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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅵ -上島町-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 島を結ぶ航路

(1)渡し

 上島町には、島と島を結ぶ「渡し」と呼ばれる手漕ぎの舟による交通手段があった。そのうち、佐島から弓削島への三ツ小島(みつこじま)渡しは、文久年間ごろ(19世紀半ばすぎ)から運行されるようになった。また、明治25年(1892年)ころに始まる生名島と岩城島の渡しは、生名では「岩城渡し」、岩城では「船越(ふなこし)渡し」と呼ばれていた。それから、岩城島の小漕(おこぎ)から生口(いくち)島の原(はら)への小漕渡しは明治43年(1910年)ころにはすでに始まり、弓削島から因島の家老渡(かろと)渡しも開始時期は不明であるが運行されていた。

 ア 三ツ小島からの通学

 「通学に利用していた舟は、台風のときを除けば、日曜日以外は少々の時化(しけ)でも休まず出ていました。私(Dさん)が子どものときは、小学校2年生までは佐島の学校に通いますが、3年生からは弓削の学校に通わなくてはなりませんでした。ですから、佐島と弓削を結ぶ橋の佐島側の橋脚が立つ三ツ小島から、弓削側の橋脚が立つ辺りまでの海を、一艘(そう)の手漕ぎの舟で、朝晩に渡っていたので大変でした。三ツ小島から出ていた舟は着いたら戻り、着いたら戻りで、手を挙げれば、来るような状態でした。学校がある弓削から佐島へ戻るときに、佐島側に舟がいるときは、『渡しよー。』と叫ぶと、その声が船頭さんに聞こえて舟が来てくれます。逆に、舟が弓削にいたら、佐島から呼べば迎えに来てくれていました。舟に乗っている時間はそれほど長くはなくて5分くらいだったと思いますが、当時は皆、靴ではなくて草履で通っていたので、冬場は足が冷たかったです。私が学校へ行くために舟に乗っていたときに一度、岩の上に乗り上げて舟がひっくり返り、子どもたちが海に落ちたことがありました。幸い落ちた場所がトナカ(沖合)ではなかったので、皆助かりましたが、2月の寒い時分でしたので、皆ブルブルと震えていました。せっかく持って行っていた弁当も潮で濡(ぬ)れて食べられなくなりました。そのときは、家に一旦帰り、前日の風呂の湯を沸かして入り、体を温めてから着替え、再び舟に乗って学校へ行きました。
 私(Aさん)の家は江尻(えじり)(佐島の東側)にあり、港から近い集落でした。朝は、集団登校のように生徒が何人か集まって三ツ小島の港へ行っていました。高学年になると、自由に友だち同士で好きな時間に行って、早く出る舟に乗ることが可能でした。渡し舟は、一度に20人くらいが乗れる大きさの舟でした。私の佐島の同級生は、女の子が18人、男の子が10人いて、4学年(3年から6年)が通っていたので、約100人の小学生に、高等小学校、青年学校の生徒だけでなく、誰でもがお客さんとして乗船していました。みんなが一斉に舟に乗ろうとするので、すぐに満員になり、一便遅れたら大分待たなければなりません。ですから、私らは7時ぐらいに出航する一番早い舟に乗って学校へ行っていました。小学校へ行くのに船賃を出してはいませんでしたが、同じ舟に乗っていた大人の方は必要だったかもしれません。」

 イ 岩城からの渡し

 「私(Fさん)は、かつて岩城から生名に向けて利用する人がいれば来てくれた、渡し舟があったということを聞いたことがあります。岩城から生名まで渡れば、そこから因島の方まで渡れたので、昔の人は結構利用していたそうです。また、私は幼いころに親戚のいた生口島の原(はら)という所まで、叔母と一緒に渡し舟に乗って行き、その渡し舟の船頭の方と何か話していたのを憶えています。」

(2)渡海船

 ア 佐島の渡海船

 「私(Dさん)たちが『トウカイセン(渡海船)』と呼んでいた、野菜などを運ぶ小さい船は、佐島の人が経営をしていました。自分で作ったネギやエンドウマメ、キャベツ、ダイコンなどの季節ごとの野菜をトウカイセンまで持って行き、いくらかの手数料を払えば土生(旧因島市)の市場まで売りに行ってくれていました。一人一人の分をまとめて運んで出荷してくれたので、結構助かりました。野菜を運ぶだけでなく、お客も、10人くらいまでであれば運賃をもらって乗せていました。
 尾道から来ていた船で、野菜を運んでくれていた船は、朝、鳥の餌を尾道から積んで佐島に来て、それを鳥屋に渡した後、その合間に佐島の人たちが栽培した野菜を積んで帰り、尾道の市場に出してくれていました。」

