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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 日本一大きな柿をつくる

 愛媛県における果樹生産は、20世紀初めには、柿がミカンよりも多かったが、20世紀の後半にミカンの生産量が急激に増え、昭和50年(1975年)には、柿はミカンの約60分の1の生産規模になって、柿の生産よりミカンの生産に力が注がれている(図表2-2-6参照)。
 普通の柿は、1個250gから350gのものが多いが、八幡浜市国木(くにぎ)で生産される富士柿(ふじがき)は、平均が500gほど、大きなものは700gから800g、最大で1kgのものがある。日本で一番大きい柿として有名で、濃い紅(べに)色と甘さが特徴とされ、高級な柿、贈答品として取引きされる。この富士柿の栽培に、祖父の代から取り組んできたBさん(昭和26年生まれ)から話を聞いた。

(1)国木は柿の産地

 「昭和3年(1928年)、昭和天皇即位の御大典記念の年に、農会(国、県、郡、町村それぞれに設置された農業団体。愛媛県農会は明治29年〔1896年〕に設置)から、私の祖父、井上三郎右衛門(いのうえさぶろうえもん)が柿の苗木をもらいました。それから何年か後に柿の実がなり、大きいのでこれを栽培してみようということになりました。それで『三郎右衛門柿』とか『右衛門柿(えもんがき)』と呼ばれるようになり、祖父も『柿右衛門(かきえもん)』と呼ばれたりしていました。昭和30年ころに、富士山のような形をしているので『富士柿』と名前を付けました。
 昭和30年代は、ミカンの値がよく、私の父が柿の木を切ってミカンを植えようとしたら、祖父が『わしが死ぬるまでは、絶対に柿は切らさん。』と言って、そのまま柿の栽培を続けました。結果としてはそのほうがよかったのです。昭和40年(1965年)ころには、柿のほか、ミカンや甘夏柑(あまなつかん)なども作っていましたが、どんどん柿の栽培面積を広げていきました。
 国木地区で広がったのは、昭和40年代後半から50年代にかけてのことです。それまでは、葉タバコの産地だったのですが、葉タバコもだんだん収益が減っていた時期でしたので、葉タバコから柿への転換が行われたのです。今は、柿専作(せんさく)の農家はほとんどなく、柿と中晩柑(ちゅうばんかん)など柑橘類の両方を作っている農家が多いです。
 柿の産地になった経済的な側面としては、柿の価格がよかったので農家の収入が得られ近隣に広まったからです。また、昭和30年代に『ミカンがいい。』ということでミカンを植えたのですが、このあたりは土地が肥沃(ひよく)過ぎるため、木が太り過ぎて実が大きくなって色が付かず、味のいいミカンが採れなかったという側面もあったのです。
 私方に、富士柿の原木が2本残っていますが、この木の枝を接木(つぎき)して近隣に分けました。大量の苗が必要なので、苗屋さんに穂木(ほぎ)(台木に接(つ)ぐ方の芽や枝)だけ持って行って、接いで1年育ててもらって、返してもらうというやり方で広めました。昭和30年代には、私方から近隣農家が芽をとって帰って、柿の種を蒔(ま)いてできた台木に接ぐというやり方でしたが、時間がかかりました。柿の芽が出て接ぐまでに、2、3年かかります。山柿を採ってきて柿の種を蒔いて、芽が出て、接げるようになるまで待ってから接いで、それから4、5年かかります。『柿8年』といいますが、3年もすれば柿ができますから、そんなにはかかりません。ただし、ある程度の量を収穫しようと思えば、やはり8年くらいかかります。
 富士柿は、全国で唯一、八幡浜市で栽培されています。市全体では、富士柿は80ha近くあって、生産量も1,500tくらいは十分あるでしょう。国木は、60haで栽培しており、生産量なら1,200tか1,300tくらい、出荷予想量としては900tを見込んでいて、富士柿の主な産地になっています。生産量と出荷量に差があるのは、柿には傷果(きずか)とか汚損果(おそんか)というのがあって、選果場の選果基準以下のものは県外に出せないからです。選果基準以下のものは地元市場に出回って消費されます。私方では2haの柿畑で年80tの富士柿を生産しています。」

