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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

(1)生名の景観

 ア 島の「南」と「北」

 「生名(生名島)は南北に長いので、尾又(おまた)の掘割(山を削って道を造った場所)辺りを境に、南側の古くからある集落の辺りを『南(みなみ)』と言い、北側の比較的新しいいくつかの集落を指して『北(きた)』と言います(古くは、生名八幡(はちまん)神社〔以下、『八幡神社』と記す。〕を境としていたとも言われており、近年では、尾又地区から南〔1分団から3分団〕と丸山地区や深浦地区以北〔4分団から6分団〕を、それぞれ『南』と『北』と呼んでいる)。日立造船が栄えていたころは、生名に残る若者や生名に住む島外の人たちも結構多く、『南』の土地は先祖から受け継いできた所が多くて手に入りにくいので、『北』の土地に家や日立造船の社宅が次々と建ちました。ですから、『北』の西浦(にしうら)や恵生(えなま)、丸山(まるやま)などは、日立造船の関連で住む人が増えていった地域で、本家(ほんけ)持ちの多い『南』に対して、新家(しんや)(新宅或いは分家のこと)持ちの多い集落です。
 祭りのときなどに、昔は『南』と『北』との間に対抗心があった、という話を聞いたこともありますが、私(Eさん)の世代には、そういうことはありませんでした。ただ、『南』と『北』では、文化や住民の気質といったものが少し違っているようにも感じます。例えば、だんじり(山車(だし)〔祭りのとき、飾り物などをして引き回す車〕)の飾り物も、『南』が『布団だんじり』なのに対して、『北』は『屋根だんじり』というように違っています。
 景気の良かった昭和30年代ころは、『北』に住む人が特に多くなって、公営住宅への入居も、競争倍率が高くて、なかなか難しかったそうです。そのことは、日立造船で働く人がそれほど多かったということでもあります。工場のある因島(生名の人は、「いんとう」と呼ぶ。)へ渡る船は、『北』の深浦(ふかうら)にある立石港に発着するのですが、その立石港と『南』の集落とを結ぶ本通りの、港近くの道路沿いには、美容院や理容店、酒店、電器店などの商店が建ち、工場に勤務する人やその家族がよく利用していました(図表1-3-2②参照)。」

 イ 南北に走る道路

 「今の生名の本通りは、島の東岸を、立石港から生名支所(上島町役場生名総合支所)を過ぎて生名橋(生名島と佐島を結ぶ橋、平成23年〔2011年〕供用開始)に向けて伸びる車道(県道173号横浜生名港線、県道76号岩城弓削線)ですが、昭和30年(1955年)ころは、その全部が、全て自動車の通れるような道路ではありませんでした。当時、立石港の前に広い道路はなくて、現在、運動場や駐車場に変わった塩田と海とを隔てる護岸用の堤の上に細い道が通っているだけでしたし、その南側の網建(あみたて)辺りの一部区間は自転車も通れないような道でした。また、現在、海光園(かいこうえん)(上島町特別養護老人ホーム)の建っている場所は、昭和30年代に港の埋め立てによって造られた土地なので、海光園前の道路は、それ以降にできた道です。その上、昭和30年ころには、島の南東の海沿いには道路そのものがなくて、脇(わき)の辺りから南側の高松(たかまつ)付近まで道がついたのは、昭和40年代に入ってからで、その道を含め、島の南北を繋(つな)ぐ道が自動車の通れる道路になったのは、昭和40年代の終わりから50年代の初めころだったと思います(昭和62年〔1987年〕に生名南環状線の工事が完了し、高松-稲浦-砂浜ヶ島南端間に道路ができた。)。
 昭和30年ころの、『南』と『北』を結ぶ本通りは、八幡神社から中側(なかがわ)を通って、酒やたばこなどを売っていた山本商店の前を曲がり、尾又の池を過ぎて深浦(ふかうら)の立石港へ繋がる道でした(図表1-3-2①のエ、イ、ア参照)。歩けば20分くらいかかる距離です。それから、八幡神社から『南』の集落を抜けて生名港へ出るまでの本通りは、神社の前をそのまま南へ下りる道と、神社から生名小学校側へ下りて、小学校前から呉服衣料品店の寅屋(とらや)(商店)の前の広場に通じる道の二つのいずれかを使って、港に向かうのがルートでした(図表1-3-2①のケ参照)。中道は、今では自動車も通れますが、当時は、もう少し幅の狭い道でした。一方で、寅屋の前の広場から港へ向かう道と港前の海岸道路とが繋がるT字路周辺は、自動車でも十分に通ることができました。浮桟橋に向かう渡橋の付いた、海に面した道路の内側には、それと並行して回漕(かいそう)店と船大工との間に道が通っていますが、それを『中道(なかみち)』と呼んでいました(図表1-3-2①のコ参照)。」

