データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅲ-八幡浜市-(平成24年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 四ツ太鼓の中断、そして復興

(1)四ツ太鼓の中断

 かつて盛大なにぎわいを見せた秋祭りも、時代の流れとともに簡素化されていき、四ツ太鼓は一時中断されることとなった。昭和35年(1960年)、中断された最後の年に四ツ太鼓の乗り子の1人として太鼓をたたいたHさんは、その当時のことを次のように話す。
 「私が四ツ太鼓に乗った時は、四ツ太鼓がなくなるということなど、全く知る由(よし)もありませんでした。想像もしていませんでした。大人の世界では決まっていたのかもしれませんが。いつの間にかなくなっていて、ある程度時間がたってから、自分が乗ったのが最後だったということが分かったように思います。
 中断された理由は、終戦後の高度経済成長のなか、若者が集団就職などで都会に出て行ってしまい、四ツ太鼓の担ぎ手がいなくなってしまったからだと聞いています。
 四ツ太鼓は華(はな)があってにぎやかでしたので、なくなってしまうとやはり寂しかったものでした。」

(2)四ツ太鼓の復興

 四ツ太鼓が中断されて以降、八幡神社の秋祭りのにぎわいは、盛んだったころに比べて急激に衰退していった。そのようすを、Gさんは次のように語る。
 「37年前(昭和50年〔1975年〕)の10月に、こちら(保内町)に帰ってきたのですが、祭りは、盛んだったころから急激に衰退してしまって、何もなかったのです。神輿も軽四トラックに乗せられて運ばれていました。練り物も、お稚児さんと徒歩練りくらいでした。
 何にもないので、少しでも景気をよくしたいという思いから、8人の有志でご神体(しんたい)の乗っていない神輿を担ぎ出しました。往復約10kmの道のりをふらふらになりながら神社に納めたことは覚えているのですが、相当に重い神輿を担いで疲れきっていたのか、担いでいた時の記憶はありません。無謀(むぼう)だと思われるかもしれませんが、こういった事をしないと物事が動かないこともあります。この出来事が起爆剤(きばくざい)となったのかどうかは分かりませんが、祭りをどうにか盛り上げようという8人の思いが一つになって、その次の年に担ぎ出した神輿にご神体が乗り、その何年後かに牛鬼が復活しました。そうやって、次第ににぎわいを取り戻していったように思います。」

 ア 四ツ太鼓復活への険しい道のり

 平成24年(2012年)の復活に先立ち、その約10年前にも一度、四ツ太鼓復活に向けた運動がなされた。その当時のようすを、Cさん、Gさん、Fさんは次のように語る。
 「私(Cさん)が、町地区の区長をしていた時の事です。私に四ツ太鼓を教えてくれた先輩方に、『四ツ太鼓を復活させたい。』と相談に行ったところ、『まこと、それはよかろう。私も(話に)乗ります。』と快諾してもらいました。また、復活を応援したいという大口の寄付の話もあり、それも後押しになって話を進めていました。
 そのような中、地区の住民に話を聞いてみなければ、という事になり、一軒一軒に回覧板で賛否を確認したところ、『今頃になってそがいなものいるかや(そのようなものが必要とは思えない)。かき手おるがかや(いるのか)。寄付が集まるかや(集まるのか)。』と反対され、復活の話は消えてしまいました。住民からの寄付も集まりませんでした。後ろ髪を引かれる思いで、『今回はこれで引く(引き下がる)けれども、四ツ太鼓の復活をいつか必ず実現させてみせる。』という思いを伝えて、私(Cさん)は引いたのです。
 そのときの失敗の第一の原因は、私(Gさん)が思うに、四ツ太鼓に携わったことのある人はほとんどおらず、経験者がほんの一握りであったということです。私(Fさん)たちのように、四ツ太鼓に乗ったことのある者にはその素晴らしさが分かりますが、見たこともない、聞いたこともない人に理解してもらうのは非常に難しいのです。そして、その時だけでなく今回もそうですが、四ツ太鼓を出すとなると、大きなお金が必要になるということも原因の一つです。」

 イ 四ツ太鼓復活の経緯

 そのような険しい道のりを経て、平成24年(2012年)10月、一時中断されていた四ツ太鼓が、約50年ぶりに復活されることとなった。きっかけは、今回の聞き取り調査で話を聞いた方の一人であるFさんが、お姉さん、妹さん達と協力して四ツ太鼓を八幡神社に寄贈したことに始まる。Fさんの父親が旧保内町(現八幡浜市)の町議会議員をしていたこと、Fさん自身が、18歳から始めて35年間、自宅で稚児の舞の踊りを教えていて、喜木の祭りに深い思い入れがあることなどから、支えてもらった地元の方に恩返しがしたいという思いで、父親の50回忌を機に寄贈された。
 約50年ぶりの復活を、中心となって推し進めたGさんは、その経緯を次のように話す。
 「復活の話が持ち上がったのは、忘れもしない平成24年6月18日のことです。ここまで来るのは本当に大変でした。これほど苦労するとは思ってもいませんでした。
 四ツ太鼓の本体はあっても、その他の準備や運営にかかる資金をどうするのか、という問題がありました。まず、肝心な乗り子の衣装がありません。ある方に相談して、いろいろな助成金や補助金の制度があることを教えてもらいましたので、現在、二つの助成金制度に申請しています。それが採択されれば、来年(平成25年)には、乗り子の衣装を新調できる予定です。その助成金と地元企業からの協賛金を基に何とかやろうということになりました。今年(平成24年)は、資金がなく日程的にも難しくて、残念ながら一番重要な乗り子の衣装を準備することができませんでした。」