(2)富士柿をつくる

 ア 栽培の仕事

 「1月、2月は剪定(せんてい)の仕事があります。過繁茂(かはんも)しますので、それを抑制するため木を切ります。4月はあまり仕事がなく、園地管理が主で、草を刈ったりします。5月、6月も園地管理が主で、除草や施肥(せひ)、消毒防除をします。
 肥料は、今はミカンのものと中身は同じですが、しばらく前まではミカンとは別でした。窒素(ちっそ)や燐酸(りんさん)の量が少し違っていたのですが、コストがかかるので今は同じにしました。しかし、肥料袋には『柿用』と書くようにしています。
 消毒防除は10月まで、20日から25日に1回くらいします。私の農園では、SS(エスエス)(スピード・スプレーヤ)という機械で消毒します。この機械はエンジンがついていて、扇風機を回して、柿の木に消毒液を撒(ま)き散らしながら園内の道を動き回ります。タイヤを崖(がけ)の端にかけて、200度くらいの角度で薬を散布していきます。
 6月後半から8月にかけては摘果(てっか)をします。剪定したときに残っている芽のことを結果母枝(けっかぼし)といい、それに実がなるのですが、摘果は、適正な実の数になるようにする作業をいいます。一つの枝に3個も4個も実がなるのですが、形のよい実を選んで1個にする作業です。8月には摘果の仕上げをしながら、園地管理をします。
 9月になれば、シルバーマルチを敷きます。栽培上のリスクというか、汚損果をいかに少なくするかということ、精品(選(え)りすぐりの品)率を高めるということが、生産の上で注意していることです。シルバーマルチは、ミカン栽培でもやっていますが、園地に銀紙のようなシートを張り、下から柿に光を当てるのです。そうすると園内温度が高くなります。シルバーマルチによって環境条件が改善されるのです。私の園地では、シルバーマルチをしていないときは良品が6割近くでしたが、シルバーマルチをした途端にコロッと変わり、秀品や優品が6割になって逆転しました。ですから今、国木の農家のほとんどがシルバーマルチをしています。
 10月の中旬から11月いっぱいが収穫です。富士柿には、早生(わせ)とか晩生(おくて)とかはありません。色づきのよいものから収穫します。柿の実は、1か所でたくさん採ることができません。色づいて採る時期になった実を、あっちで一つ、こっちで一つ、というように、畑の木を順に回りながら採っていくのです。柿の木が高いので、脚立(きゃたつ)に乗って柿の実を採っていると、怪我(けが)をすることが案外多いのです。また脚立を持って畑を歩き回らないといけません。それで今では、長い竹の棒の先に袋をつけて、柿の実を袋に入れてクルッと回すと実がポロッと採れるような道具(高所収穫棒)を使っています。脚立に乗らずに高いところにある実を採ることができますし、竹の棒は軽いので能率が上がります。今は、そういう工夫をしている農家が多いです。
 昭和30年代、柿を木から採るときは、ホゴ(藁(わら)を編んだ入れ物)や四角の竹かごを使い、担(にな)って帰るときは担(にな)い棒(天秤棒(てんびんぼう))を使っていました。竹かごはコンテナよりも一回りか二回り大きなものでした。竹かごに紐(ひも)をつけて、前後に担って帰っていました。」