 イ 岩城の渡海船

 『岩城村郷土史』によると、昭和26年(1951年)ころから今治行きの渡海船が朝の6時30分に出発し、昼の2時今治発で帰って来ていた(①)。
 「岩城のトウカイセンは、尾道や今治に行って帰って来る1日1便です。トウカイセンの船主は、島内の商店や個人からの注文を引き受けて、行きは島内からの荷物の出荷、帰りは注文のあった品を調達して、注文主に配達をするのが本来の仕事ですが、船内には人も乗れるだけのスペースがあったので、尾道や今治に行く人たちを乗せることもしていました。定期船とトウカイセンでは運賃がかなり違うので、安いトウカイセンを利用されていたのだと思います。私(Fさん)が子どものときに、尾道や今治の病院に行くのに乗船したのを憶えています。父親の職員旅行にも利用されていたそうで、そのときにはトウカイセンを借り切って、船底に十何人も乗り込み岡山くらいまでは行っていました。運賃が安いうえに、船主と気心が知れていますから、世間話ができるなどの利点があり、利用しやすかったのではないかと思います。私の母親は岩城で店を経営しており、商品を買い付ける際にはトウカイセンの船主に注文をしていました。
 私(Gさん)は、夏休みになるとトウカイセンを利用して、今治市内にある祖父の家に行っていました。岩城に来ていた祖父とともに今治港に到着すると、祖父が港に置いていた自転車に私を乗せて、鳥生(とりゅう)の家まで連れて行ってくれました。
 私(Hさん)は子どものときに、岩城港の桟橋からトウカイセンに乗り込むために、幅の狭い木の板を通っていたのですが、あるとき波で船が揺れてその板も大きく動いて大変怖かったことを憶えています。船内に入ると、人が乗ったときのために、手前に木の椅子と奥には座敷がありました。船の外側の天井部分は、家の屋根の様な形をしていたのが印象に残っています。」

(3)定期客船

 ア 定期客船の利用

 上島町に定期客船が就航したのは、『弓削町誌』によると、「明治27年(1894年)住友鉱山汽船部によって、新居浜(にいはま)-今治-四阪島(しさかじま)(今治市)-尾道航路が、同30年(1897年)東豫汽船株式会社の今治-島嶼部-尾道航路が開かれ(②)」たとある。
 「私(Fさん)が昭和30年代から40年代で、定期航路を利用したことで憶えているのは、小学生のときに中学生の叔父と二人だけで岩城から因島に遊びに行ったことです。同じく小学生のときに、岩城では実施していなかった算盤(そろばん)検定試験を受けるために、因島まで受験しに行きました。お腹が空(す)いて食べた一杯10円か15円の素うどんが、大変おいしかったのを憶えています。
 私(Hさん)の定期船の思い出は、小学校3年(昭和40年〔1965年〕)のときのことです。担任の先生は、隣の伯方(はかた)島から毎日船に乗って通勤していたのですが、ある日、その先生が乗って来るはずの船が霧で欠航し先生が学校に来られず、教室の中で子どもたちだけで賑(にぎ)やかにしていたところ、ほかの組の先生が、何事かと様子を見に来られたということがありました。このころの船は小さな木造船だったので、霧や大雨や強風などでよく船が欠航していました。そして、船は木造船から鋼鉄の船へと変わっていきました。小学校5、6年生(昭和42、43年〔1967、1968年〕)の先生方の離任式の日のことです。島を離れていく先生方に、それぞれ紙テープを渡して、先生方を港で見送りました。船が桟橋を離れるにつれて、色とりどりの紙テープが風にたなびいて、長く尾を引きながら海に落ち、それぞれの思いをのせて感無量のお別れの最中に、先生方を乗せた船が、また岩城港に着岸しました。皆が呆気(あっけ)にとられていると、ある先生の奥さんが急いで船に乗り込みました。港にいた者は、感動の涙も乾くくらい大笑いをしたことを憶えています。
 佐島では佐島港に客船が着いて、乗客は桟橋から伝馬船(艀(はしけ))に乗って客船に乗り換えていました。現存する古い桟橋の方が、昔使われていたものです。昭和30年代の初めころは、佐島から弓削へ行くのに青丸(佐島-弓削-土生間を就航)を使い、さらに佐島から今治へ行くには、福盛丸(今治-尾道開を就航)に乗っていました(写真3-1-3参照)。また福盛丸が今治から尾道に向かうときは、弓削の次に長崎(ながさき)(因島)へ行っていました。
 青丸や福盛丸は、通勤や通院などで、大勢の人が利用していました。佐島には病院がなく、弓削や因島まで行っていました。その帰りに、洋服店などのお店に寄って買い物をして帰っていました。普段の買い物は、佐島の中に酒店や雑貨店など3軒ほどのお店がありましたので、それらの店で済ませていました。」
 昭和34年(1959年)に今治と三原の間にフェリーが就航したあと、昭和43年(1968年)5月に弓削にフェリーが就航し、同年7月に岩城にも寄港した。昭和47年(1972年)には、全ての客船が廃止され、フェリーへと切り替えられた。さらに、昭和49年(1974年)今治から尾道連絡の高速艇の運航が開始された。
 「私(Aさん)は、因島の病院に行くので自転車を乗せることができたフェリーは大変重宝していました。そして、フェリーには大きな車も乗り入れていたので、車に乗られる方にも便利だったと思います。それも廃止になり、高速艇のみになりました。」

