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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 地芳峠

 地芳(じよし)峠は久万高原町西谷(にしだに)地区と高知県高岡(たかおか)郡梼原(ゆすはら)町との県境にある標高1,084mの峠である。国道33号を落出から地芳峠を越えて梼原町に至る道は、西谷地区の住民にとって産業や文化の振興、生活道として大切なもので、大正時代の馬道(ばどう)の開設から、車道の開設、その延長へと地域住民の努力が続けられた。昭和39年(1964年)に林道として梼原までの車道が開通し、昭和56年(1981年)には国道440号へと昇格した。しかし、地芳峠付近の道は道幅も狭く、急勾配、急カーブが連続する峠道で、冬期には、積雪によりたびたび通行止めとなっていたため、落出-梼原間の改良整備に向かって梼原、柳谷両町村一体による運動を行った。平成22年(2010年)11月に国道440号地芳道路が開通し、峠道は地芳峠を貫く地芳トンネルに変わった。
 地芳峠について、久万高原町西谷地区のAさん(昭和2年生まれ)、Bさん(昭和13年生まれ)、Cさん(昭和25年生まれ)に話を聞いた。

1 県境の峠

(1)地芳峠への道

 「昭和39年に林道(峯越林道、昭和56年国道440号に昇格)が完成するまでは、地芳峠を越えて梼原まで歩いていくしかなかったんです。峠へは横野(よこの)から上がっていくのですが、現在の地芳トンネル入口の東側から上がっていました(写真3-3-1参照)。ちょうどトンネルの上を通っていたことになります。峠に上がる道は何本かあり、通常、通る道も時代とともに何度か変わったのですが、最後は『ヘンド墓』という場所を通る道になりました。ヘンド墓というのは、行き倒れになった人の墓です。地芳峠辺りで行き倒れが、結構あったと聞いています。私(Aさん)が子どものころにもそういうことはありました。行き倒れになって亡くなった人の亡骸(なきがら)を見つけると、その村で亡骸を葬らなければならなかったのです。
 道幅は1.5mから2mぐらいで、馬一頭が通れるぐらいの幅で、ところどころに馬がすれ違うことができるように広くなっていました。昔は古味(こみ)から奥の集落が峠道の整備をしていました。横野から峠まで歩いて40分ぐらいで行くことができました。走って上がれば国道440号を車で地芳峠へ行く時間とあまり変わらないことになります。峠には一本杉があったぐらいで茶店などはありませんでした。峠にあった一本杉は今でも残っています(写真3-3-2参照)。峠から東の五段高原方面へ1kmぐらい進むと、土佐藩が設置した唐岩(からいわ)番所跡があります(梼原町教育委員会が設置している案内板には『宝永元年〔1704年〕唐岩番所として設けられ、厳冬積雪時以外は下方の永野口番所より出張して番役を勤めた。』とある)。
 私(Aさん)は横野に住んでいるのですが、子どものころに遊んでいると『お金をやるから自転車を峠まで担(かつ)いで上がってくれ。』とよく頼まれました。行商の人などいろいろな人から頼まれました。落出から横野までは自転車で来るのですが、ここから自転車を担いで峠を登ることを考えるとしんどくなったのだと思います。頼まれると親にお金を渡して峠まで運んでいました。緩(ゆる)い坂は自転車を転がして上がるのですが、急な坂は担ぎ上げなければならないので難儀しました。まだ、子どもだったので途中まで運んで自転車を置いて帰ることもありました。自転車の後ろに荷物を積んでいて『荷物も一緒に運んでくれ。』と言われ、大変苦労したことがあり、それからは自転車を運ぶのは断るようにしました。
 私(Bさん)が小学生のころは、小学校(柳谷第二小学校古味分校)中、高学年の遠足は毎年、地芳峠へ行くというのがお決まりでした。また、その当時にセンブリ(リンドウ科センブリ属の二年草。薬草として利用され、生薬名は当薬(とうやく)という)を採りに地芳峠へ行ったこともあります。秋に採って乾燥させ、それを挽(ひ)いて粉にしてお腹が痛くなったときに、お湯やお茶の中に入れて飲むのですが、ものすごく苦い薬でした。」