 イ アルコール脱渋

 「柿作りは、農作業としては昭和の時代と現在とでそう変わりはないですが、脱渋(だつじゅう)(柿の渋味を人工的に抜くこと)については大きく変わりました。今は農協が脱渋をしてくれますけれども、昭和57年(1982年)までは、それぞれの農家で脱渋をしていました。昔は大きな樽(たる)に柿の実を入れ、焼酎(しょうちゅう)をかけて脱渋していました。その後、茶箱に実を入れるようになり、続いて室(むろ)を作って、柿の実をいれたコンテナを何十箱も入れ、アルコールを入れて脱渋をするようになりました。現在は、農協に、コンテナを数百箱入れることのできる脱渋装置があります。アルコールを噴霧(ふんむ)して脱渋をするのです。
 アルコール脱渋という方法は、私たちの組合で考えて始めました。県の工業試験場(現産業技術研究所)などのアドバイスもありましたが、最終的には自分たちで開発した技術です。農協の脱渋装置は、われわれ組合員が『こういうものを作ってやりたい。』とメーカーに言って作らせた装置なのです。
 柿の販売の際には、アルコール脱渋ということを前面に出して販売しています。他の産地はほとんどが炭酸ガス脱渋です。アルコールと炭酸ガスとでは柿の風味(ふうみ)が違ってきます。日持ちは炭酸ガス脱渋のほうがよいのですが、アルコール脱渋のほうが、柿に甘みが残り、まろやかな食味(しょくみ)になります。富士柿は、糖度がもともと高くはないので、甘みが残るようにしたほうがよいのです。販売する業者も、『アルコール脱渋のほうがおいしい。』と言ってくれます。
 『渋を抜く』と言いますが、実際は抜いていないのです。アルコールによる化学変化で、口の中に入ったときに溶けるものを溶けないようにしているだけなのです。不溶性・可溶性の問題です。」

(3)富士柿を売る

 ア 選果

 「富士柿は、選果基準によって、秀品、優品、良品、良良品の四つのランクに分けられます。これは、柿の外観(よごれ、形)や糖度によって決まります。汚損果というのがありますが、これは、果皮がよごれて黒くなっていたり、破線状になっていたりしている柿のことです。汚損果の基準を表にしていて、これはよい、これはいけないということが決まっています。その表を見て出荷を決めるようになっています。
 また、大きさでランク分けがあります。普通は4L、3L、2L、Lの4段階です。それ以外に、特別大きい柿は6Lにランク分けします。これは重量で決まります。だいたい50g単位でランク分けされています。
 選果をする時、前は、大・中・小や外観の良し悪し、重さを目見当(めけんとう)で分けていましたが、今は『ピーチクパーチク』という音声式重量判別機で選果します。ピーチクパーチクは減量式の機械です。収穫した柿をコンテナに入れて秤(はかり)の上に載せ、柿1個をコンテナから取ったら、機械が『マイナス350g。』とか、『3(さん)L』あるいは『2(ツー)L』とか、音声で知らせるのです。それで分類して箱に入れていきます。ピーチクパーチクは、イチゴくらいの大きさのものもわかるので便利です。」

 イ 出荷

 「柿は、現在もそうですが、段ボール箱で出荷していました。その前は、市場まではトロ箱(ばこ)(木箱)に入れて出荷していたのを覚えています。トロ箱は底が浅いので、柿を1段か2段にして入れていました。
 生産した柿は農協に出荷し、農協からは関東地方や関西(大阪や神戸)、九州地方へ出しています。中国地方へは出していません。鉄道輸送はなかったのですが、船に載せて九州へ出荷したことがありました。昭和55年(1980年)に、地元に神山(かみやま)東生産出荷組合ができるまでは、自分で港へ持って行き船に積んで別府まで運んでいました。その後、農協が扱うようになってトラック輸送になりました。格外品(外観や品質で基準に合わないもの)は、自分の家で脱渋処理をして地元の青果市場に出荷します。
 富士柿は、どちらかというと、かご盛りの果物の中に1個入れるというような商品です。値段が1個で売るには高いのです。東京で一番高いとき、1個が800円から1,000円くらいでした。平均すれば1個が200円から300円くらいはします。高級な果実ということで販売されています。『柿であっても柿でない。』という売り方でやってきました。」

