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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 生名の町並み

 旧越智郡生名(いきな)村は、愛媛県の北東端に位置し、北は広島県の因島(いんのしま)、東は因島と愛媛県の弓削(ゆげ)島、南は佐(さ)島、西は岩城(いわぎ)島に相対する。生名島や能小(のこ)島、坪木(つぼき)島など大小九つの島からなり、本島の生名島以外は無人島である。生名島の地形は、ほかの島に比べれば島全体が平坦な地形で、島の中央部には、南部の鉢巻(はちまき)山(約142m)と北部の立石(たていし)山(約139m)を結ぶ分水嶺(ぶんすいれい)が南北に走り、島の東西両岸の低地帯に人家が集まっている。古くからの集落は、島の中部東岸の生名港周辺に広がる、生名八幡(はちまん)神社(以下、「八幡神社」と記す。)を中心とする地域である。江戸時代には、弓削島や佐島、魚(うお)島が今治(いまばり)藩領であったのに対して、岩城島とともに松山(まつやま)藩領であり、江戸期以来、一島一村であった生名村は、その村域を生活圏に含む広島県因島市(現尾道(おのみち)市)との越県合併案が昭和31年(1956年)に出されたが実現せず、その後、平成16年(2004年)に弓削町、岩城村、魚島村と合併して上島(かみじま)町となった。
 生名村の産業は農業を主とし、それに船乗りや船大工等の出稼ぎや、製塩業などが行われてきた。やがて、隣接する因島で明治30年(1897年)に創設された士生船渠(はぶせんきょ)合資会社が、その後の買収合併で大阪鉄工所となり、昭和18年(1943年)に社名を日立造船株式会社因島工場(以下、「日立造船」と記す。)として、造船業の活況とともに日本有数の造船所に発展を遂げる中で、生名村はその労働力供給地となり、「企業城下町(①)」として雇用労働者中心の島に変わった。そして、因島との関係が密接になるにつれて、生名島北部に新興住宅地が増加し、「呼べば声部届く川のような狭い(②)」長崎瀬戸(ながさきせと)を挟んで因島の士生(はぶ)港と向き合う立石港(両港間約300m)を発着する船便とその利用者も増え、立石港に通じる道には商店が並んだ。
 しかし、昭和50年代からの長引く造船不況の中、昭和62年(1987年)、日立造船が大規模な事業縮小とそれにともなう大幅な人員削減を行うと、日立造船やその関連企業に勤務する者の多かった生名村では、経済的、財政的な面だけでなく多方面にわたって深刻な影響を受けた。そのため、昭和63年(1988年)に、村おこし戦略として「スポーツ合宿村」を核とする「生名村基本構想」が策定され、以降、スポーツや観光・レジャーによる産業振興をはじめとした「村おこし」の積極的な取組みが続けられている。
 生名村の生名港周辺の集落と立石港近くの集落の、昭和30年代前後の町並みやくらしについて、Aさん(昭和13年生まれ)、Bさん(昭和19年生まれ)、Cさん(昭和22年生まれ)、Dさん(昭和23年生まれ)、Eさん(昭和24年生まれ)、Fさん(昭和25年生まれ)から話を聞いた。