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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅴ -愛南町-(平成25年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 くらしを支えた海と陸

(1)海の幸を求めて

 ア 不漁への対応

 「私(Dさん)が中学校を卒業したころ、本家(ほんけ)(一族の中心になる家筋)はまき網漁をしていました。ところが全体的に漁(りょう)(漁獲)が少なくなり、生活が苦しくなってきていたので、若い人たちが都会へ仕事を求めて出て行き始めました。そうすると、漁(漁獲)がよくなったとしても、網(網漁)をするには40人程度の漁師が必要だったので、漁師が足りず、漁(水産物をとること)ができませんでした。
 由良半島の各地区で、人手不足と漁(漁獲)の減少が問題になっている時に、京都の漁師から、日本海での漁にまき網が欲しいという依頼が来たのです。この依頼に応じて、最初に網代の人が京都府の伊根(いね)町(現京都府与謝郡伊根町)へ行ったのですが、これが成功したのです。
 一つの網漁を行うグループには、乗組員が30人から40人は必要ですが、こちらからは、主だった役割を帯びた10人が行けばよいのです。その10人で、依頼してきた漁協の人たちを相手に、網漁を教えました。由良半島の主だった網元はほとんど日本海の方へ行ったと思います。
 最終的には、そこでの漁もうまくいかず、こちらに帰って来ることになりましたが、こちらでの生活を何とかするために、いろいろと試行錯誤をしました。その代表的なものが、パッションフルーツ(トケイソウ科の果物)やゼラニウムの栽培でした。油袋の結出(ゆいで)網(網の名称)や家串の新出来(しんでき)網(網の名称)は、そのまま網ごと引き揚げて戻って来ましたが、本家は網を全て向こうで売却して戻って来ました。戻っても網漁をする漁師が地元にいなかったためです。
 本家は、家に残っていた古網を全部集めて縫い合わせて、小規模な地引き網を行っていましたが、そのうち漁(漁獲)が復帰して、再びまき網を行うことができるようになりました。一方でそのころ、『ハマチの養殖がええ。』ということになって、試験的にハマチの養殖も始めたのです。養殖にはエサが必要ですが、エサとなるイワシは、自分のところのまき網を使ってとることができたので、お金をかけずに済んでいました。」
 「出稼ぎが盛んになってくると、魚神山にはおとこし(男衆)が少なくなってしまい、他所(よそ)に出てない者はいない、というくらいでした。地元の青年団では、メンバーが幹部の5、6人だけになったこともありました。男性の働き手が不足し、漁をするにも、おなごし(女子(おなご)衆)の力が必要になってきましたので、両手回(りょうてまわ)し(網漁)をするときには、おなごしを船に乗せて沖に出ていました。漁の仕事の中で、おなごしでも戦力になるのが地引き網でした。私(Hさん)が 17歳で結婚した当時、地元のおなごしは夜中に起きて、浜に出て、おとこしと一緒になって陸(おか)から網を引いていました。」
 「子どものころ、ハマチの群れがこの近くまで来ていました。私(Cさん)は西の浜(家串地区の西側の浜)での地引き網を3、4回手伝ったことがあります。地引き網は西の浜や小松(こまつ)で行われていました(図表3-3-2参照)。小松での地引き網は、農協の職員も手伝っていました。また、そのころにはボラ網もやっていました。私が小学生のころ、小松崎(こまつざき)にはボラの群れを監視するための小屋がありましたが、今はその跡しか残っていません。網(漁)は豆曽(まめそ)(マメカ曽根)でやっていたのですが、小屋でボラの群れを監視して、群れが磯を伝って油袋の湾に入って来た時には、ザイ(棒に障子紙を付けた、網漁を指揮する道具)を使って集落へ伝えました(図表3-3-2参照)。
 カラスミ(卵)を持ったボラはお腹が赤くなっているので、上から海面を見ると、赤く見えるそうです。その赤く見えるボラの群れが入って来たという連絡を受けてから、漁師たちが艪を押して網を入れていきます。ボラは海面を飛んで網を避(よ)けるので、本網だけでなく、上(うわ)網(天井網)も置かれていました。網を引く時にはオゴシ(網子衆のことでオオゴシとも言い、網元に従属し、その指揮下で漁業に携わる人)も手伝いに行っていました。オゴシでも子どもでも、手伝った人にはとれた魚が分けられていたので、みんなが船で手伝いに行っていました。」