(4)柿づくりとくらし

 「収穫の時期には、朝7時くらいから私と家内、父、娘が山に入ります。常雇(じょうやと)いは一人で、10月から年内いっぱい仕事をしてもらいます。雇っている人は、野村(のむら)町の阿下(あげ)(現西予市)に住んでいて、朝は6時半には出て7時半ばごろには来ます。阿下からは真穴(まあな)(八幡浜市真網代・穴井)のミカン採りにも、同じ時間に出ているそうです。雇っている人は、7時半から仕事をして、10時くらいに15分休憩をして、昼にも休みます。そして15時ころにも15分の休憩があり、17時に終わって帰ります。
 でも、私と家内は、17時からも仕事があります。地元市場に出荷する柿の渋を抜いたり選果したりする作業を、22時ごろまでします。収穫時期には、朝の3時に市場に行くことが毎日のようにあります。
 こんなに遅い時間まで仕事をするようになったのは、組合の柿部会(JA西宇和富士柿部会)ができてからです。それまでは、出荷前に脱渋の作業をしなくてはならないので、自分の家でできるほどの量しか作っていなかったのが、組合で脱渋(だつじゅう)をするようになって農家は組合に持っていくだけでよくなり、生産量が増えたからです。明るいうちに収穫をして、選果して、残りを翌朝に地元市場に持って行くようになったのです。家で脱渋しているときは、夕方に仕事が終わるように段取りをして、夕方に地元市場に出して終わりにしていましたが、今は夜も仕事をするようになりました。収穫だけしたらよいので、ある程度の量の柿を作って利益を増やそうとすると、選果した残りの格外品を地元市場に出さないといけない、ということになるのです。
 柿のほかに野菜苗(なえ)の育苗(いくびょう)ハウス栽培にも取り組んでいます。育苗は、トマト、スイカ、ナスビ、キュウリなどの春野菜の苗を作り、農協相手に商売させてもらっています。私が高校を卒業したころに、もうそのような経営になっていました。不作による危険を分散させるためと、手が空(あ)いている時期にできるという労力の時期的分散のためです。育苗は、1月の終わりから4月いっぱいで、柿で忙しくなる前に作業が終わってしまいます。売る相手に値段をつけられるという生産のやり方だけでは、生活が難しいですが、育苗は、生産者が売り値を決めて販売しますから、収入も安定しています。」
 Bさんの案内で国木地区を巡(めぐ)ってみると、柿園が山間(やまあい)の傾斜地全体に広がり、八幡浜はミカンだけではなく柿の産地でもあることが分かる。そこ、ここで働いている柿農家の方は、長年、柿の産地づくりに取り組んできた自信にあふれていた。


<注及び参考引用文献>
①八幡浜市「八幡浜市水産振興基本計画」 2011
②八幡浜市社会科教育研究会編『小学校社会科 八幡浜のくらし』 1958
③本山百春「八幡浜向灘ミカンの歩み」(愛媛県青果農業協同組合連合会「果樹園芸 489号」 1989)
 なお同氏の著作である「向灘みかんの歩み」という手書きの詳細な原稿も存在する。
④谷本広一郎「旧産地『日の丸』の試練」(「佐賀の果樹 22-8」 1969)
⑤菊地和雄「急傾斜柑橘園における農道と索道の発達-モデル地区の現状と課題-(その2)」(「和歌山の果樹 18-7・8」1967)
⑥昭和34年に「計量単位の統一に伴う関係法律の整備に関する法律」が施行された。
⑦谷本広一郎『命枯れるな』中国四国農政局南予農業水利事業所、初版1984、四版1990

<その他の参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 社会経済2 農林水産』 1985
・八幡浜市『八幡浜市誌』 1987
・武智利博『愛媛の漁村』愛媛文化双書刊行会 1996
・村上節太郎「八幡浜市のトロールと蒲鉾」(「伊予史談 131号」 1952)

図表2-2-6 愛媛県における柿の生産量とミカンに対する生産比率

図表2-2-6 愛媛県における柿の生産量とミカンに対する生産比率

松山商科大学経済経営研究所編『愛媛長期経済統計』(1983年)から作成。