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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 船越の景観

(1)中道筋と十字路

 「『船越』という地名は、かつて、集落側から小船を担ぎながら、地元で『中道筋(なかみちすじ)』と呼んでいる道を通って丘を越え、集落と反対側の西之浜(にしのはま)方面の漁に出ていたことから付いたそうです(図表1-5-2の㋙参照)。船で半島を回り込むよりも早く漁場に着けるので、そうしていたのだと思います。昭和34年(1959年)ころには、イワシ(マイワシ)がとれなくなった影響で養殖業に代わりましたが、それまでは水産加工業が盛んで、船越湾側にも西之浜側にもイワシを加工する工場がたくさんありました。ですから、毎日、大勢の人が、とれたイワシを担いでこの中道筋を行き来していました。そういう意味でも、この通りは船越の主要で大切な道です。
 西海地域の中では船越に商店や事業所が集中していて、昭和30年(1955年)ころは、中道筋に海岸沿いの道が交差した十字路の辺りを中心に、今よりもたくさんの商店が軒を並べていました(図表1-5-2の㋚参照)。しかも、十字路の海側にある広場を使って盆踊りやお祭りなどの行事が行われたので、買い物客をはじめ大勢の人が十字路を行き交っていました。
 商店としては、『奥田商店』のように文具や食器、日用雑貨などを扱っていた店(図表1-5-2の㋑や、食料品店、鮮魚店、酒店、菓子店、呉服店、履物店、自転車店、写真店など、いろいろな店が揃(そろ)っていました。それから、駐在所や農協、銀行、船問屋、食堂、理容店、美容院、洋服仕立店などもありましたし、大工や船大工、建設業者、電気工事士などもいましたので、ほとんどのことは船越内で済ますことができました。『朝日屋旅館』や『中川旅館』は、地元の人たちの飲食や宴会の場所としてもよく使われていました(図表1-5-2の㋐、㋔参照)。当時はまだ、釣り客はおらず観光客も少なかったので、置き薬などの行商をしている人や卸売業者などが旅館に宿泊していたのだと思います。
 船越で特徴的なのは、狭い地域の割には医者が多かったということです。医院が3軒あり、その上、歯医者も2軒あったので、西海地域内からだけでなく、中浦(なかうら)(旧御荘町)からも病院通いをしている人がいました。多いときには、船越の医院や歯医者に1日で 100人以上が来た日もあったそうです。急患のときなどは往診もしていて、昭和30年ころにはまだ、『車屋(くるまや)』と呼ばれた人力車業もあったのですが、主には医者が往診の際に利用していました。
 船越の医者は、地元出身の人が多かったと聞きます。中でも、今から20年くらい前まで開業していた『吉田医院』の先生は、元軍医だそうで、戦地で兵隊の怪我(けが)や痔(じ)の手術をかなり手掛けたらしく、処置が可能な怪我の場合は傷口を縫うこともされていました(図表1-5-2の㋘参照)。
 私(Bさん)のうちのタクシー会社は、昭和28年(1953年)に営業を始めました(図表1-5-2の㋞参照)。最初は車1台でしたが、当時はまだ、船越で自家用車を持っているのはうちぐらいだったので珍しがられました。そのころのタクシーは、予約を受けて車を走らせていました。ただ、予約はそれほど多くはなくて、日に1、2回くらいで、お客として多かったのはやはりお医者さんです。それ以外は、『網出しさん(網元)』などがたまに乗るくらいでした。」

(2)海辺の劇場と遊技場

 ア 青年会館と潮劇場

 「青年会館(旧西海町全体の公民館で、昭和25年〔1950年〕に発足し、昭和30年〔1955年〕の台風で壊れ、翌年に新築されてからは公民館と呼ばれた。)は、青年団の会合などをする場所でしたが、時には、芝居の舞台として使われたり、映画が上映されたりもしました(図表1-5-2の㋜参照)。
 旅回りの一座が船越に回って来ると、十字路の海側の広場に囲いを作り、青年会館の、広場に面した扉を全部外して引幕を垂らし、会館の中の座敷を舞台として使い広場を客席とする、即席の芝居小屋を作っていました。私(Cさん)も子どものころに、家から持ってきたござを広場に敷いて座り、家族と一緒に見たことがあります。母親から聞いたことですが、この芝居小屋に俳優の加東大介や沢村貞子も来たそうです。青年会館が、旅芝居でそのように使われたのは、私(Aさん)よりも少し前の世代まで、地元青年団の若者たちが演じる地狂言(じきょうげん)と呼んでいた芝居が、お祭りの時を含めて年に2回、青年会館で行われていて、そのときの知識や経験があったからだと思います。
 青年会館で映画も上映されていましたが、台風で壊れた後は、役場の北側の空き地に、道路側に戸板を立てて外からは見えないようにした野外映画館のようなものが作られ、そこで木戸賃(入場料)を払って映画を見ました。その後昭和32年(1957年)ころに『潮(うしお)劇場』ができたように思います(図表1-5-2の㋝参照)。
 潮劇場は常設の映画館で、毎日、映画が上映されていました。館内は板の間で、詰めて座れば結構な人数が入れました。仕事が終わる夕方ころから始まるので、座布団などを持って見に行きました。今でいえば夕方に自分の家でテレビを見るような感じで、気軽に出かけていました。邦画や洋画などいろいろな映画が掛(か)かって(上映されて)いましたが、毎日違うものだったと記憶するほどに、短い期間で映画が入れ替わっていました。普段から、町中(まちなか)に立てられていた宣伝用ポスターを見て、今晩は何々の映画が掛かる、と確認していました。
 船越には印刷所がなかったので、ポスターは地元で作られたものではなくて、おそらく、印刷済みのポスターの下側の空白部分に映画館の名前や上映時間を書き込む形式のものだったと思います。私(Cさん)は映画が好きでしたので、父親がよく連れて行ってくれました。当時は、それが唯一の楽しみでした。」