 イ 真珠母貝養殖漁業の展開

 昭和20年代後半のイワシ漁の不漁は、真珠母貝養殖を由良半島の各地区で導入させる契機ともなった。昭和30年代に始められた真珠母貝養殖について、Dさんから話を聞いた。
 「真珠の稚貝を採る作業には、最初はマメギ(ウバメガシ)を海に浸(つ)けてやっていましたが、マメギは葉っぱが海中に落ちるので、杉葉に変わりました。ほとんど費用がかからず、高い利益率が期待できたので、『私らだけでやるわけにはいかんから。』ということで、家串と油袋で組合組織をつくることになり、昭和34年(1959年)に家串油袋真珠生産組合が設立されました。当初、地元の人が、稚貝を採り、それを母貝に育て、珠入れをすることまでしていました。
 真珠価格が低迷した昭和42年(1967年)、油袋地区の人々は、それほど大きなダメージを受けませんでした。その理由は、真珠組合で事業が展開されていたからだと思います。組合員は真珠養殖専業ではなく、網(漁)もやり、釣りをする人もいます。真珠組合で儲けがあれば配当が付きますし、女性は組合で働くので、現金収入がありました。何より、真珠組合は規模が大きいので、販路を維持できたということが大きかったと思います。」

 ウ 水と母貝養殖

 油袋での渇水問題と真珠母貝養殖への影響について、Dさんに話を聞いた。
 「井戸は各家にあったというわけではありませんが、屋敷ごとに水の出るような所は造られていました。しかし、飲み水として使えるような水質ではなく、洗濯や洗い桶(おけ)(食器や野菜などを洗うのに使う桶)ぐらいに使える程度でした。飲み水として使えた井戸は、油袋でも2か所ほどだったと思います(写真3-3-7参照)。この飲み水として使える井戸は、他の井戸とは違って、水の勢いが強いのが特徴で、その上手には水源地が造られていました。大潮(潮の干満の差が最も大きいこと)になると、海辺にある全ての井戸には潮(海水)が入っていましたが、これらの井戸は雨が降ったりして、水の流れ込む勢いが強い間であれば、大潮でも潮が入ることはありませんでした。上から水が流れてくる力の方が、潮が入り込む力よりも強かったということです。本当に油袋では貴重な井戸でした。
 飲み水を確保するために、夜中からその井戸に水を汲(く)みに行っていました。汲みに行くのが遅くなれば釣瓶(つるべ)が返らず(井戸の水が減って、釣瓶が届かず)、水が汲めないということもありましたし、地区のみんなが汲むので枯れることもありました。それくらい水には不自由していました。
 昭和26年(1951年)に内海村で最初の簡易水道が完成しますが、これは地元の人たちの勤労奉仕によってできたものです。設計技師などは村が雇ったのだと思いますが、この工事に携わったのは、ほとんどが地元の人でした。必要な砂やバラス(バラスト〔砂利〕の略)は全て船で積んできて、それを担ぎ上げて運んでいました。私の父親は、本家(〔Dさんの〕一族の中心になる家筋)の網(漁)に行っていて忙しかったので、父親の代わりに私と弟とで工事に協力していました。中学生の労働でしたので、2人で一人前の扱いでした。
 簡易水道が設置されていても、水を真珠母貝の塩水消毒に使うことはできませんでした。塩水消毒用に大量に使っていたら、とても水は足りませんでした。塩水消毒には濃塩水が使われ、その濃塩水で貝の付着物や、中に入っている寄生虫を殺します。寄生虫は貝殻を食い破って中に入っているので、まず貝を真水に浸けて閉じさせる必要があります。真水に貝を入れると、その刺激で口を閉じるのです。そうすると、濃塩水で消毒をしても、貝の中に大量の濃塩水は入らなくなります。貝の中にはゴカイなどが入り込んでいますが、15分くらいそれに浸けると、寄生虫が食い破った穴から濃塩水が浸(し)み込んで、寄生虫はすぐに死にます。とても大切な作業で、今でも年に3回くらいは行っています。
 水を大量に使うようになったのは、山財ダム(宇和島市津島町)からの水が供給されだしてからです。いくら真珠がよいといっても、水がなかったら一番肝心な消毒ができず、真珠養殖事業もできません。昭和56年(1981年)以降、山財ダムから水が供給されたことで、真珠養殖も大々的にやれるし、豊富な水を使うことができる新しい設備も導入できました。水がなければ、どんなに近代的な設備を導入しても事業拡張はできないのです。そういう意味で、山財ダムの完成は、私たちにとって本当にありがたいことでした。」

