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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅶ -東温市-(平成26年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 南方での農業

 南方の曲里(まがり)でナシやモモの栽培をされたBさん(昭和3年生まれ)から、扇状地扇端部での農業について話を聞いた。

(1)扇状地扇端部での農業

 「扇状地の扇端部は、扇頂の山之内(やまのうち)から洪水の度に運ばれた石や砂によって形成された砂利堆積部分の末端に当たるので、その砂利の下を流れる伏流水が地表に湧き出ることがあります。ですから、扇端部分には泉がたくさんあって、この地域でも一番多いときには13泉くらいあり、それらの水を灌漑用水として利用してきました。今では、枯れてしまった泉も結構ありますが、曲里地区には古泉(ふるいずみ)と呼ばれる泉があります。それは、江戸時代に南方村の庄屋をしていた安右衛門(やすえもん)という人物が、新田を作ったときに、その水源として作ったものです。
 曲里は、昔から30数戸の集落で、今でも戸数はそれほど変わっておらず、農家が多いので、周りはほとんど田んぼです。少し北へ行くと、工業団地(川内町の土地開発公社による川内工業団地)や市街化区域になって工場や事務所などが立ち並んでいますが、この辺りには、比較的広い田んぼが残っています。昭和50年代の終わりから60年代の初めにかけて、旧川内町内で最初に圃場整備を行い、一枚の田んぼの広さを、平均して約20a (1aは100m²で、約1反)に揃(そろ)えました。うちの田んぼは、全部合わせると、当時は100a以上ありましたが、現在は60aくらいです。
 今は、田を耕すときに、トラクターを使うことが多く、トラクターの運転席に座って作業をしているので良いのですが、それ以前は、耕耘機(こううんき)で作業をしていたので、機械の刃に飛ばされた小石が足に当たって痛かったものでした。田は作土が17、18cmと浅く、それより下は砂利が多かったからです。しかし、そういう苦労はあるものの、扇端の耕地は、肥えが早く切れる『秋落ち田』であるため、稲のでき具合は少し悪いのですが、水の入れ替わりの激しいのでおいしい米ができます。また、比較的雨の少ない地域で、しかも水はけの良い土地なので、ほとんどの農家が、稲だけでなく麦も作っていました。そして、以前は養鶏や和牛肥育などの畜産や野菜作りもあったが今では無くなり、ビニールハウス等の施設園芸も少なくなりました。」

(2)モモ作りにかける

 ア ナシ栽培をやめる

 「川内地域でのナシの栽培は明治時代から始まり、最初にナシ園を造った一人は曲里の菅氏で、その後、南方にナシ作りが広がり、川上村の果樹園先進地でした。
 ナシの栽培にあたっては、いろいろと工夫をしました。例えば、果樹栽培には特に水が必要なのですが、山の中の樹園地で水の確保が難しかったので、ナシ畑の中に小屋を建てて水を集めました。小屋の屋根を瓦で葺き、雨水を樋(とい)で受けて、樋を伝った雨水が、小屋の下に造ったコンクリートの貯水槽(ちょすいそう)に溜まるようにしたのです。地下の貯水槽には、日光が当たらないので、一年中いつも澄み切ったきれいな水が溜まっていて、それを農作業に使いました。
 平成21年(2009年)のことでしたが、ナシの収穫時期に山のナシ畑へ行ってみると、ナシを包んでいた袋が破られて地面一杯に散乱し、中身が無くなっていました。サルにナシをきれいに食べられてしまい、たったの1個も残っていなかったのです。 しかも、サルは木を登って取るので、木の枝まで折れてしまっていました。イノシシに備えて網を張ってはいたのですが、サルにはそのような網は通用しません。何匹かの集団で来たとしても、これだけ食べればサルも腹を下す(下痢する)ぞ、と心配してしまうくらい、全部のナシがやられました。それで、明治以来100年も続いたナシ園も遂に終止符を打ちました。
 今、山の耕地にはサルやイノシシがたくさん出ます。ただそれは、人間がそれらの動物を人里近くまで呼び込んでしまったといえます。戦後の建築ブームの時に、木材が高く売れるものだから、国中で、それまで木の実の成っていた木を切り、木材になるスギやヒノキを次々と植林したので、猿やイノシシにとっては食べ物が少なくなって、農作物を荒らすようになったのです。川内地域で最初に猿やイノシシに狙われたのは、井内(いうち)地区のスギ林の中にあったシイタケの榾木(ほだぎ)(シイタケ栽培用の原木)でした。きれいに食べられてしまって、何も残らなかったそうです。動物は、食料があれば子どもを次々に生むので数も増え、そうするともっと食料が必要になり、とうとう人間の生活圏にまで入って来た、というわけです。」

 イ モモの産地

 「川内地域は、今ではモモの栽培をほとんど見かけませんが、昭和30年代ころはモモの産地でした。松山市内の三津(みつ)(温泉青果農協三津市場)や新立(しんだて)(新立青果市場)、土橋(どばし)(温泉青果農協土橋市場)などの多くの青果市場が、トラックを走らせて川内までモモを仕入れに来ていました。モモの栽培をしていた場所は、川内地区の重信川沿いのうち、横河原橋の架かる茶堂(ちゃどう)から見奈良(みなら)大橋が架っている場所までの一帯で、現在は工業団地になっている辺りです。かつては松林の続く野原であったところを開墾して畑に変え、やがて、多くの農家がそこにモモを植え始めたので、見渡す限りのモモ畑でした。
 その一帯は、元々は普通畑で、イモ(甘藷(かんしょ))などを作っていましたが、2、3戸の農家は、そこでナシを作っていました。ただ、その畑も、戦前、戦中の一時期にイモ(甘藷)畑に変わり、戦後再びナシ園に戻りました。
 やがて、水はけの良い所で栽培する作物としてモモは好適だとして、昭和24、25年(1949、1950年)に、ナシ作りからモモ作りに切り替えると、それが大正解でした、質の良いモモができた上に、松山の市場に近くて地理的な条件にも恵まれていました。丁度同じころに、周辺の農家もモモ作りを始めるようになって、辺り一帯が一大モモ園に変わりました。
 最盛期は、合わせて100戸近くの農家がモモ栽培をしていて、曲里の集落でも、30戸ほどの農家のうち、3分の1の10戸ほどがモモを作っていたと思います。」