(2)峠を越えた梼原との交流

 地芳峠を越えた梼原との交流について、『愛媛の峠』では、柳谷村古味生まれの正岡建夫さんの話が次のようにまとめられている。「私が物心ついた大正10年ころはすでにさびれかけていたのですが、それでも梼原から物資が運ばれて来ていた。高知の人を〝土州さん〟と呼んでいたのをおぼえています。『梼原から茶などの山産物、伊予からは久万の酒などが多く交易された。馬の背に荷物をつけて、多い時は百頭もやって来た。』と正岡さんのお母さんは話していたそうだ。私の家は明治の中ごろ久万から古味へ行き、雑貨問屋をやっていたんですが、昭和の初めに店をたたんで松山へ出た。つまり、大正の末には高知との行き来が寂れ(さび)商売にならなくなったんでしょう。新道がついたのが原因では(⑤)。」とあり、明治から大正にかけて地芳峠を越えた物資の交流が盛んであったが、大正末から昭和初期には物資の交流が少なくなった様子がうかがえる。『梼原町史』によると「郡道津野山線が明治34年(1901年)現須崎市から梼原町六丁目までが開通、昭和3年(1928年)高研(たかとぎ)山トンネルの完成によって須崎-宇和島間が道路で結ばれた。」とあり、日吉(ひよし)村経由で宇和島、大洲方面への道、さらに高知の須崎へ通じる道が出来たため、梼原の産物の流れ方が変わったことがわかる。
 戦前から戦後の峠を越えた梼原との交流について、Aさん、Bさん、Cさんは次のように語る。
 「私(Bさん)が子どものころには馬がたくさんいて、馬車も走っていました。古味周辺だけで馬が10頭ぐらいはいました。当時、古味まではトラックが入れたのですが、古味から奥はトラックが入れる道がなかったので、地芳峠周辺の山で伐採した木材を馬の背に鞍(くら)を付けて両側に3mぐらいの木をぶら下げて古味まで出したり、大野ヶ原(おおのがはら)の方から古味まで馬車で運んだりしていました。私(Aさん)も馬を持っていました。長い間はしなかったのですが、21、22歳ころから山から車が入るところまで馬の背に積んで材木を出していましたが、梼原へ荷を運ぶことはなかったです。馬が弱かったら強い馬に換えなくてはならなかったので、結構お金がかかりました。私(Cさん)の祖父も小村で駄賃持ちをしていました。
 当時は梼原へ馬で物資を運ぶことはなかったのですが、馬の蹄鉄(ていてつ)を作る鍛冶(かじ)が、周辺では梼原にしかいなかったので、馬方が地芳峠を越えて蹄鉄を作ってもらいに行っていました。一月に1回ぐらい蹄鉄を取替えに梼原に行くのですが、馬方は酒好きが多く、大酒を飲んで馬に縛(しば)り付けられて峠を越えて帰ってきたという話も聞きました。梼原から地芳峠を越えて物資を運んでいたのを見た記憶があるのは、中久保(なかくぼ)地区の屋根瓦ぐらいです。私(Bさん)が子どものころ、他の集落の屋根がまだ茅葺(かやぶ)きの時代にその集落の家の屋根は全部瓦葺きの屋根でした。瓦は梼原町の越知面(おちめん)で焼いた瓦だと聞いています。私(Aさん)が山へ行っていると朝早くから瓦を担いで地芳峠を越えて中久保まで運んでいました。中久保には18軒の家があるのですが、長男が跡取りで財産は全部相続するという風習があったからでしょうか、昔から裕福な集落でした。お墓もミョウドウという屋根が付いた立派なお墓でした。
 その当時、地芳峠を越えた物資の交流はなかったのですが、人の交流はありました。『梼原町誌』に摂関家一族の藤原経高が妬(ねた)まれ伊予に流されて、延喜13年(913年)伊予の豪族河野氏の庇護(ひご)を得て梼原に入った時に、伊予から多くの職人などを連れて行ったということが記録されていますが、梼原と伊予との交流はそのころからあったと思います。梼原の人と話をしていると『うちの先祖は伊予から来ている。』と言う人がたくさんいます。
 梼原から西谷へ嫁いで来たり、逆に梼原へ嫁いで行くことは頻繁(ひんぱん)にありました。私(Bさん)が知っているだけでも、古味周辺で13、14人ぐらいの人が梼原から嫁いできています。私(Bさん)の家内は梼原ではなく、隣の津野(つの)町(旧東津野村)出身なので、結婚式の日は、バスで須崎、佐川町を通って嫁いで来たのですが、梼原町の永野(ながの)周辺から嫁いで来た人は、地芳峠を歩いて嫁いで来ていました。花嫁さんだけでなく、家族や親戚など20人ぐらいが行列を作って来ていました。私(Bさん)が子どものころには、まだ嫁入り行列を妨害する風習が残っており、嫁さんが来るというと、子どもたちで集落内の道に一箇所か二箇所、丸太やワラ、カミソ殻(楮(こうぞ)の皮を剥いで残った木)を積み上げて垣のようにして、嫁入り行列がそれを除けないと通れないようにするんです。なぜ、そのような風習があるのかはよくわかりませんが、『きれいな花嫁さんが通るので足止めをしてじっくり見たい。』ということか、『嫁に行きにくければ、戻りにくい。』ということのどちらかではないかと思います。」