 ウ 島をつないでできた港

 「厳島(いつくしま)(生名の人は『うつくしま』とも呼ぶ。)は、かつては島でしたが、明治30年代後半に生名島との間を埋め立てて陸続きになり、それによって湾ができて生名港が造られました(図表1-3-2①のシ参照)。その後、昭和35年(1960年)に、生名港の突堤と渡橋、浮き桟橋ができたのですが、そのときに、港内の水深を下げるために海底を掘って、作業で出た大量の土は、日立造船の貯木場だった海岸部へ移され、そこを埋め立てるために使われたそうです(図表1-3-2①のキ参照、現在、上島町役場生名総合支所と上島町生名公民館が建っている)。
 桟橋がなかったころは、水深が浅いために大きな船は岸に着けられなかったので、そのような船に乗るときは、岸から艀(はしけ)(波止(はと)場と本船との間を往復して貨物や旅客などを運ぶ小舟)に乗って沖へ行き、艀から本船に乗り移っていました。艀は小さな船なので、乗客の多いときは座る場所もなくて立ったままの人も結構いました。回漕店が、生名港へ着く定期船などの海運業者と契約をして、艀を出したり、荷物の荷揚げや乗船客の運賃の受取代行をしたりしていたこともあって、艀の乗り場は、回漕店の前の岸壁の石垣に造られた雁木(がんぎ)(階段状の石段)を降りた所にありました。
 昭和30年代の前半ころ、生名から今治(いまばり)方面へ行くには、まず因島の土生(はぶ)港まで船に乗り、そこからは土生丸やあぶと丸という、木造船で行くのですが、生名港からそれらの船に乗るときは艀を使っていました。同じ客船でも、それ程大きくはなかった弓削行の『青丸(あおまる)』の場合は、私(Bさん)が弓削高校(愛媛県立弓削高等学校)へ通っていた昭和36、37年(1961、1962年)ころには、船首にある『ばた板』を港の角の雁木に着けて止まり、その上を歩いて乗り降りをしていました。ただし、その青丸も、大潮(満潮と干潮との差が大きいこと)でかなり潮が引いてしまい岸に着けることができないときは、厳島の方の水深のあるところへ着けていました。
 やがて浮き桟橋に着くようになった青丸は、弓削を起点にして、日立造船の通勤者や弓削高校の通学生などがよく乗る便利な船でした。しかし、生名と島外との人の流れは因島経由が多いので、因島の土生港との間を村の公営渡船(昭和36年〔1961年〕に公営因島生名渡船事業組合が設立され、昭和39年〔1964年〕には生名村単独の生名村公営渡船が開始された。)が行き来する立石港の方が、生名港よりも圧倒的に利用者が多く、生名の海の玄関港といえます。」

 エ 島を守る

 「貯木場の前の海岸沿いには護岸の石垣が続いていて、その上に細い通路がありました。ただ、その石垣も台風の波で壊れることがありました。特に人きな被害を受けたのは昭和29年(1954年)の台風(台風12号〔9月13日〕)のときで、生名港の入江の石垣が抜けて中道が切られ(壊され)、寅屋の前の広場近くにある私(Aさん)のうちの辺りは床上まで浸水して、一時は海水の中で孤立するほどでした。きれいな話ではありませんが、当時は畑のいたる所に野壺(のつぼ)(屋外に置かれた、肥料にするための糞尿(ふんにょう)を溜(た)めておく壷)があって、その時の海水でそれらが全部きれいに掃除されたぐらい、集落全体が台風の大波に襲われました。
 やがて、海岸道路の改良工事とともに護岸整備がされて防潮堤などが造られてからは、台風の大波で被害を受けることも少なくなりました。ただ、大潮のときの満潮などに対しては、『潮溜(しおだ)め(しょうもん池)』を造って備えをしています(図表1-3-2①のク参照)。雨水は川や水路を通って最終的には海に流れ出ますが、『潮溜め』は、その雨水を一且溜(た)めておく施設のことで、生名のいろいろな場所に造られています。台風などの大雨が、大潮の満潮の時間帯と重なってしまえば、その大量の雨水が海に出ることができずに逆流して住宅地に氾濫(はんらん)してしまうこともあります。ですから、そうならないように、雨水を溜めておいて干潮のときにそれを排水するための『潮溜め』が必要なのです。」

