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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 魚島の町並み

 旧魚島村は燧灘(ひうちなだ)の中央部に位置し、有人島の魚島、高井神(たかいかみ)島、無人島の江ノ島(えのしま)、瓢箪(ひょうたん)島などからなる。村の中心となる魚島は、かつては沖ノ島(おきのしま)と呼ばれ、江戸時代の貞享(じょうきょう)年間(17世紀末ころ)に魚島と呼ばれるようになったとされる。周辺海域では古来より漁業が盛んに行われ、特に鯛網漁が有名であり、魚島で鯛がたくさん獲れる季節の到来は、周囲から、「魚島がきた」と言われるほどであった。
 明治時代に入り、明治21年(1888年)に公布された市制及び町村制(明治22年〔1889年〕から23年〔1890年〕に施行)により、魚島村は弓削村に編入されたが、明治28年(1895年)に弓削村から分離独立し、魚島村として新しく発足した。
 昭和20年(1945年)、終戦に伴う海外からの引揚者や戦災者の帰郷によって、昭和22年(1947年)には、魚島の人口が1,755人にまで増えたが、その後の高度経済成長による都市部への人口集中によって人口の流出が顕著となった(図表1-1-2参照)。
 この間、魚島村ではタコ養殖やノリ養殖、ハマチ養殖など、とる漁業からつくる漁業への転換を進め、農業ではミカンの栽培を始めるなど、第一次産業を強化するとともに、昭和38年(1963年)からの篠塚(しのづか)漁港の整備、同43年(1968年)の海底ケーブル敷設による電気の導入、同49年(1974年)の診療所建設など、人々のくらしを守り、豊かにするための生活基盤の構築が行われてきた。
 人口流出による過疎化の進行や社会資本の整備による生活環境の改善など、目まぐるしい変化の中にあった、昭和30年代から40年代にかけての魚島の町並みとくらしについて、Aさん(昭和19年生まれ)、Bさん(昭和24年生まれ)から話を聞いた。


図表1-1-2 旧魚島村の人口の推移

図表1-1-2 旧魚島村の人口の推移

役場資料をもとにした聞き取り調査から作成。