(3)林産物の中継地、古味

 「江戸時代、西谷の中心は本村(現在の本谷)で庄屋がおかれていました。大正9年(1920年)に落出-古味間の馬道が完成し、古味は木材や炭、ミツマタなど周辺の山から出された林産物を落出に運ぶ中継点となりました。旅館が2軒あり、一方の旅館を問屋と呼んでいました。私(Bさん)が子どものころには、その旅館で物資を取り扱うことはほとんどなかったんですが、それ以前には問屋の業務をしていたのだと思います。」
 『柳谷村誌』には「明治25年(1892年)、予土横断道路(今日の国道33号)完工を転機として、(中略)古味、大成、本谷の各問屋取次の産物は、連日15頭に余る馬の背により、落出松田運送店(予土街道屈指の運送店)に荷卸しされていた(⑥)。」とあり、古味が物資の中継点であり、問屋が置かれていたことがわかる。
 「昭和15年(1940年)12月に落出から古味までの車道が開通しましたが、この車道は伊予鉄道電気株式会社が第四黒川発電所、第五黒川発電所を建設する工事のために伊予鉄が道路を新設、拡張しました。その車道を新設、拡張する時に村負担が4万円あり、伊予鉄から借入れをして村が毎年分割で返していたのですが、昭和19年に当時の丸石繁頼村長が日本発送電気株式会社本社(伊予鉄から日発へ経営会社が変わった。)へ出向き、総務部長に借入金の残金3万円を『棒引き(帳簿にある借入金の記載に二重線を引いて消すこと)にしてもらいたい。』と懇願した結果、日発が借入金を棒引きしたというエピソードが残っています。道路と発電所建設の工事は野上組(野上工業)が請け負っていたのですが、私(Cさん)の父は、『戦争で出兵するまで、郷角(ごうかく)にあった野上組の飯場の事務所へ帳付け(事務仕事)に行っていた。』と言っていました。
 発電所は第四黒川発電所(小村発電所)が昭和18年に完成し、続いて第五黒川発電所に着工したのですが、戦争激化のために中断し、戦後再開し昭和26年(1951年)に完成しました。私(Bさん)が小学生の時に盛んに発電所建設の工事が行われていました。当時は発電所やその工事現場で働く人、古味から奥の林道開設の調査に来た役人、ヤナギ(ミツマタ)栽培が盛んなころだったのでヤナギの仲買人など、他所(よそ)から来た多くの人が集まっていました。ちょっとしたいざこざから喧嘩(けんか)になることも少なくなく、『古味はカラスが鳴かない日はあっても喧嘩のない日はない。』と言われるぐらい賑やかなところでした。雑貨屋、酒屋、タバコ屋など商店はもちろん、旅館、診療所、それからパチンコ屋までもありました。
 古味までバスが来るようになったのは昭和25年(1950年)です。それより前には、落出-古味間を乗合馬車が走っていました。私(Bさん)が小学生の時に古味までバスが延長される計画ができ、採算が取れるかどうかという試験運転期間があったのですが、利用者が少ないと延長中止になるので利用者数が多いという実績を作るために、古味から大成間を何回もバスに乗ったことがあります。バスの終点になっていて、戸数も44、45戸あったので行商人もたくさん来ていました。酒の行商、イリコの行商、富山の薬売りなどです。薬売りが家に来ると子どもに紙風船をくれました。2軒あった旅館には多くの人が泊まっていました。旅館は本谷にも2軒あり、秋祭りになると泊まる人が一杯で、『押入れでも、どこでもいいから泊まらせてくれ。』と言うぐらい商売人が来ていました。
 その当時の主産業は、ミツマタと林業です。ミツマタは昭和30年(1955年)ころまでで、それ以降は少なくなっていくのですが、値段の良し悪しは別として、昭和35年(1960年)ころまでは行われていました。私(Cさん)が本谷から大成の小学校へ行く時にミツマタの花が咲く3月から4月ころには、向山(黒川の東側の山)が真黄色になっていました。きれいな光景だったのでよく憶(おぼ)えています。私(Bさん)が中学生くらいまでは家でもカミソ(楮)を作っていましたが、高校生の時にはやめていました。ミツマタがなくなった後も材木の値段が良かったので、しばらくの間は林業で潤っていました。」