(2)陸の幸を求めて

 ア 段畑での作物栽培

 「段畑では、イモの収穫の後に麦が作られていました。麦は、秋にイモを掘った後の12月に種を蒔(ま)きます。5月ごろに穂が出るので、それを6月に刈り取り、梅雨に入る前にイモを植えるのです。
 イモがたくさん収穫できたときには、何十俵もの俵に詰められ、それらを全部背中にかるう(背負)て山から下すのは大変でした。道幅が狭く、傾斜もきつかったので、けつまづいたら(つまづいて転んだら)下まで転げ落ちてしまうような畑道を、40kgほどの重さの俵を担(にの)うて下りていたのです。
 イモを700貫(約2,625kg)収穫したときには、イモの切干での収入が7万円程度で、1俵千円くらいの計算になりました。また、毎晩毎晩、沖に行って網(漁)をして、年間で4万円稼ぐことができれば、『よかったねえ。』と言われるくらいでした。ですから、昭和30年前後の時期に、イモの切干と網漁とで、年間に20万円稼ぐということは大変なことでした。それで、ここでは食べていくことができない、ということで、出稼ぎが始まったのです。
 段畑での作物栽培でも水は貴重なものでした。山の上に置かれた壺(つぼ)には、雨水はもちろん、イリコを炊いた(湯がいた)釜汁や風呂の残り湯など、家庭で使った水という水は全て農業用に使えるように溜(た)められていました。当時は空(山の頂上)まで畑がありましたが、水を畑に運び上げるのは男性の仕事でした。」

 イ 子どもも仕事

 「昭和30年代、私(Cさん)が小学生の時には、年2回の農繁期に麦刈りで2日、イモ掘りで3日間ほど学校が休みになっていました。そのときは、段畑で1日中働かなくてはならないので、嫌で嫌でたまりませんでした。農繁期休みの唯一の楽しみは昼食でした。昼食で家まで戻っていると時間がもったいないので、タンダ(田ノ浦(たのうら))の奥のスミトコという所でお昼御飯を食べていました(図表3-3-2参照)。麦刈りのときの弁当に、ほんの少し米を入れてくれるのが楽しみでした。本当に少しの米ですが、それがおいしかったのを今でも憶えています。」

 ウ 麦の収穫

 「農作業は女性も男性も関係なく、家によっては女性がするような、麦を扱(こ)く(刈り取った麦の穂から実をとること)作業を男性がしていました。私(Aさん)の家では、スミトコの畑に刈ったまま残していた麦を、男性も女性も親類連中が総出で下して、麦摺(す)り(精麦作業)に間に合わせたということがありました。
 麦摺りは、個人ではなく組合(農協)が機械を使って行っていましたが、その時期になると多くの家が一度に麦摺りに行くので、順番待ちになるのです。晴れた日は特に問題ありませんが、天気が崩れて、籾(もみ)が雨に濡(ぬ)れれば、麦摺りができなくなるので、『わしの方が早よ持って来とった。』『いや、わしの方が早かった。』と言って順番争いの喧嘩(けんか)も起こっていました。」

 エ イモの切干

 「イモを収穫した後は、母や祖父がイモをきれいに洗ってから、私(Aさん)も一緒に千貫切(せんがんぎ)りという道具を使って切って、切干(きりぼし)を作るための作業をしていました。冬になると、浜の方に棚が作られ、そこに切ったイモが干されていました。切干は八貫俵(約30kg)や十六貫俵(約60kg)に詰められて、農協の前の岸壁に着いた大きな船に大人たちが積み込んでいました。私は俵を積み込む様子を見ながら、『おっちゃん、海に落ちんのやろか。』と心配していました。船に積み込まれた切干は、広島や九州に出荷されていたと聞いています。」

(3)由良半島のくらし

 ア イモと麦を食す

 「私(Aさん)らがいう『おツメ』、他の地域ではカンコロなどといわれるものは、イモを切干にして、それをカツのです。私らは、搗(つ)くことを、カツと言っていました。浜で臼(うす)に入れて搗き、搗いた後は臼を倒し、粉になっている部分を農協へ持って行き、さらに小さな粉にしてもらいました。そのイモの粉は団子にして食べます。私たちは、ベランコといっていました。細かくなっていないものは、おツメといって、麦飯を一旦沸かした中に入れて一緒に食べていました。
 半麦(はんばく)御飯というのは、丸麦にお米が少し入れられた御飯です。お米は半分もなくて、3分の1くらいしか入っていなかったと思います。昭和37、38年(1962、63年)には、お米の御飯を食べていた家庭もありましたが、私(Aさん)の家は人数も多かったので、お米の御飯を食べられるような状況ではありませんでした。半麦は、昭和40年(1965年)を過ぎてもまだ食べられていましたが、徐々に押し麦に変わっていきました。押し麦のことを、オシャギともいいます。当時、農協に精米所がありましたので、そこのローラーで丸麦を潰して作っていました。なぜ丸麦をわざわざ潰していたかというと、丸麦は、炊いた後でも、食べる前ごとに、炊き蒸すをしないとおいしいものではなかったので手間がかかり、畑仕事をせずに炊事を専門にする者がいないと食事にならないのです。畑仕事から帰って来て、食事の準備をしようにも、お米のようにすぐには炊けず、時間が長くかかるので、丸麦ではなく、調理に手間のかからない押し麦が使われていたのだと思います。」