 ウ モモを作る

 「当初、この辺りで作られていたモモは、当時の代表的な品種の『大久保』が多かったです。そのうちに、『大内白桃』と呼んでいたモモが導入されました。それは、砥部(現砥部町)でモモ作りをしていた大内さんという方の農園で突然変異によって生じた変種で、私を含めて7、8人くらいが苗を買いに行き、持ち帰って自分の畑に植えました。
 モモは、6月くらいから8月くらいまでの間に収穫して、市場に出荷します。収穫時期は品種によって異なっていて、一番よく作られていた『大久保』が7月の中ころで、同じ系統の『新大久保』はもっと早くて6月ころ、そして、私も作っていた『大内白桃』は8月の終わりころでした。その出荷に向けて、苗木植えからはじまり、施肥、剪定(せんてい)、摘蕾(てきらい)(養分の浪費を防ぐために蕾(つぼみ)を摘み取ること)や摘果(果実の生長をよくするために数を制限し、余分な果実を幼いうちに摘み取ること)、消毒や除草、病害虫の防除のための包装など、さまざまな作業を行います。
 モモのような落葉果樹の栽培では、冬場に園地内の殺菌のために石灰硫黄合剤を撒(ま)きます。ですから、殺虫剤はほとんど必要ありません。ただ、葉が出始めるころは、様々な害虫が出始めるので、必要最小限度の農薬を使いましたが、多すぎるとモモの品質が落ちるので、なるべく薬剤を使わないようにしました。また、5月くらいにモモの袋掛けをするのですが、それが終わらないうちは、麦刈りに取り掛かれないので、刈取りが遅れないように、夜なべでモモの袋掛けをしたこともあります。それから、遅い収穫時期には夜蛾(やが)が多く飛んでいて、モモが匂い始めると、その蛾がモモの実を刺してしまい、商品にならなくなるので、ある方法を使ってその虫害を防ぎました。それは、モモの匂いに誘われるのならば、その匂いを隠せば良いと思い付いて、周辺の養鶏業者からニワトリの糞(ふん)を大量にもらってモモ畑に置いたのです。すると、糞の臭いの方がモモの匂いよりも強いので蛾があまり来なくなり、ほかの畑と比べると被害が少なくなりました。」

 エ モモを消費者のもとへ

 「モモは、朝のうちに収穫して、選果を済ませると、生産地の『川上(かわかみ)』という文字と品種名を印刷した薄い紙に包んで、木毛(もくもう)(果物などの梱包(こんぽう)に破損を防ぐために用いられる、木材を糸状に削ったもの)を敷いた箱の中に入れて、夕方に出荷しました。箱は、小さいモモだと40個から50個くらい入る大きさでした。
 モモは傷が付きやすいので、ミカンのように箱を積み重ねて運ぶことができません。だから、モモを平置きできるように車体の長い貨物自動車を市場が用意して、川内まで取りに来ていました。車は、横河原橋の川内側のたもと辺りの国道11号に停められて、そこで荷積みをしていました。昭和30年代は、まだ自動車もそれほど通っていなかったので、大きな車でも道路端にいつでも停めることができました。ただ、最初のころは、その一か所にだけ車を停めて集荷をしていたので、各農家がそこまで持って行く間に、舗装されていない道を通らなくてはならないのでモモが傷むことがあって困りました。その後、道路の整備も進み、しかも、集荷場所を1か所から3か所に増やしてもらえたので、農家が自分でモモを運ぶ必要もなくなり、問題は解決しました。」

 オ モモの香る所

 旧川内町内への企業誘致について、東温市の発行した『東温市発足記念 重信町誌川内町新誌 続編』には、「人口の減少傾向にあった川内町は、昭和42年の工場誘致条例の制定など積極的な企業誘致により製造業の躍進がはじまり、昭和52年には製造品出荷額180億円にまで成長し、松山周辺では松前町に次ぐ規模になった。」とある。
 「昔は、この曲里辺りには、モモのいい香りがしていました。しかも、モモの季節になると、モモの花が見渡す限り咲いて本当にきれいでした。現在も、何戸かの農家がモモの栽培を続けていますが、かつての様子に比べれば規模は相当小さくなりました。昭和40年代に入ると、モモ園の辺りが工業団地として開発され始め、昭和46年(1971年)に、私のうちにも、工業団地内に営業所を作る企業が土地の買い取りに来ました。『このモモができるまで待ってくれ。収穫し終えたら木を切るけんの。』と言って待ってもらいましたが、丹精込めて作ったモモの木を切るのは本当に辛かったです。昭和63年(1988年)ころには、この辺りからモモの姿が消えていました。」


<注及び参考引用文献>
①川内町『町制施行40周年記念町勢要覧』 1996
②中国四国農政局愛媛統計情報事務所松山出張所『川内町の農林業』 1994
③東温市『東温市発足記念 重信町誌川内町新誌 続編』 2012
④東温市、前掲書