2 国道440号から地芳トンネルへ

(1)地芳峠と四国カルスト

 地芳峠は四国カルストの中心部になる。四国カルストは、東は高知県津野(つの)町の天狗(てんぐ)高原から西は西予(せいよ)市野村(のむら)町大野ヶ原(おおのがはら)に至る延長25kmに及ぶカルスト地形で、標高1,000mから1,450mの稜線(りょうせん)がなだらかに広がっている。山口県の秋芳台(あきよしだい)、福岡県の平尾台(ひらおだい)と共に「日本三大カルスト」と呼ばれ、春から秋にかけて多くの観光客が訪れている。
 Aさん、Bさん、Cさんは、次のように話す。
 「昭和30年(1955年)ころまで地芳峠から東の姫鶴平(めづるだいら)や五段(ごだん)高原の方は、地元の人も行かないような秘境で、現在の姫鶴荘方面へ向かう尾根道があるだけでした。昭和39年(1964年)に梼原まで林道(峰越林道)が完成し、その後で地芳峠から上(四国カルストの姫鶴平、五段高原方面)へ牧道のような道をつけました。昭和44年に柳谷村営の姫鶴荘が開設されたのですが、その当時は地芳峠に梼原町が開設した地芳荘(昭和41年開設、現在は閉鎖)とともに建物がポツンとあるだけでした。昭和48年(1973年)から国営の草地開発事業が行われ、育成牧場になりました。春になると町内を中心に県内各地の畜産農家から牛を預かり、牧場内で育て、冬になると畜産農家に返します。
 国営の草地開発事業の一環として自動車道が整備されるようになってから観光客も増えました(地芳峠から五段城を経由して天狗高原に至る自動車道は昭和54年に完成)。現在でも多くの観光客が来ています。定期バスは走っていなかったのですが、夏休み期間だけ国鉄の臨時バス『ヤングメイト号』が出ていました。現在、バスは運行していませんが、春から秋にかけてはマイカーで多くの観光客が訪れています。」