 イ 日立造船因島工場への通勤

 「私(Bさん)は、子どもを養うため、男の人がするような造船工場での仕事を定年の55歳まで続けました。勤務は定時間と残業とがありました。昭和40年(1965年)ころは、日立造船(日立造船因島工場)の景気も良かったので、下請け業者もたくさんあり、女性ができる仕事も結構あって、私と同じような仕事をしていた女性も20何人かはいたと思います。日立造船での仕事は、残業をするかしないかで賃金はかなり変わりました。当時は、結構仕事があって忙しく、たまに徹夜で仕事をすることもありました。下請けとして日立造船で働いていた私たちは、日立造船へ通うのに、一般の乗客と同様に客船の青丸に乗っていました。
 日立造船の本工(正社員)の人たちは、会社が用意した船で、送迎バスのように佐島と因島との間の送り迎えをしてもらっていました。その船には、名前があったのかどうかはわかりませんが、日立造船へ通う人たちは渡船(とせん)と呼んでいました。渡船には、一度に30、40人以上の人が乗れて、いつも船内には人が一杯いました。渡船に乗らないときには、青丸が往復していたので、それを利用していました。日立造船での仕事の始まりは朝の8時だったと思うのですが、敷地がものすごく広くてしかも長かったので、港を上がって工場正門に着いても、工場内で働く場所が近い人はいいのですが、工場の裏門辺りで働く人は、そこまで歩かなくてはならず、かなり時間がかかります。ですから、その時間を見越して佐島を早目に出る渡船に乗らなくてはならない場合がありました。仕事の終わりは、もともとは夕方の4時でしたが、後に5時になりました。
 佐島では西方寺(さいほうじ)の海側に造られていた波止に渡船が着いていました。その後、農協(旧JA越智今治佐島出張所)の前の波止の先のスべリ(岸から海に降りる所に作られた傾斜地。)に渡船が着いて乗り降りをしていました(写真3-1-1参照)。潮が引いたときは、そのスべリの、普段は海中に浸かっている部分を歩くことになり、アオサのようなノリが付いているので滑りやすくて危なかったことを憶えています。
 私(Aさん)が女学校(広島県立土生高等女学校)に通っていたころ、家から佐島港まで母親に送られながら一緒に歩いて行ったのですが、造船所の仕事の始まりが早かったからなのか、冬は朝の暗いうちから渡船が佐島を出ていたのを憶えています。」

写真3-1-1 三ツ小島から対岸の弓削を臨む

写真3-1-1 三ツ小島から対岸の弓削を臨む

平成26年12月撮影

写真3-1-3 青丸

写真3-1-3 青丸

平成26年12月撮影