖(がけ)があったのを掘り抜いたのですが、それ以前は、小さな丘がありその丘を登って下りていたので400mぐらい迂回(うかい)していたのです。昔は、『堀割り』の周りになだらかな田んぼがあったのですが、昭和20年(1945年)の災害で流れてしまいました。現在は、だれも通らないので藪(やぶ)になっていますが、その跡を見ることはできます。」
 『面河村誌』には、「堀割り」について次のように記録している。
 「大正9年11月3日来村、土泥川奥橋の上流、ソーダタカ山村道黒森街道を、三日半日をもって、長さ約100間、高さ約8間、幅約1間半を掘削、陸軍工兵隊を動員、ダイナマイトを使っての突貫工事は、当時の村民にとって、驚異の眼をもって見られた(③)。」
 「明治から大正、昭和の戦前までは1日に20頭ぐらいの馬が峠を越えて材木や炭など面河の林産物を川内へ運んでいました。ミツマタ栽培も盛んだったのですが、ミツマタは高知方面に集荷していたので、黒森峠を越えて運ぶことはなかったのです。
 渋草から黒森峠までが2里、峠から川之内までが2里になります。道幅は、1.4m、1.5mはあったと思います。馬が通る道だったのでところどころに広くなっている箇所があり、馬と馬がすれ違っても離合できるようになっていました。峠の近くには茶店もありました。峠の手前、八町坂(はっちょうざか)に5、6軒の茶店があり、最後の1軒は昭和10年(1935年)ころまでは、やっていましたが、現在はその面影は全くありません(写真3-2-2参照)。」
 黒森峠の茶店について、『東温史談』に昭和6年(1931年)と同12年(1937年)の記録が次のようにある。
 「峠を少し下った所に人家があった。馬も飼っているようだ。茅葺(かやぶき)のその茶店には、小母(おば)さんが店番をしていた。ガラスの瓶の中には、飴玉や煎餅(せんべい)が入っており駄菓子も並べてあった(④)。」また、昭和12年に同じ場所を訪れ「峠に来てみると、あの馬を飼っていた茶店もなくなっていた(④)。」とあり、昭和初期まで茶店があったことがうかがえる。

(2)黒森峠を越える駄賃持ち

 ア 峠に響く馬の鈴音

 「私(Aさん)の父は、昭和15、16年(1940、1941年)ころまで駄賃持(だちんも)ち(荷物を運ぶことを業とする者)をしていました。ここ(土泥)から河之内まで、馬の背に炭や材木を載せて1日に1回運んでいました。朝は夜明け前の暗いうちに出て、夕方に帰っていました。渋草から峠までが約2時間、峠から河之内までが約2時間、合計で約4時間かかります。往復で8時間ですが、荷を降ろす時間や食事や休憩の時間もあるので1日仕事になるのです。今日はだれそれさんの荷をつける、明日はだれそれさんの荷をつける、といつも言っていたので結構忙しかったのだと思います。私も何回も馬を押すためについて行ったことがあります。
 面河から運ぶものは主に材木と木炭です。木炭なら4俵ぐらいを馬に載せて運んでいました。当時の炭の1俵は8貫(かん)なので約30kg、4俵なので約120kgになります。河之内には滝本屋という問屋がありました。帰りには、河之内から面河の商店へ運ぶ、醤油(しょうゆ)や塩、昆布、イリコなどの上げ荷があれば、それを運びます。同じ道を帰るので上げ荷があるのとないのでは儲(もう)けが大きく違うので、上げ荷があると喜んで引き受けていました。帰りに一杯飲んで帰る人もたくさんいました。馬は来た道を帰らせて、馬方は寄り道をして一杯飲んで帰るのです。金毘羅さんのすぐ下に滝本屋とあめ屋という店がありました(写真3-2-3参照)。
 私(Cさん)が小さいころに、母が怒っていたので覚えているのですが、父が材木を馬に載せて黒森峠を越えて河之内へ売りに行ったのですが、帰りに河之内の店で飲んだりして、材木を売ったお金を使ってしまったらしいのです。
 当時は、この辺で駄賃持ちが14、15人いました。馬の首に鈴を付けてチリン、チリン鳴らしながら峠を越えて行きます。下から上がってくる馬がいると鈴の音がするのでわかります。鈴の音が聞こえると道幅の広くなっている場所で上がってくる馬を待つのです。私の家には、馬に付けていた鈴が残っています。なかには昼間は道が混むので、人も馬もいなくて空いている夜中に馬を引いて峠を越える人もいました。」
 東温市河之内の住人は、「戦前まで、河之内は宿場町で連日、40、50頭の荷を積んだ馬が着き、賑(にぎ)わっていました。ほとんどが面河から材木や炭を運んで来る馬でした。街道の両脇に14、15軒の問屋、旅館、商店、飲食店が並び、なかでも、滝本屋は最も大きい材木、炭問屋で旅館、飲食店も兼ねていました。」と話す。

