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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 販売促進のために

(1)地元での甘夏柑作り

 ア 農作業

 AさんやBさんは、柑橘栽培について次のように話す。
 「甘夏柑作りの始まりは3月で、木の形を整えるための剪定(せんてい)作業を行います。甘夏柑栽培は1軒の家で1.5haぐらいあり、耕地が広いので作業に時間がかかります。
 5月から7月には病気対策で殺菌剤等を散布します。7月は摘果(てっか)作業も行います。夏には、防風林の枝を切ったり、防除(消毒)の作業を行ったりします。暖かい地帯なので昔はダニの被害が多くありました。ダニがつくと、ミカンの栄養が抜かれ、葉もミカンも白くなるので、防除を丁寧に行う必要がありました。また、潰瘍(かいよう)病になると、灸(やいと)の跡のように茶色くなり、外観が悪くなって、価格が落ちてしまいます。
 除草は、昭和40年代の初めころは鎌で草を刈っていました。草刈り機が導入されたのは昭和45年(1970年)ころで、除草剤を使う人もいました。
 摘果は、枝に実が付き過ぎないようにするための作業で、葉50、60枚に実が1個できるぐらいになるように小さな実を摘み取ります。摘果や剪定の講習は組合員を集めて見本園で行っていました。
 10、11月は、シーズンオフです。果樹園の管理ができていれば甘夏柑だけなので問題はありませんでした。私(Bさん)は3年間、この時期に神戸(兵庫県)へ出稼ぎに行っていました。
 冬は収穫と出荷の時期になります。12月から収穫が始まりますが、大抵の人は、1月10日から2月一杯は甘夏柑採りでした。朝7時ごろから夕方5時まで収穫作業をしていました。当時は、人を雇って収穫作業をしていました。大体、一人が甘夏柑20kgが入る箱で50箱ほど採っていました。当時は10時、3時の休憩はなかったです。
 柑橘を栽培している山にモノレールがなかったころは、藁(わら)で編んだホゴに甘夏柑を入れて、天秤棒(てんびんぼう)で担(かつ)いで山から下ろし、それを大八車(だいはちぐるま)に積んで家まで運んでいました。収穫後の甘夏柑は、庭に山積みにして置いたり、家の中で寝る場所だけ確保し、座敷の畳(たたみ)を除(の)けて板間にして、山積みにしたりしていました。今は行いませんが、夜と雨の日は、1個1個の房(ふさ)(へたの切り口)に薬品を筆で塗っていくという、とても大変な作業をしていました。キャリー(保管用コンテナ)がまだない時には、リンゴ箱やトロ箱(魚を入れる箱)などを利用して、房の処理が終わった甘夏柑を入れ、納屋に積んでいました。また、2月には、新しい根を出すための根切り(木の周りの1方向のみ作業をし、4年で一周りする。)を行います。暖かくなる前に作業を終わらせます。よい管理機(溝を掘ったりする作業に使用する農機具)がないのでスコップで根切りを行っていました。天地返(てんちがえ)し(表面の土と地中の土を入れ替える作業)をしっかりとしていた木は現在も残っています。
 3月には本格的に出荷が始まります。また、3月からは剪定も同時に始まり、猫の手も借りたいほど忙しかったです。一つの倉庫に200t収納できる低温貯蔵庫に商品を入れていれば、何か月も持ちます。6月には、雨が降ると、東京をはじめ東北や北海道から注文が入り、6月20日ぐらいまで出荷をしていました。
 昭和43年(1968年)から出荷が始まり、甘夏柑だけで生活できるようになったのは、昭和40年代後半に入ってからでした。
 昭和40年代初めの大旱魃(かんばつ)のときは、ドラム缶に灌水(かんすい)用の水を汲(く)んで、動噴(どうふん)(動力噴霧器)でかけたり柄杓(ひしゃく)を使ってかけたりしていました。また、11月、12月に季節風が1回吹くと、風を受けた側の甘夏柑は寒さのために花はついても実がならなくなり、収穫の見込みがなくなります。昭和55年(1980年)の極東(きょくとう)寒波の時が大変でした。製材所で廃材を買って、夜中の0時に起きて朝の4時ごろまで火を焚(た)いて煙を出し、柑橘(かんきつ)に霜(しも)が降りないようにしました。」

 イ 肥料

 販売戦略と生産、技術革新に力を注いだAさんは、肥料作りにも力を入れた。肥料作りについて話を聞いた。
 「肥料がよければ、製品の味は一定になるので、いろいろな人の話を聞いて配合し、材料も試しました。化学肥料だけを用いると土地が弱るので、有機肥料に牛骨を使用しようと業者に相談したところ、『骨からエキスを抜いており、使い物にならない。』と教えられました。そこでマツバガニの蟹殻(かにから)を配合した肥料で試験栽培をしたところ、おいしい甘夏柑ができたので、『これだ。』と思い、早速、マツバガニの甲羅(こうら)を買い付け、併せて深浦(ふかうら)から、カツオの身を取った後の骨を砕いたものを仕入れ、それらを粉砕して、肥料に混ぜ込みました。また、リン酸、窒素(ちっそ)、硫安(りゅうあん)などは独自に配合しました。配合の割合は、有機肥料では蟹殻を、化学肥料ではリン酸を一番高くしています。本来、肥料を撒(ま)く時期に合わせて肥料の配合割合を変えるのですが、マルエム青果では一種類のみにしました。最初はスコップを使用して材料を混ぜ合わせていましたが、次にドラム(セメントミキサー)を利用して機械による肥料作りを始め、昭和44年(1969年)には肥料配合施設が設置されました。春から冬にかけて、地中の温度が25℃ぐらいになると、根がどんどんと伸びてくるので、肥料を撒(ま)きます。12月は、越冬させるための最後の肥料をやっていました。」