(2)生名での商売ともの作り

 ア くらしを支えた店々

 「生名では雑貨店が多くて、日用品や文具など、普段の生活で必要なものは大概置いていました。因島へ行ったつ いでに買い物をして帰ることもありましたが、大体は、雑貨店をはじめとした生名の商店で『通(かよ)い』をすることが多かったように思います。『通い』とは、通い帳に付けて買い物をする、いわゆる『付け』での支払い方法のことです。例えば、子どもが雑貨店へ通い帳を持ってお使いに行くと、店の人が品物と値段を通い帳に書いてくれ、店の方も大福(だいふく)帳(台帳)に同じように記帳して、それを月末に照合して親がまとめて払っていました。月給生活の家が多かったのですが、昭和30年(1955年)ころはまだ、そのような買い物の仕方をしていました。
 私(Dさん)が子どものころは、ケーキを買うのが楽しみでした。ケーキといっても、今の氷菓子のことで、生名の人が、因島の商店から仕入れたケーキを箱に詰めて、それを、『ケーキ』と書いた札を付けた自転車で運びながら売り回っていました。ケーキの中には、氷に挿してある棒に、当りが書かれているものもあって、それが出るとうれしかったことを憶えています。
 生名に飲食店が少ないのは、日立造船に勤めていた人たちが、仕事を終えて、そのまま因島で一杯やって(酒を少し飲んで)から生名に帰って来ることが多かったからかもしれません。一方で、酒店は生名に結構あって、夜、因島からの船を降りた人の中には、帰宅途中に酒店に立ち寄る人もいました。飲みたい量の酒を注文すると、店の人が酒樽(さかだる)から汲(く)んでコップに注いでくれるのですが、立石港近くの山久酒店の人は、その注ぎ方が上手で、コップに並々と酒を入れ、表面張力を使ってこぼれないようにしてから渡してくれました(図表1-3-2②のセ参照)。
 昭和30年代半ば過ぎには、既にテレビを持っている家が何軒もありました。島であることを考えれば、比較的早い時期にテレビが入ったように思います。日立造船などで働いて現金収入があり、経済的に余裕のある家が多かったからかもしれません。しかも、どの家も生活様式が似ていたからか、一軒がテレビを買えば、ほかの家もテレビを買い、隣の家に冷蔵庫が入れば、自分の家も冷蔵庫を持つ、という具合に、次々と家の中の家電製品を増やしていきました。ですから、大手家電製造業者の商品をそれぞれ専門に扱う電器店が、多いときには4軒ありました。
 当時の生名にはいろいろな商店があって、しかも、店の入れ替わりもあったということは、商売を始めるだけの資金を持つ人が結構いたということです。そういう意味では、裕福な島だったといえるかもしれません。」

 イ 船大工

 「かつての島のくらしには、伝馬(てんま)(和船の一種の「伝馬船」の略)が欠かせませんでした。生名には船大工が何人もいて、海岸近くの作業場で伝馬を造ったり修理したりしていました(図表1-3-2①のス参照)。私(Dさん)が聞いた話では、生名の船大工の中には、高知県へ修行に行った人もいたそうですが、修行先として多かったのは伯方(はかた)島(現今治市)で、特に、伯方の木浦(きのうら)辺りで木工船を造る技術を学んだ人が多かったそうです。私(Eさん)の母方の祖父も船大工だったのですが、昔は、生名で伝馬を造るだけでなく、高知県の宿毛(すくも)や九州方面へ出稼ぎに行く人もいたと聞きました。それから、伝馬は、ある程度の型に決まった杉板造りの船ですが、杉板には船造りに適したものとそうでないものとがあって、どこそこの杉板が(材料として)良い、などと言っていました。
 生名の海岸の、人家に近い砂浜では、木造船の伝馬を保護して長く使えるようにするために、『たで船』といって、船底を乾かして貝や海藻を取り除いたり、火で炙(あぶ)って船食い虫(海中の木材や木造船に穴を空けてすむ虫)を殺したりする光景をよく見ました(図表1-3-2①のサ参照)。しかし、そのような作業をする『たで場』も、伝馬が使われなくなり、船大工が少なくなっていった昭和30年代には、なくなっていきました。」

 ウ 子どもが楽しみに待った商売

 「私(Bさん)の子どものころは、水飴(あめ)や味噌(みそ)飴を舐(な)めながら紙芝居を見るのが楽しみでした。ただし紙芝居と飴はセットになっていて、5円くらいの飴を買えば紙芝居を見ることができました。生名港周辺では、『寅屋』近くの小さな広場に集まって見ていましたが、自転車で回っていた紙芝居のおじさんが、いつも生名に来てくれて、その上で、自分の所に早く来てくれればいいなと思っていました(図表1-3-2①のケ参照)。
 それから、パン菓子(穀類膨張機で製造するポン菓子のことで、製造過程で生ずる爆裂音から付いた名称である。)を作って売る業者加島外から来ると、子どもたちが、『パンパンが来た。』と言いながら喜び回っていました。パン菓子は、米などを膨らませたものに砂糖蜜(さとうみつ)を絡め、それに煎(い)った豆などを混ぜて固まらせた駄菓子です。昭和30年代ころは、自分のうちから材料の米や燃料になる薪(まき)を持って行って業者に作ってもらい、その手間賃を払っていました。砂糖蜜を絡めたければ、業者が湯の沸いた鍋を用意していたので、その鍋の中の容器に砂糖を入れて溶かし、それを菓子に付けてもらいました。ただ、楽しみに待っていたそのパン菓子業者も、月に1度来るかどうかでした。」

図表1-3-2 昭和30年ころの生名の町並み①-1

図表1-3-2 昭和30年ころの生名の町並み①-1

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-2 昭和30年ころの生名の町並み①-2

図表1-3-2 昭和30年ころの生名の町並み①-2

調査協力者からの聞き取りにより作成。

図表1-3-2 昭和30年ころの生名の町並み②

図表1-3-2 昭和30年ころの生名の町並み②

調査協力者からの聞き取りにより作成。