 イ 馬頼母子講

 「駄賃持ちも儲けていくとだんだんと良い馬を買うようになります。小さなトラックで始めた運送屋が、商売で上手(うま)くいくと大きなトラックを買うように、私(Aさん)の父も大きくて強い馬に買い換えていましたが、馬を買い換える度(たび)に借金することになり、貧乏することになっていました。その当時は1頭が100円の馬もいるし、150円も200円もする馬もいたのです。馬を2頭も3頭も持つような甲斐性(かいしょう)のある人はいなかったのです。
 欲張って少しでも多くの荷物を運ぼうとして、馬にたくさんの荷物を載せていたために、馬が腰を抜かしたり、動けなくなったりして大きな損をすることもありました。また、馬が骨折したり、崖から転落したりする事故もありました。事故にあうと次の馬を購入する資金がない人がたくさんいたので、昭和の初めころまでは、馬を買うために頼母子(たのもし)(頼母子講、互いに掛け金を出し、お金を融通しあう組織)をしていました。
 仲持(なかもち)(担ぎ屋)をしている人もいました。女の人が多かったです。前日に炭焼き小屋のある山から自分の家まで炭を担いで持って帰り、それを朝早くに出発して河之内まで運んで、帰ってからもう一度、炭焼き小屋のある山に行って、次の日に運ぶ炭を積んで家まで運んでいました。炭焼き小屋のある山は、馬が上がれない場所にあったので、そこから馬が通れる道まで炭を運ぶ仕事は、誰もがやっていました。」

 ウ 峠から馬が消える

 「御三戸(みみど)から若山(わかやま)までの県道面河線が開通したのは昭和13年(1938年)ですが、昭和8年(1933年)には笠方まで車が入れるようになっていました。車が通れる道路は、それまでにできていたのですが、割石川に架(か)かる橋ができてなくて通れなかったのです。私(Aさん)が小学生の時、コンクリートの橋ができました。それまで、この地域にはコンクリートの橋などなかったので、『コンクリ橋ができた。』と言ってみんなが珍しがっていました。県道が開通したことで、渋草など笠方より南側の地区の人は、車が入る道まで林産物を馬や人の背で運んで、そこからはトラックに積んで御三戸まで運び、御三戸からは国道33号で松山方面へ運ぶようになりました。笠方より奥の地区は、県道開通後も黒森峠を越えて馬で運んでいたのですが、昭和18年(1943年)には車が通れる道が小網まで整備され、戦時中には黒森峠を越える馬はいなくなりました。
 昭和20年の終戦前には、高知県へ大砲を運ぶために戦車が通れる道が必要だと言って、峠を越える手前の八町坂付近の改修工事を、地域の青年団(義勇隊)が勤労奉仕でしたこともありました。」

2 峠を越える人

(1)城下へ行く

 「私たち(Aさん、Bさん)は昭和25、26年(1950年、1951年)ころまで黒森街道を通っていました。そのころには馬で物を運ぶことはなかったのですが、人はまだ通っていました。川上(かわかみ)(現東温市)へ行くのが年に5、6回で松山へ行くのは、年に一度、椿(つばき)さん(椿神社の春祭り、旧暦正月8日の前後3日間行われる)の時に行くぐらいですが、松山へ行くには一番近い道だったのです。バスで御三戸まで出て国道33号で三坂峠を越えて松山へ行くよりも、時間もかからず、バス代もいらなかったからです。
 私(Aさん)は土泥から黒森峠を越えて河之内経由で横河原まで歩き、重信川でわらじを脱ぎ、川で足を洗って地下足袋(じかたび)に履き替え、横河原(よこがわら)から汽車で松山へ行っていました。土泥から横河原まで5時間ぐらいかかっていました。行く時はよいのですが、帰り道は日が暮れてから家まで歩いて帰るので、本当に遠く感じました。戦前は、松山へ行くことを『城下へ行く』と言って、今でいうと外国へ行くような感覚でした。『城下へ行った。』と言うと自慢できるぐらいだったのです。『大街道(おおかいどう)のかめやでしっぽくうどんを食べて帰って来た。』と言うと、それだけで大きな自慢話になるぐらいでした。
 椿さんの時は、村中の若い者が行っていました。1mぐらいの雪道なのですが、行列ができるぐらい多くの人が歩いて峠を越えていました。椿さんから帰る時には、たくさんの人が歩くので雪が踏み固まって雪の上に道ができるぐらいでした。それぞれが仲のよい友だち同士で行くのですが、若い男だけでなく、娘たちも行っていたので恋の場所でもあり、椿さんでカップルができることも稀(まれ)ではありませんでした。二晩ぐらい泊まって帰ります。椿さんにお参りするだけでなく、トーキー(無声映画)を観たり、夜になると松山の飲み屋にも行って遊んだりするので二晩ぐらいはいるのです。旅館は、今はないのですが河原町(かわらまち)に中津屋さんや面河屋さん、杣野屋さんという旅館があり、そのうちのどこかへ泊まっていました。当時の若い者にとっては最大の楽しみでした。」