(2)輸送方法

 ア 輸送

 「昭和40年代、平山から2時間から3時間ぐらいかかる宇和島駅まで、運送業者のトラックで運び出し、宇和島駅から汐留(しおどめ)駅(東京都)まで貨物列車で運んでいました。その後、平山から東京青果まで、別の運送会社によるトラック輸送に変えました。最初は1箱15kgか20kgのダンボール箱で出荷していましたが、市場と話し合い、平成4、5年ころから10kgの箱で出荷するようになりました。この10kgの箱で最初に出荷したのはマルエム青果です。10kgの箱なら1,000箱、15kgの箱で700箱ほどを、10tトラック1台で運びます。」

 イ 低温輸送と低温貯蔵庫

 「昭和44年(1969年)ころ、農林省と科学技術庁から愛媛県を経由して、輸送実験の依頼がありました。組み立て式の家のような、低温で貯蔵できる倉庫が東京から平山へ運び込まれ、倉庫に甘夏柑20tを入れ、そのうち8tをトラックで東京まで運びました。トラックの荷台は幌(ほろ)と箱(金属製)の2種類あり、金属製の方の荷台には機械が入っていて、内部の温度が7度か8度くらいに保たれ、冷蔵庫みたいになっていました。当時は、まだ道も整備されておらず、東京まで24時間ぐらいかかる時代でした。
 昭和40年代の後半から50年代に入ったころには、名古屋の運送会社の低温倉庫を借りていました。そこはガスで室温の調整をしていました。名古屋へ行ったときに、低温貯蔵されたミカンを食べると、『こんなにミカンがおいしいのか。』と思うほどでした。組合長(Aさん)が、『これからは低温倉庫の時代だ。』と言われ、平山でも設置に向けて動き出しました。」
 昭和48年(1973年)、晩かん類品質維持貯蔵庫設置事業の指定を受け、低温貯蔵庫がマルエム青果に設置された。

(3)営業活動

 マルエム青果の営業活動について、営業を一任されていた組合長のAさんは次のように話す。
 「柑橘類に関する情報や販売の状況を知るために、月に1度は東京へ行きました。また販路拡大のため販売店も回りました。ある百貨店へ行ったときには、熊本県の田浦農協が商品を卸していたので、取引できなかった、ということもありました。東京だけではなく、北海道、秋田県、岩手県、福島県などにも回りました。地道に営業活動をしていると助けてくれる人もいて、個人で10店舗から50店舗ほどを持っている小売店の店主が集まる青果組合からの助けもあり、順調に販売店舗数が伸びました。
 500tぐらいの収穫があった年の次の年は、800tぐらいに生産が増えます。販売店舗を増やさないと生産量に追い付きません。商品が売れ残ったら販売価格が下がります。そうなると、いい生産地であっても東京の市場に踏みとどまれないのです。東京の市場で売れなくなったら、生産地自らが売らなければならなくなります。販売店を増やすことは簡単なものではありません。販売店を増やすためには、『靴を減らせ。』です。販売店を歩いて回って、靴のかかとをすり減らして、1店舗でも多く販売してくれる店を取らないとだめなのです。他の生産地と販売店の取り合いです。私は、『販売一点集中主義』で、ほとんど東京の市場にのみ出荷していました。」
 Aさんの東京行きに同行したことのあるBさんも、次のように話す。
 「私が果樹園で仕事をしていると、Aさんが午後3時ぐらいにやって来て、『明日は東京に行くぞ。』と言われました。店頭宣伝販売のときには4、5日ほど東京へ行っていました。昼から午後3時までは都内の小売店を回り、新規に購入してくれる店舗を探します。組合長自らが、いろいろな量販店の人と会って、トップセールスをしていました。」
 平山柑きつ組合は、昭和35年(1960年)に19名の組合員から始まり、翌36年には55名に増えた。市場で信用を得るために昭和42年(1967年)、専門農協である南宇和園芸農協として県に設立認可を申請し、翌年、マルエム青果農業協同組合(組合員数120名)として認可された。マルエム(Ⓜ)は、南宇和郡の頭文字「M」から取られている。平成25年(2013年)の「マルエム産地の概要」には、「愛南町(旧御荘町)平山地区を中心に世帯数37戸、農業従事者110名で柑橘生産に取り組んでいます。各層にバランスのとれた農業従事者がおり、組合員世帯のほとんどで担い手が確保されているため、未来に向かって活力ある産地形成を図っています。」と記されている。


<参考引用文献>
①愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』 1985