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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 中浦のくらし

(1)生業

 「中浦の海辺は、イリコ(小イワシなどを煮て干したもの)の製造が非常に盛んで、網が10帖(じょう)(「帖」は網の数え方)くらいありました。『えびす』『大黒』『大浜(おおはま)』『丸武(まるぶ)』『浜猪野(はまいの)』といった網元がいました。沖から船が帰って来たら、網は綿糸でしたから浜で干していました。今はローラーなどの機械がありますが、当時は手で船から引っ張り揚げていました。網干場は、今は駐車場になったり建物が建ったりしています。中浦は、イリコを干して一晩そのままにしておくと露が降りるので、そのままにできませんでしたが、西海地域は、海風が吹いて暖かく露が降りないので、そのまま干していました。ひと山越えると、気候が違いました。
 イワシの加工場も海岸にたくさんありました。加工場のことを製造場(せいぞうば)ともいい、地元では『セイゾバ』と呼んでいました。セイゾバでは、ウルメイワシやカタクチイワシ、マイワシなどを干すのです。素干(すぼ)しや煮干(にぼ)しで魚をコモ(藁(わら)で荒く織った筵(むしろ))に並べる作業がありました。
 農繁期になると、大人は取入れに段畑へ行っていますので、子どもがセイゾバの働き手になります。中学校から、授業時間に、目刺しの仕事(魚の目に竹串を通す。)をしに行きました。中学生が作業をして、その作業賃は学校に入りました。
 学校の授業ではなくて個人でも、学校が終わったら、セイゾバで作業をしました。作業がたくさんあるので、子どもの手が必要だったのです。50cmから60cmくらいの細長い竹の串1本に、ウルメイワシやカタクチイワシ、マイワシなどを15匹ぐらい、魚の目の所に刺して連ね、串の両側10cmをあけて真ん中に寄せるのです。最初に竹の串100本を束にしておいて、100本刺したら、20円もらうことができました。100本に満たないものは、本数を数えました。目刺しの作業をして『今日は、500本できた。』というと、100円になります。当時、食用油が1合(約180mℓ)30円くらいでした。私(Cさん)は、それを小遣いにするのではなくて親にあげることが、とてもうれしかったものです。
 中浦では100本刺したらいくら、という決まりでしたが、福浦(ふくうら)(西海地域)では1時間でいくら、という決まりでした。地域によってやり方や決まりが違いました。中浦は、とにかく早く刺してたくさん作ればお金になりました。だから並んで同じ作業をしても、早い人はたくさんお金をもらえました。子ども同士で競争でした。『今日はこれだけやった。』という充実感がありました。」

(2)人やモノの行き来

 「分村当時(昭和23年〔1948年〕)、交通の便は巡航船(御荘湾内の航路)の中浦丸だけでした。巡航船で運ばれた新聞は、中学校に届けられ、中学生が配達をしていました。一番上の兄がスポーツ新聞を取っていたのですが、なかなか来ないので、苦情を中学校に言うこともありました。
 行商の人は船で来ていました。竹籠(たけかご)をかるうて(背負って)売りに来たり、種物(たねもの)や薬なども売りに来たりしていました。行商の人が泊まる所に困って、『どこか泊まれんやろか。』と言うので『泊りなはいや。』と自分の家に泊めた人もいました。泊めてあげたら、行商の人の体が弱くて亡くなってしまい、葬式を出してあげたのでお位牌(いはい)があったりもします。
 昭和25年(1950年)に平城と中浦の間の県道が御荘湾沿いに開通しました。中浦から西海地域の船越地区へは、大正13年(1924年)に道路ができていて、山越えで往来をしていました。ですから、郵便は船越から来ていました。車の入らない中浦が船越の支局になって、船越郵便局の局員が自転車か徒歩で集配をしていました。昭和31年(1956年)に南内海村が御荘町と合併したころも船越郵便局経由でしたので、郵便が1日遅れでした。平城から直接配達すれば早いのに、と思っていました。その後、平城から直接来るようになりました。
 南郡(なんぐん)(南宇和郡)の小学校の地域区分のうち、中浦と西海地域の福浦、船越、内泊(うちどまり)など(当時の南内海村と西外海村)は、南郡の『4区』でした。4区で陸上や水泳の競技会がありましたし、演劇や合唱は、御荘座や、城辺にあった南座で4区合同の発表会をしたことを憶えています。
 西海地域とのつながりが強かったということもありますが、平城から中浦の間の道路整備は遅々として進まず、節崎(ふっさき)までとか、深泥(みどろ)までとか区切って工事が行われ、赤水(あかみず)までは早くに道ができていたのですが、中浦まで通ったのは昭和25年(1950年)でした。私(Aさん)が高校に入学したのは昭和28年です。私の兄は26年入学ですが、その当時はバス便がなく、自転車で通学しましたので、私も兄にならって自転車通学でした。上り下りが多く自動車の通行も少ないので舗装しておらず、ガタガタで時間がかかるのです。女子は、南宇和高校の近くの寮や下宿に入っていました。
 昭和27年(1952年)5月に城辺と中浦を結ぶ定期バス(宇和島バス)の運行が始まりました。同時に、巡航船の中浦丸が廃止になりました。
 バス便ができてからは、買い物はほとんど城辺へ行くようになりました。それまでは、巡航船で長崎(ながさき)(御荘地域)へ行って買い物をしていたように思います。昭和35年(1960年)ころには、中浦から平城を通って城辺バスセンターへ行くバス便がありました。バス便は乗客が多く、朝はすし詰めでした。また、盛運汽船が城辺から宇和島を結ぶバスを運行して宇和島バスと競合していたのですが、昭和35年に宇和島バスに統合されました。」

