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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 人々の力でつなげた道路

(1)家平トンネル

 ア トンネル開通前

 由良半島の基部にある家串と平碆との間は、標高70mから90mの急峻(きゅうしゅん)な地形で隔てられ、トンネルがないころは、家串から平碆を通って国道56号の鳥越(とりごえ)トンネルへ向かうには、「ウネの松」と呼ばれる急坂を越える必要があった。
 「戦時中、出征する兵隊さんを見送りに鳥越トンネルまで行っていました。また、宮様(皇族)がおいでになったのをお迎えした時も、全てトンネルまで行きました。せっかくお迎えをしたのに、宮様が通られた時、私(Aさん)たちは頭を下げていたので、お召(め)しの自動車を見ることができず、とても残念でした。家平トンネルがまだない時には、帰り道の途中で、『早く向こうまで行けたらいいのに。トンネルは掘れないのだろうか。』と思っていました。ウネの松を通らないといけないので、それが辛(つら)くて辛くて、特に帰り道は本当に辛かったのを憶(おぼ)えています。」
 また、由良半島の住民たちが楽しみにしていた、須ノ川(すのかわ)のお観音様(旧暦の1月18日に行われる縁日)や、御荘(みしょう)のお大師さん(御荘平城の観自在寺〔四国八十八か所40番札所〕の縁日)へのお参りも徒歩や船によるものであった。
 「子どものころ、須ノ川のお観音様に行くのが楽しみでした。小学校(旧内海(うちうみ)村立須ノ川小学校)の周辺に、出店が30軒くらいは来ていました。私(Cさん)が小学生の時、お小遣いとして20円か30円をもらっていましたが、学校の先生からも『スリに盗られないように。』と注意されるくらい、境内(けいだい)は人であふれていました。家串から須ノ川までは、みんな歩いて行っていました。
 御荘のお大師さんには船で行っていました。長崎(ながさき)(愛南町御荘平城)まで船で行くのですが、御荘に長崎という地名があることを知らなかったので、子どものころには九州の長崎のことと勘違いして、最初は理解できませんでした。」

 イ トンネル工事

 家串と平碆の両地区の住民の強い要望により、昭和27年(1952年)の第一期工事を皮切りに、地元住民によるトンネル開削工事が開始された。工事の様子について、Aさん、Cさん、Bさんから話を聞いた。
 「私(Aさん)の家は、工事現場のすぐ下にありましたので、家平トンネルを抜く工事の影響で、瓦が50枚くらい割れたのを憶えています。発破(はっぱ)(爆薬を仕掛けて岩石などを破砕すること)をかける前には何らかの形で知らせがあったのだろうと思いますが、夜、それに気付かずに寝ていたら、突然ドーンという、下から突き上げるような振動がしてびっくりしました。昼間に発破をかけるという知らせがあった場合は、外に出ていたでしょうが、夜の発破には本当に驚かされました。発破で石が井戸端まで飛んで来たこともありました。私の家では、軒先の外びら(外側)に物干棚があったので、そこに洗濯物を干していたのですが、ある時、前日から干していた、母の絣(かすり)の着物を取り込む時に着物を見ると、なぜか土がたくさん付いていました。『何でやろう、洗濯したのに土が付いて。』と思った私が着物を広げると、石が抜けたような穴が開いていました。とっさに『トンネルの石が来たんや。』と思い、下(隣)の家の庭を見てみると、大きな石が落ちていました。改めて、発破のときには逃げないといけないと思いました。
 トンネル工事が行われていた時、作業をしている人に、『これ、どがいして(どうやって)掘るの。』と聞くと、『古い畳などを、発破をする所に被(かぶ)せてやっている。』と言っていましたが、結局、それらは発破の時に全部飛び上がって、あまり効果はなかったようです。私の家の瓦は発破の影響でたくさん割れてしまって、梅雨の時期になると、家の中の多くの場所で雨漏(あまも)りがしていました。炊事場には天窓がありましたが、天窓のガラスも割れてしまいました。そのときは、分厚いガラスをもらって、左官さんに取り付けてもらいましたが、結局は、家をさばく(解体する)まで雨漏りがなくなることはありませんでした。」

 ウ トンネル開通後

 「昭和31年(1956年)に、家串と平碆を結ぶ家平トンネルが抜けました。ウネの松を越えて、平碆まで出なければならない家串側の私(Bさん)たちにとってはありがたいトンネルです。トンネルが抜けたころは、電灯がついていなかったので、見えるのは出口から見える小さな外の明かりだけでした。中は何も見えないので、トンネルの幅の長さくらいの竹の棒を持って、横の壁にぶつからないように歩いていました。
 私(Cさん)が中学生のころになると、トンネルの天井の部分だけ改修が終わっていました。学校の体育館が使えないときは、そこでバレーボールの練習をしていたのを憶えています。」

(2)由良半島道路

 ア 道路整備前の交通事情

 「油袋は道路が完備されておらず、交通の便が悪かったので、移動手段としては船が用いられていました。最初の巡航船(御荘湾や内海の航路を回る船)は、御荘に通う市杵島(いちきしま)丸という小さな船でした。船が小さかったので、油袋の浜で乗り降りするときに危なくないように、木造の桟橋(さんばし)が設置され、そこに着いていました。設置場所は凪(なぎ)(風がやんで波が穏やかな状態)のことが多い場所で、船が着くのに適していました。
 私(Dさん)は、この巡航船で家串の小学校や中学校に通いました。油袋地区が油(あぶら)(燃料)代を出していたのでしょうか、無料で乗っていたと思います。この巡航船が運航していたころ、半島(由良半島)の北側にある下灘(しもなだ)の平井(ひらい)の人が、年に4回開催される御荘(みしょう)のお大師様に行くときは、山うね越し(山が小高く連なったところを越え)してわんさと(大勢の人が大挙して)油袋に下りて来ていました(図表3-3-2参照)。油袋を朝出航する便に乗って行き、晩に帰って来るのです。」