(2)峠を貫く地芳トンネル

 「昭和39年(1964年)に林道地芳峠線(翌年、県道梼原-落出線に変更認定)が開通し、ようやく梼原まで車で行けるようになりました。その後、国道昇格を目指し、梼原町とともに大運動をして、昭和56年(1981年)に県道から国道440号に昇格しました。地芳峠にトンネルを抜こうという話は、そのころからありました。国道に昇格したものの急勾配で見通しの悪いカーブが多く、道幅も狭く、離合するのも困難な箇所があったからです。また、冬には積雪や凍結で通行止めになることも多く、雪の多い年には、峠付近は12月末から2月末まで通行止めになるようなこともあったので、住民のだれもが『何とかして、地芳峠にトンネルを抜きたい。』と思っていました。その思いは梼原町の住民も同じで、最初は梼原町から話があり、当時の柳谷村の近澤村長と梼原町の中越町長が協議をして構想をまとめ、議会も賛同して国道440号整備促進期成同盟会を結成し運動が始まりました。私(Bさん)はその当時、村会議員を務めていたので東京の建設省へ5、6回、高松の四国地方建設局には何度も足を運び、陳情をしました。平成2年(1990年)に事業化が決定したのですが、その時は建設省内で樽酒を割ってお祝いをしました。
 地芳トンネルは平成11年(1999年)に工事が始まりました。カルスト地形の軟弱な地盤と湧水という問題があったものの、それらを解決して工事は順調に進んでいました。ところが、平成21年(2009年)3月31日に突然、工事の凍結が発表されたのです。『ここまで来ているのに、何で中断するのか。』というはがゆい思いでした。私はその時は議員を引いていたのですが、住民の代表として工事再開の運動をし、地元住民の署名を持って高松の四国地方整備局へ行き、『ほとんど完成しているのに、中断するとは何事ですか。』『道路が完成すると住民の生活が便利になるから、山や土地を提供したのにどういうことですか。』『この道は、地元住民の医療や福祉に欠かせない命を守る道でもあるのです。』と住民の意見を訴えました。
 工事は再開され、平成22年(2010年)11月13日に地芳道路は開通しました。開通式にも出席したのですが、完成したトンネルを見て『それまであった愛媛県と高知県の壁に大きな穴が開いた。』という印象を持ちました。」

(3)地芳トンネル開通後

 「峠を貫くかたちで地芳トンネルができてから、古味からだと車なら15分で梼原まで行けます(写真3-3-8参照)。峠を越えて歩いていくしか手段がなかった時代からすると、考えられないことです。トンネルが完成する直前から、梼原のスーパーの広告チラシがこの辺にも入るようになり、地芳トンネルができてからは、買物も梼原に行くようになりました。古味でも多い時は雑貨屋、酒屋、タバコ屋などが5、6軒あったのですが、段々と減っていったので落出まで買物に行くようになりました。近年は落出も店が少なくなったので、久万まで買物に行っていたのです。
 梼原との交流も多くなっています。最近も梼原の消防団員と西谷地区の消防団員で交流会をしました。私(Cさん)たちと話をしても、梼原は土佐弁がそんなにきつくありません。愛媛との県境に位置するからだと思うのですが、この辺りの人が使う言葉とほとんど変わりません。消防団の交流は、火災や災害が発生した場合、相互に応援出動するように協定を結んでいるので、トンネルができる以前から交流はあったんですが、トンネルが完成してからはより結びつきが強くなりました。」


<参考引用文献>
①久万町教育委員会『上浮穴郡に光をかかげた人々』 1974
②斉藤忠三郎「三坂峠と久万町」(『愛媛の地理 第2号』 1968)
③面河村『面河村誌』 1980
④高須賀和恵「黒森峠」(『東温史談 6号』 2010)
⑤愛媛新聞社『愛媛の峠』 1974
⑥柳谷村『柳谷村誌』 1984

<その他の参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 1984
・愛媛県『愛媛県史 近代上』 1986
・愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』 1986
・愛媛県教育委員会『愛媛県歴史の道調査報告書第二集 土佐街道 三坂越え』1995
・愛媛県生涯学習センター『県境山間部の生活文化』 1994
・愛媛県生涯学習センター『伊予の遍路道』 2002
・久万町『久万町誌増補改訂版』 1989
・梼原町『梼原町誌』 1988
・相原芳麿「久万山土佐街道」(『愛媛県立上浮穴高等学校 研究紀要第12集』 1998)
・高岸勝繁『耳目八十年』 1983
・国土交通省四国地方整備局『地芳トンネル工事誌』 2011

写真3-3-1 横野から地芳峠へ上がる峠道

写真3-3-1 横野から地芳峠へ上がる峠道

写真左側が峠道で、現在は途中まで林道として整備されている。久万高原町西谷。平成24年11月撮影

写真3-3-2 峠の一本杉

写真3-3-2 峠の一本杉

左が「峠の一本杉」。久万高原町西谷。平成24年11月撮影

写真3-3-8 地芳トンネル

写真3-3-8 地芳トンネル

久万高原町西谷。平成24年11月撮影