(3)人々のくらし

 ア 米飯の始まり

 「中浦では昭和20年代、主として麦やイモが食べられていました。主食が米に変わったのは、昭和30年代前半で、南郡でも早かったと思います。中浦の人は経済力があって、米を買って食べることができました。
 私(Cさん)は昭和33年(1958年)に南宇和高校へ進学しましたが、中浦の人4人で一緒に学校の近くで下宿しました。下宿といっても自炊です。昼食も、下宿に食べに帰っていました。七輪(しちりん)で煮炊きをするので、炭1俵を4人がそれぞれ買うのです。私は、御飯を1日に米2合半(約450mℓ)、七輪で炊いて食べていました。今思うと、『ずいぶん食べていたな。』と思いますが、当時は間食もほとんどしなかったので、『もっと食べたい』と思っていました。同じように中浦から来ていた、中学卒業後船乗りをしてから高校生になった、私より2歳年上の人から、『ぼくは2合半炊いているんだけど、食べ過ぎだろうか。』と相談されたので、『私も2合半、炊いている。』と言いました。御飯をお茶碗に2膳(ぜん)食べても、おかずは魚だけということが多いので、御飯を食べないと食べた気がしませんでした。おかずを花がつおだけで済ます、という友達もいました。今は、2人家族で、1日2合(約360mℓ)炊いたら、それで十分です。」

 イ 井戸水と風呂

 「中浦では、あちこちに井戸がありましたが、飲み水にもなる良質の水が汲(く)める井戸と水質がよくない井戸がありました。近くなのに全然違うことがありました。井戸水を汲(く)み過ぎて、塩水が混ざるようになり、飲み水に使えなくなった井戸もあります。井戸のない家も結構ありました。20軒ほどが使う共同の井戸から、水を汲んだ桶を担(にな)って家まで運ぶのが嫁さんや子どもの仕事でした。
 私(Bさん)の家では水を汲むのは子どもの仕事で、親から『風呂の水を汲んでおけ。』と言いつけられていましたが、それをせずに遊んでいては、よく叱(しか)られていました。釣瓶(つるべ)が、昔は木で作った桶でしたので、とても重かったです。釣瓶を2個付けたロープを滑車で回して水を汲む井戸では、楽に引っ張り上げることができました。
 昭和40年(1965年)に、上水道が整備されました。それまでは簡易水道があって、中浦の谷ごとに水源を山手に設けて給水していました。そのころは、毎日風呂を沸(わ)かしてはいなかったですし、風呂のない家は、他所の家にもらい風呂に行っていました。他所の家に行くときは、薪(まき)を持って行くこともありました。銭湯もありました。教員住宅はお風呂がなかったので、私(Cさん)の家に、先生とその家族が風呂をもらいに来ていました。」

 ウ アカビの迷信

 「中浦は漁師町で、昔は、『アカビ』が嫌われていました。アカビというのは、赤ちゃんが生まれたお慶(よろこ)びのことです。けれど、昔は出産が不浄とされたので、赤ちゃんが生まれた家の子どもは、ほかの子どもから一緒に遊んではもらえなかったのです。また、その家の人は最低でも3日、長いときは仕事を1週間休まなければなりませんでした。万が一、アカビの家の人が、『人がおらんから来てくれ。』とか『どうしても必要だから。』と乞(こ)われて、漁に行って事故にでも遭(あ)ったら、『アカビに行ってから(アカビなのに行ってしまったから)。』と陰口をたたかれました。今では迷信だと分かりますが、当時は皆がそのように信じていました。死人が出たら、『クロビ』です。アカビとクロビは嫌われていました。」

