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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 運輸と水力発電

(1)小椋の水力発電所

 寛一郎は自宅近く、段川のほとりから石墨山を遠望する景色を、季節が変わるごとに撮影している。恐らく寛一郎にとって親しみのある原風景だったのだろう。
 この写真には、かって直瀬にあった水力発電所跡の建物が写っている。発電所については、菅良太郎が記した『直瀬の昔むかし』に詳しい。それによると、上直瀬房代野に生まれた実業家の小椋浅吉(1884年~没年不詳)が、大正6年(1917年)に発電所を作った。そもそも、上浮穴郡に発電所が初めて出来たのは明治44年(1911年)、さらに久万電気株式会社が設立され旧久万町の家庭に電気がともったのが大正4年(1915年)のことであり、久万町よりも一層山深い直瀬の地に電気を通すという事業がいかに大変なことだったかが想像される。
 小椋の水力発電は、直瀬段川を仲組で堰(せき)止め、そこから約100mの木製の樋を伝えて発電する仕組みであった。発電された電気は発電所横にあった酒蔵で精米用に使われ、余剰分は近隣家庭の電灯用に供給された。しかし、発電自体は成功したが、川の水量が少なく、また高低差が小さかったため発電量はわずかであった。Aさんは母から、「やっと電気が来ると思って期待して電灯を見とったのに、ほんのピーマンの大きさくらいの小さな明かりじゃった。」と聞いている。
 酒蔵は、小椋が大正11年(1922年)から経営し、当時は越智郡の宮窪(みやくぼ)町(現今治市)や津倉(つくら)村(現今治市)から蔵人を雇い入れ、清酒「伊予泉」を作っていた。昭和10年(1935年)ころに酒造業は廃業、酒蔵は一時、ヒヨコ孵化(ふか)工場となった。Aさんの話では工場として使用されなかった場所では、芝居が行われたという。他所(よそ)から雇われた芝居の一座がやってきては、漫才や人情芝居などが演じられ、村人にとっては楽しい娯楽を提供する場となった。
 最初の発電所で失敗した小椋は、再び熱意と執念を燃やし、同じく直瀬地区の直瀬川の支流である永子川の上流にある多留落(たるおとし)という滝を利用して、大正12年(1923年)に2度目の発電所建設をした。堰堤から60mの長さを利用して、鉄管120mを用いた水力タービン式直流、出力50kwの発電設備をもつ「直瀬水力電気株式会社」の誕生である。この事業により、川瀬村の全家庭、さらには面河村杣野(現久万高原町杣野)にまで電力を供給することが可能となった。しかし、発電所の建設に多額の資金を投入した小椋浅吉は、資金繰りに行き詰まり、発電所は人手に渡る。その後、弘形(ひろかた)電気株式会社、伊予鉄道電気株式会社へ売却された後、昭和15、16年(1940、1941年)ころに廃止された。
 現在70歳代の地元の老人会の方々は、1つ目の発電所があった場所の少し上流の段川(だんかわ)にあった「電気渕(でんきぶち)」を懐かしむ。電気渕は木の樋で出来た水路で、水力発電所のなごりであったが、昭和21年(1946年)の水害で近隣の住宅ともに流されて今は何も残っていない。段川は、水力発電のための動力としては小さかったが、それでも子どもが泳ぐには危険だったため、老人会の方々が子どものころはこの電気渕で泳ぎの練習をしたそうである。
 老人会の方々に小椋寛一郎の写真を見せて調査にご協力いただいた際、この写真がもっとも多くの反応があり、「小学校からの帰り道に毎日通りよった」「これはお豆腐屋のおばあさんの家」「ここの人はお花の先生をしよった」、など次々に思い出を語ってくださったことが印象的であった。
 現在、この写真の右手前の田んぼは全て植林されており、往時の風景をそのままに見ることは出来ない。

(2)自動車

 車は、久万の商店街にあった米穀・肥料・農薬を扱う染次(そめじ)商店のものである。白丸で縁取られた円の中にカタカナの「ソ」とあるが染次商店のマークである。車はおそらくフォード社のA型フォードである。写真が昭和初期のものだとすれば、日本フォード社が設立されたのが昭和元年(1926年)であることから、大変早い時期に入手されたものだといえる。
 Bさんが小学生のころの記憶では、当時、染次商店の外国車はもちろん、国産の木炭車も珍しかったため、「故障したのに出会うと嬉(うれ)しいもんでした。エンジンの中が見えるんでな」とのこと。木炭車はエンジンをかけるのも大変で、炭をハッセルに入れて噴(ふ)かせ、そこから発生したガスで動かした。また、昭和24年(1949年)に直瀬に初めて開通した際の伊予鉄バスが木炭バスで、運転手が毎朝エンジンをかける様子を地元の人々はよく覚えている。
 なお、Bさんの自動車に関する記憶のなかで印象的だったのは、戦後すぐのころ、直瀬に進駐軍が来た時の話である。松山市に在中した進駐軍が、木炭を入手するため、まず先頭に銃を車体の左右につけたジープ、続いてトラック複数台でやって来た。当時13、14歳だったBさんは、進駐軍がジープからばらまくガムやお菓子を拾うのが楽しかったと語る。また、Dさんも雪の日に来た進駐軍が、キャラメルやガムを雪の上にばらまくので見つけるのに苦労したことをよく覚えている。

(3)人と馬

 荷物を運ぶ馬を駄馬(だば)という。駄馬への荷の積み方にもいろいろな方法がある。角炭の俵を重量の軽いものなどは最大七つ積むことが出来た。俵を載せる際、それを一時的に支えるための棒を荷柄(にづか)といい、馬の左右に物を載せる時、一方のみを載せた段階で荷柄を使ってバランスを取る。この時、利口な馬はわざと荷柄のバランスを崩して、作業の進行を妨げることがあったそうだ。「馬になめられたら、馬方は出来ん。この人は恐ろしい人じゃと思わせるために、馬の鼻を括(くく)って苦しめることも調教のためには必要じゃが、こういうことが出来るようになるには度胸(どきょう)がいるんですな」(Bさん)。
 馬は、生活物資の運搬に使われ、現在の自動車の役割を果たす重要な存在だった。運搬自体を専業とする馬方は、米は久万まで、木炭は久万のほか、井内(いうち)や川上(かわかみ)まで井内峠を越えて搬出していた。久万までに要する時間は、歩いて2時間から2時間30分程度であった。
 また、馬の手入れも大切な仕事で、馬を働かせた後は「川入れ」と言って川の水で馬の脚を冷やし、1、2か月に一度は蹄鉄を、久万まで行って上手な職人に交換してもらっていたという。

写真4-1-12 石墨山を望む直瀬仲組(現在)

写真4-1-12 石墨山を望む直瀬仲組(現在)

久万高原町直瀬。平成24年12月撮影