 イ 特別な食事

 子どものころの年中行事での思い出について、Cさんに話を聞いた。
 「秋祭りとお正月、そして亥の子が、子どもにとっての大きな楽しみでした。家串の亥の子組は東西に分かれていました。私(Cさん)たちは東前(ひがしまい)でしたので、亥の子の時は、東前の亥の子宿にお米を少しずつ持ち寄っていました。
 東前では朝3時ごろに山の神様(ウネの松の近く)で亥の子を搗いて、そのあと家串の東の端の家から順番に各家々を搗いて回り、最後にお寺(泉法寺)で搗いて終わります。私が参加していた時には、朝学校に行くまでに大体終わっていました。乙亥(おとい)(家串では、亥の子が2回行われるときには『初亥(はつい)、乙亥』、3回行われるときには『初亥、中亥(なかい)、乙亥』という。)の後には、亥の子宿に天ぷら御飯(魚のすり身を油で揚げたものなどを炊き込んだ御飯)やイリコ飯が用意されていて、それをみんなが何杯も食べていました。夕方、宿でごちそうになる前には、学校から帰ってから腹を減らすために、みんなが『チャンバラ行こで。』と言って外に出るのです。その時に亥の子宿の家の人から、『5時に戻りなさい。』と言われたら、5時に戻るようにしていました。亥の子は旧暦10月の亥の日(新暦の11月ころ)に行われるので、日没に合わせて5時には戻るように言われていたのだと思います。
 親族が集まるときの賄(まかな)い(食事をととのえて食べさせること)も楽しみでした。お客が来る家には子どもが集まっていました。それは、チンチマンマ(白米の御飯)が炊かれるので、お釜の周りに残っている焦(こ)げたところを食べさせてもらうためです。
 家串では、普段の食事で白い米が食べられるようになったのは、昭和46年(1971年)くらいからでした。」

 ウ 人々の楽しみ

 昭和20年代から30年代の魚神山の人々は、須下や成(なる)(現宇和島市津島町)の人たちと、映画や芝居といった娯楽を通じて盛んに交流をしていた(図表3-3-1参照)。それらの娯楽について、話を聞いた。
 「映画は、大きな家の一室を借りて、上映されていました。当時、魚神山には映写機がなかったので、隣の須下まで歩いて行き、オイコ(ものを運ぶのに用いる背負い台)で背負って借りてきていました。
 また、春と秋には芝居が来ていました。家串で芝居を打った(上演した)後、ポンポン船に乗ってポンポコポンポコと太鼓を叩(たた)きながら芝居一座が魚神山に来るのです。その船を見たら、『芝居が入って来たぞー。』と言って、みんなが喜んでいました。芝居が来たら、浜の一番広い所の、波打ち際に舞台の奥の柱が立てられ、浜に向かって舞台が造られます。1間(約1.8m)ごとに柱が立てられ、幅が5間(約9m)ほどもある広い舞台でした。舞台には個人の家から借りてきた畳が敷かれ、学校から教壇を借りて据(す)えられるなど、工夫されていました。この舞台は、芝居一座だけではなく、地区の人が総出で、協力しながら1日で設置されていました。
 芝居の時には、須下や成の人たちも山越えをして見に来ていました(図表3-3-1参照)。私たちも、須下や成で行われるときには見に行っていました。観覧料は地区がまとめて出していましたので、自分たちで支払う必要はありませんでしたが、たくさん収入がある人には、『今日は200円出してやんなはれ(ください)や。』『ここは100円でええわい(いいです)。』などと言って、出してもらっていました。その代わり、寄付をしてくれた人にはよい桟敷(さじき)が与えられていました。須下や成などの魚神山地区以外の人も含めて、その他の人たちの桟敷は、くじで平等に決められていたように思います。」

写真3-3-7 油袋にある井戸

写真3-3-7 油袋にある井戸

愛南町油袋。平成25年9月撮影