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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 名勝面河渓誕生のころの交通事情

 大正から昭和初期、鉄道やバスなどの公共交通機関の発達により、新しいレジャーとして観光旅行が全国的なブームとなった。その真っただ中の昭和8年(1933年)2月、面河渓は保護すべき日本の国土美を有する景勝地として、愛媛県で初めて「国の名勝」に指定された。それに先立ち、昭和2年(1927年)には大阪毎日新聞社主催による「日本百景」にも選出されており、面河渓の名は全国的に知られ始めた。
 大正から文人墨客(ぶんじんぼっかく)が訪れ、天下の絶勝とまで呼ばれた面河渓がこれまで世に知られていなかったのは、かねてより交通網の整備が遅れているためとの指摘があった。松山-久万間の定期バス(乗合自動車)は大正8年(1919年)に運行が始まっている。松山から面河渓までの探勝旅行をまとめた『面子(おもご)の旅』(大正13年)には、面河行き乗合自動車の往復優待券が添付されており、それには「終点古味(こみ)」(当時の仕七川(しながわ)村、現在は久万高原町七鳥(ななとり))の記載がある。既に大正末期には久万-仕七川間が運行していたことになる。面河までの定期路線ができたのは昭和初期で、村上節太郎『石鎚・面河地区の人文・歴史』(1979年)によれば、昭和4年(1929年)には栃原(とちはら)までバスが入っていたようだ。昭和13年(1938年)に若山までの自動車道(県道久万若山線)が開通し、交通の便は格段によくなった。面河渓玄関口である関門(かんもん)まで入る定期バスの運行開始はその直後だったと考えられるが、観光客にとって面河渓への道程はまだまだ気軽なものではなかっただろう。若山よりも手前、栃原までしかバスが入っていなかった昭和8年当時の面河渓観光の行程について、「大阪毎日新聞」(昭和8年9月22日付)の行楽案内記事には次のように書かれている(旧字および旧仮名遣いは現代表記に改変)。
 「日本百景面河渓を一日で見て帰ろうとする客には午前六時に松山を発する三共自動車に乗ると九時には上浮穴郡杣川村栃原に着く、それから約二里行くと面河渓の関門だからまず五、六里は歩かねばならぬが帰りの自動車は午後六時栃原発だからゆっくり間に合うはず、自動車賃は往復三円二十銭(後略)」
 三共自動車とは、昭和19年(1944年)に伊予鉄道と合併するまでこの路線を運行していた自動車会社である。当時の観光の様子について、Aさん(昭和10年生まれ)に話を聞いた。
 「大正や昭和の初めころに面河渓のような奥地に観光で来るような人は、よっぽど裕福だったのでしょう。今のように一般庶民が観光するということはあまりなかったと思います。終戦当時で私らが知っているのは、進駐軍がやって来たり、たまに有名人が観光に来て宿に泊まるというぐらいです。暮らしは、みんな貧しく食料も少なかったので観光どころではなかったのが正直なところです。面河渓までの道路がなかったため、地元の人が雇われて荷物を運んでいました。私もそういうときは行ったことがあります。一般の人がそんな観光をしにくる時代ではなかったはずです。」
 面河渓までの交通網の整備以前に、戦前戦後の動乱期であったことから、現在のように誰もが気軽に観光を楽しむ姿はまだなかったのだろう。