 ウ 地区住民の理解

 「6月18日に復活の話が持ち上がって、7月15日に地区の臨時総会を開き、四ツ太鼓の件を相談しました。賛否両論あった中で、反対の第一の理由は、お金(寄付金)がいるということです。少しの無駄な出費もしたくないという今の時代に、なぜ50年も途切れていた四ツ太鼓をまた出すのか、という意見がありました。組の皆さんに迷惑をかけないやり方はないだろうかと考えて、資金の面は助成金と協賛金を柱にして、寄付金は集めないということで納得してもらいました。
 1年や2年を経てこうなった(四ツ太鼓復活を決めた)わけではありません。急遽(きゅうきょ)決まったということで、日程がない中、町区の皆の心を一つにするのは大変なことでした。
 まず、四ツ太鼓を見たことがないという町民が大勢います。75歳以上の方で、喜木に嫁に来て初めて四ツ太鼓を見たという方もいました。皆が見たこともなく乗ったこともないという状況のため、四ツ太鼓を復活させる気運がなかなか高まらない時期もありました。ただ、そのような中で、9月12日に四ツ太鼓の練習を始めて、太鼓の音が周囲に漏れ聞こえてくると、『四ツ太鼓の音かなあ。そこまで聞こえたぞ。』という声も上がり、少しずつ地域の皆さんの理解を得ることができました。」

 エ 四ツ太鼓の実施

 「どうやって四ツ太鼓の乗り子を選ぶか、ということも大変でした。そもそも、町区の中に、条件に合う子ども(小学校3、4年生の男子児童)がいません。結局、苦肉の策で、他所(よそ)の地区の子どもさんに乗り子をしてもらうことになりました。今後は、町区だけでなく喜木全体でやっていくようにしなければ、なかなか続かないと思います。
 PTAの支部長さんや、子ども会の役員をしている親御さんに相談しながら、何とか4人の乗り子を選びましたが、なかなか都合がつかない子どもさんもおり、苦労しました。昔のように、長男でないといけないとか、所得がいくらないといけないなどといっていたら、今の時代では大変なことになります。
 昔の子どもは、学校が終われば、行事ごとなど何もありませんでした。私(Gさん)の時代は、学校が終わったら、山へ行って柿を採って食べるぐらいの遊びしかありませんでした。けれど今の子は違います。学校が終わったら、部活を一生懸命して、その後習い事に行って、夜7時半になってやっと集まれるくらいです。
 昔は練習も相当長い時間していましたが、今の子は、放課後の部活動などで疲れているので10分も練習をしたらバテてきます。ソフトボール部に入っている子どもが、一生懸命に部活動をした後だったので、なかなか手に力が入らずに太鼓をたたくバチを落としたことがありました。
 練習はそんな状態でしたが、本番当日は、自分たちが楽しいのと、皆が見てくれているという思いがあって、何とか頑張ってやってくれました。自分の地区の人からは、『よかった。よく頑張ってくれた。』と言われましたし、他の地区の長老からも、『(四ツ太鼓を)よく出してくれた。今年の祭りは今までで最高だった。』というお褒(ほ)めの言葉をたくさんいただきました。肩の荷が下りた一言でした。
 一方で、四ツ太鼓を出すにあたり、今まで37年間担いできた神輿をどうするのか、という問題もありました。一番理想的な方法は、四ツ太鼓と神輿を両方担ぐ方法ですが、そうなったら二足のわらじを履くことになるので、大変なことになります。何度も協議した結果、四ツ太鼓と神輿の両方を出すが、神輿の移動は車(軽トラック)でするということで了承を得ました。結局、四ツ太鼓も神越の八幡神社の階段を登って上げずに、乗り子たちを歩いて行かせました。お神輿は町地区の担ぎ手で上げて降ろして、帰りは車に積んで帰りました。」

(3)これからの課題

 「問題点や課題がたくさんあって、私(Gさん)の祭りは、まだ終わっていません。50年という非常に長い、半世紀にわたる中断の影響は大きいものがあります。祭りを終えて、若い人から、『今までは、痛くてきつい思いをしてお神輿を担いでいたから、今回は物足りなかった。』という意見が出ました。神輿から四ツ太鼓に替わった理由を皆には言っていたけれど、まだまだ若い人との間にはギャップ(四ツ太鼓に対する意識の差)があります。同世代の仲間とのギャップはすぐに埋まりますが、私たちの世代と若い人との間はなかなか埋まりません。それを埋めるのは1年や2年では多分無理だと思います。
 私たちが汗水流して復活させた四ツ太鼓を、喜木の町区の財産として、今後どうやって皆に浸透させて継承していくか、これが一番の課題だろうと思います。お祭りとは何なのかということを教えながら、われわれの後を上手に引き継いでくれる後継者を育てていければと思います。そして同時に、お祭りにはギャラリー(観客)が必要なので、四ツ太鼓が喜木の財産となった以上、住民みんなが参加でき、一つになれるような祭りを作っていかなければなりません。」
 約50年ぶりの四ツ太鼓復活の背景には、多くの人の苦労と地道な努力があった。それらの人々の志や熱意は、四ツ太鼓と同様に地域の貴重な「財産」であり、地域の人々のつながりを広げ深めていくことであろう。


<参考文献>
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ南予』 1985
・八幡浜市『八幡浜市誌』 1987
・保内町『改訂版 保内町誌』 1999
・八幡浜市社会科教育研究会編『小学校社会科 八幡浜のくらし』 1958