(2)川内との交流

 「春の節句や田休み、夏祭り前には、笠方の人は川上へ出て散髪に行ったり、映画を観たりしていました。当時は何の娯楽もなかったので川上へ行くことを楽しみにしていました。音田の金毘羅さんのお祭(3月10日)には、笠方のほとんどの人が行っていました。若い人だけでなく年取った人も行くのです。笠方の半分くらいの家は金毘羅さんの檀家にもなっていました。昔から河之内と交流があったのだと思います。お祭の時に餅撒(もちま)きがあったのですが、木札(木の板に賞品名を書いたもの)も投げて、盛大な時には牛1頭がもらえることもありました。
 婚姻関係は、ここから川内や重信の方へ嫁にいくことはありましたが、嫁に来るということはほとんどなかったと思います。どちらかというと村内での結婚がほとんどでした。私(Aさん)の家内は松山から嫁いで来たのですが、その当時は珍しいことでした。『松山から嫁さんが来る。』と言ってみんなが見に来るぐらいでした。昭和21年(1946年)に結婚したのですが、黒森峠を越えて嫁いで来ました。嫁入り道具も柳行李(やなぎごうり)に入ったいろいろな物を、横河原から人を雇って一緒に担ぎ上げました。1月で雪が降っていて難儀したことを覚えています。
 行商は、乾物(かんぶつ)屋、呉服屋、小間物屋(化粧品)など、色々な人が来ていました。だいたい松山の方から来ていたと思います。秋祭りと年末だけは、鮮魚を売りに魚屋が、天秤棒(てんびんぼう)で担(かつ)いで来ていました。背負うと、いつも荷がかかって重いのですが、天秤棒だと揺れがあるので峠を軽く上がれるのだと言っていました。行商の人は一度来ると、旅館に宿泊して村中を回っていました。その当時、渋草に旅館が4、5軒あったのです。現在でも、川内にある問屋の白猪(しらい)屋さんはいろいろなモノを積んで軽トラックで行商に来ています。」

(3)県道黒森線の開通

 「昭和31年(1956年)に県道黒森線が開通しました。黒森線が開通して、伊予鉄道が路線バスを運行しました。最初は利用客も多く、サービスで停留所でなくても降ろしてくれていました。昭和35年(1960年)から面河ダムの建設が始まりましたが、ダム建設中(昭和35年10月から38年11月)は、ダムの工事現場で働く人が多かったので、県道黒森線を通って川内へ行くバスも1日に6便ありました。どの便も人が満員でした。また、そのころは川内からセメントを積んだトラックが何台も上がって来ていました。まだその当時は、舗装されていない道でガードレールもなかったので、トラックが転落する事故もありましたが、徐々に舗装やガードレールの取付けなど整備されていきました。
 昭和45年(1970年)に石鎚スカイラインが開通しました。そのころは県道黒森線を通って面河に来る人もいたのですが、黒森線はカーブが多く道幅も狭いので、御三戸-関門(かんもん)間の県道拡張工事が進むにつれて、通る車が少なくなりました。時間も国道33号を通って御三戸から面河に来る時間とほとんど変わらないので、多くの人は御三戸経由で来るようになったのです。私(Aさん)も松山へ行くときは、国道33号経由で行くので黒森線は使いません。私(Bさん)を含めて笠方の人は黒森線を使っています。県道黒森線は平成5年(1993年)に国道に昇格し、国道494号になりました。国道494号にトンネルを抜いて、当時の川内町と協力をして面河渓(おもごけい)の観光を主とした産業で面河村の活性化を図ろうという運動もありましたが、結局は国道になっただけでそれ以上は進みませんでした。」

写真3-2-1 堀割り

写真3-2-1 堀割り

久万高原町笠方。平成24年11月撮影

写真3-2-2 黒森街道、八町坂付近

写真3-2-2 黒森街道、八町坂付近

久万高原町笠方。平成24年11月撮影

写真3-2-3 黒森街道、金毘羅寺手前

写真3-2-3 黒森街道、金毘羅寺手前

中央、奥が金毘羅寺。東温市河之内。平成25年1月撮影