データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 地域を支える国道56号

 江戸時代、南予(なんよ)地方と松山(まつやま)を結ぶ陸路の中心は宇和島街道(宇和島城下と大洲(おおず)城下とを結ぶ道)と大洲街道(大洲城下と松山城下とを結ぶ道)であった。そして、宇和島以南には宇和島城下から県境の松尾(まつお)峠を越えて宿毛(土佐(とさ)〔高知県〕)へ至る宿毛街道があった。ただし、江戸時代の道路は、幕府の政策により改修や拡張の制限・禁止などがあり、幹線道路でもせいぜい馬道(うまみち)(馬の荷駄(にだ)の幅ほどを幅員とする道)程度であった。しかも、南予地方の集落の多くが山間の盆地やリアス海岸の湾沿いにあるため、集落を結ぶ道路の大半は山越えの小道であった(①)。
 そのため、明治時代にそれらの道路の改良や改修が始められたが、南宇和郡内の旧宿毛街道は他の幹線道路に比べて着手が遅れ、明治30年代初めに県道宇和島-宿毛線となって明治末から大正・昭和初期にかけてようやく整備が進んだ。その後、この県道宇和島-宿毛線と、大洲街道と宇和島街道の後身である県道松山-宇和島線が基本路線となって、昭和28年(1953年)に二級国道松山-高知線となり、次いで同37年(1962年)に一級国道56号へ昇格し、同40年(1965年)に一般国道56号となった。国道に昇格してからは、道路の拡幅やアスファルト舗装などの改良事業のほかに、トンネル工事やバイパス(混雑する市街地などを避けてやや迂回して造る道路)建設などの大規模な改修事業も多く行われるようになり、道路整備が大幅に進んだ(図表3-1-1参照)。これによって、それまでは通行可能な自動車が8tトラックまでであったものが、さらに大型のトラックも通行できるようになったことから、物資の輸送が飛躍的に改善された(②)。また、昭和36年(1961年)にはバスで3時間半近くかかっていた宇和島-宿毛間が、昭和51年(1976年)には1時間半少々で結ばれるようになるなど、時間距離(地点間の移動に要する時間を距離に見立てたもの)が短縮され、それに伴うように自動車の交通量も増加した。
 現在、高知市を起点として愛媛県内の南予地方の数多くの市町を結びながら松山市に至る国道56号は、鉄道が敷設されていない南宇和郡において、人々の生活や文化、産業を支える「大動脈」としての役割を果たし続けている。本節では、郡内の、県境から一本松(いっぽんまつ)地区にかけて、深浦(ふかうら)地区から城辺(じょうへん)地区にかけて、柏(かしわ)地区から宇和島市津島(つしま)町との市郡境にかけて、の三つの地域を取り上げ、それぞれの地域の国道56号の変遷に伴う人々のくらしの移り変わりを、聞き取り調査によって探った。


図表3-1-1 国道56号(南宇和郡内)関係年表

図表3-1-1 国道56号(南宇和郡内)関係年表

『愛媛県史』及び関係町村誌(史)などをもとに作成。