(4)人々の楽しみ

 ア 映画と芝居

 「中浦にも映画館がありました。『みなと劇場』という看板を見たことがあります。映画は、フィルムを船越と掛け持ちで、フィルムを入れ替えて上映していました。そのころは、ポスターは手書きでした。ポスターの書き手が専属でいて、映画の主演女優を美人に上手に描いていました。
 今の漁村振興センター(中浦公民館を兼ねる)の場所に青年会館という小さな建物があり、芝居は、その建物と広場でしていました。旅回りの芝居一座や青年団が、チャンバラや踊りをしていました。旅回りの芝居一座のときは入場料を取るので、急きょ広場の周りを板で囲うのです。下は土ですので、ゴザを敷いていました。母に連れられて、見に行ったのを憶えています。旅回り一座は、船でやって来て、海からスピーカーで、中浦の皆さん、何々一座がやってまいりました、と呼びかけて宣伝していました。そうすると、村中(むらじゅう)によく聞こえるのです。『今晩見に行こうで。』と誘い合って見に行っていました。芝居は年に4、5回で、一晩で皆が来るので、何日も続けて上演しないのです。青年団は、お寺で村芝居の練習をしていて、一本松の人が芝居を教えに来ていました。」

 イ 牛の突き合い

 「戦後すぐは、楽しみといえば映画か芝居か闘牛か、という感じで、爆発的な人気がありました。闘牛のことを、この辺りでは『突き合い』と言っていました。中浦にも闘牛場が、猿鳴に行く峠道の急な坂の手前の、丸く、すり鉢のようになった谷あいにありました。闘牛場の下に牛神様(うしがみさま)がありました。
 一度廃(すた)れていましたが、昭和40年代に復活した時期があり、父とよく見に行きました。月1回くらい、やっていたように思います。牛は黒いものだと思っていたら、西海地域から赤い牛を連れて来たことがあり、珍しく思ったことがあります。
 中浦には牛飼いは少なく、昭和30年代には中浦で1頭か2頭いただけでした。同級生の家で牛を飼っていたのですが、昭和23年(1948年)ころ、小学生の時にその同級生の家に遊びに行くと、ハメ(マムシ)の皮をむいて木に巻きつけ干したものを、牛に食べさせていたのを見たことがあります。私が『ハメを食わせているぞ。』と驚いて言うと、『力がつくらしいぞ。』と友達が話してくれました。」

 ウ 相撲大会

 「相撲(すもう)大会は、中浦の青年や子どもたちが浜に土俵を作ってやっていました。私(Bさん)も相撲が好きで、中学生のころまではよく相撲をとっていました。三人抜きとか五人抜きとか、連勝する人は、竹に御幣(ごへい)を付けた賞をもらいました。相撲好きの人が軍配を作って行司をやっていました。中浦には、延命寺岬(えんめいじみさき)という場所がありますが、そこに漁業の供養塔があり、近くに延命寺という小さな祠(ほこら)がありました。そこで『延命寺相撲』という相撲大会をしていました。今でもお大師さん(御荘平城の観自在寺〔四国八十八か所40番札所〕の縁日)で延命寺相撲をやっています。中浦では、相撲の強い人は『若木山(わかぎやま)』と呼ばれて、四股名(しこな)を持っていました。地区で名前は決まっていて、その人が引退すると、次の強い人が四股名を引き継いでいました。」

 エ 大島様のお祭り

 「昭和20年代は、大島様のお祭り(御荘湾に浮かぶ大島にある厳島神社の祭礼)に大勢行って盛大でした。中浦だけで、網を出している所は10帖(じょう)くらいありましたから、それが全部、船に旗を飾り立てていました。大島の長崎側(大島の東側)は、ほとんど船で埋まっているような状態でした。内海村と南内海村の、船という船が集まるので、船がひしめき合って、遅く島に行くと、岸辺に船を着けることができず、ほかの船を渡らせてもらって上陸しなければならないほどでした。上陸したら、神主さんに拝んでもらいます。島の中にある神社の前にある広場に店がいっぱい並んで、柿や椎(しい)の実など、いろんな品を売っていました。その買い物が楽しかったです。食べたことのないようなお菓子を買ってもらいました。
 私(Bさん)は、長崎で牛鬼(うしおに)や神輿(みこし)を初めて見ました。中浦にはありませんでした。学校も休みで、にぎやかに出店が出ていました。お祭りの終わりころに、船は、大島を右回りに回ります(島を右に見ながら進む)。網の従業員さんや家族は船に乗って、網主さんが用意した赤飯などのごちそうを食べます。それが楽しみでした。」
 話を聞いた人のうち、Aさんは小学校の元教員で、昭和50年代に、県内の12名の先生方とともに、小学生向きの郷土図書『愛媛の地理ものがたり』(昭和57年〔1982年〕発行)の執筆・編集にあたった。Aさんは「リアス式海岸に生きる」の章を担当し、生まれ故郷の中浦のことを思い出しながら、自らが体験した実話を交えて執筆した。出版された『愛媛の地理ものがたり』は2万部を超える人気ぶりで、ふるさと愛媛の学習に今も役立てられている。


<参考引用文献>
①愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985
②村上節太郎『愛媛県新誌』日本書院 1953初版、1959改訂版