 イ ダンスホールとパチンコ店

 「昭和30年ころは社交ダンスがブームで、船越にもダンスホールがありました(図表1-5-2の㋛参照)。青年団の若者たちがよく通っていて、ダンス音楽のレコードをかけながら、それに合わせて踊っていました。ダンスホールを開いていた家の奥さんが、戦時中に外地(がいち)(国外の地)で社交ダンスを習われたらしく、その方がダンスを教えてくれていました。ダンスホールに通っていた人たちの中には、そこで知り合ったことが縁で結婚したカップルも何組かありました。
 私(Dさん)が若いころ、昭和40年代の後半には、その次の社交ダンスブームが起きていて、平城(ひらじょう)(旧御荘町)にあった『サンレモ』という、ダンスもできる大衆喫茶にいつも通っていました。
 船越には、小さな店構えではありましたが、パチンコ店が8軒もありました(図表1-5-2参照)。ただし、船越の人が全ての店を経営していたわけではなくて、他所(よそ)の地域の人が建てた店もありました。御荘でパチンコ店を経営していた人が、昭和29年(1954年)に私(Bさん)の家の斜め前の土地を借りてパチンコ店を開きましたが、ちょうどそのころから、パチンコ店が次々とできていきました。それだけ、客も多かったということです。イワシ網が盛んだったころは、イワシの網船が船越湾内だけでも四つあり、その上に日振島(ひぶりじま)(宇和島市)からも三つほどの網船が船越港に水揚げをしていましたので、大勢の漁師が息抜きにパチンコ店で遊んでいたのだと思います。」

(3)子どもたちの学び舎

 「船越小学校の児童数は、現在27人ですが、多い時には、500人から600人くらいいて、全校集会のときなどは、運動場が子どもたちで一杯になっていました(図表1-5-2の㋒参照)。私(Bさん)が小学生のころには、子どもが多すぎて教室に入りきらないので、お宮(若宮(わかみや)神社)の境内や消防詰所を教室代わりに使ったこともありました。
 私(Dさん)の学年は2学級でしたが、一つ下の学年は3学級ありました。その上、小学校に入学前の妹や弟を学校に連れて来て子守りをしていた者もいたので、学校内は子どもだらけでした。しかも、小学校と中学校が同じ敷地内にあって、運動会などは合同でしていましたので、相当に活気がありました。特に、船越を、宮下(みやした)、中、西、東の四つの地区に分け、それに久家(ひさげ)と下久家(しもひさげ)、そして越田(こしだ)までの地域を指す灘(なだ)を含めて、七つの地区の児童生徒が競走する分団リレーは盛り上がりました。運動会のプログラムで今でも憶(おぼ)えているのは、昭和30年(1955年)よりも後のことですが、当時の中学生たちがしていたタンブリング(組立て体操)です。中でも、両手両膝をついた状態の人の上に同じ姿で人が重なる『ピラミッド』は8段くらいの大きさのものをしていて、『すごいなあ。』と思いました。それから、何人かが立った状態で体を寄せ合って頭を下げながら円陣を組み、その人たちの肩の上に何人かが乗って同じような姿勢で立つ、を繰り返す『タワー』が4段ぐらいの高さだったのにも驚きました。小・中学校の運動会ではありましたが、住民総出の大運動会でした。」