 イ 医療への影響

 「油袋では、子どもが急な病気になったときは、個人が所有している船を借りて元越(もとのこ)まで行ってもらっていました(図表3-3-2参照)。元越から旧鳥越坂(とりごえざか)(国道56号の鳥越トンネルの上にある旧鳥越トンネルへの道)まで上がって、そこからバスに乗って岩松(いわまつ)(宇和島市津島町)や御荘(愛南町)の病院へ行っていました。かなり古い話になりますが、油袋の西の大油袋(おおゆたい)(明治時代末までは人家があった)は、湾も桟橋もなくて船が停泊できないので、病人が出たときには山の峠まで登り、上から大声で油袋の人に声をかけて、船を用意してもらってから油袋へ下りて、家串の医者まで連れて行ってもらっていた時期もあったそうです(図表3-3-2参照)。」
 「魚神山では、お宮の下に桟橋が造られて、そこに巡航船が停泊していました。診療船(村所有の『診療船』と呼ばれた船)の運航もあり、初代の船が昭和30年代に、2代目の船(あけぼの丸)が40年代に使われました。初代の船は昭和34年(1959年)に新造された船で、その船が失業対策事業の関係者を工事の現場まで運んでいました。また、柏(かしわ)まで病人を運ぶ仕事もしていました。診療船が運航されるまでは、急病人が出たら、今の船外機付きモーターボートよりも小さな船で、3人から4人が交替で艪(ろ)を漕いで家串の診療所まで運んでいました。役場への死亡届の提出なども組別の役で割り振られていて、柏まで艪を押して(漕いで)行っていました。
 子どもが病気になった時には、本当に苦労しました。子育てをしている時には麻疹(はしか)に悩まされ、夜、子どもが高熱を出して容態がよくない時は、地元の漁船を雇って家串まで医者を呼びに行ってもらい、魚神山まで往診に来てもらったことがありました。また、真夜中の1時ごろに須下(すげ)の薬局まで歩いて行って、ペニシリンかマイシン(ともに薬、抗生(こうせい)物質)をもらって帰ったこともあります。須下へ行く道は本当に細くて暗い道でした。寂しい道で、普通の感覚でしたら『嫌やなあ。』という気が起こりますが、その時は、子どものために、という気持ちが強かったと思います。このような状態だったので、道路が整備されるまで、親としての一番の心配事は、子どもの医療でした。」

 ウ 道路整備事業

 「昭和32年(1957年)からの失業対策事業による道路建設では、地元の失業者を作業員として雇い入れ、賃金が支払われていました。事業が継続する中で、賃金が上昇していったので、金額は時期によって違いますが、最初は1日当たり男性が250円、女性が180円程度でした。失業対策事業による道路建設は、魚神山郵便局の少し東側、現在の降り口(走下(はしりおり))辺りから船越(ふなこし)(現在の船越運河付近)まで行われました。工事では、ブルドーザーなどの重機は使われず、手掘りで作業が行われていました。当時は漁業の不振が続き、失対(しったい)(失業対策)事業がなければ現金収入がない状態だったので、魚神山では100軒ほどの家の人が働き手となっていました。そして、道路を造ることと現金収入を得ること、という二つの目的を達成させるために、一生懸命に協力しました。工事期間中は、100軒ほどが何組かに分けられて、今日はどこそこ、というように、働きに出る日を割り振られ、各自が弁当を持って仕事に行っていました。」

 エ 道路の開通

 「私(Iさん)は、昭和41年(1966年)に普通自動車の運転免許を取得しました。柏で運転を習い、免許をもらいに宇和島へ行きました。しかし、車を購入して、柏から魚神山まで車で帰ろうと思っても、車が通ることのできる道がまだありませんでした。当時の道路は、リヤカーがやっと通れるくらいの細い道で、路面もガタガタでした。『どうやって魚神山まで帰ろうか。』と考えましたが、結局、車は柏に置いて帰りました。この道を初めて車が通った時は、地元の人がツルハシを持って行って、道幅のないところは道路の脇の山肌を削って広げ、その場所が崩れないように石積みをして通らせていました。
 その後の道路整備で、道の状態は徐々によくなりましたが、舗装されていなかったため、道は草がいっぱい生えて、ゴシャゴシャ(車が草道を通行するときの音を表す)していました。私が車で魚神山まで戻るときには、途中で何度も車を降り、道路の端っこの草花に覆われて道が見えなくなった所を足で踏んでみて、『大丈夫、大丈夫。』と路肩が崩れないかどうかを確認しながら慎重に運転をしました。
 魚神山まで路線バスが通るようになった昭和49年(1974年)までには、車が通りにくい所が、ブルドーザーなどの機械を使って改修されていたので、道路の状態はかなりよくなっていました。地元の人々の念願だった路線バスの開通式が盛大に行われ、みんなが喜ぶ姿を見て、とてもうれしかったのを憶えています。」

図表3-3-2 由良半島東部

図表3-3-2 由良半島東部

地区名を◎で、小字名を●で示す。