(4)海に面した町

 ア 護岸の石組み

 「船越では、南の方から吹く強い風を『マイカゼ』といいます。漁師たちは南風のことを『マジ』とも呼んでいましたが、普段は、『今日はマイカゼやけん。』などと、マイカゼの方をよく使っています。南の方からの風は、船越の町の前側(船越湾側)から吹いてくることになるので、マエ(前)カゼがマイカゼという言い方に変わったのかもしれません。ですから、マイカゼというのは、船越地区だけに通用する言い方だと思います。船越地区は船越湾に面する人家の密集した地域が主体で、砂浜になっていた西之浜側には数軒の家が建っているくらいでした。西之浜側は、冬になると季節風の影響で『ニシカゼ』と呼ぶ強い風が毎日のように吹きます。
 その強い風波(ふうは)から町の家々を守る護岸は、元々は石組みでした。現在は、コンクリートで海岸が固められていて石組みを見ることはできませんが、古いころに組まれた下の方の石には、少し丸みを帯びた大きな海石(うみいし)が使われていたように思います。それから、広場近くの海端には、陸(おか)側と海側に二重の石組みが造られている所があって、陸側の古い方は地元の人が組んだのだと思います。私(Cさん)の妻は下久家の出身ですが、妻の祖父は石組みの職人で、普通の石を使って上手に組んでいたらしく、祖父の造った石組みは今でも手を入れる(補修する)必要がないほどしっかりとしているそうです。そのような人が船越にも何人かいたのだろうと思います。ただし、この辺りはよく台風の通り道になるので、台風の風波で護岸の石組みが壊されることもありました。現在の西海庁舎(旧町役場)を建て替える年(平成3年〔1991 年〕)に襲ってきた台風の時は、直径3mはあるような大きな石が抜けてしまい、その影響で庁舎の基礎工事部分がえぐられるほどの被害を受けました。」

 イ 定期船の寄港地

 「昭和30年(1955年)ころの船越では、自家用車を持っている家はほとんどなく、陸路(陸上の交通路)も発達していなかったので、船がよく利用されていました。船越港には浮桟橋(うきさんばし)がなく、広場近くの岸壁に横付けする形で漁船や貨客船が頻繁(ひんぱん)に着いていました(図表1-5-2の㋖参照)。当時、船越に寄港していた定期船は三つあり(天長丸〔宇和島-小筑紫(こづくし)〈高知県〉間〕、福昌丸〔福浦-深浦(ふかうら)間〕、寿久茂丸〔宿毛(すくも)-別府(べっぷ)〈大分県〉間〕)、その中でも天長丸がよく利用されていました。
 宇和島へは天長丸に乗って行きました。私(Bさん)は、昭和29年(1954年)に、親戚の勧めもあって神奈川県の高校へ進学したのですが、その時も、天長丸で夜10時ころに船越を出て朝4時ころに宇和島に着き、港から駅(国鉄宇和島駅)まで歩いて、そこから列車に乗って行きました。
 昭和20年代から30年ころ、船越から宇和島までバスで行くのは1日がかりでした。道路事情が悪かったことに加えて、バスが木炭車だったときは馬力が弱く、途中で止まってしまうこともよくあったからです。それに比べて、定期船で宇和島へ行けば、夜に乗船して、そのまま一晩寝ると、朝には宇和島に着いているわけですから、ほとんどの人が船を利用していました。」

 ウ 船舶職員養成講習所

 西外海村(昭和27年〔1952年〕に町制施行で西海町となる。)の船舶職員養成事業(昭和26年〔1951年〕開始)は、昭和45年(1970年)に宇和島地区船舶職員養成組合へ引き継がれ、翌昭和46年に、それまで講習が行われていた船越に、宇和島地区船舶職員養成講習所が新築落成した。その後、平成21年(2009年)に講習所の建物はなくなったが、新たな事業主体である愛南町によって、現在も船舶職員養成事業は続けられ、船越にある西海公民館を会場として講習が行われている。
 「船舶職員の資格試験が南宇和高校などを会場として行われていて、昭和26年に西海船舶職員養成講習所が船越にできてからは、その試験を受ける人が増えました。ただ、講習所といっても、昭和30年ころは、専用の建物はなくて、旧西海町役場の更に前の役場の2階に特別教室が作られて、そこで講習をしていたそうです(図表1-5-2の㋗参照)。
 船舶職員を養成する専門的な学校を除いて、臨時で設けられた講習所の中では、船越の講習所の受講生は試験の合格率が相当に高かったそうです。船越の講習所では、昔の船舶免許(昭和26年に改正された船舶職員法では、甲種・乙種・丙種の免状があった。)でいえば乙種まで取れたらしく、船越でも免許を取る人が結構いました。昭和31年(1956年)にイワシ(マイワシ)のまき網漁が不漁になってからは、漁業や水産業に携わっていた人たちが相当に困ったので、船舶免許を持っていれば高給取(こうきゅうとり)(高い給料をもらう人)にもなれるということで、役場の担当者も講習所の活動に力を入れたのだと思います。
 受講者の中には他所(よそ)から来ていた人も結構いて、船越の知り合いの家や朝日屋旅館などに泊まっていました。中には宿泊所が見つからない人もいて、私(Bさん)のうちも、そういう人を泊めたことがあります。役場の人から頼まれて1年間ほどしてみましたが、朝昼晩の食事の準備などで寝る間もないくらい忙しい上に、勉強の邪魔にならないように気を遣うことも多くて大変でした。」

図表1-5-2 昭和30年ころの船越の町並み1

図表1-5-2 昭和30年ころの船越の町並み1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-5-2 昭和30年ころの船越の町並み2

図表1-5-2 昭和30年ころの船越の町並み2

調査協力者からの聞き取りにより作成。